典拠となるところの明示[129]――古代の巫女の予言にかこつけてキリスト教徒に
偽作されたシビュラの託宣関連事物に見る[高度に科学的なやりよう]について

関連情報にまつわるカテゴリ(各部クリックにて遷移)

[異様性を呈しての先覚的言及]が[高度な科学的知見を示す方式]にて具現化してきたとのことがあることについて 補説4

 前頁より

(先行する段よりその特性についてひたすらに具体例を挙げつつ解説してきたとの)予見的事物らが存在してしまっていること]

に通底することとして

[予言の霊に憑かれた(と神秘主義者のような者らが表するような)式での奇怪な先覚描写が古代の託宣をなす存在に由来する特定の絵画 ― Meeting of Augustus and the Sibyl(邦訳すれば 『アウグストゥスとシビュラの出会い』)― にみとめられるとのこと]

についての解説の部に入っている(:その際、そうもした途を選ぶことになった理由として「【予言の本質】が[我々を殺そうとしているとの力学]の性質を示すとのことを訴求、もって、「それでいいのか.(筆者を包含する)人間存在というものは」との問いを発したい(がゆえの話柄選択をなしている)」との旨、申し述べながらも、である)

(フィレンツェの教会にあっての問題となる絵画 Meeting of Augustus and the Sibylおよびその画をものした画家似姿の再掲/同絵画にあっての先見的描写が[高度に科学的なやりよう]と通ずることについてこれより解説していくこととする)

 以上、振り返りなしもしたうえで前頁にてこれより出典紹介する旨、申し述べていたことらにまつわっての典拠紹介の部に入ることとする。


| 出典(Source)紹介の部109(5) |

 ここ出典(Source)紹介の部109(5)にあっては

[絵画 Meeting of Augustus and the Sibyl ―先掲のように画上部構造(イエス・キリスト降誕を皇帝に告げるシビュラによって指さされている箇所)に蛇行する物体が円形構造体に群がるありよう、画下部構造にマッチ状の物体の先端と(蛇とも見える)二重螺旋構造が結びつけられてのありようが見てとれるとの絵画― ]

に関わるところとして


※1(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― のそれと類似の構造が具現化しているところに関わることとして) [生物の精子「の先端」]にあっては[二重螺旋構造を呈するDNA]が格納されているとの生物学的事実がある

※2(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― にそれと類似の構造が具現化しているところに関わることとして) 人間の数億の精子の内、子宮まで到達できるのは数千から数十万、排卵期卵子の前面までたどり着けるのは数十から数百とされているとの生物学的事実がある

※3(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の成立時期に見る奇怪性に関わることとして) 生体精子の構造のはじめての特定は[顕微鏡]を利用して多くのことを観察したアントニ・ファン・レーウェンフックによる1677年の事績となる(とされる)

※4(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の成立時期に見る奇怪性に関わることとして) DNAの二重螺旋構造が発見されたのは(時代区分における[近代]の後の)[現代]に入ってのこと、いまより半世紀ほど前の1950年代のことである

※5(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の構図の派生に関わることとして) イエズス会 ―(世界史上、極めて幅広くもの強大な影響力を及ぼしてきたとされるカトリック伝道団中、最も強力な団体)― は聖母マリアを守護聖人としている

※6(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の構図の派生に関わることとして) 聖母たる処女懐胎のマリアを守護聖人とするイエズス会は問題たる絵画の【精子と卵子の結合過程を示すが如く構図(画中、処女懐胎を予言してのシビュラに指さされての先にみとめられる【蛇行する蛇状の物体らが球形の物体に群がる構図】)と視覚的に接合するシンボルを掲げての組織として(問題となる絵画製作の)後に設立されており、また、そのイエズス会の創始者イグナティウス・ロヨラの紋章(コート・オブ・アームズ)は[蛇]と結びついている

※7(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の類似の構図に関わることとして) 15世紀にはいまだ今日的な似姿を呈してのマッチ(フリクション・マッチ)は存在していなかったとの発明史にまつわっての解説がなされている(だから問題となる絵画に描かれているとの精子状の物体は【マッチ】の似姿などを模してのものとは考えがたい)

※8(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の構図に関わることとして) 絵画にあっての【蛇行する蛇状の物体らが球形の物体に群がるありよう】については現実の精子・卵子のサイズ比に近しいものらが描かれているとのかたちになっている


とのことが指摘出来るようになっているとの点についての典拠を ―長くもなるが― 挙げることとする。

 まずもって


※1(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― のそれと類似の構造が具現化しているところに関わることとして) [生物の精子「の先端」]にあっては[二重螺旋構造を呈するDNA]が格納されているとの生物学的事実がある

※2(同上) 人間の数億の精子の内、子宮まで到達できるのは数千から数十万、排卵期卵子の前面までたどり着けるのは数十から数百とされているとの生物学的事実がある


とのことらの世間的通俗的解説のなされようを引いておくこととする ―完全に一般教養レベルの話となり、「さらに、」突き詰めての話をなすべくもものしている本稿でわざわざそこまで解説する必要はあるのか、と逡巡するところもあったのだが、世間的通俗的解説のなされようを引いておくこととする― 。

(以下、和文ウィキペディア[精子]項目にての[動物の精子]の節の現行記載内容より一部引用をなすとして)

動物の精子は卵子に比べて小さく、運動能力を有した雄性生殖細胞である。精子の構造は、DNAのつまった頭部、ミトコンドリアの集合した中片部、さらに中心小体から伸びた軸糸からなる尾部から構成されている。

(引用部はここまでとする)

 以上、引用なしての目立つところにあってのウィキペディア現行記載の部では ―他にも同様のことを確認できる媒体はいくらでもあるわけだが― 精子の先端にDNAが格納されているとの基本的なる生物学的事実が記載されている。

上:英文Wikipediaにて掲載の生殖細胞、[精子]の構造。先端部のNucleusと書かれた部位が二重螺旋構造を呈してのDNAが詰まった細胞核となる
下:絵画 Meeting of Augustus and the Sibylにあっての構図。マッチ「状のものが二重螺旋構造 ―DNAに特徴的な構図でもある― と先端で結びつけられている

