ブラックホールにまつわる文物らが何故にもって[「奇態なる」先覚的言及]と結びついていると述べられるのか、属人的主観の類が一切問題とならぬとの式で[文献的事実]のみより摘示なせるところ ――(先立って摘示してきた関係性の延長線上にあって問題となることについて)――
本頁ここまでの流れにあっては
「[科学界権威]が[特定のこと]を述べているとの[事実]そのものが
[科学理論の歴史的登場時期を示す資料]
と共に存在しているとのことがある。
また、[権威]が同じくもの[特定のこと]を述べていることに関して存在しているとの、
[科学理論の歴史的登場時期を示す資料]
がそれ以前はいかな者でもそういうことが述べることができたとは思えないことをそれ自体で指し示しているとのことがある。
他面、そうしたはきと見出せるとの(科学界の)権威サイドの特定の申しようの[登場経緯]とは全く平仄・辻褄が合わない、にも関わらず、登場時期の問題を除いてその内容だけに着目する限りは、そうした権威申しようと「不気味」かつ「異常無比」な形で平仄・辻褄が合うとのことら、言葉を換えれば、権威が後の世にてこれはこうであろうと事細かに説明してきたことと一致しているとのことが史的に見て長期にわたって、
[(科学界の)権威の申しよう自体と全く関係ないところ]
に数多存在していること、そして、(一呼吸置き)、そうして権威が科学的裏付けを与える前から存在しているとのことらが「相互に」「多重的に」絡み合って密結合関係を呈しているとのことが現実にある」
とのこと (本稿にて重きをおいていること) について解説なすうえで、まずもって、
[[加速器によってワームホールが人為生成されうる]との理論と ――「理論の登場時期との兼ね合いでは辻褄が合わない」ものの―― 内容面で不気味かつ異常無比なかたちで平仄が合うとの文物が[文献的事実]の問題として幾点も存在している]
との点について[一例]たるものを取り上げ、そうして挙げた一例の延長線上にさらに不快な[密結合]の関係性が横たわっているとのことを ―[事実]と[証拠]に基づき― 摘示していくこととする.その運びにあって以降、[A.からF.と振っての分割しての指し示し]を順々になしていくこととする
との一連の流れの中でA.からF.と振って順々に表記していくとあらかじめ申し述べたことらのうち、A.からD.と振ってのことらの呈示をなした。
ここ本頁以降では以上表記の流れの中にあって
[E.と振ってのことを呈示する]
ことに注力することとする(尚、以降、E.と振ってのことの呈示には先行するところのA.からD.と振ってのことを扱っての部に比して著しく細々とした筆の運びをなす、かなりの文量を割くことになる、とあらかじめ断っておく)。
以降、E.と振っての部に入る。
最初に次の図を見ていただきたい。
同図、本稿先の段(出典(Source)紹介の部20-2)にもそちらよりの引用をなしていたとの科学書、
BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』 (カリスマ物理学者と評されるキップ・ソーン ――英文Wikipedia[ Kip Thorne ]項目冒頭にて「現行」、 Kip Stephen
Thorne (born June 1, 1940) is an American theoretical physicist, known
for his contributions in gravitational physics and astrophysics. A longtime
friend and colleague of Stephen Hawking and Carl Sagan, he was the Feynman
Professor of Theoretical Physics at the California Institute of Technology
(Caltech) until 2009 and one of the world's leading experts on the astrophysical
implications of Einstein's general theory of relativity.
