プログラム拘束の魂たちが紡ぎ出す結末を変えるために

 
 

問題意識の所在 ―4―

 Web上の前頁までで
「[アトラス][ヘラクレス][黄金のリンゴ][アメリカ(の中のニューヨーク)]が関係している
という話 ―そして、一部、不快な操作の話― をしてきた。
 頁を変えての本頁ではまずもって下に抜粋した図像を見ていただきたい。同図像はヘラクレスの第11番目の冒険に登場する「黄金のリンゴ」を管理するという"アトラスの娘達"、既述の"ヘスペリデス"を描いた絵画からの抜粋だ。

 ヘラクレスに倒された「ラドン」と思しき怪蛇も描き込まれている同画は
3人の人物の配置の仕方などからフリーメーソン的 ―Freemasonic― な構造をとっている
ものである(※)。
※フリーメーソンのおトモダチの黒社会ことマフィアを包摂する中国系秘密結社が[3人の人間の配置にこだわっている]こと。そのことが「フリーメーソン的である」とはメーソン自身が[異国の同輩の歴史]云々しながら嘘ばかりの彼らの公式Webページ ―検索すればすぐに目に入るカナダはブリティッシュコロンビアのグランドロッジの英文ページなどの記述内容を複合顧慮― で露骨に示唆していることである(カナダのかぐわかしきメーソン宣伝ページなどはいつ削除されるか分からず、すでに削除されているかもしれない) ⇒ 追記: フリーメーソンが犯罪組織を包摂する中国系結社もが身内であると連中のサイトで示しているのは[事実]だが、ここでの話との絡みで問題になるのは中国人らの結社(トライアド)の[三人の象徴配置]がメーソンの[特定の紋章](三対のタウ十字紋章)や図像体系と重なるとの主張が(メーソンによって)なされているようになっていることである
 以上のようなことをも念頭に図像に続く箇条書き部、前頁までにしてきた話を傍証する話から入る箇条書き部の内容を精査いただきたい。

・神話を範にしたプログラム ―その存在立証がひとつの目的である― には
「フリーメーソン達(を動かす者)の意図とマーキングが色濃くも現れている」
と述べてきた。その延長線上のこととして、再度、ヘラクレスの冒険に言及する。
 計にして、"12"の冒険をなしたヘラクレスだが、彼の10番目の冒険に[ゲーリュオーン]というメデューサの孫(天馬ことペガサスと双子の関係にある[黄金の剣を持つ存在、クリュサオール]の息子)が出てきたのは既述のことであるが、そのゲーリュオーン、[フリーメーソンの比喩]となっている。
 何?「近代フリーメーソンの正式な設立は18世紀初頭だということは調べて知っている。それをギリシャ神話時代から存在しているように放言するお前は嘘つきだ」だと?
 そういった方がいたら、落ち着いて聞いて欲しい。繰り返すが、全くもって"フリー"でないチェスの駒の集団が、だ。「"後付け"で自分達をゲーリュオーンに重ねることが出来、実際、そうしている節があるのが問題である」と言っているのだ(寓意を多分に含んでいるギリシャ神話自体が後世、具体的には、中世以降の"改変"創作物であるとする"説得力ある"見解も存在しているのだが、その点についての解説は私の無償公開著作に譲ろう)。
 何もフリーメーソン自体がエジプト王朝時代から存在していたなどという大法螺臭濃厚な話 ―昔、カリオストロ伯爵という胡散臭いメーソンの男がそういう話をひろめた― をしようというのではないのだ。
 メーソンの馬鹿げた起源論を展開しようというのではないと含んでいただいた上で読者の方には次のことを知っておいていただきたい。
 「第10番目の冒険に出てきたゲーリュオーンは"三つ"の頭に"三つ"の体を持っていた」
 いいだろうか。まずもってそれが「フリーメーソンの表向きの階級数、三十三位階につながる」と言いたいのだ。三つの身体に三つの頭ということで、だ。
 何?ここまで来て、そのような暴論なのか?そう呆れている方も多かろうが、先を読んでほしい。
 さて、ここからは
[ゲーリュオーンとメーソンの関係の話に"直接的に"つながること]

として ―唐突と映るかもしれないが― 文豪ダンテと彼の作、『神曲』について触れる。ダンテも彼の『神曲』も名前だけは聞いたことがあるという方は多いと見るが、彼(ダンテ)自身と彼の代表作につき、一言で要約すると、こうなる。
 「ダンテは13世紀から14世紀にかけて欧州で活動した文人。そのダンテのものした『神曲』は"あの世"、多く風刺的に書かれたあの世を遍歴するという話。そして、同『神曲』は"何故か"人類の最大の古典の一とされ、今日に至るまで、さまざまな文化事象に影響を与え続けている」。
 ここまで書いて、はっきり言ってしまおう。
ダンテの『神曲』はフリーメーソンにとって重要な意味を持っている」。
 フリーメーソンが棺桶に入る儀式などを経た後、『神曲』に描かれるような地獄に片足を突っ込んでいる、などという話はしないが興味を阻喪しないでさらに先を読んで欲しい。

