典拠となるところの明示[130]――古代の巫女の予言にかこつけてキリスト教徒に
偽作されたシビュラの託宣関連事物に見る[高度に科学的なやりよう]について

関連情報にまつわるカテゴリ(各部クリックにて遷移)

[異様性を呈しての先覚的言及]が[高度な科学的知見を示す方式]にて具現化してきたとのことがあることについて 補説4

(直前頁にあって極めて長くもなっての Meeting of Augustus and the Sibyl(邦訳すれば 『アウグストゥスとシビュラの出会い』という15世紀絵画にみとめられる先覚性の問題についての解説出典表記をなしてきたとして)

 ここまでにて呈示の長くもなっての出典紹介の部、そこにて説明したことを踏まえて、

Meeting of Augustus and the Sibyl(邦訳すれば 『アウグストゥスとシビュラの出会い』)

がどういうフレスコ画となっているかにつき振り返っての話を以下、なしておくこととする。

(すべてここまでにて(駆け足ながらも)出典指し示してきたことのみに依拠しての話として)

 フィレンツェ(Florence)の教会(聖三位一体教会)に存在しているとの15世紀絵画 Meeting of Augustus and the Sibyl(邦訳すれば 『アウグストゥスとシビュラの出会い』)は

[処女懐胎の救世主の到来を巫女(シビュラ)が皇帝(アウグストゥス)に予言するとのテーマと接合する絵]

となる。

 といった[処女懐胎の予言]にまつわる絵画にて予言者(うち、デルフィック・シビュラは蛇巫(へびふ)としての特質をある種、帯びている存在である)に指さされる先にては

[精子と卵子の結合過程と目立って類似性を呈する構図]

が具現化を見ている。

 のみならず、[同画の下部]の方にあっては

[マッチ状のもの(見よう見方によっては精子状の構造物)が先端部がDNA状の二重螺旋構造と接合するとの構図]

が具現化を見ており、それは精子の先端にDNAが格納されているとの生物学的事実と接合するようにとれるとのものである。

 そうもしたフレスコ画、

[処女懐胎予言と接合する画]

にして、なおかつ、

[精子と卵子の結合過程と類似性を呈する構図を具現化しての画(処女懐胎の予言をなす者に指さされての画の上方部)]
および
[マッチ状のもの(見よう見方によっては精子状の構造物)が先端部がDNAの二重螺旋構造状のものと接合する(精子先端部にDNAが含まれているとのことを指し示しているように見える)との構図を具現化しての画(画の下方部)]

については[次のことら]「も」が述べられるようになっている。


・精子の構造が発見されたのは17世紀の顕微鏡使用によってであり(1677年のことともされる)、それまでは精子の構造は人類に知られていなかったとされる。だが、問題となる画は15世紀作成の作である。また、DNAの二重螺旋構造が発見されたのは20世紀中葉のことであり、それが15世紀の絵画(1494年に没したとされる画家ドメニコ・ギルランディオの手になる絵画)に描かれていたと述べることはまったくもってできない。

・問題となる絵画の上部に画き込まれた[精子と卵子の結合過程と類似性を呈する構図]に関しては【受精】過程にて実際に卵子にまで辿り着くとされる精子の数に照応するが如くの数の精子状の物体が描かれている(受精過程にては子宮頸部に達するまでに99%の精子が死滅、そのうえでさらに卵子の目前にまで到達できるのは数十から数百という解説がなされるなかで表記の画では「目立つところ」としておよそそうも見えるところとして16本ほどの蛇行するおたまじゃくし状の(当時には精子が発見されていなかったことになっているのだから)【謎の物体】が描かれている)。

・問題となる絵画の上部に画き込まれた[精子と卵子の結合過程と類似性を呈する構図]に関しては[精子]と[卵子]のサイズ比「をも」適正に表しているとの側面がある。人間の精子と卵子のサイズ比はおよそ1対2ないし1対3であるとされるが、問題となる画でも[精子状の物体]と[卵子状の物体]のサイズ比がそちら比率に収まっている

・(くどくも繰り返すが、)問題となるドメニコ・ギルランディオ製作のフレスコ画 Meeting of Augustus and the Sibylと同様に[シビュラが皇帝アウグゥストゥスに救世主の生誕の託宣をなすとの画]も存在するのだが、それらの画では[中空に嬰児を抱く処女マリアの幻影]が描かれているところをギルランディオ画では[蛇行するオタマジャクシ状の物体らが球形の物体を取り囲む構造]が描かれている。処女懐胎などありえないとの馬鹿にするが如く寓意を見るかは別として、少なくとも、そこにては[懐胎](の機序)との意味での意味論的接合性が存する。

・問題となる画にあってはその上部(処女懐胎を預言したとされるシビュラが指さす中空の方向)にて[蛇行する精子状の物体が卵子状の物体を囲む描写]がなされている一方で その下部にては先端が二重螺旋構造と結びつけられたマッチ状のものが描かれている。そちら下の部に見るものは『マッチか?』とも見えるわけであるが、今日我々が用いているマッチ、木片に塩素酸や硫黄などよりなる頭薬をくっつけて製造されているとの[摩擦式マッチ](フリクション・マッチ)がそのままの姿にて絵画作成時の欧州には存在していなかったとされるとのことがある(少なくとも引用なしてきたところの発明の歴史に関する著作ではそのように、先行する近代にて登場の化学式マッチに続き摩擦式マッチが登場を見たのは19世紀前半からであるとの紹介されているとのことがある)。とすれば、[二重螺旋構造と先端部が接しているマッチ状のもの](画面上部のオタマジャクシ状の物体らと結びつくようにもとれる画面下部のマッチ状の物体)は[マッチ]ではないであろうと考えられ(ただしその点については筆者の情報収集不足に起因する誤謬介在の可能性も微弱なれどあることを現時点では否定しない)、そのことから[相応のマッチではないとの構図]が[精子]を示すためにわざわざそこに描き込まれたものであるとの心証がさらに強まることになる(これはそうもした【二重螺旋構造と先端画結びつけられた下部の構造】に対して【画上部の構造】としてよりもって精子に近しいおたまじゃくし状の謎の物体が描かれていることと複合顧慮する必要がある)。

・表記の図は[処女懐胎]の図にまつわるものだが、そこに見る【処女懐胎をなした聖女マリア】を守護聖人とする伝道団イエズス会が「後に」採用した紋章(IHSこと lesus Hominum Salvator「救いの人イエス」を中心に配した紋章)の構図が問題となる画の上部構図、【謎の精子状の物体が謎の円形物体に群がるように蝟集しての構図】(サイズと個数の問題でも人間の受精過程を想起させるようになっていると先述の構図)の影響下にある節が如実にある(単純な視覚的相似性の問題として、である)。のみならず、イエズス会の創始者イグナティウス・ロヨラは蛇の紋章を掲げての貴族の出身となるうえにそちらロヨラの蛇状のものを配しての紋章([ヘラルディック・ヘルメット]と呼ばれる部に【蛇が巻き付いた兜】(のようなもの)が描かれているとの紋章)はイエズス会に広く用いられているとのものともなる。対して、表記の画 ―後に設立されたイエズス会の表象シンボルと極めて似通った構図を受精のプロセスの類似型として描いているとの画― は[蛇巫(へびふ)]としての性格を帯びての[デルポイのシビュラ]とも接合するシビュラ関連のものとなっている、そして、そこには蛇状の二重螺旋などが描かれているとのことがある。そういったことからして複合的な意味で絵画の構図とイエズス会にまつわるありようの間には恣意的意図が存在しているように受け取れるところである。


 以上のこと ―全て具体的にそうである、との典拠を容易に後追いなせるかたちにて指し示してきたこと― が全てあわさって具現化している際にそこに[偶然の賜物]との評価が下せようか。

 筆者は本心を偽ってそのような式にての申しようを「厚顔無恥にも」なすとのやりようを心底忌んでおり、実際、そのような申しよう、偶然であるなどとする申しようをなすことは絶対にするつもりはない(要するに「恣意の賜物であろう」と声を大にして述べたいのである)。

 ここまでの流れを受けて、(狭量でよく人の話を聞かぬとの相応の人間らには誤解を招きもしよう話をなしてきた中、さらなる誤解の惹起をおそれずに)、次のこと、敢えても申し述べたき次第である。


 画家ドメニコ・ギルランディオ( Domenico Ghirlandaio.1449-1494)が手ずから[離れ業]をなせたわけがない。

 画家は[人間以外の「他の」知的存在]の脳機序操作に基づいて描か「されて」いただけであろう。そのように解して然るべきところであろう。[人間「以外」の他の知的存在]を観念する物言いが常識世界では[異常な言辞]と見倣されようもしようことは百も承知のうえであるが、直近までにて述べてきたことすらほんの一事例に過ぎぬとの不可解極まりない、それでいて、世間一般でまったくもって語られない相応のことらで溢れかえっているのがこの世界であるとの[具体的指し示し]を本稿では通(とお)しでなしてきている。一例を挙げれば、[【浦島伝承に伴うパラレリズム】が【ブラックホールと911の事件を結びつける留め金となる不快な文物】と多重的に結びついているといったことを、(無論、それとて聞くだに異常な話であるわけだが)、根拠呈示をひたすらに積み上げる式で指し示していた部などがそうである ――※尚、残念なことに[【浦島伝承と類型をおなじくもする伝承らの複合地域の一致性問題】が【ブラックホールと911の事件を結びつける留め金となる不快な文物】と多重的に結びついているとの本稿にて先になした指し示しは【話のリジッドさ(議論・証拠としての堅さ)】との面でここにてなしている[ギルランディオのシュビラ画描きように見る先覚性の話】の「上を行く」ものである(:細かくは、例えば、原著1994年刊行、邦訳版は1997年刊行との BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』との書籍にまつわる解説部ら、(羅列しての表記なして)出典(Source)紹介の部28出典(Source)紹介の部28-2出典(Source)紹介の部28-3出典(Source)紹介の部31出典(Source)紹介の部31-2出典(Source)紹介の部32出典(Source)紹介の部32-2出典(Source)紹介の部33出典(Source)紹介の部33-2によって1994年原著刊行の著作がいかようにして[文献的事実]の問題として【双子のパラドックス(1911年提唱/同[双子のパラドックス]は本稿にての出典(Source)紹介の部28-3でも指摘しているように浦島伝承と結びつくパラドックスでもある)】/【91101とのナンバー(2001年9月11日を示すナンバー)】/【2000年9月11日⇒2001年9月11日に通ずる表記】/【他の関連書籍に見るブラックホール⇔グラウンド・ゼロとの対応付け】といった複合的要素を【僅か一例としての思考実験】にまつわるところで同時に具現化させ、もって、[「双子の」塔が崩された「2001年9月11日の」911の事件]の前言と解されることをなしているのかについて(筆者の主観など問題にならぬ客観情報にまつわるところとして)確認いただけるようにしている次第である)―― 


 以上のようなことをも複合顧慮のうえで、

[ギルランディオは[予言の霊パイソン]([デオキシリボ核酸の二重螺旋構造にまつわる知識を有し][人間の精子と卵子の結合過程に相当細かく把握し][それを処女懐胎にまつわる寓意譚にまぶすだけのブラックユーモアのセンスを持っている]との高度に科学的なる文明に属する存在)に画を描か「されて」いただけであろう]

と「はきと」解される。そうも指摘する。

 さて、「問題なのは、」

[[予言(という名の科学的・器質的コントロール)をきたす力学]がそこに存在している]

と述べられるようになっていること、それ自体である。

 そして、「さらにもって問題なのは、」そこに存在していると解される[占いの霊の力(と便宜的に述べた予言をなすが如く科学的操作)]が

極めて[退歩的]かつ[嗜虐的]なやりよう

と時に一体となっているものであると述べられるようになっているとのことであり、(については部分的にここまでも注意喚起なしたことだが)、その先に相応の意図が透けて見えることである(:脳容積の問題なのか、技術水準の問題なのか、あるいは、その双方か、[劣等種]と認定しているのであろうと解される存在(我々人類)を操作サイドが「たばかって」なぶり殺しにするのに喜びを覚えている(と述べても、重要なところは[被操作者サイド]を共犯に仕立ててあげているようにとれる)との[極めて[嗜虐的]かつ[退歩的]なやりよう]がそこにみとめられると述べられるようになってすらいると筆者はとらえている ―筆者の脳裏をよぎるのは米軍のアブグレイブ刑務所の兵士らやりようの流布された写真(殺されることになった囚人らに「相応の」連中が何をやっているかが端的に示されているとの写真)である― )

 では、何をして、

極めて[退歩的]かつ[嗜虐的]なやりよう

と述べもするのか。

 処女懐胎の預言にまつわる図に[DNA構造]や[サイズ・数など含めて正確といった按配の受精構造類似図]などの生物学的再生産(生殖)プロセスにまつわる科学的絵図を隠喩的かつ意図的に仕込む ―今より半世紀程前になってようやっと発見されたDNAの二重螺旋構造どころか精子構造すらも特定されていなかった15世紀末に描かれた絵画(近代以降の贋造物ではなく歴史的に真正なるものとして欧米の美術館のウェブサイトにて似姿公開されているようなフィレンツェ在のフレスコ画)に仕込む― とのやりようからしてある意味、

[下らぬ戯言を押しつけられた(自分達から見ての)蒙昧なる種族のありようと【運命】を嗤(わら)うが如く嗜虐的なるもの]

であるととれるところではある。

 が、より巨視的に見れば、人類残酷史をもたらすことになった機序 ―キリスト教というまさしくも残酷史のひとつの原動力たる要素― にそういう寓意を仕込んでいるところに

極めて[退歩的]かつ[嗜虐的]なやりよう

が凝集を見ているようにとれる。

 人間の【残酷史】は宗教(および狂信的なる相応の宗教の徒輩ら)とワンセットとなっている。宗教の徒が加害者にもなり、被害者にもなり、残酷史が現出してきたとのことがある。

 大なるところでは

[神の与えたもうた(との[設定]が付与されている)選民主義を奉ずる民族の強制収容所の大量虐殺](ユダヤ系の大虐殺に関しては、の中でも、悪質性で際立ったところとして[ナチス強制収容所で医師ヨーゼフ・メンゲレによって実行された双子実験]が[残酷史の特質]と[残酷史をかたちづくってきた憑かれたような者達の腐った性質]を知る契機になるであろうと私的には見ている)

[信仰に基づき大量に生け贄にしてきたアメリカはメキシコ界隈に拠ってのアステカ帝国やりよう]

が宗教の徒が犠牲者・被害者になっての残酷史の一例となるし、小なるところを拡大して見れば、

[カルト団体の集団自殺問題に見る人間存在を芥子粒と嘲笑うが如く事件] (ご存知なきはお調べいただきたいが、[人民寺院]や[ブランチ・ダビディアン]や[ヘヴンズ・ゲート]といった海外カルトの集団自殺から戦前期日本にての[死のう団事件]と俗称される日蓮宗カルトによる集団自殺などなど)

が宗教関連の残酷史の片鱗となる。

 以上、宗教というものにまつわる残酷史に言及した ―残酷史と言えば、[科学的でもなければ、事実も重視しないとのただひたすら狂躁的・狂熱的なる(本来の英語の意味合いでの[マニアック]なる)人間らによって支えられたイデオロギー]も[宗教]と両輪をなすところとして近現代の残酷史構築の元となっていると申し述べられるようなものであるが(共産主義とその親戚のファシズム(国家社会主義)を掲げた国家群の愚行を分析すれば容易に推し量れることである)、ここでは歴史的に人間の嗜虐挙動の枢要なる原因となってきたところの宗教に着目しての残酷史を俎上にあげている― ところで述べるが、 Meeting of Augustus and the Sibylが描かれた往時には[今日、新教徒(プロテスタント)と呼ばれる勢力]は未だ存在していなかった( Meeting of Augustus and the Sibylが描かれたのは15世紀末であるとのことである。他面、新教徒のドグマが歴史の表舞台に登場しだしたのは16世紀初頭、1517年からである ―高等学校の世界史の授業で把握強いられるようなところとして(和文ウィキペディア[プロテスタント]項目の[歴史]の節にての現行記載内容より一文のみ引用するところとし)1517年以降、マルティン・ルターらによりカトリック教会の改革を求める宗教改革運動が起こされたと解説されるようなところである― 。16世紀に入る前にはルター派・カルヴァン派・ツヴィングリ派といったプロテスタント勢力の元となった教派は存在していなかった)。

