プログラム拘束の魂たちが紡ぎ出す結末を変えるために

 
 

問題意識の所在 ―7―

・Web上の前頁までの話の続きとして、である。[どういった者達が事件の主犯かつ首班だったかを記した本頁直前頁]にて既述の[911の事件の発生と態様を露骨に前言した映画](『ファイト・クラブ』)の中にTO図に模したWTCオブジェ The Sphereが登場したことの危険性に関する話をなすこととしよう。

「パズルの完成自体は911の事件もその要素となるアトラスに準拠したプログラムが動いている、との立証をなし終えたときである」

としつつも「補足として重要な話と見ているから先に触れておく」とお断りした上で、TO図連携型スフィア登場の危険性に関わる話を専一になすこととしたいのである(※ただし、かなり難解、かつ、こじつけがましく聞こえる話ともなる。それがために重要でなければ、捨て置いたぐらいに)。

 さて、先の頁で多少触れここでも問題とするTO図だが、その別名は
[ベアトゥス・マップ( Beatine Map )]
とも言う。何故、ベアトゥスなのか。虚偽で成り立っているような人間の歴史に本当にそのような名前の人間が本当にいたかどうかとは別問題なのだが(:再三再四、述べるも、人間の歴史 ―なかんずく欧州のダークエイジ(暗黒時代)以前の記録― の多くが"虚偽"でありうることは私の著作にて詳述している)、[リエバナのベアトゥスという修道士が遺した歴史的遺物が[TO図の一つの典型例(始原的使用例とも)]となっていると「される」ためだ。そして、そこにいう[ベアトゥス・マップ]が修道士ベアトゥスに用いられた(とされる)局面が問題となりもする。
 ベアトゥスは『ヨハネの黙示録』(最後の審判について言及した選民主義の体現文書)に対する["12"の注釈書]の始めにTO図を用いているのである。そこから、こう考えることも出来る。

「大量殺戮を寓意しているととれるアトラス・プログラム(別名、[逆・ヘラクレスの冒険プログラム]と言ってもいいようなもの)。同プログラム実現のために動かされている駒達が911の事件の"露骨な予告映画" ―先に詳説のようにそうであることに異論を許さないような犯行予告映画― でTO図を持ち出させられていたのには[大量殺戮を表する『黙示録』]とのつながりもありうるという意味で実に不快かつ不吉である」。

 上のような見立て ―([911の事件を起こすとの組織的前言がなされていたといったことに関しての非事情通]からすれば妄人のたわごとを出でぬととられかねなき見立て)― に対し、
[あまりにも際立った連続ビル爆破映画にてWTC前のオブジェ・イミテーションにTO図が刻印されているように描写されていた件]
についてよく知っているメーソン達(およびそのおトモダチ)やメーソン通は内心、
『かの映画(『ファイト・クラブ』)でのあれはメーソンのシンボルの一つ、T定規などを持ち出しているにすぎないのでは?』
と考えているかもしれない。が、そのような考えをなすこと自体が妥当ではない、と述べておく(「ことの本質をたかだかフリーメーソンの象徴主義で片づけるべきではない」)。他にも黙過すべきではない歴史上の不快な寓意がTO図に対しては「複線的に」込められていると考えられるからだ。

 そのように述べたところでここより話の方向性を「多少」変える。 妄言文書『黙示録』にまつわる寓意の解釈が ―キリスト教原理主義者(ファンダメンタリスト)でもない真っ当な向きに関して「も」― 何故、問題になりるのか、ということに関する細かき話は後の頁に譲るとして話の方向性を「多少」変える。
 具体的には
[TO図型スフィアの911予告映画(ビル連続爆破に向けて話が流れていくとのそのようにしか受け取れぬもの)にあっての登場の背景にあると考えられる事情]
につき[『黙示録』以外の歴史的象徴物におけるTO図使用の観点から取り上げる]との方向にて話をなしていきたいのである。
 下の図像群をご覧いただきたい。

 図について説明を講じる。
 まずもって、上掲の左。ヨーロッパ史で最大の英雄の一人に数えられるカール大帝をモチーフにアルブレヒト・デューラーが作製した作品となる。
 次いで、上掲の右。『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』([時祷書・じとうしょ]こと Book of hoursとは[修道院の生活スタイルを平信徒の日常生活に反映させるために造られた書物]を指す)、歴史研究家達には極めて有名なその写本の中の挿絵の一となる。
 そして、上掲の中央部。TO図と両サイドの図の問題とする箇所の拡大図 ―TO図を反映させたオーブ(宝珠)の箇所の拡大図― である。