 ダンテの『神曲』がメーソン達の関心を引くとする理由の一。それは
「『神曲』の各編にあたる『地獄篇』/『煉獄篇』(煉獄とは宗教という戯言体系上、天国へ行けぬものが留まる場を指す語だ)/『天国篇』が各々33編からなっている」
ということにある(「『神曲』が各々33編からなっている」との話自体、神学・文学上、重要なこととして、よく学者達に取り上げられることではある ―但し、『地獄篇』については本編内容に入る前に『神曲』全体の序章が入り、そちらをカウントして額面上は34歌(CANTO-XXXIVと題された部で終結を見る― )。
 いいだろうか。各々33編である。
 さて、世間一般に流布され知られたこととしてのフリーメーソンの階級数は?(直近の三つの頭に三つの体を持つゲーリュオーンの話の段で言及したことを繰り返すが)「33」である。
 に関しては、
「フリーメーソンの階層数が33なのは彼らが乗っかっているチェス盤で展開されるチェス"そのもの"が白黒各々の陣営を合わせての駒数総計32のゲームだから、ということも影響している」
と私は見てもいる(最高階級33は32の駒の階級を互いに殺し合わせる両陣営共通の存在と定置して。33階級も言ってしまえば、"玩具"なのだが)。
 チェスの駒数のこともあるだろうと私は見てもいるも、ダンテの「超」がつくほど有名な古典『神曲』が33に結びつくからこそ、
メーソン員達にとりルーツを考えさせるものであるために、メーソンの間で『神曲』が有名である(;だからより一層、『神曲』が今日に至るまで持ち上げられている)」
ともととれる ―苔むした作品ながらも『神曲』という作品それ自体に重大な寓意が込められていると解釈可能なことはさておきとして、である。尚、高等学校で習う世界史レベルの知識を有した人間でも知っているだろうことを述べれば、文豪ダンテの時代、イタリアでは[ゲルフ]と呼ばれる教皇推戴派と[ギベリン]と呼ばれる神聖ローマ帝国皇帝推戴派が血みどろの抗争を続けていたのだが、それはまたダンテという男が[囲碁の白と黒の陣営(あるいはチェスの白黒の陣営)に分かれての闘いにかかずらわっていたこと]につながる話でもある。というのも、ダンテの時代、ギベリン(皇帝推戴派)に対してゲルフGuelphs(教皇推戴派)が勝利を見てダンテ故地フィレンツェ実権を掌握したのだが、そのゲルフが白党(皇帝支持派. the White Guelphs黒党(教皇支持派. the Black Guelphsに再分裂を見、ダンテは白党成員として切った張ったの渦中に身を置いていたからである(『神曲』の中にも白党・黒党の争いを引きずっての描写、白党のダンテが黒党に放逐されたことを引きずっての描写が多分に見て取れる)。私見を述べさせてもらえば、フリーメーソンなど別の意味で[黒]一色の存在だが、メーソンは[白黒の市松紋様(チェス盤Chessboard状紋様)]を多用するため、白派と黒派の争いを反映してもいる各々33編よりなる『神曲』に[よりフリーメーソン的な側面]が見て取れもする、とのことになる― 。

 次いで、『神曲』がなかんずくフリーメーソンにとり意味をなすと定置する理由の二
 それは
「『神曲』という作品が有名なフリーメーソン員(そして、歴史的実在存在としての[潰えたとされるババリアのイルミナティ]の成員)だったと伝わっているヨハン・ヴォルフガング・ゲーテの文学作品『ファウスト』の構成に影響している(とされる)」
ことである。
 いきなりも俎上に乗せた『ファウスト』。ご存知の方も多かろう。[悪魔メフィストフェレスに魂を売り払い代償に浮世での栄光・逸楽を保証された男、ファウスト博士の物語]だ(死後のファウストの魂は悪魔の支配下に入るとされる)。
 同古典『ファウスト』は表向き、
「張りぼてとでも呼ぶべき中身を伴わぬ権威が威張りちらし、嘘(ジャンク)ばかりを押し付ける浮き世の構造を茶化したものともとれる」
が(:ファウスト博士には歴史上のモデルがおり、そのモデルとしてのファウスト博士が錬金術試行の際に五体四散の事後死を遂げたと伝わることをもって「悪魔に魂を売ったような者の末路とはそのようなものだ」との ―表層的にはキリスト教的道徳観念に拠る― 茶化しが入っているかもしれないともとれるが)、他面、同作はフリーメーソン達にとっても実に意味深い作品である。ゲーテ自身が有名なメーソン作家であるだけではなく、「代償に何か、重要なものを売りはらう」という筋立てを有しているという意味で、である(メーソン達は普通人がそうであるように魂のようなものを売り渡している、と揶揄されもする)。そこにいう「売り払う」の話については他所に譲るとして、問題としているのはそのフリーメーソン達 ―(キリスト教徒右派とカテゴライズされるような向きらに[悪魔との取引]( Deal with the Devil )を付帯条件多くもなしていると揶揄されるような者たち)― にとって他人事ではないFaust『ファウスト』がどう『神曲』に関わるか、である。
 については、
愛を体現した女性の手引きによる冥界からの昇天したというおおよその話の筋立てを『ファウスト』と『神曲』と共有していること
一部で『ファウスト』が『神曲』と同じ韻を踏んでいる(それについて着目する人間も多い)ということ
といった共通点が挙げられる。
 上もてお分かりのように
「『神曲』はフリーメーソン的なフリーメーソン員による有名文学作品『ファウスト』の[種本の一つ]になっている」
と考えるだけの根拠があるのである。