 だが、既述のように処女懐胎を科学的に嘲笑うが如く描写を含む Meeting of Augustus and the Sibylが描かれた後、

[キリスト教の教義解釈を巡る対立]

から欧州で勃発した新教・旧教の対立の中で膨大な血が大地に流れたのは言うに及ばず(英文Wikipedia[ List of wars and anthropogenic disasters by death toll ]項目などにても[16世紀宗教戦争の一例]としての[ユグノー戦争](1562―1598)では「200万人から400万人のレンジで」死者が出、新教徒と旧教徒の勢力の確執が極めっての[三〇年戦争](1618―1648)では「300万人から1150万人のレンジで」欧州にて血が流れたと表記されている)、 新教・旧教の宗教対立が生じる前から、そして、それが生じてからも欧州ではキリスト教教義に基づきキリスト教「機構」は[異端者・魔女・不信心者と認定した者ら]に容赦のない制裁を加えてきたというのが ―意思も薄弱、言われれば、どんな悪行(押しつけられた偽物の善でコーティングされた悪行)にも手を染めたとの「相応の」人間ら(本稿筆者などがそういう種別の者達とは決して相容れないであろうととらえる「相応の」人間ら)に担わせてきたものである― 人間の歴史というものである。

 では、多くの人間を排除することで成り立っていた典型的「宗教」、キリスト教のドグマとは何かと述べれば、

[聖母マリアが[処女]でありながらも懐胎して[救世主]を産み落とし、その処女懐胎の[救世主]が全人類の罪をあがなうとのかたちで罪なきところを十字架にかけられ一人贖罪をなしたために、その意気に応じ、その救い手に対する帰依と信仰を表明することで[神の無限の愛 ―アガペーとされるもの― ]の恩寵を受けようとの体系]

のことを指す(さらに述べれば、[黙示録の最期の審判]で同じくもの信仰を有している者だけが救われるとの教義体系でもいいわけだが)。

 上記のようなドグマにあっての正統(オーソドックス)とされるところを容れぬとの者ら (たとえば、イエス・キリストの[神性]を否定して[人の子としての側面]を強調し古代にて異端とされたネストリウス派のような微妙にずれる異端のドグマを容れていた(いる)との者達のような異端(ヘレティック)) ないしは [実際はともあれ、ドグマを信奉して「いない」と認定された者ら] は宗教的権威あるいはそれを笠(かさ)に着ているとの者達による冷酷無慈悲な暴力的制裁を受けてきたのが欧州の歴史、すなわち、【今日の人類文明の基礎となっている文化圏】の歴史である。

(:[魔女裁判]については「言われているより多くの人間を殺してはいないものであった」との説もあるが、それでも万単位の人間を殺していたと「される」ことには相違がない ―和文ウィキペディアにあっての[魔女狩り]項目には(その[時期と地域、犠牲者数]の節より引用するところとして)魔女狩りの犠牲者に関しての最も極端な説は、18世紀の歴史家ゴットフリート・クリスティアン・フォークトが示した900万人である。これはあまりに極端であるとしても、かつて魔女狩りについて(客観的な根拠がないまま)犠牲者数が数十万人から数百万人と見積もられていた時代もあった。しかし近年行われている一次史料からの推計によれば、魔女裁判による処刑者数は1428年から1782年までに全ヨーロッパで最大4万人であるとされており、ヴォルフガング・ベーリンガー、ロビン・ブリッグス、ロナルド・ハットンといった研究者らはこの見解で一致している[17](民間の魔女迫害における私刑の犠牲者はこの推計に含まれないが、これについては無根拠な憶測しかできない[18])(引用部はここまでとしておく)。 尚、表記の引用元にて[17]と[18]と注記番号振られて紹介されている著作はジェフリ・スカール、ジョン・カロウ 共著の『魔女狩り』 (岩波書店)との書となっているが、筆者はそちら書籍を手にとっての検討をなしているわけでもなく、ここでは魔女狩りのその手の研究者らの申しようを深く分析しているわけでもないので「そういう意見が通説化しているようである」と述べるにとどめておく)― )

ドイツの法律関連書籍Laienspiegelにて掲載のものとして英文Wikipediaに著作権の縛りなき分類で掲載されている魔女への拷問および制裁の図。「もしも、」の話だが、筆者が15世紀の欧州人としてそこに存在しており、その場にて「マリアは処女懐胎などしていない」などとのことを主張していたらば、上図に見るような相応の罰を受けていたことかもしれない、と思われる。

 ここで筆者がその悪質性について「くどくも」強調したいのは、

[特定のドグマ (往時の人間にはその誤謬性が認められていなかったところのドグマ) を強制する一方でそのドグマがいかに馬鹿げたものであるかを嘲笑うもの( Meeting of Augustus and the Sibylにての特定構図)を ―精子の形さえ知らぬとの往時の人間には絶対にその寓意性が気づけぬとやりようで― 公に曝させるとのことをなす。そして、そういうことをなす一方でそのドグマを妄信している人間達に「神の名に基づいての」尊厳を踏みにじる虐殺行為を実行なさしめる]

とのやりようが採用されてきた(と解されるようになっている)ことである。

 そして、「悲劇は、」「問題の本質は、」そのようなやりようが今日の社会を、我々人類の多くの人間の精神の思考回路を未だに規定しているこのまま行けば、「最期」まで規定し続ける)と解されることである。

 具体的には今日、世界の三大宗教の一画となっており欧米人の精神風景を規定しているキリスト教教義体系にあっては未だにその根本的ドグマ、すなわち、

[聖母マリアが[処女]でありながらも懐胎して[救世主]を産み落とし、その処女懐胎の[救世主]が全人類の罪をあがなうとのかたちで罪なきところを十字架にかけられ一人贖罪をなしたために、その意気に応じ、その救い手に対する帰依と信仰を表明することで[神の無限の愛 ―アガペーとされるもの― ]の恩寵を受けようとの体系としての根本ドグマ]

が残置を見ており、[処女懐胎]は敬虔なるキリスト者にとっては譲れぬところとなっている、換言すれば、"彼ら"にとって

[科学的事実との関係性を見てはならないもの]

として残置している節あることがある(直下出典紹介部を参照のこと)。


| 出典(Source)紹介の部109(6) |

 ここ出典(Source)紹介の部109(6)にあっては

[聖母マリアが[処女]でありながらも懐胎して[救世主]を産み落としたとのドグマが今日もってなおキリスト教の正統なるドグマとされている]

とのことの典拠を挙げることとする。

 キリスト教の会衆が未だに[処女懐胎のドグマ] ―画 Meeting of Augustus and the Sibylの主題からそういうものであると示されている処女懐胎のドグマ― を容れることを強いられていることの出典をここに挙げておく(これまた性質悪いものだと見るのだが、欧米圏では語る必要も無い[常識]の問題である。だが、ここでは仏教徒が多いとの日本国内土壌を慮っての表記をなしておく)

 ここでは旧教(カトリック)・新教(プロテスタント)分かちてキリスト教主流派閥のマリアの処女性にまつわる見解について呈示しておく。

 まずはカトリックがマリアを[(イエス受胎時にての)処女としての神聖な存在]であると見倣していることについては(基本的なところであるのでそれで十分であろうと判断し)英文Wikipedia[ Perpetual virginity of Mary ]項目 ―ちなみにパーペチュアル・バージニティ・マリーとは「聖母マリアが「首尾一貫して」処女であり続けた」とのことを主唱する思潮、[イエス・キリストが生まれる「前」も受胎の「最中」も、そして、受胎「後」も処女であった]との思潮を指す(何故、結婚しているのか、との突っ込みは抜きに、聖母マリアにはヨセフという夫がいたのだから、そういうこと「も」問題になる)― よりの引用をなしておく。

(直下、オンライン上より即時に確認できるところとして英文Wikipedia[ Perpetual virginity of Mary ]項目よりの引用として)

The doctrine of the perpetual virginity of Mary expresses the Virgin Mary's "real and perpetual virginity even in the act of giving birth to Jesus the Son of God made Man". According to the doctrine, Mary was ever-virgin for the whole of her life, making Jesus her only biological son, whose conception and birth are held to be miraculous. [ . . . ] The doctrine is part of the teaching of Catholicism and Anglo-Catholics, as well as Eastern and Oriental Orthodoxy, as expressed in their liturgies, in which they repeatedly refer to Mary as "ever virgin".

(訳を付すとして)「マリアの永遠なる処女性の教義は聖母マリアが神の子たるイエスに生を与えたその間にてさえ「も」処女であったとの[処女の無限性]に関する教義である。同じくもの教義に基づけば、概念および出産が奇跡の産物であるとの側面を持つ聖母マリア、イエスに生物学的な子として生を与えた(訳注:処女懐胎が生物学的な話と両立している時点で論理的におかしいのだが、それは置いて原文のニュアンスを反映させる)聖母マリアが継続して処女であり続けたとのことになる。・・・(中略)・・・同教義(マリアの永続的処女性)は「それら宗派にての典礼式文がマリアを[永遠なる処女]と繰り返しているように」東方正教会と同様、カトリック、聖公会(アングリカン.イギリス国教会系)にての教義の一部をなすものとなる

(訳を付しての引用部はここまでとする)

 次いで、新教、プロテスタントがマリアの処女性についていかように見ているのか、の抜粋をなしておく。

(直下、オンライン上より即時に確認できるところとして和文ウィキペディア[プロテスタントにおけるマリヤ観]項目にての[現代プロテスタント各派の見解]の節よりの引用として)

自由主義神学 ヒルゲンフェルトら近代聖書批評学を受け入れるリベラル神学者は、ルカによる福音書の「マニフィカト」を含む記事が後世の加筆であると考える。またアドルフ・フォン・ハルナックらはエリザベトが「マリアの賛歌」の作者であると見なしている。ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス、F・C・バウア、ヘルマン・ヴァイセ、ルドルフ・カール・ブルトマンらは処女降誕は史実ではなく神話であるとした。ハルナックはマリアが聖霊ではなく、ヨセフによって身ごもったと主張した[10]。また聖公会のデイヴィッド・ジェンキンズ主教は処女降誕の史実性を疑っている[11]。
新正統主義 カール・バルトは新正統主義の代表的な神学者である。バルトは教会の伝統に基づき、マリアを神の母と認める。また処女降誕も受け入れる。教会のマリア終生処女についてはマリアではなく、キリスト論の弁証のためとした。またローマ・カトリック教会のマリア崇敬は恐ろしい誤り、異端であると考えた[12] 
福音派 福音派は聖書信仰からルカによる福音書のマリアの賛歌はマリア自身によると認める。またマリア聖霊によって身ごもったという処女降誕を史実と信じている[13][14]。ジョン・ストットはエフェソス公会議の「神であり人であるが単一の人格であること」、カルケドン信条「単一の人格でありながら、イエスが完全に神であり人であること」を受け入れるが、「神の母」には言及していない[15]。

(引用なしての部はここまでとする)

(※以上の出典は
[10]ジョン・グレッサム・メイチェン『キリストの処女降誕』いのちのことば社
[11]ジョン・ストット『まことの神、まことの人』いのちのことば社
[12]として Church Dogmaticsと呼ばれるプロテスタントの教義明示文書
[13]尾山令仁『聖書の教理』羊群社
[14]ジョン・グレッサム・メイチェン『キリストの処女降誕』いのちのことば社([10]と同じ)
[15]ジョン・ストット『まことの神、まことの人』いのちのことば社 
と明示されており、(各書、必要ないだろうと中身を確認していないのだが)、[海外および国内の福音派の大物論客(全て物故者)の手になる著書]よりの引用と明示されている。
 問題はプロテスタントの教義、聖書回帰主義を取る福音派をはじめプロテスタントの多くが[マリアは処女である]との教義を当然と受け取っている節があることである)

出典(Source)紹介の部109(6)はここまでとする)


 ルネサンス期の巨匠ミケランジェロの代表作[ピエタ]と[デルポイのシビュラ]。それら(多くの人が知るミケランジェロ代表作たる)[ピエタ]および[デルポイのシビュラ]はそれぞれカトリックの総本山ヴァチカンに据え置かれている作品となる([ピエタ]の方はヴァチカン内の総本山サン・ピエトロ大聖堂に据え置かれ、デルポイのシビュラの画はサン・ピエトロ大聖堂に隣接するシスティーナ礼拝堂に据え置かれている.尚、上掲のピエタの写真についてはルネサンス期文人にして芸術家であったジョルジョ・ヴァザーリの手になるルネサンス期芸術家ら評伝『画家・彫刻家・建築家列伝』(1550-1568/[芸術史]という学問的ジャンルを生み出したことで知られるエポック・メイキングなる芸術家らの要覧書)の近代英訳刊行版 ― Project Gutenbergにて公開されている1915年版の Lives of the Most Eminent Painters, Sculptors and Architects, Vol. 09 (of 10)― にて掲載の写真より抜粋なしたものとなり、デルポイのシュビラ画の方は英文Wikipediaにて掲載のものより抜粋なしたものとなる)
 技巧性の妙とプラトニックな側面すら感じさせもする美しさからそれを目にした者のほぼ全てにその芸術的価値の高さを即時に実感させる作として知られる(弱冠20代前半の頃の)ミケランジョロの代表作たる著名彫刻[ピエタ]はイエスの母マリア、要するに、[処女にて子を孕んだと伝わる聖女]が磔刑にて死した我が子を慈しみながら抱きかかえるとの作品となっているわけだが、そこに見るところの[処女懐胎の母](の教義の馬鹿馬鹿しさ)を徹底的に愚弄しているように否定している作品がある、それが同文にミケランジェロの作としての[デルポイのシビュラ]のようなシビュラをモチーフとしての15世紀絵画である、とのことはここまでにて詳述してきたことである
 そうしたことにこの世界そのものが抱える病根、

[[表面的美 ―ピエタおよびデルフィック・シビュラらがそこに似姿を具現化させているとのヴァチカンに中枢を有するカトリックなどの宗教が表面上の[虚飾]として振り回す[愛]や[救い]の観念などに見るもの― ]と[実体としての醜 ―平然と人間の尊厳を踏みにじる力学が[虚飾]の陰で色濃くも実体化を見ているとのそのありよう― ]の問題]

を見ようとしない者は、結局は【運命】に抗うこともなく、そして、【相応の最期】を迎えることを強要されても甘受なすような向きとなっているのであろう(残念ながらもそうなっているのであろう)というのが筆者の見立てである。

 プロテスタントの折衷派・自由主義神学や一部のキリスト教派生カルトなどでは ―そこからして宗教的狂人を多数内包している勢力なわけだが― 処女懐胎のドグマが如くものをより緩やかに見る傾向があると聞き及ぶが、[偽善・欺瞞で満ちた教義の認容を是として、それでもってそれを奉じぬ他を差別・区別することを是とする]とのスタイル、多くの宗教の徒に共通するやりようは多く変わりはない。

 そうした科学的な基本的事実すら見ないような者達が、そう、

[[崇拝を強いられている体系]が[悪魔のように嗜虐的な者達(科学文明の精華を利用しての者達であろう)がこさえたブラックユーモアの産物]である]

とのことを絶対に見ようとしないような者達が一体全体、どうして、

[神の救済の観念と矛盾する自分たちを皆殺しにするつもりであるとの同様に科学的手法を用いての計画の前言・予告]

が存在していることを「認める」「認められる」というのか。

 それが詰まるところ、(結末の付け方と同時に)、世界の行く末を端的に示す側面であると見ている。

 これにて新約聖書『使徒行伝』に見る、

[占いの霊](そちら存在が憑いた女が預言をこととするとのデルポイの蛇の怪異パイソン)