(大要)「キップ・ステファン・ソーンはアメリカの理論物理学者となり、物理学重力分野と天体物理学に対する貢献にて知られ、スティーブン・ホーキングおよびカール・セーガンの長年の友人にしてカルテク(理系分野の世界的名門カリフォルニア工科大学)にてファインマン教授職に2009年に至るまで就いていたとの一般相対性理論関連分野にて世界を主導する学者の一人である」(大要訳はここまでとする)などと表記されているように斯界(理論物理学のその方面)の主導的科学者として認知されている科学者―― の手になる物理学に興味ある人間の間ではある程度の著名性を有しているとされる書にして、[通過可能なワームホール]を[タイムマシン]に転用する手法を ――(後の理論動向の変転を見る前であるとの時期的問題もあってであろう、加速器それそのものとは一切無縁なる式で)―― 紹介していることでも知られている書)
に掲載してある特定図を意識して ―悪質な無断転載や剽窃などの著作権侵害にならぬように― 再現図として作成した図である。
同図に関しては原著はもとよりソーン著書邦訳版、『ブラックホールと時空の歪み』(白揚社刊行)の[第14章ワームホールとタイムマシン]の456ページにも同じくもの図が掲載してあるため、疑わしきにおかれては図書館で該当訳書を借りるなどして上図がそれに準拠しているとの解説図が掲載してあるか、確認いただきたいものではある。そのように述べ、話を進める。
さて、原著をほぼ忠実に訳しているとの感ある邦訳版『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』のp.456には問題となる図に関して次のような解説が付されている。
ここ出典紹介部では(上に挙げている)[通過可能なワームホール関連図]に紐付いたところとしていかような解説がなされているのか、その解説部文言を訳書および原著(原著の方の文言は現行、オンライン上より検索可能である)から引用なしておくこととする。
(直下、『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』(白揚社)456ページにあっての図の横書き解説部よりの原文引用をなすとして)
図14・7 カロリーと私はワームホールを用いてタイムマシンを作る。左:私はワームホールの1つの出入口とともにパサデナの自宅に留まり、ワームホールを通じてカロリーと手を繋いでいる。右:カロリーはもう一方の出入口を携えて高速度宇宙旅行に出かける。
(訳書よりの引用部はここまでとする ―※― )
(※尚、「オンライン上検索エンジンに該当テキストを入力して検索結果表示ページを精査することで」その通りの記述がなされていること、現行は確認可能となっている原著 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacyにての該当するところの表記の引用をも(読み手確認の用に供していただきたくも)なしておくこととする ⇒(以下、上の訳書よりの引用部に対応するオンライン上より確認可能な原著表記を引くとして)
14.7 Carolee and I construct a time machine from a wormhole. Left: I stay at home in Pasadena with one mouth of the wormhole and hold hands with Carolee through the
wormhole. Right: Carolee carries the other mouth on a high-speed trip through
the Universe. Inset:Our hands inside the wormhole.
(原著よりの引用部はここまでとする)―― )
(出典(Source)紹介の部28はここまでとする)
上にて述べられていることは ―上の図を見ながら「そういうものか.」程度にもご納得いただきたいのだが― 次のようなことである。
・カリフォルニア州パサデナ地区の自宅にいるソーンは手元にシュールなワームホールを置いている(書籍掲載図の特徴を踏襲させるかたちで作成している上の再現図を参照いただきたい)。
・科学者ソーンの妻(カロリー女史)は同じくもの場所、カリフォルニア州パサデナ地区の自宅から高速度のスペースシップで宇宙旅行に出かけるとの運びになった。そして、(これまた実にシュールに)、そのソーンの妻の手元にもワームホールが置かれており、彼女が宇宙旅行をなしている間もずっと地球にいるソーンとお互いの手から発生しているワームホールを介して繋がっている(との言いようの伝である。引用部および図を確認されたい。以上は実にシュールな描写だが、ソーンは ―ユーモアセンスも発揮してか― 理論を簡便に説明するためにそういう設定を採用している)。
さて、以上のようなかたちで書籍にて描かれているシチュエーションが[双子のパラドックス]という現象を通じてタイムマシン構築につながるとも描写されており、については、『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』p.456-p.457にて以下に原文抜粋するとおりの記載がなされている(いいだろうか。誤解なきように。本稿筆者(私)は[自身の主観などは一切関係ないところに存在する「文献的事実」]より何が述べられるようになっているのか、そのことのみ問題としているのである)。
