[三つ鱗紋様に込められた意味](多く荒唐無稽に取り上げられているレプティリアン支配説のようなものと接合し、また、現代カルトの問題にも通底する象徴主義について)
冒頭よりのお断り
記事本文内にても断らせていただいていることだが、
「実証に力点を置き全般的に[細々とした内容]となってしまっている当サイトの中にあって本記事は殊に[細々としたもの]となっており、それがため、たた単純に斜め読み・流し読みするだけで内容を抑えきれるものではない」。
そこで本記事を読解されんという方々に対しては
[印刷されたうえでの(線を引きながらでもの)検討]
を本サイト他記述部にてなしもしている勧め"以上に"強く推させていただく次第である。
(それによって、立論の根拠が真正なものであるか否か、そして、私が信用に値する人間か否か、読者の方々ご自身でご判断いただければ、幸甚といった次第である)
本題に入り、最初に下の図をご覧いただきたい。
掲載図[左上]は日本の家紋だ。多少なりとも日本史に詳しい方にはすぐ分かろうかと思うが、
[北条氏の家紋として知られる三つ鱗紋]
である。その三つ鱗紋にまつわる隠喩の考察が本記事の目的であるとした上ではっきり言ってしまおう。
「三つ鱗の家紋で象徴されるものは[現代カルトの問題に根本レベルで接合するもの]であり、そして、[人外の歴史的操作の隠喩と接合するもの]でもある。そのことを示すべく挙げたのが上掲の右上、[清姫と呼ばれる蛇女の図]である」
何? 「家紋だか清姫とかいうスネーク・ウーマンだか何だか知らないが、どうしてそれらが現代カルトの問題や人外 ―この"人外"という言葉、[世界を動かす陰謀]といったことと共に語られる限り[常識人の世界]でNGワードとなるのは言うまでもなき言葉であろう― の歴史的操作の問題と接合すると言うのか」?
そのような問いを内心でなされた方々には
『この男、こじつけ話法で俺達を惑わす気なのか』
『おかしいんじゃないのか』
といった第一印象、当然にして抱かれて然るべき第一印象に拘泥されぬようにしてほしい、と述べておきたい(まずはともあれ、透徹した目で先をお読みいただきたい)。
さて、これより
[北条の三つ鱗で象徴されるもの]が[現代カルトの問題に接合]し[人外の操作の隠喩とも接合]するものである
と述べられる根拠について以下の〔1〕-〔5〕で段階的に指し示していくこととする (尚、事前に断っておくも、記事の前半をなす部、前提となる古典上の記述を紹介しての〔1〕から〔3〕の段にあっては印象論的きらいが強き話をなすことになるが、後半部では[はきと指し示せる奇怪な相関関係]に重きを置いての話をなすことになる) 。
〔1〕 [三つ鱗紋の起源]から話す。三つ鱗の言われている起源は次のようになっている。
「北条時政 ―配流の身にあった源頼朝を助けて、後、頼朝が興した鎌倉幕府内で北条氏が台頭するきっかけを造った人物― は江ノ島に参拝した。その折、[独特な格好]をした女人が現れ、時政の前世の行いを称賛し出した。曰く、[全国66国に66部の法華経を書き写し奉納したその行為は褒めるべきものである]。そのような称賛をなした上で女は[功徳ゆえ北条氏が日本の主として振舞えるようになるだろう]と預言し、去り際に、大蛇に変身。海に入って消えていき、その蛇女の残した三つの鱗が北条氏の家紋となった」
上が14世紀に成立したとされる『太平記』に見る[北条氏の三つ鱗紋の由来]だが(労せずオンライン上からも確認できることか、と思う)、ここで押さえておいて欲しいのはだ。
[北条時政が蛇女より法華経普及を讃えられていたこと]
及び
[説話の変身する女の話が今、欧州で物議をかもしているような爬虫類人人類支配説 (※下の注記部を参照のこと) を支持するような諸要素と"リンク"しているように受け取られること] (リンクの話については後の〔3〕にて詳述する)
である。
(※付記爬虫類人人類支配説とは:上にてその名を挙げた[爬虫類人支配説]は今より11-12年前 (後日にあっての追記⇒当記事を最初にものした2010年を基準に見ている) にデービッド・アイクという男が証言者を引き連れて広めた異説で大まかな概要を述べると次のようなものとなる。
「この地球は有史以来、爬虫類人と呼ばれる存在の自家薬籠中の惑星だった。彼ら爬虫類人(レプティリアンとの「爬虫類の」を意味する形容詞を名詞化した呼称が与えられた存在)は亜空間・外宇宙・地下に拠点を定め、憑依した操り人形/自ら姿を変えた潜伏者を代理人に立て、人類社会を影より操っている」
当然にして良識人には
[堪えがたいほどに馬鹿げた内容の説]
と映るだろうが(殊に地下に人外が拠点を定めている云々のシュールな部は先大戦末期前後、、米国にてパルプ誌上、流行ったシェイバー・ミステリーの焼き直しとさえ見えてしまう)、「爬虫類人人類支配説(レプティリアン奇説)が何故、物議を醸し多くの支持を得るに至ったか」にも通底するところとして、爬虫類人人類支配説には見るべき側面がある。
については、説そのものの普及経緯とあわわせて説の内容の分析を細かになしている本サイト上の他記事、
[爬虫類人人類支配説の分析](クリックすることで遷移)
を参照いただきたい)
〔2〕上の〔1〕にて述べたように[蛇女] (蛇を身体に捲きつけた形で近代以後、図像化されていたリリス。Lily[百合]を思わせるスペル、Lilithと英文表記する[女の妖異]の日本版ともいえる) と [法華経普及礼賛] がワンセットとなっている。 北条時政が宿縁として法華経を普及させていたことが[権威]と[三つ鱗紋]が北条氏にもたらされた理由となっているという『太平記』掲載の説話の筋立て上。
それにつき、
「『太平記』だけが ―[文献的事実]の問題として― [三つ鱗で象徴されるような蛇と結びつく妖しき者達]と[法華経]を結びつけていたわけではない」(であるから[まずもって問題となる])こととして他にも同様のことに言及した伝承・古典が存する)。
そのことを示すのが、[上掲右上の図]で近世、描かれた似姿を挙げた清姫だ。
清姫。
彼女は北条時政が権勢をふるうことになる鎌倉時代より以前、平安期に成立した『大日本国法華験記』にその起源を認めることが出来る存在でその物語上のプロフィールは次のようになる。
「うら若き乙女だった清姫は旅の身の美男の僧に懸想し(惚れ)、結ばれるべく迫った。ところが、清姫は袖にされ、その過程と結果に怒り狂って ―シュール極まりないことに― 大蛇に変身。蛇身でもって若僧を責め殺した。しかし、その後、罪業深き清姫自身も入水自殺し、殺した僧と一緒に[蛇道]に堕ちた。蛇道に堕ちたも、結果的に法華経で救われ、天人の姿で天に昇っていった」
何?その実に激しい清姫ちゃん ―人を取って喰らう妖しき存在を「ちゃん」付けで呼ぶのもまたもって何ではあるが― が『太平記』の北条時政を讃えた蛇女のモデルじゃないのか、だと?
