歴史。伝承。神話。人類の歩んできた足跡上に存在するエニグマ(謎) |
蛇の神から人の神への変質 ―神話を分析することで浮上する奇怪性―冒頭よりのお断り:本記事は ―本サイト全体にあてはまることでもあるのだが― [非常に細々としたもの]となっており、たた単純に斜め読みするだけで内容を押さえきれるものではない。そこで 最初に下の図を見ていただきたい。 [上掲の左]は当方自著にても挙げた古代ギリシャのものと"される"バチカン所蔵の遺物で ・アテナが巨大な蛇とともに描かれているのが上の遺物だが、全く異なる文脈でアテナが蛇を伴っている彫像が多数、存在している。ローマ時代の神、ミネルヴァへとアテナが名を変えた後も同様の構図が彫像に頻繁に現れていた(下に挙げた遺物を参照のこと)。そういった背景がある関係上、上のイアソン伝説にまつわると"される"遺物は蛇神としてのアテナの側面を色濃く反映したものであるともとれる。 ローマ時代のものとされる彫刻( Athena Giustiniani と呼ばれる彫刻)。アテナ=ミネルヴァの脇に「ローマ時代に至ってなお」蛇が彫られている ・本記事冒頭から挙げている図では遺物の[アテナの胸当ての顔が描かれている部位]を青円で囲み拡大している。その拡大部位、[アテナの胸当て](:鏡のような反射性向を持っているとされるアイギスあるいはイージス。時に[胸当て]ではなく[楯]ともされる防具)にはめ込まれているのは[メデューサの首]である。有名な蛇の髪を持ち見たものを石化させるというメデューサの首である。同[メデューサの首]については欧州で美術作品のモチーフとして使われているものなのだが(:理解を促すために図にそうした美術作品の一つを当記事冒頭部図像群のうち、[右上]に挙げておいた。アントニー・オーガスタス・サンズという芸術家の手による作となる)、その首がアテナの胸当てにはめ込まれていること自体が ・上の点にてアテナの[メデューサを介した蛇神起源]については述べたが、それは決してこじつけではない。そのことを示すために冒頭記載の図の一部を拡大表示した(分かりやすくするため、モノクロ版の拡大表示にもした)。それにより、[アテナの衣から蛇の首が多数、生えていること]がお分かりいただけることだろう。そして、そういった[アテナの衣の一部が蛇のようになった図式化]は上の図に限られない。限られない上に、他例の中にはより露骨にアテナ本体と蛇が融合しているさまを現わしているものも存在している。それがため、アテナの蛇神起源は視覚的かつ合理的に推察できるものであると言える。 どうだろうか。「アテナは当初、蛇の神だった」と推論することが極めて理に適っている、とお分かりいただけたのではないだろうか(:アテナの起源については「リビアからの渡来した神、ワニに授乳したりするもそれ自体は爬虫類的側面が薄いエジプト起源のネイト神ではないか」と正統派が強調していることもあって[推論の話]と控え目に言ってはいる。だが、内心では100のうち99の比率でアテナは蛇の神だったろうと思っている。都市国家アテナの王、アテナ神の息子とされるエリクトニオスのために建立されたとされる神殿 ―エレクテイオン― で[ハチミツのケーキ]を餌に蛇が飼われていたとされることもそのためであろうなどと考えつつだ)。 話はアテナ神にとどまらない。そのようなことをこの国でまじめにとりあげるのは私ぐらいのものだが(欧米圏にあってはデービッド・アイクという男が[当然の前提]として取り上げている。専ら素っ頓狂なことばかりを述べるのに注力している日本の「専門の」組織的詐狂者達に担がれている節ある人物、であっても、(それなりの理由あってだろう)物議を醸しているデービッド・アイクという人物が[当然の前提]として取り上げている)、「アテナを含むギリシャ神話の主要神オリンポス12神がすべてか、大部分が往古にあっては蛇の神であった可能性もある」。とした上で、下の図像群をご覧いただきたい。 まず、図像群の左側だが、ギリシャ時代の壺絵とされている美術作品で、赤ん坊のヘラクレスを殺すために蛇を差し向けたオリンポス12神の一柱、[ヘラ(主神ゼウスの妻)]が描かれたものとなっている。さて、同遺物の拡大部を見ていただきたい。