ここ出典(Source)紹介の部28-2にあってはそれにまつわる図の解説のなされようを上に引いた[思考実験 ――物理学者キップ・ソーンが宇宙船で飛び立ったその妻とワームホールを介して繋がり合っているとの設定の思考実験―― ]が[双子のパラドックス(と呼ばれる現象)]に依拠しているものであると説明されていることを原文引用でもって紹介することとする。
(直下、『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』p.456-p.457よりの原文引用をなすとして)
ワームホールを通して眺めながら私は当然、彼女がちょうど十二時間後の二〇〇〇年一月一日午後九時頃に帰ったことに同意する。午後九時〇〇分にワームホールを覗いた私に見えるのは、カロリーだけではない。彼女の背後、わが家の前庭、そしてわが家も見ることができる。
・・・(中略)・・・
この旅は地球上で測れば、・・・(中略)・・・ 一〇年もかかる旅である。(これは典型的な「双子のパラドックス」だ。高速度で往復した双子の一人(カロリー)は時間の経過を一二時間と測るが、地球に残った双子のもう一方(私)は、旅が終わるまで一〇年も待たなくてはならない。)
・・・(中略)・・・
二〇一〇年一月一日が到来し、カロリーは旅から帰ってきて、前庭に着陸する。私は走り出て彼女を出迎え、予想どおり、彼女が一〇年ではなく一二時間しか年をとっていないのに気づく。彼女は宇宙船の中に座っており、マウスに手を差し入れている。だれかと手を繋いでいるようだ。私は彼女の背後に立って、マウスの中を覗き、彼女が手を握っている相手は一〇年若い私自身で、二〇〇〇年一月一日の私の居間に座っていることに気づく。ワームホールはタイムマシンになっていたのである。
(訳書よりの引用部はここまでとする ――尚、上にての引用部文中にて「マウス」と表記されているのは[ワームホールのマウス(英語の「口(くち)」)]のことを指している―― )
上の訳書に対する原著にての表記も
「オンライン上にての検索より確認できるものとして」
下に挙げておく。
(直下、原著 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacyにての「抜粋部をそのまま検索に用いることでオンライン上より確認できる」との 14.WORMHOLES AND TIME MACHINESの章の表記、原著p.503-p.504(版に応じての頁数)の内容を原文引用なすとして)
Carolee departs at 9:00 A.M. on January 1 2000, as measured by herself, by me, and by everybody else on Earth. Carolee zooms away from Earth at nearly the speed of light for 6 hours as measured by her own time; then she reverses corse and zooms back , arriving on the front lawn l2 hours after her departure as measured by her own time. I hold hands with her and watch her through the wormhole throughout the trip, so obviously I agree while looking through the wormhole , that she has returned after just 12 hours , at 9:00 P.M.on 1 January 2000. Looking through the wormhole at 9:00 P.M., I can see not only Carolee; I can also see, behind her, our front lawn and our house.
[ . . . ]
Instead, if I had a good enough telescope pointed out the window, I would see Carolee's spaceship flying away from Earth on its outbound journey, a journey that measured on Earth , looking through the external universe, will require 10 years.
[This is the standard“twins paradox”; the high-speed“twin”who goes out and comes back (Carolee) measures a time lapse of only 12 hours, while the“twin”who stays behind on Earth (me) must wait 10 years for the trip to be completed.]