 以上、挙げたような二点の理由 ―『神曲』自体のメーソン階層数33との結びつき、及び、『神曲』とメーソン的な古典『ファウスト』の密接なる結びつき― より『神曲』は現代フリーメーソンに意味深くも受け取られていると考えられる ―『神曲』に含まれている比喩は我々人類全員に関わるところであると私は定置しているのだが、ここではメーソンに焦点を絞って話をなしている― 。


追記としての枠線内補足部

 枠線で括ったここにては ―脇に逸れつつも― [本文の内容に対する補足]をなしておく(:ここでの話は本文の内容をより深くも煮詰めて訴求するために付したものなので[本文内容だけで精一杯である]/[あまり脇道に踏み込みたくはない]といった向きを想定しもし事前に述べておく。「[複数図を含む本枠線内補足部の内容]はすべて読み飛ばしていただいても本稿全体の理解の差し障りになることはないものである。ゆえに、深くも本稿内容を理解したい向きだけ本補足部を読んでいただければ、と考えている)。
 さて、上は
[ハリー・クラーク( Harry Clarke )という20世紀前半において挿絵大家として名を馳せていた人物の手によるゲーテの『ファウスト』再販版に付された挿絵](左側)[フリーメーソンの象徴体系を体現してもいる画](右側) 
を挙げたものである。
 それら図像をもってだけでも
[フリーメーソンとゲーテの『ファウスト』が結びついているとの一事]
を「端的に」指し示すことができる。
 まずもってハリー・クラークの100年近く前に作成された『ファウスト』関連挿絵上部にこれみよがしに配された[三角形の中の目]。フリーメーソンが彼らの装身具に用いていることを自認してもいる同[三角形の中の目]の『ファウスト』における使用によってメーソンの類が『ファウスト』と結びつくとの観点の介在を見てとることができる ―※[三角形の中の目]については[物事をはっきりと云わぬ類](あるいは[飼われているジャンク放出者])が[イルミナティ](:ゲーテ自身が属していたとされる史的実在性を伴う組織であるも一過性の存在としてババリア当局に弾圧されたと伝わる組織)絡みの[根拠や精緻さの点で拙劣極まりない陰謀論展開をなす上でのガジェット(小道具)]に用いているものとなるが、そうもした[三角形の中の目]がはきとしたフリーメーソン象徴であることは無視してはならないことだ― 。
 また、多少深くもなる話、そして、より一般論的なる話に拡大・展開できる話をなせば、である。上掲右側に配した[フリーメーソンの象徴体系を体現してもいる画]における[二本の柱](本稿の後の段でも取り上げるが[ヤキンとボアズの柱]と呼ばれる象徴物)が[月と太陽の象徴]と結びつき、その[月と太陽の象徴]が錬金術体系(潰えた似非科学体系であると同時に興味深い象徴を多く含みもする体系)でそれぞれ[女王(月;女性格)と王(太陽;男性格)]となっていると伝わることが意味をなしてくる。多くの人間が指摘するように[錬金術体系]が[二本の柱にまつわるフリーメーソン象徴体系]に継承されており、それが同じくもの式で『ファウスト』の表紙に描かれた男性・女性像 ―片方はファウストの古代ギリシャへのタイムスリップの段で登場した(トロヤ戦争の因たる)ヘレンともとれるが― に影響しているととれるからである。その背景にはゲーテの『ファウスト』という作品自体が[錬金術思想と深くも結びついている作品である]との指摘がなされていることもあると考えられるが、そこより錬金術の象徴と結びつくオカルティックな象徴を用いているメーソンの類が『ファウスト』を意識する側面が強くもあるだろうと言えるのである。錬金術体の象徴体系は[悪魔が人間世界の操作を嘲笑うが如くの禍々しき特性を有している図像群]でこれ満ち溢れているのだが ―(中世から近代にかけての図像を一葉一葉と分析した人間として直截な物言いをなせば「錬金術関連の著名な文書群は[蛇の怪物の類]が人間を喰い破って新しいステージに到達するといったような象徴群で満ちている」)― 、『ファウスト』が蛇(錬金術象徴)の眷属たる悪魔に魂を売り払う物語であること、フリーメーソンがファウスト博士よろしく普通人がそうである以上に悪魔に魂を売り渡していると世間的に揶揄されること(:[魂の練成]は[不死]と並んで錬金術の目的となっている)、そういったことを加味して錬金術と結びつく作品たる『ファウスト』と錬金術体系の継承者たるメーソンとの結びつきがより濃厚になるのだ。