アテナの衣と同様、ヘラの衣から蛇が多数、生えていることをお分かりいただけるだろう。何故、そのようになっているのか。ヘラもまた、蛇の神だったからではないか(あるいはヘラクレスを蛇で殺そうとしたように爬虫類と結びつく神だったからではないか)。そのように私は見ている。ここでギリシャ神話に興味がある向きはこう言うかもしれない。 ・ギリシャ神話主要神、オリンポス12神共通の祖先となっている大地母神、ガイア。彼女は多くの[蛇と結びついた怪物]を生み出した。それら蛇の怪物達はオリンポス12神の宿敵でもあるわけだが、言葉を換えれば、12神の親戚でもある(:そういった親戚の代表例はティポーンやギガンティスといった存在だ。うち、ギガンティスについては別途、当サイト上にて詳述しているように[我々、人類の今後に関わる予定の問題]の命名規則に用いられていかねない存在である)。そのような神話的系譜から12神もまた蛇の血を継いでおり、往古、蛇の神だったととれる余地がある(:神話上の系譜問題に血縁間の類似性の話を持ち出すこと程、ナンセンスなことはないと思われようが、ここで問題としているのはそういったことではなく、蛇の神(あるいは蛇の崇拝対象物)から人の格好をした神への変遷過程である)。 ・今日の欧州文明の起源とされるギリシャ文明。その最古の部類に属するとの設定になっているのがミノア文明(クレタ文明)だ。紀元前3000年以前より存在していたなどとも"されている"その文明の時点で地中海世界は蛇崇拝と結びついていた。両手に蛇を掴んだ女神像などがクレタ島のミノア文明遺構から出土しているがために言えることとしてだ。その点、ミノア文明は蹂躙され暴力の中で滅したとされるが、古代エジプト文明が蛇のモチーフを多用していたように蛇と密接に関わる同文明の蛇崇拝が後のギリシャ文明にもあてはまっていると考えることは行きすぎではない(ただし、「クレタから蛇崇拝が地中海世界に受け継がれた」とは言わない。通説となっている起源論自体が虚偽かもしれないからだ)。 ヘラの話から始まったオリンポス12神の蛇神起源論、独自の蛇神起源論をさらに推し進めよう。上に挙げた図の右側をご覧いただきたい。同画、画家ギュスターブ・モローの絵だが、"蛇"と"太陽を背にした人物"が視認できると思う。それは 〔1〕アポローンはデルフォイの神託所の管轄者となった存在だが、それは前任者、ガイアの子に当たる大蛇の化け物[ピュトーン]を打ち倒した結果による(そこにいう[ピュトーン]は極めて重要な存在だ。キリスト教の望ましからざる礼賛者として聖書に登場するだけではなく、この世界の行く末に関わるプログラムの比喩としてフリーメーソンの犬に使われているシンボルだからだ:本Webサイト他所にて詳述)。そのアポロン、ピュトーンと実は同一の存在であった可能性がある。まずもって、アポロンの姿が蛇とともに"明示的"にも"隠喩的"にも描かれていたからだ(隠喩的なケースについては本Webサイトにても紹介している:[問題意識の所在]と題したカテゴリの中の[問題意識の所在-15-]という頁にて)。 〔2〕アポローンは太陽神ヘリオスと時に同一視される存在である。そして、アポローン=ヘリオスの息子は父に代わって太陽の戦車を駆ろうとして失敗したパエトーンだ。そのパエトーンのアルファベット表記はPhaëtōn(ギリシャ語のスペルは「輝く」の意となっているΦαέθων)。に対し、アポローンに討たれたガイアの子、大蛇ピュトーンのスペルはPython(ギリシャ語アルファベット表記はПύθων)となっている。両者の語感 ―要するに響き― は非常に似たものとなっているわけだ(調べたところ、パエトーンのギリシャ語頭文字、ファイことΦもピュトーンのギリシャ語頭文字、パイことПも古代の名称は「ピ」だった)。すなわち、太陽神がなり代わった大蛇も太陽神になり代わることに失敗した存在も同一の言葉から派生したものである可能性がある(いや、派生したというより同一のものになるよう操作・調整されているだけかもしれないが)。 〔3〕聖書の『黙示録』に登場するアバドンという名の存在は語彙の近似性より、 いかがであろうか。