典拠となるところの明示[145]――付録の部と位置づけしもしての確率論的分析。
ベイズ主義による[現象](データ)から判ずる[原因](仮説)の確率判断

関連情報にまつわるカテゴリ(各部クリックにて遷移)

ベイズ推定の手法を用いて観測現象から背景の状況にまつわっての分析をなす前に流儀としていかに[事象]を定義・切り分けするのかの解説を引き続きもってしてなすとして

 改頁なしたところでくどくも振り返っておく。ここ確率論に基づいて計数的に状況ありようを提示しようとの段にあっては世に膨大数多ある情報の中から取り立てて、


【第三者が容易に確認出来る刊行物とのかたちで流通している日本語文字数換算にして1万字以上(英語単語数においては3000語以上)の過去の「文献」記録(古典から現代小説などフィクション、そして、特定のトピックについて解説を加えているノン・フィクションら問わずもの文物)】
あるいは
【第三者が容易に確認できる商業作品として市場市中に流通している過去の「映像」記録(映画作品など)】
のいずれかにあたり、そして、先行して顧慮したものと差異が乏しい引用情報・仄聞(伝聞)情報を扱っているとの(公)文書を除外したもの

であり、なおかつもってして、

要素A:[911の事件の発生を事件発生前に先覚的に言及しているとの要素を具備している]

要素B:[[ブラックホール]ないし[ワームホール]ないし(機序不明概念としての)[異界との扉]のどれか一つないし複数と明示的に結びつけられている]

要素C:[粒子加速器と結びついている]

要素D:[アトランティスと命名されての概念と関わっている]

要素E:[古のトロイアにまつわる伝承との結節点 (1.叙事詩『イリアス』というトロイア崩壊にまつわるプロセスを扱った古典の際立っての構成要素】あるいは2.【叙事詩『オデュッセイア』というトロイア崩壊にまつわるプロセスを扱った古典の際立っての要素】などとの結節点) を色濃くも具備している]

要素F:[ヘラクレスの12功業と直接的に関わっているとの特性を具備している]

要素G:[爬虫類の知的異種族([聖書の蛇]や[悪魔]といった存在は除く)と濃厚に結びついている]

要素H:[垣根としての五芒星・五角形と濃厚に結びついている]

要素I:[キリスト教大系におけるサタンないしルシファーと「直接的に」結びついている]

要素J:[聖書における禁断の果実と「直接的に」結びついている]

のいずれかの要素を帯びているものである


との情報「のみ」をもってして

[確率論の基礎になる【事象】(サイコロを振って1が出る、2が出る、といった確率を考えるうえでの行為、【試行】の結果である(ワン・)イベント)のありようの判断に際して顧慮する情報]

とすることにしている(と申し述べていた)。

 そして、以上のような要素らの具備をいかように対象データ「ら」が保持しているかに基づいて[観測【事象】]の切り分け手順 ―切り分け手順1から切り分け手順6― を定めた...。

 そちら細かい[切り分け手順]の中身については自然言語(日常使用言語)を用いつつ処理の仕方について例示なしながらもの解説を加えもしたとの先行最前の箇所の内容を参照いただきたい。

(振り返っての表記はここまでとして)

 それでは、以下、ここまで解説を延々となしてきた処理手順に一体どのようなデータを流すのかの話に入りたい。にまつわっては直下にて一覧表記するとおりのデータを一覧表記なした順序そのままに切り分け処理手順にかけるとのことをなしてみることとする。

 以上のように一覧表記しての入力データを情報処理する(分類付けする)にあたって呈示のアルゴリズムを作用させるといかな関係性が[自動導出]されてくることになるのか (字義通りアルゴリズム ―プログラムに対する指示書式― として機械的にはき出されてくるように仕様を定めている中でいかな関係性が[自動導出]されてくることになるのか) の記述をこれよりなすこととする。

(前頁にても提示した【処理上のコンセプト(概念)】および【具体的処理フロー図】をここでは再掲しておくこととする)

 膨大数多なる世の中の[情報]から【日本語文字数換算にして1万字以上(英語単語数において3000語以上)の「過去の」確認容易な公共空間流通の文献記録として具現化しているもの】ないし【「過去の」市場市中に流通の映像記録として具現化しているもの】であり、かつもってして、要素A]から[要素J]のいずれかを具備しているとのもののみを
[情報処理]
の対象と見做す(先述)として、である。
 そうした色つきの情報を含めて情報をいかように処理していくのかの【手順】について
[骨組みとしてのアバウトな構図]
を(再度もってして)呈示しておく。
 その点、膨大数多なる情報については下述のような式での段階的処理手順、【処理手順1】から【処理手順6】をもってして"ふるい"にかけるように顧慮・活用していくこととなる。

「あらかじめ色つきの情報であると捕捉されている「いくつかの」情報が【処理手順1】から【処理手順6】にて機械的に要素分析されるとの手順を定める。
 の際、情報が【処理手順1】に流れると ―機械的にそれが判断できるようにしている仕組み(後述)に応じて― それらデータの【色つき度合いの色の濃さ】(と【データの接合性】)を自動判断、確率論の基礎にする上で【恣意性】がそこにあると「強」判断する(【偶然】であるとは考え難いと判断する)上での【事象(いいだろうか.先述のようにサイコロを振って1が出たといった【イヴェント】のことを【事象】と確率論では呼ぶ)を捕捉するとの処理をなす
 またもってして、【処理手順2】から【処理手順6】でも同様のことをなす。その点、【色つき度合いの濃さ】を自動判断する(純・機械的に判断する)との処理は下位処理手順の方がより薄くもの関係性を特定化するように処理手順を定めているため、下位手順で【事象】が捕捉される場合、それは確率判断において【恣意性】がそこにある場合の否定「的」材料となるようなものとなりがちである」 

(上のそれだけ骨組みの図ではよくご理解いただけないかもしれないが、さまざまな【事象】を捕捉するための段階的処理手順を定めているとの図は
何重にも編み目状のふるい(フィルター)が内部に設けられている容器
の如きものであると見ていただきたい。
 その容器に情報という名の液体をジャブジャブと注ぎ込んだとしよう。情報の中には大小の問題となる関係性が【石】のように含まれている。それら関係性を(ここで問題としている説明の便宜として引き合いに出している)容器にあっては段階捕捉する、情報という液体の中に大小の石のように含まれているそれらを各々の段階のふるい(フィルター)で捕捉収集するとのかたちとなる。
 に際しての捕捉集塵傾向に関わることとして述べれば、上のフィルターの方が編み目が粗い。となれば、そこで捕捉されてくる[関係性の石]はより大きな、露骨でごつごつしているものとなる。他面、下にいくにつれてフィルターの目が細かい。より微細なる、本来的には無視してもいいような細かい[関係性の石]までをも集塵することになる
 そうもして上から下への流れの中で捕捉していく関係性の石らをもってして【事象】と見ることとするわけであるが、捕捉の階層(それを捕捉したフィルターの位置/上層のフィルターか下層のフィルターか)に応じてそれら【関係性の石】(転じての【事象】)が等級付けされもする (より大きい石の方が重篤なものであると判ずる) との手順を定めての中で捕捉されてくる【事象】の比率に応じて所与の(あらかじめ設定している)仮説らの成立しやすさ度合いを確率論で判断するとのことをなす....。といったことをなそうというのである)



処理手順1から処理手順6の細かい自然言語(日常使用言語)による概要説明および具体的処理例の紹介は先立ってのページに譲る

(表記の【切り分け手順1】から【切り分け手順6】でもってして上にて処理データとして一覧呈示したデータらに処理をかけた場合にいかなる結果が導出されてくるのかについて下にまとめての表記をなす ―(順次、一単位づつ得られるとの[関係性「強」要素]を([判断材料Blackオプション]との先にての表記をよりもって端的に)[黒]と表し、[関係性「中」要素]を([判断材料Greyオプション]との先にての表記をよりもって端的に)[灰]と表し、[関係性「弱」要素]を([判断材料Whiteオプション]との先にての表記をよりもって端的に)[白]と表した場合の結果として下にまとめての表記をなす)― )


(以下、先立っての表にて一覧表記したデータらを表記順序通りに呈示の処理手順で処理するといかなる要素が自動抽出されてくるのかの結果表記として ―疑わしきは呈示のアルゴリズムに御自身手ずからデータを流してみて確認いただきたい次第だが、基本的に『そうなのか、そのような結果が出てくるのか』程度に受け取っていただいても構わないものとして呈示をなしておく― )

(関係性判断材料要素としての)[黒]の抽出  (【[要素A]-(紐付けられてのデータ)キップ・ソーン著作『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』】 ⇔ 【[要素A]-(紐付けられてのデータ)1993年公開映画『スーパーマリオ魔界帝国の女神』】、 【[要素B]-(紐付けられてのデータ)キップ・ソーン著作『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産】 ⇔ 【[要素B]-(紐付けられてのデータ)1993年公開映画『スーパーマリオ魔界帝国の女神』】 とのかたちでの要素A(911を事前言及していると判じられる描写を含んでいるとの要素)および要素B(ブラックホール・ワームホール・異次元との扉にまつわる要素)の共有関係より自動抽出)

[黒]の出力  (【[要素B]-LHC関連長文実験資料一点(ここでは米国研究者ら由来の Large Extra Dimensions and Quantum Black Holesを典型的資料として用いた)】 ⇔ 【[要素B]-第二のエメラルド・タブレット(と銘じられての太平洋戦争勃発に先立つ神秘主義者由来の捏造文書)】、 【[要素D]-LHC関連長文実験資料一点】 ⇔ 【[要素D]-第二のエメラルド・タブレット】 とのかたちでの要素B(ブラックホール・ワームホール・異次元との扉にまつわる要素)および要素D(アトランティスにまつわる要素)の共有関係より自動抽出)

