歴史。伝承。神話。人類の歩んできた足跡上に存在するエニグマ(謎)

 
 

金剛杵という名の仏具にまつわる隠喩 ―人ならざる者達による雷神と蛇の象徴使用―

 ここでは[金剛杵(コンゴウショ)]と呼ばれる仏具に関する隠喩の問題に触れる。一見、地味な話だが、この世界の操作メカニズムに通底しかねないような話だからだ(仏具に操作メカニズムなどと述べるとカルト宗教の構成員の話柄のように聞こえてしまうだろうが、私は新興宗教、のみならず宗教自体が嫌いな人間であるとも最初に断わっておく)。

 さて、最初に下の図に目を通していただきたい。

 上の図の左上はゼウス神像、17世紀にイズミル地方 ―トルコ領― にて発掘されたと"される"ルーブル美術館展示のゼウス神像である。右上は日本国宝の仏像、執金剛神(シュウコンゴウシン)の像で8世紀の作だ。次いで、左下の図だが、北欧神話の主神オーディンを描いた18世紀ごろの写本からの抜粋である(写本は18世紀と新しいように見えるが、古めかしさを醸し出しているのは写本との性質から当然ともいえる)。右下の図はここで問題視している金剛杵のうち、三叉状の形態をとるもの、三鈷杵(サンコショ)と呼ばれるものだ。

 と、抜粋図の大まかな概要を説明した上で以下のような流れで論を進めることとする。

A「上記各抜粋図間にて"表向き"どういう関係が成立しているのか解説する(常識論に基づいた解説をなす)」
B「Aを含んだ上でどのような隠喩が含まれているのか詳述する(常識論の外からの詳述をなす)」

 まずはAの点からだ。それについては上図の青い円で囲った部位より一目瞭然のことだが、左上の図(ゼウス神の図)と右上の図(執金剛神)の間に明らかな形態的類似性が垣間見れる。また、左下の図(オーディンの写本上での姿)と右下の図(三鈷杵の模式図)の間にも形態的類似性が垣間見れる
 何故、上の如き形態的類似性が生じうるのか。その点、ゼウス神と執金剛神の相似性の関係については[常識論]の世界から容易に説明をなすことも可能だ。すなわち、i「現代、我々が目にしている仏像はインド揺籃のガンダーラ美術の影響を多く受けている。そして、そのガンダーラ美術、インドに入ってきたギリシャ人たちの影響を受けて成ったものであり、それがために仏像とギリシャ神話の彫像が酷似している」、ii「ゼウス神は元より雷神。仏像が持つ金剛杵もインドの雷神インドラの影響を受けていると考えられる ―解説が遅くなったが、金剛杵のそもそもの由来はインドラが手に持つ雷の武器、ヴァジュラであるとされており、金剛杵の別称はそのヴァジュラとなっている―」のiiiの理由からゼウス神と執金剛神の形態的類似性に対する説明をなすことが出来る(ただし、である。「執金剛神はインドラではなくヘラクレスをモデルにしているとされる」こともあるにはある)。
 に対して、オーディンが手に持つ槍(グングニルなどと呼ばれるたりするものだが、ここでは名称はあまり意をなさない)と金剛杵の一形態、三鈷杵(サンコショ)が酷似していることは常識論では中々、説明できない。無理に説明を講じるとこうなるだろう。「オーディンが三つ叉の矛を持った姿で図像化されているのはギリシャ神話の海洋神、ポセイドンに対する欧州人の解釈の影響を受けている。すなわち、すでにキリスト教のみが正当となっていた欧州圏にてアイスランドの潰えたと"される"異教神の姿を再構築するにあたってギリシャ神話のポセイドンの象徴としての三つ叉の矛がオーディンの槍の形状に仮託された。その姿が"たまたま"、あるいは、ガンダーラ美術(既述のギリシャ文化と無縁ではない美術様式)の影響を受けた仏具の沿革のために、金剛杵の一形態、三鈷杵と似るに至った」。

