問題意識の所在 ―12―
重力の妙技、ブラックホールやワームホールの類を生成しうるともされる粒子加速器「実験」による[次元の接合]の話をなし終えた後、 ―(右に同じく額面だけ見る限りには神秘主義者由来の取り合うに足らぬ物言いと看做されもしようかと思われる性質の話ながらも)― [人間の"魂"と呼ばれる領域]の問題に入った前頁では
「ハトが人間の"魂"(などと呼ばれる内面の本質)の普遍的なる寓意的象徴物とされてきた」
ことが我々の行く末に関わりうるとし、まずもっての話として
「[ハト=魂の象徴物]と歴史的に位置づけられてきた」
との具体的なる指し示しを試みてきた。錬金術象徴の問題を扱い、潰えたとされる異教の象徴の問題を扱い、キリスト教の教義に隠された比喩の問題を扱いながら、だ。
が、「蛇の杖」との絡みでハトが操作される人間の魂となっていることを専一に述べた前頁の内容だけでは「ハト=人間の魂の比喩」と普遍的に言えるだけの立証をなし終えていないと定置、その絡みでの話を本頁でも続けることとする(人によっては前頁の内容だけでもその伝での指し示しは完遂されているとも見えるかもしれないが、重要なことなので入念に話をなすとした上でだ)。
以上を含んでいただいたうえで下の図像群に目を向けていただきたい。
[上図の左上]からだ。赤ん坊とハト達が戯れている姿を確認できると思う。のような場を描く同絵画はフリーメーソン的なる絵画ともとれる。何故か。
「赤ん坊は産まれてすぐに捨てられ、ハトに世話をされたというバビロニア(アッシリア)の伝説上の女王セミラミス(Semiramis)であり、同セミラミス、一部のフリーメーソン達が(象徴似姿決定に当たって)重んじたとされる伝説上の存在だからだ」。
そう、例えば、アメリカ合衆国の「自由の女神」像、フランス系フリーメーソンがアメリカ系フリーメーソンに送ったプレゼントだったことまでは[史実]であるとされるFreemason製の女神像がセミラミスの隠喩となっている「らしい」といった具合に、である。
追記として
上にて自由の女神がその彫像を世に具現化したフリーメーソンとの絡みで[バビロンの伝説的なる女王セミラミス]に仮託されているとの見解が存在すると紹介した。そうした見解が存する背景につき、一応、補足をなしておくこととした。まずもって[上掲の関係図]をご覧いただきたい。
図は[アレクサンダー・ヒスロップという作家に由来する文書『二つのバビロン』に掲載されているイラストレーション]と[ニューヨークの自由の女神像]の奇怪なる相似関係について解説するために挙げたものである。
上掲図にあっての左側に配したのはアレクサンダー・ヒスロップ(19世紀論客)が著した『二つのバビロン』( The Two Babylons/神話学上の過てる知識に依拠した[信用の置けない書]( unreliable source )として知られるもの、なおかつ、エホバの証人の如き団体が尊崇視するともされている書)に由来する、
[教皇レオ二世の記念メダルとして鋳造されたものの裏面に配された女の似姿]
である。その似姿を『二つのバビロン』の中で持ち出した19世紀の論客アレクサンダー・ヒスロップの物言いによると、
「表向き、教皇の記念メダルの裏に配されているのはローマ教会の象徴とされている女だが、その似姿が真に指し示すところはバビロンの女王セミラミス、黙示録に登場する大バビロンの娼婦(ベイバロン)のように黄金の杯を手に持ったセミラミスである」
となる。
が、上の申しようの信憑性はこの際、問題にならない。ヒスロップの『二つのバビロン』が世に出された「時期」のみが問題になる。その点、ヒスロップの『二つのバビロン』は19世紀に世に出たもの、1853年にパンフレットとしての初版が出され、その後、1858年にパンフレットとしての増補版が出されたものであるでされている(英文ウィキペディアに見る情報よりのこととして、だ)。
他面、ヒスロップがセミラミスの相似形であると指摘したメダルの女と似姿上の露骨な相似形を呈する自由の女神像の今日あるデザインが確定したのは1860年代後半になってからであると考えられる(1860年代前半に自由の女神のデザイン構想は出されていたと英文Wikipediaの[ Statue of Liberty ]項目に記載されているが、同項目に認められるところとして自由の女神のデザインをなしたフレデリク・バルトルディ(フリーメーソンとして知られる男)が自由の女神の意匠権を登録したのは1869年であるとされている)。
すなわち、ヒスロップの「ローマ教会の象徴物がセミラミス象徴物としての意味を有している」との指摘が出された「後に」自由の女神像のデザイン ―(表向きフランスの象徴化存在マリアンヌをローマ時代の太陽神ヘリオス的なる似姿でデザインしたものであると「される」)― が確定している、と考えられるのだ(時期的な意味で模倣・被模倣の関係が成立していうると考えられる)。
それにつき、次のようなこと「も」押さえておくべきである。