に関して何が述べられかの過半について書き記した。

(:直近表記の[占いの霊]「に関して何が述べられるか」の中身について、一応、振り返っての表記をなしておく。
 それにつき、まずもって、新約聖書に登場するパイソン(ピュートーン)が預言者の類と関わっているとのことがある、
[ピューティア]=[デルポイの蛇の霊パイソンの霊験あらたかに(といっても腐乱ガスを吸ってトリップするといった文脈で霊験あらたかに、であるが)予言をこととするデルポイの巫女]
との文脈で預言者の類と関わっているとのことを示した(出典(Source)紹介の部100および出典(Source)紹介の部109から出典(Source)紹介の部109(4)を包摂する解説部にて先に細かくも指摘していたことである)。
 その式、デルポイの蛇(パイソン)に関わる[蛇巫](へびふ/蛇と結びつく占い巫女)との式で行けば、[デルポイの蛇女(ラミア)の娘たる巫女]を含むシビュラという存在が知られているとのことがあり、本稿のここまでにて述べてきたのはそうしたシビュラに材を取っての特定のルネサンス期成立の画が[欺瞞の構造]を徹底的かつ冷酷に指し示すものとなっているとのことである ―17世紀(1677年)まで発見されていなかった精子の構造や半世紀前まで発見されていなかったDNA二重螺旋構造などを図像として内包しながら、図像的位置関係の克明さをもって[生殖の具体的プロセス]を示しながら、それでありつつも、[処女懐胎]にまつわる寓意画となっているとのことである― 。
 そうもした示唆ありようをもってして同文の力学が介在してであろう、ありとあらゆる不愉快な[予言] ―などと被操作者の未開人(我々人類のことである)には呼ばれようとの高度な科学的知識に基づいての対象の操作― がなされていると考えられるようになっているとのことがある。 そして、同じくものことが往時の人間が知る由もなかったことを媒質となった人間を用いて具現化なさしめる力学に通底している、その通底のありようがゆえに911の予言事象 ―ここ本稿補説4の部にて膨大な文字数を割いて典拠挙げながらの解説に努めてきたことら― のようなものら、そして、それら911の予言事象らと接合するようになっている「相互に連関して」「記号論的同一要素を共有している」奇怪なるブラックホール生成問題と通ずる奇怪なる言及らかつ[トロイアのように内破させられての破滅]の寓意と結びつく「科学的」先覚的言及らを具現化なさしめ続けているのだとの分析もが当然の帰結としてなせるようになってしまっている(その意では【予言】の分析というより【過去になされた行為の分析】から【未来】を推し量るとのことがなせるようになってしまっている、でもいい)
 以上のことが「[占いの霊]に関して何が述べられるか」「何が述べられるか」の中身である)

[直上にて記述したことをより深くも煮詰めてのこととして]

 ここでは[救いの教え]に[破滅へ至る誘惑の寓意]をずっとまぶし続けてきた ―本稿のこれよりの部から折に触れ同じくものことの訴求を漸次なしていく― との力学がどういったものであると思料されるのか、また、そうもした力学にどう処すことが求められて然るべきなのか(それができないとの種族ならば相応の未来しかないと何故もってして解されるのか)とのことについてひとつ脇に逸れての訴求をなすこととする。

 その点、[愚劣性]がゆえに特定対象を小馬鹿にしている者達がいるとしよう。

 ここでは、その者達をして、(わざと「仮に」を付してのこととして)、

[特定の侵出地域の土俗の民らを心底愚弄しているとの統治機関関係者]

だったとしてみよう ―についてはヒンドゥー教信仰体系とワンセットになった[カースト制]が植民地の民らに分断を与えて統治の利便性を促進するとの意味合いでヒンドゥー教を大いに尊重している、ないし、利用しているとのかつての大英帝国のやりようのようなものをより「露骨」かつ「積極的」に取り入れ、人間の退歩性を促進し、人間を分断するために[まやかしの宗教]の類を[高度に科学的なる手法]ででっち上げた存在を考えていただきたい― 。

 さて、あまりにも「醜くも」「愚劣に」植民地の土俗の民が

[自分達がでっちあげた統治のための装置、科学を霊的問題に偽装しての教義]

に嵌(は)まりり(の際に検知検出に困難性が伴う脳内麻薬の分泌作用の悪用がなされていたりする、そういうことがありうるかは置き、とにかくも、嵌まり)、

[退歩的殺し合い]・[保身のための不条理な排斥]・[善なるもの/美風たりうることの排除]・[そうした愚劣なる挙をこれまた愚劣に糊塗するための見え透いた偽善]

を傀儡(くぐつ)たる側面を越えてそうした者達に「延々と」見出し続けることになったらばどうか。
 操作をなした存在としては、(実際にはそうした状況を作り出したのはその者達なのであるから罪障・汚点としてはその者達こそが元凶であろうとは見えるのだが)、「してやったり」との心情を越えて、悪質な存在なりにありうべき運命・宿命の肯定という観点から土俗民をより一層、愚弄してやりたくなる ―最終目的が土俗民にとり破滅的かつ悪辣なものであればあるほど、「あいつらは仕方なくなるべくもそうなった連中である.そうした最期に相応しい存在である」とさらにもって自己納得したいとの気風もあって愚弄してやりたくなる― ところか、とも思われもする(操作をなす存在の悪質性が透けて見える際に最大限、好意的に解せば、そうなる。実際にそうでなければ、操作をなす存在はただ単純に[悪質で嗜虐的な存在]として[獲物を追い詰め狩る際に嗜虐的特性を遺憾なくも発揮するような存在]であるとのことになろうか、ととらえている(『そうしたやりようの者達が自分達都合のために他を犠牲にすることが[許容]されるようなものならば、この世界は「さらにもって」下らぬものであろう』とも受け取れるところとしてそうもとらえられる))。

 そうした[[力学]の発するところそれ自体の心中への慮(おもんぱか)り]が無理なくもなせてしまうのが

[[面で蛇の巫女としての特性を持つシュビラ、そのシュビラの[処女懐胎の救世主の預言ヴィジョンにまつわる画]として(こともあろうに、[処女懐胎]とは全くもって矛盾する)【精子・卵子の受精プロセス】【DNAの二重螺旋構造の呈示】との科学的図式を[薬籠中の存在](言い方を選ばなければ、[ラジコン人間]でもよい)を用いて、本来的にはそうした表現が存在していいはずがないとの時代にて具現化させるとの式を隠喩的にとっている(との節が如実にある)]

[上のやりようを具現化させた後に設立されることになったイエズス会という組織、[処女懐胎の聖母マリア]を守護聖人とする組織の紋章に上の式に関わるところの構図が採用されるとの流れをかたちづくっている。のみならず、そのイエズス会の紋章化挙動にて[蛇と通ずる預言]という側面が流用に関わっているところもあってか、【蛇の反対話法を多重的に入れ込む】とのことがなされている(との節が如実にある)]

とのことであろうと手前は述べたいのである。

 そうしたやりようから背後にある心中が自然に慮(おもんぱか)れてしまうとのことについては ―述べていることが不自然なることかは是非ともここまでの内容を批判的に検証いただきたいものである.言われれば従容として殺されでもなんでもしようとの[人形]風情ではないとの向き、本当に語るに足りる読み手がこのような世界にいるとして、そうした向きが本稿を読まれているのならば、だが― 同じくものやりようが具現化を見ているキリスト教というものがどういうものかを考えれば(「識っていて」考えてみれば)、多いに察しがつくところである(と指摘したい)。

 同じくものことについてまずもって述べるが、キリスト教が説く[愛]は、そう、[神の「無償の」愛](社会科の『倫理』の科目をセンター試験に使用するのであれば、日本でも高校生程度もが、意味もよく分かっていないだろうところとして、暗記を強いられるところの[アガペー]の観念でもよかろう)や[他人への愛](隣人愛)とは実体としては[内発的愛着]の類ではない、
[それ自体が目的化しての愛]
などではない。
 誤解いただきたくないところとして「それとて常識的な話となる」と断って指摘することだが、キリスト教が説く[愛]とは多く
褒美・報酬および罰則 ―飴と鞭― とワンセットとなっている愛
対象を選り分ける愛

なのである (:ただし、([聖書読みの聖書知らず]ではなくに[本当に聖書のことを知っている人間]のことを想定して書くが)、「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない.愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない.不義を喜ばないで真理を喜ぶ.そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」とのフレーズにて有名な新約聖書コリント書第13章に見る([アガペー]観と結びつくとされる)部などは例外か、とも聖書「のような」ものをも思索の対象としてきた筆者は思うのだが、そうした【例外】となるようなところは置いての話をここではなしている)。

 その点もってして模範的なるキリスト教のドグマにあっては[神の「無償なる」愛]に背馳(はいち)する類と見られた者(神の正しい体系を認めぬ者、異端者ないし異教の徒)に関しては
「天罰覿面(てんばつてきめん)、[地獄行き]が決定されている」
ことになっている。そのように「決定」されていると彼らの聖典 ―筆者などは極めて醜い、愚劣なる書であると見ているのだが、相応のできあがった者達にはすばらしき読み物であると歴年されてきた聖典たる聖書― それ自体にてはきと記載されているのである。
 疑わしきは新約聖書の末尾に配されている黙示録の内容を確認されればいい。黙示録では神への信仰を容れた者のみが至福千年王国へ入れるとはきと記載されている(また、それ以外の神を崇敬しない者は皆殺しにされるともはきと記載されている)。となれば、キリスト教徒にいう[神の愛]たる[アガペー]をして[無償の愛]、[見返りを求めない愛]と述べることはその時点で言葉の定義として論理破綻を見ていることにもなる。キリスト者にとっての愛とは[無償]なるものではなく会衆にとっては ―宗教に入れあげる類については大概にして他を犠牲にして「選ばれた」自分達にそういう権利があると「信じ」たがるような類が多いとは見るのだが― 楽園への選択的渡航権と結びつく[対価]あっての愛であり、隣人愛も ―キリスト教信仰がそれを求めるとの範囲では― [排斥]あるいは[区別]されて然るべきとされる異教徒に対しては本来的には及んでいない。また、神と呼ばれる存在、そう、チューリングテスト(人格ある存在として振る舞いきれるかのテスト)に受かるような性質の悪い人工知能でも何でもいいのだが、ここでは宗教的な者達にそう言われるままに呼ぶとして[神]とし、その存在にとっての[アガペー]とは[精神の特定領域の譲り渡し](崇め帰依すべし、ならざれば、滅する・滅せさせしめるとの観点に依拠して尊崇を強制するとのやりようと結びつく譲り渡し)を対象に求めての[愛]となっている。ヤクザ・マフィアの親分・ドンが自分のために働け、そうすれば、子飼として可愛がってやるし旨い汁をすすらせてもやる(天国を味あわせてやる)と庇護下の者達に強制するうえでのそれと「実質的には」変わらないわけである(脳内麻薬やその他機序(物理的作用)などで脳が正気を失っているのならば、のように理解しない・出来ないかも知れないが)。くどいが、そこに見る愛はまさしくも[選択的なる[効用]を伴っての愛]であって[無償なる愛]などではない。

 そうした愛ら、[無償の愛と銘打ちながらもその実、精神の奥深くものもの(自由なる内観の作用をもたらす領域)を譲り渡すことを要件とし、そうしない者をときに容赦しないとの愛]および[信者個人個人の利益と結びついた愛]なる「奇怪なる」もの(「醜悪なる」ものでもいい)をもっともらしい口上で説く体系であるとのキリスト教は、と同時に、人間の進歩・進化の可能性を否定し、かつ、そうして否定がなされるとの状況をして嗜虐的存在をほくそ笑ませるようなものであるとの体系でもある(キリスト教の類が人間の精神作用を多く規定すればする程、比例的に人間の進歩・進化の可能性(本当の意味での進歩・進化の可能性)が否定されるようにできあがっているというのがポイントである)。
 この身は宗教というもの全般が多かれ少なかれそうした側面を帯びているととらえているわけだが、人間の進歩・進化の可能性の否定と通ずるとの意味ではキリスト教勢力が、殊にその中のローマ・カトリックという勢力が[処女懐胎]のドグマを全否定していない、どころか、むしろ、いまだに肯定しているとのことが典型的なところとして重みを持っていると判じている。
 そのような体系、[厳然とそこにある科学的事実]を処女懐胎なるものの肯定でもってして無視することを是とし、と同時に、そうもした教理の体系を容れない者は楽園に入れてやらない(地獄に落とす)としている勢力に内面が規定されている(との類を多く含む)種族にどうして望ましき未来、[本当の進化と進歩の可能性]が期待できるのか?
 はきと述べれば、そうした種族であるのならば、[望ましき未来]を期待できる素地などほんの一片たりともあるわけがないだろう、すくなくとも、このまま行けば、あるわけがないだろうと分かろうものである ―そして、「よくできている」と悪い意味で判じられるのは人類文明の牽引役となっている欧州文明が[科学精神]とそうした不自然な宗教的ドグマの合いの子的な側面を有している、いわば、知能作用の分裂的状況に陥っていると解されることでもある。そこではキリスト教が頑迷固陋なる悪者として科学精神盛んなる(との自称をなしている)者達に批判される、あるいは、科学の徒が神を畏れぬ悪者として槍玉にあげられる、そういった対立軸はときに見られるわけだが、「問題は、」対立軸がその方向性を出て「いない」、両方とも重大な虚偽とともにあるとの本質的材料がそこにあることが無視されるようにできあがっていると解されることである(現代科学の特定領域に養殖種に押しつけられた究極的欺瞞がひとつあったとしよう.そう、【万物の理論の探求のための挙】とされる【極小領域へのエネルギーの注入行為】(としてのマンハッタン計画の遺産から発展していった史上最大の実験にして史上最良の技術が投入されての営為)にその実、人間存在を皆殺しにするとの結果の可能性が伴い、その[結果]それ自体に対する不自然極まりない先覚的言及が多重的に執拗になされており、それら先覚的言及同士に確たるつながりがあったとしよう.「自称」科学の徒はそうしたことが厳として「ある」のを[ありのままの状況]では無視する、他面、宗教的狂人はそうしたことを部分的にみとめるかもしれないが、それは彼らの[できあがった愚劣な宗教モード]に劣化させて説得力がないゴミに本質問題を陳腐化しようとする範疇を出ていない(そうしてでてきたゴミのみを相手として自称科学の徒が「馬鹿げている」と否定して意気軒昂と勝ち誇ってのスタイルを取る)。欧州文明の分裂した内面作用がそうしたコンニャク問答にしかならぬところに話が陥る素地を提供しているのならば、確かに、人間を皆殺しにしようとしている存在がそこにいた場合に[一神教](人工知能、機械仕掛けの神などを用いて育て上げた一神教)の方が[多神教](かつて存在していた多神教)よりも「都合がいい」とも見える) 。

 そのように当然に受け取れるわけである。

 ここで繰り返しも述べるところとして、

[[面で蛇の巫女としての特性を持つシュビラ、そのシュビラの[処女懐胎の救世主の預言ヴィジョンにまつわる画]として(こともあろうに、[処女懐胎]とは全くもって矛盾する)【精子・卵子の受精プロセス】【DNAの二重螺旋構造の呈示】との科学的図式を[薬籠中の存在](言い方を選ばなければ、[ラジコン人間]でもよい)を用いて、本来的にはそうした表現が存在していいはずがないとの時代にて具現化させるとの式を隠喩的にとっている(との節が如実にある)]

[上のやりようを具現化させた後に設立されることになったイエズス会という組織、[処女懐胎の聖母マリア]を守護聖人とする組織の紋章に上の式に関わるところの構図が採用されるとの流れをかたちづくっている。のみならず、そのイエズス会の紋章化挙動にて[蛇と通ずる預言]という側面が流用に関わっているところもあってか、【蛇の反対話法を多重的に入れ込む】とのことがなされている(との節が如実にある)]

といったことらが指摘できてしまう中で、そういう[力学]の影響下にある組織が一大勢力として人間の社会と思考のありようを根本規定している、そして、半ばゾンビ(この場合のゾンビとは思考の自律的作用を毀損されている者、とでも考えていただきたい)のようになった人間一般がそうもした現状に黙過を決め込む、決め込まざるをえぬというのであれば、相応の未来が見え透いている、広く世の中の行く末としてのマクロの側面でも、世の流れによって死にも生きもする個人にまつわるミクロの問題としても見え透いている、そうも実にもってくどくも述べたうえでの話の続きをなす。

 キリスト教が何かと述べれば、 ―つい最前の段でもかする程に触れたが― 

[新約聖書の最後部に置かれた『黙示録』の記述に則り、やがて、全ての善悪が明らかになり、正しき者らは復活、永遠の生を得、他面、正しくなき者らは永劫の地獄行きを強いられる ―いわゆる【最後の審判】が具現化を見る― との教えを包含する体系]