(次いで、以下、和文ウィキペディア[受精]項目にての[ヒトの受精]の節にての現行記載内容よりの極一部引用をなすとして)

子宮頸部に到達する前に約99パーセントが死滅、子宮まで到達できるのはおよそ数千-数十万、排卵期に卵子の目前まで到達できるのはおよそ数十‐数百である

(引用部はここまでとする)

 上にての目立っての解説部では ―保健体育の授業のように― [人の受精]のプロセスにおいておおむね排卵期卵子に到達する生殖細胞精子の数が数十から数百まで縮減しているとの記載がなされている(わけだが、それが「15世紀」絵画にあっての類似構造に関わるために問題となる)。

上にて呈示の問題となる絵画 Meeting of Augustus and the Sibyl構図にみとめられる[受精過程の類似形態]にあっての蛇行する物体らの本数に注意を向けてみていただきたい(子宮頸部に到達する前に99%の精子が死亡、さらに、子宮に到達できるのは数千から数十万、そして、卵子の目前まで到達できるのは「数十から数百」との話と上の蛇行する物体の数は間尺が合うものとなる)。

 ここまでにて


※1(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― のそれと類似の構造が具現化しているところに関わることとして) [生物の精子「の先端」]にあっては[二重螺旋構造を呈するDNA]が格納されているとの生物学的事実がある

※2(同上) 人間の数億の精子の内、子宮まで到達できるのは数千から数十万、排卵期卵子の前面までたどり着けるのは数十から数百とされているとの生物学的事実がある


についての解説をなしたとして、次いで、


※3(問題となる15世紀絵画の成立時期に見る奇怪性に関わることとして) 生体精子の構造のはじめての特定は[顕微鏡]を利用して多くのことを観察したアントニ・ファン・レーウェンフックによる1677年の事績となる(とされる)

※4(同上) DNAの二重螺旋構造が発見されたのは(時代区分における[近代]の後の)[現代]に入ってのこと、いまより半世紀ほど前の1950年代のことである


とのことらの典拠を目につくところより挙げておくこととする。

(以下、英文Wikipedia[Spermatozoon]項目現行記載内容よりのワンセンテンス抜粋として)

Sperm cells were first observed by Anton van Leeuwenhoek in 1677.[1]

「精子細胞は1677年、アントニ・ファン・レーウェンフックによって発見された」

(引用部はここまでとしておく ―※― )

(※上記の英文ウィキペディア(現行記載)にて[1]とされているところの出典は "Timeline: Assisted reproduction and birth control". CBC News. Retrieved 2006-04-06.というCBCニュースの概況紹介部に求められている)

(さらに以下、英文Wikipedia[DNA]項目現行記載内容よりの抜粋をなすとして)

In 1953, James Watson and Francis Crick suggested what is now accepted as the first correct double-helix model of DNA structure in the journal Nature.[12]

「1953年にあってジェームズ・ワトソンとフランシス・クラックによって現行、受け入れられているように正しいかたちでのDNA二重螺旋構造モデルが初めて『ネイチャー』誌上にて提案されることとなった」

(引用部はここまでとしておく ―※― )

(※上記の英文ウィキペディア(現行記載)にて[12]とされているところの出典はDNAの二重螺旋構造発見の功で(後年の)1962年にノーベル賞を受賞したワトソンとクリックの発表論文そのものとなり、 Watson J.D. and Crick F.H.C. (1953). "A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid" (PDF). Nature 171 (4356): 737-738と表記されているものである ―誤解を避けるために述べておくが、デオキシリボ核酸自体は1953年「以前」から特定化されており(1869年に特定化されていたとの見方が一般的である)、そこに二重螺旋構造が見出されることになったのが1953年であると認知されているのである)

 以上、本段までにて


※3(問題となる15世紀絵画の成立時期に見る奇怪性に関わることとして) 生体精子の構造のはじめての特定は[顕微鏡]を利用して多くのことを観察したアントニ・ファン・レーウェンフックによる1677年の事績となる(とされる)

※4(同上) DNAの二重螺旋構造が発見されたのは(時代区分における[近代]の後の)[現代]に入ってのこと、いまより半世紀ほど前の1950年代のことである


とのことらの典拠を目につくところより挙げたとして、


※5(問題となる15世紀絵画の構図の派生に関わることとして) イエズス会 ―(世界史上、極めて幅広くもの強大な影響力を及ぼしてきたとされるカトリック伝道団中、最も強力な団体)― は聖母マリアを守護聖人としている

※6(同上) 聖母たる処女懐胎のマリアを守護聖人とするイエズス会は問題たる絵画の【精子と卵子の結合過程を示すが如く構図(画中、処女懐胎を予言してのシビュラに指さされての先にみとめられる【蛇行する蛇状の物体らが球形の物体に群がる構図】)と視覚的に接合するシンボルを掲げての組織として(問題となる絵画製作の)後に設立されており、また、そのイエズス会の創始者イグナティウス・ロヨラの紋章(コート・オブ・アームズ)は[蛇]と結びついている


とのことの典拠を基本的なところより挙げておくこととする。

(以下、一般教養レベルの話となり、また、諸種様々なソースより即時に確認できるようなところであるので(手前がざっと見し、おおよそ正しいことを記載していると判断した)ウィキペディア程度の媒体の言を引くだけで十分と判断、ウィキペディア[イエズス会]項目よりの掻い摘まんでの引用をなす)

イエズス会(イエズスかい、ラテン語: Societas Iesu)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれた。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。・・・(中略)・・・ イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「道の聖母 ( Madonna Della Strada ) 」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。・・・(中略)・・・イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣した。もっとも有名な宣教師はフランシスコ・ザビエルである。彼は西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王の要請にしたがって1541年にインドのゴアへ赴いた(ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。二年滞在して困難な宣教活動に従事した。彼は日本人へ精神的影響を与えるために中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去した。・・・(中略)・・・ イエズス会は会員数20000人、活動地域は六大陸に112カ国に及ぶ世界で二番目に大きいカトリックの男子修道会である。現在の総長はアドルフォ・ニコラス。会の活動は宣教・教育・社会正義など広範な分野にわたるが、特に有名なのは依然として高等教育である。・・・(中略)・・・ イエズス会への批判 イエズス会は近代において、プロテスタント側のみならずカトリック側の人間からも、さまざまな陰謀の首謀者と目されることが多かった。「イエズス会員」を表す言葉(たとえば英語のJesuit)が、しばしば「陰謀好きな人、ずる賢い人」という意味でも用いられるのは、その名残である。イエズス会は「より大いなる善」のためなら、どんなことでもするというイメージをもたれており、そのため教皇や各国元首暗殺、戦争、政府の転覆など、あらゆる「陰謀」の犯人とされた。さらにイエズス会の組織の強力さとその影響力の大きさのゆえに、教皇とバチカン市国を陰から操っているのは、実はイエズス会総長であるという噂が、まことしやかに吹聴されてきた

