歴史。伝承。神話。人類の歩んできた足跡上に存在するエニグマ(謎)

 
 

蛇の紋様にまつわる謎(雷文篇)

 いきなりだが、下に挙げた図をご覧いただきたい。

  円のなかに画が描かれている上掲図中の三図。それらは古代ギリシャ美術作品である(左上は[ヘラクレスとアテナが向き合う姿を描いたもの]。右上は[ヘラ神とプロメテウスが向き合う姿を描いたもの]。左下は[オイディプスとスフィンクスが向き合う姿を描いたもの]。と、解説した上で言うが、ここではそれら美術作品に描かれている登場人物について云々するつもりは一切ない)。
 に対して左下の図は典型的な[雷文]の構造模式図である。雷文。ラーメンの丼ぶりの淵に描かれていたりする、誰もが一度は見たことがある模様と言えば、分かりやすいだろうか(同[雷文]、中国の食器群の[外周]によく描かれるものであるようだ。ここではその[外周]ということがポイントとなる)。
 さて、よく見ていただけば、お気づきになられるだろうが、中国の食器群の[外周]に描かれる雷文と同様のものが古代ギリシャ美術作品の[外周]にも描かれている。それはギリシャ版雷文、英語でいうところの Greek Fretsとされるものだが、何故、両者が一致性を伴って存在しているのか。[外周]に似たように存在しているのか。常識人は真っ先にこう言うだろう。「文化伝播があったんだよ」。だが、おそらくそうではない。むしろ、「ギリシャ美術作品の類似紋様も雷文自体も[共通の淵源]から派生したものの、文化伝播で説明できるような類のものではない。人間操作に関するマーキングである」と言うべきだと見ている。
 以下、長く、かつ、多く[本Webサイト上の他記事の参照]を頻繁に促しながらのまどろこしいものになるが、そのように明言出来る理由について書いていく。とした上で端緒として次に挙げる図をご覧いただきたい。

 図は雷文と[伏義と女媧]フクギとジョカ。中国の伝説的統治者、三皇五帝に数えられる、下半身、蛇の存在)の遺物に見られる姿を併せて挙げたものだ(:女媧ことジョカに関してはジョカのカを表す漢字が端末によって適切に表示されない可能性がある機種依存文字であるため、不自然ながら、以後、女と咼の字を併せて[ジョカのカの字]を「女咼」と表記する。要するに、ジョカを[女女咼]と表記する)。何故、伏義と女女咼の姿を挙げたのか。その背景には「雷文が通説の雷に由来する紋様としての意味合いを超えて伏義・女女咼に由来するものである」との私の持説がある。
 そういったことを言う人間は中国人にさえ絶無に近しいと見るのだが(そもそも中国には現在形でも過去形でも真実を語れる土壌はないし、敢えてそれを語ろうとする人間も ―情報統制と"教育"の賜物の結果― いないだろう)、雷文は伏義と女女咼の蛇の下半身が絡まったものである、ととっているのである。その理由は下〔1〕〔3〕にて箇条表記したが如きのものとなっている。

〔1〕中国の伏義と女女咼の典型像は古代ギリシャ ―冒頭で[雷文]類似の構造が類似の美術品外周という場に登場していることを触れた場所― にて美術品のモチーフにされた[ヘルメスの杖]と同様、[人間のDNA構造を体現したもの]であるととれる。一見、信じがたい話だろうが、それは完全に合理的かつ客観的な判断に基づいた話として説明できる。本Webサイト上の他記事を読んでいただければ、そのことはよく分かっていただけるであろう(本記事とワンセットになった他記事、[蛇の紋様にまつわる謎(二重螺旋構造篇)]という記事にその信じがたい話、[ヘルメスの杖も伏義・女女咼像もDNAの二重螺旋構図を体現したものである]が成り立つだけの合理的根拠を挙げている)。
 と述べた上で言うが、そのように信じがたい比喩を内に秘めている伏義と女女咼の象徴体系は雷文と接合する。伏義と女女咼が人類にもたらした[八卦]の紋様もまた、雷文と同様、中国の食器に頻繁に描かれるようなのだが、その「八卦の紋様が時に雷文と一体になっている」らしいからだ。