I then go about my daily routine of life. For day after day, morlth after month, year after year, I carry on with my life, waiting―until finally, on 1 January 2010 , Carolee returns from her journey and lands on the front lawn. I go out to meet her, and find, as expected, that she has aged just 12 hours, not 10 years. She is sitting there in the spaceship,her hand thrust into the wormhole mouth, holding hands with somebody. I stand behind her, look into the mouth, and see that the person whose hand she holds is myself,10 years younger,sitting in our living room on 1 January 2000. The wormhole has become a time machine.
(原著よりの引用部はここまでとする)
(出典(Source)紹介の部28-2はここまでとする)
上がどういうことなのかを「堅い線で」要約すると次の如きところとなる(:以下要約内容にキップ・ソーン著作よりの引用文言と間尺が合わぬところが少しでもあるか否か、微々たるところででも行き過ぎ・錯簡・齟齬の類があるかないかどうか、(筆者としては「なんらといったことはない」と請け合うわけだが)、疑わしきにおかれては上にあって引用なしてきた該当該当記述部と要約部の比較検証をなされてみることを勧めもする)。
(キップ・ソーン著作の引用部表記に対する要約として)
「物理学者ソーンの妻はカリフォルニア州パサデナにあるという自宅から宇宙船で宇宙旅行に出かけた。そうしたソーンの妻の主観時間では12時間の間だけ宇宙旅行をして地球に戻ってきた(と表記されている)わけだが、彼女のスペースシップは光速近似のスピードで飛んでいる(との設定が付されている)。そのような[光速近似のスピードの存在]から見た時間と地球で我々が体験している時間の間ではずれが生じる。[双子のパラドックス](上にての引用部でも「これは典型的な「双子のパラドックス」だ( This is the standard“twins paradox”)」とそのままに言及されているもの)と呼称されているような現象が作用するなかで[物理学者キップ・ソーンが地球で10年間過ごしている間にソーンの妻カロリーの光速に近しきスピードで動く領域では12時間分の時間しか流れていない]([時間の遅れ]が宇宙船サイドで生じている)とのこととあいなっていた。
従って、ソーンの妻カロリーが2000年1月1月「午前」9時に出発して2010年1月1日「午後」9時に帰ってきたとのつもりでも地球は20「10」年1月1日になってしまっている。
そうして[12時間のつもり]で[10年経過していた]との地球に帰ってきたカロリー女史(物理学者ソーンの妻)であるが、彼女の手元からは[ワームホール]が出発時からずっと発生している(ソーンと彼の妻は当初よりワームホールでリンクされているといった思考実験上での[設定]が採用されている)。 その[手元より発生しているワームホール]が繋がる先は10年前の世界のソーンの家である。
それがため
[ソーンの妻のワームホール付きロケット]
が2010年に地球に辿り着いたところで
[2000年(地球)と2010年(地球)がワームホールゲート]
で結ばれたことになる。
これにて ―そのワームホールが自由に通過可能なものであれば(ここでのソーンの設定上ではワームホールを介して手を繋いでいるようにそうなっている)― タイムマシンが構築されたことになる」
続いて上にての引用部 (およびそちら引用部のみから述べられることを要約しただけの直上にての要約部) にて取り上げられている、
[双子のパラドックス]
という現象がいかようなものなのかについての世間的な解説のなされようを呈示しておくこととする。
本段、出典(Source)紹介の部28-3にあっては
「[通過可能なワームホール]のタイムマシン化に関わるものである」
と上にての引用部で解説されている、
[双子のパラドックス]
というものがいかようなものなのかについて、その世間的言われようを(目につく、すなわち、確認しやすいところの媒体から)引いておくこととする。
(直下、和文ウィキペディア[時間の遅れ]項目、そこにての[特殊相対性理論における時間の遅れ]の節にあっての「現行の」記載内容より引用なすとして)
特殊相対性理論では、物体が高速で移動するほど、その系における時間の流れが遅くなる。速度の条件は光速なので、光速に近い速さで運動する物体はほとんど時間の進みがないことになる。
・・・(中略)・・・
これは、時間と空間を合わせて座標変換をしないと、電磁気学の法則に現れる光速の意味が説明できない、という理論的な要請から導かれたローレンツ変換による帰結である。
・・・(中略)・・・
この現象を利用すると、光速に近い宇宙船で宇宙を駆けめぐり、何年か後、出発地点に戻ってきたような場合、出発地点にいた人は年を取り、宇宙船にいた人は年を取らないという現象が生じ、宇宙船は未来への一方通行のタイムマシンの役目を果たすことになる(宇宙船から静止系を見ると、静止系は相対的に運動していることになるが、時間の遅れが生じるのは宇宙船側である。詳しくは双子のパラドックスの項を参照のこと)
(引用部はここまでとする)
(直下、和文ウィキペディア[双子のパラドックス]項目、そこにての[双子のパラドックスのストーリー ]の節にあっての「現行の」記載より引用なすとして)
