プログラム拘束の魂たちが紡ぎ出す結末を変えるために

 
 

問題意識の所在 ―14―

 さて、前頁末尾では
「魂の比喩となると述べてきたハトとも結びつく[オーブ](言い方をかえれば、スフィア;球体)が歴史的には王権の象徴物(Regalia)でもあった」
との話を繰り返しなした。そのことが事態の本質を人間レベルのフリーメーソン陰謀論に矮小化させる材料にされかねない、と述べつつ、である(:実際に[王冠潰しごっこをさせられたりもする王権否定主義の伝統]を重視しているとされるフリーメーソン、911の事件の犯行予告作品でWTC敷設のスフィア(=王権象徴物)のイミテーションを爆破対象として転がせて見せもした同フリーメーソンはありとあらゆる陰謀の担い手ではあるとされるが、それは問題の本質ではない)。 としたうえで下の図をご覧いただきたい。

 簡潔に図の説明をなす。まずは上掲、上の段の図。神聖ローマ帝国貴族、フリードリヒ5世を描いた画だが、ボヘミア王にも担がれた同人物が「TO図と結びついたオーブを持っている」ことがよく分かる(要するに、王権とオーブが結び付けられることの典型例となっている)。しかし、そういった人間レベルの象徴の話を、すなわち、「TO図が刻まれたオーブ(スフィア)を人間世界の権威象徴物とみなす話」を同じような王権の話のレベルで否定出来そうなアイコン(象徴記号)もある ―そのアイコン絡みの話、背景知識がなかったり、"大人の常識人"向けの紋章学(Heraldry)などの通説に拘泥していたりすると多少、というより、かなりこじつけがましい話となってしまうのだが― 。
 そのことを端的に指し示すべく挙げたのが、上掲、下の段の図だ。同図は「英文Wikipedia上に写真著作権放棄意思明示と共に挙げられていたフィンランド王の王冠の写真(からの抜粋)」だ。拡大部をご覧いただきたい。多少、不明瞭なところがあって恐縮だが、「剣を持ち二本足で立つ獅子」がTO図を体現したオーブの上に乗っかっているのが見て取れる。それは
「人外の ―人間の王族という"人形"を介した― 操作の象徴であると言えるものだろう」(何なら操作された駒こと"アバター"の記号と言ってもよい)
と見ている。
 何故か。その点、ここに至るまで何度か名を出してきたデービッド・アイクのような人物が
「二本足で立つ獅子は爬虫類人の象徴である」
と強調していることを想起された方も極一部、いるかもしれない(:実際、二本足で立つ獅子が時に巻き舌を出していたり、どう見ても獅子には見えない二本足で立つ獅子を描く欧州紋章があったりするのも事実だ)。

 が、「デービッド・アイクを持ち出さずとも世界中の権門や宗教的権威にまとわりつく獅子の象徴があまりにもかぐわかしきものであると述べられる」ということがあるのだ。興味がある向きは、例えば、グルジアの"国章"とチベットの雪山獅子国旗でも並べて見てみればよいだろうとしつつ(そこにありうべきではないそっくりさんが見て取れる)、詳細は獅子文様の伝播や去勢の女神と獅子の話に触れている私の無償公開著作や本Webサイト上他カテゴリ他記事 ― [二匹の獅子と操作の比喩](クリックすることで遷移可能)― に譲る尚、同じくの引用は先の[問題意識の所在―4―]と題した頁でもなしている)。とにかくも、である。 歴史的使用形態から不自然な象徴との併用、王の権威の比喩とされるも不自然な二本足で立つライオンとの併用から王冠の宝珠(オーブ。言い方を変えれば、スフィア)に人間業ならぬ側面を垣間見れるということがあるのだ。王権それ自体のレベルの話でも、だ。

※スフィアと人間レベルの権威の関係を述べるため、「獅子の比喩の話」をなしたところで、非常に長く、かつ、ややこしい話になるも、そして、脇道にかなり逸れるも、本カッコ内で触れておきたきことがある。"極めて"重要なことであるととらえているために、である。
 その触れておきたきこととは
Herculesヘラクレスの象徴とやらせ"疑惑"に関する話
となる。
 その点、いきなり、[ヘラクレスとやらせ"疑惑"]などと言われて、首をかしげたくもある方も多かろう。
 首をかしげたくもある方も多かろうも[問題式の所在―4―]と題した頁にて
獅子印章の形態それ自体が象徴言語めかしているとしつつ、[黄金のリンゴ、及び、アタランテと二匹の獅子]の話をなした折、そこで主眼としていたアトラス・プログラム絡みにて
[その式 ―ヘラクレスにまつわるやらせ疑惑― で無視すべからざることがある]