ヒスロップはローマ教会の象徴物がバビロンの女王セミラミスの象徴物であると述べるにあたって、
[黙示録に登場する[バビロンの娼婦](ベイバロン)が黄金の杯を持っていることが聖書に記載されていること]
を問題視してもいた(ヒスロップ申しようは今日にあっては信用の置けぬものとされているが、とにかくも、の話として、である)。
対して、自由の女神は金箔で固められている松明(台座は杯のように見えなくもない)を手にしている。
黄金で話がつながるのである(尚、本サイト上の先のページで詳説しているように自由の女神が手に持っているのは[黄金の林檎]仮託物であると解することができる。トロイアを滅ぼす因となったと伝わる黄金の林檎 ―[多頭の蛇たるラドンに守られるヘスペリデスの園で栽培される林檎]― を[エデンの誘惑の実]と重ね合わせれば多くのことの辻褄が合う。[バビロンの娼婦]とは聖書の『黙示録』に[七つの頭をもつ赤い竜]たるサタンの盟友(とでもいうべき立ち位置)にて登場してくる存在。そこにいうサタンが旧約聖書で誘惑に用いた果実は(聖書に明記されていないことながら)後世、[林檎]であるとされるに至っているために辻褄が合うと(部分的には)述べるのである。そうもしたことすら言えてしまう[『黙示録』に関わる寓意]については後の頁でさらなる解説をなす)。
以上の指し示しをなしたうえで述べておくが、ヒスロップの『二つのバビロン』がパンフレット(1853年から1859年に作成されたパンフレット)が書籍化を見たのは1919年であるともされており、今日、衆人が目にする『二つのバビロン』流布版はその書籍版に依拠しているため、メーソンらがよく知ったうえでセミラミスの象徴物を自由の女神に導入したかは[黒に近い灰色]であると述べられてしまう側面もある。しかし、奇怪であることに変わりはない。
女神像がその実のセミラミス仮託物であると言われていることに言及したうえで述べるが、ここでの問題は
「長じてバビロンの酷薄な殺人女王となったセミラミスが赤ん坊時、ハトに育てられる姿がどうして魂の問題と結びつくか」
である。
その点、はっきり言っておく。「セミラミスとハトの話の時点では"憶測の話"以上にはハトと魂は結びつかない」。だが、最も危険な存在ともとれるフリーメーソンとハトの関係を述べることは意味・意義あることと判断、「セミラミスとハトは以下の点で魂の問題と接合"しうる"と解釈できる」と述べておく。
・直近表記したようにセミラミスの象徴物であるとの説もある「自由の女神像」。同女神像は「アトラスの娘」に仮託することもできる(既述)。そして、既に触れた、彼女が手にしている「7と4(7+4=11としての Independence Day)が書かれた松明」は「黄金のリンゴ」であり、「911で焼かれたスフィア」に仮託出来るものである。
そこにいうスフィア(ツインタワー敷設オブジェ)は、実のことを言うと、魂の比喩と定置できるものともなる(スフィアが魂の比喩となりうるというのは先にも言及したことだ。そして、これからも書くことである)。仮に「セミラミス=自由の女神」⇔「スフィアの別形態である黄金のリンゴ/黄金の松明を持つ存在」⇔「魂の象徴物」という関係が成立するなら、だ。 すでに前頁で「霊的な」意味合い、すなわち、内面的本質との絡みでの意味合いなどについてのありうべきところに言及したハトが「セミラミスと結びつくこと」"にも"魂の比喩を見てとることは決して"行き過ぎ"ではないようにとれる(下に挙げるような事情があることも加味して、である)。
・"人形"達のオカルト理論など、この際、どうでもよいのだが、ここでは敢えてオカルト界の大家の名とやり口を持ち出す(私は人間の内面の本質的側面の表しようとして"魂"という宗教家じみた言葉を使っているが、『陰謀論者以上にオカルティストという人種は下らぬ存在だ』と考えている人間である(⇒[勘違いされやすき要素が強くも前面に出てしまった本頁]だけご覧いただくだけでは右が理に適った申し分かご判断いただけないか、と思うも)。そのように述べる一方で一方でオカルティストのような人種らを用いての醜行為に触れることは操作の問題を考える上で意味あることであると見てもいる)。
現代音楽シーンに多大な影響を与えたとされるアレイスター・クロウリーについてだ。多くのメーソン達が自分達で認めるようにメーソンの一員だった(メーソン系のオカルト組織[黄金の夜明け団]の出だった)その男、「20世紀最大の魔術師だった」などとメディアが評していたその男、クローリーが主導することになった魔術結社にOTOこと東方"聖堂"(あるいは"神殿")騎士団というものがある(とよく知られている)。
そのOTO、根拠に基づいて現代宗教サイエントロジーがシンボルの模倣対象としたと述べられもする「フリーメーソン外郭団体」は、だ。
[「一ドル札に刻まれる合衆国国章に用いられるピラミッドの中の一つの目」と「ハト」を併せて描くシンボル]