常識的に考えれば、そう言えそうにもとれる。
すなわち、
『太平記』の蛇女の説話の種本は平安期に成立した清姫登場の『大日本国法華験記』となるようにもとれる。
だが、『太平記』の蛇女にはそうした常識論では決して拭えぬ不審事がいくつも付きまとう (そうした不審事らとて当記事の後の段で指し示す決定的な話に比べればたいしたことなきものだが) 。
それについては、『太平記』に [蛇女] ―ここで問題としている同じく『太平記』登場の蛇女― とそっくりな独特な格好をした [鱗つきの角を生やし鬼が転じた女] が [不快な比喩] を伴って何故か登場してくるという [操作を指し示すような下り] があることもあるのだが(:当記事でも後述することにした大森彦七盛長が日本古典にあって稀に見る大物妖怪オンパレードの中で化け者達に苛まれ煩わされる下りがそうだ ―当サイト公開の自著内容も参照いただければ、と思う― )、 まずもって [実に単純かつ短絡的] に考えて、である。
何故、卑しいとされる[蛇道]に堕ちた清姫が法華経で成仏、天人になったなどと平安期の説話で伝わっているのに北条時政の法華経普及を礼賛した女は
[海に入っていく大蛇]
がその正体とされているというのか。
そこからしても 「これはどうなのか」 ととらえてよいところだろうと見る (:「かつて自身を蛇だった」と述懐する天女が「時政さん、あんたはよくやったよ」と言うのなら分かるのだが、依然としての蛇女が蛇の鱗を残す前に[時政の宿縁としての法華経普及貢献]を讃えている、とのことがある) 。
のような素朴な疑問に対しては
「その他の文献に見える特異な法華経礼賛 ―次の〔3〕にてそうした文献の奇怪な一幕について触れる― も影響を与えており、伝播関係でなるべくしてそうなっている」
と常識論で、なおかつ、表層的に答えることもできはする。
常識論で表層的に答えることも出来はするものの、それは[たった一事の説明を限局的になすことしかできぬ]とのおよそ本当の答えになるようなものではなく、私としては次のようなことが真なる答えだろうと ―事実を否定せんとする輩以外、その問題となるところを認めざるをえぬとの根拠に基づいて― 強調しておきたい(誤解を恐れずに敢えて強調しておきたい)。
「法華経を広めたのは歴史的に蛇で仮託されてきた存在 ―欧州では近代版リリス以外に神話・伝承に見る血をすする蛇女、ラミアやメリジューヌなどの形態の妖異にも仮託されてきた存在― の意思であるからであろう」
上掲図の清姫の帯の裏に細々と[三つ鱗]が刻まれている芸の細かさ ―図を参照のこと― はこの際、論じなくとも上のように「自然に」考えられると述べるに十二分たる論拠が存在するのである ―当記事で[真偽確認していただきたいこと]としてこれより述べていくことをよくよく検討されたい― (:法華経以前に[浮屠教]などとも初期、中国で呼ばれていたらしき仏教自体が歴史上、蛇・竜の象徴と無縁ではなかった、ということはとりあえず、ここでは置いておく。すなわち、ナーガセーナ、[蛇人・竜の軍隊]と訳される伝説上の僧が仏教普及に努め、ナーガルジュナ、これまた[ナーガこと蛇人]に由来を持つ竜樹という男が大乗仏教体系化に功あったとされるような[龍・蛇と結びつく仏教の沿革の話]はとりあえず置いておき、[法華経]と[蛇と結びつく「史的」人外]の尋常ならざる関係性を主眼に話を進めていく)。
〔3〕上の〔2〕の後半部で述べたことは、すなわち、
「法華経礼賛説話の蛇女登場が蛇に仮託される人外の意思を示している」
とのことは上の〔1〕にて一言だけ言及した最近の欧米で物議を醸している説、
「人類の支配者が爬虫類人である」
との説と当然のこととして接合する申しようである ―欧米で物議を醸している異説が真実であるかどうかは別としてだ― (:先にても付記していることだが、爬虫類人人類支配説が唾棄出来ぬものである理由については本Webサイト上の諸所にて詳述している ―だからと言って、私は人類の支配者が爬虫類人であるなどとは"断言"はしない。100中99、それに類する蛇が大好きな連中、蛇に自らを仮託する存在であるととらえるが― )。
何?「法華経普及の背後に爬虫類人(の如き連中)がいるとでも言うのか。いくら古典に典拠を求めていようとも怪我につながりかねない暴論の類だな」だと?