 上列図像群。中世から近世の移行期にかけて作成された錬金術関連書の中に見る版画ら。出典としては上列右側の方が[ Johan Mylius(ヨハン・ミューリウス)の Anatomia Auri との書物]となる(1622年作成と伝わる。偽造Forgery?の可能性も筆者としてはありうると見ている。が、であっても、類例も多く問題にならないだろう)。対し上列左側の方が[ Elias Asumole(エリアス・アシュモーレ)の Hermes Birdとの書物]となる(『ヘルメスの鳥』は1652年作成と伝わる。同書、[錬金術師と同様に似非科学を信奉する徒輩]であったと広くも批判されているような[意味不明瞭な妄言の紡ぎ手]、カール・グスタフ・ユング(Jung)が彼の[錬金術図像作成意図を対象にした心理分析著作] ―ユングによる錬金術関連図像心理分析部自体は多く意をなさぬ駄文といった著作― でも持ち出しているものである)
 下段図像群。フリーメーソン象徴体系が反映されている図像二図(それら[メーソンの柱に関わる象徴画]については本サイトにあってのすぐ後のページでも取り上げる)。
 のように[上下列に分けて対比方式で挙げた図像群]を通じて示せること。それは
フリーメーソン象徴体系は錬金術を通じて発展してきたといえる」
ということであり、さらに言えば、
「[二本の柱の比喩]/[月と太陽の比喩]といったメーソン・マーキングは ―淵源に着目すれば― [多頭の蛇の象徴](部分的には双頭の蛇たるアンフィスバエナ)や[尾を喰らう蛇の象徴](ウロボロス)と不気味極まりなくもつながっているといえる」
ということである ―尚、メーソンは今もって[蛇のカルト]などとその性質を揶揄されている― 。

 以上のような一見、迂遠ともとれる話が何故、問題になるのか
 それについては
「ダンテの Divine Comedy『神曲』を[ヘラクレスに誅されたゲーリュオーン]との絡みで持ち出すだけの事情がある」
「『神曲』というものはメーソンとつながるFaust『ファウスト』と深く結びつくがゆえに識見豊富なメーソンの類に重くも見られている作品だと考えることができる」

との本段固有の話(補足部に入る前にてなしている話)を超えもし、
[極めて重要とも言えること]
を論じられるとのこと「もまた」ある。
 具体的には悪魔に魂を売り払ったファウスト博士の類、意味深くも「今という時よ止まれ!汝の何と美しいかな」との一言(有名なドイツ語フレーズとして Verweile Doch! Du bist so schönと共に悪魔に魂を売り払ったと(ゲーテが描いた)ファウスト博士のような類が「人類に何をもたらすと考えられるのか」、そう、物理学のベスト&ブライテスト(最良の[選別者])に含まれる[ファウストの内面的同質者ともとれる向き]らが現時、実施している実験(あるいはその発展形)との兼ね合いで人類に何をもたらすと考えられるのかが「後の段にて」述べるが如くのことである、とのこともある。「時よ止まれ!」との台詞を悪魔に魂を質草にとられる段階で吐いたような空虚な人間が
[ワームホールやブラックホールといった我々皆を殺すことに容易につながる時空間の歪み ―ファウストの台詞よろしく時を静止させるだけの歪みでもいい― を人為的に生成しうるとされる史上最大規模の実験]
に ―周囲の差し挟んで当然といった批判群を無視するように― 邁進していると指摘「できてしまう」という文脈で、である(それにつき詳しくは本稿にて後述することとなる。尚、[挿絵家ハリー・クラークの手による『ファウスト』掲載の上抜粋画やメーソンの諸種象徴画に見ることが出来るとも言える柱の間にあるゲート(Gate)の話]も同じくもの話に接合しうる)。