 上図像群が
「何故、問題と言えるのか」
について左の図からだ。
 その点、図のカール大帝が手に持っているようなオーブ、それは「王」が持つものとして"TO図を反映させながら"歴史上、よく図像化されていたものである(上に抜粋したデューラーの作品は一例でしかない)。
 いいだろうか。「王」とはドイツ語で「ケーニッヒ」となるものだとは前頁で既述のことだ。そして、ケーニッヒはワールド・トレード・センターのスフィア、ツインタワーの間に存在していたスフィアの作者の名である。であると同時に、
フリーメーソンに「ケーニッヒ(王)の王冠潰しの儀」があると先の頁にて書いたこと
を思い出していただきたい。従って、フリーメーソン臭を漂わせた911事前予告映画、『ファイト・クラブ』版 The Sphereにおけるケーニッヒ作のスフィアに対するTO図付加の意図が「より露骨」になる。王冠や宝珠といった王権象徴物 ―リゲイリアと呼称― を破壊し(前言映画でそれ(王権象徴物)を破壊することを指し示し、でもいい)、新しき世界秩序を構築するという言い旧された彼らの思考形態 ―表向き無知な者達に妄信させている思考形態でもいいのだが― を世に明確に示していたという意味で、だ(それについては王の持つ「宝珠」を「球」とし、そのままスフィアと言えることもある)。
 だが、だ。
 911がフリーメーソンによって引き起こされたこと ―前ページで根拠列挙方式で証したこと― の"問題の本質"は
[王とその権威を否定するフリーメーソンの儀式]
にあるわけではないと考えられる。そういったことは("裏"舞台の中での)表向きの話にすぎないと言え、むしろ、[問題の本質]は「その他の人類全体の危機に関する比喩がある」こと、なかんずく、ここで格別に取り上げることとして
魂の圧殺の比喩がありそうなこと
である(※)。
(※「人間の"内面的本質たる魂と呼ばれるもの"の圧殺」の話を含め、危機については頁を何頁かあらためた上での後の段にて専一に述べる。が、ここでも「布石」として多少、触れておく。尚、私のような無宗教・無神論の徒が[魂などという神秘家好みする抽象概念]を殊更に持ち出すのは[同じくの言葉(魂)で表されるような人間意志の根幹]が操作の具に供されていると「積極的に」述べなければ説明不可能な不可解事でこの世の中が満ちているからである。であるから、読み手の方々が科学的思考法に慣れた方なら、私が[魂といった言葉]を用いるときは ―そのような物言いが事宜に適っているかどうかは別として― 生物機械論者風にての[脳内で意識の所在と結びつく電気活動を司る本体]、あるいは、一部の量子力学絡みの人間好みの[波動関数収縮といったことと結び付く意識発生の本体]などに置き換えて頂いてもらってもかまわない)

 そのことを、そう、911の儀式に[魂と呼ばれる本質の圧殺の比喩]が介在している可能性があることを説明するために上図像群の右『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』を持ち出したのだ。
 さて、同「時祷書」挿絵の中でTO図も体現させていると思しき宝珠を持っている存在は「神」である、とされている(:言っておくが、私は「神」の存在など過去形にて信"じた"ことすらない。キリスト教の神の前身だったユダヤ教の神が原初、"蛇"神だったとされることや大乗仏教の竜神起源に自著作や本Webサイトで触れているぐらいだ)。
 その「神」が持つ宝珠と「女性」 ―具体的には天使ガブリエルに受胎告知される処女、マリア。彼女への受胎告知ことAnnunciationが"蛇"の隠喩的表現と異常なまでに結びつくことは私の著作にて言及― とが"鳥"、具体的には"白い鳩"を介して結びつけられていることが図によく目を凝らすことで分かるはずだ。ポイントは[鳩にまつわる比喩]であるとし話を進める。鳩とマリアの関わりあいについて神学 ―戯言体系― 的解釈を講じれば、こうなる。

「処女マリアに神の"聖霊"の象徴たる"白い鳩"が入り込んでいる」。 

 だが、そのような神学的解釈とは異なる解釈も出来る(私はそちらが正しいと見ている)。
キリスト教芸術作品群における[白い鳩]とは[神の聖霊]ではなく[人間の魂(と呼ばれるもの)]の比喩であるともとれる
のだ(少なくとも、私が多くの写本や芸術作品の寓意を分析した限りではそうなる。についてはかなり後、「プログラムの立証」の話を終えた後、嫌となる程に詳述する)。
 が、ここでは触れない"紛らわしい"別の象徴体系 ―フリーメーソン由来の象徴体系― などもある関係上、うえのような話 ―キリスト教における鳩が[魂と呼称されるもの]の象徴物であるとも解釈できる、との話― について「事理に通じた人間をも対象に」誤解をきたさず遺漏なく説明するのは非常に難しい。難しいも、一般に [キリスト教の三位一体思想]Trinityことトリニティ。父たる神、子たるイエス・キリスト、そして、神性をもたらす聖霊の三要素を一体とする思想)で[神の聖霊]の比喩であるとされる[鳩]が実は[人間の魂]の比喩たりうる理由を ―別の段で詳述する前のこの段階にあっても― 深く推し量りたいのならば、(一呼吸置き)、

ハトを持ち出すキリスト教の三位一体思想の"裏面"ともとれる
[インドの三神一体思想](Trimurtiことトリムルティ
の象徴画に何が描かれているか、調べてみればよい。
オウム真理教やオウムに人員供給していたと比較的真っ当な筋からも告発されているところの大規模カルトの類が何故だか尊いとする[真我]や[宇宙そのものと一体となるとする梵我一如の境地]といった抽象概念について考えるうえで有用なもの
として[インドの三神一体思想の象徴"画"]に何が描かれているか、検索して調べてみればよい