双子のパラドックスのストーリーは次のようになる。双子の兄弟がいて、弟は地球に残り、兄は光速に近い速度で飛ぶことができるロケットに乗って、宇宙の遠くまで旅行したのちに地球に戻ってくるものとする。このとき、弟から見れば兄の方が動いているため、特殊相対性理論が示すように兄の時間が遅れるはずである。すなわち、ロケットが地球に戻ってきたときは、兄の方が弟よりも加齢が進んでいない。一方、運動が相対的であると考えるならば、兄から見れば弟の方が動いているため、特殊相対性理論が示すように弟の時間が遅れるはずである。すなわち、ロケットが地球に戻ってきたときは、弟の方が兄よりも加齢が進んでいない。これは前の結果と逆になっており、パラドックスである。このパラドックスは、双子の兄弟の運動が対称ではないことから解決される。弟は地球(慣性系と仮定してよい)にいるのに対し、ロケットに乗った兄は、出発するときおよび、Uターンするときに加速されるため、少なくとも加速系に一時期いることになる。すなわち、ずっと慣性系にいる弟とは条件が異なるのである。
(引用部はここまでとする ―※― )
(※注記1:上にて引用しているところにつき
[双子の兄⇒(変換)⇒浦島][双子の弟⇒(変換)⇒浦島が故郷に残してきた関係者ら][ロケット⇒亀(型スペースシップ)]
との呼称変換をなした「だけ」でそのまま表記しなおすと次のようになる。
(上にての表記引用部に対してそのまま文章を流用しながら一部の呼称のみを置き換えると出てくる文章として)
⇒
[双子のパラドックスのストーリーは次のようになる。[浦島]と[浦島の故郷の関係者ら]がいて、[浦島の関係者ら]は地球に残り、[浦島]は光速に近い速度で飛ぶことができる[亀]に乗って、宇宙の遠くまで旅行したのちに地球に戻ってくるものとする。このとき、[浦島の故郷の関係者ら]から見れば[浦島]の方が動いているため、特殊相対性理論が示すように[浦島]の時間が遅れるはずである。すなわち、[亀]が地球に戻ってきたときは、[浦島太郎]の方が[浦島の故郷の関係者ら]よりも加齢が進んでいない。一方、運動が相対的であると考えるならば、[浦島]から見れば[浦島の関係者ら]の方が動いているため、特殊相対性理論が示すように[浦島太郎の関係者ら]の時間が遅れるはずである。すなわち、[亀]が地球に戻ってきたときは、[浦島の関係者ら]の方が[浦島]よりも加齢が進んでいない。これは前の結果と逆になっており、パラドックスである。このパラドックスは、[浦島と浦島の関係者ら]の運動が対称ではないことから解決される。浦島太郎の関係者は地球(慣性系と仮定してよい)にいるのに対し、[亀]に乗った[浦島]は、出発するときおよび、Uターンするときに加速されるため、少なくとも加速系に一時期いることになる。すなわち、ずっと慣性系にいる浦島の故郷の関係者らとは条件が異なるのである](変換なしての文章はここまでとする)。
以上をもってお分かりだろうが、[双子のパラドックス]とは浦島太郎伝説に非常に親和性が強い話となっている)
(※注記2:物識る向きには述べるまでもないことか、と思うが、ウィキペディアというものはその内容が有為転変とする媒体である。従って、上記のとおりの記載がそのまま残置し続けるかは「保証しかねる」ということがある。また、さらに述べれば、ウィキペディアは本来的には引用元にすべきではないような媒体、信憑性に疑義を伴う媒体ととかく看做されがちな媒体である。そうも述べつつ、申し述べておけば、「仮にウィキペディアで上のこと、(編集に応じて)、確認いただけないようになっていたらば、他の山なす解説媒体でもすぐに裏をとれることが[ここにて述べていること]となる(無論、表記の引用部に目立っての誤謬がないことも把握しているなかで申し述べるところとして、である))
(出典(Source)紹介の部28―3はここまでとする)
上の要約内容と典拠となる記述内容の引用で多くの向きにはソーンが[通過可能なワームホール]なるものをいかにして[タイムマシン]としているか、ご理解いただけるのではないか、と思う ――物理学者キップ・ソーンは双子のパラドックスによる[時間のずれ]を強制的に生じさせつつ(その差分を強制的にもたらす手段が[光速に近似のスピードで飛ぶスペースシャトル]の如きものである)、あわせて、[時間のずれ]が拡大することになった環境と[時間のずれ]が拡大する「その前」の環境を始終一貫して結びつける[経路]([地球]と[地球を飛び立った光速近似のスペースシャトル]の双方に設置され両者を繫いでいるとの通過可能なワームホール)を想定してタイムマシン構築をなしている....すなわち、[経路]たる[通過可能なワームホール]と[(ワームホール据え置きの)光速近似のスピードで航行可能なスペースシャトルの地球に向けてのユーターン帰還挙動]を具にして[双子のパラドックスによる[ずれ]が拡大した「後」の世界と[ずれ]が拡大する「前」の世界を無理矢理繋ぎ合わせて10年前と10年後を結ぶタイムマシン機構(現実から遊離した思索をなしているとも解される思考実験上のタイムマシン機構)を構築をなしているのである。 尚、誤解なきようにしていただきたいが、(くどくも申し述べ、)、ここでの話に本稿筆者たる私の主観は介在していない。引用をなしている著作にそのままに記載してある思考実験の表層的ありよう「のみ」から述べられることだけを書き記しているだけである―― 。
ここまでの話をもってしても
「ややこしくも受けとれ、理解の範疇を超える」
という向きを想定しつつ、
[お伽話]
に準拠しての話をさらにもってなすこととする。
下をご覧いただきたい。