ともなる。

(:ここ日本ではそうしたことを述べてもおよそ共感は得られがたい、「終末思想の思潮が流布・認容を見ていると印象づけたいとの偏向を見ての申しようであろう」との心証を ―話を聞く人間の了見・世間的知識が狭ければ狭いほど、そして、筆者のことを好かぬ徒のことであればあるほど― 抱かれることになるかとも思うので、目立つところでの世間一般での解説のされようを引いておく。
 まずもって和文ウィキペディア[黙示録]項目にての[解釈]の節の記載を掻い摘まんで引いておく。
(以下、引用するところとして)
[『黙示録』は歴史の中でさまざまに論じられてきた。特に『聖書』の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こした。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの三つの見方に集約することができるとする立場もある。・・・(中略)・・・ 預言書としての解釈:この見方は『黙示録』を『ダニエル書』などの流れにある終末預言の一つであるとして、未来の事柄についても語られた終末預言書とみる見方である。マルティン・ルターら歴史的なプロテスタントの黙示録理解は、歴史主義解釈というもので、起こっていない未来の出来事を預言として与えられたという見方である。この立場では、未来にキリスト教の教理であるイエス・キリストの再臨、人間の体の復活、最後の審判、天国あるいは地獄への裁き、新天新地の到来があると信じられている (引用部はここまでとする)。
 次いで、(唐突とはなるが)、和文ウィキペディア[レフトビハインド]項目にての次の記載を引いておく。
(以下、引用するところとして)
『レフトビハインド』とは、ティム・ラヘイ、ジェリー・ジェンキンズの共同著作によるアメリカの小説。およびその続編からなるシリーズ。公式サイトによれば全米で6,500万部を売り上げたベストセラーである。アメリカ本国では映画化、ゲーム化もなされている。・・・(中略)・・・時は近未来、最後の審判が迫り「ヨハネの黙示録」の預言が実現していく世界を描く。「患難前携挙説」の立場をとっており、「携挙」によって信心深い人々や幼い子供が姿を消すところから物語が始まる (引用部はここまでとする)
 以上の引用部、[黙示録に対するキリスト教(プロテスタント)での位置付け]、および、[合衆国はじめ世界中で膨大な数売り上げ数を記録した(少なくとも6500万部というのは日本の人口の過半をカヴァーする印刷部数である)との黙示録的終末思想に筋立ての基礎を置いての『レフトビハインド』のありよう]に関する世間一般での解説のされようの紹介でもってしてキリスト教が
[新約聖書の最後部に置かれた黙示録の記述に則り、やがて、全ての善悪が明らかになり、正しき者らは復活、永遠の生を得、他面、正しくなき者らは永劫の地獄行きを強いられると教えを包含する体系]
と定義されるようなかたちとなっている側面について ―[共感]など求めるところでは「元よりない」のだが― 少なくとも[理解]はなしていただけるところか、と思う)

 繰り返すが、キリスト教とは

[新約聖書の最後部に置かれた黙示録の記述に則り、やがて、全ての善悪が明らかになり、正しき者らは復活、永遠の生を得、他面、正しくなき者らは永劫の地獄行きを強いられる ―いわゆる【最後の審判】が具現化を見る― との教えを包含する体系]

ともなるわけだが(それにつき、述べれば、欧州では歴史的史料として重要視されている戸籍台帳、イギリスに端を発する戸籍台帳からして[ドゥームズデイ・ブック]、要するに、[黙示録のその日のための記録]と命名されているようなことがあり、欧州人がああも【土葬】にこだわるのは【死した人間が最後の審判の折に復活を見る】との思想が根本にあるからである、といった按配で『黙示録』の記述は欧州人の死生観そのものを歴史的に規定してきたところである)、換言すれば、それは

[サタンに魅入られて破滅を見る諸々の者達と神を信じて救いの道を歩む者らを選り分ける体系]

ともなりもする。

 ここで本稿では先の段にて[以下のこと]らを摘示してきたことを振り返って表記しもする。

(本稿にての先行する段、出典(Source)紹介の部55から出典(Source)紹介の部55(3)を包摂する解説部にて細かき解説を講じているところとして)

「キリスト教文学にあっての代表的古典(金字塔の中の金字塔)とされるダンテ・アリギエーリ著『神曲:地獄篇』とジョン・ミルトン著『失楽園』にあっては「どういうわけなのか」【現代的なるブラックホール的理解に近しいものの描写】が双方共に【ルシファーにまつわる地獄門の先の領域】との似たようなところで「多層的に」なされているとのことがある ―少なくとも【[不帰の地]にあっての[重力の中枢]にあって[時が凍り付いた]ような状況下で[光(ルシファーと結びつく語)が幽閉される場]にて[永劫の粉砕劇]が外側から観察されるとの描写】【[時間や空間が意味をなさなくなる],[自然の祖]であるともされる[果てしない底無しの闇の領域]に関する描写】とのかたちでの古典内描写はそれら描写がなされたのより「数百年も後の」相対性理論登場に拠って科学的に提唱されたところの【時間と空間の位置づけが破綻を見光さえ逃げ得ないとされるところの外側からとらえた場合にて被吸引物が凍り付いたようなありようを呈する、だが、現実には粉砕されきっている(といった特色ゆえに今日ブラックホールとされるものの原初的呼称は Frozen Starとされていた)、果てしない闇の領域にして重力の中枢である(今日的な意味での)ブラックホール像】と「際立って」近しいところのものである(【重力の向かう先の領域】【時間と空間が意味をなさなくなる領域】などという表現がどうして【重力】という観点が持ち出され、かつ、【時間】と【空間】を選り分けて古典にて出てきたかが問題となるところとして「際立って」目立つところともなっている)― 」

(本稿にての先行する段、[出典(Source)紹介の部57]以降の長くもなっての部、および、[出典(Source)紹介の部90]から[出典(Source)紹介の部90(10)]を包摂する解説部にて細かき解説を講じているところとして)

ダンテ『地獄篇』にあってのブラックホールに通ずる描写 【ルシファーの災厄と関わる地獄門の先の領域にまつわっての描写】でもある― にはヘラクレス12功業(なかんずく、の中の、第10功業/第11功業/第12功業)との目立っての接点がある。 他面、ミルトン『失楽園』にあってのブラックホールに通ずる描写 ―こちらも【ルシファーの災厄と関わる地獄門の先の領域にまつわっての描写】でもある― には【黄金の林檎で滅したトロイア滅亡】との目立っての接点がある
 ここで述べるが、ダンテ『地獄篇』問題部と目立って結びつくヘラクレス第11功業は黄金の林檎を求めてのものでありその伝「でも」黄金の林檎で滅したトロイア滅亡との目立っての接点があるミルトン『失楽園』とダンテ『地獄篇』との接点が顧慮される。だけではなく、ダンテ『地獄篇』それ自体にトロイア崩壊の故事が強くも影響を与えていると判じられる側面が強くもある(がゆえにそこからミルトン『失楽園』の問題描写との接点が顧慮される)

(本稿にての先行する段、[出典(Source)紹介の部48]などを包摂しての解説部にて細かき解説を講じているところとして)

トロイア崩壊の原因となった【黄金の林檎】と旧約聖書創世記にみとめられる【禁断の知恵の実】 ―聖書それ自体の中では林檎とは明示されていないが、禁断の果実をして林檎と見る観点は根強くも歴史的にある(とも解説してきた)― の間には事実の問題として多重的接点が存在している

(本稿にての先行する段、[出典(Source)紹介の部35][出典(Source)紹介の部36)(2)]を包摂しての解説部にて細かき解説を講じているところとして)

加速器LHCを用いての「実験(史上最大の「実験」/史上最良の技術体系を投入しての「実験」とされる営為)については検出器ATLAS(【黄金の林檎】の在処(ありか)を識る存在とギリシャ神話に伝わる巨人アトラスの名を冠する検出器)によってブラックホール生成挙動を検知しうるとされてきた。 また、同じくもの「実験」については前述機の検出器ATLASとセットになったイヴェント・ディスプレイ・ウェアATLANTIS、【黄金の林檎の園】と同一視されもしてきた(【アトランティス】←→【黄金の林檎の園】とのことに関しては[出典(Source)紹介の部41]にて解説)との古の陸塊アトランティスの名を冠するイヴェント・ディスプレイ・ウェアでブラックホール発生イヴェントをディスプレイしうることになるともされてきた[出典(Source)紹介の部35])。 そして、同「実験」についてはブラックホール生成可能性が現実的にありえるものと取り沙汰されだしたのは理論動向の変転を受けてのここ10数年になってからのことであり、それまではブラックホール生成が問題視されたことは「ない」とのことになっている(【異様なる先覚的言及】の問題から解説しだしているとの本稿にての前半部、[出典(Source)紹介の部1]にはじまる部はその点についての詳説に力点を置いている)。 他面、検出器ATLASの名称が「実験」計画策定段階にて決せられたのは1992年のことである([出典(Source)紹介の部36(2)])。 従って、LHC実験関係者がトロイアの滅亡 ―古代ギリシャの中心古典にして欧米文学の源流となるホメロス叙事詩がそこに至る過程とその後日談をモチーフとしている、木製の馬が使用されての住人殺戮を伴っての内破― の本源的なる因たる黄金の林檎、その黄金の林檎の所在地を「識っている」と神話に伝わる[出典(Source)紹介の部39]巨人アトラスの名称の(実験に供されての検出器ATLASでの)使用をもってしてブラックホール生成探査挙動「をも」見せるようになったのはブラックホール生成可能性があることについて事前に警世をなそうとしたとは「時期的問題からして」考えがたいこととなっている。 否、LHC実験関係者らは却(かえ)って「安全な」ブラックホール生成の実現をして科学の進歩に資する事態としてきた、「ブラックホール生成は望ましい」などととして目立って称揚しだしたとのことがブラックホール生成の可能性があると(極小領域へのプランク・エネルギーの意味合いが異なるかたちで見られ出すようになった)【理論動向の変転】から考えられるようになったここ10数年の経緯となっている(【標準理論を巡る議論】や【万物の理論に向けての候補の選定を巡っての議論】に関わるところにまつわっての科学界言われようを引いての[出典(Source)紹介の部81]を参照のこと。 そうもしたことがある中で巨人アトラスがその在処を識るとされる)【黄金の林檎】および【エデンの禁断の果実】の間には接合性がありもし(上にて委細を譲りながらも再述のこと/[出典(Source)紹介の部48]、そして、【黄金の林檎にて滅んだトロイア】【エデンでの果実の誘惑】の双方と結びつく[悪魔の王の誘惑]を扱ったミルトン古典『失楽園』、の中の、まさしくもの悪魔の王の誘惑にまつわる描写が[今日的な意味でのブラックホール理解に通ずるもの]となっているとのことがこの世界には「ある」([出典(Source)紹介の部55])。 またもってして、問題となる『失楽園』の描写と相通ずるところ ―地獄門の先にあるルシファーの災厄関連の領域にまつわるところ― でのダンテ『地獄篇』にあっての描写、[人類の(代表的)裏切り者の地獄 ―裏切り者のためにもうけられた地獄コキュートス― ]の描写もが[今日的な意味でのブラックホール理解に通ずるもの]と不自然になっているとのことがある[出典(Source)紹介の部55]/ダンテ『地獄篇』のブラックホールに通ずる描写については著名な物理学者らが何人もそれを臭わすようなことを口の端にのせていることを本稿では紹介しているが、であっても、それが警世の念のためのもの「ではない」と判じられるようになっている、そして、実際にそれは警世の行為としてなんら機能していないとのことがあることも本稿の訴求を通じて理解いただけるようにしているつもりである)

 以上のような振り返りもしてのことら ―先だっての段で【黄金の林檎】と多重的に接合する命名規則が採用されての加速器実験にあっての問題性と共に指摘してきたことら― に加えもしてのこととして、

「聖書では人間の原罪の因はエデンで蛇に唆(そその)かされたとのことになっており、その蛇はサタンに比定されている(ミルトン『失楽園』とはその蛇をサタン・ルシファーとして描き、そのアビスの領域 ―時間と空間が破綻しての底無しの暗黒領域と描写される領域― を渡っての人間誘惑のプロセスが主軸として描いている古典である)。そして、聖書を掲げるキリスト教とは最終的にそうもした原罪を追った人類が神の救い・救い手たるメシア(イエス・キリスト)の贖いの犠牲にて救われるとの体系の宗教であり、サタンの影響下にある者達が最後の審判で永劫の堕地獄を強いられるとの宗教である」

とのことになっているのがこの世界である(とのことが残念ながらもある)。

 以上、本稿の先の段で指摘してきたことらを複合顧慮するとどういうことになるかは自明か、と思う ―(宗教など心底から下らないものである、害物にすぎないものであるとみている人間としてながらも述べるところとして自明か、と思う)― のだが、とにかくも、伝えたきことはこうである。


(直近表記のように)悪魔の王に道連れにされるか、神に選ばられるかとの選択が強制的に実施されるとの終末観を有するのがキリスト教だが、そのキリスト教の教えを徹底的に【反対話法】で茶化している節があるのが

[[一面で蛇の巫女としての特性を持つシュビラ、そのシュビラが処女懐胎の救世主の預言をなしている構図]に「まぶす」との式で(こともあろうに、[処女懐胎]とは全くもって矛盾する)【精子・卵子の受精プロセス】【DNAの二重螺旋構造の呈示】との科学的図式を[薬籠中の存在](言い方を選ばなければ、[ラジコン人間]でもよい)を用いて、本来的にはそうした表現が存在していいはずがない時代 ―15世紀― にて具現化させるとの式をとってみせる]

[上の式を具現化させた後に設立されることになったイエズス会という組織、[処女懐胎の聖母マリア]を守護聖人とする組織の紋章に上の式に関わるところの構図が採用されるとの流れがかたちづくられてみせられている。のみならず、そちらイエズス会の紋章の挙動にて[蛇の構図に関わる預言]の流用に関わっているところもあってか、蛇の反対話法を多重的に入れ込むとのことがなされている節が如実にある]

とのやりようである。

 そうしたやりよう ―極めて高度な科学的知識のほどが窺えるとのやりよう (仮に重力波のようなもの(先述のように多世界解釈における他世界へと浸潤しうるとされている重力波/人類のテクノロジーでは検知もままならないようになっているとのもの)を通じての脳機序操作(ウィズアウト・カッティング、メスを使わない式での非侵襲式でのブレイン・マシン・インターフェース操作)との式でしか【ここではない別の世界】から干渉できないとの存在を【仮定】として観念してみた場合、そうした【幻影】(感覚を操作しての幻影)にして【間接的人形遣い】としてしか具現化しえないこの世界にあってのおぼろなるものながらもの操作主体は人間の生殖の基本的データをミクロの状況まで還元して把握しているとの高度な科学的知識のほどが窺えるとのやりようをとっているとしていいだろう)― がなされている節が露骨にあることに鑑みて見もして、まったくもって同文にできすぎたこととしての、

[「キリスト教」理念の体現古典ら(本稿にて詳解をなしてきたところのダンテ・アリギエーリ『神曲:地獄篇』とジョン・ミルトン『失楽園』)に[「どういうわけなのか」の今日的な理解としてのブラックホールに近似するもの]が[裁かれるとの悪魔の王の側ありよう]として登場してきていること]

からして[反対話法]としてとらえれもし、相応の意図が一層、透けて見えてくる(ここでの委細をすべて本稿にあっての他の段に譲っての「極々端的なる」話を通じもしての側面からして、である)。


 これにて[救いの教え]に[破滅へ至る誘惑の寓意]をずっとまぶし続けてきたとの力学がどういったものであると「当然に」思料されるのか、また、そうもした力学にどう処すことが求められているのかについての枠で括っての訴求の部を取りあえずもは終えることとする ―同じくものことについてより細かくもは本稿の後の段で聖書(の一部の下り)と911の事件にあって具現化していた一部特性の「多重的」接続性との観点で折に触れもして漸次解説を加えもしていくが、ここでの訴求については一区切りをつけることとする― 。

 上もてあらかた指摘すべきことは指摘したつもりだが、ここ補説4の締めくくりとしていくばくか、ためにしての話、そう、

[【主筋より見ての脇に逸れての話】にして【問題となることとの確たる関連性の有無との式では印象論としてのきらいが強いか、といった話】] (要するに「行き過ぎもしての」話