[白]の出力  (【[要素G]-1993年公開映画『スーパーマリオ魔界帝国の女神』】 ⇔ 【[要素G]-第二のエメラルド・タブレット(と銘じられての太平洋戦争勃発に先立つ神秘主義者由来の捏造文書)】 とのかたちでの要素G(爬虫類の種族を扱っているとの要素)「のみ」の共有関係より自動抽出 ――※アルゴリズム(プログラミング可能なる処理フローにまつわる手順書式)の問題として入力順序4番目のデータ(上の表を参照のこと)である[第二のエメラルド・タブレット(とタイトル付けされての太平洋戦争勃発に先立つ神秘主義者由来の捏造文書)]をデータとしてエントリーさせた時点で1番目に入力していた[LHC実験関連資料よりの抽出要素]とのすりあわせ処理(マッチング処理)がアルゴリズム上にて発生しているのだが、その際、残余の部として(処理手順上)消除されなかったデータとしての[[第二のエメラルド・タブレット]に由来する要素G]が[第6の切り分け処理手順処理用領域]に(処理手順のありように応じて)自動的に落ちて行き、そちら領域に先のデータ入力時処理段階で既に落ちていた[1993年公開映画『スーパーマリオ魔界帝国の女神』に由来する要素Gのデータ]とのすりあわせ処理(マッチング処理)が連続して発生、上のような[白]のデータが自動抽出されているとの運びとなっている (直感には多少ずれるところがあるのだが、機械的処理フローの硬直性を拭えぬところとして[白]のアウトプットがなされるとのかたちで仕様を定めもしているとのことがある) ―― 

[黒]の出力  (【[要素B]-古典『地獄篇』】 ⇔ 【[要素B]-古典『失楽園』】, 【[要素C]-古典『地獄篇』】 ⇔ 【[要素C]-古典『失楽園』】 との要素B(ブラックホールにまつわる要素)および要素C(ルシファーにまつわる要素)の共有関係より自動抽出)

[灰]の出力  ([要素D]-中世地誌『新年代記』】 ⇔ 【[要素D]-発掘遺物『トロイア年代記』】, 【[要素E]-中世地誌『新年代記』】 ⇔ 【[要素E]-発掘遺物『トロイア年代記』】 との要素D(アトランティスにまつわる要素)および要素E(トロイアにまつわる要素)の共有関係より自動抽出 ――※オーソドックスな神話伝承およびにまつわっての理論では【アトランティスとトロイアとの結びつき】が問題視されることはないに等しい(たとえもってしてアトランティスが【黄金の林檎の園と結びつけて見られもするもの】、【洪水伝承と結びつけられるもの】であり、対して、トロイアが【黄金の林檎による滅亡した都市】、【創始伝承(および一部滅亡伝承)にあって洪水伝承との結びつきある都市】であっても、である)。 にも関わらず、両者(アトランティスとトロイア)の間に記号論的つながりあいが存在していることを問題視している、縷々(るる)詳述してきたとのそれなりの理由があって問題視しているのが本稿となっており、そうもしたところから【アトランティスとトロイアのつながりあいの関係】の捕捉をもってして[[灰色]の関係性判断の材料]を切り分けるとのことをなしている―― )

[黒]の出力  (【[要素A]-小説『ジ・イルミナタス・トリロジー』】 ⇔ 【[要素A]-映画作品『ファイト・クラブ』】, 【[要素F]-小説『ジ・イルミナタス・トリロジー』】 ⇔ 【[要素F]-映画『ファイト・クラブ』】 との要素A(911の事前言及と結びつく作品)および要素F(ヘラクレス12功業)の共有関係より自動抽出)

[黒]の出力  (【[要素B]-テレビドラマ『スターゲイト・アトランティス』】 ⇔ 【[要素B]-小説『ジ・イルミナタス・トリロジー』】, 【[要素D]-テレビドラマ『スターゲイト・アトランティス』】 ⇔ 【[要素D]-『ジ・イルミナタス・トリロジー』】 との要素B(ブラックホール・ワームホール・異界の扉にまつわる要素)および要素D(アトランティスにまつわる要素)の共有関係より自動抽出 ――※ペンと紙だけで再現できる処理手順の中身について述べれば、である。アルゴリズムのありようとして入力順序11番目のデータ(上の表を参照のこと)である映画『ファイト・クラブ』を入力した時点で先立って入力していた『ジ・イルミナタス・トリロジー』とのマッチング処理が[第1切り分け手順]用の処理領域にて発生。の折、残余の部として消除されなかったデータとしての[[ジ・イルミナタス・トリロジー]に由来する要素Bおよび要素Dのデータ]が[第2の切り分け処理手順処理用領域]に機械的に落ちて行き、そちら領域に先のデータ入力時の処理で既に落ちていた[『スターゲイト・アトランティス』に由来する要素Bおよび要素Dのデータ]とのマッチング処理が連続してなされて上のような[黒]のデータが自動抽出されているとの運びとなっている―― )

[黒]の出力  ( 【[要素B]-小説『タイタンの妖女』】 ⇔ 【[要素B]-小説『コンタクト』】, 【[要素E]-小説『タイタンの妖女』】 ⇔ 【[要素E]-小説『コンタクト』】 との要素B(ブラックホール・ワームホール・異次元との扉にまつわる要素)および要素E(トロイアにまつわる要素)の共有関係より自動抽出 ――※小説『コンタクト』と小説『タイタンの妖女』の間には[ヘラクレス]を介しての関係性があるとのことも本稿本文にて原文引用なしながら論じているのだが(出典(Source)紹介の部65(11)]および出典(Source)紹介の部66、ここでは両者のヘラクレスを介しての関係性は関係性の自動抽出に影響して「いない」。というのも『コンタクト』と『タイタンの妖女』の両作に[ヘラクレス]の要素が目立って現れているとデータ入力して「いない」からである(両作共々、[ヘラクレス座M13星雲]を目立って作中にて登場させているのだがそれが両作の主だっての筋立てを規定しているとは判じておらずデータ入力にあってはそのことは省いている)―― )

[黒]の出力  (【[要素A]-漫画作品『ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース』】 ⇔ 【[要素A]-映画作品『トレーディング・プレイシズ』】, 【[要素F]-漫画作品『ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース』】 ⇔ 【[要素F]-映画『トレーディング・プレイシズ』】 との要素A(911の事前言及と結びつく要素)および要素F(ヘラクレス12功業と結びつく要素)の共有関係より自動抽出 ――※[911の事前言及と結びつく要素]を二つの作品が共有している段階で尋常一様ならざるところなのだが、ここではその事前言及描写に[ヘラクレスの第11功業に登場する黄金の林檎(の質的等価物と歴年見做されてきたことが知られる「オレンジ」)]が関わっていることをも「機械的手順で」切り分けして[関係性「強」]の判断材料を一単位、プロットしている―― )

[黒]の出力  (【[要素A]-小説『タイムクエイク』】 ⇔ 【[要素A]-映画作品『バック・トゥ・ザ・フューチャー』】, 【[要素B]-小説『タイムクエイク』】 ⇔ 【[要素B]-映画作品『バック・トゥ・ザ・フューチャー』】 との要素A(911の事前言及と結びつく要素)および要素B(ブラックホール・ワームホールら時空間の穴と結びつく要素)の共有関係より自動抽出 ――※小説『タイムクエイク』および映画作品『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が[複線的な意味合いでの911の事前言及文物]としての要素(要素A)を帯びているとのその理由については本稿本文を参照いただきたい(そうしたデータ入力以前のデータ具備の判断は[プログラム処理をひたすらに機械的に動かすような機械]には難しく多層的に物事を見る人間の脳ではないと判じ難いところであると見てとれるものである)。につき、[911の事前言及と結びつく要素]を二つの作品が共有している段階で奇怪であるというのは(再度繰り返し)論を俟たないことなのだが、それら作品らが[時空間に開いた穴]といったものと接合する要素を帯びていることはさらにもって([偶然]として見た場合)尋常一様ならざることである(であるからこそ、仕様の問題としてそうした関係が捕捉された時点で偶然性を強くも否定するとの確率論的ありように関わる[関係性「強」判断材料]を一単位プロットするようにアルゴリズム設定している)。尚、ここでは入力データとして『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のことを問題視したわけだが、同じくものところを代替できるような例として本稿では『スーパーマリオ魔界帝国の女神』やキップ・ソーン著作『ブラックホールと時空の歪み』を挙げてもしてきた。が、それらは既にデータ入力順序に基づいて(問題を単純化させるために重複使用を許さぬように「わざと」仕様設定している)アルゴリズムの問題で省きもしている。だが、しかし、たとえば、同様に本稿本文にてその存在について論じてきた映画作品『ジェイコブズ・ラダー』といった作品を見様見方によって『バック・トゥ・ザ・フューチャー』らに代えることもできるであろう(多少無理があるためにそうもしたオプションは取るつもりはないのだが)。というのも、映画作品『ジェイコブズ・ラダー』は(本稿にての[補説4]の部にてDVDの再生時間を例示しながら)[爆発にまつわる描写と119との数値を結びつけている作品]となり(かの911の事件に対する事前描写とも述べられる)、また、同映画表題『ジェイコブズ・ラダー』に見る[ジェイコブズ・ラダー]とは[天界とのゲート]として旧約聖書に登場を見ているものであり、また、フリーメーソンのシンボリズムにあって[異界の領域への通路]といったヴィジュアルのものとして描写されるものであるからである(細かくもの解説は本稿本文を参照のこと)―― )