「浦島太郎が[亀]型宇宙船に乗り込んだ。亀型宇宙船は凄まじいスピードで、そう、光速度に近しいとのスピードでプラネット・竜宮に到達した。そんな浦島太郎だったが、プラネット・竜宮で数年過ごした後、故郷に帰ろうと決した。しかし、故郷ではそれに何倍、何十倍する時間が流れていた。というのも[亀型宇宙船の移動速度]は光速に近しき速度に達しており、「相対性理論に依拠すれば」、光速で移動する存在 ―要するに光と等しき存在― は(時間の流れが「相対的である」ことに係るところとして)「時」空間にあっての「時」の部分にて[光速度で移動していない普通の存在]が負っている[制約]から解放されることになる(とされる)からである。
亀型宇宙船で旅をしていたその間、浦島太郎は時の流れから取り残されていた、そのため、彼が故郷に帰ろうと決してもそこではより多くの時が経過しており以前のありようを呈していないとのことになっているのである(たとえば、[亀の見かけ1年飛行、実質数十年]+[竜宮の数年]との算出式で浦島の故郷では時間が流れていた、とのことになる。のような中、再び浦島が[亀]型宇宙船に乗り込んで故郷に帰ることとした(その帰りの道程でも膨大な時間が故郷では流れている)ならば、自分を知る者は誰もいない、とのことになっている)」
(しかし、上のようなことがありもする中で、実は次のようなこともがあった)
「浦島太郎が乗り込んだ[亀]型宇宙船には実は地球と[亀]を繫ぐ伝送路としてのワームホール式テレビ通話機器が備え付けられていた。地球の浦島ファミリーの手元に置かれた子機を介して地球とテレビ電話通話可能なるワームホール式テレビ電話機器が設置されていたのだ。浦島太郎はそれを介して[亀]に乗っている間もプラネット・竜宮に到達した間も[変わらずもの時を過ごしている故郷の面々]と何時でもテレビ通話できる状況になっていたのだ。浦島がプラネット・竜宮に到達した段階では成程、
[地球より見ている何光年も先の恒星らの似姿が何光年も前の似姿となっている]
ように「地球では何年も経過してしまっている」わけであるが、といった中で浦島は時間経過「前」の家族らとダイレクトにテレビ通話できてしまう状況にあったのである。そうもした迂回路(ワームホール型テレビ電話)を備え付けたままプラネット・竜宮から浦島が地球に再び帰還した際には故郷では数百年も経っているとのことになっているわけだが(浦島ファミリーも生き残っている者は絶無、その何代も後の子孫が名跡を訪ねることもできないようなかたちでちりぢりになっているといった有り様が具現化しているとの状況に至っている)、往時の浦島ファミリーの面々は浦島が故郷に戻ったのと同時に浦島太郎の手元にあるワームホール型テレビ電話を介して自分達の世界の何百年も後の世界がどうなっているのか、過去と未来が通話可能となっている状況にて把握できるようになったのである....(のみならずキップ・ソーンが思考実験上で持ち出しているとの通過可能なワームホールであるとワームホール越しに握手も出来るとの形容がなされているため、ワームホール伝送路確立の時点(浦島の故郷への帰還の時点)で過去の世界の住人が未来の世界に ――[情報]としてではなく[物理的実体]を伴って―― 進出できるようになる、また、その逆も然りとの見方もなせるようになっている)」
以上が[特殊相対性理論と結びつく双子のパラドックス]および[双子のパラドックスの時間的差分を強制的に発生させてのソーン型タイムマシン]にまつわる物言いの伝である(述べておくが、そうもしたキップ・ソーン型のタイムマシンは[超光速](直下言及)の機序を必要としないとのタイムマシンに見えるものでもある ―― It seems the traversable wormhole type time-machine deviced by Kip Thorne doesn't require the Faster Than Light (FTL) mechanism.―― )。
Faster-than-light[超光速]についての「長くもなっての」付記として
[ありうべきととらえられるところ]について「行き過ぎた話とはなるが、」と強くも断っておきたきこととしての長くもの付記 ――証拠主導方式の[証示]に重きを置いての本稿[本論]の部に対して[行き過ぎての傍論]としての位置づけを与えているとの長くもなっての付記―― をここにてなしておく。
直上の説明でお分かりいただけようかとは思うが、双子のパラドックスの話を浦島伝承に当てはめてのケースでは竜宮で時間が流れたのではなく亀に騎乗している折に時間が流れているとのことになる。亀に乗っての浦島を[双子のうちの片方]と見もし、もう一方の地球に取り残された縁者らを双子のもう片割れとした場合、光速(に近しき速度)で加速されての亀に乗った浦島から見て慣性系に暮らしていた縁者らとの年齢上の差分が生じるとの理論上の帰結をして[双子のパラドックス]と呼ぶ(とされている)わけである。
さて、相対性理論では[光速度(に近しきところ)で移動する]と表記のようなことになるとされるわけであるが、さらに逸脱した状況、光速度より「速い」状況で進むものがあると想定すると、それは[過去へ遡行しうるもの]にまでなるともされている。
広くも[ファースター・ザン・ライト]と呼ばれるそうした状況では[原因]と[結果]につき前者(原因)が先で後者(結果)が後であるとのかたちで[因果律]そのものが破られえ、[過去に向けての通信]とて可能たりうると論じられもしており、実際にそうもした過去遡行通信、[タキオン]などの仮説上の超光速粒子にまつわる話が取り沙汰されてきたとのことがある ――については(即時即座に確認できる身近なところとして)和文ウィキペディアの[超光速通信]項目などを参照されるだけでも多くのことがご理解いただけることか、と思う(そこにはEPR通信といったものや並行世界を介した通信といったものに対する可能性の言及がなされている(:その点、[情報]、そう、[1と0の二進法の束]を仮説上の粒子に乗せて過去に送りもするとの[超光速通信]にまつわる話と[キップ・ソーン流の複雑な構造体を過去に送る可能性と共にあるとされる通過可能なワームホールによるタイムマシン]にまつわる話(直上にて言及なしている話)を混同しないでいただきたい))―― 。