を採用している。それに絡み「一つ目シンボルが神人ヴァルキリー達に"魂"を狩らせるという[北欧神話最高神オーディンの隻眼]を想起させる」としつつ(オーディンにどういう意味が付加されているかは私と同様、まだ抗う力を残した多くの方々も正直、測りかねているだろうが)、述べておく。
「[ハトに育てられたセミラミスを重要視している、させられていると指摘される者達(フリーメーソン)]のおトモダチ ―クローリーら― が「ハト」と「魂を狩らせる存在を想起させるシンボル(一つ目)」を併用していたことはハトが(メーソン製「自由の女神」の象徴的実質ともされる)セミラミスの時点で魂と結びつくことを考えさせもする」
と。
・人類文明発祥の地とされる中近東で古来、ハトは食用とされていた。「養殖され「食べられる」ものとされていたわけだ。その中近東の伝説上の女王セミラミスがハトに育てられたという話が仮に魂と結びつくとどうなるか。「"中近東で始まった有史"以後、人類の量子力学的実体(のようなもの)としての内面を操作対象にしてきたとも考えられる ―でなければ[911の馬鹿げた前言などの収束するところの儀式]は成り立たないとして考えられる― [人外のマーキング]としては実に似つかわしいものとなる」。
また、同じく中近東由来の聖書ではだ。「ノアは洪水後の世界の有り様を"オリーブ"を加えたハトから察した」とされているが、それとて、ハトに養われていた殺人女王セミラミスが"オリーブ"とも結びつくことを想起させ、不快な話である。
※直近、述べたことに対し、
「鳩は伝書鳩としてバビロニアの時代から通信手段に用いられていたそうじゃないか。それがバイブルなどの記述の由来だよ」
といった常識人からの反論も想定されるので(かなり、長くなるが)補足をなしておく。
その点、
「鳩が磁気コンパスを内蔵して飛ぶ鳥、磁気の乱れ ―磁気嵐― によって方向感覚を失う鳥の代表例であることも顧慮すべきである」
と私は考えている。
より具体的には、ハトにも影響を与える磁気(電磁気)。映画『ジュラシック・パーク』であまりにも馬鹿げた設定で登場した[琥珀](恐竜のDNAを閉じ込めていたものと劇中でされる)の帯電実験によって ―人間の科学の枠組み内での― 概念化が進んだ電荷( Electric charge )の作用と密接不可分な関係にある、その磁気が「量子力学的本質」とも言えそうな人間の"魂"とも言うべき本質にも影響を与え"うる"ことも顧慮しておくべきだ、と[可能性論]として述べておきたいのだ ([脳波で機械をコントロールするBMIことブレイン・マシン・インターフェースが原理的に「電気」信号を脳波に変換するプロセスを含んでいるということ]や[磁気で人が幻覚を誘発されるといった真偽不明な説が存在すること]は置いておいても、そういった可能性論 ―真っ当な科学的知見を有した常識人から嘲弄されるような可能性論でもあるが― を重要なものと私は定置している。総務省の電波政策懇談会の発表によると10年で通信トラフィックは数百倍に拡大する見込みらしいことも加味して:電波、要するに一定の波長の電「磁」波で満ち満ちた世界が現出しうる)。
いいだろうか。[人間の本質]は電磁波 ―電界と磁界の相互作用によって生まれる空間の振動状態― の影響を受けうるものであるとも"考えられる"、磁気のようなものの干渉を受け"うる"ものであるとも考えられるのだ (磁気嵐によって送電システムが影響を受けるように。のように口にすると、「俺達は電気仕掛けの羊の夢を見るようなアンドロイドじゃねえんだよ」/「白い装束を着こんだ正気とは思えない、存在自体が不可解な ―私から見れば道化のような馬鹿げた連中にも存在理由がある― お騒がせ宗教団体の者なのかよ」と言いたくもなる方もおられようが、人類の科学的枠組みが恣意的に形作られていることをも念頭に考えておいて欲しい。あの発明家エジソンでさえも人の魂ともいうべき存在に「エネルギー保存の法則」のようなものが当てはまると見て「"あの世" ―あの世とは一体、何なのだろう?― との[通信]を本気で考えていた」とされる、といったことをである。言っておくが、「神智学という現代カルト思想の供給母体となっている戯言体系(フリーメーソン製)"にも"傾倒していた」とされるエジソンが正しかったどうかはこの際、問題ではないが、脳 ―シナプスでもいいが― を動かす人間の"本質"との兼ね合いで電磁波絡みのエジソンのような発想法が成り立ちうること自体が着目に値するのだ)。
