考えられる操作の手法について |
二匹の獅子と操作の比喩最初に下の図をご覧いただきたい。 図はドイツ帝国の領邦だったザクセン・アルテンブルク公国の紋章だ。同紋章、英文Wikipedia上の[Heraldry:紋章学]項目に[7つのクレスト(紋章学における兜飾りのこと)を一所に集約させたもの]として掲載されているものだ。 ここで問題とすべきは紋章学にいうサポーター(supporter:楯を支える存在)として、上の紋章に[二匹の獅子]が描かれていることである。 二匹の獅子。それは「まさしく操作のシンボルである」と言える。上紋章では空っぽの人形達 ―ここでは貴族の空の甲冑― を中央に並べているが、によって両脇のライオン達で自らを仮託する残酷な存在達が人間を駒に[オンラインゲーム]をやっていることを示している、如実に示している、ととれもするのだ([オンラインゲーム]との表現を奇異に思われた方も多いだろう。それについては、つい最近、封切られたAvatar『アバター』という映画を思い出してほしい。ああいった映画が今、出てくるような背景として欧米では「アバターごっこをやっている存在がこの世界の支配者だ」との説が猛威をふるうに至っている、と述べたらどう思われるだろうか。その点、多くの方が日常的に『そういうことがあってもおかしくはない』と肌で感じているのが今という時代ではないだろうか)。 何?馬鹿げている?無論、そう思われる方も多いだろうが(私としても本心からそう思う向きが多いほうが[望ましき世界]だと思っている)、先を読んでからよくよく考えていただきたい。さて、次いで下の図である。 上の段の図はかの有名画家、アンリ・ルソーの手による20世紀初頭の作だ。拡大図を見ていただければ、お分かりになられるかと思うが、歴史的秘密結社、フリーメーソンの象徴として極めて有名な[三角形の中の目]と二匹のライオンが隠喩的に結びつけられている(本稿でもこれから述べるが、フリーメーソンと二匹のライオンは結びつくのだ。本Webサイトの他所でも問題としている男、映画監督のテリー・ギリアムが撮った作品群、[人類操作の大局的プログラム]の問題にも関わるフリーメーソン的なる作品群の中にもそれを示唆するものが含まれている、といったことと併せて述べるべき様な話として)。 打って変って、上掲図のうちの下の段の図だ。多くの人間が教科書などで一度は見たことがあろう、唐獅子図である(16世紀頃、狩野永徳によって作製された極めて有名な作品)。同唐獅子図については、実際、中国に図に似通った二対の[唐獅子]が存在しており、それが日本の[狛犬]のモデルになっているともされる(そのさらに淵源はインドにあるとも)。だけではなく、アジア圏一般で権威(宗教的権威と世俗権威の双方)に多く二匹の獅子がつきまとっているというのも事実である ―沖縄には[シーサー]が存在し、朝鮮半島には[ヘテ]と呼ばれる同様のもの、中国の瑞獣のカイチがモデルとされる同様のものが存在する―。 以上のような[二対の獅子]"的なるもの"、時に三角形の中の一つ目とも並置される[二対の獅子]"的なるもの"の頻用に関しては[文化伝播]で説明できる側面もあるが(私のオンライン公開著作では[紀元前3000年より前のものであるなどとも"される"中東由来の Gebelel el Arak
Knifeことゲベル・エル・アラク・ナイフなる遺物]、エル神に対する崇拝を表した遺物の時点ですでに[二匹の獅子]が現れているともした)、 その理由、どういったものか。については、おそらく、ここに至るまでの内容をきちんとお読みになられた方の一部が抱いているだろう感想、 以下、それらについて順に解説していくとし、まずもっては次の図を見ていただきたい。上理由のうち[東西の獅子の文化伝播では説明がつかぬ不気味な相似性]につき解説する上での端緒となるものとして、だ。 図の左側はチベットの国旗、いわゆる雪山獅子旗である。同国旗、日本人が20世紀初頭、印章デザインに関与したなどともされるが、そして、それを掲げるだけでご当地では中国共産党に犯罪者とみなされる旗だそうだが、そういったことはここでの本筋ではない。 では、上記二つの国旗と国章に見る二匹の獅子はフリーメーソンのマーキング体系として図式化されている"だけ"のものなのか?いや、さにあらずだ。メーソン由来の図式化の話はせいぜい、良くて半面の正解にしかならない。よく考えてほしい。二匹の獅子は西洋でも東洋でもフリーメーソンの登場より遙か前から権門の象徴として用いられてきたのだ。 そういった往古から存在する他例ゆえに、こう言うことが出来ると見ている。 「二匹の獅子の頻用は文化伝播などといったものでは説明できず、フリーメーソンの飼い主が人類に永年、押しつけてきた象徴体系の問題に関わる事象である」(メーソンを介した使用はその中の際立ちつつも、秘教的なる一例にすぎない。ただし、メーソンを介した使用は極めて重要な比喩を有しているので本稿でもこの後、さらに触れることになる)。 何?まだ信じがたい?