上の〔1〕から〔3〕を読まれれば、ギュスターブ・モローの描いたパエトーン絡みの絵画に蛇が描かれていること一つとってもアポローンが原初、蛇の神だった可能性、[ピュトーン=パエトーン]という共通項を介して人の神に変質した蛇の神だった可能性が濃厚にあることをお分かりいただけたのではないだろうか(パエトーンと蛇を絵に一緒に描いた画家の脳裏にはアポロンが実は蛇の神だったのでは、との疑問があったことかと思う)。 オリンポス12神と蛇の起源論の話はここまでとしよう(※論ずる神を選り好みしたが、その選り好みも意図をもってなした。ヘラは[ヘラクレス]を殺そうとした神であり、アポロンは神託によって[ヘラクレス]に12の冒険をなさしめた存在だから敢えて両者を挙げたのである。につき、[ヘラクレス]も[ヘラクレスの12の冒険]も本Webサイト上の他所にて述べているように、[2001年9月11日の事件の背後に存在するプログラムの記号名]として用いられているものであるがため、ヘラとアポロンの沿革は今日に生きる我々とも無縁ではない、と言える)。 次いで、古代中東由来の[一神教の神]の起源論に話を移す。それはエホバ(あるいはヤハウェ)などとも呼ばれる唯一神にまつわる話だ。同唯一神、ユダヤ教の神にして、キリスト教の神、そして、イスラム教の神であるが、実は[蛇の神]がその起源であるともされる。されるも、その[蛇の神]としての側面に言及する前に、である。今日に至るまでの宗教対立、人形達を用いた下らぬ殺し合いの元凶となっている[啓典の民、ユダヤ人(最も"やらされている"者達だろう)の神]、唯一神としての存立基盤を確立するに至ったその神が「聖書の字面の次元で残虐非道の存在であると言えてしまう」ことから話し始めよう。 さて、まとめて旧約聖書とされる一群の教典(ユダヤ教とキリスト教、双方の教典)の中では、だ。唯一神は次のような趣旨のことをやっている。 「自身の最愛の子を生贄として捧げよと要求」(創世記22章2節の言葉。ただし、この下りはユダヤ教徒/キリスト教徒/イスラム教徒共通の先祖となっているとされるアブラハムの神への忠誠度を確かめるために要求した途中解除命令という設定になっている)。 「イスラエルの民を拘束したエジプトの初産の子供を一人残らず殺すと前言し、実行」(出エジプト記12章29節に登場する神の振舞い。そういうことを聞いて育った連中がどうなるかは想像に難くない)。 「奴隷を棒で殴って虐待しても一両日中に死ななければ、自己の財産に関わることとして何ら問題はないと規定」(出エジプト記21章20節にて契約がなされた後、神よりモーセに提示された律法。旧約聖書は古代の行為規範ともされるわけだが、大した規範ではある)。 「寄食者の二代目以降の親族は奴隷として永代所持してよいと規定」(レビ記25章45節。ただし、出エジプト時の連れ達は無意味に売買できないと留保条件あり。その留保の理由は ―お笑いなことに― 神の奴隷を人が使うのは妥当ではないから、と聖書上に明記されている:要するに、"神"は教徒を奴隷と明言しているわけである)。 「預言者エリシャをはげ頭と愚弄した子供たちが神の意志の執行者たる二頭のクマにより虐殺」(列王記下2章23節。冗談かと思われようが、42人の子供が引き裂かれたと明記されている。それが聖書というやつだ。はげ頭云々はこの際、どうでもよいのだが)。 「敵に攻撃され、親が子の肉を食らい、あるいは、互いに食いあう状態にまでしてやると宣言」(エレミヤ書19章9節。神を信仰せず、バアルという異教神 ―実際には奴隷への他の押し付け存在だろう― を崇めるに至った民を罰すると述べた中で。神は信仰を伴わぬ連中は攻城戦の中で飢餓で殺し合わせてやる、とたからかに宣言しているわけだ。信仰か死か。含蓄のある言葉だと思っていたのだが実は糞みたいな戯言だったわけである)。 「諸国の民を結集させエルサレムを攻めさせ、略奪と婦女子のレイプ、そして、それにつづく奴隷化をもたらしてやると宣言」(ゼカリヤ書14章2節。神の裁きとして右の如き状態を現出させてやると宣言。ここまでくると、よくもまあ、そのような言葉が聖典に具体的に書かれているものだ、と感心させられる。多分、強奪・レイプ・虐殺をもたらしたという十字軍はその式でまじめな信徒だったのだろう)。 以上は旧約聖書に認められる神(ユダヤ教に重きを置けば、ヤハウェ、アドナイ、エロヒムといった名で呼称)の振舞いだが、「新約聖書の方はまともだ」などとは口が裂けても言えない。 