と述べておきたい(インドの三神一体像にはキリスト教の三位一体と結びつく要素があると講学的に述べる向きもある。さらに言えば、宗教のような「自由な精神に対する」害物、その悪質性が凝集したものと言える狂的カルトの典型例、オウム真理教の名称に見る[オウム]とはインドの三神一体と結びつく語である)。インドの三神一体概念(欧州の三位一体概念と結びつくと言われたりもする概念)の象徴図として何が描かれているか検証してみれば、少なくとも、ヒトの内面的本質、"魂"というものについて考えざるをえなく"なった"方達には「キリスト教三位一体思想では神の聖霊(プネウマ)表象物とされ白いハトでときに表される存在がヒトの魂の比喩ともなりうる」との発想の背景が ―[人間を愚弄すべく出来ているととれる残酷なシステム]の一面と共に、だが― 見えるだろう(※)。
ここでの話を読まれて、『何?魂って何なんだよ?宗教家かニューエイジャーの類なのかよ』といった感想を抱かれた方には ―不親切なようで悪いのだが― 何度も何度も書いてきた"ような"ことをもって応えさせてもらう。「ニューエイジャー・チックなところは我慢してもらいたい。差し当たり、自身が重要だと思うところを ―掻い摘んででも― 把握しておいてもらいたい」 )。

 とにかくも、である。
 この段階では「結論、先にありき」的な話柄で恐縮だが([web上のページを改めての後の段]できちんとした説明をなす前で恐縮だが)、「白いハトがヒトの魂の象徴たりうる」こと絡みでは、だ。抜粋の時祷書で[白いハト]、"囚われの魂"と定置できるもの ―鳩と魂の関係は後の段で詳述― が[宝珠]に"吸い寄せられるように飛んでいく"、あるいは、宝珠から"出し入れさせられている"という解釈も出来ると把握しておいてもらいたい(キリスト教教義にまつわる神学論で正統派が言うように「神の子を受胎したマリアに神の聖霊の象徴たるハトが入る」のではない)。

 そのように述べた上で、人間の魂の比喩となるとしたハトにちなむ物体、「宝珠」についてである。

 何故なのかといった按配で鳩が出し入れされている形で描かれ、そして、TO図が描かれていることをここで重要視する「宝珠」。その「宝珠」は「王冠」や「王笏」と並び西欧の王権の"代表的"象徴である(宝珠は英語でいうところの Sovereign's Orbとなる)。そして、それら王権の代表的象徴物は、そう、「宝珠」・「王冠」・「王笏」らは ―(ここまでの話の方向性からでも誤解されやすきところをより一層[宗教家・神秘家の類]と誤解されやすきこととなろうようなそちら方面お似合いの単語群使用ということで問題ある物言いとは思うのだが)― 日本に当てはめれば、「草薙の剣」(岐大蛇ことマタノオロチの尾から意味深くも出現)/「尺瓊勾玉」(サカニノマガタマ)/「咫鏡」(タノカガミ)の「"三"種の神器」に該当するようなものである。[東西で際立って見受けられるワンセットの権威の象徴物]としてでもあるも、そのことが深い意味を持つと述べられもするのだ(ヒトの魂に仮託されるハトと結びつく宝珠に着目しているここでの話の流れ上)。

 何故か。日本の三種の神器は「権威の象徴」にとどまらず「"本質的"操作の象徴」たりうるからだ(:のように述べると、紙媒体、及び、電子媒体で神秘主義者然として[三種の神器と人外の関係]がどうのこうのしている者達のそれ同様、馬鹿げた物言いと聞こえるだろうが、「そうではない」と明言しておきたい(判断をなされるのは読み手だろうが)。その点について確認したきは本Webサイト他カテゴリ掲載他記事[三種の神器をはじめとした権威の象徴物に込められた隠喩]歴史上の権威の象徴物とフリーメーソンのシンボル体系を並列列挙するという形で[西洋王権象徴物 ―リゲイリア(Regalia)― や三種の神器と操作の寓意の関係]について根拠主導方式で解説している同他記事などを後々にでも精査していただければ、と思う ―尚、右の他カテゴリ掲載他記事はその文中、紹介しているように前提となる別記事群を読まれた上でないと理解に支障をきたす類のものであるため、話がかなり入り組むとお含みいただいたうえで[三種の神器などというものが何故、祭り上げられているのか]お考えいただければ幸甚、といった次第である― )。