[灰]の出力  (【[要素A]-国内青少年向け映画作品『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』】 ⇔ 【[要素A]-米国青少年向けアニメ作品『ザ・シンプソンズ』】 との要素A(911の事前言及と結びつく要素)および要素F(ヘラクレス12功業と結びつく要素)の共有関係より自動抽出 ――※くどくも当たり前のことを繰り返そう。[911の事前言及と結びつく要素]を二つの作品が共有している段階で「このようなことがただの偶然で起こることなのか?」といった性質のことなのだが、であっても、本稿での確率的分析(ベイズ推定による[まったくの偶然]か[曰(いわ)く言い難し]か[明らかな恣意]かの分析)のための材料抽出の本プロセスではそれをもってしても[関係性「中」]の材料としての灰色の材料としてしか重み付けなしていない。というのも、筆者はそうした予見文物が「ざらにある」とのことを「識っ」ているからであり、といったものを全て「恣意の賜物」と顧慮してしまうと膨大な人間の知的成果物を所定のフローで関係性判断の材料に供しても「恣意は動かない」とのことになり「お話にならない」とのことを把握しているからである(については何度も強調したいことなのだが、筆者はここにてわざと自分の訴求せんとしていることに[不利]なる条件設定をなして、「それでも、、、、」の問題を強くも呈示していこうとの[良心的ベイズ主義者]( good Baysian )としてのやりようをなしている)―― )


 以上のように「呈示順序の通りに一覧表記なしたデータらを[入力]したらば」機械的に

[黒][黒][白][黒][灰][黒][黒][黒][黒][黒][灰]

との関係性判断材料がアルゴリズム ―その意味性については間を経ずに再述することとするが、実にもって単純なアルゴリズムではある―  に基づいてプロットされてくる(ようにしている)。

※補足1:表記アルゴリズムに応じて自動出力されてくる[「入」「出」力データ性質]についての補足として

 データ(色づけのありようが問題となるところの特定の文物や映像作品ら)を[入力]した、そのデータ入力に応じて関係性判断の材料が[出力]されてきた、との流れにあっての入力]ならぬ[出力]情報 (先述のように確率論的にサイコロの目の出方1から6を【事象】と表するわけだが、ここでの[出力]情報もまた関係性判断における「黒」「灰」「白」と色づけての【事象】となる) の方については機械的に抽出されてくるとのものであるために属人的主観が問題視されるような側面がない、そう、そちら[出力]情報の[出力]手順の「仕様」の定立の仕方が俎上にあげられる以外に属人的主観が問題視されるようなものではない。
 それは特定の情報をインプットしたらばお決まりの情報加工プロセスが発生するとのものであるから出てくる結果、[黒][灰][白]に対して何故もってして黒色なのだ、何故もってして灰色なのだ、何故もってして白色なのだと文句の付けようはないということである (そこで文句を付ければ、「アルゴリズムで機械的に導出するとの仕様です」「アルゴリズムで機械的に導出するとの規則です」としか返答が返ってこない)。
 そうもした出力データについては ―規則・仕様それ自体に対して「こういう決まりは現実を近似的にもモデル化するのには不備があるのではないか」などと文句を付ける以外には― 
「個人の主観だろうが。これは」
などと文句を付けるのは妥当ではない(そこで文句を言うのは[議会で制定された法律]そのものに異議を呈するべきところで[法律に準拠しての役所のお定まりの事務処理]に文句を言うようなものである)。

 対して、
[(出力ならぬ)[入力]データの(処理過程での)位置づけのありよう
に関しては大いに
「属人的主観の先行が問題になるとのことはないか」
「誰でも納得がいくとのことをきちんと問題視しているのか」
とのことが検討されて然るべきところとなる。
 たとえば、特定入力データにあって[要素A]と[要素B]の具備が本当にみとめられもするのか、ということは ―機械的処理の外側で― きちんと検討されて然るべきところとなる (手続きが厳密に定められた事務処理の手順(および、による分類結果)ではなく、そも、事務処理に供される資料に捏造贋造の類がないのか(あるいは文書意味合いについての処理実行者の不等な評価付けがなされていないか)、そういう問題である) 。

 ここで述べるが、本稿この段で確率論の基礎とすべくも「情報処理」する(すなわち、[(離散的)確率論の対象としての明確に色分けした【事象】]のありようを捕捉すべくも「情報処理」する)との[データ]については顧慮対象となるべくものものとして最低限の条件として


[要件1]

【第三者が容易に確認出来る刊行物とのかたちで流通している日本語文字数換算にして1万字以上(英語単語数においては3000語以上)の過去の「文献」記録(古典から現代小説などフィクション、そして、特定のトピックについて解説を加えているノン・フィクションら問わずもの文物)】
あるいは
【第三者が容易に確認できる商業作品として市場市中に流通している過去の「映像」記録(映画作品など)】
のいずれかにあたり、そして、先行して顧慮したものと差異が乏しい引用情報・仄聞(伝聞)情報を扱っているとの(公)文書を除外したもの


であって、なおかつ、


[要件2]

[要素A]から[要素J]のいずれかの具備しているとのもの]


との前別条件を定めている(前掲処理フロー図の[分岐1]および[分岐2]の部)。 

 そうもしたデータのありように関して


[要件1]

【第三者が容易に確認出来る刊行物とのかたちで流通している日本語文字数換算にして1万字以上(英語単語数においては3000語以上)の過去の「文献」記録(古典から現代小説などフィクション、そして、特定のトピックについて解説を加えているノン・フィクションら問わずもの文物)】
あるいは
【第三者が容易に確認できる商業作品として市場市中に流通している過去の「映像」記録(映画作品など)】
のいずれかにあたり、そして、先行して顧慮したものと差異が乏しい引用情報・仄聞(伝聞)情報を扱っているとの(公)文書を除外したもの


に対象が合致するものか否かはほぼ容易に明確に線引き出来るところであろうが(文書の質的同質性といったことの度合いはともかく文字数カウント・尺の計算などは機械でもできるであろう文字数カウント・尺の計算などは機械でもできるであろう)、


[要件2]

[要素A]から[要素J]のいずれかの具備しているとのもの]


に対象が合致するものか否かはあらかじめもってして ―たとえばデータ入力前の[要素A]から[要素J]の具備状況のラベリングの段階でもってして― 「嘘・偽りがなされていないか」との[比較的手間がかかる判断]が必要になる(とのところであって然るべきである)。

 であるから、果たして本当に[要素A]から[要素J]を具備しているのか、筆者はつい先立っての入力データ一覧表の箇所にて[要素A]から[要素J]をいかように具備しているのか、そして、その典拠となるところは奈辺にあるのか、本稿にてあっての典拠紹介番号を付している ――請け合うが、本稿にあっては(自身の主観を先行させての話を避ける中で)典拠については第三者が具体的にすぐにこれだと確認できるものを選んで挙げており、また、それら典拠は「折り紙付きである」とのレベルで誤りが介在しにくいものを見繕っている―― 。

 そうもしてここにて「機械的に処理されて出てくる」出力情報 ―関係性判断にまつわる[黒][灰][白]のデータら(本当に[黒]なのか、[灰]なのか、[白]なのかとの意味では問題にならぬとの定型的処理にて導出されてくるデータら)― は云うに及ばず、入力情報も「賽の目が1から6と厳密に定まっているように」厳密にそうだと定まっているものであると申し添えておく (:尚、サイコロの目が1から6から定まっていてもそこに分銅が入っているように1から6の内、[偶数]ばかりが出る、じゃあ、いんちき・いかさまじゃないのか、とのこととは話の性質が違うとのことも一応断っておく。 ここでの確率論を展開しているとの意図は、そも、いんちき・いかさまの有無があるのかの検証の仕方を比較的複雑な事物に対してのやりようとして示すためであって[目的]と[手段]を履き違えてはならぬところでもある([目的]とのことについてよりもって述べれば、いかさま師がいかさまの対象を破滅させる[意志]を有していることを白日に曝すことを念頭に置いているわけでもあるが、にまつわっては銘々がこれまでの本稿の内容及びこれよりの本稿の内容の(批判的視座にてでもの)検証でもってご判断いただきたいと考えている)。  また、上にての例示事例では[黒]のデータばかりが出ているわけだが、それは筆者がそういう材料を選んで入力しているがゆえであること、論を俟たないわけであるも、それは[いかさま]ではないこれより筆者はそうしたデータを確率論(ベイズ確率論におけるベイズ推定)における【事象】、検証仮説らのありようを判ずるうえでの【事象】として材料にしての計数的分析をなしもするが、「自身の示したい結論とは真逆の」大量のダミーデータも用意しながら、それらでもってして確率分布がいかように変異していくのか、厳密なる数式上の話を呈示していく所存である ――といったことをやらなければ無論、まともな確率論とはならない。自身の呈示ししたい論理論拠を挙げ連ねる一方で他面、反証(となりうる)データを一切問題視しないとの式で計数的な話をなそうなどとのことになれば、 詭弁の徒輩が数式を手繰っているにすぎない、そうしたやりようはこの身はなさないと述べている―― )。

※補足2:これより展開していく確率論それ自体の性質についての補足として

 今しばらくも補足としての表記を続ける。

データの客観性が担保されたものとして呈示されて「も」 ―(七面倒くさいとのことでそれが検討されるかは別としてとにかくも検討されれば適正であると分かろうとの【手順】を通じて分類付けが機械的になされもする対象、そうしたものとしてのデータが客観性が担保されたものとして呈示されて「も」)― 呈示されたデータに対して終局的にそれが適用されるとの【数式】(および、よりもって重要なるところとしての、【数式】の背後にある数学上の思考法)が難解ならば、適正さの判断が困難なものであるのならば、[多くの人間]にとって検証不能なのではないか(であるからそうもした話をなすことはほとんどもってして意味が無いのではないか)』