仮に、脅し目的でそういう言辞を弄する類がいるとしたら、だ。創価学会員と思しき人間にその式で「殺すぞ」と脅された際に、傀儡(くぐつ)のような輩にも人形使いにも恐怖心を一切、感じなかった人間として言っておく。「勝手にほざいていろ」と。(私は今という時代にあって人類の存続のために絶対に必要であろう[言論の自由]を損なおうとする輩 ―多くは(潜在的)犯罪者だろうが― には屈しない)。
だが、
『合理的な考え方ではない』
『まさしく馬鹿げた考えだよ』
と主張したいような向きが暴論(と見られていること)をとがめた場合を想定しもし、「上は決して暴論ではない」との話を懇切丁寧になしておく。
それに関してはまずもって
「法華経を讃えるのが[蛇女]に限らず[人から爬虫類に変身する存在] ―蛇男であったり、海底の龍神であったり、(重要なこととなるが)[赤い竜]だったりする存在― である」
ということから論じ出すことにする(その話には「人間業ではないような奇怪な文献的一致性を伴っての形態にて」という前置きがつくのだが、それについてはより後の段で「仔細に」論ずる)。
『源平盛衰記』(平家物語の改訂版)、有名な中世の軍記物に[次のような筋立ての説話]が登場していることより話し始める(説話紹介文の中に重なるように伝聞形態の文が登場して紛らわしいが、我慢してほしい。登場人物の[老松/若松]と出典の[源平盛衰記]をキーワードに真偽確認されてみるとよかろう)。
「上皇(後白河)は壇ノ浦の戦いで海中に沈んだ三種の神器の中の"剣"(ここでは草薙の剣と呼称する)を回収しようと画策した。結果、法華経を身にまとった海女 ―老松と若松の両名― に海中探索をなさしめるが、その海女が戻って伝えたところによるとである。海女は竜神(というより大蛇)が住まう竜宮に招かれて、そこで大蛇に次のような趣旨のことを聞かされた、と言う。
『草薙の剣、ヤマタノオロチの尾から出てきたその剣は元来、海底の竜宮の主の息子、ヤマタノオロチのものであった。にも関わらず、それが奪われてしまったがため、ヤマタノオロチは何度も回収しようとしたが失敗した。そのため、オロチは安徳天皇 ―史実では平氏に担がれ、壇ノ浦で入水した幼帝― として転生し戦乱に乗じて草薙の剣を回収することに成功したのだ』。
そういった話を聞かされたような経緯から草薙の剣回収に失敗した海女だったが、身にまとった
[法華経の尊さ]
を竜宮に住まう大蛇に認められたがゆえに ―ここがポイントだ― 竜宮にて沈んだ平家の一門にかしずかれている存在、安徳天皇(ここではヤマタノオロチ)を抱えた竜神の真の姿にまみえることができ、真相を知ること出来た(とされる)」
長くなった。
要するに平家物語異本との位置づけにある古典『源平盛衰記』では
「[草薙の剣]を回収したというヤマタノオロチ(人間に変じては安徳天皇)、その親たる大蛇としての龍神(妖しき者)に[法華経は尊きものだ]と担がれている」
のである(:北条時政の法華経普及の功徳を讃えた存在もまた、蛇に変身して海底に帰っていたということを想起すべき話としてだ)。
話はそれにとどまらない。『平家物語(剣の巻)』にも同様の記述の要約 ―安徳天皇に生まれ変わった大蛇が剣を奪い返して竜宮に回収したとの記述の要約― があるのだが、その記述もまた法華経と結びつくように"調整"されている。
すなわち、
「(大蛇は)八歳の龍女の姿を示すがため、八歳の帝の身体を変えて剣を取り戻した」
といった趣旨の記述が『平家物語(剣の巻)』にもあるのだが、そこに言う[八歳の龍女]とは[法華経の用語]なのである(:法華経には八大竜王が守護神として挙げられているのを仏教に詳しい向きは知っているかもしれない。その中には私が浅草に存在している像の写真を撮って、自著や本Webサイト上の他記事で意図をもって紹介したサカラこと沙羯羅竜王も含まれている)。
無論、八歳の龍女云々は法華経のみならずヤマタノオロチ ―安徳天皇に転じたとされる海底の蛇の眷属が自らをヤマタノオロチの縁者と表している― と[八]でつながる存在でもあるが、そういった関連性の話や法華経を包摂する「仏教自体が」竜・蛇絡みの不気味な隠喩を含んでいるといったことはとりあえず脇に置いておいて話を進める(ここで問題としているのは「中でも特に胡散臭き」法華経だからだ)。
さて、ここまでお読みになられて、いかがお思いになられただろうか。その点、『源平盛衰記』などに際立った特色が現れている話は
「[人間に宿る爬虫類的存在]が人の世に争いをもたらし歴史を操作していること(右はまさしくも古典『源平盛衰記』内に記載されている入水した安徳帝にまつわる説話の内容そのものである)を示しているようだ」
という式でも意味深いが(それはすなわち、欧米で現在、問題となっている爬虫類人人類支配説と容赦なく接合する話でもある)、何よりも[法華経というものの背後関係に妖しき者達]が控えていることを示唆しているようである ―ただしこの段階ではまだ[ようである]にとどまる話ではある― との式で実に意味深く、なおかつ、その一事だけでも現代に生きる我々と無縁ではないと述べられもするからだ。
何?どうして「現代に生きる我々と法華経の背後関係の話が無縁ではない」と言えるのか、だと?