(引用部はここまでとする)

 直上、イエズス会という組織体についての常識世界での解説のなされようを引いたうえで、加えて、以下の通りの図示をなしておく。

 上掲図にての上の段で呈示の図像ら(シビュラとローマ初代皇帝アウグストゥスの出会い、そして、次いでの託宣を描いての図像らはそちら解説は最早不要であろうと判じての再掲図となる(ただし、理解が行き届いていないとのことであるのならば、筆者を批判してやろうとの心情でもいい、関連するところの従前内容を検討いただきたいものではある)。 他面、上掲図の下半分の部にて呈示の図像ら

[ジェズ教会ことチャーチ・オブ・ジェズ(和文ウィキペディア[ジェズ教会]が如く程度のものからでも確認いただけようこととしてかつてイエズス会の本部であったとの教会にしてイエズス会の教会群がその構造に倣って建造されているとの同会の原初的教会)にて据え置かれている紋章彫刻](下段

および

[イエズス会の組織象徴として長らくも用いられてきた組織シンボル](中段左

を挙げている(ちなみにシンボルに描かれているIHSはラテン語で Iesus Hominum Salvator「救世主たるイエス」との言葉を示すキリスト教体系内略字表記 ―Christogram― となる)。

 本段にて訴えたきことが何たるかは上掲図単体からでも多く推し量りいただけることかとは思うが、一応解説すれば、

[処女マリアを守護聖人とするイエズス会の紋章]

がそれらに先行するところの、

[シビュラとアウグゥストゥスの託宣の折、中空に映じたヴィジョン(処女マリアが息子イエスと共に中空に映じるとのヴィジョン)を巡るやりとりにまつわるギルランディオ画 Meeting of Augustus and the Sibyl

と類似形を呈していることは ―ここまで煮詰めてきたし、さらに煮詰める所存であるとのギルランディオ画の相応の特性より― 時期的先後関係の問題から嗜虐的ブラックユーモアの産物に見えてならない、ということである。

 さらに加えて、「処女懐胎の聖女マリア」を守護聖人として奉ずるイエズス会 ―ソサイエティ・オブ・ジーザス― の紋章がそれに後続するとのかたちで絵画 Meeting of Augustus and the Sibylに見る構図と近しい形態を取るとのことがあるのみならず、また、イエズス会の創始者イグナティウス・ロヨラの紋章が[蛇]と密接に結びつくものであるということの解説をなす。

 下の図を参照されたい。

 上掲図の上の段はジェズイット(イエズス会)の母教会との位置づけを与えられてきたジェス教会に据え置かれているとの彫刻、

Religion Overthrowing Heresy and Hatred『[憎しみ]と[異端]を転覆させしめし信仰』

を写し撮った写真より抽出なしての図となる(:につき、材としたのは英文Wikipediaに掲載されているパブリック・ドメインと明示されての写真となる)。

 彫刻名として Religion Overthrowing Heresy and Hatred『[憎しみ]と[異端]を転覆させしめし信仰』との題が振られているわけではあるが(ちなみに彫刻作製者にまつわる英文ウィキペディアの[ Pierre Le Gros the Younger ]項目にあっては彫刻右端の男が[異端]の象徴、新教徒勢力の巨魁であったツヴィングリないしルターと明示されている存在であるとの解説がなされている)、 分派なしながら数々の[憎しみ]と[異端]の生成装置となってきたキリスト教旧教勢力(カトリック)にて最も優秀なる人間が集っていたとのイエズス会の同彫刻には(呈示の図に見るように)[異端]と[蛇]とが結びつけられている。

 蛇。キリスト教体系では誘惑・堕落の象徴でもあるとのその蛇(の摸造型)が他ならぬイエズス会創始者イグナティウス・ロヨラの紋章にあって「も」刻まれている。

 そのことを示すのが上掲図にての下段の図となり、そこにて抽出したロヨラ一門の紋章の[頭飾りの部](紋章学にいう[クレスト]との部の下の部位にあたる[ヘラルディック・ヘルメット]と呼ばれる部)には
蛇が巻き付いた(ように視覚的に見てとれる)甲冑ヘルメット
が採用されていることが窺えるようになっている(ロヨラの同紋章はファミリー・ワッペンとして英文Wikipedia[ Ignatius of Loyola ]項目に掲載されているものとなる)。

「問題は、」そうした紋章が創始者イグナティウス・ロヨラの一族の[組織とは分断を見ての家紋]の類に留まらず、イエズス会の組織「的」象徴そのものに流用・多用されてきたとのことがある(とされている)ことである(それに関しては英文Wikipedia[ Ignatius of Loyola ]にあって[ The Shield of Oñaz-Loyola is a symbol of St. Ignatius family's Oñaz lineage, and is used by many Jesuit institutions around the world.](大要として)「ロヨラ紋章は聖イグナティウス・ロヨラのイグナティウス家累代の家紋となり、世界中のイエズス会施設らに用いられているとのものである」との記載が認められるところでもある)

 自らの組織、いや、自分達の勢力としての旧教(カトリック)に敵対する勢力を
[蛇と結びつく異端]
であると断罪しつつも、自分達の組織の紋章からして蛇の視覚的影響を暗に受けている(との指摘が外野よりなせるようになっている)との按配のものとなっている。それが(エデンの一幕などに由来するところとして)蛇を誘惑・堕落の象徴としており、新約聖書・黙示録では古き蛇をサタンの象徴とするキリスト教勢力のやりようであるとも述べられるようになっている。