と思われる向きもあるであろう。

 だからこそもってして述べるが、

「これ以降の確率論の話は高等学校にて理系進路の選択をなし、また、[大学レベルでの確率論の基礎]を学んだ向きには「ほとんど惑う余地がない」との性質のものである。
 さらに述べれば、文系進路で大学に進んだ向きにも基本的に理解に窮するようなことがないようもの「ですら」ある(:筆者などにとってはそも、何故、高校レベルで理系・文系と人間を選り分けするのか、得手・不得手への配慮以上には理解に失するところがあるのだが(に関して合理的目的があるとすれば[思考を支えるツールを与えずにの人間の部品化・歯車化]を「より一層」押し進めるとのことにでもあろうか)、といったことも問題にならないようなところである)。 
 そう、(専門家以前に理系「的」人間に本当ならばその理解が基礎として求められる)基本的な数学知識だけで理解なせるとの話をこれ以降、心がけてなす。
 その点、大学の単位取得過程にて、いや、それ以前に高等学校での理系進路の選択をなしていてもそこで用いられる[数式]の意味さえ理解できていないとの向きも多くいるようではあるものの、(そう、属人的目分量を過度に強調しての話をなしていると思われる向きもあるかもしれないが、東京大学の偉い学者のセンセイなぞらが監修しているとの名目でのこの国の教科書の内容が[まともな脳味噌を有した人間]には理解に窮するほどに質が低い(理解に要るとの最低限の説明さえなされていない、たとえば、高等学校で用いられる数学の教科書にあって積分にあって[取り尽くし法(的なる概念の沿革)]の説明さえなされていないのだから、それが理解できるとすればその類は[回路付きの機械人間]あるいは[本質的知能無き傀儡(くぐつ)]であるといったありようが見てとれる)といった按配の相応の「まず最初に天ありき」のものであることが往々にしてあるためにそうもなっている節がある ――かくいう筆者も高校で微分の式を見ながら『どうして沿革・意味さえまともに説明なさずにこうした式を[最初に天ありきなもの]が押しつけられるんだ?こういう教科書をこさえている連中は、また、こうしたものを意味も分からずに唯々諾々と理解した気になって活用できている気になっている連中は頭の具合がやっぱり本当におかしいんじゃないのか?』などと、(往時未熟であり手前が今以上に頭が悪かったがためかもしれないが)、真剣に思い悩んだり(のような発想法も出てきてしまうような中で進学校で良い教師にも出会えず、だが、といったことまで考えられる人間ならば今時分ならばたとえばそもそも概念の説明をなしている基礎的解説書にまで食指を伸ばすことであろうかとも思う)、大学にて必修指定されていた統計の科目を学んでいた折柄には『この説明でここでの積分の意味が本当に分かっている人間が一体どれくらいいるっていうんだ?教育課程の問題っていうやつでほとんどいないんじゃないのか(俺もさっぱりもってわからねえな)』などと周囲をきょろきょろ眺めながら深刻に首をかしげていたものである(そして関数処理機能付きの高機能電卓を適切に用いられればといった風情の人間でもそうした中でAが取れてしまう(実際、筆者は経済学部に属していた折、何も分からないでとりあえず要領として手順だけ暗記していた計算に持ち込み許可電卓でもって臨み、適正回答をなんとか導出、「俺でAなのかよ.びっくりだね、こりゃ」などと思わざるをえぬところでAを取ってしまっていた)との式で世の大学教育というものにも首をかしげていたものである/頭の具合がよろしくはないとのことでなければ履き違えないかとも思うのだが、説明がなされておらず、直覚的に理解出来る素地があまりないとの科学言語を主軸とした世界にて参入条件を満たしていないにもかかわらずまるで完全に理解しているように振る舞い続けられる存在は天才などではない、断じてない.鬼才との言葉があるわけだが、仮にといった者がいれば、その鬼才の一語が悪い意味で意をなすとの本来的には「妖しき」存在である)―― )、 紛い物にも本物のような権威を与えうるとの世のありようを脇目にしてきた中で述べれば、これよりの話は数式の意味さえ理解出来ていないで複雑な数式の話を展開しているようなロボット(一々もって毒を含めての言いようで失敬)でなくとも易々と理解出来るとのものにする、そう、「必要以上に難解な」数式の話はしない(だからこそ「惑う」余地がほぼない、と)。 また、文系人間(と自らを規定してしまっている人間)にも出来るだけ話を単純化させての「単純な」利用数式の説明の事細かに付すことともする」

 以上のような方向性 ―文系人間とラベリングされているような人間でも高校卒業程度の知識水準があれば理解なせるであろうとの事細やかな確率論にまつわる解説をこれよりなしていくとの方向性― にまつわる話をなした上で、である。微に入ってのベイズ確率論の話に入る前に、ここ補足2と銘打っての段で

[それをなすことが限局化した意味でしか意味をなさぬとの[極めて「よろしくはない」確率論]にまつわる話]

をまずもってなしておく (「そうした話を展開することには意味がないと判じられる」との反面教師的な性質を呈示する、その意でのみ取り上げるに値するとの[極めて「よろしくはない」確率論にまつわる話]をまずもってなしておく) 。

 その点、筆者が「訴求の用に供するためだけに」提訴していた、

[LHC実験に携わる実験機関(権威の首府でもある国際加速器実験の国内調整研究機関)を対象に提訴した日本国内行政訴訟] (本稿前半部にての出典(Source)紹介の部17から出典(Source)紹介の部17-4を包摂する部でそちらにまつわる説明を多少なしているように筆者は「常識的な」訴求を行政訴訟提訴とそれによる欺瞞の摘示 ―実験に公金でもってして関わる公的機関が国民に対する説明責任の問題に背馳(はいち)し、また、法に触れるとの[欺瞞]ある応対を平然となし、[実験のリスク問題(ブラックホール生成が取り沙汰されてきたとの問題)に関して衆をたばかるようなこと]をなしたとのことが法律上の争点となっていもしたとの訴訟― とのかたちでなさんとしもしてきた人間ともなる)

にて ―先方の弁護士らが二転三転する主張をなし、二年以上も「無為に」(効果として結果的に「無為に」)続いた第一審を経て― 控訴審(東京高裁法廷)に提出した、

[控訴理由書] (『行政訴訟など訴外の手段に用いる意味を越えては意義が無い挙に陥りがちだ』と(諸所より話を聞いたり、関連文献ら紐解きもして)分かっいた中でながらも力んで作成していたとの計にして120頁超にも及ぶ長大な文書/訴外でも水面下訴求用に用いられるようにとの観点で作成なしていたとのものではあるが、現況もってしてネットでダウンロード可能とはして「いない」との文書)

における記述内容からの引用を

[限局化した意味でしか意味をなさぬ確率論にまつわる例示] (いわばもってしての[反面教師]としての例示)

としてなしておくこととする。

直下、自身が第一審原告あらため控訴人として東京高裁に提出していた控訴理由書、同控訴理由書にあって[法律上の争訟に直に関わらない補足の部である]と手ずから明示して付していたとの部、p.115からp.122の内容を(一部中略なしながらも)そのままに転載しておくこととする

2.確率論的縛りとして普通人には承服できぬような安全性予測がだされていた、とのことが粒子加速器実験に関しては存することについて

 ケンブリッジ大に奉職する学者にエイドリアン・ケント( Adrian Kent )という人物がいる。
 原告第一準備書面p.38-p.40 にてもその加速器にまつわる意見内容を問題視したとの人物が同エイドリアン・ケントとなるが、同人物、確認できるだけで下のようなきらびやかな来歴を有した人物となる。

Reader in Quantum Physics, DAMTP, University of Cambridge(⇒ケンブリッジ大 DAMTP(Faculty of Mathematics数学科と訳せる)の量子物理学分野主任)
Distinguished Visiting Research Chair at Perimeter Institute for Theoretical Physics in Waterloo, Ontario (⇒カナダ、オンタリオ、ワーテルロー大のペリメーター理論物理学研究所(と訳せる)の特別招聘調査主任)
Fellow of Wolfson College, Cambridge (⇒ケンブリッジ大ウルフソン・カレッジのフェロー)
Director of Studies in Mathematics at Darwin College,Cambridge(⇒ケンブリッジ大ダーウィン・カレッジの数学科主任)
Affiliate at the Institute for QuantumComputing, University of Waterloo, Ontario (⇒カナダ、オンタリオ、ワーテルロー大の量子コンピューティング研究機関にあっての会員)
Visiting Scholar at Wolfson College,Oxford (⇒オクスフォード大ウルフソン・カレッジ客員研究員)
Visiting Scholar at Massey College, Toronto(カナダ、トロント、マッセー大学客員研究員)

…(中略)…

 さて、以上のようなきらびやかな来歴の持ち主たるエイドリアン・ケント Adrian Kentであるが、同人物が2000年に世に出した論稿に下のような現時、オンラインから誰でもダウンロード可能な(そして、ある程度、有名な)論稿がある。

(論稿名) A critical look at risk assessments for global catastrophes
(配布URL ⇒ http : / / arxiv. org /pdf /hep-ph /009204v6. pdf)(タイトルを和訳すれば、『地球規模の大災厄に対するリスク・アセスメントに対する批判的視座』とでもなろう論稿。 表記のタイトル( A critical look at risk assessments for global catastrophes )の検索エンジン上入力でPDFファイルを特定、ダウンロードできるもの / 日付表記では2000年に初版がものされ、2003年に修正を見ている ―― April 2003 (revised)―― とのものとなる(写しを甲第八十四号証として本書に付しておくことともする) )

 これまた当然に文献的事実の問題に関わるところとして写し(甲第八十四号証)を本書に付した上記論稿 、

A critical look at risk assessments for global catastrophes

の冒頭ページ(の中段)には

For example, DDH's main bound, P catastrophe < 2 × 10-8, implies only that the expectation value of the number of deaths is bounded by 120 ; BJSW's most conservative bound implies the expectation value of the number of deaths is bounded by 60000.