〔2〕上の〔1〕にて言及した[雷文としばしば一体化した紋様、八卦体現紋様]を中国文明圏にもたらしたとされる伏義と女女咼。その父親の代からの宿敵は雷公という存在だった(いいだろうか。「雷」公である)。
 その点、そこにいう["爬虫類"的存在(蛇と結びついた伏義と女女咼の父)][雷の特質を現した存在(雷公。興味深いことにその雷公の姿も"爬虫類"を想起させるものであるとも伝わる)]の対決の構図は他の世界中の同様の例と並べて考えて、[極めて悪質な比喩を含んだもの]と解釈することが出来る。
 その根拠を述べるときりがないので、については本Webサイト掲載の[金剛杵という名の仏具にまつわる隠喩について]という題の他記事にて詳しい解説をなしているとだけしておいて、結論のみ述べるとこういうことだ。
 「雷神ゼウス神と蛇の下半身を持つティポーンの戦い(古代ギリシャ神話上の戦い)。雷神インドラと龍ヴリトラの戦い(インド土着神話上の戦い)。雷神トールと大蛇ヨルムンガンドの戦い(北欧神話上の戦い)。それら雷神と竜・蛇という"爬虫類"的特質を体現した存在の戦いはすべて人間が電磁波的概念に接合した仕組みによって心魂を抜かれるように去勢され、人外の言いなりになっていることの隠喩的な話となる」(雷で竜や蛇が倒されるというのは[反対話法]だと推察される。[電磁波マインドコントロール]云々については[行き過ぎた陰謀論者や妄想の徒のフリをしたその他の"役者"]お得意の話、あるいは、[スカラー波などにつき云々し、冗談としか思えぬ動きを集団でしていた"人形"のようなカルト成員]の話柄そのものの狂っているとしか思えぬ物言いとも聞こえることだろう。が、一蹴をなさずに参照先の記事をよく読んで考えてほしい:さらに言っておくも、私は右のようにトンデモ論者そのものととられるだろう物言いで語ってはいるが、[高周波活性オーロラ調査プロジェクト]ことHAARPについて同じようなことを言いもする陰謀論者"的"視点とも距離を置いて話している)。
 各地に[雷神と蛇や竜の爬虫類的特質を有した神話的存在の戦い]が伝わっていることに関しては[宇宙人同士の戦い]に起因させる説が海外で出されているが、それは正しくないだろうとした上で直近、述べたようなことが言えるのである(それが馬鹿げている物言いだとは百も承知のこととして)。さて、その式で伏義と女女咼の父と"雷"公の戦いそのものが人類操作の比喩なら、だ。[伏義と女女咼がもたらしたとされる八卦の紋]と"電"文が食器上、接合しているのもまた性質の悪い隠喩と解釈できる

〔3〕上の〔1〕〔2〕の話に接合するような異説として、だ。デービッド・アイクという男が欧米で広め、最大限、物議を醸すことになった説に[爬虫類人人類支配説]がある。
 そのアイク展開の爬虫類人人類支配説はアイク自身のキャラクターもあって、殊に日本では[トンデモ論法]とみなされやすくもあり、実際に大嘘を多く含んでいもする私がここに至るまで本記事で書いてきたこともまた、トンデモ論法かつ大嘘だろと考える向きもあるだろうが、そういった向きには私が本記事の参照先指定記事その他、本Webサイト上で何を書いているかきちんと検討してから、そのように考えてほしい)。
 他面、アイク説は説得力を有した箇所を多々、有しており ―それがためにデービッド・アイクの説が欧米で最大限、物議を醸すに至っているのだろう―、ここでの話はその[説得力を有した部分]と接合するものであると強調しておく。何ゆえにか。問題視することして、爬虫類人に支配されているとされる論法が目立って出てきたフリーメーソン、蛇の象徴を尊崇視する"異様極まりない"おトモダチ関係で結びついている連中の象徴体系と[伏義らの象徴体系]が視覚的に接合したりするからだ。より具体的には、蛇のカルトと揶揄されたりもするフリーメーソンの[コンパスと定規のシンボリズム]が近代メーソンと文化的につながらない世界であるはずの古代中国の蛇の神たる伏義と女女咼の持ち物、[規(コンパス)と矩(定規)]と視覚的に接合していたりするからだ(伏義らとメーソンのシンボリズム相関性の図解は本Webサイト上の他記事にてなしている)。
 そういった事情ゆえに、一層、八卦と結びつく雷文も性質の悪き象徴体系に含まれていると言える(具体的には「蛇の一連の象徴体系に入っている」と言える。この〔3〕の話、上の〔1〕〔2〕の説を結びつく話については重要な話として続く[本記事の内容]に影響しているととらえておいていただきたい)。