「召使い達よ。善良で寛大な主人のみならず無慈悲な主人にも誠心誠意、仕えよ。不当な苦しみを受けても、神の望みゆえの事態と見て苦痛に耐える。それこそが御心のまま、善をなして敢えて打ち叩かれ、これを耐え忍ぶことが神の御心にかなうことなのだ。キリストはその模範を残されたのである」(ペトロの手紙2章18節から21節。神の言葉ではないが、ユダヤ教の改良版、キリスト教の本質を衝く使徒ペトロ絡みの言葉だ。この言葉を聖書のパラパラ読みで目にし、私は思った。『きっとそうだ。今日、ペトロが初代ローマ教皇として始祖となっているとされるローマ・カトリック。そのカトリックのアメリカ在住神父のうち、実に4%が児童虐待の嫌疑をかけられており(日本語版Wikipedia"にすら"書いてあることだ。CNNの記事を典拠に)、カトリックが一定期間"だけで"日本円にして数1000億円単位の[神父による児童虐待絡みの補償金]負担を負っているのも、不当なことに耐え忍ぶことこそ神の御心に適うという思想を聖職者が信徒達に分からせようとしているためだろう』と。:無論、右は悪魔の如き神に仕える屑みたいな聖職者に対する当てつけだ)。 脇道に逸れすぎたが、以上で世界人口の半分前後が崇めたてまつる宗教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)共通の神がどういった存在なのか、その神によって押しつけられたものが何なのか、大体のところはお分かりいただけただろう。とした上で一神教の唯一神が[蛇の神]だったらしいというここでの本題に話を戻す。 ・往古、この世は悪しき存在が支配する悪の宇宙だ、などとしていたグノーシス主義の一派にヤハウェを[蛇絡みの悪の造物主]とみなす一派があった。要するに、ヤハウェを蛇とみなす風潮は太古からあったことになり、それがため、ヤハウェの起源論を蛇と結びつける見解がより説得力を帯びたものになる(ただし、グノーシス主義は見るべきところも多いものだが ―悪の宇宙からの解放を説く部分は私の想いと共通している―、「フリーメーソンの秘教思想になっている」/「ヤハウェを蛇の神と忌み嫌いつつも、それ自体が蛇崇拝を包摂している側面がある」といったことがあるため、あまり褒められた思想体系ではないのだが)。 ・本Webサイトで公開することにした自著でも載せていることだが、キリスト教の芸術作品には隠喩的に蛇が描かれていることが多い(:マリアが受胎告知されている中世写本が揃いも揃って蛇の隠喩的図像を含んでいるといったことがある)。キリスト教が"強制されたもの"であることに私自身、異論はないが、「中世より蛇がキリスト教美術作品群に、それも受胎告知場面にまつわる作品群に隠喩的に描かれている背景にはキリスト教を"強制した"存在が蛇のような連中であるとの認識がキリスト者の間にあったからだ」と"推察"出来もする(そうではなくて"やらせ"であってもまた問題だ)。 ・キリスト教の元となったユダヤ教が[アダムとイブの失楽園]をもたらしたのがエデンの園に住まう蛇だったとしていることも多くのことを物語る(何故、蛇なのか?という観点上)。同じくユダヤ教に伝わるアベルとカインの兄弟の話で弟を殺し、原初の殺人者となったとされる兄カインが「(その)エデンの蛇とイブの息子だった」とされること([サーペンド・シード理論]あるいは[蛇の落胤]理論。自著にて紹介。日本では全く知られておらず、欧米でも今日に至るまでほとんど一般に知られることがなかった異端思想)とあわせて、だ。そこには上述のアテナのメデューサ退治あるいはアポロンのピュトーン退治と同様、蛇=サタンを敵に転換し、主神の蛇神を人間の神に変えてしまう営みがあった可能性が示唆されている。 上に挙げた各点をも考慮に入れれば、地球上の唯一神信仰の主催神が蛇の神だった可能性が相当、高くなるとお分かりいただけたはずだ(私としては大宗教の唯一神、わがままで残酷な神が蛇の神だったことは『ほぼ確実だ』と見ているが、持説の押し付けはしたくはなく、ために、「可能性が相当、高くなる」といった言葉を用いた)。 唯一神の話はここまでとして、次いで日本の話に入ろう。 