と見ているのだ。ここに至るまで詳述に詳述を重ねてきた911の儀式の目的にて圧殺対象となっているように見受けられる存在、[蛇に抗う"人間性"の比喩となっているらしいと既述のヘラクレス]が「ライオンの皮を被る男だった」という観点上。
 については
操られ人の集団とも言える"フリー"メーソンと近しいライオンズクラブに伝統的に[ライオンなりきりの儀]があるのも[蛇に翻弄される人間存在への嘲弄を旨とした象徴化儀礼] ―ヘラクレスやヘラクレスの真似をしてライオンの皮を被った姿で自身を彫像化させたローマ皇帝コンモドゥスがその原初的かつ典型的なる実践者― の現れだろう
という以前の話 ―この段から読みだした向きにはまずもってご理解いただけないことだろうから、ご理解していただけていないのならば[問題意識の所在]と題したパートの前半からの読解をお勧めする― に再度、言及した上で、だ。そういった[神話とは逆に蛇らに翻弄されてしまうヘラクレス方式]が
仮にその行為が「全てやらせ」だったら、反対解釈可能ゆえ、我々全てに「偽りの希望とワンセットの破滅的なる事態の招来の可能性」が突きつけられていることになりかねない物議を醸す男、デービッド・アイク]
の主張の背景に何があるのか、ということに
当てはまり"かねない"からおおごとである
、と述べたいのだ。
 より具体的には、
欧米圏で物議を醸していると既述のデービッド・アイク、「沈んだ大陸としてのアトランティス実在論などに依然としてこだわりつつも」アトラス・プログラム"的なるもの"に対する深い考察を2010年下半期現在の本稿執筆時に至るまで一切なしてこなかった同人物が、だ(アイクとその仲間たちは ―オンラインでも紙媒体でも全く言明してこなかったものの― アトラス・シンボルを用いた操作についてほぼ確実に知っているように「見える」。アイクは2002年の彼の著作『不思議の国のアリスとワールド・トレード・センターの崩壊』で ―驚嘆すべきことに―[同時多発テロ事件などと世間一般に呼称される事件とアトランティス ―アトラスそのものではなく沈んだ大陸としてのアトランティスだ― の関係]にかする程度、"ほんの一言だけ"といった程度で言及しているからだ)。もっと述べれば、現時点、最新の自身の著作にてもヘラクレスの比喩について全く言及していない同人物(デービッド・アイク)が、だ。欧米で最近、発売されたばかりの新刊
HUMAN RACE GET OFF YOUR KNEES The Lion Sleeps No More
『人類よ。ひざまずくのを止めよ。ライオンはもうこれ以上、眠らない』
「従前のそれ以上に意味深き二重話法をライオン絡みで感じさせるように」世に出したことを問題視しているのだ(文字色を変えての補足:私事にて恐縮だが、極めて不自然な英語タイトルを有する David Ickeの右新刊、本サイト上での私の無償公開著作、『人類と操作』と似たような字句(「人類」)をタイトル・レベルで含むことでも ―日本語と英語の相違はあるが― 個人的に「非常に」興味深くとっているものである。私の公開著作『人類と操作』はそのままの表題でデービッド・アイクの右洋書新刊発売日よりかなり前の2009年下半期に[有名書籍の邦訳を手掛けもしている出版社]の手に渡っており、アイクの右新刊発売より前か同時期 ―2010年上半期― に日本の書店に並ぶ予定だったことを述べるまでもなく、私は卑怯者よろしく、それと明示せずにアイクの新刊の[タイトルレベルの文言]猿真似などはしないとしつつだ ⇒私はフリーメーソンやメーソンの提携カルトの犬よろしく[他人から盗むことしか出来ぬ輩達]とは違うからだ。アイクの異説からは学ぶことが多く、公開することになった自著にても「それとはきと明示しての」アイクの新刊以前の主張の引用・分析を多くなしてはいるが)。
 すなわち、デービッド・アイクが彼の発売されたばかりの右新刊にて
意図不明に"ライオン"の語と図像を異常に多用していること、意図不分明に"ライオン"のシンボル/二本足で立つライオン人間を[真実の波動]などとして多用している
ことの背景を問題視
しているのである。
「何故、ヘラクレスとアトラスがらみのプログラムに言及"しようとしない"男、二本足で立つ獅子を爬虫類人の象徴だ、などと述べていた男が突然、理由も明示せずにいきなりライオン人間を[真実の象徴]としだしのか」
という観点から
。 
 普通人以上に色々な世界を深く見てきた私にはデービッド・アイクの一部の仲間やその猿真似をしている連中に非常に胡散臭い者が多々、含まれているとはよく分かるのだが、としつつも、彼の取り巻きではなくアイク自身には
[半分で闘う男/まだ真実を知らぬ者達に絶望と恐怖に負けぬよう促す男]
に向けるような望みを捨ててはいない
(そうしたアイクへの望みを ―惜しみながらも― 捨て去る覚悟もできているが)。彼、アイクが一面でニューエイジャー的なる、あるいは、宗教的なる"体裁"をとらざるをえない立ち位置にいることを慮った上でそのように述べる。それに背景事情はともかくアイクの洋書新刊は良著である ―特にハイブ・マインド[蜂の巣の精神]との絡みで人類が何をされているのかを端的に記したイラストは秀逸なものであると感心している― 面もあることを顧慮したうえでもそのように述べる(⇒ 本サイト掲載本記事初稿をものしてより一年を経た二〇一一年下半期現在にあっての追記アイクの新刊が異常に早くも邦訳され日本の書店でも手に入れられるようになった。[そのような事情を受けての本サイト公開後一年を経ての追記]として本段にても強調しておく必要を感じることとして[アイク近著の邦訳版の体裁]は ―はっきり言うが― 「見るに堪えるものではない」。英文による原著に込められた[それ相応の人間らしい良心の現れともとれる原文文言]も反映されていないように見え、何よりも、[意図してのトンデモととれるものを完全なトンデモに堕さしめているといった色彩]が邦訳版に強く表れているからだ ―右は個人的に苛立たしいととらえる[他の剽窃にもやぶさかではなかろうカルトの臭い]に言及しないうえでの話でもある― ) 
 とにかくも、である。アイク近著は見るに値する ―間接話法が透けて見えるということで― 良書であるととらえるものであるが、重要なことだから、この場にて敢えて[懸念] ―獅子の反対話法にまつわる懸念― についての付言を添えておいた。私は自身が梯子をはずされたヘラクレスよろしく、たとえもし、[ベリーバッドな状態]になったとしても闘うつもりであるとしつつ、やらせ"疑惑"の話を付言として添えておいた

 枠で括りもしたカッコ内の付言があまりにも長くなりすぎた。「魂と呼ばれるヒトの本質に対する何らかの大々的処置が講じられる可能性がある」との[数頁前より続く話の本題]に対する補足としての
[(前ページから引き続き)本頁冒頭より述べている人間レベルの権威で物事を語ることの限界についての話]
に立ち戻ろう。