補足部はここまでとして以下、本題に戻る

 ここまで述べたところで
「何故、ゲーリュオーンにまつわる言及部の中で『神曲』のことを挙げたのか」
とのことにようやっと話を帰着させる。につき、実のことを言うと、
ダンテの『神曲』の中にもヘラクレスの10番目の冒険で誅されたゲーリュオーンが登場する
のである。
 下の図像に目を通して欲しい。

 上掲左は「ギリシャ時代美術作品(とされるもの)に描かれる」ゲーリュオーンの典型的なる姿で
[三つの頭に三つの胴体の男]
が描かれる(いいだろうか。押さえたいただきこととして[フリーメーソンと三人一体像の関係の話]は本頁冒頭からなしている)。
 上掲右は『神曲』、フリーメーソンにとって重要な古典となり"33"が意味を持つとした『神曲』の中に登場するゲーリュオーンを描いたものだ。
 「おや?『神曲』のそれは三つの頭、三つの胴体ではないじゃないか?」とお考えになられたかもしれないが、上は『神曲』登場のゲーリュオーンをかなり忠実に描いたものだ(19世紀の挿絵画家ギュスターブ・ドレの作品である)。
 その点、ゲーリュオーンの『神曲』中での描写は
「詐欺と暴力の徒輩が責め苦を味わう地獄第八圏に生息する怪物。その姿は[顔は正直者のそれで胴体は"翼を生やした蛇(どこかで聞いたような描写だ)"、尻尾はサソリの怪物]となっている」
のだ(:のような格好をしたゲーリュオンの助力によって『神曲』における文豪ダンテの地獄行脚は一挙に進んだとの筋立てになっている。飛行するゲーリュオーンの背に乗って地獄下層へ向け ―崖を下へ下へと― ダイブしたという文脈にて)。
 そして、そういった
[ギリシャからルネサンス期にかけてのゲーリュオーンの改変 ―三つの頭と三つの胴体をもつ男から正直者の顔(紳士面)をした胴体蛇の翼ある男への改変― ]
もまたフリーメーソンがゲーリュオーンを自らに重ねる素地となる。
 『神曲』の怪物ゲーリュオーンはこれぞまさに
[偽善と戦争・革命の徒、フリーメーソン員。"蛇の結社"の者 ―メーソンは一部で有名なこととして実際に、かつ、完全に蛇のシンボル体系を異常なまでに固執する[蛇の結社]である。私の公開著作を参照されるとよい― ]
といった描写だからである。「[地獄に住まう"蛇"の身体をした紳士面のシュールな怪物]が[一見、品行方正を装った"蛇"の結社員]にはお似合い」といった風に。
 どうだろうか。今まで述べてきたことからでも
[フリーメーソンが自分達をヘラクレスの冒険に準拠したプログラムに則て動かされている駒と自己認識するだけの背景 ―醜組織の下位者にはそんなことを考えるだけの余力・余裕もないかもしれないが― がありそうなこと]
[フリーメーソン達の飼い主がヘラクレスの話にも顧慮してプログラムを動かしていると言えるだけの背景がありそうなこと]
はお分かりになられたのではないだろうか(たとえば、だ。今までなしてきた話では西の果ての島での赤い牛の飼い主、ゲーリュオーンが"アメリカ"系フリーメーソンとなる[大海原の果ての島](ギリシャ世界から見た西の果てとも)、[二つの柱の建立]も登場する第10番目の冒険でのヘラクレスの相手、ゲーリュオーンが西の果てに住まうアメリカ系フリーメーソンとなる)。
 何?まだ、疑わしい、だと?
「京都は"三十三"間堂にも姿を見ることが出来る阿修羅、日本では馴染み深い三面の存在がギリシャのゲーリュオーンと似ていないだろうか」
などという[魂の抜けきったような正統派学者達]から猛反発あるいは失笑をなされるような暴論は述べてこなかったつもりだが(仏教のサイケデリック世界で"三十三天"に住まうとされる帝釈天と争っていたなどとされる阿修羅については他神話との兼ね合いでも実にかぐわかしいという持論があるが、その解説は他の機会に譲る)、それでも疑わしいという方々には[黒白判断の保留]を訴えたい。「灰色しかでてこないようにするつもりなどは毛頭ない」と明言した上で、である ―※無論、私の目標は遺漏なくも[黒]であることを証することだ。その点、[黒]というと[光を愛さざる者]とのギリシャ語に名の由来を持つともされるメフィストフェレス、本段で問題とした戯曲『ファウスト』に登場の[ファウスト博士に魂を抵当に入れさせた悪魔]のことなどを想起させるが、のような名を持つ類に人類の大半が完全に屈すれば、人類はますますもって[ブラックホールが如くの光さえ出でぬことは無き不帰の地]に落としこまれることになりかねないとの認識のもとに[黒]であることを証しようというのだ― 。 
:尚、「[ヘラクレスの冒険]自体とも[冒険の途上、打ち建てられたヘラクレスの柱 ―ゲーリュオーン掃討を伴った冒険の折、打ち建てられた柱― ]とも密接にかかわる911の事件を起こすのに動員されたのは心魂が抜かれきったようなアメリカ系メーソンの駒である、と ―異論を許さぬ客観的証拠をもって― 後の頁で指し示すことになる」と前言しておく) 