『メーソンが各地で文化伝播していたものを取り上げただけだよ』などと思われつつ、信じがたいという方も多いだろうから、遠慮会釈なく、より不快な話を推し進めることとしよう。先に挙げた「文化伝播論は説明にならない」とした二つの理由のうち、[(獅子に伴う)極めて悪質なる、人間業とは思えぬ比喩を摘示可能]ということにまつわる話の端緒として下の図を見てほしい。 図はギリシャの神、処女と狩人の神との側面が一般に伝わっているアルテミス神のもう一つの姿、豊穣の神とされる[エフェソスのアルテミス]だ(左側は崇拝対象だったとされる像の実物で右側はその模式図。近世にものされた書の中の模式図)。 が、そのような[常識人には真偽不明とされてしまう話]以上に問題なのは 「女神アルテミスが"客観的"かつダイレクトに[最悪の存在たる別の女神]とつながる存在であることだ」 と私的にはとっている。 以上を踏まえたうえでキュベレが実際にどういう姿をしているかについては下の図を参照いただきたい。 上掲の左、中世と近世の境い目に描かれた挿絵で[サトゥルナス](図中の左側に描かれた鎌を持ち、赤ん坊を喰らっている老人)と共に描かれている存在、[二匹のライオン]に古代式戦車をひかせている存在がキュベレである(挿絵ではマグナ・マテル( Magna Mater )と名前が書かれているが、マグナ・マテルはキュベレのローマ版名称である)。 その点、―ここでの本筋から離れるが― 上掲左図に関してはマグナ・マテルことキュベレが[鍵]を持っていること"も"興味深いこととしてあるにはある。「ローマ教皇と教皇が率いる教会が鍵を印章に刻みこんでいるのは[初代ローマ教皇ことペテロがイエスから天国の鍵を授かったから]ではなく、[カトリックがキュベレの鍵を印章に転用したから]だ」との説があるために、である(:そうした説を展開する書に私の自著でも触れた20世紀初頭の書、『二つのバビロン』がある。同著、未邦訳で、かつ、根拠が弱く、多くの誤りも含むものでもあるのだが、反面、今日に至るまで一部の欧米陰謀論者の出典となっているその事実にそぐうだけの見るべき記述がいくつか含まれていもする)。 直近なした必要以上に込み入った話はさておき、とにかくも、キュベレの典型像は上掲左の図に見るマグナ・マテルのような格好となっている。 そして、そのような[古式戦車を二匹の獅子にひかせたキュベレの典型的なる姿]は[一見、無関係なところ]にも出現する。上掲右の図をご覧いただきたい。 前提となるキュベレの似姿の話はここまでとし、[二匹の獅子]を伴ったキュベレで示されるものが何なのか、という[最悪の比喩]の話に入ろう (先に明示して問題とするとした[二匹の獅子の人間的なる文化伝播を否定する理由]のもう一方が[人間業とは思えぬ比喩の存在]であることを思い出していただきたい)。 上は[フランス革命の象徴化存在、女神マリアンヌと"公式にはなっている"像を撮った写真](とその各部拡大図像)である。より具体的には[フランス第三共和政期の19世紀末に建てられた記念モニュメント(現時と一部、形が異なっているマリアンヌのモニュメント)の有様をとらえたかなり昔の写真]だ。 〔1〕キュベレには[付き人]がいた。その付き人の名は[アッティス]というキュベレの息子だが、彼の象徴は[フリギア帽]という赤い帽子だった(フリギア帽を介した比喩が何なのかについては本Webサイトの他所にて[赤き帽子に秘められた操作の比喩]との題の記事を載せ、その場で専一に解説している。大袈裟でも何でもなく、人類の行く末に関わる問題であるからだ)。 〔2〕女神マリアンヌを象徴とさせしめたフランス革命。その原動力となったサン・キュロット(フランス革命前の平民層)の象徴は[フリギア帽]だった。それはマリアンヌ像の一部がフリギア帽をかぶっていることの原因ともされるが、さにあらずだ。 どうだろうか。上の〔1〕と〔2〕をお読みいただいてお分かりいただけたのではないだろうか。 以上が[マリアンヌに仮託されたキュベレ ―その逆ではない― ]の図を挙げる直前にて言及するとした[人間業ならぬ最悪の比喩]の中身だが(誰が自らを好き好んで被去勢者に仮託するのか、という文脈で人間業ではない)、「信じがたい」という方々のためにお勧めをなしておく。 まずもって、 さらに「私の自著や本Webサイト上の他所([問題意識の所在]との題のカテゴリ内における[問題意識の所在―11―]というページ)を読する」ことも勧める。結果、―まじめに精読されれば、だが― フランス革命のみならず、欧州の根底に流れるキリスト教もが同じ式で[去勢の比喩]を伴った悪魔的なる存在による宗教であると言えもすることが痛いほどに分かるはずだ(ただし、現実を知る勇気や気力がない方は読まない方がいいかもしれないとも言っておく。不快なるものと向き合い、それを克服せねば、生きている意義など感じられはしまい、というのが私の哲学だが、それを強制するようなことはしたくはないからだ)。 