 以上、〔1〕〔3〕の各点を読んでいただければ、だ。「雷文が伏義と女女咼の象徴と結びついている」との観点が馬鹿げたものでないことが"一面で"お分りいただけものか、と期待する(ただ、ここに至るまでの話は参照を頻繁に促しての分りずらいものであり、かつ、[トンデモ理論]的色彩が極めて目立つものになってしまったがため、全面といったレベルで否定的な方も半信半疑の方もおられるだろう。だから、「"一面"でお分りいただけるものか、と期待する」との中途半端な物言いをしたわけだが、お分かりいただけない方には、だ。黒白判断を焦らず、先をとりあえず読んでいただきたい、と言っておきたい)。

 さて、次に挙げる図をご覧いただきたい。雷文が伏義と女女咼の象徴と結びついていると考えられる根拠として直近に述べた〔1〕〔3〕のうち、〔3〕にて言及したこと、[欧米で爬虫類人人類支配説が物議を醸していること]に関わるものとしてだ。

 絢爛たる上の図の出典はその名が今日に伝わっていない作者によって貴族の依頼で15世紀に作成された装飾写本、 Hours of Catherine of Cleves『キャサリン・クレーブスの時祷書』(時祷書こと"じとうしょ"というジャンルについては本Webサイトの他所にて解説している)である。同出典からの抜粋意図については図そのもののあり方からでも半面でよく分かるようにした。すなわち、上部に青円で囲った雷文と同様の構造が聖母マリアと赤子時代のイエスの足もとに現れていることがそうだ(図中、雷文構造が現れた部位を円で囲み線でつないでいる。その点、私が知る限り、ギリシャ版雷文たる Greek Fretsが復活の上、欧州に目立って登場するのはフランス革命の女神、マリアンヌ絡みの装飾物からで上の写本は例外だ)。雷文相似形が「奇怪である」と訴求したいとの意図があるのは ―まじめな本記事閲覧者にはだが― お分かりいただけるだろう。
 につき、純粋に印象論でものを見られた方はこう思われることと思う。『この男のことだ。さっき、「爬虫類人が人類を支配している」との妙ちきりんな説を紹介していた関係上、抜粋図の中に角を生やした爬虫類人ともとれる赤いやつや青いやつが描かれているのが雷文と結びつくから奇怪だ、なぞと言いたいのだろう』。
 自身で書いていて、あれではあるが、まさしくその通りだ。だが、上に代弁したような物の見方だけでは図の由来を無視しての手前勝手過ぎる印象論の展開ともあいなりかねない。なりかねないので、次のようなことを述べておく。
 上の『キャサリン・クレーブスの時祷書』のマリアとイエスの下に描かれている角を生やした存在達は貴族の[紋章上の存在]である(具体的にはここで問題としている装飾写本の作成を依頼した貴族とその先祖の[紋章に描かれた存在]とされる。角を生やした赤い存在も青い存在もそうである)。[紋章上の存在]であるも、―身も蓋もない言い方をすれば― [人間を支配する人外の似姿あるいはそれがデフォルメ化されたものを描いたもの](というより心魂が抜けたような状態で描かされたもの)である可能性が濃厚にある、ととれもする。何故か。その理由は同じ『キャサリン・クレーブスの時祷書』の他の頁(上掲の右側にてその掲載図像を抜粋した頁。それは上掲左側にてその掲載図像を抜粋した頁とワンセットとなった頁であるわけ"ではない")にて直近表記したような[紋章に描かれている存在]と対応するような[赤い竜]と[青い竜]が描かれていることにある(赤き竜、青き竜が果物 ―私の見立てではそれは本Webサイト上の他所で頻繁に問題としている[黄金のリンゴ]だ― の束をいじる姿で描かれていることにある)。竜・蛇は無論、[爬虫類人人類支配説につながる象徴]としての意味を持つものであり、かつ、写本中にその竜の象徴をわざわざ配した意味・意図が説明がつかないとしつつの話としてである