その理由は
[日蓮に始まる法華経カルト](具体的には創価学会)が今日の日本のディストピア ―監獄社会― 化と密接に結びついている
とされることにある(:法華経カルトたる創価学会と監獄社会の関係につき意見を口にする人間は ―表層面だけに着目しているにすぎずとも― 「非常に」多い。私自身、被害者の話を証拠テープ込みで聞いたこともある ―[超陰謀論者由来のもの]と誤解を招きかねないような本記事でそのような常識的・現実的なる話をなすのも何ではあるが― )。
上とあわせて次のようなこともよく考えて欲しいものだ。
『仏教は人の命を貴ぶものと ―表向きにはだが― なっているはず。
であるのに、何故、
「源平の戦乱を煽って大勢の人間を殺し合わせたうえで草薙の剣 ―実は[人間の魂とも言うべき"本質"を縛るものの象徴]であるようだ、と本Webサイト上の他所で「視覚的根拠と共に」詳述しているもの― を奪い返してやった」
などと得意気に口にするような海底の大蛇の眷属達が[法華経の守護者]になっているのか』
と。
印象論とのきらい強きものであると筆者自身認めるところのここまでの話だけでは主張を支える根拠はまだ全くもって伝えきれていないと考えている。
であるからこそ強調するが、
「続く〔4〕の話(直下、余事としての付記部を挟んでの〔4〕の話)で"こと"の本質が全くもって人間業ではないとの[実証的なる話]をなすこととする」
〔4〕印象論が先行しすぎた付記部を挟んで話を続ける。
さて、今日の法華経カルト ―表向き、題目といったものに固執するカルト― の源流になったとされる日蓮。その日蓮には
[上にて既述の〔1〕-〔3〕を通して言及してきた異類の伝承]
との絡みで嫌な臭いがつきまとう。私は仏教をはじめ宗教などというものを信じたことすらない男だが(いわんや、近現代発祥の新興カルトなどとなると[人間の全生活を縛る偽りの名目]としてしか見ていない男だが)、そういった身を押して日蓮の伝承を紐解いてみると異類絡みの実に嫌な臭いがすると気付かされたのだ。
それは次の如き話に関することである。
「日蓮には法華経原理主義に業を煮やしたという鎌倉幕府に処刑されそうになった際(処刑が出来レースの中断ショーであったかどうかはこの際、問題にならない)、空に現れた[光る毬のようなもの](いわゆる未確認飛行物体というやつか)に救われたという有名な伝説が残っている」
上はいわゆる
[龍ノ口の法難]
についての話だが(日蓮の信徒らが尊ぶ『種種御振舞御書』の記載に見る開祖の難行についての話だが)、その龍ノ口の法難の話、次に挙げるような点A-Dから"人外"との要素が純・記号論的に伴う極めて胡散臭い話でもあるのである (:「人外とやらをどうのこうの云々する方が胡散臭い」という常識論はこの際、度外視する。その式での証左には本Webサイト上の他所で嫌というほどに触れているし、本記事それ自体でも「人外の話は馬鹿げてはいない」と良識人にもお分かりいただけるだけのことを[根拠主導方式]にて詳述していくからだ) 。
A.日蓮が処刑されようとした場、それは龍ノ口だが(そういった経緯から神奈川県の龍口という地は日蓮宗 ―要するに創価学会の母体― の本山の一つとなっている)、 まずもって、
[竜の口]
ということで ―蛇の類⇔爬虫類の類⇔竜の類とのことで(東洋にあっての竜は古代ギリシャのそれと同様、巨大な蛇的ニュアンスが強い存在であった)―
[法華経の後ろに控える存在と諸文献が語る存在の特徴]
のことを想起させる ―が、この段階ではいまだ印象論を出ていない― (尚、上の〔3〕にて言及した『源平盛衰記』・『平家物語』にも登場する[竜宮の主たる大蛇]の話を竜つながりで想起させる。その点、日蓮の処刑が行われ"そうになった"のは『平家物語』の"原型"の成立 ―公式には1240年以前― の"後"であるとされるので、『平家物語』収録の[竜宮の蛇に変身する連中、人間に宿って大乱をもたらしたなどと自称したりする連中の話]は日蓮の龍ノ口の法難からインスピレーションを受けて成立したものではない、と考えられるところである)。
B.直近のAに言うところの日蓮が処刑されようとしていた刑場があった場所、龍ノ口だが、
[神奈川県片瀬江ノ島]
に近接していた場所である。そして、その江ノ島とは、いいだろうか、
[北条時政が海から現れた大蛇の眷属に法華経普及をたたえられた場]
となっている。
そこから[すぐに裏取り・後追いができる古典に見る文献的事実]の問題として
[法華経原理主義の宗祖が時政の時代から半世紀から一世紀を経て処刑"されそうになった"場所として龍ノ口が用いられたというのは実によくできた"設定"と述べられる]
のである([爬虫類絡みの法華経オンパレード]だからだ)。
それにつき、誤解を避けるために以下のようなことも記しておく (日蓮の遺産を奉ずる輩が「宗祖を貶めるために伝承操作がなされているのだ」との反論を人形の口ですることを想定し、付記しておく) 。
「日蓮処刑時の奇跡の話 ―ヒカリモノこと光物が出現しその出現に武士達が処刑を取りやめたという話― の影響を受けて、日蓮没後、およそ一世紀後に成立した『太平記』に
[龍ノ口に近接した江ノ島での法華経普及礼賛の蛇女出現説話]
が組み込まれたかと言うとそうではないだろう。
それについては、まずもって[龍ノ口]という地名の起源が
[元来、その地で"生贄"を要求していた五頭竜の伝承がご当地の弁財天伝承と習合したところにある]
と押さえておく必要がある(:生贄という、まさにそれらしきことを要求していた悪竜が弁財天に惚れたのにふられたから改心したなどともされる)。
そして、そこにいう弁財天が ―初出の話をするも― 『太平記』で
[北条時政の法華経普及をたたえた大蛇に変身する女としばしば同一の存在]
とされていることを知れば、十分だ。
龍ノ口界隈の江ノ島にちなむ法華経布教を礼賛する蛇女に関する『太平記』上の説話は土着信仰と弁財天信仰の習合に由来する、とはとれるものの、日蓮の処刑予定地での日蓮衆絡みの奇跡から後付けでこさえられたものとはとれない
のである(:馬鹿者共は法華経カルトの祖を誉め殺すか貶めるためにそういう伝承が『太平記』に組み込まれたんだ、などと言いそうだが、そうではない)」
「さらに」の話として述べると、
「仮に直近、述べたような常識的見解が"完全に"正しくなくとも ―土着信仰の起源については不分明極まる話なので完全に正しくなくとも―、である。
『太平記』の法華経礼賛蛇女伝承は
[平安期から法華経を讃えていた蛇女の清姫絡みの伝承]
[『平家物語(剣の巻)』『源平盛衰記』に出てくる戦乱を起こして草薙の剣を回収した妖しき者達 ―蛇人間― の伝承]
[五頭龍伝承と結びついた弁財天の伝承]
をもとに複合的に形作られたと考えれば、ほぼ完全な妥当解に近づくようにとれる」
とした上で、繰り返すが、
「法華経礼賛の蛇女ゆかりの地となった場、それも[竜の口]の名を冠する場(龍ノ口)の近辺で法華経原理主義者が処刑されそうになっていたという話は奇怪である」([爬虫類人・レプティリアンによる人類支配]といった話に殊更にこだわらなくとも、[思惑]の下に調整されているようで奇怪である)。
C.今日に生きる、一見それらしき人間支配のお題目、
[法華経原理主義](無論、大半の人間はやらされつつも、そのような建前などどうでも良いと見ているだろうが、そのような建前が押し付けられている背景を論ずることには意味があるととらえている)
の芽を日本に植え付けた存在、日蓮。
その男が
[龍ノ口という場所で処刑されそうになったこと]
がいかにかぐわかしいかはAとBで述べたが、その男が
[処刑されそうになったその瞬間の話]
も実にかぐわかしい。
日蓮が幕府の処刑人に斬られそうになったときにやってきたと"される"のは既述のとおりの[光る毬のようなもの]であるが、その未確認飛行物体というやつが設定上、
[江ノ島の方向・辰巳の方向]
からやってきて日蓮を救ったとされる(※当然のことだが、日蓮の信徒らが尊ぶ『種種御振舞御書』の記載に拠る文献的事実の話となる)ことが実にできすぎているのだ。
現時、神奈川県の一部として有名な[江ノ島]は(『太平記』によると)北条時政に蛇女が三つ鱗を授けた場そのものだ(先述のとおり)。 辰巳方向というのは、―干支の話は誰でも知っていることだろうから前置きを抜きに話すが― 「竜と蛇の方向」を意味する。
何が言いたいのかはここまでの流れからお分かりだろう?