 さて、上にて王権の象徴それ自体を引き合いに出しての話をしたわけであるが、そも"歴史"というものが「王権の象徴」云々する以前に、全体的に人間の権威などで語れるようなものではない、と「再認識」("再"認識としたのはここまでに述べてきた内容ゆえに、である)してもらうための図像群を下に挙げておこう
[フリーメーソンの人間レベルでの陰謀]
などとの説をこれからも展開しうる下らぬ陰謀論者達に、まだ考える力を残した方々が惑わされてはならぬ、という考えのもとに、である(力を有しつつも、"まだ"夢を見ている方々に魂とも言うべき内面 ―ここでの本題としている事象― の操作が何なのか、「操作の結果」を見てもらい、考えてほしいとの意図もある)。

 まずは図の概要からだ。「左上から時計回りにIVIと番号を振っていった」各図に関し番号順に概要説明を講じよう。

I.既述のミトラ信仰。20世紀前半にその研究家として、そして、「"再"発見者」(偽造団一員の可能性もあるとしたが)として活躍したベルギー人考古学者フランツ・キュモン。彼がものした Mysteries of Mithra『ミトラ密儀』原著に掲載されたものと「される」イラストの抜粋だ。身体に蛇を巻きつけたミトラ教神格を二柱、挙げたが、両者は「同一の存在」ととれる(姿の類似性からして)。

II.Iにて挙げた神格彫像のイラストの問題視するべき箇所の拡大図。[問題意識の所在―11―]と題してはじめた頁にて解説したように、ヒトの魂の象徴としてのハト(と受け取られもする鳥)、及び、「魂の宿う場所」ともされる松果体、そして、蛇の杖が併せて描写されている。

III.皇帝ナポレオン統治下のフランス。その時代、1811年のパリ市の紋章である(私は上のような紋章がパリ紋章として採用されていたことに ―ここでの文脈とは全く異なる異端思想について解説している― グラハム・ハンコックの著書、それ自体、フリーメーソン的なる著書を読んでいる際に気づかされた)。分かりづらくて恐縮だが、先端に松かさ(おそらく松果体の比喩だろう)をいただいた「二匹の蛇がからみつく杖」が描かれている。

IV.IIIの図の一部拡大部。現在、流布されている簡略化版「パリ市章」では、より「猛禽類」としての特色が色濃くでているものとなっているが、往時のオリジナル、その上拡大部には何か「飛竜のような別の存在」が描かれているよう"にも"見える (「猛禽類」と解釈する方が無論、自然だ。しかし、私の無償公開著書にて「双頭のワシ」紋章のあまりにもかぐわかしき図像変化沿革、恐竜のようなものを描いていたこともある沿革に触れているということもあり、気になるところではある)。が、何であるにせよ、だ。ここ(IV)で挙げた拡大部にせよ、IIIに挙げた全体像にせよ、パリの紋章は今日に至るまでの人類の状態が簡潔に示されているととれるものである(理由は下に記す)。

V.私の著書でもとりあげたフランス人権宣言よりの抜粋。多くの人間がフランス革命におけるフリーメーソン暗躍との絡みで「ピラミッドの中の目」を引き合いに出すが、着目すべきはウロボロス(尾を噛む蛇)や蛇の外皮の体現物のようなものが描かれていることだ。

VI.フランス革命の動乱を経て、台頭するに至ったフランス皇帝ナポレオン一世。玉座に座るその男の肖像画については「一致性」との絡みで色々と興味深い点がある。

 上のような概要のIVIの各図の間に具体的に「どういった視覚的関係が成立しているか」はだ。不親切なようだが、図に付した矢印群から各自が判断していただきたい解説に多くの字数を割くよりも「百聞は一見に如かず」方式を採用しつつ解説をなさぬ方が望ましいと判断したため)。
 によって、多く、視覚的に明らかな相関関係が成立していることがお分かりになることと思う。とした上で、
[そのような相関関係成立の帰結]として以下の各点に挙げるようなことが述べられるのが重要である」
と強調しておきたい。

・ナポレオンとて蛇を巻きつけた邪悪な存在の「ポーン」にすぎない(チェスのポーン。幕僚にメーソン員ばかり充てていたナポレオン自身も ―そこに異論を差し挟む向きもあるのだが― 「チェス盤上の人=フリーメーソン員」だったとされもしている)。図上、ナポレオンの両脇に立つのが既述の「ヤキンとボアズの柱」状のもの、そして、チェスのポーン状のものであることがそのことを端的に指し示す。

・デービッド・アイクの言い得て妙の「人類は爬虫類人にハイブ・マインド(蜂の巣の精神)を押し付けられている」との主張通りの比喩が1811年のパリの紋章にすら伺えるように見える。図上、[革命で倒されたブルボン王朝の象徴でもあったフルール・ド・リスこと百合模様形態]を想起させるようなハチがパリ市紋章に描かれているからだ(同点については教皇が「蜂の巣」状の冠を被っていたことやフリーメーソンがエプロンに「蜂の巣」を描いているのと同じ式で色々なことが語れるものと見ている)。多く「蛇の杖とハトの魂の比喩の話」に視覚的に連結するように、である。

