歴史。伝承。神話。人類の歩んできた足跡上に存在するエニグマ(謎) |
蛇の紋様にまつわる謎(雷文篇)いきなりだが、下に挙げた図をご覧いただきたい。 円のなかに画が描かれている上掲図中の三図。それらは古代ギリシャ美術作品である(左上は[ヘラクレスとアテナが向き合う姿を描いたもの]。右上は[ヘラ神とプロメテウスが向き合う姿を描いたもの]。左下は[オイディプスとスフィンクスが向き合う姿を描いたもの]。と、解説した上で言うが、ここではそれら美術作品に描かれている登場人物について云々するつもりは一切ない)。 図は雷文と[伏義と女媧](フクギとジョカ。中国の伝説的統治者、三皇五帝に数えられる、下半身、蛇の存在)の遺物に見られる姿を併せて挙げたものだ(:女媧ことジョカに関してはジョカのカを表す漢字が端末によって適切に表示されない可能性がある機種依存文字であるため、不自然ながら、以後、女と咼の字を併せて[ジョカのカの字]を「女咼」と表記する。要するに、ジョカを[女女咼]と表記する)。何故、伏義と女女咼の姿を挙げたのか。その背景には「雷文が通説の雷に由来する紋様としての意味合いを超えて伏義・女女咼に由来するものである」との私の持説がある。 〔1〕中国の伏義と女女咼の典型像は古代ギリシャ ―冒頭で[雷文]類似の構造が類似の美術品外周という場に登場していることを触れた場所― にて美術品のモチーフにされた[ヘルメスの杖]と同様、[人間のDNA構造を体現したもの]であるととれる。一見、信じがたい話だろうが、それは完全に合理的かつ客観的な判断に基づいた話として説明できる。本Webサイト上の他記事を読んでいただければ、そのことはよく分かっていただけるであろう(本記事とワンセットになった他記事、[蛇の紋様にまつわる謎(二重螺旋構造篇)]という記事にその信じがたい話、[ヘルメスの杖も伏義・女女咼像もDNAの二重螺旋構図を体現したものである]が成り立つだけの合理的根拠を挙げている)。 〔2〕上の〔1〕にて言及した[雷文としばしば一体化した紋様、八卦体現紋様]を中国文明圏にもたらしたとされる伏義と女女咼。その父親の代からの宿敵は雷公という存在だった(いいだろうか。「雷」公である)。 〔3〕上の〔1〕と〔2〕の話に接合するような異説として、だ。デービッド・アイクという男が欧米で広め、最大限、物議を醸すことになった説に[爬虫類人人類支配説]がある。 以上、〔1〕-〔3〕の各点を読んでいただければ、だ。「雷文が伏義と女女咼の象徴と結びついている」との観点が馬鹿げたものでないことが"一面で"お分りいただけものか、と期待する(ただ、ここに至るまでの話は参照を頻繁に促しての分りずらいものであり、かつ、[トンデモ理論]的色彩が極めて目立つものになってしまったがため、全面といったレベルで否定的な方も半信半疑の方もおられるだろう。だから、「"一面"でお分りいただけるものか、と期待する」との中途半端な物言いをしたわけだが、お分かりいただけない方には、だ。黒白判断を焦らず、先をとりあえず読んでいただきたい、と言っておきたい)。 さて、次に挙げる図をご覧いただきたい。雷文が伏義と女女咼の象徴と結びついていると考えられる根拠として直近に述べた〔1〕-〔3〕のうち、〔3〕にて言及したこと、[欧米で爬虫類人人類支配説が物議を醸していること]に関わるものとしてだ。 絢爛たる上の図の出典はその名が今日に伝わっていない作者によって貴族の依頼で15世紀に作成された装飾写本、 Hours of Catherine
of Cleves『キャサリン・クレーブスの時祷書』(時祷書こと"じとうしょ"というジャンルについては本Webサイトの他所にて解説している)である。同出典からの抜粋意図については図そのもののあり方からでも半面でよく分かるようにした。すなわち、上部に青円で囲った雷文と同様の構造が聖母マリアと赤子時代のイエスの足もとに現れていることがそうだ(図中、雷文構造が現れた部位を円で囲み線でつないでいる。その点、私が知る限り、ギリシャ版雷文たる Greek Fretsが復活の上、欧州に目立って登場するのはフランス革命の女神、マリアンヌ絡みの装飾物からで上の写本は例外だ)。雷文相似形が「奇怪である」と訴求したいとの意図があるのは ―まじめな本記事閲覧者にはだが― お分かりいただけるだろう。 Hours of Catherine of Cleves『キャサリン・クレーブスの時祷書』の中の問題とする箇所。赤い竜と青い竜が写本の中の貴族の紋章と対応づけられるように描かれていることが実にかぐわかしい。 以上、述べてきたようなことから私は「雷文は人類を支配してきた存在のマーキングだ」ととらえている。そう、操り人形に何でも言わせ、描かせる[ベリーバッド(最悪)]な存在、時と地域を分かちて蛇・竜のシンボルを用いて[操作の隠喩]を表「させしめて」きた存在のマーキングだと見ているのだが、まだ、「暴論の類である」と見る向きもあるだろう。そういった向きには次のIとIIのような観点をも加味したうえでものを見ていただきたい。 I.くどくなりつつも訴求するが、竜・蛇を用いて隠喩を表する事例には時に[人間業では絶対に説明がつかない巧妙なもの]が含まれる([DNAの二重螺旋構造を蛇で表し、それをDNAが詰まった精子の先端の類似構造物と並べるようなこと]をDNAやおろか精子の構造さえ予想もされていなかった大昔のルネサンス期の絵画に登場させたりもしている:先程も参照先として紹介した記事だが、[蛇の紋様にまつわる謎(二重螺旋構造篇)]と題した記事にてその信じがたい話の細かい解説をなしている)。