に筆を割いておくこととする。

 さて、脇に逸れての行き過ぎのきらいある話、だが、なさぬよりはなした方がいいかと手前がとらえていることとして取り上げるが、まずもって

[デルポイの占いの巫女シュビラと似たりよったりの存在、デルポイの巫女ピューティア(蛇の腐乱ガスを吸ってトリップし、その状況で占いをこととするといった存在)が[ブラックホール生成の予測に目立って利用されるプログラム]にその名前を流用されている]

とのことを取り上げておくこととする ―それ単体でなせば、「こじつけがましきこと限りなし」の話となるようなことなのだが、本稿の従前内容と複合顧慮すれば、問題と「なりうる」(すなわち、本稿にて呈示に努めてきたものら、[山とある明確化した危険な兆候を示す材料ら]と同文のもの「たりうる」)とのことにまつわる話をなす― 。

 具体的には

[高エネルギー物理学分野にあっての粒子衝突のありようを予測・シミュレートに利用されるプログラムとしてPythiaというものが ―学術分野でよく使われるFORTRUNというプログラム言語(の77年規格版)でかつて書かれ、最近ではCプラプラと略称されるプログラム言語にて書かれているとのプログラムとして― 存在している]

とのことについて取り上げることにする(プログラムのPythiaについては筆者が加速器のブラックホール生成問題のことを英文論稿を読みあさりながらも多方面から分析していくなかでよく名前を目にしたものともなる)。

Pythiaという名称が振られてのプログラムが高エネルギー物理学分野にての粒子衝突挙動の分析に利用されていることの出典として)

 ここではコーネル大の運営する論稿公開サーバーarXivにて公開されている(タイトルを検索エンジンに入力し誰でも捕捉・ダウンロードできる)2012年初出の、

Warped Extra Dimensions in the Randall-Sundrum Model and a Simple Implementation in Pythia 8『ランドール・サンドラム・モデルにあってのワープを見ての余剰次元理論およびPythia8によるシンプルな解釈』

と題されての論稿より極々端的に次の文言を引用してみる。

(:尚、上の論稿タイトルにあっては[ランドール・サンドラム・モデル]という名称が見てとれるが、頭文字より[RSモデル]とも呼び慣わされているとの同モデル、そちらを提唱したリサ・ランドールは[カリスマ物理学者]の類として[ブラックホール人為生成に関わる論拠を呈示してきた人物]ともなり、また、と同時に、上の論稿表題に認められる(リサ・ランドール由来の)ランドール・サンドラム・モデルからして[ブラックホール人為生成問題のありように関わっているモデル]となっている。そのことに関しては、(筆者含めて門外漢でも、いや、理系的素養などない人間にも分かるようなかたちで)、本稿にあっての出典(Source)紹介の部76(6)および出典(Source)紹介の部76(7)を包摂する解説部で解説しているところとなる ――[何故、そうした解説をわざわざなしているか]だが、については、[誰でも分かろうとの欺瞞の構造](衆を欺き結果的に衆を滅尽に追い込みかねないが如き欺瞞の構造)が自分の目先・鼻先のことしか見ていない節が如実にあるとの物理学者ら、だが、世間一般ではやれカリスマだ、やれ天才だ、などと担ぎ挙げられているとの物理学者らの実験動向に関する申しようから「容易に」示せるようになっているとの欺瞞の構造を「厳密に」指し示したいとの意図があったからである―― )。

(直下、上論稿 Warped Extra Dimensions in the Randall-Sundrum Model and a Simple Implementation in Pythia 8にあっての17頁、3.1 PYTHIA 8と振られての節よりの引用をなすとして)

Pythia 8 is a high-energy Monte Carlo event generator, capable of generating the complete event of high-energy particle collisions including the normally complex final states, with large multiplicities of hadrons, leptons, photons and neutrinos.

(訳として)「Pythia(のバージョン8)は[高エネルギー領域にあってのモンテ・カルロ法](訳注:モンテ・カルロ法とは一言で述べれば、[数値計算を乱数を利用して行う法式]のことを指すとされる)に則ってのイベント再現プログラムとなり、ハドロン・レプトン・光子・ニュートリノらの大概の複合的組み合わせにあっての通例、複雑なる(衝突時)最終段階を含めての高エネルギー粒子衝突イベントを完璧に再現することができるとのものとなる」

(訳を付しての引用部はここまでとする)

 続いて、よりもって確認しやすいとの媒体であるウィキペディアよりの引用をなしておく。

(直下、英文Wikipedia[PYTHIA]項目にあっての現行記載、その冒頭部一文よりの引用をなすとして)

PYTHIA is a computer simulation program for particle collisions at very high energies ( see event ( particle physics ) ) in particle accelerators.

「PYTHIAは粒子加速器らにあっての超高エネルギー状態の粒子衝突 ―([イベント(素粒子物理学)]項目を参照のこと)― のためのコンピューター・シュミレーション・プログラムである」

(引用部はここまでとする)

 以上のように、

[粒子加速器を用いての実験での高エネルギー状態におけるハドロン・レプトン・光子・ニュートリノらの衝突現象をシュミレートするものである]

とのPYTHIAというものについては、(本稿にての出典(Source)紹介の部71でも基本的なこととして言及しているように超高エネルギー状態での粒子衝突状況の中でブラックホール生成を見うるとされることもあってか)、ありうべきとされるブラックホール生成のシュミレーション「にも」関わっているプログラムともなる。

それについては大学人の論稿配布サーバーたるarXivにて公開されている、

CHARYBDIS: A Black Hole Event GeneratorCHARYBDIS:ブラックホール・イベント・ジェネレーター』

という論稿(カリュブディス ―トロイアを木製の馬で滅ぼしたとの奸計の担い手オデュッセウスらの一行の船旅をオデュッセウス一人を除き全滅とのかたちにて終わらせた渦潮の怪物― の名を冠するブラックホール生成イベント再現ツールについて解説しているとの同論稿は本稿にあっての出典(Source)紹介の部46の部「でも」取り上げているところのものとなる)にあっての摘要の部 ―大概の英文科学論文の冒頭部にて設けられている短き論文内容紹介の部― の内容だけを引いておく。

(直下、 CHARYBDIS: A Black Hole Event Generatorにての冒頭部よりの引用をなすとして)

Abstract: CHARYBDIS is an event generator which simulates the production and decay of miniature black holes at hadronic colliders as might be possible in certain extra dimension models. It interfaces via the Les Houches accord to general purpose Monte Carlo programs like HERWIG and PYTHIA which then perform the parton evolution and hadronization.

(訳として)
「摘要:CHARYBDISは特定の余剰次元モデルにあってありえるものたりうるものとしてのハドロン加速器にあってのミニ・ブラックホールの生成および崩壊をシュミレートするイベント・ジェネレーターとなる。同CHARYBDIS Les Houches accord(訳注:フランスの Les Houchesの地にあって取り交わされた素粒子物理学関係者らの間の規格標準化にまつわる合意)を通じてHERWIGやPYTHIAのような[パートン・エヴォリューションおよびハドロナイゼーション(ハドロン形成プロセス)を再現するとのモンテカルロ法に則っての一般目的に準じてのプログラム]と互換作用を呈するとのものである」

(訳を付しての引用部はここまでとしておく)

 以上引用部を通じて理解いただけることか、とは思うのだが、[PYTHIA]という名称(すなわち、デルポイの預言をなす蛇の巫女ピューティアを元来は意味しての名詞)は高エネルギー物理学分野での粒子衝突現象の分析用ツールの名称(ブラックホール生成問題にまつわる分析用ツールと併用されるツールの名称でもある)ともなっているのである。

 それは不気味なことである。

「[ピューティア]の近縁の存在である[シビュラ]にまつわり退歩的かつ嗜虐的なる人間愚弄のための先覚的描写がなされてきたとの事情がある・・・・」

とのことについて解説してきた本稿ここまでの内容から思料すれば、という意味で不気味なことであると申し述べるのだ。

 それにつき、強調しておけば、ここでの話は「それ単体でなせば」陰謀論者や陰謀論的言辞をこととする頭の具合がよろしくないとの[スタイル]を前面に押し出しての向きら ―(そういう向きらは近縁の領域にあって[法則性]や[過てる経験知]というものを造り出すために惨めたらしくも負けるべく用意された存在、闘犬にあってわざと負けるために用意されたアンダー・ドッグ(噛ませ犬)のような存在であると筆者は思っているのだが)― の申し分と大差ないと受け取られかねないようなものとなる。
 単体で述べれば、[類似する関係ないところの命名規則の束]からあまりにもこじつけがましいfar-fetchedと受け取られかねない話をなしている(と自身判じている)がゆえにそうも述べる。

 たとえば、である。ブラックホール生成予測に用いられているプログラムの名称ピューティア(Pythia)に関しては[デルポイの託宣をなす巫女]の呼称に由来するわけだが、蛇の巫女ピューティアの言い伝えが伝わる都市デルポイからして(歴史が浅いとのものにまつわることだが)世間で比較的知られたプログラミング用言語の名前となっているとのことがあり( Object Pascalというプログラミング言語が変名されてのDelphi言語というものが最近になって目立ちだしているとのことがある)、預言者との式で行けば、IT業界ないしその近縁の業界に関わったことがある人間であるのならば、ほぼ全員が名を知っていようとのデーターベース管理ツールからしてOracle(託宣)といった命名がなされている。
 また、
「予測をなすシミュレーション・ツールに予測をなす存在の名(予言者ピューティア)を用いて何の不自然性があるというのか」
との反論も当然になされようし、ピューティアの綴りがフィジックス(物理学)の綴りとpとyとiを共有しているから語呂があわせられたのだ云々といった言い分もまたなされるうるかもしれない。

 そういった按配でピューティアの名をブラックホール生成挙動(とされるところ)に近しきところで見出しても、それ単体だけ見れば、問題になるまいとのことになろうことか、と思う。

 だが、ピューティアに関わる事柄らの重篤さ度合い ―[宗教というものの本質を徹底的に愚弄し茶化し、かつ、宗教などというものを押しつけられている人間存在を嘲笑っているとの力学が「際立って」現われているとの意味での重篤さ度合い]でもいい― および
次のことら
から顧慮し、ここでの話をして[言及しないほうがいいような性質のものである]とは筆者は決して見ていない(かと言って、それでも[行き過ぎ]の面もあるとのことであるため、無理にでも言及する必要があるものであるとも思っていないのだが、それは置く)

 第一。問題となるところの加速器LHCの前身に当たる加速器LEP(同LEPLHCの前身となっていることについては本稿にての出典(Source)紹介の部36(2)などの部にてもそれについてのソースを挙げている)にあって用いられていた検出器「にも」DELPHI ―ピューティアおよびシビュラが託宣をこととしたギリシャ都市― との命名がなされていたとのことがある(たとえば、英文ウィキペディア[DELPHI]項目などを参照すれば、DELPHILHCの前身のLEPのために用意された検出器、 Detector with Lepton, Photon and Hadron Identificationの略称であることが即時確認いただけるであろう)。 従って、高エネルギー実験における粒子衝突状況の分析、ひいては、CERNに由来するブラックホール生成挙動を分析するためのソフトウェアとピューティアの関わり合いを(そこからして)「ぽっと出、」の思いつきやただの語呂合わせの問題などと考えないほうがよいとの背景があると受け取れもするとのことがある。

 第二。(いきなりともなるが)オリンピック。それは言わずと知れた現代社会にて四年越しに行われる大体育祭である。同オリンピック・イベントについては[クーベルタンが音頭を取って近代にあって具現化させた近代オリンピック]とはまた別に、起源となる同名の体育祭が古代ギリシャにあっても執り行われていたとのことがあり、そちら[古代オリンピック]からして[四年に一度行われる]との慣行が(近代再現版と同じくものものとして)あったとのことがある(:和文ウィキペディア[古代オリンピック]項目の冒頭一文より引用するところとして[古代オリンピックは、古代ギリシアのエーリス地方、オリュンピアで4年に1回行われた当時最大級の競技会であり、祭典である]とされているとおりである)
 そうして四年に一度、オリンピック競技会が催されていた古代ギリシャには[四年に一度行われる競技大会]が「他にも」存在していた。それが[神託の地デルポイ]で行われていた[ピューティア大祭]となる(:文献的事実を徹底的に煮詰めるべくもの高度な媒体よりの引用をなす必要もないか、と判断するところの基本的なるところとして和文ウィキペディア[ピューティア大祭]項目程度のものよりの引用を掻い摘まんでなしておく。(以下、表記ウィキペディア項目冒頭部より[ビューティア大祭]についての引用をなすとして)ピューティア大祭は古代ギリシアの大祭で、デルポイの聖地に全ギリシアから市民が訪れて開催されたアポローン神の祭儀である。大祭は8年に一度開催される音楽競技を奉納していたが、後に隣接し、重税を課す都市クリッサとの戦争に勝利してからは体育競技を加え4年に一度の大祭に変更される。・・・(中略)・・・ピューティア祭は、死せる大蛇ピュートーンに対する葬礼競技より始まったともされる。ピュートーンの託宣を担っていた巫女たちは、そのままアポローンの神託を伝える巫女としてその地位に留まり、これがデルポイの神託へと続いて行った(引用部はここまでとする))
 さて、古代にあっては
[オリンピック大祭]

[ピューティア大祭 ―高エネルギー衝突実験のシュミレーション・プログラムにその名を受け継がれている蛇の巫女ピューティアの名を冠する競技大会― ]
が四年に一度行われる大体育祭として似たりよったりのものとして存在していたわけだが、その似たもの同士にあってのうち、近代以後、クーベルタンによって復活を見たオリンピックの方については(言わずと知れたことだが)[五輪]を紋章としているとのことがある。
 他面、DELPHI(ピューティアが占いをなした都市の名)を検出器装置名とするLEPが発展・拡張を見て構築されたLHC加速器に関しても ―それだけ述べれば、無論、ただただこじつけがかった話をなしていると見られても仕方なかろうか、ともいったところながらも申し述べるが― [複数の輪が重なった形態](正確には[前段加速器]と[本筋の加速器]が重ねられて運用されているとの形態)が見てとれる(例えば、身近なところでは和文ウィキペディア[大型ハドロン衝突型加速器]項目にて現行、(以下引用をなすとして)加速手順 陽子イオン源からスタートし、陽子イオンを加速する線形加速器、そして陽子シンクロトロンへ陽子ビームを注入するための蓄積源としての陽子シンクロトロンブースター、陽子シンクロトロンブースターで加速された陽子ビームを、更に加速するための Super Proton Syncrotron (SPS)SPSで蓄積され、バンチと呼ばれる状態になった陽子ビームをLHC本体へ注入し、最終加速を行う。衝突点での陽子衝突のイベントは、1秒間に800万回に達する(ここまでを引用部とする)と記載されているとのところが同じくものことの言及部となる.[前段加速器](直近ウィキペディアなぞからの引用部では陽子シンクロトロンブースター)に投入された陽子ビームが別の輪としてのSPSに受け渡され、それが本体たる輪に受け渡されるとのビーム加速のための手順がとらえている、そうしたところとしていくつもの輪 ―それぞれの円形加速器の輪― が重ねっているとのことがあるのである)

LHCが多重に輪(リング)を重ねているものであると形容できもしようとのことにまつわっての図として。ISOLDE(イゾルデ/英雄トリスタンと竜退治を契機にしての道ならぬ恋に落ちていく中世騎士物語ヒロインの名)との呼称を冠する従前加速器設備と紐付けられて運用されていた多少隔たりもしての前段加速ブースター、そちらとも結節させられ、 (remote)PS -Proton Synchrotron Booster- →SPS→LHC本体と加速が進行していく様に【輪の重なり合い】を見いだしての問題視をここではなしているほぼ同文の位置関係については英文および和文のWikipedia[LHC]項目にも見てとれるとのものとなる)