そういったことから[量子力学的な意味での波動的性質を兼ね備えた人間の本質]の操作のシンボルに「磁気によって帰巣本能に影響を受ける鳥、ハト程、おあつらえ向きなものもない」といったことを考えても行き過ぎではないだろう (くどいが、あくまでも"仮説"の話としてだ。私は「我々が初歩レベルの『理科』の授業でも習う[電荷] ―要するに磁気の元― の単位、クーロンの由来となった男、シャルル・ド・クーロンのクーロンのスペリングがCoulomb、すぐに後述することとなるハトを想起させるような言葉であることが"調整されたやらせ"の可能性もある/電磁気学の基礎、クーロンの法則にハトを持ち込んだ"やらせ"の可能性もある」と見てさえいるのだが、それもまた"仮説"にすぎない、というのと同じ式で、だ。さらに、述べておくが、ここでの補足で挙げたことは「デービッド・アイクという男がニューエイジャー的論法を用いて非科学的に述べていること ―ただしアイクは科学的に興味深いこともあわせて口にする― 」にかなり近しい内容を含むが、「私は[多くの虚偽情報"をも"広めているデービッド・アイク]の無条件の追従者ではない」とも断っておく)。
以上、科学的見地にも接合する補足をなしたが、より単純に考えて[操作者](とでも呼ぶべき存在)がハトに固執してきたのは「ハトが古代中近東の時代より飼われ喰われる、無防備な生き物だったことも大きい」と見ているとも最後に述べておく。
・欧米で極めて物議を醸すデービッド・アイク( David Icke )は多く不完全かつ疑義を伴う(しかし、一部、極めて鋭くもある)持説の中でこう述べている。
「アメリカにコロンビアが結びつくのはセミラミスに由来する。アメリカ合衆国を発展させしめたフリーメーソン(的なる紐帯)がセミラミスを重要視しており、そのセミラミスの象徴がハト、すなわち、コロンバであるからそう言える(私がその式でのアイクの説の信憑性を調べたところ、実際、生物学分類上、ハト目はColumbiformesであり、ハト科はColumbidaeとなっている:それは古ギリシャ語で「潜る者」を意味するkolumbosに由来するという)。ために、ワシントンDCのDCの部位正式名称たる District of Columbiaことコロンビア特別区や米国三大放送ネットワークの一、CBSの正式名称、
Columbia Broadcasting Systemことコロンビア放送機構のColumbiaはクリストファー・コロンビアのコロンに由来するのではなく、そのさらに大元となったセミラミスのコロンバ=ハトに由来する」。
が、彼、アイクが上記のような文脈の中、主張すること、
「【コロンバ】=【セミラミスのハト】=【"死の象徴"】(ブラザーフッドが押し付ける平和の象徴の影に隠れた死の象徴)となる」
との話に関しては、だ。
アイクとは大きく異なる持論として述べるが、こう解釈したほうが合理的に"見える"。
「【セミラミス】=【ヒトの"魂"に寄生する冷酷な殺人女王】(に仮託される人外。セミラミスには私の自著にて触れているように変身伝承もある)となっているのかもしれず、とした上で、【ヒトの魂の比喩としてのコロンバ(鳩)】=【一つ目マークを露骨に掲げる放送局、CBSの名称を[魂を調整がなされた報道で拘束するシステム](Broadcasting-System)と意味するものにさせしめるシンボルにして、ワシントンDCの語源を[魂を拘束する機構の中枢]と意味するものにさせしめるシンボル】 と解釈した方が妥当なようにも見える。
吸血鬼伝承の国にして社会主義時代には年端もいかぬ子供を洗脳し造り上げた秘密警察(セクリタテア)を運用していたルーマニア。あるいはノアの箱舟の所在地として選民主義と結びつくようにもとれるアルメニア。それら国家のものと類似の三色旗 ―私が大嫌いな赤・黄・青の信号機類似の色合いをとる三色旗、価値をつくるなどと体よき戯言を掲げる大規模カルト団体の象徴としての三色旗だ― を掲げる国家、"コロン"ビアが[魂を拘束する麻薬の供給源の象徴]となっているのと同じ式で、である」。
アイクは鳩を「死の象徴」と看做し、私は鳩を「操作されてしまうこともあるも、かけがえのない人の魂の象徴」ととらえているわけだが、とにかくも、である。セミラミスの話一つとっても、鳩を魂の象徴と解釈することができる(ここでの話に関し、デービッド・アイクが「間違えている」とは言わない。キリスト教が三位一体思想上、聖霊を鳩と仮託することについて、聖霊を邪なる人外の体現物と解せば、鳩は魂ではなく、死の象徴に転化するからだ)。
上をもって ―箇条書き方式で展開してきた― セミラミスの話は終えるとして、だ。次いで、
[本頁冒頭掲載四図中の右上の図像](古めかした写本抜粋の図像)について、である。
一目して分かろうかと思うが、
「二匹の竜が下に控える樹の上に鳩たちがとまっている」。
そのような場が描かれる図像の出典は12世紀英国の装飾写本、 Aberdeen Bestiary 『アバディーン動物寓話集』の中の「ペリンデンスの樹 Perindens Tree 」の頁だ(「装飾写本」とは英語で言うところの Illuminated manuscript だが、何度も言うように私はイルミナティなどではないし( I am not [Illuminati = one of once blindfolded men = one of lobotomized men ].