が、話はそれにとどまらない。
伝承にて日蓮を救ったとされる[光る毬のようなもの]だが、『太平記』にもいくつか同様のものに対する言及がある。
当サイトで公開している拙著でも操り人形らに馬鹿なこと ―白昼夢の類― で古典を作らせていたがゆえにだろう、として紹介していることだが、
[疫病と結びついていたとされる光物](ヒカリモノ。そういった物体が欧州のペスト禍の折にも頻繁に目撃されていたと「される」という記録、一見すれば、トンデモ話に"見えそう"な記録にも私の自著で紹介している)
[私の先祖とされる男、大森彦七盛長が持っていたとされる宝剣を奪い取ろうとした連中が見せた幻影の中の光る唐笠(カラカサ)状のもの]
にまつわる『太平記』の下りそうだ。
より具体的な話をすると(北条時政に三つ鱗紋様を伝えた蛇女も登場する)『太平記』には
[中空に光る唐笠状の幻 ―ビジュアル的には論証不可能なことばかりをこねくりまわす手合いの話柄となっている[ユーフォー]のようなものとなろうか― ]
を大森彦七盛長に見せた連中の代表的存在として[楠木正成(日本史上、極めて有名な部将)の怨霊]が登場してくる。
その怨霊と化した楠木正成が大森盛長 ―因果なことに私はその流れを汲むと聞く氏族(英語で言うところのクラン)としての大森氏の末でもある― をたばかろうと女に化けていたとされる折の格好が同じくもの『太平記』登場の怪物、北条時政に対する法華経流布礼賛者たる蛇女のそれと全く同じ格好、
[赤い袴に柳裏](換言すると、[赤い袴に表が白、裏が青の五枚重])
となっていたと古典(『太平記』)には記述されていもするのである。
上は
[極めて問題となる文献的事実に基づいた純・記号論上の話]
と接合しもする ―何卒、筆者を[事実に基づかない話をなし、真実の所在を曖昧模糊とせんとする愚劣な人間]と一味同仁に見ないようにしていただきたい― 。
どういうことか。
ここまでの流れにて鋭い向きにはお分かりいただけているのではと思いたいことでもあるのだが、
[法華経の伝道者たる日蓮の龍ノ口伝承に見る辰巳方向(時政が蛇女に三つ鱗を授けられた江ノ島の方向)からやってきた光りものの話]
と
[[太平記に見る北条時政と結びつく法華経礼賛の婦人から蛇に変じた蛇女] と [太平記に見る女に化けた楠木正成の怨霊](楠木正成の怨霊の類が唐笠状の光りものを見せたとシュールな古典『太平記』が語る) が全く同一の独特な格好をなしていたとの話]
は ―[光りもの][法華経礼賛][爬虫類がらみ]との記号論要素を介して― 密接に「結合」していると述べられる (:尚、『太平記』には[疫病の流行と光りものを結びつけて語るくだり]もある)
のである。
それにつき、『太平記』の中の [北条時政とミツウロコ紋様を残した赤い袴に柳裏の蛇女にまつわる下り] と [楠木正成を討ち死にさせた大森盛長に対して怨霊に変じた楠木正成が赤い袴に柳裏との格好で迫ったとの下り] などからして当然に[文献的事実]として確認いただけるようになっているのであるから、筆者を疑いたいとの向きは確認をなせばよい。
(:ちなみにメーソンから派生した[トゥーレ協会]という組織が[史実]としてナチスの母体となったとされるように、[史実]として創価学会の母体となったとされる戦前からの結社、構成員少なき[大日本皇道立教会] ―和文wikipediaからも確認いただけるように牧口常三郎と戸田城聖(創価学会設立の父とされる二名)は勿論、大陸で[強盗]と[麻薬売買]で財をなし戦後日本のフィクサーなどと呼ばれていたそちら系お人形である児玉誉士夫までもが加入していたとされる構成員少なき組織体― は (天皇というお人形の正当性を争うというある意味、衆人にはどうでもよい論議、南北朝正閏論にて) [南朝こそ正当である] といったことに「どういうわけか」固執していた組織体であったと伝わっている (この際、[平和主義]のカモフラージュとしての体裁を付しつつも天皇教に代わる狂信的統治サブユニット、後の日の創価学会構築のための大義名分に使うために操り人形らを使って相応の人間(空っぽの人形)であったと思しき牧口常三郎を[平和への殉教者]と仕立て上げるうえで獄中死させたというのが[とどのつまりの真実]であったかどうかはどうでもよい。また、天皇の血統との兼ね合いで南北朝系統がどうのこうの非本質的なことをうだうだと胡散臭くも ―ここでの話もそうだろうと思われている方も多かろうが― 論じている陰謀論者らの物言いやその真偽もこの際、どうでもよい)。 そして、大戦期、創価学会の母体として生み出された大日本皇道立教会が何故かこだわっていた南朝、その南朝の守護神として敬われているのが(日本史通にはよく知られたこととして)大森彦七盛長に討たれたと伝わる大楠公こと楠木正成であるとされる(繰り返すが、楠木正成は『太平記』にて北条時政の法華経礼賛の功徳を称えた蛇女がしていたのとそっくりな格好をしていた怨霊に変じた部将である)。 まさしくもの[奇縁]であろう。 だが、だからと言って、創価学会のような者たち ―最近では差別の問題を強くも顕在化させられつつ[宗教民族]化させられてしまっている者たち― の本当のところの存在意味を暴こうとのこの身、なおかつ、日本全国に数多いる楠木正成を討ち取った男を内包する大森氏に連なりもする人間たるこの身は伝承操作者らの薬籠中の者、[プログラム]などではない。断じてない。因果な戦争屋だったらしい遠き先祖の背景があって、人間社会を操作して悦に浸っている連中に法華経カルトと相対するような境涯にまんまと誘(いざな)われてしまった可能性もあるかと自身受け取りもすることはあるが([誇大妄想患者の訳の分からぬ戯言]であるととらえたければそうとらえていただいても構わない。私自身、考えすぎであると受け取りたくはある見立てでもある)、 私は唯、[自分一個の意志の奴隷]であって他の奴隷、何者かが引いたレールを走る奴隷になった覚えはない ―結果はどうあれ、自分の意志で抗った事実は残るだろうと考えて私はやっている― 。 閑話休題 )。