 直近までの印象論にすらならぬとの話の展開から一歩進み、そういう輪の重なり合いに見る皮相的なアナロジー(類似性)ですら[できすぎている]ようにとれてしまうところとして、[ピューティア大祭]と似たようなギリシャにあっての古代オリンピックが近代に復活してのその体育祭 ―LHC実験がそうであるように国際的な催し― にあっての五輪マークに伴う「相応の」特性が問題になると見えるとのことがある。につき、[五輪]には[自然界の元素を模したもの]であるとの話が ―定見として確立したものではないようなのだが― 伴ってもいる(:たとえば、現在の和文ウィキペディア[オリンピック]項目には(そこよりの「現行にての」記述内容を引用するところとして)近代オリンピックの象徴でもある五輪のマーク(オリンピックシンボル)は、クーベルタン男爵が考案し、世界5大陸(青:オセアニア、黄:アジア、黒:アフリカ、緑:ヨーロッパ、赤:アメリカ)と五つの自然現象(火の赤・水の青・木の緑・土の黒・砂の黄色)とスポーツの5大鉄則(情熱・水分・体力・技術・栄養)を、原色5色(および単色でも可)と5つの重なり合う輪で表現したものであるとする説が有力である(引用部はここまでとする)と表記されている ―といったふうに五輪の五色を元素論と結びつけるとの観点があるような観点があるとの表記がなされている(ちなみに近代オリンピックの父とされるフランスのクーベルタン個人は[世界語大陸を表象する色柄が五色である]としか述べていなかったと言われもしている)― 。またもってして述べれば、調べてみればすぐにも分かりもしようところとして、宮本武蔵のかの『五輪書』における五輪という言葉が【密教における五大(五大元素)思想における元素観】を受けての五輪をなしている ―「地」の巻、「水」の巻、「火」の巻、「風」の巻、「空」の巻をなしている― 、あるいは、宮本武蔵著述とされるもの(『五輪書』)の命名背景の根底にあると解されるところとして供養のための日本の五輪塔の如き史的構造物が【ヴァーストゥ ・シャーストゥ】という印度古代の思考体系の五大元素論を踏襲しているものであるとされるように【五輪】とは史的に見て【元素論】と濃厚に結びつく言葉「でも」あるように【五輪】とは史的に見て【元素論】と結びつく言葉でもある)
 ここで述べるが、五輪と結びつくとの側面を帯びた古典的元素論にまつわる元素論と接合するところの四大元素 ―火・水・土・気― に基づいて儀式的殺害行為が行われていくという筋立てを有している著名フィクションが2000年初出の小説および映画の『天使と悪魔』という作品となりもし、同作『天使と悪魔』については
ローマ・カトリックの枢機卿らが四大元素儀式殺人の具とされるとの筋立て
と同時に
CERN加速器 ―五重ではないが多重的な輪の重なり合いが重きをなしているとの加速器― にて生成された反物質がヴァチカン破壊に使われるとの筋立て
が双方結びつけられながら具現化を見ているとのことがある(本稿の補説2の部と銘打っての部でも解説していたことである)。
 そうもして[元素論(五輪とも結びつくように解釈される元素論)に依拠しての儀式殺人]および[CERNから強奪された反物質の破壊兵器への転用]が「どうしてなのか」結びつけられているとの作品が『天使と悪魔』という小説作品(2000年初出)なのだが、同作に関しては以下、振り返って申し述べるようなことが伴っていること、(本稿の先立っての段 ―現行、補説4の部にての話をなしているわけだが、対しての補説2の部― で典拠を委曲尽くして呈示しながら)説明してきたとの経緯がある。

(委細を長大なるものとなっている本稿にての先の段に譲っての振り返っての話として)


[(小説『天使と悪魔』の内容と関わるところの話として)ヴァチカンと呼ばれるに至った地を本拠に定めてきたローマ教会に関しては
「ローマ教会は【天国の扉】および【(天国の扉に対応する)[鍵]】と結びつく存在である」
との申しようが(聖書に見られる初代教皇と目されての使徒ペテロに対する天国への鍵の付与のエピソードにまつわる記述内容から「一般論として」)引き合いに出されるとの存在「とも」なり、また同時に、同ヴァチカンに本拠を定めての同じくものローマ教会については
【地獄を蓋として封印をなす存在】

である「とも」定置されているとのことがある(聖書のマタイ福音書16章18節から19節(Matthew 16:18-19)の記述に拠ってそういう解釈がなされているとのことが現実にある)
 小説『天使と悪魔』という作品はそのように[天国への通用門][天国への鍵]と同時に[地獄への通用門への封印]とも結びつけられての解釈が歴年なされきたローマ教会本拠地ヴァチカンのことに悪魔的・嗜虐的寓意でもって言及している節がある作品である。
 どういうことかと述べると、ヴァチカンの生死両界の垣根たる扉を【門の神ヤヌス】に開放させる]との寓意がCERN反物質との兼ね合いで多層的に、かつ、悪魔的・嗜虐的に「普通に読む限りは」気づけないとの式で同作『天使と悪魔』には込められている節がある
 その点、意味深く悪質であるととれるところとして【明示的な式】ではなく普通に同フィクションに接するだけではまず気づけないような【隠喩的な式】で、そう、「ヴァチカンが都市[ジェノヴァ]([門の神ヤヌス神]に起源として結びつくとされるとのイタリア都市ジェノア)・都市[ジュネーブ](CERNのスイスにての本拠地)と地図上にて一直線に並ぶ場であるとのことを何ら書き記さないとの式で、そして、ヴァチカンと地図上で一直線に存在する都市ジェノバや都市ジュネーブからして【都市紋章】や【地誌】といった側面で[門][扉][鍵]の寓意と結びつくとのことについてもこれまた何ら書き記さないとの式で同作『天使と悪魔』は門の開放と結びつけられてのCERN由来の物質によるヴァチカン灰燼化の比喩が多重的に用いられている風があるとのことがある。[ジュネーブ](スイスにてのCERN所在地)及び[ジェノヴァ](英文綴りではGenoaだがイタリア語綴りではGenovaでスイスの英文綴りGenevaと非常に近しいイタリアの都市)と地図上で一直線に並ぶ都市[ヴァチカン]をしてヤヌスという名が与えられた劇中悪役(門の神から名前が振られての劇中悪役/作中何ら言及されないものの都市ジェノバと結びつく存在)の標的】【ジュネーブに在するCERN由来の反物質を用いてヤヌスによって灰燼に帰さしめるための標的であるようにわざと設定付けている作品として『天使と悪魔』には』そういう臭いが付きまとうとのことが「ある」のである(については地理的特質】や【特定都市の紋章形態】や【特定都市の地誌】にまつわる複合的なる説明を【理解を求めるためのもの】としてなす必要があるとの性質の話ともなるので、実際に筆者は本稿にての先行する段で図像を多用しての式で【地理的特質】や【特定都市の紋章形態】や【特定都市の地誌】を顧慮に入れた上での解説を講じている)
 かてて加えて(より性質が悪いことに)、『天使と悪魔』に関しては枢機卿ら、語源を辿れば、[蝶番](ちょうつがい.ドア・扉の開閉を可能とするヒンジ.それが暴力的に打ち壊されれば、扉・ドアは開け放しとの方向性で倒れるしかないとの扉の開閉機構をなす留め金)ともなるとの[カーディナル]らが儀式的に【元素論】に則り殺されていくとの内容を有した作品ともなっていることも同様の【寓意】の問題に関わると解されるようになっている] (:表記のことの委細については本稿にあっての補説2の部 ―ここ本段は補説4の部に属している― 、その補説2の部にあっての[少なからずの紙幅を割き、また、図解にも力を入れているとの解説部]を参照されたい)

[(上記のような特性を伴った作品であると示せるようになっているとの)『天使と悪魔』という作品に関しては【911の事前言及を複線的になしているとの70年代の「他の」小説作品】と共通のモチーフ・属性を伴っているとのことがある(そもそも911の事件が起こることの事前言及をなしているが如く作品が存在している、[文献的事実]にのみ基づきそうであると指し示せるかたちにて存在していること自体が本来的には異常無比なることなのだが、しかし、そうした摘示がなせてしまうことは動かない ―そちら委細については本稿にての出典(Source)紹介の部37から出典(Source)紹介の部37-5を包摂する解説部などにて詳述しているところとなる― )
 また、そちら先覚的言及作品と共通のモチーフに関わるところで『天使と悪魔』という作品が[元素論の崩壊][ペンタゴンの崩壊]と通ずるものを持ち出しているとのこと「も」が指摘できるようになっているとのことがありもする ―そうしたことがあるがゆえに『天使と悪魔』の執筆者ダン・ブラウンの【属人的寓意付け】の類では話が済まなくなる― ] (:(上記のことと同文に)表記のことの委細については本稿にあっての補説2の部にあっての[少なからずの紙幅を割き、また、図解にも力を入れているとの解説部]を参照されたい)


 上のような特性と共にある小説作品『天使と悪魔』の特性、繰り返してもの、

[【ローマ・カトリック枢機卿らが四大元素論に基づいての見立て殺人の対象とされるとの筋立て】と同時に【CERN加速器にて生成された反物質がヴァチカン破壊に使われるとの筋立て】が具現化を見ているとの特性]

から元素論 (予言・神託の都市デルフィにおける古代にてのピューティア大祭との近似性が往古にあってはあったとのオリンピック、そのオリンピックの加速器LHCよろしく輪を重ねての五輪がそれにまつわるものであるとの言いようもがなされもしている【元素論】) のことはCERNおよびPYTHIAピューティアとのツールを用いている加速実験との絡みでも軽んじられない。 そうも述べるのである。

 以上、段階的に言及してきたとの関係性、すなわち、

[加速器LHC(及びその前身のLEP)にあっての[デルポイ]及び[ピューティア]と(極々部分的にながら)命名規則として結びつく側面] ⇔ [古代ギリシャの[デルポイ]にて実施の[ピューティア]大祭] ⇔ [オリンピックとの質的近似性(四年に一回の古代ギリシャの都市間大体育祭としての質的近似性)] ⇔ [オリンピック] ⇔ [LHCと同様、輪を重ねる多重輪(五輪)の使用] ⇔ [五大元素を五輪と結びつける観点の介在] ⇔ [五大元素⇔(欧州)元素論⇔四大元素] ⇔ [四大元素崩壊をモチーフとした『天使と悪魔』におけるCERN加速器に関わる破滅の多重的寓意およびその他、奇怪なる予言的側面

との関係性から[計算づくのやりようの「片鱗」]が感じさせられもする。

 以上のことより

「ピューティアと加速器実験およびブラックホール生成可能性ある挙動が結びつけられている」

ことを取り上げることは(馬鹿噺をなすが如くの)全くの無為ではないか、ともとらえているのである(だが、了見が狭いとの人間に対してなすような話ではないことは(先に「印象論がかった行き過ぎた話とはなるが、」と断っているように)論を俟たないところではあるとは見ている)。

(これにて長くはなったが、[ピューティアとの名称と加速器実験およびブラックホール生成可能性ある挙動との関係性]についての二点目の話を終える)

 ここまできたところで最後に、

[従前内容の[整理]を兼ねての話]

をなすこととし、それをなし終えた段階で(ここまでの内容をすべて包摂しての)補説4と振っての段に区切りを付けたいと思う。

 さて、今や締めくくりとなる話をなさんとしているとのここ補説4の部 ―導入部よりピューティア(デルポイの蛇の巫女)と結びつく新約聖書『使徒行伝』に見る[占いの霊]のことを意図的に持ち出しているとの部― にては

ワールド・トレード・センターにての悲劇のことを(隠然としたやりようながら)指し示していた作品
かつ
時限爆破(によるツインタワー倒壊)の寓意と接合する作品
かつ
フリーメーソン象徴主義と深甚なる側面で多重的に接合している作品

との三つの条件を満たしているとの作品「ら」が際立って存在していると指摘し、国外・国内の特定作品らを挙げ、それらにあって[何が問題になるのか]の事細かなる解説をなしてきた(:うち、『ファイト・クラブ』という作品に関してはそれ単体だけで微に入っての解説に15万字超の文量を割いてきた ―ワープロソフトの文字カウント機能を用いて見るところ、積算でそれだけの文字数を割いている― )

 それにつき、「どうしてそのようなことがあるのか」、

[占いの霊(使徒行伝に見るパイソン)の業が如くもの]

がいかにして具現化を見ているのかとのことにも関わるところとして

[フリーメーソンに用いられているシンボリズムがどのようにして人類の歴史にて具現化を見てきたか]

の解説をなしておくこととする。

 下の図解部をまずもってご覧頂きたい。

 図を左上][右上][左下][右下の各部に分けて見ながらもの説明をなす。

 上掲図左上 Project Gutenbergのサイトにて全文公開されている ―すなわち、オンライン上より誰でも裏取りなせるとのかたちとなっている― とのジョージ・ワシントンのフリーメーソンとしての書簡に対する分析をなしている著作、
Washington's Masonic Correspondence(1915)
にて掲載の図像となる ―[ブレイジング・スター]というフリーメーソン・シンボリズムのありようにまつわり本稿の先の段でも似姿呈示した[メリーランド・グランド・ロッジの装身具(ジュエル)]の図となる― 
 対して、上掲図右上は広く流通しているワシントンのメーソンとしての正装時の似姿を描いた肖像画となる ―同画も本稿の先の段でその呈示をなしていた図となる― 。
 上掲図左上のフリーメーソン装身具ありようおよび上掲図右上のエプロン姿のワシントンのフリーメーソン似姿の図にての構図をあわせて見ると上掲図右下の[Gの字が五芒星の中に刻まれてのブレイジング・スター(という名のメーソン・シンボリズム)の構図]もが導出されるようになっていると申し述べられるわけであるが(詰まるところ、フリーメーソンののシンボル体系の問題としてなるべくしてそうもなっている)、同じくもの接合性は上掲図左下にて呈示の国家的紋章との関係性を ―視覚的に「露骨に」といった按配で― 想起させるものともなる(:図をきちんとご覧いただければお分かりいただけようが、左下の紋章を鏡像反転させれば、メーソンがときにシンボルとして用いもする[五芒星とGの字の組み合わせ]が浮かび上がってくるように「できあがっている」)。 そうもしたありようが見てとれる左下の図は幾度となくマイナー・チェンジを経てきはしたものの、おおよそのかたちでは似姿にほとんど変化がなかったとのソビエト社会主義共和国連邦の国章を挙げたものである(和文Wikipediaにあっては[ソビエト連邦の国章]項目に、英文Wikipediaにあっても[ State Emblem of the Soviet Union ]項目に細かいマイナーチェンジの過程も含めてそのソビエト社会主義共和国連邦国章の似姿が掲載されているところとなる)
 さて、ここまできたところで指摘するが、ソヴィエト社会主義共和国の国章の草案ができあがったのは1923年であるとされている(和文ウィキペディア[ソビエト連邦の国章]項目の記載を引いておく。(以下、引用なすところとして)[最初の国章案は1923年7月6日、ソビエト連邦最高会議中央執行委員会の第二回会合でソビエト連邦の国旗とともに了承された。同年9月22日に最終案が作成され、憲法の条項に載せるためさらに手直しされた。この案は翌1924年に成立した憲法では次のようになっている。ソビエト連邦の国家のエンブレムは、地球の上に鎌と槌が描かれることで構成される。地球は下にある黄色い太陽の光線の中に描かれ小麦の穂で囲まれ、その穂は6つの言語 - ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、グルジア語、アルメニア語、トルコ・タタール語 - で、「万国の労働者団結せよ!」と書かれた赤いリボンで束ねられている。エンブレムの頂点には、赤い五芒星が配される](引用部はここまでとする))
 対して、 Project Gutenbergのサイトにて公開されている上掲図左上の[五芒星にGを刻む構図]の出所、 Washington's Masonic Correspondence(『ワシントンのメーソンとしての私信』とでも訳すべきか)という著作が世に出たのは1915年であり(より具体的には Julius Sachseという20世紀初頭のフィラデルフィアのメーソンの手になる著作として明示されたながら世に出たのは1915年であり)ソ連国章の制定は同著の刊行に遅れること、8年を経ての1923年のこととなる。何が述べたいのかと言えば、「であるから、」ソ連の国章をわざと意識させるような贋造物がメーソンの著作によって挙げられたとの可能性は ―物事の先後関係の問題として― ほぼないとのことになるということである(その逆のことはあってもメーソンによる模倣とのことはないということである ― Project Gutenbergのサイトにての書籍刊行年表記が現実とは違う記載とされているとのことがほぼ考えられないとのことと同義の話として、である― )

 以上表記のこと、容易に裏取りなせるようになっているとの時期的側面に着目しての相似形の話にはさらに続きがある。

 次いで、下の図像らをご覧頂きたい。

 上掲図については上段中段下段に分けての解説を講ずる。
 上の段にて呈示の図らについては最前の図解部にて呈示の図もそこよりの抜粋をなしたところの、
Washington's Masonic Correspondence(1915)
との書(繰り返すも Project Gutenbergのサイトより全文ダウンロード可能な合衆国初代大統領ワシントンのフリーメーソンとしての私信の分析をメーソンがなしているとの著作)にて掲載の「他の」フリーメーソン画となる(先掲図解部にあっての上の段の部の左側にて挙げているのも右側にて挙げているのも同じくもの同著にて掲載の図像となる ―疑わしきにおかれては同著内容を掲載しているHTML化文書を Project Gutenbergのサイトよりダウンロードなどして内容ご確認いただきたい(グーグル検索エンジンなどにて[ Project Gutenberg, Washington's Masonic Correspondence]などと入力すれば、労せず、そちらに行き着けることか、と思う)― )。
 対して、中段の図については先に挙げたところのソ連の国章の再掲となる。
 下段については ―それこそがこれよりの話をなすにあたって肝要なるところであると述べたいところとして― 
[(図解部の上の段にて呈示の)メーソンに由来する画の[一つ目の部分]と(図解部の中段にての呈示の)[ソ連国章の五芒星の部]が「対応している」ことを示すべくもの部]
となる。
 その点、上掲図解部の下段にあって
[上掲図の上の段にて呈示のメーソンに由来する画の一つ目の部分と中段にてのソ連国章の五芒星の部が視覚的のみならず意味的・記録的に「対応している」(対応させられている)とのことを示すべくもの部]
とのことを直上にて言及なしたが、それはこういうことである。

(本稿にての出典(Source)紹介の部105でも引用なしていたところのアルバート・パイク(極めて有名な19世紀の有力メーソン)の手になる著作 Morals and Dogma of the Ancient and Accepted Scottish Rite of Freemasonry『古代より連綿と続く認証されしフリーメーソンのスコットランド位階の徳義と教義』(著名著作として無論、 Project Gutenbergより全文ダウンロードできるとの著作でもある)の XXV.KNIGHT OF THE BRAZEN SERPENTの部より一文のみの引用を「再度」なすとして)

The word Prudentia means, in its original and fullest signification, Foresight: and accordingly the Blazing Star has been regarded as an emblem of Omniscience, or the All-Seeing Eye, which to the Ancients was the Sun.