日本神話の主神たる女神アマテラスオオカミこと天照大神にも「原初、蛇の姿をした男神であった」という見解がある(そういった説に控え目に触れている和書もある。『アマテラスの誕生』という書物がそうだ)。個人的にはそれも大いに疑わしい、というより、多分、そうなのだろう、と考えている。以下の理由からである。 ・アマテラスの兄弟には[ヒルコ]という神がいる(同ヒルコ、生まれついての不具の存在であったため、国産みをなしたイザナギ・イザナミに捨てられたとも)。漢字表記は蛭子あるいは水蛭子。そのヒルコを通じ、アマテラスの起源を考えられもする(日本神話の専門家にはそういったアプローチをする者もいるという)。ヒルコは[日の子]を意味し、太陽神たるアマテラスとつながりうるという形で。実際、アマテラスオオカミの別名はオオ"ヒル"メノムチノカミだ。[ヒル]でつながる。そして、アマテラスと何らかのつながりがあるともされるヒルコ、直近既述のように蛭子と書く。蛭ことヒルは吸血動物、ミミズなどの類の環形動物だが(蛙ことカエルと漢字を間違いないように)、その姿は容易に蛇を想起させるものとなっている。 ・神道にて信仰されていた神には蛇神由来のものも多い。アマテラスに限らず。オオモノヌシ(それ自体が蛇神だったとされることがあるオオクニヌシの御魂ミタマであるともされる神格)がその典型だ。アマテラスも原初、そういった類であった可能性が高い。 ・日本の俗界と神域を分かつ境界領域を分かつアイコン(象徴)、注連縄ことシメナワ。注連縄があのような形をしていることについては[交接する蛇]に由来があるとされる(同様の話として我々が正月に飾る鏡餅も[とぐろを巻く蛇の餅]とされることもある。蛇の古語を意味する語がカガで鏡餅は[カガの餅]になってしまうからだ)。そのような注連縄を神性視する神道上の主要神だからこそ、アマテラスオオカミが蛇の神だったと考えることは合理的である。 ・アマテラスは皇室の祖神とされるが、その皇室に見るような日本の権威は原初より蛇の権威に頼っていた節がある(実はそういった蛇の権威に頼る風潮は皇室に限らず武家政権にも当てはまり、それを示す中世文献もあるのだが、に関しては、本Web上の他の記事、[三つ鱗紋様に込められた意味]といった記事にて詳述している)。それをよく示すのが和書の『蛇(講談社学術文庫刊)』だ。同著には神の依り代(ヨリシロ)・巫(カンナギ)たる巫女が蛇との絡みで実にえげつないことをやらされていたことが詳しく書かれている。巫女は蛇巫(ヘビフ)として蛇と交わることすらやらされていたというのだ。その巫女を権威に用いていてたともいう王権。そこから生まれた皇室。その祖神が蛇神だと言ってしまって何の問題があるだろうか(「皇室を貶めるとは何事だ」なぞとぬかす輩がいたら、だ。一言、言おう。「愛国心は悪党の最後の砦だな」と。国のために闘って一族から多数の死者を出したわけでもない連中。理念上、国が何のためにあるか ―本来の答えは税を納めて国を支えている邦人の尊厳維持のためだ― も分からぬ人形は不敬云々、問題がある言葉だ、などとぬかすだろうが、まさしく、上に挙げた英国詩人の言葉どおり[天皇と結びついた愛国心称揚]が悪党の専売特許になるようにこの世界は出来ている(割を食うのはいつも騙され人ばかりだ。その点、賢い人間とて天皇の存在意義を[天皇機関説]に求め、[社稷を、家族を、列強よりの侵略から守ること]に求め、騙されていた時代もあった ―が、今の右翼は左翼と同様、すべて[やらせの役者]だ― )。また、さらに言ってしまえば、「菊のタブーも鶴のタブーも菱のタブーも出所は一だ」とも言える(;それら各タブーについてご存じない方はその意味を調べればいい。下らないことにわざわざ筆を割きたくはない)。それなりの数の人間には身に染みて分かることだろうが、それらタブーの[本質]に"人間レベルの差別"の問題は介在していない。「外面的には」「はっきりと」介在しているように見えても、それは仮現の、偽物の力をしばし与えられた人形達を使って、そう見えるようにわざと"調整"しているだけだ。まだ夢を見ている人間がいるのだから(私はそうした向きを想定してここでの話をなしている)、そして、最後まで夢 ―タナトス(死)とワンセットのヒュプノス(眠り)の中の夢だが― から「完全に」醒める途を力ある者たちに選ばせたくはないのだから。 