・フリーメーソンの話から一旦、離れて、この点(・)では
「アトラスと黄金のリンゴ( Golden Apple )がその他の意味でも秘教的に結びつく」
という話をしよう(後の段への布石として、だ)。
 神々に[不死]をもたらすという[黄金]のリンゴ(欧州の錬金術、東洋の錬丹術。その双方とも[不死]の獲得と[黄金]の生成が目的となっていた)。ギリシャ神話にその黄金のリンゴが登場するケースは複数ある。
うち、
ヘラクレスとアトラスの娘にからむ黄金のリンゴの話
不和の女神エリスが放ったトロイア戦の元凶としての黄金のリンゴの話
は既述のものとして、だ。「競争に絡む黄金のリンゴの話もある」のだ。その競争に絡む黄金のリンゴの話とは[競争で自分を負かした者に嫁ぐとした女傑に絡む話]である。
 ギリシャ神話にはヘラクレスも登場するアルゴナウタイの冒険(:アルゴナウタイの冒険をシリウス系宇宙人関与 ―私は人外の操作者が「宇宙人」であるとは明言しない。可能性は複数ある― と結びつくとするロバート・テンプルという学者もいるのだが、ここでは同テンプルとその異説には言及しない)に参加したともされるアタランテという女傑が登場するのだが、彼女は後、「俊足の自身を足で負かした者と結婚する」という約束に従うようになる。そして、「黄金のリンゴ」を活用した(競争中、3つの黄金のリンゴを落としてアタランテの気を引き、その隙に距離を稼ぐ)若者が念願かなってそのアタランテを娶ることになる。と、ここまで述べた上で「アトラス」の話をするが、直近既述のアタランテはおそらくアトラスあるいはその血縁の比喩だろう(後世の偽作上、そうなったのかもしれない)。ギリシャ神話上、アタランテは明示的には「アトラスの血縁とはされていない」ようなのだが、まずもってスペルに着目すべきだ。Atalanate(アタランテ)アトラス(Atlas)。語感が近しいだろう。また、発音体現物としてのスペルが似ている上に
ヘスペリデスこと[アトラスの娘達(Atlantis)]が黄金のリンゴを管理する存在として神話上、存在している
ことも無視してはならない。ために、アタランテの話は意図あってアトラスと結びつくように「調整されている」と見るのである。

・上に挙げたアタランテの話。それは「実に不快な人間操作を比喩として含む話」でもある。そして、前頁で挙げた「アメリカを介した操作のシンボル画におけるライオンの話」と接合する話でもある。
[二匹のライオン]
その二匹のライオンは人間の歴史において「ありとあらゆる時代/場所に権門・神域との絡みで」登場してくるシンボリズムである ―日本の狛犬や中国の唐獅子などほんの一例でしかない― のだが、
[同じくの二匹のライオンに(上記の)アタランテとアタランテを競争によって得た夫が変えられた、と既述のアタランテ神話 ―女傑が三個の黄金のリンゴの誘惑に負けたとの神話― の続きにあることが問題となる]
のだ(彼・彼女が神域で愛を交わしたから神の不興を買ったなどとされつつ)。
[人間を馬鹿にした神話を介したジョーク]
だろうという文脈にて問題となるのである。
 それについての細かき話は私の無償公開著作や本Webサイト上の他所に譲るが、表向き、人類に「自由と平和と平等」をもたらす契機となったと"される"フランス革命、フリーメーソン主導のフランス革命にも二匹のライオン(にちなむシンボリズム)が最悪の比喩を伴って登場するために、そのように言えもするのである。「去勢」に絡む露骨な神話的ジョークにまつわることとして、だ(:キーワードは「キュベレ」・「フリギア帽」・「フリーメーソン」である)。
 その他、ライオンに絡むジョークとしては
「ヘラクレスがライオンの皮を被っていたことに由来すると思しき、[日本などのライオンズ・クラブ(:フリーメーソンのリクルート団体、ロータリークラブから派生。ライオンとは名士を意味する語だ)が実施していると漏れ伝わるライオンなりきりの儀]のことなどもある」
としつつも、不十分ながら一応、神話を介したジョークについて述べておいた。
後日付記:[あまりに読みづらくもあった当サイト]に対し随時、改訂を加えていく中にあって
上に述べるところの[二匹の獅子が性質悪き隠喩に用いられているとの歴史的事情]
についても『解説頁へのリンクを貼っておく方が読み手の方々の理解のために望ましい』
と考えるようになった。ゆえにリンクを貼るが、精査の必要を感じられた向きには[下の文字色改変部から辿れる先]の検討をなしていただきたい。
[二匹の獅子と操作の比喩](記事へはクリックすることで遷移可能)
 また、本追記部で ―直近までの話から逸れることだが― 次のようなことも述べておくこととする。
極めて入り組みもし、それがために、冒頭ページより[印刷後検討]を勧めていもする本論稿。[問題意識の所在―1―]から[問題意識の所在―16―]と題したWeb上16頁にて構成されると(同じくの冒頭頁にて)伝えもしている本論稿。そうした本論稿の理解の一助に、と一括PDF文書変換版も本サイトよりダウンロード可能としているが、サイト内容を無理矢理、詰め込みもした同PDF版には
[サイト改訂前よりの一層、目立ちもする誤字・脱字・読みづらさ]
が ―目に余るものとして― 引き継がれている可能性がある。その点についても含んでおいていただきたい(可能性がある、と断定形で記していないのはここでの追記より後にPDF版改訂を逐次なしていく予定も ―時間なき中にあっての未定のものながら― あるからである)