 そのようなこと、それが[憎しみ]に対する勝利を説く(前掲彫刻に認められる『[憎しみ]と[異端]を転覆させしめし信仰』の題名に見るように[憎しみ]に対する信仰の勝利を説く)との[愛の宗教]をもって任ずるキリスト教というもののやりようであるとのことは[一部の物わかりのいい大人ら]がとうの昔に、そう、「歴史的に」といった按配で気付いていた(であるから宗教的狂人の類とは「波風たてずに歩調を合わせるべし」とのことが当然の処世訓になっていた)、そして、物事のありよう・本質を知らぬ・考えぬとの大多数の人間らを傍目にずっとだんまりを決め込んでき続けてきたことであろうとも思われるのだが、本稿ではだんまりを決め込まず、また、遠慮もなさない。

 そうも述べつつも書くが、世の中には「たかだか」イエズス会の如きものがわざとらしくも[陰謀的力学の首魁・悪の本御所]であるように語る([我々を殺そうとする力学の本質]を韜晦とうかい・はぐらかしするやりようと見れば、「語る」というより「騙る」との言葉が相応しいかもしれないが)とのことをやりようとする陰謀論者らの類も存在しているわけではあるが(欧米でも伝統的に見てイエズス会こそが諸々の陰謀の首魁であると見る風潮が陰謀論として存在していることはウィキペディア程度の媒体よりの先にての引用部にても記載されているとおりである)、筆者がイエズス会に伴う上掲図画のようなものから見受けられる特質を指摘するのはイエズス会を陰謀団として批判するようなそうした向きらの話柄に通底する式での無責任なる批判をなすためではなく、

[イエズス会のありよう](【処女懐胎による救世主の到来】をモチーフとしている絵画 Meeting of Augustus and the Sibylに見る、その実の【卵子と精子の結合】(受精)と「露骨に」解されるまさしくものその構図 ―さらにそちら特性についてこれより解説をなす所存であるとの構図― を【処女懐胎】の聖母マリアを守護聖人とする伝道団として組織表象シンボルに踏襲「させられている」節が如実にあるとのイエズス会ありよう/殺し合いを演じていた対象であるキリスト教分派(新教勢力)を異端と表して蛇と結びつけての彫刻を掲げているようなところがあるも、その実、同組織設立者の家紋としての紋章にして組織それ自体の使用紋章からして ―キリスト教が忌み嫌っているものである「はずの」― 蛇の構図が視覚的に反映させられていることが窺えるとのイエズス会ありよう)

といったところからしてこの世界をコントロールしているとの力学に伴っている特質(なる程、エニイ・サフィシエントリー・アドバンスト・テクノロジー・イズ・インディスティゲッシャブル・フロム・マジック「十分に発達した科学は魔法と区別が付かない」とはよく言ったもので、ひとことで述べれば、そこには子供騙しの【神秘性】【神聖性】など皆無であり(オズの魔法使いの正体が奇術師であったとの式の)【魔法使い=科学者】方式が明朗に介在しているとの特質が「ある」、発達した科学技術を用いもして【醜くも歪められた薬籠中の個体ら】を用いて人間という種の悲劇・グロテスクな殺人ショーに彩られた歴史を思うがままに構築してきたとの特質が「ある」とのことである)、そして、その特質が指し示しもするとの、

[力学が目指す方向性 ―[救いの教え]に[破滅へ至る誘惑の寓意]を執拗かつ嗜虐的に(あるいは小馬鹿にするように)まぶし続けてきたと判じられる(さらに後の段で細かくも後述する)との力学が目指す方向性― ]

を「間接的に」示すことにつながると見ているからここでの指し示しをなしているのである(といちいちもってしてながらも述べておく)。

 さて、次いで、


※7(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の類似の構図に関わることとして) 15世紀にはいまだ今日的な似姿を呈してのマッチ(フリクション・マッチ)は存在していなかったとの発明史にまつわっての解説がなされている(だから問題となる絵画に描かれているとの精子状の物体は【マッチ】の似姿などを模してのものとは考えがたい)


とのことの出典を挙げることとする(こちら※7の部の解説は多少長くなる)。

 まずもって「それ単体を摩擦することで」発火するとの自家発火性のマッチ( self igniting match )が欧州にて一体全体、「何時頃」、登場しだしたかについて取り上げる。

 その点、英文Wikipedia[Match]項目にてのHistoryの節には現行、次のことが記載されている。

(直下、多少、長くなるも、英文Wikipedia[Match]項目よりの掻い摘まんでの引用として)

Early matches 
A note in the text Cho Keng Lu, written in 1366, describes a sulfur match, small sticks of pinewood impregnated with sulfur, used in China by "impoverished court ladies" in AD 577 during the conquest of Northern Qi.[5] During the Five Dynasties and Ten Kingdoms (AD 907-960), a book called the Records of the Unworldly and the Strange written by Chinese author Tao Gu in about 950 stated: If there occurs an emergency at night it may take some time to make a light to light a lamp. But an ingenious man devised the system of impregnating little sticks of pinewood with sulfur and storing them ready for use. At the slightest touch of fire they burst into flame. One gets a little flame like an ear of corn. This marvellous thing was formerly called a "light-bringing slave", but afterwards when it became an article of commerce its name was changed to 'fire inch-stick'.[5]
The chemical match
Prior to the use of matches, fires were obtained using a burning glass (a lens) to focus the sun on tinder, a method that could only work on sunny days, or by igniting tinder with sparks produced by striking flint and steel. Early work had been done by alchemist Hennig Brandt, who discovered the flammable nature of phosphorus in 1669.[6] Others, including Robert Boyle and his assistant, Godfrey Haukweicz, continued these experiments in the 1680s with phosphorus and sulfur, but their efforts did not produce practical and inexpensive methods for generating fires.[7] The first modern, self-igniting match was invented in 1805 by Jean Chancel, assistant to Professor Louis Jacques Thenard of Paris. The head of the match consisted of a mixture of potassium chlorate, sulfur, sugar, and rubber. The match was ignited by dipping its tip in a small asbestos bottle filled with sulfuric acid.[3] This kind of match was expensive and its usage was dangerous, so Chancel's matches did not become common. This approach to match making was refined in the following decades, culminating with the 'Promethean Match', patented by Samuel Jones of London in 1828.
[ . . . ]
The friction match
[ . . . ]
The first successful friction match was invented in 1826 by English chemist John Walker, a chemist and druggist from Stockton-on-Tees.
[ . . . ]
They consisted of wooden splints or sticks of cardboard coated with sulphur and tipped with a mixture of sulphide of antimony, chlorate of potash, and gum, the sulphur serving to communicate the flame to the wood. 
[ . . . ]
In 1829, Scots inventor Sir Isaac Holden invented an improved version of Walker's match and demonstrated it to his class at Castle Academy in Reading, Berkshire. Holden did not patent his invention and claimed that one of his pupils wrote to his father Samuel Jones, a chemist in London who commercialised his process.[17] A version of Holden's match was patented by Samuel Jones, and these were sold as lucifer matches.