(※日蓮説話にも登場するヒカリモノが登場するような軍記物『太平記』。薬物でも摂取して書いたのか、といった具合の実にシュールでサイケデリックな描写を多々、含む軍記物『太平記』。その中の[大森彦七と宝剣]の話には
[『源平盛衰記』の中で完了形として描かれた法華経をたたえる海中の大蛇に変身する連中が草薙の剣を奪おうと一所懸命になっているさま]
と通底する要素が含まれている ―大森盛長は草薙の剣にも仮託されているともとれるような[宝剣](平家の平景清が壇ノ浦の海戦の折、壇ノ浦に落とした刀がイルカに呑まれて移動し漁師の網から回収されたなどとされる宝剣)を妖しき者達から守ろうとした、とある― 。
とした上で、誤解を避けるために言っておくが、この身、この私は一部の陰謀「論」者らがその介入と存在を鼓吹する、
(かぐわかしき出典に拠を求めている異説で登場してくるような)[爬虫類人やその血族]
でも何でもない ―キリスト教系の論客が[悪魔の血流支配論]といったものを広めだし、それが変遷のうえ、[爬虫類人の血族][神受された蛇の王統]云々といった異説の基盤として欧米で勢威を振るうようになった背景があるから右のような話を ―多くの人間に馬鹿馬鹿しくとられようと考えるところを― 敢えてなしている。その点、血族支配絡みの異説には[捏造出典とは一線を画す諸種伝承との接合性]から見るべき点も多いのだが、私はそも、この次元/我々が住まうこの時空間に爬虫類人といった呼び方をされる妖しき者達(のようなものが介入しておれば、高度テクノロジーを持った者らであろう)が"実体を伴って"出現出来るのか、ということに関してさえ"懐疑的"だ、と強調しておく (また、見るべき出典を差し置いて明らかなる虚偽で支えられてばかりいるデービッドアイク由来の異説を日本で広めている向き、大森彦七と語感近しき字句を ―私とは異なり本名を名乗っているとは思いがたいのだが― 用いたりしつつ広めている向きと私の間には何の関係もないとも強調しておく)―。
長くなったが、馬鹿げた比喩を人類史にまぶして[人の心魂を抜くが如きの処置]を宗教を介して施している連中がいる。それが文献からだけでも推し量れる。そう言いたい、ということである。につき、半信半疑の方や信じがたいとの方もおられようが、続く段での話をお読みいただきたい)
[疫病]や[宝剣 ―操作の象徴ともいうべき壇ノ浦に沈むことが運命だったなどとされる草薙の剣― を奪おうとする者達]や[この国を侵しきった現代カルト、これまた最低なものだった天皇教に取って代わったカルトの"表向きの根本教理"の芽を造った男]の話、それらすべてに光る浮遊物体がでてくるのは ―幻を見せる力学が操り人に働いているかどうかといったことは論じないとしても― この世界の本質を示しているようで腹立たしい限りだ。としつつ、次の段に移る。
D.日蓮には龍ノ口の法難の話以外にも[竜に変身する女]絡みの伝承がある(については後からとって付け加えられた伝承である可能性があるが、日蓮宗に詳しい向きには有名な伝承であるようだ)。
その内容はこうである。
「日蓮が説法をしていると美しき女人が現れた。その女人の存在感をいぶかった衆の気持ちを察した日蓮はその女人の正体に気づいたためか、女人にその正体を問うた。すると、女人は
[赤い竜]
に変身、「法華経を信奉する貴方達を保護します」と口にし、天に上がっていった。女が転じた赤い竜は
[七面山に住まう七面大明神]
だったのである」
上のような伝承の存在ゆえ、赤き竜に変身した女人は[七面大明神]として日蓮衆の守護神と崇めたてまつられている。
他ならぬ日蓮宗の歴史的狂質(自分たちのドグマを容れないものを見下しときに排斥するとの醜き狂質)を抽出、強化されて接ぎ木されている日蓮宗系セクトであるにも関わらず、創価学会の一部の人間が
「日蓮宗は龍・蛇を崇めている」
と鼓吹したりするとされるのにはそういった背景があるためのようだが(そうした創価学会の人間の批判が噴飯物なのはここまでの内容をよく読めばお分かりになるだろう)、ここで問題視すべきは、だ。
まずもって、[赤い竜]というのが『聖書』のサタンの象徴であり、かつてのケルト人の地ウェールズで尊崇視されている存在の似姿(ウェルシュ・ドラゴン)であり、中国は漢王朝の太祖、劉邦がその生まれ変わった元の姿 ―劉邦が建てた漢王朝は後に始祖の誕生前の母親の夢についてのとってつけたような伝承から[赤龍の王朝]などと呼称されるようになった― であるとされることだ。
要するに、[赤い竜]というのは操作者が操作対象の人間達に押しつけた特殊記号 ―人外自身の姿を体現しているともとれる― である可能性が如実にある。
(:古き蛇サタンは日蓮衆の七面山の赤い竜と結節する形態を聖書『黙示録』にてとる。すなわち、黙示録でのサタンの格好は[七つの頭を持つ赤い竜](たばかられた者たちを地獄に道連れにする多頭の赤い竜)であるとされている。といったことは伝承伝播ではおよそ説明がつかないことである ―後の図解部を参照のこと。ここに至るまでの『源平盛衰記』に見る海底の竜宮の八岐大蛇の眷属たる法華経礼賛者とも話が接合してしまうが、といったことはとりあえず置く― )。