 が、上のような教科書通りの解答(というより教科書を造る連中の回答)は、そう、はっきり言ってしまえば、仮現の権威を与えられたファウスト博士達、それ専門のことを言うために"飼われている"者達の戯言(ジャンク)にしかすぎない。きつい物言いとなってしまったが、そのように言う根拠を詳述する(上に挙げたAに続くBの部、「Aを含んだ上でどのような隠喩が含まれているのか詳述する」ことをなす)。
 端緒として次に挙げる図をご覧いただきたい。

 上図はチベットと北部国境を接する人口数十万の小国、ブータンの国章だ。何が見えるだろうか?[二匹の龍が脇に配置され、二本の金剛杵が中央で交差されている図像]である。その点、ブータンが雷龍の国と称し称され([雷龍の国]はブータンの国歌の名でもある)、国旗に竜を描いている国であることを含んでいただいたうえで、だ。問うてみて欲しい。
 「何故、ブータンが雷龍の国とされており、国旗・国章(国章は上述)に[竜]を描きこんでいるのか」。
 その答えが[金剛杵]にまつわる最悪の隠喩につながるとしつつ、についての正統派学究の平均的意見というやつをまずもって代弁してみよう(非正統派というより全くもって根拠無視のニューエイジャーやオカルト論者は「竜人や蛇人、要するに爬虫類人などと呼ばれる存在の地下基地がチベット界隈にあるという伝説が正しいからではないか」と言うかもしれないが、そのような馬鹿げた話はこの際、脇に置いておいて、だ ―ただし、言っておくも、この世界の常識は概ね虚偽で成り立っているので馬鹿げた話が実は本当である"可能性"もあるにはある―)。
 正当派学究はブータン国章の由来について次のようなことを述べるであろう。

 仏教は龍(あるいはそれと接合する蛇の神格化存在)に対する崇拝と結びつく。極めて深くで、である。例えば、インド北部に拠ったギリシャ系の王を仏教に帰依させ、今日の仏教美術が育まれた土壌を造ったとされる紀元前2世紀の僧の名はナーガセーナといい、その意味するところは[龍(あるいは蛇人)の軍隊]となる。また、今日の大乗仏教の土台を築いたのは(要するに今日の極東地域で信仰されている仏教の土台を築いたのは)ナーガールジュナこと龍樹であり、同龍樹が竜王から仏教の経典を授けられたというのが正統派学究の容れる伝承となっている(龍樹自身の名もインドの蛇人のナーガと結びつき、ナーガの中国での姿の竜王とも結びつく)。また、釈迦の誕生(とそれ絡みの降誕会などとの名称が付された行事)は龍と結び付けられ、龍が釈迦の誕生をソーマで祝福したなどとされる。そういった仏教発展史上に見ることが出来る要素 ―土着の他宗教を次第次第に吸収していた過程で生じることになった要素と常識人は言う― があるため、チベット仏教の一宗派、ミラレパという男が宗祖となっているとされるカギュ派の中のそのさらに分派、ドゥク派が竜崇拝と結びついているとされ、そのドゥク派を国教として受容しているブータンが竜を国旗・国章に描きこんでいるのだろう

 以上で[ブータンがチベット仏教国として龍を国章を掲げていると"とれる"背景]、正統派・常識人好みの背景をお分かりいただけたかと思う。
 が、そういった背景が"ありそうなこと"は国章に竜と合せて金剛杵が極めて目立つように描かれていることの[完璧なる説明]にはならない。さらに次のことを考慮に入れないと[合理的な回答]を得ることが出来ないようになっているがゆえに、である(そして、それを考慮に入れることが[最悪の隠喩]の話とつながる。ブータンの国章の話の前になしたゼウス神像や執金剛神の仏像、オーディンの話をも包摂しつつである)。

 「ブータンは["雷"龍の国]をもって任じるが、ブータンが国章に掲げる金剛杵も"雷"と結びつく。金剛杵が元来、インドの雷神、インドラの武器とされていたがために、である。そして、そのインドラには[竜]退治の神格としての側面がある(インドラは悪竜ヴリトラを退治した神として有名である)。そういった背景があるからこそ、[金剛杵]と[竜]と[雷](雷龍絡みの雷)の併用が観念できる(インドラはヒンドゥー教の神だが、仏教とヒンドゥー教の結節点の問題に関わる)」