のようなことをやらかす連中が人間であるわけがない。 II.いきなりの話として何でもあるが、音読みが[雷文]と結びつく日本の浅草は浅草寺にある[雷門]。そこには「雷が人外の人間操作の比喩と結びつく」との先ほど、触れた話([金剛杵という名の仏具にまつわる隠喩について]という題の記事を参照元として紹介した話)と露骨に結びつくアイコンが存在している。私がたまたま浅草に足を運んだ折、撮影した[雷門]の裏手(雷提灯の裏手でもある)に安置されている二対の彫像の[金龍と天龍]がそれである(金龍と天龍、そして、それらの構造に影響を与えたと思しき浅草により以前からあった沙羯羅(サカラ)竜王像については別途、本記事上の補足として図像を紹介しておく)。 以上、なしてきた話から[雷文]ひとつとっても、だ。[性質悪き象徴言語]が含まれていると言える。具体的には次に述べるような象徴言語が含まれていると言える。 「中国の食器の[外周]を囲む[雷文]では蛇絡みの神話的存在と結びつきつつの隠喩的表現形式がとられ、それが(冒頭で挙げたような)古代ギリシャ美術作品と接合したりしつつ[人間の世界に課せられた制約]を示している節がある。この世界は[外周]を[世界蛇]
(いくつかの地域の伝説・神話ではこの世界は自らの尾を飲み込むという[ウロボロス]形態の[世界蛇]に囲まれているとされる:北欧のヨルムンガンドやインドの亀が支える世界を囲む蛇など)に取り囲まれているが如くの制約を課せられていることを[蛇と雷]絡みで示している節がある。如実にある。 結論を述べたので本記事本文はこれにて終えることとしよう。 ※[枠外補足説明]をこの場にてなしておく。 上掲4図のうち、左上と右上はたまたま足を運んだ浅草で私がカメラにおさめた天龍と金龍の像だ(左上の男性の方が天龍で右上の女性の方が金龍だ)。彼・彼女らは尾を生やした[半人半竜の存在]として偶像化されているのだが、ここで着目すべきは、である。 「天龍・金龍の像が浅草は雷門(雷文と同様、音読するとライモンたりうる)の裏手にあり、そのことが竜・蛇のシンボリズムと雷が結びついている、高度に結びついているとの法則に合致している」ことである。 本記事でも述べたように世界中でそのようなことが、そう、「蛇・竜の爬虫類シンボリズムと雷が隠喩的形態も含めて結びついている」(伏義、及び、女女咼と結びつき雷文が蛇の隠喩になっていかねないことや各地に雷神と龍・蛇の神格の戦いが伝わっていたりすることがその例)のは[偶然の一致]ではないだろう。天龍と金龍の後ろに龍が[別世界より覗き込むような形]で配されていることを「爬虫類人(レプティリアン)は異次元より憑依するがごとくのメカニズムで人間の本質に介入している」との異説が欧米で物議を醸していることとあわせて考えて、だ ―私の見立てでは[雷で象徴されるもの]が人間の心魂を抜くが如きの処置、「雷神にヘソをとられる」との民間伝承が伝わっているが如きの大事なものを抜き取る処置と関わっているものと見る。フリーメーソン達が大事なものを根本レベルでとられた者達と言われる(悪魔に魂を売ったなどとも言われる)こと、それが直近にて言及した憑依説と結び付けられることとあわせて、である(「雷神は爬虫類人と戦った別の人外である」などとも言われている一方での話として、右のことが言えるととっている。その点、神話ではインドの"雷"神インドラが悪龍ヴリトラと対峙したり、ガルダと呼ばれる霊鳥にナーガ[蛇人]を食わせる盟約を結んでいたりするが、そのインドラがタクシャカと呼ばれる悪しきナーガ・ラジャ[蛇人の王]と盟友の関係にあるとされていることの方が実態を正確に示していると見ているのである)―。 次いで左下と右下の図像。それらは雷門が正面に位置する浅草寺、都内で最も古式ゆかしき寺院とされ、[江戸三十三箇所]と題された観音札所の第一番目の浅草寺に据え置かれている沙羯羅(サカラ)竜王像の写真からおこしたものだ。同図からは[沙羯羅竜王が多数の龍が顔を覗かせる地盤の上に立ち、その竜王に竜が捲きつき、捲きついた竜が天井に描かれた巨大な竜に昇っていく構図]が見てとれる。竜王像を彫った高村光雲が何を考えていたかは正確にはわからないが、それもまた沙羯羅竜王のすぐ近くにある金龍・子龍の像と同じ式で[操作の比喩]になりうるものととらえる(言っておくも、高村光雲が命令されて[操作の比喩たる構図]を具現化した、などという馬鹿げたことを述べるつもりは毛頭ない。むしろ、ある種、人間は、そう、「人の世界の上下関係に規定される以前に」、「もっと本質的な内面からの操作メカニズムによって動かされることがありうる存在だろう」と ―何者にも従うことを拒否した私にはそういったことはないが― 考えている。生まれてこの方、そういったことを考えたことがなき向きには妄言の徒の戯言としか映らないかもしれないも:ただし、[ためにする話法]ではないが、私はそういう方にこそ、この世界の哀しい実態に[絶望]や[恐怖]ではなく透徹した視野にて気づいて欲しいと思っている。衷心からだ)。 これにて補足説明も終えるが、本記事本文の内容とここでの補足説明の内容を複合顧慮し、よくよく考えていただきたいものである。 |
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