との記載がなされている。

 以上文章については難解とも受け取られてしまう素地があるのですぐに細かき部の解説を付すが、同文章同部位、取り敢えずも訳せば、次の通りの意のものとなる。

「たとえば、DDHらの主たる縛り、[P catastrophe (カタストロフ;破滅の可能性) < 2 × 10-8 (5000 万分の1) ]は詰まるところの死の期待値として120(人)と紐づいていることを含意している. (他面)、BSJW ら の最も用心深き (最悪の事態を想定しての) 縛りでは死の期待値が60000(人)と紐づいていることを含意している」

 ここでまず上にての[DDH]や[BSJW]といった文字列についてあるが、[DDH]、[BSJW]というのは人名頭文字の略称となる。 [特定のD1 氏、D2氏、H 氏]の三名をDDHと略記し、[特定のB氏、S氏、J氏、W氏]の四名をBSJWと略記しているのである。

 同点については同じくもの論考(甲第八十四号証 A critical look at risk assessments for global catastrophes)にあっての冒頭部にて

Recent papers by Busza et al. (BJSW) and Dar et al. (DDH) argue that astrophysical data can be used to establish small bounds on the risk of a “killer strangelet” catastrophe scenario in the RHIC and ALICE collider experiments.
(訳として)
Buszaら(BJSW)の最近の報告書]Darら(DDH)の最近の報告書]らは
[RHIC およびALICE の衝突型加速器(collider)を用いての実験にてのキラー・ストレンジット破局シナリオにてのリスク]
に対する小さき境界を設ける( 「狭く細やかな境界線を引く」 )ために天文物理学上のデータを用いることを議論している」

(訳文における専門用語などについて本書ページ脇に付した別枠解説部の内容確認を請うこととして)上提出文書には
Buszaら(BJSW)の最近の報告書]

Darら(DDH)の最近の報告書]
と書かれている、そこより、「BJSWおよびDDHが特定の報告書の作成者のことである」とは察しがつくことか、と思われる。

 うち、[Buszaら(BJSW)の最近の報告書]については1999 年初版刊行2000 年改定の著名な安全報告書でW.Busza, R.L.Jaffe, J. Sandweiss .Wilczekの各氏らによる、

Review of Speculative "Disaster Scenarios" at RHIC『RHIC における[投機的(と述べられる)破局シナリオ]の分析』

との報告文書のことを指す ―本件控訴人が第一審原告との立場で甲第四十五号証として第一審法廷にて提出しているものとなる(BJSWとは上報告書の作者たる W.Busza, R.L.Jaffe, J.Sandweiss ,F.Wilczekの各氏の姓の頭文字となっている(執筆者らの姓は第一審提出の甲第四十五号証の表紙に記載されている))。

 さて、上にて言及の

Review of Speculative "Disaster Scenarios" at RHIC

という報告書は1999年にブルックヘブン国立研究所の運用する粒子加速器(加速器RHIC)のリスクが問題視された折に出されてきたものとなり、同 Review of Speculative "Disaster Scenarios" at RHICがブルックヘブン国立研究所が出していた1999年の安全報告書であるのに対して、CERN・・・(中略)・・・による1999年安全報告書「も」存在しており、そちらの報告書、

Will relativistic heavy-ion colliders destroy our planet?( 『 Relativistic Heavy-Ion Collider(RHIC)は惑星を崩壊させるか』と訳せる報告書で、先立って解説をなしながらも甲第六十七号証として本書に付しているものともなる)

となる(同甲第六十七号証として写しを提出の文書は表記のタイトル入力でオンライン上より特定・ダウンロード可能なものともなっている)。

 その執筆者らたる Arnon Dar, A. De Rujula, Ulrich Heinzらの著者らの頭文字をとって執筆者表記にDDHを充てている、とのこととなっている。

 前置きが長くなったも、以上より Adrian Kentの論稿、

A critical look at risk assessments for global catastrophes

冒頭頁にあっての

For example, DDH’s main bound, P catastrophe < 2 × 10-8, implies only that the expectation value of the number of deaths is bounded by 120 ; BJSW’s most conservative bound implies the expectation value of the number of deaths is bounded by 60000.

については

「たとえば、DDHら(甲第六十七号証として法廷に供しているCERN報告書たる Will relativistic heavy-ion colliders destroy our planet?の執筆者ら)の主たる縛り、
P catastrophe (カタストロフ;破滅の可能性) < 2 × 10-8 (5000 万分の1)]
は詰まるところの死の期待値として120(人)と紐づいていることを含意している 。
(他面)、BSJW ら(甲第四十五号証として法廷に供しているブルックヘブン国立研究所報告書たる Review of Speculative "Disaster Scenarios" at RHICの執筆者ら)の最も用心深き(最悪の事態を想定しての)縛りでは死の期待値が60000(人)と紐づいていることを含意している」

と言いかえられるとのこととなる。

 さて、ここでいくつか付言しておくが、まずもって
[ P catastrophe ]
とは Possibility of Catastrophe[世界の破滅がもたらされる確率]の略記 (本書の「後の段」(p.120-p.121)にて引用なす斯界の有力筋マーチン・リース氏による書籍からの引用部でもその通りの意のものであることを示す記述が含まれている) のことを指しもし、その[破滅の可能性]が
[2 ÷ 10 のマイナス8 乗 ⇒ 5000万分の1]
であると論じられていることとなる(:尚、本書に写しを付してのエイドリアン・ケント氏の論稿内では3と振られたページの中段にて DDH’s bounds, derived from the observed rate of supernovae, range from 2 × 10-6 (their pessimistic bound for a very slow catastrophe, in which the Earth is prematurely destroyed at some point in the billion years before it would anyway be consumed by the expanding Sun) to 2 × 10-8(their main bound) [2]. 「とも」記載されている。その趣旨は ―続く段にて解説することにも関わるところとして― 主たる予測上では破滅の可能性は「5000万分の1」、悲観的な予測として呈示されていたところでは「50万分の1」であるということとなる)。

 そちらDDH(CERN 報告書執筆者ら)の縛りが
[5000万分の1]
となり
[120(人)]
と紐づけられているということは[死の期待値] ( that the expectation value of the number of deathsと訳出部に表記されている箇所)の話となり、 同じくもの5000万分の1の確率で破滅をもたらされるということは

「5000万分の1の確率で60億人を殺害することに等しい」(報告書初期版が出された2000年の地球人口は現時点より10 億人以上少なく60億人とされている ―疑わしいとのことであれば、たとえば、ウィキペディアの[世界人口]項目などで確認なせることではある― )

とのことで[期待値] ――(※[期待値]とは「初等数学」上の概念で、[ある確率と紐づいた結果の態様からある確率の挙動に出ることで[平均、どの程度の結果が出されるか]を示すとの概念]になる (たとえば、[100分の1の確率で200点のリターンが得られる]のなら、[100 分の1×200=2(点)]がその挙の期待値であるといったこととなる) )―― は[5000 万分の1×60 億人=120 人]となる、と述べられているということである (⇒ 期待値として5000 万分の1 で地球を破壊することは120 人を殺害することに等しいということとなる) 。

 対して、

BJSW’s most conservative bound implies the expectation value of the number of deaths is bounded by 60000.「BSJW ら (ブルックヘブン国立研究所)の最も用心深き(最悪の事態を想定しての)縛りでは死の期待値が60000(人)と紐づいていることを含意している」

と記述されているのがどういうことであるか、と述べれば、最悪の縛りとしては
[10万分の1]
の確率で地球を破壊する可能性があるとの試算が出されていた、とのことを意味する(5000万分の1、すなわち、120人殺害ではなく6万人を殺害する結果が期待値として出されているのなら、60億(往時世界人口)を10万を分母にして割っているとのことになる、すなわち、[10万分の1]が問題になっているということとなる。ちなみに、10万分の1というのはエイドリアン・ケントの論考、(ここにて内容問題視している論考)にての他所に

BJSW refined their calculations in the second version of their paper, extracting an extra factor of ten and producing bounds for a ten year run of the RHIC experiment of (Cases I-III): Pcatastrophe <2×10-11, Pcatastrophe <2×10-6, Pcatastrophe <2×10-5 と表記してあることからも分かるように
「10 年間装置を運転させた」
うえでの破滅の可能性となる ――余事であるが、実験機関は(リスク算定に際しての)[想定運転期間]について誤魔化し(ないし誤謬)を含む報告書を出した、ということでも欧米圏有識者らの世界で一時、非難を浴びていた、とのこととも根を一にしていることとなる―― )。

 さて、(国内外マス・メディアなどはその点について一切、報じていないも)

『 [最悪の見立て]ベース( most conservative bound )では10年間、運転させることで地球を10万分の1で壊す確率があるなどと実験を実施している機関てずから発表している実験とは一体全体何なのか。そうした実験について[リスクアセスメント]ひいては査定に基づいての[適切なリスクマネジメント] はきちんとなされているのか』