I am not a member of "Free"mason.)、そのようなものの ―超陰謀団としての― "現存"の話に信を置いていない(イルミティを目隠しされた特別仕様のゾンビ人間 ―目隠しされたフリーメーソン成員の中の最悪の部類― と見るなら別だ)。と述べつつ、傍から見れば、あまりに胡散臭く、いきなり古めかしい写本をもちだしたのは「中世欧州の文献に内在する比喩、隠された意味を探るべく、インターネット上で見ることが出来るそれらについて分析していた折、色々、気づかされた」からだ)。
さて、私の無償公開著作 ―商業ベースで収益(収益など下らぬ概念だが)を十二分に見込める同著を敢えて公開した経緯については他所で詳述― においても、である。"ここでの文脈とは全く別の文脈で"とりあげているそのペリンデンスの樹の図像、字面どおりの意味は次のようなものになっている。
「ぺリンデンスの樹はインドに生えるという甘く美味なる実を産生する樹である(無論、空想上の存在として、だ)。その樹には樹の果実を常食とする鳩達が住まい、その樹の下には竜らが住まう。竜らは樹自体と樹の影を嫌い、樹の影が生じないところを常に選んで陣取り、鳩が樹や樹の影から離れた折、獲って喰らう」。
上のように図像の意味について述べれば、まじめにお読みになられている方はこう思うことだろう。
『ペリンデンスの樹にとまる鳩とは人間の魂の比喩であり、それを獲って喰らう竜との絡みで操作が働いている、とでも"言いたいのか"』。
その通りだが、それについては『"言いたいのか"』といった臆測の話ではない(セミラミスの段では多分に憶測の話をしたが)。一般的な解釈としてペリンデンスの樹の図像に関しては次のような説明がなされるからだ。
「図像の竜は悪魔である。樹はキリスト教、及び、神の威光の象徴であり、鳩らは"三位一体思想"における聖霊とつながった個々人の比喩である。樹から産出する甘い実は神の知恵の恵みである」(実際には歴史的に神のフリをしてきた者達に人間に"本当の意味での知恵"などくれてやるつもりは毛頭なさそうだが、それはこの際、置いておく)。
以上のような正統派キリスト教神学論上の解釈に拠った上でも
「ペリンデンスの樹は鳩が人間の霊的なる側面の象徴となっていることを一面で示すものである」
とお分かりいただけたろう(「鳩=神の聖霊」というより、「鳩=神の聖霊とつながった人の魂」となっているという意味上)。
が、まだ半面の話しかしていない。すなわち、「ペリンデンス・ツリーが操作の象徴としての意味合いを有する」という話をしていない。
上に述べたような通説的解釈が ―わざわざ、往時の欧州人が実像を全く知らなかった世界であるインドまで持ち出しての― 図画寓意に関して成り立つこと自体が実に性質悪きブラック・ジョーク、「操作の問題」に直結するブラック・ジョークであると解せられるのだ。何故か。それは次に述べるような理由による。
「キリスト教。そこに組み込まれた魂(鳩ら)のみ竜の餌食になることを逃れる12世紀英国装飾写本(『アバディーン動物寓話集』)に見る寓意というのは"馬鹿げた選択論"の話とつながる(竜に喰われたくなければ、自身も人も不幸にし、時に[神のために殺し殺される宗教]に帰依しろ、ということになるからだ)。
そして、それは"観念"の話ではなく、"史実"の話である。実際、選民主義の権化たるユダヤ教も、"最後の審判"を持ち出し[神=人を玩具にする人外]の裁きにすがる後裔のキリスト教も馬鹿げた選択問題を根本に据え、神に従う途も従わない途もろくでもない方向にしかつながっていなかったのが人間の歴史であることは論をまたないからだ(魔女狩りや大量の死傷者を出した宗教戦争に見るようにキリスト教に帰依することにYes=Jesusと言った人間達は悉く他人を傷つける契約を結んだ"潜在的"咎人だと言いうるといった具合に、である。直前頁にて救世主キリストと共通要素を多々、有するとしたミトラ神 ―この「去勢」する神が何時の時代に造られたかはこの際、問題にならない― が[契約の神]ともされ、ミトラ教の信者に額に十字を刻む習慣(キリスト教上では額に刻まれるのは『黙示録』の獣の生贄の象徴)があったとされることも加味して実にふざけた話として、だ)。
ために、結局はこう解釈したほうが合理的にとれる。
『人の魂ともいうべき内面的本質も彼らがとまる大きな樹 ―樹上の存在にも周囲にも悪影響を及ぼす毒の実を産出するように"調整"されている― も周囲にたむろする竜達の影響下にあり、鳩達は完全に生殺与奪権を握られている』。
必要に応じて獲って喰われていたのか、遊ばれて獲って喰われていたのか、それが[目的を持っての養殖](私の見立て)とどのようにつながるのか、はきとは明言できないが、とにかくも魂は操作されている(本Webサイト上の他所でも述べているが、ユダヤ教やキリスト教・イスラム教らの一神教の根源神たるヤハウェは蛇の神だったとされる。[ペリンデン・ツリーの竜]とも結びつくような、だ)」。
キリスト教(とそれによって表される人間の歴史)の実態や魂と操作の問題をハトとの絡みで寓意的に表する中世写本『アバディーン動物寓話集』の中のペリンデンスの樹の図についての解説はここまでとしよう。