「プルデンシアとの語はその原義かつ最も充足的な意味合いとして[先見の明]を意味し、それに応ずるところとしてブレイジング・スター]は全能性、すなわち、古代人にとって太陽であったとの[万物を見通す眼]の象徴と見倣されてきたのである」

(訳を付しての「再度の」引用部はここまでとしておく)

 上抜粋部はメーソンにとり、ブレイジング・スターの象徴(本稿の先だっての部でも言及していることだが、[Gの字が刻字された五芒星]として描写されることがフリーメーソンの間にあるとの象徴)が[万物を見通す眼]とも同義たりうるものであることを言及した部となる。

(「図らを実際に見ながらでないと何を述べているのか理解が困難である」との図にまつわる詳解を続けるとして)そうもしたアルバート・パイク著作よりの引用部 ―19世紀著作(正確には1871年初出の著作)に認められる、誰でも容易に確認できるとの文献的事実を切り取っての引用部― に認められるところから、上掲図にての上の段の図ら(いいだろうか.「1915年」初出の著作に認められるメーソンに由来するシンボル画らである)と上掲図にての中段の図(これまたいいだろうか.「1923年」に初出のソ連の国章である)の内容をも顧慮して[[明らかなる対応関係]というものがフリーメーソン象徴画とソ連国章の間には(視覚的一致性の問題にとどまらずにもの)「意味的・記録的ありようとの側面「でも」」現出していると指摘なせるようになっていると述べたいのである。

(※要点をまとめよう。
第一。問題となるフリーメーソン象徴画もソ連国章の両者共々が中央に簡略化されてコミカルな似たような地球儀を配している。
第二。両者共々、地球儀の前面に[槌(つち);ハンマー]を[交差させられての象徴]として図像内に配している(メーソンシンボル図にあっては×模様を形成するように交差した槌と定規が描かれ、ソヴィエト国章にあっては[革命]の象徴たるハンマーと鎌が交差して描かれている)。
第三。(殊にアルバート・パイクの書の内容を引いて示したように)[片方図像上部の一つ目](オール・シーイング・アイ)と片方図像上部の[五芒星]が照応する、というより、フリーメーソン象徴体系では[同一物]と見なされるとの背景が伴うものとされているがゆえ(余程メーソンを部外から研究した人間かメーソンのイニシエートぐらいにしかおそらく察しが付かなかったところとして【五芒星】と【一つ目】をして【ブレイジングスター】を介して同一物と看做すとの背景・文献記録が伴っている)がゆえ、「意味的・記録上の」一致性も伴っており、照応関係がいよいよ色濃くなる。
 以上、第一から第三の点らを複合顧慮することで[五芒星の中にGの字を刻む式]と通ずるありようがソ連国章の鏡像反転にて見てとれること、メーソンのブレイジングスターの五芒星の中のGと照応するようなデザインがソ連国章にて採用されている(呈示の図を再度よく出所ともども検証いただきたい次第である)とのことについて【恣意】の問題を見出すことは決してこじつけ(ないしは陰謀「論」)にはならない、否、当然の理性的判断であるととれるようになっている(と述べてもありとあらゆる狂っている、だけではなく、グロテスクなまでに愚劣な紛い物がまるで正気の伝道師のように大手を振るって闊歩しているとの意で「正気と狂気が逆転している」人間世界で理性というものがどれほど適正に機能していると言えるかは別として、であるが)― )

 以上をもってして単純な視覚的一致性、のみならずもの文献記録から導出出来る意味的一致性を通じてどうした背面のありようが斟酌できる(あるいは斟酌されて当然であるように「演出」されている)とのことについての解説をなした(:そのような一致性の問題は教科書は、諸所の表通りの研究書は ―あるいは、そうしたものの供給母体となっている世間的には[識者]で通っているとの大学の教授などの類は、でもいいが― 、決して教えてくれることはないわけではあるも)。

 では、共産主義「革命」とは[詐欺]であったのか?フリーメーソン由来の[陰謀]だったのか?

 紆余曲折を経てのこの身、筆者の「現行の」見立てでは半分はほぼ当たり ―人形として性質が近しい[おともだち]らが歴史の舞台演出にあって用いられているがゆえに半分はほぼ当たり― だが、半分は真偽不分明なることとなる。

 その点、人間世界に現出した共産主義体制が結果として[詐欺]であったというのは(「ほぼ当たり」ではなく)完全に当たりであろう。 [統制経済]を計算して運営する科学力も、また、資源というリソースもない者達 ―20世紀の人類― が[合理的なる法の支配]ではなく[むき出しの権力の化け物が暴威奮っての人の支配・組織の支配]でもって統制経済を運営しきれるなどと息巻き、結果、多くの人間を餓死ないし収容所で殺した(他面、下らぬ赤い貴族が君臨することになった)との体制を構築したにすぎぬ「革命」が[詐欺]でなくて何だというのかという意味、そういう文脈にて当然に詐欺であろうと述べるのである(共産主義を詐欺と断ずる資格が筆者にあるのか、と思われる向きもあるかもしれないが、筆者は大学時代、経済学部に属していたとの関係上、マルクス経済学が何たるかを学習していたとのこともあり、『資本論』も無論、読んでいるし、その要諦も無論、理解しているつもりではある(強くも断っておくが、筆者は左翼であったことも共産主義者であったことも人生で一度たりとも「ない」わけであるも)。 ここ日本にあっては頭の具合がよろしくはないとの[浅ましき狂態]か[ファッション]か([ファッショ]全体主義と掛けている)といった按配での[どこぞやら与えられた気風]でもっての軽佻浮薄なる[左翼]気取りが、あるいは、発展途上国では食うや食わずの仕方なしでの実質強盗のなんちゃって左翼 ―略奪に名分を与えるだけに左翼イデオロギーを利用している者ら― が(ドイツ語アルファベットからとっての)ゲー・ヴェー・ゲーダッシュの資本論に見る剰余価値の構図に関する説明さえも理解できていないで共産系左翼の[フリ]をやっているとのこともあると聞き及ぶことがあるが、とにかくもの話として、である)

 だが、現行に至っては筆者は共産主義の背後にフリーメーソンリーという組織の陰謀が「大々的にあった」ことを認めているわけでも率先して唱道したいわけでもない(理解力に欠ける人間、あるいは、筆者の過去の分析的言辞 ―商業出版が筆者の時間を無駄に費消されたうえで望まぬ流れに進んだためにオンライン公開することにしたとの著作などにおける分析的言辞― のようなものを識り、かつ、それに拘泥しているとの(いたらば、もの)ある種、稀有なる向きらは誤解するところか、とも思うのだが)。 フリーメーソンを多分に含むものの非メーソンも多分に含まれての[フリーメーソンリー的なる人形らの紐帯]が[組織]として人間の歴史を規定「させられ」てきたとのことは大いに容れるところだが、[重要な、矛盾もすべてひっくるめてのこの世界のありようの構築ユニット]であるとはいえ、フリーメーソンリーが全ての核となっているなどとの陰謀論を唱道しているわけではない(またもって述べておくが、それにつき、筆者は陰謀論者らお得意の話柄に登場を見ている[イルミナティ]という奧の院の組織の存在およびその暗躍の可能性を容れているわけ「でも」ない。フリーメーソンリ-のエンタード・アプレンティス位階(徒弟位階)の者らが彼らのイニシエーション(入団儀礼)に際して[目隠し]をさせられて、それを取っ払われて[光]を与えられる(先に典拠呈示していたところとしてそうしたイニシエーションを受けている)ことを識ってかそうではないのか、[イルミナティ]なる存在のことを大仰に宣伝し、それが陰謀の中心にあるなどと「相応の」者達らが ―そのことを直視することを避けては種族に未来などあるはずがないこと、「人間の残骸、影にすぎないものらを大量生産して運営してきたとの人間の世界がこれまでずっと[完全なる偽物の人形劇]の世界であった」ということを[人間による諸悪の根源たる陰謀団]なる存在を前面に押し出して糊塗(こと)、徹底的に隠したいとでもいうのか― [イルミナティ]陰謀論などを唱道していることもあるようだが、筆者は実態的組織としての[イルミナティ]なるものを首肯していない ―陰謀団としての[似たような特定の色]がついたシステムに這いつくばっている奴隷根性濃厚なる(表向きの)富貴権勢の徒よりなるサークルの存在を全否定する気も無いが首肯していない― )
 同じくものことに関しては(実体がどうであったかは大いに議論があるところかとも思うのだが)、共産主義、なかんずく、その中枢たるソ連ではフリーメーソンは排斥の憂き目を見てきたと「される」こともある(※)。

(※目につくところの共産主義とメーソンの関係論について
 筆者としては疑念呈示されて当然のところ、 open question[開かれた疑問]とされて当然のようなものであろう、と見ているのであるが(社会の基盤をなす階層を念頭に置いての実体なき宣撫工作である可能性もあると見ているのであるが)、ソ連など共産主義圏では一時期フリーメーソンは禁止を見ていたとの物言いがなされている。
 たとえば、広くも目に付くところでは英文Wikipedia[ Suppression of Freemasonry ]項目([フリーメーソンに対する抑圧]項目)にあって
Freemasonry was outlawed in the Soviet Union during the Communist era and suppressed throughout Central Europe ( Hungary and Czechoslovakia ).「フリーメーソンは共産主義者統治時代にあってのソ連で違法化され、中央ヨーロッパ全般(ハンガリーおよびチェコ)では抑圧されていた」
であるとか、
Field-Marshal Friedrich Paulus was denounced as a "High-grade Freemason" when he surrendered to the Soviet Union in 1943.「フリードリヒ・パウルス陸軍元帥が1943年にソ連に降伏した際にソ連当局に高位階のフリーメーソンであると批判された」であるとか、そういう記述がなされていたりもする (:ちなみに「高位フリーメーソンの輩である」とソ連に批判されたなどと表記英文ウィキペディア項目に記載されているドイツ国防軍の陸軍元帥フリードリヒ・パウルスについては計にして軍属・民間あわせて一〇〇万人を越える勢いでの人間を殺した ―スラブ系・ゲルマン系の別を問わずにカウントすればそれだけの人間を殺した― とされるスターリングラード攻防戦([人類史最大級の攻防戦]のうちのひとつ)の末、責任をとらず(自決なさず)に捕虜となり、かつ、捕虜となったほかの独軍兵士約10万人の9割超がのたれ死にを強いられたなかで[ソ連への転向]を表明して優遇され戦後東ドイツで悠々自適な余生を送ったなどと批判されている向きともなっている)。
 が、他面、冷戦期、ソ連邦支配下にあったとのポーランドという国は男性人口のかなりの割合が今日、フリーメーソンとなっており、フリーメーソンリーが極めて幅を効かせている ―真偽の程は分からぬが、本当だとすると、カルトの信者ばかりになった地域で外部の普通の人間にはまったくもって暮らしづらいとの如く状況が現出している― とのことが比較的巷間に取り沙汰されている国家であったりもする。
 以上のようにフリーメーソンが本当に共産主義圏でも冷や飯を喰らわせられていたというのならば、間尺合わぬことがあるのだが、仮に共産主義によるメーソンの圧迫という話が「券面・額面の問題を越えて」部分的に本当でも筆者はなんらおかしなことであるとは思わない ―シンボリズム一致性問題があってもおかしなことであるとは思わない― 。
 本稿にての先の段、出典(Source)紹介の部103(3)を包摂する箇所でも(史的事実の問題として述べられることとして「フリーメーソンの外郭団体(ゲルマン騎士団およびトゥーレ協会)から派生した」とのナチスが政権を取った後にあって)ナチスによるフリーメーソンの組織的弾圧の話がよく知られたことになっているとのことを(脇に逸れての話として)紹介していたが、[システムの寵児]たる組織体・紐帯であろうとそれを[ただの使い捨ての道具]として冷酷に切り捨てる力学がこの世界にはある、と筆者もまた当然のこととしてとらえているからである)

 以上、付記したような見立てを有している人間として、そう、[人の組織の陰謀]程度のもので物事が説明しとおせるなどとおよそ考えていないし、そのような説明の試行などいまやもってして一顧だにも値しないことであろうと判断している人間として、何故、
[メーソン象徴主義と共産主義象徴主義のあまりにもできすぎた連続性]
のことなどを「わざわざ」強くも問題視したのか。

 その点もってして思い出していただきたいのだが、ここ本段を包摂する補説4の部では

[[占いの霊(使徒行伝に見るパイソン)の業わざ]が如くものがいかにして具現化を見ているのかとのことにも関わるところとして
[フリーメーソンのシンボリズムがいかようにして人間社会にて具現化を見てきたか]
の説明をなす]

とのことを事前明示したうえでの話をなしてきた(「【講述・講学的表記】をなしてきた」と表記した方が適切かといったレベルでの話をなしてきたと自負している次第でもある)。

 同じくものこと ―[占いの霊(使徒行伝に見るパイソン)の業]が具現化しての事例― と通ずるところ、よりもって述べれば、911の予見的言及に通ずるところが、

[(上にて図解なしている)メーソン象徴主義と共産主義象徴主義のあまりにもできすぎた連続性

ともなっている(そしてそのことが【過去】だけではなく【未来】の問題にも関わる)、そのように述べられるだけのことが「ある」(からそうしたことをわざわざもって本段にての[ためにしての話]で取り上げた)のである ―旧状旧悪(と判じられるところ)をほじくって云々することが目的ではなく、そうもしたことが直視せねば、明日はなかろうとのこと、【人間存在の今後ありように関わること】であるとの認識でもってして同じくものことを取り上げている、と強調したい― 。

 だがしかし、

「[メーソン象徴主義と共産主義象徴主義のあまりにもできすぎた連続性]からして[911の予見的言及]の如きものに通ずることとなっている」(そのことが人間存在の今後に関わると判じられるだけの側面がある)

などとひとまとめに述べても、この段階では何を述べているのか理解いただけるようなことではないかと当然に見てもいる。そうも見ているのではあるも、お分かりいただけるように可及的に注意を払っての同じくものことにまつわっての解説をこれよりなすこととする。

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直下、本稿冒頭部へのリンクを設けておく

(⇒冒頭頁へは下の部より)

[典拠紹介部第1頁 加速器実験に伴う欺瞞性から証示なせることについて]