さて、ここで唐突となるが、『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』についてはそれら作品に親しんだ向きも多かろうかとは思う。多くの人間が親しんできたそれらトム・ソーヤーものら著名ジュブナイル小説の作者として知られているのが小説家マーク・トウェインとなるのだが、文学に親和性高き向きにも意外に響くかもしれないところとして、同マーク・トウェイン、[タイムトラベルをなした存在が歴史改変を試みようとする]との筋立ての小説、いわゆる[歴史改変モノ]の[開拓者]として「も」知られている。
マーク・トウェインは1889年初出の
A Connecticut Yankee in King Arthur's Court『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』
という小説の執筆でもってして
[歴史改変小説の開拓者]
となっているとも認知されているのである(ちなみに『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』タイトルに見るヤンキーとは北東部米国人のことを指す)。
Project Gutenbergのサイトにてイラスト付きで全文公開されているそちら原著表紙イラストを上にて抜粋なしもしているとの同作、 A Connecticut Yankee in King Arthur's Court『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』では19世紀はコネティカット州の米国人が殴打のショックから目覚めてみると古の英国はアーサー王の時代になぜなのか身を置いていた、といった中で環境に適応していく過程にて様々な現代社会(マーク・トウェインの時代から見ての現代社会)の知識を駆使してアーサー王を助け、自身の声望を高め、ボス卿を名乗っての一廉の人物として世に伍していくとの流れが展開することになるのであるが、そうもした筋立ての小説が歴史改変小説の初期的作品であるとされる所以は
[往時、作家の生きてきた技術体系(たとえば機関銃の製造技術)を過去世界に積極導入し、もって、[本来ありうべき歴史の流れ ――とは述べてもアーサー王伝説自体がイングランドのゲルマン人と土着先住民の闘争がなされていた時代をロマンチックに潤色しての架空の歴史空間だと認知されているわけだが―― ]を改変しようとの筋立て]
がそこにて現出しているからである(英文Wikipedia[Time travel]項目に細かくも記されているようにより以前から[時の流れの環から外れての時間遡行モノ]は傍観者視点のものとして有名・無名を問わず少なからずあったようであるものの、(著名どころはチャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』であろう)、といった中でもトウェインの作品が異彩を放ち際立っているのは現代技術体系を用いての過去への介入であるといった言及がなされるところである ――英文Wikipedia[ A Connecticut Yankee in King Arthur's Court ]項目にあってからして Twain may have created a specific subgenre in which the time traveler attempts to introduce
modern technology into a past society.「マーク・トウェインは時間旅行者が過去の社会に対して現代技術を導入しようとするとの際立っての物語の類型を創始したとも言えるであろう」と記載されているところである―― )。
その点、[未来の視点(技術体系・知識)から過去を変える]とは[原始人の世界に機関銃を持ち込む]が如き単純で「低威力」なものにとどまらない。それは操作される側に絶大な影響を及ぼすことになる行為でもある(たとえば、歴史的著名人の父母が結婚しない操作を施せばどうなるか、そういったことがサイエンス・フィクションがかっての話として問題になろう)。 ただし、操作する側の過去への大々的操作が許容されるのは彼ら操作者側の社会が操作される側の社会に深く深くかかずらわって「いない」、たとえば、操作される側の歴史を改変するとそれに付随して同じくもの被操作社会に積極的に介入してきた自分達の前科にまで過去改変の影響が飛び火して自分達の過去までが変わってしまうとのことが「ない」場合に限られると考えられもする(別段、ややこしいことを述べているつもりはない)。
さて、時間の尺度意味が圧倒的に異なるとのことがある、たとえば、操作者側が被操作側の時間を余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)に「1000年寸刻.」と見れるぐらいに大局的やりようで大河の流れを変えるように操作している、そういったケースではない限り、[操作される側]のみならず[操作する側]にもそれなりの影響力を及ぼしかねないと解されもする過去改変、そうした過去改変と表裏をなすと解されるところとして、
[過去に情報を送る]