ということが当然に問題になる(BJS「W」の報告書の「W」は後にノーベル賞を受賞したフランク・ウィルチェックであるとのこともある加味して、また、 most conservative boundとして[10 万分の1]との数値を出しているブルックヘブン国立研究所(BNL)がRHIC というその10万分の1の可能性の結果を引き起こしかねない粒子加速器実験の運用主体であったということ「も」加味して問題になる)。

 以上、述べてきたことに係ること(本書の表記記述内容の適正さを側面から示すこと)として

書籍(マーティン・リース著 Our Final Century: Will the Human Race Survive the Twenty-first Century?『今世紀で人類は終わる?』(草思社) ――邦題タイトルに付された原題は Our Final Century?―― )

よりの引用をなしておく( 表記著作『今世紀で人類は終わる?』に関しては前審にての原告第一準備書面にも甲第十九号証として写しの部を提出していたが、本控訴審では別の部の写しを甲第八十五第号証として付しておく)。

p.159-160 よりの原文引用(ただし、中略・太字化・下線付与の方は控訴人の方でなす)

ふつう、脅威がどのくらい深刻かをはかる場合は、発生率と危険にさらされる人の数をかけて、死者の「期待値」を算出することで行う当時、全世界の人々に危害が及ぶおそれがあるとして、専門家は死者数の期待値(ここでいう「期待」とは専門用語での意味)が一二〇人 (世界人口を六〇億人として仮定し、それを五〇〇〇万で割った数) にも達するだろう、と説明していた。だが、実験の「副産物」で一二十人もの死者が出るという予測を聞いた上で、物理実験に同意する気になる人はどう見てもいそうにない。したがって、もちろん、そのようには書かれなかった。代わりに、六十億人の死者が出る確率は五〇〇〇万分の一以下と記されたのである。
(中略)
ケンブリッジ大学の同僚エイドリアン・ケントは、もうひとつの問題点を強く指摘している。このシナリオでは、すべてが跡形もなく消滅してしまうおそれがあるのだ。自分たちが死んでもせめて生物学的・文化的遺産だけは残ってほしいという大方にとっての切なる願い、いいかえれば、自らの生命や仕事が連綿と続く進化の鎖のひとつになれたらとの希望を粉々に打ち砕く。

 以上の Our Final Century: Will the Human Race Survive the Twenty-first Century?『今世紀で人類は終わる?』(草思社)よりの抜粋部から述べられることはこうである。

第一。英国物理学会の権威(マーチン・リース氏)によって確率5,000万分の1が死者の期待値120人と結び付けられている(先の本書p.118 に挙げている論稿内表記法に則れば bounded by 120) とのことでつい先立っての本書p.119 にて控訴人が表記したことの内容の真正さが示されている(:換言すれば、引用なしての論文で確率10万分の1で死者の期待値60000人( bounded by 60000 )との予測が(リスクを高めに見積もる上で慎重、)[もっとも保守的なもの]として明示されていたことも事実であると予測がつくとのことである)

第二。エイドリアン・ケントがマーティン・リース(最も権威ある学者と看做されている人間)のケンブリッジ同輩と紹介されていることからもエイドリン・ケント氏が相応の学者筋(権威筋の学者筋)であることが分かる。

 以上、述べたうえで本書に付しての甲第八十五号証(流通書籍 Our Final Century: Will the Human Race Survive the Twenty-first Century?『今世紀で人類は終わる?』(草思社))よりの引用を続ける。

p.164 よりの部分引用(ただし、太字化・下線付与の方は控訴人の方でなす)

 イギリス政府の放射線障害に関するガイドラインでは、原子力発電所の職員という限られた集団に対してすら、放射線被曝によって死亡する確率が年間一〇万分の一を超えることは容認できない、としている。この極端に危険回避的な判断基準を粒子加速器の実験に当てはめたらどうなるか。危険にさらされるのが世界の全人口だとして、最大死者数はやはり厳格に制限するなら、大惨事の発生率は一〇〇〇兆分の一(一〇のマイナス十五乗)以下である、という確約がおそらく必要になってくる

 上より述べられることはこうである。

「イギリス政府の放射線障害に関するガイドラインでは「限られた」個々の原子力発電所職員の被曝死亡確率を年間10万分の1以下にする」

との要請がなされているが、そこに見る個々の職員の被曝死亡確率に対する要請確率は一九九九年粒子加速器リスク関連報告書(甲第四五号証の Review of Speculative "Disaster Scenarios" at RHIC)に普通人には読み解けないような科学言語で示されていた(とケンブリッジ大のエイドリアン・ケント氏の論文で間接的に言及されているとの)最悪の地球人類絶滅確率
「10 万分の1」
と同じであるということである ――尚、1999 年報告書に見る10万分の1というのはストレンジレットという仮想の粒子に起因する地球崩壊確率であり、ブラックホールに至ってはその生成可能性自体が[ありえぬこと]と度外視されていた(本書p.10-p.16)―― 。

(ここではいちいち[チェルノブイリ]、[スリーマイル]、[東海村JCO](死者2名・被曝者667名とも)、[福島]の話はなさない。馬鹿馬鹿しいがゆえに、である。
 尚、以上の(直近引用文書p.164 に見る)記述を自著にてなしているマーティン・リース氏は ――少なくともそちら書籍の邦訳版(甲第八十五号証)を見る限りにおいては―― 
「粒子加速器リスクが最悪の見立てとして10万分の1と見繕われていたこと」
とのエイドリアン・ケント論稿記述については一言だに言及していない
([放射線被曝による死亡する確率につき原子力発電所職員に関しても年間10万分の1 を超えることは容認できないとの放射線障害に関する英国のガイドライン] には言及していてもブルックヘブン国立加速器の最悪の見立て(同じくもの「10万分の1」)については一言だに言及していない

 要するに(エイドリアン・ケントの名を出しつつ、ケントの指摘事項でもあった「10万分の1の死亡期待値の縛り」についてはなんら言及していないとの)マーティン・リース氏は[関係者にしか分からないブラック・ユーモア]を見せたのではないか、あるいは、「世論の反感を買うことはやるな」と関係者にしか察することのできない二重話法(ダブル・ミーニングあるいはダブル・スピーク)を込めたのではないか「とも」解されるわけだが、 ―であるから、「成程。」と思われることとして― ロード・マーティン・リース (アイザック・ニュートンがそうであったのと同様、英国王立協会会長経験者として令名を馳せているとの旨が本法廷提出書証にも記載されている人物)は
「1980年代、粒子加速器にて真空の相転移というものに伴うリスクが問題視された折に」
「宇宙線との比較による安全性検討を考案したのは自分らである」
と自認している向きともなっており(要するに今日の粒子加速器リスクにまで転用されている[宇宙線]を論拠にしての安全性検討方法を提案したと自認している向きとなっており ――その点については本件控訴人が原告として既に甲第一九号証として本訴訟第一審にて該当部写しを提出している Our Final Century?(邦題)『今世紀で人類は終わる?』(草思社)のp.155 に記載されていること「でも」ある―― ) 、 なおかつ、現況、CERN のLHC実験に対するその容認コメントをCERNウェブサイトに掲載されているとの向きともなる ――第一審にあって原告が甲第四号証として写しを提出したCERN The safety of the LHCと題された英文ページ(のその写し)にマーティン・リースに由来するコメントとして次のように記載がなされている。 " There is no risk [in LHC collisions, and] the LSAG report is excellent." Prof. Lord Martin Rees, UK Astronomer Royal and President of the Royal Society of London(大要)「LHC の衝突にあっては何ら危険性はない。LSAG レポートはエクセレントである」ロンドンにての王立協会会長マーティン・リース卿.―― )

 とにかくも、加速器リスクについては ―宗教などを奉ずる向きが「神ならぬ人の身ながら」などとも表すような特性であるか否かは論じないとしても― 万事万端遺漏なくも顧慮されているとの言明がはきとなされているわけだが (たとえば、 第一審に供していた[原告第五準備書面] p.19-p.21 にては米国の2008 年のLHC 実験差し止め訴訟で法廷助言人(アミカス・キュリエ)となったノーベル物理学者らがそのようなことを述べている旨、紹介している) 、 1999年のリスク関連報告書(甲第四十五号証)には
「10万分の1」
との数値が最悪の見立てとして呈示されていたと第一級の有識者たるエイドリアン・ケントによって(ある程度の識見がある人間でなければ把握できぬこと、そして、マス・メディアなどは国内外で一切、報道しなかったこととして)その論稿 ―甲第八十四号証として呈示した A critical look at risk assessments for global catastrophesのことである― 内に指摘されているとのことは[事実]である。

 そうした「最悪の可能性は10万分の1である」とするとの実験機関報告書 ――1999年のストレンジレットによる最悪の地球滅亡リスクを10万分の1と見積もり、ブラックホールに至っては生成される可能性だに「ない」としていた実験機関報告書(本書p.13-p.16 でも性質解説をなしているとの甲号四十五号証の Review of Speculative "Disaster Scenarios" at RHIC)―― よりリスクは理論的に絶無であると強調する2008年のCERN報告書(甲第二十号証)にバージョン・アップするまでのリスク評価は果たして「適切に」なされているのか。

(以下略 ――続く段では本稿筆者がその国内法規に違反する行為がために法廷に引きづり出した(リスク管理文書を当初やりとりで最初存在しないとした上で、あまつさえ、それを「存在しない」と強弁するやりように[国民に対する深刻な背信行為]があった判じられるところがあったとの事情を受けて法廷に引きづり出した)との国内のLHC実験参画機関の不品行にまつわる話に入っているわけだが、その部は割愛する―― )