・ここからは"より"重要な話となる。この段に至るまで本Webサイトの内容をまじめにお読みいただいた方にはアトラスが地図と結びつくことが重要な伏線となると最初のほうに書いていたのを覚えておられる方もいるだろう(16世紀、大航海時代に欧州発世界地図群にヘラクレスの11番目の冒険に登場するアトラスが描かれ、その名前が地図帳を指す名詞 ―Atlasは地図帖一般を意味する単語だ― にまでなっていることが重要であると書いていたのを覚えておられる方もいるだろう)。人類の行く末を決するプログラムの話をするにはそこにいう
[地図との絡みでのアトラス]
について論じる必要がある。
 と、ここまで書いた上で読者には下の図を見て欲しい。同図は
["アトラス"を地図帳を意味する名詞と化させた地図帳/ゲラルドゥス・メルカトル(とその息子、ルモンド・メルカトル)によって世に出された地図帳『(1595年版)アトラス』から抜粋した図像]
である("アトラス"はそれ以前にも大航海時代地図帳群に描かれてはいたが、1595年時点ですでに故人となっていたメルカトルの息子、ルモンド・メルカトルが世に出した同『アトラス』によって地図帳を指す固有名詞と化した)。


 上の図では「巨人としてのアトラス」が中央に描かれ(⇒本頁末尾に付した追記部も参照のこと)、「二つの球体(要するに地球)を合わせるような格好をしている」。それは往時(16世紀末)の地図製作技法に由来するものであるのだが、以降、述べることとの関係でも重大な意味を有する、とご把握いただきたい。とした上で、さらに下に挙げる図をご覧いただきたい。

 上掲の左は1595年版『アトラス』からの抜粋の再掲として言うまでもないもの、としてだ。上掲の中央にて、1595年版『アトラス』の上部図像を拡大して挙げたのには「人類の帰趨に関わるものである」との理由がある。「全くもって大袈裟ではなくに」、である。その点、子供のような形でデフォルメ化された二人の男が抱え持つのが何だか、お分かりになるだろうか。人によっては
「エンジェル・ハイロゥ(天使の輪)でも重ねているのかよ」
と思われる方もあろうが、さにあらず、だ。上掲の中央に挙げた金属の輪の集合体は
[天球儀( Armillary "Sphere" )と呼ばれるもの]
である。今現在、見ることが出来る最古の図像化が「[ファルネーゼ・アトラス]というローマ時代の彫刻の中のものにさかのぼることが出来る」その天球儀、天体の動きを地球を中心に複数の金属のリングであらわしたものなのだが、911のあの事件(同時多発「テロ」などというふざけた俗称でしか魂の抜けきった存在には呼べぬ事件)と結びつくものでもある(その話の詳しい解説は次頁"以降"に譲る)。
 上掲の右上。天球儀をアトラスの彫像に持たせた同画、本Webサイトのために作製したアレンジ画だ。アレンジ画であるも、実のことを言ってしまって、
「天界を支えるアトラスの定番とも言うべき構図に対し同画と同じようなアレンジを施した彫像・シンボル画は極めて目立つものとして他にも存在している」。
 天球儀の[パーツ]を背負ったアトラスが他所にも存在しているのである。具体的には
[ニューヨークはロックフェラーセンター前に存在しているアールデコ調のアトラス像]
 および
[CERN欧州原子核研究機構。ダン・ブラウンの有名でありながらも科学的には大嘘小説である『天使と悪魔』にも登場した研究機構)の運営するLHC、こと、大型ハドロン衝突型加速器絡みの研究部局、及び、装置( ATLASこと A Toroidal LHC ApparatuS )のシンボル]
がそれである(上二者のアトラス像は細かいところまでそっくりとなっている。確認の必要を感じた向きは直に調べて比較してみればよいだろう)。
 に関しては、
「(ジョン・ロックフェラー二世が造営した)ロックフェラー・センターのアトラス像がティファニーのアトラス時計と並び、ニューヨークで目立つものである」
とすでに書いている。また、ロックフェラー一門の中のデービッド・ロックフェラー、ジョン・ロックフェラー二世のその息子が2001年"9月11日"の舞台となったWTC(ワールド・トレード・センター)造成を促していた者であることに触れもした(陰謀論の話ではなく現代史上の一局面、史実の話として、である)。
 そういったことらに加えて
CERNのLHC、ブラックホール生成と共に地球滅亡を招来"しうる"などと物議を醸す超巨大粒子加速衝突実験装置のLHCがATLASを込みにして、2008年9月10日9月11日の一日前だ。先を読んでいただければ、分かろうが、"人形"達を用いた儀式の一貫たりうるに稼動開始したのに意味を見出すこと
を[行き過ぎた見方]と言えるだろうか。
 ここまでの内容だけでも現代物理学を巡る動向に多少なりとも詳しく、かつ、懐疑心を有されている向きには「何が起こりつつあるのか」、具体的懸念をもたれた方もいるだろう。が、いまもって、そうでない方にも、である。続く段にて述べていくことを通じ、よくよく考えていただければ、と思っている。そのように述べたうえで次頁に入ろう。