次いで、冒頭掲載四図中の左下の図と右下の二図(右下二図は左下の図の拡大)。それらも同じく欧州中世写本の中から「鳩が普遍的なる魂の象徴となる」ことを示すべく挙げた図である。より具体的には
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』
からの抜粋である。につき、まじめにここまでの内容を読まれてきた向きは私が同じ出典からの同様の抜粋を既になしていることを覚えておいでのことだろう([問題意識の所在―7―]と題して始めた頁の前半部にて同様の抜粋をなしている。「布石としてなしている話」と明言していた一連の部位の中でだ)。
さて、『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』からの再掲であるそれらの図については
[処女マリアとも結びつけられている鳩(上掲右下拡大図参照)がキリスト教三位一体思想上での神の聖霊ではなく人の魂と結びつくと"考えられる"こと]
及び
[挿絵上、神が手にもつ宝珠(上掲右下拡大図参照)が911で焼かれたスフィアとも結びつきながら魂を操る象徴としての意味合いを持っていると"考えられる"こと]
に既に触れている([問題意識の所在―7―]と題して始めた頁を参照のこと)。
と述べた上で、ここでは次のことを把握しておいてもらえれば、と思う。
「受胎告知されるマリアに鳩が入っていくシーンとされるそれには蛇が隠喩的に絡むと言える。何故か。拡大図で円にて囲った天使ガブリエルが持つ白い帯、重力法則を無視したような形態をとる白い帯が蛇のように見え、実際、蛇の象徴物であると解せられるからだ(以前にも述べていることだが、受胎告知の場面で同じような形で多く蛇が隠喩的に用いられているというのは私の著書で紹介している。そうした類例から考えて帯は ―合理的に― 蛇の隠喩的象徴物であるととれる)。
そして、それはウェブ上の直前の頁にて述べたこと、「蛇の杖」と「鳩」が結び付けられていることとあまりにも話が符合する。およそ人間業ではないような形で時代をはさんで複数の作品に暗号的なメッセージが含まれていうるという形で符合する (【錬金術と結びつく書籍】、【ミトラ教のレリーフ】、【ルネサンス期の絵画】に隠喩的・複合的に蛇の杖と鳩の象徴がまぶされていることと『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』の中の挿絵すらもが符合する)。
ために、[問題意識の所在―7―]と題して始めた頁にて触れた三位一体に絡む不快な話、魂とハトの操作の話が"さらに"説得力を持ったものとなったと言える」。
上図群の解説をなしたうえで、だ。下のような図像も挙げておこう。
上掲図は日本の武家の歴史的守護神としても有名な神格、ハチマン、こと、八幡を描いたものだ。と、ここで何故、いきなり八幡大菩薩のようなローカルな神格を持ち出したのか?一つに、「西洋の問題ばかり触れていて本当に鳩が魂の普遍的比喩たることを示せるのか」との場外からの反論がありそうなことも念頭にあった。念頭にあったも、魂の問題に関する人外のブラックジョークは東洋 ―なかんずく日本― にも当てはまることを述べたいとの想いが自分自身にあったということが主としてあるからこそ僧形のハチマンにご登場いただいた次第である。
(※長くなるも本括弧内で補足しておく。「上のように書いてはいるが、この世界の命運を決するプログラムの"変数名"には日本をはじめ東洋の世界観はほとんど作用していないようにも"見受けられる"」ということを。
その点、日本では例えば、中世の軍記物が悪魔的なるブラックジョークを多く含んでいる、といったことがあったり、中国では皇帝の伝承や王朝の沿革に操作の隠喩が透けて見えるといったこともあるのだが ―私の無償公開著作にて言及―、そういったことは"人類の帰趨を決するプログラムの変数名"自体とは無縁となっているように見受けられる。東洋の伝承・説話は内容が現実的かつ雑然としすぎており、プログラムの変数名にそこからの引用をなすことがしづらかったことも影響しているように"見える"こととして、だ:付記プログラムの最大の駒が筋金入り中の筋金入り、欧米に本拠を置くフリーメーソンらしいということも大きいだろう。無論、「東洋」にも醜組織は存在しはするが。すなわち、創価学会(日本で心魂を抜くのに主に用いられているユニット。我々から愛すべき人々を奪い、我々の周囲をかくも住みにくい世界に変えた存在)/法輪功(表向き中国共産党と対立関係を"演出"。中国で伝統的に心魂を抜くのに用いられていたと思しき「道教=老子信仰」とも接合)/洪門(マフィアたる三合会を包摂。フリーメーソンの歴史的盟友にあたる結社。圧制の象徴、中国共産党に寄生)/統一教会(欧米同様、何でもさせられる"人形"製造装置としてキリスト教が利用されている半島地域で特に汚れ役を負担。国家自体がカルト化させられている北朝鮮に比べれば勢力僅少だが人形仲間の諜報機関と提携)といったフリーメーソン協働組織たる"駒"育成団体が東洋にも存在しはする。