ここまでをして本稿筆者自身が第一審原告あらため控訴人として東京高裁に提出していた控訴理由書、同控訴理由書にあって[法律上の争訟に直に関わらない補足とはなるが、]と明示して付していたとの部、p.115からp.122よりの(自身作成文書よりの)転載部とする ――本稿筆者は自身が「試験的」に運用していたウェブサイトの類をフリーク・ショー(畸形を売り物にするどぎついショー)と同様のものにでも見せたいのかとの情報的価値・情緒的価値にて相応の程度の媒体に無断転載をなしてきた輩らもいままで捕捉してきたのだが、以上は一層、といったこと(言論劣化)がなされることを赦すつもりはないとの真っ当な常識的活動に由来するところの文書よりの転載部ともなる―― )

 上の筆者自身の手になる法廷提出文書 ―再言するが、第一審からして年度にして2年間続いたLHC関連の国内行政訴訟(国内では現行、唯一かつ初の訴訟)のための供用文書として作成した控訴理由書と銘打っての文書(一ヶ月で証拠説明書など添付文書も含めて寸暇惜しみ猛烈に手を動かして用意作成したとのA4にして計100頁超の文量多き文書)― よりの転載部にあっては ―それこそを【「限局化した意味でしか意味をなさぬ」との「よろしくはない」確率論】に関わるところのものの例示としてここ本段にて持ち出しているのだが― 大要、次の通りの[事実関係]を指摘している。

ケンブリッジ大学に奉職の数学・量子物理学畑の学究エイドリアン・ケントの手になる論稿、
A critical look at risk assessments for global catastrophes(2003年に修正版が刊行されたものとして本稿筆者がかかづらわってきた裁判にても甲第八十四号証 ―84番目に提出した証拠文書― として写しを裁判所に呈示しているとの論稿)
にあってはCERNの加速器安全性検討に関わったとの者達(DDHらとの頭文字で略記されているとの Arnon Dar, A. De Rujula, Ulrich Heinzの各人)が
「粒子加速器によるストレンジレット(という仮説上の粒子)生成にて人類が滅ぶリスクは最小限にして5000万分の1、最大限にして50万分の1と明示していた(期待値として120人が死ぬに等しいとの試算を出していた)」
とのことが指摘される一方でブルックヘブン国立加速器研究所の加速器安全性検討に関わったとの者達(BJSWとの頭文字で略記されてので W.Busza, R.L.Jaffe, J. Sandweiss .Wilczekら各人)が
「粒子加速器によるストレンジレット(という仮説上の粒子)生成にて人類が滅ぶリスクは最大限にして10万分の1とするような話を展開していた(期待値として6000人(→単純なる誤記をなしていたので訂正なす:6万人)が死ぬに等しいとの試算を出していた)」
とのことがある、との旨が記載されている....

 さて、以上のような話にあって呈示されている、
[期待値の「理論としての」正確性]
は ―当たり前なのだが― 本稿筆者程度の者が保証できるものではない (上にて転載をなしている控訴理由書ではそういう期待値にまつわる記載をなしていたエイドリアン・ケントという学究が加速器実験を推進する側の斯界の泰斗、[宇宙線]の安全性論拠を編み出したとされるマーチン・リース(元・英国王立協会会長)にその言行が重んじられている向きとなるとのことも文献的事実の問題として指摘されるようなことがある中ながらもそうもしたことだけでその期待値にまつわる指摘 ―加速「実験」実施の死者の期待値が120人である、あるいは、6000人(→訂正:6万人)であるといった発表がなされていたことにまつわる指摘― が正しいとは本稿筆者程度の者が保証できるものではない) 。
 
 については

「筆者を含め一般人・門外漢にはエイドリアン・ケント氏が述べていることの信憑性を判断できる(ないしはエイドリアン・ケント氏が論評の対象としている論稿にみとめられるありようを判断できる)だけの[専門的数式][物理学理論]に対する理解力が根本的に欠を見ている

とのことがあるから「当然に」そうも述べざるをえないわけである (:[権威による論証 Argument from authority]、ラテン語で言うところの argumentum ad verecundiamとは「ある権威がこれこれこういうふうに言っているからそのことは正しいのだ」などと主張・強弁し、説明中身ではなく説明の発信者に伴う後光でもってして話題になっていること、その適否自体を論じようという詭弁の一類系のことを指すわけだが(同様の事例の反対例は[人身攻撃]とされる外法が法廷にて行われる理由として「主張者はこういう輩であるからそうもした主張者論法には信が置けない」との[論理それ自体の信憑性]を[話者それ自体の悪い意味での属人的特性]に置き換える式ともなる)、いくらその方面での大家である(と認知されている)専門家の口や筆によるところでもその論理の適正さまでは ―思考を放棄した人間ではないとの知的に誠実真摯たらんとする読み手・聞き手たる判じ手をそこに想定した場合― [専門性の壁]が却(かえ)って仇になりもし、折り紙をつけることはできない筋目筋合いのものとなるということである ―英文で同様のことを端的に表記すれば、である。 Basically, I, as an author of this evidence-based paper, think it is no use pointing out such facts as an Cambridge eminent scientist, Adrian Kent referred to colliders' P catastrophe 10 -5 (implies the expectation value of the number of deaths is bounded by 60000) ,  because arguments which are based on "advanced" mathematical analyses are "unmanageable" for not only the general public but most of educated people.といった筋目の話をここではなしているわけである― )。

 そうした意味で上のような確率的目分量(確率論と表裏をなす期待値計算)にまつわっての専門家意見を取り上げることには

「[加速器実験にはそこまでのこと ―死者期待値6000人(→訂正:6万人)との目算の呈示― が今まで具現化してきているのに目立って同じくものことに「常識的に」非を鳴らすことをなす向きがいない、メディア関係者なぞに目立っていないのはどういうことなのか?]との疑義を呈す」

「[重用されての専門家によって本来ならば耳目をひっさらって然るべきようなリスクに対する見積もり記載がなされているのであるから、(10万分の1の可能性で人類を皆殺しにするなどと「常識の世界ですら」述べられもしたものは一体全体どういうものかとの観点で)、加速器実験で真摯誠実に安全性検討がなされているのか検討されて然るべきであろう]との訴求をなす」

とのこと以外ではさして意味がないと見えるわけである (:といったことがありもする中で本当に危険であると易々と判じられる材料が脇にて存在しているような状況であるのならば、同じくものこと、専門的論議のあれやこれやへの固執をなすとのそのことは却(かえ)ってLHCに異を呈さんとする向きらが負った枷(かせ)になりうる、拘泥すべきでない領域でのけつまずきに通ずることであると見立てられもするようになっている(と私はとらえている)。その点、本稿前半部で紹介していたように "HONEY I BLEW UP THE WORLD!": ONE SMALL STEP TOWARDS FILLING THE REGULATORY "BLACK HOLE" AT THE INTERSECTION OF HIGH-ENERGY PARTICLE COLLIDERS AND INTERNATIONAL LAWとのオンライン公開論稿(ジョージア大ロースクールで法学博士の資格をとっているとのことであるサミュエル・アダムス( Samuel Adams )という人物の手になる論稿)にあって(以下、同論稿公開版の上にp.153と付された部にあっての端的なる記載よりの再度引用をなすとして) First, as seen in the RHIC case, it is difficult for a plaintiff to prove that there is a danger when relying solely on theoretical physics.「一義的に(かつてワグナーらが1999年の騒動の後、加速器RHICにて提訴した訴訟に見られるように)原告にとって理論物理学にのみ依拠していることが問題となっている時点で[危険]があると立証することが困難である」(引用部はここまでとする)と記載されていることがまさしくも同じくもの状況を適切・端的に表していると手前 ―(日本のノーベリストである小柴昌俊の肝煎りで造られた権威の首府たる国内の加速器研究機関(国際加速器マフィアの日本分局ともいうべき研究機関)による異様なる国民を欺くような行政措置に対して「わざとらしくも」常識のレベルに落とし込んで非を鳴らすための材とした訴訟(社会にあって誰もそういうことをやろうとしない中でなんとか非を鳴らさんとしての挙でもある)を卑小なる身ながらも提訴なしていたとの人間としての手前)― などは考えるに至っている ――※その点、「基本的にさして意味はない」との話にあっての例外的な有意義さというものを期しもして筆者は法廷にて(問責の一助とすべくも)確率論・期待値にまつわるエイドリアン・ケントにまつわる少数派サイドの専門家指摘の話「をも」敢えてわざとらしく供出文書に反映させていたのだが(それが上の控訴理由書よりの引用部である)、といったやりようとて結果的に前審に増しての[愚劣なる流れ]、明らかな外れ (聖書マタイ伝の言いようやポーカーの状況ではないが、[豚に真珠][豚のカード配分]でもいい) を引いた(というよりはなからそうなるべくも計算付くで引かされたか、か)ゆえに同じくもの控訴審ですべて無為になるべくしてなった節があるのであるも、といったことはここでは置いての話をなしている (いわば、根本根底からして八百長の節もあるこの世界のありようを望見して延々続いていた訴訟が異様なるかたちで明後日の方向に流されるとの覚悟も当然にはなからあったわけだが、といった筆者をして心底、落胆させたとのことは訴訟それ自体というより訴外の自身の挙で訴求対象とした向きらの過半にあっての空虚な反応を延々見せつけられ続けた、心が欠を見た、そう、まるで[(臨機応変に)機械風情に下手に人間のフリでもさせているのか]といった反応を見せ続けられてきたことにありもするのではあるも、そうもした落胆の理由について「も」ここでは置いて詳説はしない) ―― )