[龍ノ口]絡みの補足ということで問題視すべきこととしては、さらに次のようなこともある。
「法華経普及を讃えた大蛇に比べ、えらくロマンチックな描写になっている(黙示録登場の宗教的選良以外を地獄に道連れにするとの[七つの面を持つ赤い竜]形態のサタンと七つの面、赤い竜との要素でつながることを脇に置けばえらくロマンチックな描写になっている)日蓮の前で赤い竜に変じた秀麗なる女人、[七面大明神]が同時に[弁財天]であり[吉祥天にして鬼子母神の子]であるなどとされているが、そこからして人間業ではないような設定の妙が見える」
上に見る[弁財天]は、そう、龍ノ口のすぐ近くの江ノ島で
[北条時政の法華経普及を礼賛した蛇女と習合している存在]
である(既述)ため、問題となる (:[七面大明神]の場合、[江ノ島由来の弁財天]ではなく、[厳島由来の弁財天]などと言われるが、江ノ島か厳島か程度の差異は「七面」の二字が名前につくレッド・ドラゴンに変身した存在に関しては無視してかまわないだろう ―尚、祭神として弁財天を奉じもする厳島神社は当記事で何度も言及している古典『源平盛衰記』で八岐大蛇に操作されて滅亡すべく滅亡させられたなどと描写される伊勢平氏の平清盛が社殿を造営させたものである― ) 。
加えて、七面山と結びつく赤い竜に変じた日蓮宗の崇拝対象、七面天女に付された
[吉祥天にして鬼子母神の子]
に関しては吉祥天の淵源がインドのラクシュミーという名の神格にあり、同ラクシュミーが[インドのナーガ・ラジャ(蛇人の王の意)の一で雷神とかぐわかしく結びつきもするタクシャカ]を父とし、[他人の子を喰らった後、改心した鬼子母神](インド名はハリティーという存在)を母としていることから問題となる。
[竜王を父親とする子]。そして、[他の子を喰らっていたも、"改心"した存在を母親とする子]。
それが日蓮衆と法華経を守護する赤い竜の化身であるという"設定"は日蓮が処刑されようとしていた[龍ノ口]の地名由来が[生贄を要求していた五頭竜] ―[牛頭竜]と書いてゴズリュウとしてもいい気がするが(創価学会が拠る八王子という地名が疫病の神、ゴズテンノウこと牛頭天王に由来するゆえ)― であること、そして、その五頭龍が"改心"したなどとされており、江ノ島の法華経普及をたたえた蛇女 ―弁財天とつながる存在― と不可分であることはあまりにも話ができすぎている、ととれるがゆえにである。
人間の力量で伝承から話を隠喩的に造り出したとは思えぬほどに
「結びつきが濃厚」
となっているのだ(そもそも各地の古代伝承の沿革を仔細に調べあげ、インドの異教神のプロフィールと接合させながら、地域と時代が離れた場に再現させることが人間業 ―中世紀の人間業― であると考える方がどうかしている)。
非常に長くなってしまったが、以上、述べてきたA-Dで
「法華経のみならず、法華経原理主義の祖、日蓮もまた、竜・蛇の爬虫類的比喩と非常に巧妙に接合するよう伝承が"調整"されている存在 ―人外との絡みでの調整がなされている存在― である」 ことをお分かりいただけたか、と思う。[伝承間の連結にあっての人の手の及ぶことではないとの出来すぎ具合]ゆえに ―[七面天女]と[黙示録の七つの面の赤い竜]の結びつきひとつからしてできすぎている(下にての図解部を参照のこと)― 人間業とは述べられない按配となっている、と。
(:ここにて私が述べたいのは「日蓮は神がかっていた」などということではない。日蓮などおそらく ―今のカルト教祖がそうであるように― [ただの肉人形]にすぎなかっただろう。かつて昭和天皇が日本人にとって[現人神]であった時期があるように、である。問題はそうした[肉人形]に仮現の力を与えるメカニズムがおよそ人間由来のものとは思えぬ領域に存在しているようにとれる、ということである ―ご存知だろうか。[神やイエス・キリストの"声"]を聞くとされるキリスト教徒(クェーカー教徒が"声"を聞くといった部類の代表例だろう)の話で溢れた欧米圏にあって[殊更に宇宙人のようなものを教義に取り込んでいるサイエントロジーという新興カルト宗教]があるのを。そのサイエントロジーのある教説に信者は[死した教祖ロン・ハバードの声]を聞けるようになる、というものがあるとされる(尚、ロン・ハバードはアヘン人脈に連なっていたフリーメーソンであるとされている;各々、[画像検索]などして確認いただければ分かろうが、実際にサイエントロジーのシンボル体系はメーソン系魔術結社([東方聖堂騎士団]という組織)と接合しており、サイエントロジーの教祖ロン・ハバードはアレイスター・クロウリーなどの悪名高いフリーメーソン出身者(メーソンらはクローリーとのつながりをネット上で否定したりもしているようだが明示される人脈より明らかである)と濃密なつながりを持っていたことが知られている類となる)。 ウチュウジン宗教の類(サイエントロジー)の教祖だっという[唾棄すべき下らない人間]でも死して[信者に"声"を聞かせられる神]となるとカルトの教義には書かれているのだ。理性ある大人が何故、そのような与太話を信じられる、あるいは、信じたフリをできるというのか考えられたことがあるだろうか。[属人的脳構造の問題]や[利権の問題]といった[常識人がそればかりに拘泥しがちなこと]を抜きにし述べれば、カルト成員が代弁者としての肉人形の声を聞き、ときに「宇宙と一体になる」などとだまされているのは(あるいは「知的で誠実なナチはいない」との式に接合するようにその内面の問題ある特質ゆえにだまされているフリをしているのは)すべて[中世の日蓮、上古からの天皇やそれに代わる肉人形]を内面の世界の主導者と看做さしめたとの同じ操作によってのことだろうと私は考えている。 「想像できぬような領域に設置された高度並列処理を可能とする管理用AI(人工知能)のごときものに抗わず家畜よろしく積極的に従う道を自ら[選択]してしまったロボット人間らが「結線」されて"声"を聞きつつ脳内物質分泌までコントロールされながら狂信に陥らされているからではないか」 などというサイエンス・フィクションがかったことは述べるつもりはないが(最悪の仮説である)、ふざけたことを大の大人らに押し付けるだけの相応の操作が介在していることはほぼ確実であると私は考えている― )