だが、それら[麻薬産業運営や性風俗産業運営をも一つの手段に社会と人間関係を拘束するゾンビ人間育成団体] ―「オウム真理教は下位カルトである」と告発していた絶版本『オウム帝国の正体』などでは屑と人形の集団、オウムが風俗産業に進出していたことや覚醒剤利権とつながっていたことが指摘されているがオウムに他カルトと共に人員を供給していた創価学会に至っては(心根を毀損されたゾンビ人間を通じ)風俗産業や麻薬産業を掌握しきっているようにとれる:ウブな人間に異性や銭金と結びついた甘い話に惑わされぬよう警告をなしたいとの意図・趣旨でこのようなことをわざわざ書いている― らが「統治組織に寄生するサブ・ユニットとしてこれから何をやるか分からぬ存在として控えている」ことは今更、論ずるまでもない「大人の常識人が口に出してはならぬ"常識"である」ため、ここではこれ以上、述べない)。
さて、日本の伝統的首切り稼業、武士の信仰を集めていた上の八幡だが、僧の姿で描かれる彼が手に持つ笏(専門用語で言うところの錫杖ことシャクジョウ)に目を向けて欲しい。拡大部を込みで捉えて ―異論もあるだろうが― 「翼を広げる鳥のようなもの」が描かれていることがお分かりになるだろう。それは私の見立てでは「魂の象徴たるハト」となる。何故か。それは以下の理由による。
・八幡は伝統的に鳩と結びつく。日本神社の神使として「八幡の鳩」なる呼称が一部で用いられてきたのはそのためで、ある。
・八幡は漢数字「八」と結びつく。日本では人間の内面的本質("魂"と呼ばれるもの)の支配の象徴の一種として「三種の神器」が「西洋王権の象徴(Regalia)」と対照的に用いられているとしたが([問題意識の所在―7―]と題して始めた頁参照)、それら「三種の神器」全てが多頭の蛇ヤマタノオロチを想起させるように「八と結びつく」のと同様の話として、である(三種の神器は"八"岐大蛇ことヤマタノオロチの尾から意味深くも出現した「草薙の剣」、名称のレベルで八がつく「ヤサカニノマガタマ"八"尺瓊勾玉」と「ヤタノカガミ"八"咫鏡」からなる)。そこから「内面的本質=魂」との絡みで「八とつながる八幡」と「鳩」が日本で結び付けられているの"だとすれば"、人外との絡みで全てが接合し、筋が通る(ただし、背景事情の説明抜きにはそういった考えがあまりにもこじつけがましく映るのは百も承知だ)。
・上記に挙げた点(・)と多く接合することだが、西洋(オクシデント)・中近東(オリエント)世界では「鳩」は「蛇」の象徴とワンセットで用いられていた。極めて隠喩的に、である(キリスト教美術作品と中近東由来ともされるミトラ神象徴物の隠喩的なる関係は述べた。もっと言ってしまえば、原初、"蛇の神"だったともいうヤハウェへの崇拝を基本に置くユダヤ教やキリスト教が「ノアの箱舟の鳩」や「聖霊の象徴としての鳩」に見るような教説を採用していること自体、「蛇」と「鳩」が結びつく西洋・中近東の際立った特質の現われともとれなくもない)。それと同じ式がヤマタノオロチ(大蛇)を想起させるように「八」を多用してきた八百万の神々の国、日本の神格である「八幡」にも当てはまるようにもとれる。八幡と鳩のつながりに「蛇(ヤマタノオロチ)と鳩」との関係が隠喩的に介在しており、そう、「"人間の本質=魂と呼ばれるもの"に関わる操作の隠喩」として介在しており、それがこれまた隠喩的に八幡大菩薩がらみの肖像に反映されていたと推論することも出来るという意味で、である。
・この点(・)では「非常に込み入った話を長々とする」と覚悟いただいた上で先を読んで欲しい。
さて、上の肖像の八幡大菩薩、「鳩を神使とする神」が手にもつ笏の構造が見立てどおり鳩の隠喩を含んでいるのなら、多くのことが結びつく。肖像の八幡が手にもつ笏の拡大部構造がギリシャ文字の「Ψ(プサイ)」を想起させるものとも"見える"との観点上。「プサイ」とは「波動関数」を表する記号であると同時に、それ自体が「魂」を意味する字でもあると直前頁にて述べたが(欧米で心理学をPsychologyと呼んだりするのは「精神の」を意味するPsychoがΨpsiこと魂に由来するためだ)、仮に八幡の笏がそのプサイ"をも"隠喩的に表しているとすると、洋の東西を問わず、「かくも鳩が魂と結びつく」となり"かねない"からだ(「仮定の仮定の話」のような話柄になっており恐縮だが、これは合理的推論であるとお断りしておく)。
と、ここで、ギリシャ文字プサイを日本に無理矢理持ってくることは「暴論を超えたナンセンス話の類」と見る向きが大半だろうし、それが当然の話だろう。
が、Webサイト閲覧者達は知っておくべきだ。「ギリシャ文字プサイが魂の操作に絡むブラックジョークとして用いられてきたらしい地域はギリシャ文字通用地域に限られない」と。例えば、インド。ヒンドゥーの破壊の神シヴァは遥か昔から今日に至るまで「三叉の矛(Tridentトライデント。シヴァのそれはTrisulaトリシューラと呼称)」を持った姿で彫像化されてきたが、それはギリシャ神話の三大主神の一、「ポセイドン」が「三叉の矛」を持つのと同様、性質の悪き魂の操作の問題に通底することであると私はとらえているし、そう述べられるだけの事情がある(三叉の矛は形状的にΨ=psi=魂の字を体現すると解釈可能。それを把握していただいた上でシヴァを含むインドの三大主神が操作の問題との絡みでどう図像的に配置されるか、インドの「三神一体思想」トリムルティ、キリスト教の「三位一体思想」トリニティと対応するそれについて調べていただければ、多くのことが"見える"ようになっている)。