 "大人の常識人"にとって容れがたいような「神秘家的なる物言い」に依拠した話をひたすら押しすすめるようであれではあるが、私はこう見ているのである。

 神棚で神体として崇められている"鏡"と同様、鏡である八咫鏡ヤタノカガミ。
 それは鏡に映る世界のように一見、この世界に似ているも、向きが逆になっているなど、[この世界とは異なった世界]の象徴であると解釈できもする(「鏡の世界」と多重連結空間の話は物理学者の弁を引きつつ、後の頁でもなす)。
 三種の神器の一つたる(ヘラクレスの討伐対象とされているヒドラよろしくの「多頭の蛇」である八岐大蛇を想起させる)「咫鏡」は
(ここだけを読まれる限りにおいては当然にして誤解を抱かれても仕方ないと考えるが)
[量子力学における多宇宙論の一解釈に言われるが如しの[振動の周波数が異なる世界]、要するに"異次元"の象徴]

であると解釈できもするものなのだ(ノーベル賞受賞者のスティーブン・ワインバーグは多宇宙が存在すると仮定した場合の話として「それはラジオにおける周波数が異なる世界のようなものだ」と表したともいう。そして、正月に飾る"蛇"状の鏡餅、そこにその字が出てくる「鏡」は(異説では)その語源を"蛇"を意味する古語「カガチ」に求められるものであるとされている。そう、色々と調べた限り、カガミは「蛇(カガ)の目」の意たりうるというのである)。
 次いで、八尺瓊勾玉ヤサカニノマガタマの方はヒトの魂、(量子力学の世界で極めて有名な量子の粒子・波動二元性のように)粒子・個としての側面だけでなく、ときに波動性・全をも兼ねそろえた想いを伝え伝えられるヒトの内面世界の象徴ととらえられもする(※)。

直近内容を受けての長くなるも、の付記再三再四、述べるが上が宗教家的な話柄であることは我慢していただきたい。につき、もし、読み手の方が上にての
[個としての粒子/波としての波動性]
といったことにまつわる筆者申し様に堪えがたいほどに辟易させられているとのことであれば、である。そう、例えば、読み手の方が[生来本然としての個体性を超えて伝わる想いの本質]などといったこと ―あるいはのようなことを強調する私のような人間― についての慮りをすることなどなき人生経路を辿ってきた向きで[想いの伝播の性質]などと言われても首をかしげさせられるばかりといった向きであれば ―(世の中一般のまともな学者の類でも口にするような口上に話を落とし込んで)― ここでの[個としての粒子/波としての波動性]という話では次のように言いたいのだと考えてもらっても構わない。

「量子力学分野の一部の学究 ―"権威"をあたら持ち出すのも問題なのだがカリスマ物理学者ロジャー・ペンローズのような類― は[脳内のマイクロチューブル(微細管)内で生化学的に生じた波動関数の収縮と同様の作用]で我々人間の複雑雑多な意思作用が生じているといった説を唱えもしている。そういった学究由来の説の真偽 ―意思をもたらす"魂"の所在にまつわる説の真偽でもいい― には門外漢はおろかそればかり専心に研究している玄人筋でさえ明言をなすことができぬとされているが(検証が容易ではないゆえに)、そのような説にあるとおり「電子の振る舞いにまつわる[波]としての函数(波動関数)が収縮するように[意識]が生じて」いようとなかろうと[似たようなこと]として一つ言えることがある。それは我々人間は口に出して内面上の有り様を伝えることで他者の内面にも ―さながら[波]が幾重も重なり海岸の配置図を変えるように― 変化を及ぼすことができる、ということである。それについては ―あくまでも[言葉という媒質]を通じての話となるが― 想いが[波]のように[本来的には固定的な外側の自然環境]に浸出、[話者の脳内で生じた意思]が[他の人間の意思]に伝播するように[意思作用の相互帰結たる人間社会に特異な内面の王国]を形作ってきたようなものであるとも言える。その伝でいけば、人という生き物、いや、高次の知能を具備するに至った生き物の内面には微視系(ミクロ)から巨視系(マクロ)にまで連なる波動的なる側面、さながら[粒子が個の形態であると同時に波動の形態をもとる(wave-particle-duality)といった量子力学上の発見]に通底するがごとくの"波"的なる側面が伴っている、[意思の問題]、要するに、[魂の問題]にまつわるものとして伴っていると言うこともできる」。

 それにつき、せいぜい上のような物言い ―さながら現代哲学者といった人種のように[愚にもつかない観念論]を持ち出したことに筆者自身嫌気がさしているのであるも― 、常識的ととれる物言いが容れるのには限度だろうという向き(古今東西にあって[魂]という言葉で表されてきた領域の特質につき考えたことなき向き)に対し、そうではないとの向き、ノン・バーバル("非"言語的)ないわゆる[以心伝心]などの関係についてよく考えたことがある向きには[抽象論をこととする学者が好みそうな例え話]の文脈を超えて伝えたきことを解釈していただいてかまわない)。