・「上の図像にて"蛇"のカルトたるフリーメーソンのヤキンとボアズの柱状のものが太古の異教の蛇がらみの神格、"再発見"された神格がらみでシュールに登場していることより判断して」である。 フリーメーソン構成員がミトラ教を近代以降、偽造しつつ、革命にも、続くナポレオン政権にも彼らお手製の象徴をまぶしていたとの可能性、そのレベルでさえも人形のファウスト博士達には決して容れられないだろう可能性もあるだろう、と指摘しつつも述べるが、「何れにせよ、ことは人間レベルの話ではない」。確かに直近表記のようにミトラ教はフリーメーソンに「根本偽造」されたものかもしれないが ―ただし、人間レベルの発想では「根本偽造」の動機を考えられない― 、
「上掲パリの市章に現れているような[蛇の杖]、魂の再生装置とも言われる[松果体 ―先の頁で言及― を体現した松かさ]といった操作のシンボル使用の開始はフリーメーソンの表向きの躍進期よりも遥か前に遡り」、かつ、「それがあまりにも非人間的で暗号めかした象徴体系に組み込まれている」からだ([問題意識の所在―11―]と題してはじめた頁にて既述のように錬金術に接合するアグリコラの16世紀の鉱物学の書物やルネサンス期の15世紀の絵画に同様のモチーフが人間業とは思えぬような形態で相互に接合しつつ現れているとした。 に対し、「革命主導者を輩出した近代メーソン」の表向きの躍進期は18世紀であり、そういった事前描写より数百年後の話となる。[問題式の所在―9―]と題した頁にてアンリ四世に絡むメーソン象徴が17世紀には現れているともしたが)。ために、革命主導者供給母体のメーソン ―俗に言う思索的フリーメーソン― がミトラ教捏造をなしていたとしても、それは彼らの「飼い主」が「従前から用いていたモチーフ」の非人間的な継続使用を彼らに求めたにすぎないと解釈できる(:彼らメーソンの人間レベルのリーダーだったと見える大量殺戮者ナポレオンがチェスのポーン状の構造体の間に自らを鎮座させしめている上抜粋絵画VIにも「本質が人間レベルのものではないこと/表向きの権力者など真実の不快な比喩、自らをポーンと表するような比喩に"抗議"すら出来ぬこと」が端的に現れていると言える)。

 以上のようなことを詳述し終えたところで、だ。ここまでの内容、
[多くが全くもって人間レベルのものではないことを"より深く"理解してもらうための内容]
から話を[直前ページ「以前」から続く本筋]に戻す。戻して、人間の内面的本質、"魂"と呼ばれるものが直面する危機について「予測の詰めをなす」ことに注力する

 さて、[オーブ](人外の介入を伺わせるものであると本頁に至るまで述べてきたもの[ハト](魂の象徴であると数頁を割いて延々、論じてきた存在が操作の問題を介して結びつくとの直前の頁の内容を繰り返しつつ、だ。私の導き出した帰結(すでに[問題意識の所在―7―]と題した頁にて言及済みの話でもある)を推し量られているような向きの胸中"にも"あるだろうと直前頁[問題意識の所在―13―]で触れもした考え、
『三位一体を体現した画に描かれているオーブ構造が2001年の911で焼かれたWTC中枢配置のオブジェ、スフィアと結びつくから、人間の本質的なる側面に"何か"がなされる可能性があるのでは』
との考え(追記真剣にお読みいただいている向きで、かつ、この時点で何を伝えたいのかお分かりいただけていない向きがおられたなら、手前の筆力の問題につき謝らせていただきつつ、[冒頭頁より履践を勧めている印刷後検討][従前の頁よりの順次再検討]を推させていただきたい次第である)に再言及したうえで述べることとして、だ。次のような最重要点、〔1〕-〔4〕と段階的に述べていく最重要点を把握してもらいたい(そうすることで多くが説得力を伴ってつながることがお分かりになるだろう)。

〔1〕Web上の前頁にて抜粋したギリシャ所在修道院の「三位一体」像。その中で「魂=鳩の式と接合する存在」として描かれている「神」(実際には悪魔的存在であると言えてしまう)が手に持つ宝珠(オーブ)であるが、それは見かけ上、九月十一日にワールド・トレード・センター(WTC)で焼かれてしまったスフィア、まさしく、Burning-Soul「燃えさかる魂」という出で立ちで焼かれてしまったスフィアと結びつく。
 だが、見かけ上だけではなく、より深い「意味論上でも」両者は ―魂の問題を介して― "密接に"結びつく("ただの意味"でもスフィア=オーブ=球体なのだが、そうではなく"深い意味論"上で)。
 に関して、述べるべきは
「キリスト教三位一体思想 ―トリニティことTrinity― ではハトは火に置換されて表される存在であるとも"される"」
ということである。いいだろうか。「火」である。とした上で、ワールド・トレード・センターで焼かれたスフィアもまた「火」に置換できることを思い出していただきたい(言っておくが、焼かれたからではない)。スフィアが「プロメテウスの火」に、そして、「自由の女神がかかげる松明」に置換え可能なものであることを思い出していただきたいのだ。

長くなるも上に述べたことに関し本カッコ内で"復習"をなしておこう
 まずは
[問題意識の所在―8―]
と題して始めたアトラス・プログラム実証の頁で書いたことを繰り返す。
組織的前言がなされていた9月11日の事件のまさにその時に焼かれた金色スフィアがバッテリーパークで永遠のとの位置づけを与えられて飾られていること。そのことは自由の女神像が手にもつ"黄金"製の松明"11"絡みのプロメテウス/アトラス神話を介して結びつく
 そのように述べる根拠だが ―これまた繰り返しになるも― 次のようなことらが挙げられる。
フリーメーソンによる11絡みの儀式 ―9月11日の事件― の舞台となったWTCの設営を促したロックフェラー一門。彼らがニューヨークのロックフェラーセンターにて[911の儀式の根本に関わるアトラス]と並んでプロメテウス像を据え置かせている
そこにいうプロメテウスはヘラクレスの11番目の冒険 ―黄金のリンゴ探索行― にアトラスと共に登場した存在である
WTC近辺のフリーメーソン製モニュメントたる"自由の女神像" ―要するに11番目の冒険と結びつけられている911の事件を起こした連中と同系統の連中によって具現化したオブジェ― は囚われのプロメテウスのように鎖と結びつけられている
WTC近辺の自由の女神像 ―その足元にはプロメテウスよろしくの鎖がある― もロックフェラー・センターのプロメテウス像も共に[黄金の火]をかかげている(911の事件、いや、911の儀式の後、[永遠の火のオブジェ]と化させしめられたWTCの[金色のスフィア]を想起させるように)
 以上、述べた根拠から、アトラス・プログラムの入力値とされた"金色の"スフィアプロメテウスの火に、そして、自由の女神の炎に仮託されていることは半ば自明だが、「さらに」である。[問題意識の所在―9―]と題した頁にてとりあげたことも再度、述べておく。
「[オーブ・スフィア]と"そっくりな"[黄金のリンゴ( Golden Apple )の象徴物]もまたと結びつく。
[自由の女神の"黄金"製の松明(直近既述のことからプロメテウスが人類に送った"火"ともとれる)]=[火]=[WTCで焼かれたも"永遠の炎"として展示されるに至った金色のスフィア]=[絵画に見ることができる、アトラスの娘達が管掌する"黄金"のリンゴ ―ヘラクレスの"11"番目の冒険に登場。ヘラクレスはこの黄金のリンゴ取得のためにプロメテウスを鎖から解放、助力を問うたともされる― の象徴物としてのオーブ・スフィア]
という形で結びつく、[プロメテウス]・[黄金]・[儀式とつながる11という数値]の各要素を共有しつつ、スフィアは火の象徴物と"外見レベル"で結びつくのである」
 また、「補足として重要」ととらえることも述べておこう。自由の女神に合衆国独立記念日由来の7月4日が打刻されているとしたが、7は長女マイアを筆頭とするアトラスの七人姉妹の娘達プレイアデスの人数を指し、4は同じくアトラスの一群の娘達、黄金のリンゴを管掌するヘスペリデス達の人数とも結びつき"うる"と。アトラスの娘達=アトランティス=アメリカ⇒独立記念日ということをも念頭に、そういったアトラスの娘達のグループ単位人数でもって11(7+4)を体現すること「とて」プログラムの数値的なる美しさ ―実に下らぬお遊びだが― にこだわる人外の特性からはありうることなのだ
)。