(逐語訳としてではなく大要訳として)
「[初期のマッチ]:中国にて1366年に記された『輟耕録』(てっこうろく.Chuo-geng-lu)の記載にては北斉の侵略の折、[松の木に由来する小さな棒が硫黄にて加工され、6世紀頃に宮廷のやんごとなき女性らにもちいられていた]との記載がなされている(訳注:ただし、青空文庫にて公開されている岡本綺堂(明治から昭和初期にて活動の文人)の編になる支那怪奇小説集と題されての撰集にて見受けられる版の『輟耕録』にはここでの記述に該当する部を見出すことができない。また、[火薬]の発明がなされたのが7世紀であるとされるから、[硝石]と[炭]の二者を抜いてとは言え、硫黄が点火材として用いられていたとのことはなかなかもって考えられないところではある ―ただ当該分野にて浅学の身ゆえにあやまてることを書いている可能性もあると断っておく― )。 中国にての五代十国時代にて10世紀にものされた史書『淸異録』( the Records of the Unworldly and the Strange )では「夜間、急用の折には燭台に火を点けるうえで賢い男が[硫黄でコーティングした松の木をちょっとした刺激で発火なさしめる用具]を発明し、それが商材とされた」との趣旨の記載がなされている(ここまでにては[5]と出典番号が振られている)。
[化学マッチ]:マッチの使用に先立ち、着火には晴れた日にしか意をなさぬとのレンズによって太陽光を集めての着火方式ないしは火打ち石の燃えやすき側面にて叩いて着火させる方式がとられた。燐(リン)を用いての発火方式は燐の可炎性を発見した錬金術師 Hennig Brandtが17世紀(1669年)に考案したものとなり(出典番号[6])、その後を追ってロバート・ボイルらが燐と硫黄を用いて実用的かつ安価な方式を編み出そうとしたが奏功しなかった(出典番号[7])。最初の近代式の自家発火式のマッチが登場しだしたのは1805年でルイ・テナール(訳注:顔料のコバルト・ブルーの発明者)の助手を務めていたとの人物ジャン・シャンセルの発明によるところだった。このマッチはアスベスト製の硫酸入りの瓶に先端を浸けて着火させるとのものとなっていた(注記番号[3])。この手のマッチは後数十年間で改良を見、ロンドンのサミュエル・ジョーンズに[プロメテウスのマッチ]との名で特許を取られ、その高みに達した。
・・・(中略)・・・
[摩擦マッチ]:
・・・(中略)・・・
 最初に成功を博することになった摩擦式マッチは1826年(訳注:和文ウィキペディアや他媒体などでは1827年としている場合もある)ストックトン出身のイギリスの化学者兼薬師、ジョン・ウォーカーによって発明された
・・・(中略)・・・
それら(摩擦式のマッチ)は[硫黄でコーティングされ、そして、先端に硫化アンチモン・塩素酸カリウム・樹脂をくっつけられた木片あるいはカーボン紙]とのかたちをとり、付された硫黄が火を木片の部に運ぶとの役割を果たしていた。
・・・(中略)・・・
1829年、スコットランド人発明家のアイザック・ホールデン卿はウォーカーのマッチを改良、彼の階級に対するデモンストレートをバークシャーにてなした。ホールデンは特許取得なしておらず、(のような中で)、彼の教え子の一人がその父、ロンドンにての化学者であったサミュエル・ジョーンズに手紙を書いて、そのため、ジョーンズが商品化をなしたと主張した(出典番号[17])。サミュエル・ジョーンズによって特許取得されたホールデンの版のマッチは[ルシファー・マッチ]として売られたものとなる

(訳を付しての引用部はここまでとする ―※― )

(※英文原文に付されての[5]の部の出典としては同Wikipedia項目下部にて Joseph Needham (1 January 1962). Science and Civilization in China: Volume 4, Physics and Physical Technology; Part 1, Physics. Cambridge University Press. pp. 70-71.との出典紹介載が現行なされている。同様に[6]の部の出典としては Crass, M. F., Jr. (1941). "A history of the match industry. Part 1". Journal of Chemical Education 18 (3): 116-120.との出典紹介が現行なされている。[7]の部の出典としては Carlisle, Rodney (2004). Scientific American Inventions and Discoveries. New Jersey: John Wiley & Sons. p. 275. との出典紹介が現行なされている。[17]の部の出典としては John Wesley Hanson (1900) Wonders of the nineteenth century: a panoramic review of the inventions and discoveries of the past hundred years, W. B. Conkey Publishers, Chicagoが出典となっているとの紹介がなされている)

 上のように表記のWikipedia項目に細かくも紹介されているところのいわば[マッチ史]というものにあっては、大要、

[中国では ―古文献に認められるところとして― 硫黄を用いて木の棒を着火の用に供したとの記述があるものの(アーリー・マッチズとのことで初期マッチとの位置づけが与えられているが、その具体像は筆者が調べても現行のところ、曖昧である)、「欧州にては」17世紀までは太陽光をレンズで利用する式と火打ち石方式のみが知られており、その後、硫黄を用いての発明が試みたがなかなかもって奏功しなかったと記載されている。のような中、19世紀初期にて[化学式マッチ](ケミカル・マッチズ.硫酸入りのビンに浸して化学反応で着火させるとの式のマッチ)が登場、さらに少し後の19世紀前半期にてはじめてジョン・ウォーカーという人物の発明として摩擦式マッチ(フリクション・マッチズ.今日、見ることができるようなもの)が硫黄コーティングの上、硫化アンチモン・塩素酸カリウム・樹脂のバランスよい配合での初期型として実現を見た