(長くもなってしまった括弧内付記部から立ち戻って)八尺瓊勾玉ヤサカニノマガタマと同じくもの三種の神器、ヤマタノ"オロチ"の尾から登場した草薙の剣の方については ―私の無償公開著作でもその言葉を使ったのだが― [蛇のケーブル]ととらえられる。草薙の剣は憑代ヨリシロこと憑依対象 ―先にもほんの一言だけ述べたように今、現在、"蛇"の結社たるフリーメーソンの大多数の"ポーン"達が生贄殺人込みで何でもやるのは憑依されてしまっているからだ、との説が欧米で猛威を振るっている。欧米ではその名を知らぬ者の方が少ないとも見えるデービッド・アイクが重要な点を(虚偽情報に度々、言及しながらもだが)暴露してしまったから― を縛るケーブル、換言すれば、草薙の剣は異次元の領域こと[鏡の世界](八咫鏡の領域)から八尺瓊勾玉の領域こと[魂の領域]を縛るケーブルだ、と考えられる

 とすれば、である。(ここでの話のエキセントリックさの問題はさておきとして)、
【キリスト教三位一体思想でハトに象徴される霊的なるもの】(キリスト教思想の解釈における通説では人間存在に"押し入ってくる"という神の霊の体現などとされるが、私はヒトの魂と定置。理由はかなり後の段になるが、詳述する) ⇔ 【西洋世界での王権象徴たる宝珠】(しばしば、そこにはTO図が描かれる) ⇔ 【日本の三種の神器に見る勾玉】(多く、ヒモを通すための穴が開いている) ⇔ 【ヒトの魂】
という見方が ―容れる/容れないは人によって違いはあるだろうも― なせもする(⇔で記した部位は双方向的につながっている、ということだ)。

 さて、以上のような「魂の問題の話」を ―(現時点では)極めて不完全ながら― すれば、である。何故、TO図が描かれた宝珠(スフィアないしオーブ)が転がされたことが人間の内面の圧殺と関わると述べているか、"極一面で"察しがつくのではないだろうか(敢えて"極一面で"としたのには[神秘家特有のものと勘違いされて然るべきようなここでの話]には他にも述べるべきことがたくさんあるからだ ―それらについては後述する― )。

 長くなってしまったが、そして、人によっては何を言っているか理解に苦しむ"スピリチュアル"的方向に傾きすぎた話 ―そういう話は日本語のネット上で妄言を吐いている連中の十八番であるが、私をそれらと一味同仁の類と見るかは本サイト閲覧者の悟性にお任せしたい― になってしまったが、TO図を体現した構造体の使用を危険なものと見る理由を書いた。

アトラス・プログラム実在の立証の詰めをなす前に」もう一点程、[危険な兆候があるとの話]をなしておこう(「アトラス・プログラムの実在証明をなした後にも」再度、起こりうるべきことの話はするつもりだが)。その契機として下の図に目をお通しいただきたい。

 上掲[左上]は先の頁 ―[問題意識の所在―4―]と題して始めている頁― でも挙げた地図帳の1595年版『アトラス』内掲載図、それを再掲したものである。
 上掲[右上]はゲラルドゥス・メルカトルの子ルモンド・メルカトゥルが16世紀後半に作製した世界地図である。
 上掲[左下]はフランシス・ベーコンの17世紀初頭に世に出た著、 Novum Organum『ノヴム・オルガヌム(新機関)』掲載の版画の再掲である(同図につきご記憶にない向きは[問題意識の所在―2―]と先頭表記している本Webサイトの前頁を参照されるとよい)。
 そして、上掲[右下二図]はフリーメーソンの、フリーメーソンによる、フリーメーソンのための象徴画の抜粋だ ―強調しておくも、かなり詳細にメーソンのシンボル体系に言及しているが、私はメーソンなどではない。メーソンであるとみなされることは数々の醜行為の担い手たる創価学会("マシーン"のような人間からなる鉄人兵団とも言うべき団体と私は心底、嫌っている)、一部成員がフリーメーソンの"やらせ"の直接的アライアンス・パートナーである創価学会に属しているとみなされる以上に恥ずべきことであると見ている― 。
 さて、まずもって、上掲[左上]の地図帳『アトラス』掲載図と上掲[左下]の『ノヴム・オルガヌム』掲載図を比較いただきたい。
『何となく似ている』。
 そう思われるはずだ。だが、「何となく」ではすまされない。両者の間には関係性がある。問題はそれがただの模倣・被模倣の関係で済むか否か(あるいは、ただ単純に全く同じ[要素]を含んでいるだけの"関係"で済むか否か)である。その点、左下の図、『ノヴム・オルガヌム』の中の図に関しては「アメリカがアトランティス ―アトランティスはアトラスの娘達の意でもある― に仮託されて描かれたものだ」とは以前に書いたことである(:同図を含む『ノヴム・オルガヌム』の著書、フランシス・ベーコンは『ニュー・"アトランティス"』との題の新大陸近辺を新旧アトランティスと指す著作をものしている。ものしている上に『ノヴム・オルガヌム』が世に出た1620年という時期は(1624年のベーコンの『ニュー・アトランティス』刊行前のことなのだが)メイフラワー号がプルグリム・ファーザーズ達 ―イギリス系アメリカ移民の始祖として有名― を乗せてアメリカに向けて旅立った年だった。ために、『ノヴム・オルガヌム』の時点で[アトラスの娘=アトランティス]とアメリカが結びつくと言える)。
 翻って、[左下の図]の比較対象としての上掲[左上の図]たる1595年版『アトラス』抜粋画だが、そこに描かれる巨人アトラスは
[『ノヴム・オルガヌム』図の中の船の向かう先]
を暗示している存在だと解釈できる