付記[上段左の画]は画家ルーカス・クラナッハ( Lucas Cranach the Elder )が描いたルネサンス期の画 ―先の頁にも抜粋した画― でそのなかには
[女神エリスと結びつきもする黄金のリンゴ]
が描かれている(:[北欧神話主神オーディンのように鬚を蓄えた老人の姿でなぜか描かれているヘルメス]が手に持っているのが画中のパリスという男に手渡された[黄金のリンゴ]である)。
 対し、[上段右の画]は版画家としては史上、最も有名であるアルブレヒト・デューラーが描いたカール大帝の画 ―こちらも先立つ頁にて抜粋した画の再掲― でそのなかには
[(カール大帝が手にもつ)王権象徴物としての宝珠]
が描かれている。
 さて、ここでの話に関わることとして(矢印を辿れば一目瞭然のことに)
[黄金のリンゴ]=[王権象徴物としてのオーブ(宝珠)]
との関係が図より簡単に導き出せる。
 問題はその[黄金のリンゴ]=[宝珠]との位置づけを与えられた球体 ―私はそれを人の魂といったものか、そのような言葉で表されるものを操作するシステムの体現物と考えている― が
[フリーメーソン映画にして911の露骨なる予告映画だった『ファイト・クラブ』で攻撃ターゲットとして描かれていたスフィア]
[WTCに敷設されていたスフィア]
完全に客観的に ―ヘラクレス11番目の功業の目的物とされた黄金のリンゴにまつわるエピソードを介し― 結びつくことである
 その意味を我々は考えなければならない。
:上掲の下段図として[翼を生やした蛇 Winged Serpent ]の画を挙げている。それは「上掲左の画にて宝珠を黄金のリンゴとして描いている」15-16世紀の画家、ルーカス・クラナッハの署名に用いられていた画だ。
 そうした画の使用につき私の見立てでは
『ルーカス・クラナッハは ―極めて性質の悪い意味で― "人形"だった。であるから、キリスト教圏で往時、忌み嫌われていたはずの蛇、もっと言えば、
[羽を生やし指輪を咥えてる禍々しき蛇]( Symbol of Evil and Cruel Controllers
を署名のための画 ―[上掲カール大帝画の後ろに描かれている大鷲の貴顕紋章]も(私に言わせれば)その範疇に入るものとなるが― として用いていたのだろう』
ということになる。
 無論、そういった物言いは当然にして(「さらに」の、か)誤解を招きかねないことだが、述べる値打ちがあることだととらえている。何故か。
「不快なシンボル使用をなしている画家が
[911の事件とも密接に結びつく黄金のリンゴ]
を[宝珠の同形物]として描いていることは操作者達 ―蛇で自分達を表する存在だとはここに至るまで事例を挙げつつも論じてきたことだ― の予定に関わることにつながりかねない」
ととれるからだ。
 そうも述べた上で『やはり行き過ぎだ』ととられる向きもおられるだろう。であるが、そういった方々には ―容れる容れないは自由だが― 次のような話がなせることも押さえておいていただきたいものである。
「ルーカス・クラナッハは宗教改革の旗手、かのマルティン・ルターの親友だった。そして、ルターは
[自由意思は神の救済を難事ならしめる邪魔なものである、とする奴隷意志論]
を一面で展開しもし ―サディスティックな描写で溢れた選民主義文書たる― 『聖書』への回帰を主張していた男、そして、宗教対立によって事後、数百年にわたって何百万・何千万の血がヨーロッパに流れる原因をつくりだした男でもあった。
 そうした式からクラナッハもルターも同じ穴の狢(むじな)と考えれば、クラナッハの ―現代フリーメーソンの911前言態様にもつながる― 黄金のリンゴの描き方にも納得がいこうというものである」

 オーブも"トレード"・センターで焼かれたスフィアもただただ外見のみならず、「魂の象徴物(火)としての側面を介して結びつく」と言うことが出来、そこに「三位一体(人類で初の原爆実験の名に付されもしたトリニティ)思想のハト(一般に聖霊の象徴物)が火に結びつく」こととのつながりを見てとれるのである。