と記載されているわけだが、同様のことについては Project Gutenbergのサイトより誰でも全文ダウンロードできるとの GREAT INVENTIONS AND DISCOVERIES(1911年の版.訳すれば『偉大なる発明と発見』)という書籍にあって20世紀初頭の著述家 ― Willis Duff Piercyとの人物― に次のように記載されていることを引いておく。

(直下、 Project Gutenbergのサイトよりオンライン上にて誰でも全文確認できるところの GREAT INVENTIONS AND DISCOVERIES(1911年)にての CHAPTER XIII THE FRICTION MATCHの章の前半部よりの抜粋をなすとして)

In China the burning-glass was widely used not very long ago. When iron came into use, it was employed for making fire. A piece of flint was struck against an iron object. The concussion produced a spark, which fell into a box containing charred cotton called tinder. The tinder took fire but did not burst into flame. The flame came by touching the burning tinder with a strip of wood tipped with sulphur. This flint-and-steel method was used for producing fire until less than a century ago.
No attempt was made to produce fire by chemical means until 1805. In that year M. Chancel, a Paris professor, invented an apparatus consisting of a small bottle containing asbestos, saturated with sulphuric acid, and wooden splints or matches coated with sulphur, chlorate of potash, and sugar. The wooden splint, when dipped into the bottle, was ignited. The first really successful friction matches were made in 1827 by John Walker, an English druggist. They consisted of wooden splints coated with sulphur and tipped with antimony, chlorate of potash, and gum. They were sold at a shilling or twenty-four cents per box, each box containing eighty-four matches.

「中国においては(日光集中させてのか)火だねたる天日レンズは遠い昔には広くは用いられていなかった。鉄器が使用に足るものとなるとそれが着火のために利用されるようになった。火打ち石の小片が鉄器に対して打ち付けられ、衝撃にて火の粉が発生、それが黒焦げにされた綿の類、すなわち、火口(ほぐち)と呼ばれる火種が詰められた箱に投じられた。それで火は付くものの、炎と呼べるものに火勢は強まらない。炎(と呼ばれるぐらいの火勢の火)は燃えだしている火口(ほぐち)を硫黄をかぶせられた木の小片に接触させることで得られた。この[火打ち石よび鉄器の混合方式]は今より一世紀前まで火を得るのに使われていた方式である。
 1805年まで化学的手法にて火を起こそうとのいかなる試みもなされなかった。シャンセルというパリの教授(訳注:上記のウィキペディアの抜粋部では化学反応を利用しての化学式マッチの発明者ジャン・シャンセルは[ルイ・テナール教授の助手を務めていた人物]としか表記されていない)
[石綿で満たし硫酸を含ませての小さな瓶、木の小片あるいは硫黄・塩素酸カリウム・そして糖でコーティングしたマッチよりなる器具]
を発明した。(その器具では)木の小片が[瓶](の内容物)に浸された折、着火を見た。
 後、本当に有効性を発揮した摩擦式マッチがジョン・ウォーカー、イギリスの薬剤師に1827年(訳注:先に引用なしたウィキペディア記事では1826年と表記されている)によって生み出されたそれらは[硫黄で被覆された木片、アンチモン・塩素酸カリウム・樹脂をかぶせられての先端を有してのもの]であった

(引用部訳はここまでとしておく)

 以上でもってして

「蓋然性の問題に関わるところとして問題となる絵 ― Meeting of Augustus and the Sibyl― に描かれているような
[マッチ状のもの]
が実際にはマッチ「ではない」と判断できる ―英語で表せば、probablyとなろうとの按配で10中8,9マッチ「ではない」と判断できる― だけの時代的背景がある、であれば、そうしたものが何故、そこに描かれているのか、という問題が「さらに」重くも迫ってくる」

とのことにまつわっての出典表記とした(手前がオンライン上で収集・分析した資料群上では一様に今日、我々が目にするような[自家発火式の摩擦利用マッチ]の欧州先進地域にての登場時期は19世紀になってからであると記されている。したがって、―誤謬が介在しているおそれはそれでもまだあるか、と見るのだが― 15世紀絵画(1494年に没した画家ドメニコ・ギルランディオの手になる15世紀成立の絵画(教会据え置きのフレスコ画))にてマッチのようなものが描かれている蓋然性が「一層感じられない」とのことになる ―では、何度も図示なしているそちら構図が何を描いてのものなのか、ということになるであろうが、その点については[問題となりうるもの]以外に何を描いていると考えられるのか、筆者の方から聞きたいところである― )。

 最後に※1から※8と振ってのことらのうちの※8と振ってのこと、


※8(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の構図に関わることとして) 絵画にあっての【蛇行する蛇状の物体らが球形の物体に群がるありよう】については現実の精子・卵子のサイズ比に近しいものらが描かれているとのかたちになっている


とのことの出典を挙げておくこととする。

(直下、一般教養の範疇に入るところとして、そこよりの引用をなせば足りるか、との和文ウィキペディア[精子]項目にての[ヒトの精子]の節の現行記載内容よりのワンセンテンス引用をなすとして)

ヒトの精子の)大きさは60マイクロメートルほど(ヒトの卵細胞の大きさは直径100-150マイクロメートル

(取りあえずものワンセンテンス引用はここまでとする)

 さらに細かくきちんとしたところよりの典拠も挙げておく。

(直下、ニュージーランドの名門大オークランド大学のウェブサイト ― oakland. eduとのドメインのサイト― 内の一項目、 Dr. Charles Lindemann's Lab: Frequently Asked Questionsとのタイトル名で公開されているウェブサイトにての基礎的医学情報紹介部よりの抜粋をなすとして)

A human sperm is about 55 micrometers (μm) in overall length (head-5 μm plus 50 μm flagellum). A mature ovum is between 120-150 μm in diameter. So the ratio would be 1:2 or 1:3 if you were comparing length of the sperm to the diameter of the egg.