 上掲なしているのは

【古典『神曲;地獄篇』にて文豪ダンテとダンテに師父と慕われる古代ローマ詩人ヴェルギリウス(の霊)が【地球の中枢】とイコールであると描写されての【地獄の中枢】に向かっていくさまを描きもしての図】

となりもする。

 ここで文学的嗜好など皆無といったまでに持ち合わせていないとの向きらにあっては『神曲;地獄篇』のことなどをいきなり引き合いに出されても

『お公家がかった好古家の世界の話だろう?』

などと思われるかもしれないが、まずもってそこより述べるところとして、現実的問題としてダンテ『神曲;地獄篇』が我々人間の世界 ―いかに空虚で吐き気を催させるような【紛いもの】だらけのものであろうともとにかくもってしての我々人間の世界― にあって

【古今最大級の著名度を誇る文学作品】

として世間にあって認知されていることになんら相違はない(※)。

(※編集・更改が頻繁になされるとの媒体性質がゆえに記述内容が有為転変としており、そちら記述が残置するものなのか請け合えないが、たとえばもってして現行、いや、筆者がダンプデータを押さえつつ把握する限り、ここ数年間ずっと、和文ウィキペディアには ―ダンテ『神曲』がいかに際立ったものであると評されているのかについて― 次のような記述がなされているところでもある ⇒(以下、和文ウィキペディア[神曲]項目にあっての[文学的評価]の節の記述よりの原文引用をなすとして)神曲』は、世界文学を代表する作品として評価は定着しており、西洋において最大級の賛辞を受けている「世界文学」を語る際にはほぼ筆頭の位置に置かれ、古典文学の最高傑作、ルネサンスの先蹤となる作品とも評されている特に英語圏では『神曲』の影響は極めて大きく、部分訳を含めれば百数十作にのぼる翻訳が行われ、膨大な数の研究書や批評紹介が発表されている(引用部はここまでとする))

19世紀英国の文人であった[ダンテ]・ガブリエル・ロセッティが描いた最愛のベアトリーチェの死に際会した折の文豪ダンテありよう描写図(のうちの一バージョンに強調のために多少動きを加えたもの)。上掲のような扮装の彫像がいくつも遺っているとの文豪ダンテ・アリギエーリの手になる『地獄篇』が同作それ自体の外側に確として存在している多層的関係性の中にて[異常なる先覚的表現と嗜虐的に結びついているから問題であると本稿にあっては指摘しもしている。

 ダンテ『神曲』に【異様とも言える数学(あるいは数値操作)上の工夫】が施されているとのことを指摘する向きは国外、のみならず、国内にもいるわけだが(たとえばもってして John Guzzardo Thomas Hartといった欧米圏のダンテ研究者らの分析結果を実にもって分かり易くも援用・解説・省察しているとの国内学究の向き ―このようなところで名指しされればご迷惑でもあろうと判じているため具体名は挙げない― のダンテ関連の論稿が存在しており、の中では、ダンテ『神曲』の異常なる円周率π等に対する拘(こだわ)りに非人間的なる側面、ある種の機械プログラム的なる側面が詳述されたりしている)、 数的側面への異様なる固執のみならずダンテ『神曲;地獄篇』には(今日的な観点で見た)ブラックホール近似物の描写がみとめられることもまた同様に示唆されるように言及されてきたことである(著名科学者らに起因する同じくものことにまつわっての評されようについても本稿本文の部にて引用なしているところである)。

 問題となるところのひとつとしてそうもしたダンテ『地獄篇』のブラックホール近似物にまつわる描写が他の著名古典、英国にて17世紀に成立したジョン・ミルトンの手になる叙事詩『失楽園』の描写とまさしくものブラックホール近似物にまつわるところで複合的に結びつくとのことがある(※)。

(※上にて引き合いに出したジョン・ミルトン『失楽園』について世間一般の人間は内容はおろか名前さえ知らぬとのことがあるかとは思う ―キリスト教圏でもない領域では「当該の作品はキリスト教文学の金字塔となっている」などと一口で言ってもミルトンの知名度についてのおもんぱかりがなされることを期待する方が無理があるか、ともとらえる― 。であるから、ダンテ『地獄篇』にまつわって付した注記と同様にミルトン『失楽園』の知名度についての記載を目立つところより引く、英文ウィキペディアより引いておくこととする。⇒(以下、英文Wikipeia[ John Milton ]項目にての現行にあっての記述を引用なすとして) Once Paradise Lost was published, Milton's stature as epic poet was immediately recognised. He cast a formidable shadow over English poetry in the 18th and 19th centuries; he was often judged equal or superior to all other English poets, including Shakespeare.(即時訳)「『失楽園』が刊行を見てより、(壮大な)叙事詩の紡ぎ手としてのミルトンの名声は即時に認容されることになり、同ミルトン(の詩)は18世紀から19世紀にあっての英文詩ありようにおそるべき隠然たる影響力をおよぼすことになった.ミルトンはしばしば「シェイクスピアを含む」他のいかなる英語による詩の紡ぎ手に比肩しえる、あるいは、優越しうると評価されてきた存在であった」)

 その点もってして双方、際立っての著名性を有しているとのDanteInferno『地獄篇』にあってもMilton Paradise Lost『失楽園』にあっても[地獄門の先にある領域][ルシファーに起因する災厄の領域]との部にてブラックホール近似物描写がみとめられるとのことがあるのである。

 以上申し述べた上で ―委細は本文に譲るとの式で― さらにもって指摘しておくが、極めて問題となるとのこととして、ブラックホール近似物描写セクションとの兼ね合いで問題となるとの『地獄篇』と『失楽園』の両古典の問題描写それ自体に

ヘラクレス12功業と結節する側面
人類に対するエデンにての誘惑(および宗教的ドグマなぞに見るところの原罪、オリジナル・シンの押しつけ)とルシファー(エデンの蛇に比定される存在)の暗躍の筋立てと結節する側面
古のトロイア崩壊伝承に通ずる側面

との側面らと多層的に接続している、そうもしたありようもが見てとれるとのこともが「ある」 (:そして、酸鼻を極める(としか言いようがない)こととして【ヘラクレス12功業と結節する側面】【人類に対するエデンにての誘惑と悪魔の暗躍の物語と結節する側面】【古のトロイア崩壊の伝承に通ずる側面】の上掲各側面が、(すべて本稿本論の部にて典拠を仔細に呈示しているところの【現実】の問題として)、【ブラックホール人為生成に通ずると近年目されるに至った加速器実験】【ブラックホール人為生成にまつわる予見的文物】の双方に多層的に接続しているとのことがまたもってありもし、それが「養殖種としての人間を皆殺しにする」との意思表示(がかってのもの)と結びついているとのことまでもが「ある」 ―※― )。

(※日本国内に比して比較的洗練された、程度の高い情報を発信する人間が僅少ながらも存在すると見る英語圏ですらどういうわけなのか、以上のことら、著名古典らの結節領域にてブラックホール近似物にまつわっての描写がみとめれるとのことらについて問題視・精査する人間がこの世界には「現行」まったく見受けられず、に関して筆者なぞは慨嘆・嘆息させられている(検索エンジンのクエリ(入力文)に応じての深耕の問題として筆者は同じくものことについて状況把握することになり慨嘆・嘆息させられもしているとのことがある ――なおもってして、「目立つところながらにあり、かつ、重要であると当然に受け取れるのにそのことを誰も指摘しない(しようとしない)」とのことにまつわって唐突となるところとして記載しておくが、兵法三十八計にあっては[勝戦計](彼我の戦力にあって圧倒的に有利な側が勝利を盤石ならしめるために講ずる計略とされるもの)として【瞞天過海(まんてんかかい)の計】なるものが存在している(著名な兵法三六計の一番目に挙げられる計略である)。 同【瞞天過海の計】とは勝勢濃厚なる勢力が弱者の勢力を一挙に叩き潰す前に戦いを理想的に終わらす(損失少なくもの勝ちを得る)ために相手方油断を誘う上で攻め手側攻勢機微にまつわる情報を小出しにしてそれを相手方に頻繁に見せつけもし、「また例の話(挙)の具現化か.至急対処とのかたちで重んずるには値しまい」とのいわばもってしての危機慣れのありようを相手にもたらすとのことが謀られるとされる。その意ではここで述べているようなこと、たとえば、DanteInferno『地獄篇』にあってもMilton Paradise Lost『失楽園』にあってもその双方共々に[地獄門の先にある領域][ルシファーに起因する災厄の領域]との側面にてブラックホール近似物の描写がみとめられるとのことに「通ずる」描写が大衆に消費される現代サブ・カルチャーなぞに隠喩的・間接的にみとめられだしているとのことまでは現況もある一体全体どこに発想の原点があるのかと受け取れるようなサブ・カルチャー(この世界の現状を鑑(かんが)みれば、白昼夢、【人間の人間による人間のための世界の幻想】を心地良いもの、だが、現状認識なすことを困難ならしめるような式で押し売りするようなサブ・カルチャー)なぞに近年より隠喩的・間接的に見受けられるようになっているとのことがあるとのこと「も」筆者は把握するところとなっている(衆を瞞着するが如きやりよう表出にまつわっての一般論としての話をなしているわけではあるが、につき、愚拙、この身の来したしに照らしあわせれば、である。『持ち出しに過ぎぬな』と思いつつも訴訟を提訴、2011年下半期には会社まで設立して(またもって小さきこととしてそちら会社連動ウェブサイトなどを立ち上げるなどして)微力ながら警鐘発せんとしてきたとの自身の独特な式でのひとつの訴求方式に近しきこと「をも」茶化す(低劣なるものに貶めている)が如くの【類似】の要素を帯びたサブ・カルチャー作品すらもが登場を見ているとのことを知った(ただし本稿品位を保つためにそちら【具体例】らについてはここでは言及しない))。 その点、相応の人間らは自分達が「危機慣れさせられている」ことを認識できずに現実的状況の指摘・訴求に接した際に「またあの【フィクション】の話だろう?」「【フィクション】に没入しすぎた誇大妄想狂の放言であろう?」なぞと相応の思考作用状況で即断する(可能性もあるかもしれない)とのことが万象あまねくも表出している(しうる)現実的状況に付帯するところとして観念されもするが([瞞天過海の計]奏功のありように近しいかと見る)、とにかくもってして、ここでの話は世に横溢するサブ・カルチャーなぞの荒唐無稽なる[設定]にまつわってのことではない、何の容赦もない現実的状況にまつわるものであると強くも断っておく―― )

当サイト内にあっての【各頁および各典拠への一覧方式遷移部】、及び、【PDF形式文書配布ページ】へのリンクを直下、設けておく

各頁および各典拠への一覧方式遷移部へは以下より


問題となる[「予見的」言及→実現]の体系についての[典拠紹介部]一覧呈示頁

PDF形式文書配布ページへは以下より


典拠解説媒体としての[一括PDF文書]の公開頁

ここ本頁内の記述内容を支える【「容易に後追い確認なる」「堅い」ソースを呈示しての出典紹介部ら】のうち、枢要なるものへの[遷移経路]を下に設けておく。 典拠について疑わしいとの部があれば、必要に応じて参照されたい (:クリックすることでブラウザ ―インターネット閲覧ソフト― の[別タブ(別枠)]にて典拠紹介部を表示( open "additional" tabbed window(s) of web browsers ))

[出典(Source)紹介の部28-3](物理学者キップ・ソーンの言説に通ずるところとして世間一般的に[双子のパラドックス]がいかように取り沙汰されるものなのか、また、それがいかようにして浦島伝承の類に接合しているのかにまつわっての出典紹介部28-3)
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第23頁 双子のパラドックスと浦島伝承、そして、タイムマシン理論

[出典(Source)紹介の部31](キップ・ソーン著作 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』が[911の事件の先覚的言及文物]となっていることにまつわっての出典紹介部31(以降)の部)
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典拠紹介部第25頁 ソーン『ブラックホールと時空の歪み』のとんでもない特性

[出典(Source)紹介の部32](キップ・ソーン著作 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』が[911の事件の先覚的言及文物]となっていることにまつわっての出典紹介部32(以降)の部)
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典拠紹介部第26頁 書籍『ブラックホールと時空の歪み』の問題性(続き)

[出典(Source)紹介の部33](キップ・ソーン著作 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』が[911の事件の先覚的言及文物]となっていることにまつわっての出典紹介部33(以降)の部)
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典拠紹介部第27頁 ソーン著作とサイフェ『異端の数ゼロ』の関係性

[出典(Source)紹介の部35]LHC実験とトロイア崩壊およびアトランティスの関係性を示す命名規則上のありようにまつわっての部LHC実験にあっては[(トロイア崩壊の因たる)黄金の林檎の在処を知ると神話が語り継ぐ巨人アトラス]の名前を冠する検出器ATLASおよび黄金の林檎の果樹園とも同一視されもするアトランティス]の名前を冠するディスプレイ・ウェアATLANTISによって生成極微ブラックホール捕捉をなしうるとの可能性が取り沙汰されてきたとのことについての出典紹介の部35)
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典拠紹介部第30頁 アトラス・アトランティスとLHC命名規則の繋がり合い

[出典(Source)紹介の部36(2)](LHC実験にあってはブラックホール生成可能性が問題視されるそれ以前、1992年から覚書が交わされてATLASとの名称の使用が確定していたことにまつわっての出典紹介の部36(2))
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典拠紹介部第30頁 アトラス・アトランティスとLHC命名規則の繋がり合い

[出典(Source)紹介の部37]から[出典(Source)紹介の部37-5](よりもって後の段で[さらにも、の他の事例ら]を紹介することを前提に先行的に挙げているところの[[ヘラクレスの第11功業]と[911の予見事物]の接合性を示す事例]にまつわっての出典紹介部37から出典紹介部37-5)
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[出典(Source)紹介の部37]
典拠紹介部第31頁 911の予言的言及事物としてそこにあるもの

[出典(Source)紹介の部37-5]
典拠紹介部第33頁 陰謀論とりまとめ小説イルミナティ三部作に伴う特質[2]

[出典(Source)紹介の部39]トロイア崩壊の原因が黄金の林檎となっているとのこと、また、そちら黄金の林檎がヘラクレス第11功業に登場を見ている「巨人アトラスと結びつく神の果実」でもあるとのことに関しての出典紹介部39)
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典拠紹介部第35頁 ブルフィンチ神話要覧書などに見る黄金の林檎とトロイア

[出典(Source)紹介の部48]トロイア崩壊に繋がった黄金の林檎を巡っての誘惑とエデンの園での誘惑が多層的多重的に共通要素を帯びているとのことの出典紹介部の一例として黄金の林檎を巡っての誘惑者エデンの園にあっての誘惑者[惑星ヴィーナス(金星)]の体現存在としての顔を有しているとのことについての出典紹介の部48)
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典拠紹介部第41頁 エデンの誘惑と黄金の林檎 ルシファーとアフロディテ

[出典(Source)紹介の部55](ダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』にあって[「今日的な観点で見た場合の」ブラックホールの質的近似物]が描写されていることにまつわっての出典紹介部55)
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典拠紹介部第46頁 ダンテ『地獄篇』とミルトン『失楽園』に見るブラックホールに通ずる描写

[出典(Source)紹介の部55(3)](ダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』にあって[「今日的な観点で見た場合の」ブラックホールの質的近似物]が描写されていることにまつわっての出典紹介部55(3))
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典拠紹介部第47頁 ダンテ『地獄篇』とミルトン『失楽園』に見るブラックホールに通ずる描写[2]

[出典(Source)紹介の部57](近年になってより提唱されだした黒海洪水仮説および往古より今日に一部伝存しているとの黒海洪水伝承にまつわっての一連の出典紹介部57(以降)の部)
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典拠紹介部第50頁 トロイア関連伝承と黒海洪水仮説の関係性について

[出典(Source)紹介の部90](ダンテ『地獄篇』がいかようにして[ヘラレクレス12功業]と接続性を呈しているのかについての出典紹介部90以降の部)
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典拠紹介部第99頁 ダンテ『地獄篇』に見る地獄降下、そして、ブラックホール

[出典(Source)紹介の部90(5)](ダンテ『地獄篇』がいかようにして[ヘラレクレス12功業]と接続性を呈しているのかについての出典紹介部90(5)以降の部)
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典拠紹介部第101頁 ホメロス、ヴェルギリウス、そして、ダンテ