〔2〕上の〔1〕でなした話、「三位一体思想上のハト」=「同じく三位一体思想上の火」との話を念頭に置いた上で、だ。「自由の女神の火」と「アトランティス ―アメリカのことであるとは嫌となるほどに述べてきた"アトラスの娘"を意味する語― の黄金のリンゴ」を介して結びつく巨人「アトラス」、そして、同じく「自由の女神の火」と結びつく「プロメテウス」を発端にさらに述べなければならないことを述べる。
 "人形"達の指導的"人形"であると思しきロックフェラーが造営したロックフェラーセンターに彫像化の上、飾られている存在であるアトラスとプロメテウスはタイタン(既述)だ。そのタイタン(ティターン)が[古の神々]として神話化されていた世界、古代ギリシャ世界にて登場したと"される"際立った卓見上、
[火が"魂"と看做されていること]
を重要視しなければならない。
 デモクリトス。「万物は不可分な構成単位である原子から構成されている」としたその古代ギリシャの哲人が、である。「万物に溶け込み、火のように作用する球形のものが魂である」と述べていたとされることを重要視しなければならないのだ(デモクリトスの右のような考えは「奇しくも」なのか「必然によって」なのか、最新の量子力学的観点を突き詰めていった際に導き出される観念、「無限なる一と量子情報を交換している荷電粒子のようなものが我々の本質である」との観念と接合するようにも見える)。デモクリトスによれば「球形の火が魂である」ということだが、それは「スフィア(球形)=かがり火」を想起させるものと言えるだろう。

〔3〕上の〔1〕で述べたことを繰り返すが、
「[黄金のリンゴ]は[スフィア]と結びつき"魂"に近接するような意味を有している」。
 その黄金のリンゴを神話で管掌しているのはアトラスの娘達、ヘスペリデスだが、それとは別のアトラスの娘のグループ、プレアデス七姉妹が、だ。神話上、オリオーンに追われている際、ハトに姿を変えたというくだりがある。ハトは魂の比喩だとしたが、アトランティスことアトラスの娘を介して多くのことが結びつくようにできている。

〔4〕上記の〔1〕〔2〕を含んでいただいた上で、だ。1997年夏季、ダイアナ妃が死亡した事件につき、デービッド・アイクが
「フリーメーソン ―[テンプル(神殿)騎士団]の後裔をもって任じるような伝統と儀式重視の"人形"達― による儀式殺人だった」
とその著書にて述べていたこと(当サイト内の[問題意識の所在―10―]と題した頁にても脇道補足として書いたこと)に再度、触れる。
 何故、いきなり「ダイアナ儀式殺人疑惑の話」なのか、疑問に思われるだろうが、先を読んで欲しいとしつつ、続ける。
 さて、デービッド・アイクによると、だ。
「ダイアナはディアナ(ギリシャ神話のアルテミスのローマ版たる月の女神。別名ダイアナ)の名を有する人間としてアルマ橋で殺されるべくして殺された」
ということになるようなのだが(:そういった発想がアイク自身に起因するかどうかは私には分からない。彼、アイクが"やらせ" ―自身で考えられぬ状態・他律的思考が混在した状況― で動いているのなら猿真似や代弁の可能性もあるだろうが、そうではないと思いたい)、それ絡みで重要視すべきことがあるのである。
 その点、
「1997年夏季の王妃の死をアルマ橋での儀式殺人とみなす/プラスをマイナスに転換する神殿騎士団の後裔をも自称する悪魔主義者たち(私から見れば使い捨ての"人形"だが)の儀式殺人とみなす」
式での1999年刊の著作でのデービッド・アイクの主張にはここでの話から離れた上でも興味深い点が多々、含まれもする。
 例えば、
「ダイアナがアルマ橋( Le Pont de l'Alma )で殺されたのはアルマがディアナ=ダイアナと同様、月の女神に由来する言葉だからだ」
などといった主張が実に興味深いこととしてあったりもする(:言っておくが、信用の置けぬソースを除き「アル・マーがアラビアの月の女神である」と明言する資料はネット上の膨大な英文情報には見当たらない(少なくとも私が調べる限りは見当たらない)。しかし、マーことMah、ゾロアスター教由来の月の神にアラビア語上の定冠詞のアルalをつけると、そう、イスラム教唯一神アラーをアル・イラーフ由来とする説よろしく定冠詞のアルをつけると、確かにアル・マーは「月の神」になり、アイクの言うことは一面で正しいことになる)。
 が、とにかくも、ここでの話との絡みで
「アルマ橋での儀式殺人論が意味をなす」
のはアルマことalmaが「人間」あるいは「魂」を意味する言葉だから(ラテン語とアラビア語双方の流れを汲むスペイン語とポルトガル語で、だ)。
 それについてはデービッド・アイクも一言だけ「アルマ橋( Le Pont de l'Alma)は"魂の道"とも訳せる」と述べていると触れつつ(:ただし、私は一時期のデービッド・アイクのように「ダイアナが事故時乗用していた車の運転手が諜報機関が研究しているようなマインド・コントロール技術にて"人間レベルで"操られていた」などといった話はしない。マインド・コントロールならぬフィジカル(物理的)・コントロールの可能性は大いにあると見ているも)、次のようなことと併せて熟慮しておく必要があると見るのだ。

ダイアナが死したアルマ橋に[自由の炎]のオブジェが建てられた。デービッド・アイクは同点につき[ケネディが殺された場所に【かがり火】を尖端に掲げるオベリスクを建てたのと同じ式で殺人実行者達たるブラザーフッドがマーキングをなしている]と述べているが、それは[フリーメーソンという名の"人形"団体を用いてのマーキングとの兼ね合いで真実]だろう(:今まで述べてきたことから自然にフリーメーソン関与の結論が導き出せる)とした上で、そこに(炎のオブジェの使用に)他にも重大な意味があると見える