人間の精子の全長サイズはおよそ55マイクロメートル程(頭頂部5マイクロメートルおよび鞭毛部50マイクロメートル)となる。成熟した卵子の直径は120から150マイクロメートルとなる。であるから、精子の長さと卵子直径を比較するとなると、1対2ないしは1対3といった比率となるであろう」

(引用部はここまでとする)

 図におけるサイズの一致性。顕微鏡による精子の構造の特定どころか、そもそももって顕微鏡さえ存在していなかった折に製作されているとの15世紀絵画、 Meeting of Augustus and the Sibyl構図上部に認められる[受精過程の類似形態]に認められる蛇行する物体らと(それら蛇行する物体が群がっての)円形の物体のサイズ比 ―対[卵子]比で2分の1ないし3分の1となるとされるとの[精子]に照応するようなサイズ比― に着目いただきたい。

 以上、ここまででもってして


※1(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― のそれと類似の構造が具現化しているところに関わることとして) [生物の精子「の先端」]にあっては[二重螺旋構造を呈するDNA]が格納されているとの生物学的事実がある

※2(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― にそれと類似の構造が具現化しているところに関わることとして) 人間の数億の精子の内、子宮まで到達できるのは数千から数十万、排卵期卵子の前面までたどり着けるのは数十から数百とされているとの生物学的事実がある

※3(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の成立時期に見る奇怪性に関わることとして) 生体精子の構造のはじめての特定は[顕微鏡]を利用して多くのことを観察したアントニ・ファン・レーウェンフックによる1677年の事績となる(とされる)

※4(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の成立時期に見る奇怪性に関わることとして) DNAの二重螺旋構造が発見されたのは(時代区分における[近代]の後の)[現代]に入ってのこと、いまより半世紀ほど前の1950年代のことである

※5(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の構図の派生に関わることとして) イエズス会 ―(世界史上、極めて幅広くもの強大な影響力を及ぼしてきたとされるカトリック伝道団中、最も強力な団体)― は聖母マリアを守護聖人としている

※6(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の構図の派生に関わることとして) 聖母たる処女懐胎のマリアを守護聖人とするイエズス会は問題たる絵画の【精子と卵子の結合過程を示すが如く構図(画中、処女懐胎を予言してのシビュラに指さされての先にみとめられる【蛇行する蛇状の物体らが球形の物体に群がる構図】)と視覚的に接合するシンボルを掲げての組織として(問題となる絵画製作の)後に設立されており、また、そのイエズス会の創始者イグナティウス・ロヨラの紋章(コート・オブ・アームズ)は[蛇]と結びついている

※7(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の類似の構図に関わることとして) 15世紀にはいまだ今日的な似姿を呈してのマッチ(フリクション・マッチ)は存在していなかったとの発明史にまつわっての解説がなされている(だから問題となる絵画に描かれているとの精子状の物体は【マッチ】の似姿などを模してのものとは考えがたい)

※8(問題となる15世紀絵画 ―聖母マリアの処女懐胎に次ぐ救世の御子の誕生の予言をモチーフとした画― の構図に関わることとして) 絵画にあっての【蛇行する蛇状の物体らが球形の物体に群がるありよう】については現実の精子・卵子のサイズ比に近しいものらが描かれているとのかたちになっている


とのことらの典拠紹介を終えることとする。

※1から※8と振ってのことらにまつわっての ―長くもなりもしての― 出典(Source)紹介の部109(5)はここまでとする)


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直下、本稿冒頭部へのリンクを設けておく

(⇒冒頭頁へは下の部より)

[典拠紹介部第1頁 加速器実験に伴う欺瞞性から証示なせることについて]

 上にて挙げているのはドイツ浪漫主義芸術の巨匠たる18世紀画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Freemasonでもあったとの画家 Caspar David Friedrich)の手になる一品、

Der Wanderer uber dem Nebelmeer雲海の上の旅人』(に多少の[動き]をアレンジとして加えたもの)

となる。

 言われようの問題として一般に、

[人間の崇高なる精神が高みを目指し、ついぞ多くの物事を達観するに至った時、その折の孤独と感慨を描いた画]

などと形容される上掲の『雲海の上の旅人』に関して(本稿でもその言行を順次・段階的に取り上げることになるとの)物理学者リサ・ランドールは[次のような申しよう]をなしている。


(直下、物理学者リサ・ランドールの手になる著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)にての CHAPTER THREE LIVING IN A MATERIAL WORLD[第三章 物質世界に生きる]の章の記述内容 ――オンライン上検索エンジンにあっての原文検索にて該当部特定できるところの記述内容―― よりの原文引用をなすとして)

Our universe is in many respects sublime. It prompts wonder but can be daunting ―even frightening― in its complexity.  Nonetheless, the components fit together in marvelous ways. Art,science, and religion all aim to channel people’s curiosity and enlighten us by pushing the frontiers of our understanding. They promise, in their different ways, to help transcend the narrow confines of individual experience and allow us to enter into―and comprehend―the realm of the sublime. (See Figure 11.)
          [ . . . ]
[ FIGURE 11 ] Caspar David Friedrich’s Wanderer Above the Sea of Fog (1818), an iconic painting of the sublime ― a recurring theme in art and music.