さて、既述のように[去勢と結びついた赤い帽子の比喩の話]は本Webサイト上の他所でもしているが、ここでも[二匹の獅子(本稿のテーマ)]との絡みでその話を煮つめておこう。とした上で、下の図をご覧いただきたい。 上は雑多な画像の集まりと解されるかもしれないが、確たるコンテクスト(文脈)を念頭に挙げたものだ。キーワードは[フリーメーソン]、[二匹の獅子]、[赤い帽子(フリギア帽)]である。 次いで、中段の図像についてだ。左から[ワシントン坐像の模写]と[フリーメーソンの秘教的尊崇対象と噂される悪魔像バフォメット]となっている。それら"フリーメーソンの大統領"を彫ったワシントン坐像と"フリーメーソンの秘教的尊崇対象"を描いたとされるバフォメット像について両者が酷似していることから論じ始めよう。 A.ワシントンの坐像はより後に描かれた絵画、直近にて取り上げたジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの魔女キルケーの絵に構図的に近しい。手真似はさておき、[二匹の獅子を採用した玉座]の描き方が特にそうだ(獅子の足に絡む玉座の描き方は複数あるようだが、その中で特にウォーターハウスの魔女キルケーの絵がワシントン坐像に近しい。それを示す比較対象材料として上の段の神託を受け取る女、シビレの絵画を挙げたととってもらって"も"構わない:シビレは大"蛇"ピュトーンにまつわるパルナッソスの山の神託の巫女だったということで、[蛇絡みの結社、フリーメーソンの者の象徴]として実に似つかわしいモチーフなのであるが)。 B.上のAにて[獅子の玉座]に言及したところでだ。映画 THE MATRIX『マトリックス』について触れる。911の事件を予見していたとも一部で物議を醸している同映画は実にフリーメーソン的な(freemasonic)な映画だったわけだが、そのなかに登場するモーフィアスという男が座る椅子もまた、上の獅子の椅子にきわめて近しい格好の椅子だった(二匹の獅子をまぶした椅子)。 C.バフォメットの額には五芒星が描かれているが、軍帽にも描かれるその五芒星(五芒星がどういうシンボルかは私の著書にて詳述している)が同じ式でフリギア帽に描かれることもある。それが上掲図の一番下の段の右側にて挙げたキューバ国章の中に見る五芒星を描いたフリギア帽である(その[キューバ国章版のフリギア帽]が「フリーメーソン象徴と相似形をなす/絵画のレベルで相似形をなす」と本記事で先に紹介した本Webサイト上の他記事、[赤き帽子に秘められた操作の比喩]と題した他記事にて解説している)。上掲のバフォメットや軍帽、あるいは、ここでは挙げなかったアメリカの擬人化キャラクター、アンクル・サムの[額の中央部に当てはまる箇所]に揃って五芒星が配置されているのはおそらく偶然ではない。[フリギア帽]も[五芒星]もフリーメーソンの象徴だからだ(おそらく、その五芒星、妄言文書たる聖書は『黙示録』に登場する[獣の刻印]の隠喩となる。獣の刻印は額に刻まれ、バフォメットは生贄としてのヤギ、そう、獣の類であるからだ;反キリスト者をキリスト教徒は the Beastと呼ぶこともあるが、メーソンはその式で反キリスト者と呼ばれることも多い。私としてはキリスト教徒もフリーメーソンも[同じ刻印を押されてしまった存在]と見ているも)。 どうだろうか。上のA-Cをお読みいただいたければ、[二匹の獅子]と[フリーメーソン]と[フリギア帽]が極めて濃厚に結びつくことがお分かりになられたのではないだろうか(そして、この話は同様の文脈で語れる話の一部でしかない。[アメリカ合衆国国章規定時のデザイン変更過程]にまつわる話にも[潰えた異教、ミトラ教のレリーフ]にまつわる話にも同じような論法があてはまり、そこにフリーメーソンのあまりにも有名な[ピラミッドの中の目]の印章が関わってきたりすることがあるのだ
―私の自著にて紹介―)。 これにて最悪の比喩の話は ―本記事に関しては― 終えることとしよう。 以上、述べてきたことを通し、[二匹の獅子]が決して文化伝播で説明できぬ象徴であること、のみならず、忌々しい意味を付加されたものであることをご理解いただけたのでは、と期待する。 ※重要なことであるので、本記事で述べたことを前提に話を進めている次の記事も読まれることをお勧めする。[運命の女神の運命の輪。それは大災厄実現プログラムに関わる事象たりうる] ※微小的なることだが、一応、書いておく。「本Webサイト上には[歴史。伝承。神話。人類の歩んできた足跡上に存在するエニグマ]なるカテゴリが存在し、本記事はその中に含めてもよさそうなところをそうしなかった([考えられる操作の手法について]というカテゴリ直下の記事とした)。その理由は去勢の比喩を人間にそれとなく示唆し、被操作者を馬鹿にするのが人外のやり口(すなわち操作の手法)であると訴求したかったというところにある」。 |
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