 もう勘の鋭い方は気づかれていようが、アルマ橋を「魂の橋」だと考えた場合、"そこで"殺された人間の追悼に炎 ―キリスト教三位一体思想がハトを炎に置換し、デモクリトスが魂を火と定置していたとは述べた― のオブジェを掲げるやり口は、だ。スフィアで魂を表し、それが置かれていた場で儀式を起こして焼いて壊した同スフィアをバッテリーパークに[永遠の炎]として掲げる911がらみのやり口と同じだろうと述べたいわけだ。これを馬鹿げた話と思う方も多いだろう。
 けれども、我々は知っておくべきだ。

アルマは ―調査してみたところ― ハンガリー語やその他の言語(ティルク諸語の中のカザフ語)では[リンゴ]を意味する語となり、そういったことも[黄金のリンゴ]を911で焼かれたスフィアに仮託できるといった既述の話につながる、あまりにも不気味につながる」(ベイクド・アップルにどういった寓意があるかは分からないが)

ということをである(:almaに関しては、私がそのようなことをしてもいる「シンガー・歌手」というアラビア語 ―元来は「よく学んだ」に由来するアラビア語― につながる言葉であると主張するネット上の英文情報も存在する。が、私としてはアルマとは「蛇のようなものに抗う人間性」 ―スペイン語ではアルマは「人間」であり「魂」であるとは既述― につながると同時に、である。極一面でしか真実を言わなかった分析心理学者大家のカール・ユング、大嘘つき、かつ、非科学の徒だったと解せられる師匠のフロイトとご同類とも見えるカール・ユングが「聖なる女性の魂にして人間存在の根源に関わる魂」であるとみなしていたShakti「シャクティ」、インドの抽象的・神秘的エネルギー観を体現した言葉"にも"つながるものだと見ている。デービッド・アイクが「ダイアナの殺人儀式」はポジティブをネガティブに転換するための象徴的儀式だったとしていることをも念頭に、ダイアナの殺害が「プログラムの入力値」に使われた可能性、  [Task13] ―とでも呼ぶべきもの。既述のUNIVAC1101ことアトラスがらみの言葉であるが、さらに後述する― といった言葉とも接合する[遠大なる人類操作プログラム]の途中過程の入力値に使われた可能性もあるとしつつ、そう見ている)。 

 以上、挙げた〔1〕-〔4〕の点を精査いただければ、だ。魂の問題にも絡むこととして
「キリスト教三位一体思想体現画に描かれているオーブ構造のようなものが911で焼かれたWTC中枢配置のスフィアと結びつくがゆえに、人間の本質的なる側面に"何か"がなされる可能性もある」
推論することも決して馬鹿げたことではない、いや、むしろ理に適っているとお分かりいただけるものかと思う(そのような推論が妥当なものとして成り立つことを証すべく魂の操作に絡む比喩の歴史的現出の話などを ―極めて迂遠とも見える経路をたどりながら― 延々となしてきたのだ)。

 その点、"魂"と呼ばれる人間の本質に何かがなされると仮定した場合、
[具体的に何がなされうるか]だが、私のような"人の身"ではそれが何なのかはいまだ分からない。兆候を分析することは出来ても具体的に何がなされうるかというところまではいまだ分らないが、一時期のデービッド・アイクが口にしていたようなこと、「レプティリアン(爬虫類人)達はその星の住民と同化するまでやめない」と言っていたようなことが気がかりなところとしてある(:彼、デービッド・アイクは他面、「レプティリアンは力を弱め、やがて去るだろう」と矛盾するようなことも言っている)。 デービッド・アイクのどこに根拠があるとも分らぬ主張内容を傾聴する必要がある悪材料に満ちているのが今のこの世界だからだが、しかし、とは言いつつも、だ。 下の「」内で挙げたような考え方もできることは出来るのもまた事実だ(パンドラの箱の中にも希望があるということで、だ。私は悪材料と楽観的視点を"完全矛盾するように"挙げるアイクのようなことはしないも)。

人外の玩具だったのが人間の歴史であることは私の無償公開著作にも詳しすぎるほどに書いたが)悪い意味で極めて多くの人間が神(のフリをした連中)に心と身体の一部を譲り渡してきたのが有史以来の人間の歴史であり、ようやっと人間が[真なる自由と解放]について考え出したのが、この局面・この時代 ととれるこの結論に至るまでの道筋が全く異なるがデービッド・アイクも同じようなことを言っている)。
 だから、今、「レプティリアン」とデービッド・アイクが呼ぶような"人外"の完全なる精神の呪縛を観念するのは誤りであるようにも"とも"とれる(内面の呪縛はこれから"ありうべき"ことではなく、"あり続けたこと"ととれる)。 
 だけではなく、これからは我々のやり方いかんによっては呪縛を解く方向に自ら歩いていけるようになるとも思われる しかし、右に「やり方いかんには、思われる」としたように現実にはどうなるかは分からない。我々が呪われた歴史を経て力を増し[真なる自由と解放]を求めだすことを想定内のこととして呪縛強化のために何がなされるか分からず、そのために、諸種の限界領域の拡大と並行して極めて根本的なる[悪しき変化]が志向されている可能性もあるからだ ―無論、そのような志向があっても我々は屈してはならないとしつつも、だ― 。例えば、日本の総務省が電波政策懇談会報告書にて2020年までに国内の電波のトラフィックが現行の200倍にも達する見込みに触れた」ことに"端的に"見るような変化が[悪しき変化]として志向されている"可能性"とてあるのだ ―魂の象徴物たるハトと電磁場の話はしたが、今日の人間の科学で言うところのエネルギーの場、電磁場が人の内面に対する何らかの操作メカニズムに寄与している"可能性"もある。それゆえの日本の地上デジタル化推進のための全く蓋然性なきマスコット、[頭に"八"木アンテナを指した妙な鹿のマスコット]かもしれないのだ。 まったくもって冗談のような話・狂者の戯言のように聞こえるかもしれないが― )」