 その点、皮相的な話をなせば、
「1595年版『アトラス』は『ノヴム・オルガヌム』内の図と同様、青円で囲ったジブラルタル海峡の二本の柱を[特徴的なる構図]にて表している(:そもジブラルタル海峡の表象物たる柱 ―ヘラクレスの柱― に決まった様式上の表現方法などないところを[細部までベーコン著作とこれそっくりであるといった列柱構造]で表している)。ゆえに地図(1595年版『アトラス』)に描かれる巨人アトラスが(『ノブム・オルガヌム』同様のこととし)アメリカ=アトランティスを暗示していると解釈できる」
とのことになる(:『ノヴム・オルガヌム』でアメリカ=アトランティスとの発想が介在していることを前提にして、である)。
 が、上にてなした皮相的なる話、『ノヴム・オルガヌム』との視覚的一致性を問題とせずとも地図帳『アトラス』図画内で屹立するアトラスがアメリカ=アトランティスの象徴物であるとの解釈が成り立つことも本Webサイトの前の頁で述べている([問題意識の所在―2―]と題して始めた頁にて)。としつつ、再度、別の観点も加えて「アトラスがアメリカ=アトランティスの象徴物であるとの解釈が成立する」"理由"を説明かつ再訴求する。説明かつ再訴求するとした上で、まずもって言っておくが、「常識的に考えれば」、上掲図像群の左上の1595年版『アトラス』に描かれる赤いマントを羽織ったアトラスは「大西洋の比喩となりそれ以上でもそれ以下でもない」
 ジブラルタル海峡の二本の柱=ヘラクレスの柱を越えた先の「大西洋」が既述のように「アトランティック・オーシャン(アトラスの海)」となり、その大西洋が地図帳『アトラス』の描かれた大航海時代の主たる舞台だったからだ。
 が、そうではなく(単純に[アトラス=大西洋]ではなく)、左上の図で屹立するアトラスが[アメリカそのものと結びつく存在]であるととれる"理由"として次に述べる〔1〕-〔4〕のような点が挙げられる(以下、多少、長く複雑な話になるとお断りしておく。また、そうもした長く複雑な話をなさないと上にて[先発的に述べるとしたリスクそれ自体の話]に入れないとの認識が筆者にあるともお断りしておく)。

〔1〕以前にも書いたようにギリシャ時代の哲学者、プラトンが『ティマイオス』で言及していたような「"アトラ"ンティス」。大西洋の果てにあるリビアとアジアを合わせての広大な陸地云々とされる伝説上の同大陸は今日的に見れば「アメリカ」しかありえない。否、アメリカ大陸"発見"以降もアメリカしかありえない古代ギリシャ人にとりアジアは現トルコ付近を指す言葉にすぎなかったから古代の解釈ではアトランティスは大きな島になるとの話もあるが、今日的なる解釈/アメリカ大陸発見以降の解釈が問題となるのだ。そして、アトランティスの始祖としての王は神話のアトラスを想起させるような「アトラス」の名の持ち主であるとプラトンにされている(アトラス⇒アトランティス=アメリカたりうる)。

〔2〕これは〔1〕の点を補強することだ。プラトンがアトランティスに言及している書物『ティマイオス』の成立年代に関する[一般的解釈の真正さ]については全く保証できないが、少なくとも15世紀欧州にはそのラテン語訳とされるバージョンが広く流通していた節がある(ギリシャ文明の古典が中世の暗黒時代に散逸したとされている中でだ)。ために、16世紀は大航海時代華やかなりし頃に巨人アトラスを描いた地図群が作製された"背景"、そして、ついぞ、巨人アトラスが地図を指す名詞になった"背景"には
「[アトラスなる人物を王と戴いていたともされるアトランティス]に対する想いが(『ティマイオス』を介して)大航海時代の進出対象地としてのアメリカ絡みであった」
と考えることは理に適っている。

〔3〕アトランティスの言及文献たる『ティマイオス』ではアトランティスはアメリカそのものといった描かれ方をしているとしたが(〔1〕の繰り返し)、そのアメリカがプラトン著書"以外"の神話上でも「アトラス」に仮託して描かれていたと言えるだけの根拠がある(少なくとも、「今時分にあっては」そう"解釈"できるだけの根拠が十二分にあると先の頁にて書いた)。プラトンの話とは別個に神話上の「ヘラクレスの11番目の冒険」に登場した「アトラスの娘達(ヘスペリデス)が管理する黄金のリンゴの園」。ギリシャ世界から見ての「西の果て」にあるとされるその場所が「ヘラクレスの10番目の冒険」に登場した「大洋に浮かぶ島」と奇妙な相関関係を見せながら「アメリカ」を指し示すように"なっている"からだ。そして、―[問題意識の所在―2―]と題して始めている頁の内容を繰り返すが― アメリカにも仮託可能な「アトラスの娘たちの黄金のリンゴの園」というものは「アトランティスの園」(アトランティスには[アトラスの娘]の意もある)と言い換え可能なものであり、「[アメリカ]=[アトランティス]という結び付けをなす」上での材料になる。となれば、1595年版『アトラス』の作者メルカトル ―ベーコンがアトランティスでアメリカを表象するよりも数十年前に地図製作者として活躍した一世代「だけ」前の人間― にも
「プラトン著書『ティマイオス』のアトランティス伝承を抜きにした上で[ヘラクレスの冒険によって到達される天界を支える巨人アトラスの娘達の園]=[アメリカ大陸]=[アトラスで表象可能なもの]との認識があった」
"とも"推察される。1595年版『アトラス』表紙にアトラスとヘラクレスの二本の柱(ジブラルタル海峡の二本の柱)がベーコンのそれよろしく「並列して」描かれているのもその現れともとれる。