Hours of Catherine of Cleves『キャサリン・クレーブスの時祷書』の中の問題とする箇所。赤い竜と青い竜が写本の中の貴族の紋章と対応づけられるように描かれていることが実にかぐわかしい。

 以上、述べてきたようなことから私は「雷文は人類を支配してきた存在のマーキングだ」ととらえている。そう、操り人形に何でも言わせ、描かせる[ベリーバッド(最悪)]な存在、時と地域を分かちて蛇・竜のシンボルを用いて[操作の隠喩]を表「させしめて」きた存在のマーキングだと見ているのだが、まだ、「暴論の類である」と見る向きもあるだろう。そういった向きには次のIIIのような観点をも加味したうえでものを見ていただきたい。

I.くどくなりつつも訴求するが、竜・蛇を用いて隠喩を表する事例には時に[人間業では絶対に説明がつかない巧妙なもの]が含まれる([DNAの二重螺旋構造を蛇で表し、それをDNAが詰まった精子の先端の類似構造物と並べるようなこと]をDNAやおろか精子の構造さえ予想もされていなかった大昔のルネサンス期の絵画に登場させたりもしている:先程も参照先として紹介した記事だが、[蛇の紋様にまつわる謎(二重螺旋構造篇)]と題した記事にてその信じがたい話の細かい解説をなしている)。のようなことをやらかす連中が人間であるわけがない。

II.いきなりの話として何でもあるが、音読みが[雷文]と結びつく日本の浅草は浅草寺にある[雷門]。そこには「雷が人外の人間操作の比喩と結びつく」との先ほど、触れた話[金剛杵という名の仏具にまつわる隠喩について]という題の記事を参照元として紹介した話と露骨に結びつくアイコンが存在している。私がたまたま浅草に足を運んだ折、撮影した[雷門]の裏手(雷提灯の裏手でもある)に安置されている二対の彫像の[金龍と天龍]がそれである金龍と天龍、そして、それらの構造に影響を与えたと思しき浅草により以前からあった沙羯羅(サカラ)竜王像については別途、本記事上の補足として図像を紹介しておく

 以上、なしてきた話から[雷文]ひとつとっても、だ。[性質悪き象徴言語]が含まれていると言える。具体的には次に述べるような象徴言語が含まれていると言える。

 中国の食器の[外周]を囲む[雷文]では蛇絡みの神話的存在と結びつきつつの隠喩的表現形式がとられ、それが(冒頭で挙げたような)古代ギリシャ美術作品と接合したりしつつ[人間の世界に課せられた制約]を示している節がある。この世界は[外周]を[世界蛇] (いくつかの地域の伝説・神話ではこの世界は自らの尾を飲み込むという[ウロボロス]形態の[世界蛇]に囲まれているとされる:北欧のヨルムンガンドやインドの亀が支える世界を囲む蛇など)に取り囲まれているが如くの制約を課せられていることを[蛇と雷]絡みで示している節がある。如実にある。
 例えば、[ギリシャ式雷文こと Greek Fretsで外周装飾をなした古代ギリシャ]の主神が"雷"の神、ゼウスで同ゼウスが下半身蛇の怪物ティポーンと戦ったとされることもそのゼウスを筆頭とするオリンポス十二神の何柱かの神に露骨な蛇の神としての由来があることもその式で語れることだオリンポス一二神の蛇神起源については[蛇の神から人の神への変質。神話を分析することで浮上する奇怪性]という題の他記事にて詳述)。あるいは、[中国式雷文で外周装飾をなしていた古代中国]の伝説上の統治者、伏義と女女咼が雷文成立に影響を与えたと思しき蛇絡みの存在であり、彼・彼女らの父親が雷公(一説には爬虫類的特質を有する存在とも)と戦ったと伝承にあるのもまたその式で語れることだ
 そして、上の話は[揚言できるといった類のもの]である。「蛇と雷が形状的に似ているから構造的一致性がこうも重なるのだ」といった常識派の見解では説明できない他事情があるゆえに、である(数百年もまえに絡み合う蛇によってDNAと精子の比喩を表したふざけた絵画が描かれていると ―その話の解説他記事を紹介しつつ― 一言、述べた。 