 と、大人の常識人でも納得できる話をした上で最悪の隠喩の話に入る。まず、下記の〔1〕〔2〕の点を把握していただきたい。

〔1〕上記にてインドの雷神インドラの話はしたが、インドラは悪竜ヴリトラの"口"にヴァジュラ(ここで主眼としている金剛杵のこと)を叩き込み、ヴリトラを倒したとされる。それが接合する。中世の欧州地域で竜退治の英雄ゲオルギウスが竜の"口"に槍の一突きをくらわせて竜を倒したとされる伝承が成立したことと、だ(下に注釈とともにその典型的構図を抜粋しておいた)。が、常識的に考えてゲオルギウスの伝説とインドラの伝承の類似性は直接的な伝承の伝播関係では説明が出来ない。中世欧州は中東にイスラムの壁が存在していたがためにインドとは接点なき世界だったからだ(高校レベルの『世界史』の知識があれば、中世欧州とインドに文化伝播が成立しえなかったことは分かるはずだ:仮に、例外的に伝承伝播が成立してもインドの神話を欧州の中世英雄譚に取り込む理由はない、ということもあるが、それは置いておく)。


※直近〔1〕の点にて「インドの雷神、インドラが悪龍ヴリトラの"口"に金剛杵をくらわしたという話と中世欧州にて成立した聖ゲオルギウスの竜の"口"への槍の一閃の話がつながる」と述べた(竜退治の存在が竜の口を突き、竜を倒すという話の共通性上)。ここでは、そこにいう[ゲオルギウスの口への槍の一閃]の話がいかに著名なのか、図を通して訴求しておこう。まずもって、上掲上段の図。15世紀から16世紀にかけて活躍したルネサンス期の画家ヴィットーレ・カルパッチョの手による聖ゲオルギウスの竜退治の画。口への一閃の様がはっきりと見てとれる。次いで、上掲左下の図。19世紀はフランスの画家、ドミニコ・アングルの怪物の口への槍の一閃の図。に関し、同図、正確にはゲオルギウスの竜退治を描いたものではなく、16世紀初頭のイタリアの叙事詩、 Orlando Furioso『狂えるオルランド』の中の一幕、「ルッジェーロという登場人物がオルクという怪物に槍の一閃をくらわせる」場面を描いたものである。が、そこに「聖ゲオルギウスの槍の口への一閃の話が通念化しているのを見てとれる」ことに変わりはない(オルクへの攻撃の絵にすら、ゲオルギウス方式が反映される程、通念化していたととれる。とした上で、"一見しての"余談となるが、オルクとは『指輪物語』、『ロード・オブ・ザ・リング』などという題で近年、映画化された作品の中では[実に浅はかで醜く、かつ、残酷な闇の勢力の兵士]としてのオークなる存在に改変されている。それも ―私のような人間から見れば― 人類史をよく知った上での皮肉となるように見える)。上掲右下の図。グルジアの今日の国章。ゲオルギウスの口への一閃が強調されているさまを見てとれる。