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追記:本頁にあっては
「1595年版アトラスに描かれているのが巨人アトラスである」
と強き語調で言いきっているが、それに関しては[別のものの見方]ができることも追記しておく。
 その点、論者によっては
「メルカトルの1595年版アトラスの表紙を飾るのは(巨人アトラスではなく)リビアの伝説上の王アトラスである」
との物言いもまたなされている(:Wikipediaの[アトラース]項目にてメルカトルの地図の表紙を飾るのは巨人アトラスである、などと断言されているような風潮がある中で、だ)。
 というもの、紀元前一世紀頃のシチリアの史家ディオドロス( Diodorus Siculus )が
「数学者兼天文学者であり、なおかつ、最初に天球儀を発明した王がリビア(Libya)の伝説的なる王のアトラスである」
と記しており、そのディオドロスをメルカトルが地図帳アトラスに引用しているがために、
「『1595年版アトラス』 ―正式名称は『アトラス、または世界の造成と造成されし世界の姿に関する宇宙論的学者の考察』といった風に訳されるものである [ Atlas , sive Cosmographicae Meditationes de fabrica mundi et fabicatis figura ]― の表紙に描かれているのはリビア王アトラスである」
との物言いもまたなせるのである(:そうした物言いがされていることにつき和文で裏とりをなしたい、との方がおられれば、 ―いささか古き書物ともなるが― 『古地図の世界』(京大学究の織田武雄という人物が著した書籍)のアトラスについて扱った章を参照されるとよい)。
 しかし、私としては『1595年版アトラス』(ゲラルドゥス・メルカトルの息子のルモンド・メルカトルが先代の衣鉢を継ぐ形で完成させたエポック・メイキングな作品)に見るアトラスは ―リビア王アトラスとしての側面がより強く表れた存在ではなく― やはりオーソドックスに巨人アトラスと言い切ってよいものであると考えているし、実際にそう述べられる
 その理由となるのが
実はメルカトルの同時代には他にも「アトラスと結びつけられていた(有名な地図製作者に由来する)地図帳」が存在していた。しかも、そこに見る地図帳と結び付けられていたアトラスがリビア王アトラスではなく(オーソドックスに)天を背負う巨人アトラスであった
ということである。具体的にはアントニオ・ラフレリー( Antonio Lafreri )というメルカトルとほぼ同時期に活躍した16世紀にあって著名なイタリア人地図製作者が「1572年に」出版した地図帳 ―メルカトルのエポックメイキングなアトラスよりも二十年近く前に出版された地図帳― の表紙にもまた[天体を支える巨人アトラス]が描かれていた、とのことがあるのである(ラフレリーのアトラスは、だがしかし、現代にあってはあまり知られておらず、史実として地図帳一般をアトラスと呼称せしめるに到ったのも際立っていたメルカトルの『1595年版アトラス』の方であるのだが)。
 お分かりいただけていようかと思うが、そこからメルカトルが持ち出したアトラスが当然に巨人アトラスとなるような[時代の共通認識]があったと述べられるのである(その[時代の共通認識]を作るのに最大限、功があったのがラフレリーの同時代人たるメルカトルであったわけであるが、とにかくも述べたきは「メルカトル一人の問題ではなく地図帳が[天を背負うアトラス]と結びつけられるだけの時代背景があった」ということである)。

 以上をもって追記部を終える。