 結論を述べたので本記事本文はこれにて終えることとしよう。


※[枠外補足説明]をこの場にてなしておく。
 下に挙げた図をご覧いただきたい。

 上掲4図のうち、左上右上はたまたま足を運んだ浅草で私がカメラにおさめた天龍と金龍の像だ(左上の男性の方が天龍右上の女性の方が金龍だ)。彼・彼女らは尾を生やした[半人半竜の存在]として偶像化されているのだが、ここで着目すべきは、である。

 「天龍・金龍の像が浅草は雷門(雷文と同様、音読するとライモンたりうる)の裏手にあり、そのことが竜・蛇のシンボリズムと雷が結びついている、高度に結びついているとの法則に合致している」ことである。

 本記事でも述べたように世界中でそのようなことが、そう、「蛇・竜の爬虫類シンボリズムと雷が隠喩的形態も含めて結びついている」(伏義、及び、女女咼と結びつき雷文が蛇の隠喩になっていかねないことや各地に雷神と龍・蛇の神格の戦いが伝わっていたりすることがその例)のは[偶然の一致]ではないだろう。天龍と金龍の後ろに龍が[別世界より覗き込むような形]で配されていることを「爬虫類人(レプティリアン)は異次元より憑依するがごとくのメカニズムで人間の本質に介入している」との異説が欧米で物議を醸していることとあわせて考えて、だ ―私の見立てでは[雷で象徴されるもの]が人間の心魂を抜くが如きの処置、「雷神にヘソをとられる」との民間伝承が伝わっているが如きの大事なものを抜き取る処置と関わっているものと見る。フリーメーソン達が大事なものを根本レベルでとられた者達と言われる(悪魔に魂を売ったなどとも言われる)こと、それが直近にて言及した憑依説と結び付けられることとあわせて、である(「雷神は爬虫類人と戦った別の人外である」などとも言われている一方での話として、右のことが言えるととっている。その点、神話ではインドの"雷"神インドラが悪龍ヴリトラと対峙したり、ガルダと呼ばれる霊鳥にナーガ[蛇人]を食わせる盟約を結んでいたりするが、そのインドラがタクシャカと呼ばれる悪しきナーガ・ラジャ[蛇人の王]と盟友の関係にあるとされていることの方が実態を正確に示していると見ているのである)―。

 次いで左下右下の図像。それらは雷門が正面に位置する浅草寺、都内で最も古式ゆかしき寺院とされ、[江戸三十三箇所]と題された観音札所の第一番目の浅草寺に据え置かれている沙羯羅(サカラ)竜王像の写真からおこしたものだ。同図からは[沙羯羅竜王が多数の龍が顔を覗かせる地盤の上に立ち、その竜王に竜が捲きつき、捲きついた竜が天井に描かれた巨大な竜に昇っていく構図]が見てとれる。竜王像を彫った高村光雲が何を考えていたかは正確にはわからないが、それもまた沙羯羅竜王のすぐ近くにある金龍・子龍の像と同じ式で[操作の比喩]になりうるものととらえる(言っておくも、高村光雲が命令されて[操作の比喩たる構図]を具現化した、などという馬鹿げたことを述べるつもりは毛頭ない。むしろ、ある種、人間は、そう、「人の世界の上下関係に規定される以前に」、「もっと本質的な内面からの操作メカニズムによって動かされることがありうる存在だろう」と ―何者にも従うことを拒否した私にはそういったことはないが― 考えている。生まれてこの方、そういったことを考えたことがなき向きには妄言の徒の戯言としか映らないかもしれないも:ただし、[ためにする話法]ではないが、私はそういう方にこそ、この世界の哀しい実態に[絶望]や[恐怖]ではなく透徹した視野にて気づいて欲しいと思っている。衷心からだ)。

 これにて補足説明も終えるが、本記事本文の内容とここでの補足説明の内容を複合顧慮し、よくよく考えていただきたいものである。

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