よし分かった。「インドはかつて、アレキサンダー大王をはじめとしたギリシャ人達に侵入されギリシャ文明の影響を受けた土地だから、そのようなことになっている/ポセイドンの矛持ちがヒンドゥー教の神像構築体系に影響している」との論法・推論"も"確かに成立しはする。成立しはするとしつつも、そういった常識論に固執したい向きに、さらに不快な話をしよう。
インドから北進して東洋圏で広く用いられるになった仏具の「金剛杵」ことコンゴウショ。その最もポピュラーな形が「三鈷杵ことサンコショという三叉状の形態」をとるのは何故か、考えたことがある向きが果たしてどれだけいるだろうか(「仏具などどうでもよい」という方が大半だろうということは敢えて置いておいて、だ)。それは表向きはインドの雷神インドラ(宗教などという子供騙しの体系上では仏教に取り込まれて"33"天のリーダー、帝釈天に変質)がそういった形の武器(金剛杵の由来となったヴァジュラ)を持っていたことに由来し、うち、亜種としてフォーク状のサンコショが生じたからだ、などと言われる。
が、世界各地に伝わる「(インドラやゼウスや北欧のトールのような)雷神と蛇の神の戦い」の神話をそもブラック・ジョークと解し(デービッド・アイクはそれをジョークと解さず「宇宙人同士の戦い」の話にしてしまったが)、
「そこには電磁波のようなエネルギーを用いての人間の内面的本質の操作への隠喩 ―魂の比喩たる鳩と磁場の話はした― が含まれている」
と仮定すると全てがつながるような形にもなっていもするのだ(この一見、馬鹿げて見える話については本Webサイト上の他カテゴリ他記事で詳述している。相互に絶対につながらない世界の一致性に触れつつだ)。
そういったことに関してはギリシャ神話の三大主神の主催者ゼウス、「三叉の矛=psi」を持った「ポセイドン」の弟にあたるその神が"一つ目"巨人、サイクロプスから「雷霆」を譲り受けたと神話にてされていること込みで非常に性質悪き隠喩がはっきりと垣間見れるようになっている(私が調べたところ、"つながらない世界であるはずの古代ギリシャのゼウス神の像"に「形態的に似ている」日本の仏像があったりもする(他記事で紹介している)。「高等学校の授業でも習うような"ガンダーラ美術"に関する思索」、すなわち、「仏像へのギリシャ美術作品影響の考察」では説明がつかないような背景があると[他の事象との比較]から透けて見えるようなものとして。その一事とってもこの世界が非常に胡散臭い"常識"に拠ってなりたっているとも思われる。私の無償公開著作で浅草の"雷"門にどういった像が存在しているか、と解説していることを抜きにしても)。
まだだ。上記の仏具の金剛杵にも形態的に近しい武器として沖縄地方に釵(サイ)なる武器が存在していることをご存知だろうか。その釵(さい)の形状はまさしく「Ψ」(ギリシャ文字のpsiことプサイあるいは"サイ"/[魂]を体現するとされる文字)といった出で立ちだ。名詞の読みと同じ名詞で体現されるものの形状が本来、つながらない世界・時代を挟んで結びつくように見える(古代ギリシャと極東の沖縄の中世文化事象が結びつくように見える)のが「偶然」と言えるだろうか。確率論的に見て、およそ、そうは言えまい(もっと言えば、「偶然ならぬ、常識的文化伝播」でさえない。武器の形状はともかく「釵」という言葉自体はインド由来ではないと"とれる"からだ)。
psiが何を意味するか知っている欧米の一部の者達はサブ・カルチャーにそれ(釵)をまぶすように使用している節があるが(ただし、そこに意図の明言は伴わない)、事程左様にこの世界の多くのことはつながっているのだ。
以上、延々、述べてきたことを納得いただければ、
「八幡の肖像に鳩が描かれているだけではなく、それがギリシャ・アルファベットのΨとつながりうる」
と述べることとて「馬鹿げたこじつけ理論にはならない」ことが(半面でも)お分かりいただけたのではないだろうか、と思う。
最後に述べた点が特に長く、かつ、分かりづらいものになってしまったが、とにかく、東洋、しかも、日本の八幡の話の時点で鳩が人間の内面的本質(魂とも言うべき側面)の隠喩と"なりうる"ことが一面で成り立つことだけ伝われば、それでよい(ここでの話を一笑にふしたがる向きも多かろうから、わけても、「Ψ・プサイ・魂 と 彫像の関係」については続く段で図解をなしておくこととする)。
さて、頁を改めての次頁以降では、だ。本頁でなした話の補足をなした上で、鳩と魂の比喩の話の詰めに(「スフィア」の話をもしつつ)入る。何故、現代に生きる我々、人類の魂(内面的本質)が、そう、ただでさえ抑圧を受けている人類の魂が "より一層の"危機にさらされて"いかねない"のか、その話につなげるべく。
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