(上の原著引用部に対する[訳文]として国内流通訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版にあっての81ページに記載されているところを引くとして)

多くの点で、私たちの宇宙は崇高だ。その複雑さは好奇心を駆り立てはするが、無力感も抱かせるし、ことによっては恐怖さえも感じさせる。にもかかわらず、宇宙の構成要素は素晴らしくぴたりと絡みあっている。芸術、科学、宗教は、いずれも人々の好奇心を促して、理解の限界を広げさせ、それによって私たちを啓蒙することを目指している。いずれもそれぞれのやり方で、個人の経験の狭い領域を越えさせることを約束している。それがかなえられたとき、私たちは崇高なものの領域に踏み込む――そして理解する――ことができるのだ(図11を参照)。 …(中略)… [図11]ドイツの画家カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ。崇高さは、美術と音楽に繰り返し登場するテーマである

(以上をもって Knocking on Heaven’s Doorにての原著表記および訳書よりの引用とした)


 さて、何故、ここ脇に逸れての部にあって「目立つように」特定絵画 ― 『雲海の上の旅人』― を挙げ、その絵画に対する物理学者の評しよう ―「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ....― などを引いたりもしたのか

「それは、」
絵画『雲海の上の旅人』に対して直上引用なしたような評しようをなしているとの物理学者リサ・ランドールが

加速器によるブラックホール生成可能性にまつわるトピックの理論深化に一廉ならぬ貢献をなしているとの著名物理学者

[[崇高なるもの]を目指しての宇宙の探求(およびそのための装置と銘打たれている巨大加速器LHC)の称揚・礼讃をなしているとの向き

であるとのことがあり、また、なおかつ、彼女リサ・ランドールの手による、(絵画『雲海の上の旅人』を科学者が目指しての[崇高さ]とを結びつけている)引用元著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)が

人間のありよう(崇高さとはおよそ程遠いところにあるありよう)]
人間の辿る運命

を嘲笑うような[嗜虐的寓意]で満ち満ちていると申し述べられるようになっている著作であるとのことがある、遺憾ながら
[理の当然]
として申し述べられるところとしてある ――個人のせせこましい偏頗(へんぱ)な主観などとは一線を画したところで客観的かつ具体的にこれはこうでこうだと申し述べられるようになっている(出典呈示を第一義にしての本稿では無論、その論拠を事細かに挙げる)とのところとしてある―― からであり、そのことに注意を向けたかったからである(※)。

(※上にて引用元とした著作、 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)、同著にあってはその冒頭部より
September 10, 2008, marked the historic first trial run of the Large Hadron Collider (LHC). Although the name―Large Hadron Collider― is literal but uninspired, the same is not true for the science we expect it to achieve, which should prove spectacular. (表記英文引用部に対する訳として)「2008年9月10日、ラージ・ハドロン・コライダー(LHC)が歴史的始動を見た.[ラージ・ハドロン・コライダー]との名称は有り体に言ってインスピレーションを何ら与えぬとの平凡なものだが、私たちがそれ(LHC)に[証明すべきととらえている壮大なる挙]を託しているとの意では[科学(の進歩)]にとり同じくものことは真実とはならない(LHCは際立ってのインスピレーションを与えるものである)」
などとのことが書き記されている。
 そうもした書きようが目立ってもの冒頭部にてみとめられる著作ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアにおける表題、 [天国のドアをノックする]の由来についてリサ・ランドール女史は同じくもの著作の中で次のようなことを述べてもしている。
(以下、 Knocking on Heaven’s Doorにての CHAPTER FOUR LOOKING FOR ANSWERSより引用なすところとして)
I first heard the phrase “knockin”on heaven’s door”when listening to the Bob Dylan song at his 1987 concert with the Grateful Dead in Oakland, California. Needless to say, the title of my book is intended differently than the song’s lyrics, which I still hear Dylan and Jerry Garcia singing in my head. The phrase differs from its biblical origin as well, though my title does toy with this interpretation. In Matthew, the Bible says, “Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find; knock, and it shall be opened unto you: For every one that asketh receiveth; and he that seeketh findeth; and to him that knocketh it shall be opened. (以上原著表記に対して訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版[第四章]103ページにての表記を引くとして) Knocking on Heaven’s Door(天の扉を叩く)]――これが本書の原題だが、私が最初にこのフレーズを聞いたのは、一九八七年、カリフォルニア州オークランドでのグレイトフル・デッドとのコンサートで、ボブ・ディランが『天国への扉』を歌うのを聞いたときだった。いまでも私の頭の中ではディランとジェリー・ガルシアがこれを歌っているのが聞こえてくるけれど、いうまでもなく、私の本のタイトルは、この曲の歌詞とは意味が違っている。このフレーズは出典である聖書の一節とも違っているが、私のタイトルはこちらの意図を拝借したものだ。聖書の「マタイ伝」には、このように書かれている。「求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり
(以上、引用部とした)
 といったところ、新約聖書のマタイ伝にあっての
[求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり]
とのフレーズ、それが
[天国の門]・[天国への扉]・[天国への階梯](ステアウェイ・トゥ・ヘブン)
との兼ね合いでいかように嗜虐的なる別側面での意味( Double Meaning )と共にあるのか、そのことからして具体的典拠を挙げ連ねるとの式で遺漏無くも事細かに示そうというのが本稿の本義であるとここ脇に逸れての部にあって訴求しておきたいとの意図が筆者にはある)

当サイト内にあっての【各頁および各典拠への一覧方式遷移部】、及び、【PDF形式文書配布ページ】へのリンクを直下、設けておく

各頁および各典拠への一覧方式遷移部へは以下より


問題となる[「予見的」言及→実現]の体系についての[典拠紹介部]一覧呈示頁

PDF形式文書配布ページへは以下より


典拠解説媒体としての[一括PDF文書]の公開頁

ここ本頁内の記述内容を支える【「容易に後追い確認なる」「堅い」ソースを呈示しての出典紹介部ら】への[遷移経路]を下に設けておく典拠について疑わしいとの部があれば、必要に応じて参照されたい (:クリックすることでブラウザ ―インターネット閲覧ソフト― の[別タブ(別枠)]にて典拠紹介部を表示( open "additional" tabbed window(s) of web browsers

[出典(Source)紹介の部100](新約聖書『使徒行伝』に登場する[占いの霊]という存在が[元来、ギリシャの神託の地にて崇められていた大蛇の怪物パイソーン(ピュトン)が変じての存在]であるとされていることにまつわっての典拠紹介部100)
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第117頁 重大事件の先覚的言及と『使徒行伝』に見る占いの霊

[出典(Source)紹介の部109](聖書の『使徒行伝』にあって登場してくる救世主の教えを担ぎ通す[占いの霊]という存在がいかように往古にあっての託宣なす蛇巫(へびふ)の類と結びついているのかにまつわっての典拠紹介部109)
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第128頁 預言者シビュラ関連キリスト教絵画に見る嗜虐的ありよう