 上に述べたような「希望」がある一方で、だ。 が、再度の「しかし」の話として、―非常に嫌な話になるも― 我々は「魂と呼ばれるものへの呪縛」ではなく、「魂と呼ばれるものの根本的変異あるいは圧殺」の意図がある可能性も危惧しておくべきだ(無論、アトラス・プログラムの考えられる一つの帰結として、だ)。ここで「魂の根本的変異あるいは圧殺」とは何かだが端的に言えば、こういうことだ。
「ある日を境に我々、全員がオウム級カルトの筋金入りの構成員以上に狂った存在になってしまう/ナチスの本当の意味の筋金入り以上に上からの命令に徹底服従、何でもやらされる完全パペットになってしまう」。
 もう多くの方がお分かりだろうが、我々は時に思ってもいないことを言わされ、やらされる世界に生きている(幸か不幸か、私にはそのような「制約」は一切、ないが。大切なものを売り渡すことを拒否したために)。 が、そういったレベルを超えて、「我々の内面が化け物になってしまう可能性とてある」。そう言いたいのだ(:子を異常な形で虐待する親、猟奇殺人犯、そういった類は「人間の守らねばならない尊厳が何なのかも分からぬ屑」であるというより、むしろ、「唾棄すべき化け物」だと言えるのと同じ式で、だ)。
 言いすぎだと思うだろうか?いやそうではなかろう。悪しき"急"変化のようなものが人間の歴史には常に伴っていたということもある。
 例えば、「人の権利を重視するようになっていた ―建て前と本音の話はあるだろうが― 20世紀前半のアメリカ」で、だ。現実にクー・クラックス・クランことKKKが往時、数百万人規模に急拡大、トンガリ帽のシュールで馬鹿げた格好で白昼、行進をやらかしていたりしたのが人類の歴史だ(これはどこぞやの国で戦後、人の尊厳を踏みにじるカルト団体が大躍進したことと好対照をなす。言っておくが、ユダヤ人・黒人リンチとも結びつく歴史的KKKもそのインナーサークルだったフリーメーソンもどこぞやの国の大規模カルト団体がそうであるように耳に良い建前、「教育は大事だ」などといった建前論を展開し、その悪質性を隠すことに余念はなかった。碌でもないトモダチ関係などそのようなものだ)。 
 そして、問題はそのような"ざらにあった"悪しき急変化さえもが大したことのなきように見える超急変化が『呪われた歴史の緩快傾向をあざ笑うように生じうる』と考えられることだ。比喩的な意味での部分的"人形"(お友達サークル成員でもある)を凌駕してしまった本当の意味での人形、内面が"完全に"爬虫類のようになっている存在ばかりになってしまう可能性とてあるかもしれぬと危惧するのだ。そうなれば、大量の人間が横死する世界大戦の現出どころか、ゾンビ映画や近未来対機械戦争映画なみの分けの分からぬ殺し合いを人類がなしはじめることとて考えられるのだ (あるいは核戦争を含む最終戦争ラグナロク勃発の危険性とてありうる。日本で江戸末期、生じた「ええじゃないか騒動」やそれの西洋版 ―但し被作用対象はより少なく、かつ、重篤だった― ともとれる「死ぬまで踊り続ける症候群」こと Dancing Maniaのようなもの、単なる集団ヒステリーの発現には見えないようなものがより悪質に世界を破滅させる挙動として現れかねないといった話に通底することとして)。
 無論、我々は、そのような馬鹿げた状況に至ってないし不変とも見える"日常"は続いているのだが ―多くの人間が"ときに"全く意図せぬことを言わされ、やらされるような世界に生きていてもだ―、「仮に上のような状況になりうる兆候が見えてきたら原因を分析しつつ、ストップ・サインを皆で出そう」となるのは自明なこととして、だ(私が本Webページを構築した動機には"その自明なこと"をなす局面が仮に到来したときに「役に立てば」という想いもある)。対応策を打つ暇もなく全員が「完全アバター」にされてしまう危険性、我々の魂が圧殺されてしまう危険性を感じているのだ(だから、ヒトの持つ潜在力が増大して欲しいと切に願っているし、生きている限り、それを手伝うつもりだ:私は英雄志向ことヒロイズムは好かない。ゆえに言うが、それは私自身のための闘いでもある)。

 ここまで書いたことが考えられる"可能性"の一つ
「魂の圧殺がなされる」
とのアトラス・プログラムの考えられる目的のうちの一つ、だ。実に馬鹿げているとお思いの方もおろうが、ハトの比喩に絡む悪質性をも顧慮して、である。「原子核模型と思しき天球儀状のものを担いでいるアトラスが打ち倒される」のがプログラムの主意なら次のようなこととて観念できるから、―くどいも― 危機感を抱いているのである。
アトラスとは原子核(極小単位フェムトの世界ともつらなる研究対象)の領域にも接合する量子力学的本質、個々人の"魂"を担ぐヒトの巨大なる意思の集合体が巨人に仮託されたものともとれるあるいは[ヒトの現行通りの存続を良しとする人外の一部存在]がいるのかもしれないがそれは甘すぎる仮説と見る)。 そのアトラスとヘラクレス ―爬虫類的なるものを倒す人間的側面― が同時に打ち倒されたのなら、我々、ヒトは心底、爬虫類になってしまう(いいだろうか。私は一部論客が口にするように、誘導しての類人猿に対する(特性強化)交配処置との意味合いでの遺伝子操作の可能性も加味し、 「仮に我々、人類"全員"がヒトになりたかった竜の子でもヒトとしての理想像を失ってはならない:デービッド・アイクは一部の王族のみが竜の子だとしているが本当にそうだろうか」 と見ているのだ) 」。

 もうここでは ―かなりくどくなりつつもであったが― 話すべきことは話した。アトラス・プログラムの考えられる三つの帰結、
I.「"現行"人類は大量間引きされる」
II.「次元の接合がなされるなどして直接統治の時代あるいは卵の殻としての人類の終焉がもたらされる」
III.「人間の"魂"と呼ばれる精神性が完全に圧殺されてしまう」
のうち、IIに続きIIIについて話し終えたわけだ。あとは残すところのI、その事象予測に次頁以降、触れることにする。
    

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