以上、各点を目にし、いかがお思いだろうか。私はアマテラスが「オ"ヒル"マン公爵(覆面作家の手による有名小説に出てくるキャラクターの名)なる未来からやってきた存在だ」とか「宇宙人だったよ」などと馬鹿なことを口にしているのではない(右は無条件に言えば、馬鹿なことになる、ということだ)。ただ単純に「アマテラスが蛇起源の神だったと合理的に推察できる」と言っているだけだ。 さて、ここに至るまでアテナ神(とオリンポスの他の神々)、一神教の唯一神、日本のアマテラスがそれぞれ蛇にまつわる神であると合理的に推察されると述べてきた。そのことに絡み[実に奇怪な関係性]が存在する。それを指し示すために、挙げたのが、下の表だ。 表中の「-10」から「6」までの数字は世紀を示す。「-10」は紀元前10世紀。"西暦"([キリスト誕生の年]とされる年以後の年代)と"紀元前"の境をなす「0」の部に区切りの線を入れた上で「4」は4世紀を意味する。とした上で、表中のAはアテナ神。Bは唯一神、ヤハウェ。Cはアマテラスを指すとする。それら神を示すA・B・Cには尾がついているが、それはそれらの神々に蛇神としての側面が色濃くあったと"推察できる"期間を指し示す。 「記号Aことアテナ神は紀元前8世紀以前、蛇神としての側面を明示的に有していたと合理的に推察できる。記号Bことヤハウェは紀元前7世紀以前は蛇神としての側面を色濃く有していたと合理的に推察できる。記号Cことアマテラスは5世紀中葉以前、蛇神としての側面を色濃く有していた存在だったと推察できる」。 ここで上のような話から見える奇怪さの話に入る前に、そも、どのように上のような基準を設けたか(神々の蛇神時代の線引きの基準を設けたか)、解説しておこう。 アテナ神については紀元前8世紀以前、蛇神だったと推察できるとしたが、それは次のような理由に拠る。 アテナの蛇神時代(触れられたくはない不良娘時代とでも言っておこうか)は上の如しだが、ヤハウェについてはそれを紀元前7世紀以前に設定した。理由は次のようなものだ。 アマテラスについてだ。彼女の考えられる蛇神時代を5世紀中葉以前としたのは次のような判断による。 以上、A/B/Cの蛇神時代の一つの考えられる区分を目にし、どう思われただろうか。その点につき、私見を述べれば、だ。「奇怪極まりない」。何故、蛇神から人間的なる神へのシフトが1000年以上の時を挟んで別の地域で同様に生じるのか、という観点上。(AとBの間には100年以上の離隔しかない。が、BとCの間には1000年以上の離隔がある)。 「蛇の神から人の神へのシフトは農耕民族"など"(ユダヤ教の担い手は遊牧民族的色彩を強く帯び、ギリシャ文明の担い手は海洋民族的な色彩を強く帯びていたことはこの際、置いておこう)の信仰体系の変質としては極自然なものである。蛇が脊椎動物では唯一、脱皮する生き物であり、その皮を残すことから季節ごとの死と再生を体現した存在、作物の再生産や豊穣を象徴する存在となったのだ。だが、他面、人間が自然を知るごとにその神秘性は薄れる。だから、文明が発展していく過程で蛇から人の神への変質が時を挟んで、地域を挟んで生じることは何ら不自然なことではない」。 しかし、上のような観念論 ―多く学者が勝手に太古の人間の心中を勝手におもんぱかってこさえたフロイト心理学並みに根拠薄弱なもの― は正統派の嘘を際立たせる以上の意味を有さない。 以上、述べてきたことから、主として考えられる可能性は二つに集約されると見る(この際、アテナもヤハウェもアマテラスも蛇神とは無縁だったという見解は度外視して、だ)。 ・正統派の唱える[人間の歴史]はすべて大嘘である(私の著作でもその伝での主張をなしているロシア人学者らの見るべき説を多くとりあげている。完全にそういった見解を容れはしていないが)。 ・人間の歴史は人の手から離れたところから操作されていた(私の見解ではこちらが真実だろう、ということになる。そして、それは呪いと言っていい程にひどき操作の話となる)。 両方の可能性を容れる/どちらか片方の可能性を容れる/両方の可能性とも容れず、正統派の見解を信じ続ける。 |
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