 脱線などしつつ、自明なことをくどくどと申し述べているとの感もあるのだが、専門家論議における専門家呈示の確率的目分量などについては直上記述のことを期す ―[専門家ら意見の分かれようを示すことでもってしてマス・メディアの怠慢や周囲の無関心に疑義を呈するとのこと][専門家ら意見の分かれようをもって本当にきちんと安全性検討がなされているのと白々しく、かつ、ねちっこくも常識面で非を鳴らすとのこと]を期す― 以外には

「ほとんどの人間から見て理解なせない ―そもそも下らぬ家畜にすぎぬとのありよう、意志力の欠如から理解「なさない」とのよりもって悪くもとらえられる状況ではなく,生育環境に依存しての能力からそもそも理解「できない」理解「できる素地が全く無い」との完全に仕方なしの状況で大部分の人間に理解「できない」― ことを訴求するとの伝では(それがたとえ真実を穿っていても)さして意味もない」

と申し述べたいのである。

 といった[特定の(都合のよい)理想的局面でしかそれを取り上げる意味がない]との専門家由来の確率論に対して、である。
 本稿では、

「論拠があやふな確率論(並みの人間には理解が及ばないとの物理学専門理論に基づいての確率論)」

は展開「しない」。

[「典拠となるところが明確であり (「科学言語 ―数式の類― ではなく自然言語 ―日常使用言語― のみによって記述表現されるものであり」、かつ、「インターネット上より当該情報のダウンロードが可能となっているとの式で第三者が容易に確認できる[流布された文献に見る文献的事実]及び[流布された映像的記録に見る視覚的事実]に基づいている」との意で「典拠となるところが明確であり」)、 かつ、 「数式も初歩の数学知識で易々と理解されるようなものしか用いない」 との間口が広い確率論 (そして、ベイズ推定の一般式をいかに単純に活用するのかに重きを置いての確率論) ]

「しか」展開しない。

 そして、少し勉強すれば、文系人間(と分類されている向きら)でも ―高校卒業程度の知識水準があれば― 難なく理解なせようとの意味での懇切丁寧なる解説も付す。

 これ全て、多くの語るに値する第三者が後追いでき、かつ、理解なせるとの話をなさないかぎり意味がない(あるいは今後意味をなしうるとの潜在的可能性が全くない、またもってあるいは、そも、家畜のようなありように追い込まれた存在でも生き残らんとする潜在力があるのか否か見極めをなす上でも意味がない)との本稿を支える基本理念からである。

(これより展開していく確率論それ自体の話に先駆けてまずもって述べもしておくか、と判じて引き合いに出した[補足2]の部はここまでとしておく)

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直下、本稿冒頭部へのリンクを設けておく

(⇒冒頭頁へは下の部より)

[典拠紹介部第1頁 加速器実験に伴う欺瞞性から証示なせることについて]

 上にて挙げているのはドイツ浪漫主義芸術の巨匠たる18世紀画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Freemasonでもあったとの画家 Caspar David Friedrich)の手になる一品、

Der Wanderer uber dem Nebelmeer雲海の上の旅人』(に多少の[動き]をアレンジとして加えたもの)

となる。

 言われようの問題として一般に、

[人間の崇高なる精神が高みを目指し、ついぞ多くの物事を達観するに至った時、その折の孤独と感慨を描いた画]

などと形容される上掲の『雲海の上の旅人』に関して(本稿でもその言行を順次・段階的に取り上げることになるとの)物理学者リサ・ランドールは[次のような申しよう]をなしている。


(直下、物理学者リサ・ランドールの手になる著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)にての CHAPTER THREE LIVING IN A MATERIAL WORLD[第三章 物質世界に生きる]の章の記述内容 ――オンライン上検索エンジンにあっての原文検索にて該当部特定できるところの記述内容―― よりの原文引用をなすとして)

Our universe is in many respects sublime. It prompts wonder but can be daunting ―even frightening― in its complexity.  Nonetheless, the components fit together in marvelous ways. Art,science, and religion all aim to channel people’s curiosity and enlighten us by pushing the frontiers of our understanding. They promise, in their different ways, to help transcend the narrow confines of individual experience and allow us to enter into―and comprehend―the realm of the sublime. (See Figure 11.)
          [ . . . ]
[ FIGURE 11 ] Caspar David Friedrich’s Wanderer Above the Sea of Fog (1818), an iconic painting of the sublime ― a recurring theme in art and music.

(上の原著引用部に対する[訳文]として国内流通訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版にあっての81ページに記載されているところを引くとして)

多くの点で、私たちの宇宙は崇高だ。その複雑さは好奇心を駆り立てはするが、無力感も抱かせるし、ことによっては恐怖さえも感じさせる。にもかかわらず、宇宙の構成要素は素晴らしくぴたりと絡みあっている。芸術、科学、宗教は、いずれも人々の好奇心を促して、理解の限界を広げさせ、それによって私たちを啓蒙することを目指している。いずれもそれぞれのやり方で、個人の経験の狭い領域を越えさせることを約束している。それがかなえられたとき、私たちは崇高なものの領域に踏み込む――そして理解する――ことができるのだ(図11を参照)。 …(中略)… [図11]ドイツの画家カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ。崇高さは、美術と音楽に繰り返し登場するテーマである

(以上をもって Knocking on Heaven’s Doorにての原著表記および訳書よりの引用とした)


 さて、何故、ここ脇に逸れての部にあって「目立つように」特定絵画 ― 『雲海の上の旅人』― を挙げ、その絵画に対する物理学者の評しよう ―「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ....― などを引いたりもしたのか

「それは、」
絵画『雲海の上の旅人』に対して直上引用なしたような評しようをなしているとの物理学者リサ・ランドールが

加速器によるブラックホール生成可能性にまつわるトピックの理論深化に一廉ならぬ貢献をなしているとの著名物理学者

[[崇高なるもの]を目指しての宇宙の探求(およびそのための装置と銘打たれている巨大加速器LHC)の称揚・礼讃をなしているとの向き

であるとのことがあり、また、なおかつ、彼女リサ・ランドールの手による、(絵画『雲海の上の旅人』を科学者が目指しての[崇高さ]とを結びつけている)引用元著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)が

人間のありよう(崇高さとはおよそ程遠いところにあるありよう)]
人間の辿る運命

を嘲笑うような[嗜虐的寓意]で満ち満ちていると申し述べられるようになっている著作であるとのことがある、遺憾ながら
[理の当然]
として申し述べられるところとしてある ――個人のせせこましい偏頗(へんぱ)な主観などとは一線を画したところで客観的かつ具体的にこれはこうでこうだと申し述べられるようになっている(出典呈示を第一義にしての本稿では無論、その論拠を事細かに挙げる)とのところとしてある―― からであり、そのことに注意を向けたかったからである(※)。

(※上にて引用元とした著作、 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)、同著にあってはその冒頭部より
September 10, 2008, marked the historic first trial run of the Large Hadron Collider (LHC). Although the name―Large Hadron Collider― is literal but uninspired, the same is not true for the science we expect it to achieve, which should prove spectacular. (表記英文引用部に対する訳として)「2008年9月10日、ラージ・ハドロン・コライダー(LHC)が歴史的始動を見た.[ラージ・ハドロン・コライダー]との名称は有り体に言ってインスピレーションを何ら与えぬとの平凡なものだが、私たちがそれ(LHC)に[証明すべきととらえている壮大なる挙]を託しているとの意では[科学(の進歩)]にとり同じくものことは真実とはならない(LHCは際立ってのインスピレーションを与えるものである)」
などとのことが書き記されている。
 そうもした書きようが目立ってもの冒頭部にてみとめられる著作ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアにおける表題、 [天国のドアをノックする]の由来についてリサ・ランドール女史は同じくもの著作の中で次のようなことを述べてもしている。
(以下、 Knocking on Heaven’s Doorにての CHAPTER FOUR LOOKING FOR ANSWERSより引用なすところとして)
I first heard the phrase “knockin”on heaven’s door”when listening to the Bob Dylan song at his 1987 concert with the Grateful Dead in Oakland, California. Needless to say, the title of my book is intended differently than the song’s lyrics, which I still hear Dylan and Jerry Garcia singing in my head. The phrase differs from its biblical origin as well, though my title does toy with this interpretation. In Matthew, the Bible says, “Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find; knock, and it shall be opened unto you: For every one that asketh receiveth; and he that seeketh findeth; and to him that knocketh it shall be opened. (以上原著表記に対して訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版[第四章]103ページにての表記を引くとして) Knocking on Heaven’s Door(天の扉を叩く)]――これが本書の原題だが、私が最初にこのフレーズを聞いたのは、一九八七年、カリフォルニア州オークランドでのグレイトフル・デッドとのコンサートで、ボブ・ディランが『天国への扉』を歌うのを聞いたときだった。いまでも私の頭の中ではディランとジェリー・ガルシアがこれを歌っているのが聞こえてくるけれど、いうまでもなく、私の本のタイトルは、この曲の歌詞とは意味が違っている。このフレーズは出典である聖書の一節とも違っているが、私のタイトルはこちらの意図を拝借したものだ。聖書の「マタイ伝」には、このように書かれている。「求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり
(以上、引用部とした)
 といったところ、新約聖書のマタイ伝にあっての
[求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり]
とのフレーズ、それが
[天国の門]・[天国への扉]・[天国への階梯](ステアウェイ・トゥ・ヘブン)
との兼ね合いでいかように嗜虐的なる別側面での意味( Double Meaning )と共にあるのか、そのことからして具体的典拠を挙げ連ねるとの式で遺漏無くも事細かに示そうというのが本稿の本義であるとここ脇に逸れての部にあって訴求しておきたいとの意図が筆者にはある)

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