〔4〕上の〔1〕〔2〕アメリカとの絡みで「アトランティス」という言葉を使ったフランシス・ベーコンに関しては「仮説ではなく真実である」と言える(ベーコンは自著『ニューアトランティス』にて[ペルーの西部にある島 = ニュー・アトランティス]に対し["大"アトランティスこと Great Atlantis = アメリカ大陸]としていた)。そして、そのベーコンの『ノヴム・オルガヌム』、視覚的に地図帳『アトラス』と近しい描写(上掲図像群[左下])を含む著書は地図帳『アトラス』作成後、30年を経て世に出たものであり、両者に時間的離隔は然程ない。すなわち、地図帳『アトラス』作製の背景にもベーコン的発想 ―アトラスの"ような"存在でアメリカを表する発想― があったと時期的接近性から考えることも出来る。

 以上、長くなったが、ここまでの〔1〕-〔4〕で
「メルカトルの地図、画期的かつ有名なその地図のレベルで[屹立するアトラス]がアメリカ大陸(=アトランティス)に仮託されていうる

と考えられる理由について詳述した。
 につき、そこから導き出せる結論、すなわち、メルカトル地図の時点で(ベーコン著書刊行前より)アトラス象徴物で[アメリカ]が表象されていたという結論が[本サイトで証したいこと]の肝の部分に関わっているわけだが(「複線的に人類の行く末に関わるプログラムの話と"接合"する」)、その詳説は後の頁にてなすとして、ここでは[先発的になしておきたいとしたリスクの話]に限局化したうえで
[巨人アトラスによってアメリカを表するとの思潮が ―巷間の語り草はおろか象牙の塔(歴史学者らの世界)にあっての解釈論にさえ見出せることではないのだが― 大航海時代より暗流としてあったこと]
が何故、問題になるのか ―この段階では不十分な話とはなるが― 述べたいとおもう。

 さて、メルカトルの1595年版『アトラス』のアトラスが「二つの球体」を持っていることに着目いただきたい(水色の円で囲った部位)。それが「往時の地図製作技法に由来する」と察しがついた方も多いだろう。上の図像群にあっての[右上]部図像として[球体を2つ並べる手法によって製図された地図(ルモンド・メルカトル作)]を挙げたのも(一面では)そのことを指し示すためである。だが、だ。地図製作技法の話を超えもし、[アトラスが球体を2つ持つ姿で描かれていること]はフリーメーソンがそのアルゴリズムによって動かされる"マシーン"になってしまっている危険なプログラムとの関係上、危険な比喩とも「なる」との文脈でこそ見るべきものである。
 については、まずもって上に挙げた図像群の中の[右下]二図をよくご覧になられるとよい。そこには
[フリーメーソンの象徴たるソロモン神殿の入り口の柱、ヤキンとボアズの柱]がベーコンやメルカトルの抜粋図の二本の柱、[ヘラクレスの柱]と極めて似た形で描かれている」(気づきを促すために柱を青色の枠で囲った。右下二図のうち、右の方は正確にはヤキンとボアズの柱ではないのだが、背景にある思想が同じだととれるので一括りとして扱った)。
 かくの如き形態的一致性を[何の意味も有さぬこと]と思われるだろうか?
 その点、メーソンの歴史に多少なりとも詳しい向きはこう言うかもしれない。
意味云々以前に通説に則れば、"近代"フリーメーソンの設立はメルカトルやベーコンの活動年代より100年前後、後の話、1717年のことである。考えすぎだ(:ここでは「[メーソン的なる紐帯]の正史登場前における立役者にフランシス・ベーコンがなっていた」との話を容れていない見解を挙げている)。
 だが、そうではない。そうではないとした上で、だ(近代メーソン登場年代とマーキング年代の時間的ずれの問題についても後に再度、述べる。アトラス・プログラムの話の詰めをなす過程で)。地図製作技法における2つの球体、アトラスが持つ2つの球体と同じような球体がメーソンの[ヤキンとボアズの柱](と類似の象徴物)に"反映"されているらしきことに関わる話として以降、述べることを把握いただきたい。