〔2〕上の〔1〕にて述べたようにゲオルギウス伝説が生まれた中世の欧州とインドラ伝承を徐々に形作っていたインドは"直接的には"接合しない。
 だが、間接的にはつながっているのかもしれない、と判断したくなるような紛らわしい事象が存在しもする。すなわち、中世より遙か昔に遡る時点での欧州地域とその文化的源泉の地中海世界の伝説がインドのインドラ伝承と接合するに"出来ている"ことがそれだ。
 については、「古代ギリシャ世界の時代には一部のギリシャ人がインドに流入した」という世界史上の常識(高等学校レベルでの世界史に毛が生えたようなレベルでの常識)に留意した上で、冒頭に彫像を挙げたギリシャ神話の主神、雷神ゼウスと北欧神話の雷神トール絡みの話がインドと接合するように出来ている、ということがあるのだ。その点、まずもって、ゼウスだが、ゼウスはインドラよろしく邪な存在、(悪"竜"ではないものの)蛇の下半身を持った怪物テュポーンを打ち倒したとされている。次いで、トールだが(トールは北欧神話上で冒頭にて挙げたオーディンに次ぐ準主神だ)、トールは世界を覆う大蛇 ―見方によっては竜― ヨルムンガンドと北欧神話上の最終決戦ラグナロクで相討ちになった。そこから、[雷神]対[龍・蛇の眷属]という形で欧州神話とギリシャ神話とインド神話は共通項を有していると言えるのである。
 だが、ゼウスのテュポーンの倒し方もトールのヨルムンガンドの倒し方も口という弱点を衝くものではなかった(ゼウスはテュポーンを島の下敷きにして倒し、トールはヨルムンガンドを雷の槌を投げつけて倒したとされるのだ)。したがって、ゼウスやトールといった中間項を挟んで(イスラムに分断される前の欧州・地中海世界とインドが結びついた太古の世界の伝承を介して)ゲオルギウスとインドラの口に一閃をくらわせて龍を倒す伝承がつながっているわけではない。言葉を換えれば、ゲオルギウスとインドラの伝承間には直接的のみならず、太古に遡っての間接的な伝播関係すら観念出来ない。欧州中世のゲオルギウス竜退治伝承とヴリトラ退治伝承の類似性は説明をなしがたいものなのだ(その点、インドにも伝わっているギリシャの英雄、本記事でも後に言及するヘラレクスに関しては数多く倒した蛇の怪物のうち、100の頭を持つラドンの口に蜂の巣を放り込んで怪物を倒したとも伝わっている。しかし、ヘラクレス自身はインドラの如き[雷神]ではないし、ラドン掃討の[手法]はマイナー極まりない話なので文化的接合の可能性は無視していいもの、ここでは余談扱いで構わないものと言っていいだろう)。

 上の〔1〕〔2〕の点を把握していただいたうえで、そう、この世界に語り継がれる伝承には伝播関係では説明がつかないような相似性があることを念頭に置いていただいたうえで下のIIVにて述べたようなことについて考えてほしい。

I.デービッド・アイクという男が前世紀末より「人類は世界中で竜・蛇をシンボルとしている爬虫類人に操られている」と述べだし、今日に至るまで欧米圏で物議をかもしている。アイクの説は[客観的な事実誤認あるいは虚偽]を多く含んでいるが(その点については私の著作で解説している)、他面、「今日の人間社会がなぜ、こうなっているのか」、「どうやって我々の不自然極まりない歴史が構築されてきたのか」ということについて一つの解も与えている(私は操作者は爬虫類人であると明言しないが、およそ、それに類する存在だと見ている)。例えば、今までしてきた話で言えば、ブータンの国章の龍を意味深に描くデザインしていることも多くデービッド・アイクの説で説明がついてしまうし(仏教の沿革が竜・蛇にこだわる人外に押しつけられたものだからということで、だ)、ゲオルギウス伝説とインドラ伝承のつながらない世界でのパラレリズム(類似構造)の説明もつく。

II.上のデービッド・アイクはフリーメーソンが何でもするのは人外によって憑依されているからだとして多数の賛同を得ているわけだが(昨今の流行に当てはめて言えば、オンラインゲーム上での[アバター]のようなものにされているからだ、となろうか)、それは大人の常識人の世界では「実に馬鹿げている」とみなされがちな見解のように見える。見えるも、実は理に適っている。
 「フリーメーソンの"存在理由"自体が実に不可解であること私の無償公開著作を参照されるとよく分るだろう)。そして、フリーメーソンが2001年の911の実験を極めて儀式だったやり方で起こ"させられる"ような全く人間の合理性では説明がつきかねないような行動原理によって動かされている節があることフリーメーソンが911の事件を起こした、と述べただけでも「陰謀論者だねぇ」と拒絶反応を起こされる向きもあろう。であるが、そういった反応は本Webサイトの[問題意識の所在]と題した部位の一連のページ群を参照してから起こしてほしいものだ)。そういったことがフリーメーソンが悪趣味極まりないことに蛇紋様に異常にこだわる[蛇のカルト]でもあることと合せて、デービッド・アイクの異説につながってしまうからだ」。