〔5〕枠外図解部を挟んだ上で話を続ける。
さて、ここに至るまでの〔1〕-〔4〕(〔4〕の中ではAからDとの箇条表記部が重きをなしていた)をきちんと読まれた向きには、だ。[北条の三つ鱗で象徴されるもの]が何故、問題なのか、よくお分かりになっただろう(「内容が込み入ったものになりすぎているがため、理解しづらくて飛ばし読みをした」などといった方には印刷して線を引きながらでも、あるいは、印刷してへのへのもじを書きながらでもいいので、〔1〕-〔4〕の内容をよく読んでみることをお勧めする ―真実を知りたき限りにおいてではあるが― )。
とした上で、ここ〔5〕では["全く"同様の話]が日本"国外"にも当てはまりうることに触れておく。それについては
[本記事冒頭に挙げた図像群のうち、左下に配したもの]
を見てみてほしい。親子が描かれている図がそうだが、それは欧州は中世の写本から抜粋したものである。勘の鋭い方には察しがついていようが、その中に描かれている後光が指した人物は[処女懐胎したとされる聖母マリア]であり、木材を削っているのは大工だったという設定のイエスの養父、ヨセフだ。子供は、そう、イエスである。そして、同図、次に述べるような点からかぐわかしい。
「床に書かれているのが西洋の象徴画としては非常に珍しい三つ鱗紋様である」
「非常に珍しくも三つ鱗が描かれている同図の中にあって幼児のイエスが手より出している帯が蛇を思わせるような形態をとっている」
もう言いたいことはわかっただろう。三つ鱗と蛇(を思わせる帯)が合せて登場するのはやはり日本と同様、爬虫類絡みの記号が好きなようである人外の象徴言語と考えられもする。そういうことである。
しかし、
「前提がおかしい。イエスが持っている帯は蛇のように"見える"ものであって蛇そのものと明言できない。それを蛇とみなして話を進めるお前はこじつけの徒だ」
と批判されたくなる向きも ―当然のこととして― あろうから、述べておくが、「そうした批判は妥当ではない」。イエスの持っている帯はおそらく、というより、ほぼ確実に[蛇の隠喩]ととれるからだ。これは暴言でも何でもなく、
「同様に帯を描いた中世写本はどれもこれも隠喩的に蛇と結びついている節がある」
ため、はきと言えることである(イエスの誕生を天使ガブリエルが聖母マリアに告げる写本の図。そこでは多く、帯が蛇に仮託されるような露骨な描かれ方をしており ―うち、極一例は下を参照のこと― 、それが最悪の操作の比喩として機能している節もあるのである)。
冒頭に挙げた四図中のうち一図にて蛇が救世主イエスと関わるように隠喩的に描かれていることについては写本図画制作者に[キリスト教が蛇によって仮託される存在によって広められていたとの説]、今日、欧米で物議を醸す説と同様の認識があったのか、"やらせ"だったのか、釈然としないが、とにかくも、である。キリスト教芸術作品に見る重力法則を無視した帯は多く蛇の体現物であるととれるようになっており、その中で三つ鱗と蛇の帯が併せて描かれていることに意味を見出すのは全くもって不自然な話ではない(:キリスト教が日本のカルトがそうであるように[心魂を抜き取るがごとくの処置]に利用されているという話、一見、ニューエイジャーじみて聞こえる話が真たりうる論拠についても本Webサイト上の諸所にて詳述しているので、そちらも参照してほしい)。換言すれば、欧州中世の写本に描かれる三つ鱗も蛇絡みの[人外の象徴言語]と ―洋の東西の構図が"リンク"しているように― 言えてしまうのである。
以上、述べてきた〔1〕-〔5〕が
「冒頭から述べてきたこと、[北条の三つ鱗で象徴されるもの]が[現代カルトの問題に接合]し、[人外の操作の隠喩とも接合]するものである」
と言うだけのおよその根拠である。根拠無視、頭からそれらを否定するのは易いだろうが(ただ、厳しくも言えば、そういうことをなさる方々が[真実]に到達する機会は永遠に来ないだろう)、本Webサイト閲覧者達には「勇気をもって現実に向き合ってほしい」。魂と呼ばれるような個人の本然を支える力が"総体的"に抜け落ちたように精彩を欠いたものになってしまったこの世界、先にあるのは破滅的事態ではないか、と考えているからこそ、そのように言うのだ(:破滅的事態到来の可能性は[最悪のおトモダチ関係に陥った者達による人災現出]とワンセットになっているととれる。については[問題意識の所在]と題した本Webサイト上の部分で ―「生き死にに関わることであるから」と― 膨大な文字数を割き、[2つの塔を崩した者達]/[テロの問題をイスラムの"役者"などをも用いてでっち上げた連中]の挙動について扱っている)。
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