 メーソンのエプロン群 ―"Freemason, apron"とでも検索してみるのもよいだろう― にもその典型的な姿を散見されるそれら二本の柱、[ヤキンとボアズの柱]の上部には[球体]や[太陽と月を覗かせる円状の構図]が象徴的に描かれる。[それら柱の上部の球体]はこちらの次元と、こちらの次元に介入をなしている操作者達の住む別次元の比喩となるものであるとも"されている"そのようにとる人間も少なくなく、私自身、大いにありうることだと見る。メーソンの象徴体系には ―Web上で確認できる限りでも― そういったものが多すぎるからだ)。
 さらに、である。いきなり打って変わって、20世紀に入ってアメリカの神秘家、モーリス・ドリール( Muriel Doreal )という人物が無視すべきでないことを言っていた、ということもある。同ドリールが自身が発見したと"主張"する『(第2の)エメラルド・タブレット』、アトランティス由来の"12"枚の石碑を出典に次のようなことを言っていたということがあるのだ(興味深いことにドリールという男は[アトランティス由来の石碑]をアメリカ大陸で発見したと放言していた)。
「かつて、存在していた"アトランティス"の時代 ―またアトランティスである― のこと。その時代に影の王国の暗黒存在が呼び出された。この世界とは振動が異なる世界から呼び出された、その者達は血を欲し為政者達を殺してその姿に成り変わった。そういった人の肉体を乗っ取る者達の真なる姿は蛇の頭を持つ存在であり、音と魔術のみにより、その介入を探ることが出来た」。
 いいだろうか。私自身はモーリス・ドリールもその出典、『(第二の)エメラルド・タブレット』もニセモノだと見ている(というより、大半の神秘主義に何の共感も持っていない。言葉はきついが、大半の神秘主義は後天的阿呆の戯言程度にしかとっていない)。ドリールをよく引用するデービッド・アイクのような人物とは異なり、だ(:ただし、私はデービッド・アイクについては[ただのやらせの人形]ととれるドリールのようには見ていない。彼はニューエイジャーのように振る舞いはするが)。ドリールの『エメラルド・タブレット』要旨、上に挙げたような異次元介入存在にまつわる要旨がそれよりも"かなり"早く世間に出たファンタジー系小説家、ロバート・エルヴィン・ハワード( Robert Ervin Howard )の短編小説、 Shadow Kingdom『影の王国』に内容のみならず文言レベルで酷似していると「よく調べたうえで」知っていることもあって右のように述べるのだが、問題は、だ。[相応の虚偽の徒輩]ととれる神秘家ドリールの段階で ―直近、抜粋したような物言いによって― [アトランティスと呼称される大陸が[異次元から介入する存在](蛇人間)と結び付けられていること]であるより具体的には[アメリカ大陸出土自称の捏造品にしか見えぬアトランティスの石碑が異次元から介入する蛇人間と結びつけらていること]である同点とメーソン達の"向こう"と"こちら"の次元の比喩を含んでいるとされる【ヤキンとボアズの柱】の歴史的図像化開始よりも百数十年から二百年以上も前にメルカトルという男が[極めて有名な地図帳](地図帳一般を「アトラス」と呼称させしめるに至った画期的地図帳)で、そう、[ヤキンとボアズの柱(と球体)の類似物が描かれる地図帳]で、[アトラス ―アメリカかつアトランティスの象徴物であるとは長々と上にて訴求済― に二つの球体をくっつけさせるようなそぶりをさせていること]は併せて考えるべきことである

 と、ここまでくれば、もう大体にして、言いたいことはお分かりいただけただろう(先発的になすとした[リスクの話]との絡みで、だ)。ただし、以上、述べてきた内容は本稿冒頭から問題とし、かつ、後述することとなりもする、
[異世界との扉、ワームホールのようなものを造りだすこと]
と同義たりえない。必ずしも同義たりえない(※)。
※発端となっていると"思しき"地図帳『アトラス』でアトラスが【次元の接合】―後、詳述― を想起させるように次元間介入の比喩"とも"なりうる「球」を併せている。しかし、[人間の魂とも呼ぶべき量子力学的本質に対する半面でなく完全なるジャック]や["アメリカ=世界を支える巨人アトラス"と解した上での巨人を用いての核兵器/生物兵器による現行人類滅亡計画]なども上の内容から観念できる:右のようなことを書くと、ここに至るまでの内容をお読みになられていない方には『意味不明な戯言だ』と失笑されるのは論を俣たなきことだろう。そして、ここに至るまでの内容をよく読まれている方にも色眼鏡ごしに見られ「かねない」のもまた然りだ。しかし、保証するが、「理」と「知」の二字をもって本稿を最初から最後まで読了いただければ、[魂の圧殺の話]や[現行人類死滅]とアトラスとの関連性をもよくご理解いただけるはずである)。
 ワームホール(アインシュタイン・ローゼン・ブリッジ)生成の可能性とここまでの話は必ずしも同義たりえないが、象徴の信じ難い類似にまつわるワームホール生成以外の"他"可能性]についてもワームホールの話と並んで後の段にて解説するとした上で次頁では「アトラス・プログラムの実在立証をなす」ことに専心する。

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