III.ここからはさらに受け入れがたい話(大人の常識人にはニューエイジャーや宗教家の戯言となろうか)となる。なると断った上で、IとIIを念頭に言うが、「人間の[魂](と呼ばれる本質)を抜きとるように奪い取り、フリーメーソン仕様の操り人形を作る補助手法(補助であってメインの手法ではないととれる。メインはフリーメーソンの秘教文化や他の人文学的な作品が[契約]のようなものだと物語っている)に電磁波 ―この言葉自体が限界をはらんだ科学的枠組みの象徴そのものの不完全な言葉かもしれない― を用いた何らかの作用が介在している」可能性がある。
 以上、読む限りでは意味不明なことを書いていると思われるかもしれないが、そういった可能性が如実にある。トールやゼウス、そして、インドラに見るように[雷神(電磁波と結びつく存在)]対[龍・蛇の眷属(時に自らを悪役としてきた人外の象徴ととれる)]との構図が他の隠喩、[龍・蛇]と[魂(と呼ばれる本質)の操作]の隠喩と並列して多くの宗教に不自然極まりなく共有されているからだ。

ここで上にて述べたことの本Webサイト上での詳説箇所を紹介しておく。まずもって、「電磁波と本質の操作」の話。それについては[問題意識の所在]と題した本Webサイト上のカテゴリーに属する一群のページの中の"次の題を付した頁"を参照されるとよいだろう(ただし、次の題の頁を単体で読んでも意味を理解するのは困難だろうともしておく:問題意識の所在と題した一連のページは最初から読まなければ、理解に困難をきたす構造となっている―)。[問題意識の所在―12―]及び[問題意識の所在―14―]
 また、「龍・蛇の象徴と魂(と呼ばれる本質)の操作の隠喩」の話については[考えられる操作の手法について]と題した本Webサイト上のカテゴリ直下の[三種の神器をはじめとした権威の象徴物に込められた隠喩]と題した記事(文字色改変部をクリックすることで遷移可能。同記事、本記事と相互補完の関係にあるものだ)及び、本Webサイトの[問題意識の所在]というカテゴリの中の[問題意識の所在―11―]と題した頁を読まれると多くのことがわかるだろう。

IV.上のIIIの話、人間の"魂"と呼ばれる本質の操作に電磁波と呼称されるようエネルギーを用いた手法がとられている可能性があるとの話の延長線上として、だ。雷神インドラの武器ヴァジュラに由来するとした仏具、金剛杵の中の三鈷杵(サンコショ)の形態に着目するべきだ。それはΨという形をとる。そのΨこと[プサイあるいはサイ]、ギリシャ文字の23番目にあたる[魂]を指し示す文字である(超能力者"サイ"キックや心理学"サイ"コロジーなど物質とは異なる内面事象絡みの話 ―それが似非科学かそうではないかはこの際、問題にならない― にサイの文字が充てられているのもそのためである)。
 そのことは[電磁波と魂の操作の話]に接合する。Ψ状の形態をとる三鈷杵状の形態"をも"とるヴァジラはゲオルギウスよろしく竜の口をあけた (この「竜の口をあける」というつながらない世界での表現方法は[亀退治のマリオ方式]と私が定置する反対話法の一種だろうと見ている)、["雷"神の武器]であることをもって。
 とした上でも「金剛杵にはΨ状の形をとる三鈷杵以外の形態があり、三鈷杵は一つの亜種にしかすぎないから牽強付会(持説押し付け)の言いすぎ論法だろう」との批判もあろうから言っておく。「それは甘い」と。
 については、「三鈷杵が[日本の国宝級の仏像達の多くが手に持っている仏具]ということで金剛杵の亜種として片づけるにはあまりにも際立った存在である」ということもある(三鈷杵を持った国宝級の仏像たちについては本Webサイトカテゴリの中の[問題意識の所在―13―]という題の頁を参照されるとよいだろう)。だけではない。Ψプサイ状の形態をとる神の武具が三鈷杵に限らず、欧州にも東洋にも時代を挟んで奇怪なまでに分布している、ということもある。不快な比喩とワンセットになった、インドはシヴァ神の[三つ叉の矛]などがその例だ(本Webサイト上の[問題意識の所在―12―]、[問題意識の所在―13―]と題した記述部で解説。そこでは[神の武具]ではないものの、沖縄にΨの読みと同様のサイの名称を持つΨ状形状をとる[釵]という武器が伝わっていることも紹介している)。上述のオーディン、ヴァルキリーという神人達に勇士達の[魂]を集めさせている北欧神話の主神の写本上での姿がプサイ形状の三鈷杵そっくりなものを手に持った姿で描かれているのはその中の一例にすぎない。

 どうだろうか。以上、IIVを読んでいただいただけで金剛杵という名の仏具にまつわる隠喩が何なのか、多くのことを理解いただけたのではないだろうか(ただし、電磁波云々の話はあくまでも人間の科学の枠組みに未知なるものを当てはめて語っているがために[あやまてること]を書いているかもしれない:この際、電磁波云々の話が「まさしく電波系と俗称される人間の物言いである」と常識論の世界ではされることは置いておいてだ)。

 それでは最後に次のような話をなした上で本論考を終えよう。

 金剛杵を持つと冒頭にて紹介した執金剛神(シュウコンゴウシン)。そのインドでの神話的起源はインドに王朝を築いたギリシャ人の王朝から伝えられたギリシャの英雄ヘラクレスにあるとされる。インドの執金剛神の元となった神、ヴァジラパーニ ―名前の時点で"ヴァジュラ"こと金剛杵がつく― が時にヘラクレス同様の姿をとるからだ(いかにもヘラクレス風情とした半裸に獣の皮をかぶり棍棒などを持った姿である)。
 その[執金剛神=ヴァジラパーニ=ヘラクレス]は釈迦の守護者とも仏教の守護者ともいった姿で彫像化され描かれるが(東洋でも仏教が潰えた往古のインドでも、だ)、に関して、無視してはならないことがある。それはヘラクレスが[蛇の眷属に抗い、最後は倒されてしまう人間の象徴]となっていることだ(何?そんな話は聞いたことがない?ならば、ヘラクレス絡みのそういった特徴が2001年の9月11日の儀式にも影響していると詳述に詳述を重ねている本Webページの他所([問題意識の所在]と題した本Webサイトカテゴリ)を読まれることをお勧めする ―詰まる所、911の儀式とは[ヘラクレス的なる人間の蛇に抗う特性]を完全に破壊することを指し示すものたりうる。ヘラクレスの蛇を殺した赤ん坊期を経ての幼名、アルケイデスがアルカイダの命名理由になっているなどという暴論を述べるつもりはさらさらないが―)。
 そこから、結局のところ、[浮屠教]などと呼ばれて極東に伝わってきた仏教、[ヴァジラパーニ=ヘラクレス]に保護されているなどと"される"仏教の存在理由もその式で語れるもの、反対話法としてへレクレスにて象徴される人間性を押し殺す ―魂の次元でだ― との式で語れるもの、といったことになりかねないのである。
 とした上で、その伝で、だ。最近の超大規模新興仏教団体、その成員たる仏教徒の顔をかぶるカルトの連中に至るまで多数の人間に称揚され続けてきた[無我あるいは真我の境地](ゾンビ万万歳という境地だと私的には見ている)というやつに至るというのは「ヴァジラ・金剛杵で龍の口が貫かれるように人の本質が貫かれることを意味している」ように見えもする(同点に関しては、こういうこともある。「生まれた途端に一本指で天を指し[唯我独尊]などと口にしたとなどと馬鹿げた話が伝わる釈迦の誕生局面。の折に、釈迦が[9匹]の龍に祝われたとされることは[9匹]という数からヘラクレスが殺したヒドラの頭の数と容易につながり、日本のヤマタノオロチ神話と表裏をなす九頭龍信仰とも容易につながる。そういった類似性の話の背景には皮肉として伝承操作があると考えられる」)。
 以上を目にし、『馬鹿げている、意味不明なニューエイジャーチックな話にすぎる』と考える方もいるだろうが、そういったフリーメーソンや新興カルトの筋金入りの如き"マシーン"製造手法が何なのかについて疎い方 ―"魂"の問題について疎い方― は私の無償公開著作の最終章を読まれることをお勧めする

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