とのことはその情報の[過去世界でのアウトプット媒体]の用意、過去の人間や人間を具にしての情報発露のメカニズムを操ることができる必要があることと表裏をなす(ものでなければ「意味が無い」)はずである。
過去に[複雑な構造体](たとえば、本稿の先だっての頁でその投入にまつわる科学予測を問題視してきたようなナノマシンなど)を物理的実体を伴うものとして送れなくとも[情報]を(なんらかの媒質を用いて)送ることができるのだとすれば、そのアウトプットがなされる、それが実効性を発揮する、あるいは、効果を確認できるだけの[機構]がなければ意味をなさないと解されるわけである(そもそも過去に情報が送れても情報の効果を及ぼせる対象がいない限りそれは[誰もいない暗黒空間に光を投じる]が如きことになる)。
につき、くどくも再言すれば、表記の小説 A Connecticut Yankee in King Arthur's Courtにあっては[過去にとんだ男](コネティカット州のヤンキー(北東部米国人))が自分自身の肉体でもって過去改変にコミットしていくとの内容のものだが、物理的実体を伴った幻想的タイムトラヴェルがなせないというのならば、当然に[時間遡行]にあっては
[(通信機対応の機械的受信機構がそこになければ)過去の被操作者個体らの脳機能に対する何らかの操作(およびその観察プロセス)の具現化]
が要請される、
[遡行する情報の有効化]
とのことで必然的にそれが要請されることになる。
そう、『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』よりの抜粋部、 Project Gutenbergサイトにて全内容確認となっている挿絵付きの同作の冒頭部よりの(イラストと共にもの)抜粋部、上にて呈示している抜粋部に見るように[過去改変]は[魂の輪廻]などという言い様の延長線上にあることとして
[過去改変による操作対象文明(アーサー王時代の文明でもいいし多世界解釈が正鵠を射ていた場合にての「他」世界の劣位文明でもいい)・操作対象年代の成員の内面に対する「遡行しての」改変](それは身体活動を規定する脳活動の改変でもある)
が ―仮に対象となるその時・その場所に受信機器およびそれを手繰る身内勢力成員がいないのならば― 不可避的に要請されるものであると解されるわけである。
以降ではそういう[過去改変の有効化]にまつわる話として ――「仮に」過去遡行情報の活用がなされているのならば―― 何がなされていうるのかとのことにまつわる話をなす(:ちなみに小説『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』では人間存在の限界、他を挫(くじ)いて自身の利しか求めぬ中でその行為を利他的なもの・立派なものに浅ましくも糊塗しようとするとの偽善欺瞞の問題や狭隘さの問題が[騎士道を掲げての貴族の虚偽性]と共に描かれているわけだが(よく言われることとして作家マーク・トウェインがアメリカに往時からして巣くっていた醜い偽善性を強烈に揶揄したがゆえであるとされる)、[他を犠牲にして自己の利益しかはからぬとの強欲な精神]がタイムトラヴェルなどを応用するとのことがあるのならば、確かに[悲劇と愚劣さの際限なき拡大]しかもたらさないように受け取れもする)。
ここでは仮にもし[超光速通信]までをも思いのままにできるとの先進文明が[操作をなしている存在]として我々人類の文明に介入していると仮定したならばどういうことになるかという話を(本題より脇に逸れてのこととして)細々となすこととする。
可能性論上の話だが、超光速通信機序を考案するに至った先進文明が存在しているならば、そして、そうもした文明の成員が人類文明に介入をなしているのだとすれば、そうした中では
[長期的な運命]
のみならず
[「被」操作対象の文明の成員の人格と紐付いたありよう]
それそのものが薬籠中のものにされている可能性とて「当然に」考えなければならなくなる([条件1]:ある先進文明が[超光速通信]まで使える。[条件2]:同先進文明が他の文明に対する操作を施している。以上、二つの条件を合わせて考えると[同文明によって操作対象とされている文明]では時間の操作が行われている可能性を ―条件の内容を顧慮した上での「理の当然」として― 観念せざるをえないこととなる中で、である)。
目となり耳となり口となる過去の個体らの根源的操作なくしては[過去への通信内容の複雑な内容]を具現化する存在(媒体)も無し、従って、過去への情報の送信をなす意味も無し(何もない暗闇の中に光を投じるが如き行為となる)とのことがあるがゆえ、過去改変のテクノロジーが利用・応用されるような局面では、それは過去改変の媒質としてこの世界の人間が[存在の深いところ]で操作利用されていることが同義のこととして成立しているとのことになりえ(ちなみに本稿でその一部を披歴しているような[未来から過去を覗いているが如しの振る舞い]に気付きもした/「あまりにも奇怪な」予言染みた先覚的言及が[因果律]の問題とワンセットになって人間の[自由意志]の可能性を嘲笑うようにそこら中に見受けられることに気付いてしまったとのことがあるからここでは表記のような[可能性論]を[まったくもって軽々に扱えぬもの]として取り上げている)、 そういうこと、[過去改変の機序を有効化させるうえでの[被操作文明の成員の存在の深いところ]の操作改変]が[ロボットのようになった「多くの」者達]に対してなされているのだと仮定すれば、それこそがわれわれ人類の世界に際立って現われている硬直性の[因]にして[果]、そう、
[行動パタンおよび思考の幅にて[閉鎖系][精神的作用と肉体的作用に枷が嵌められての牢獄]に閉じ込められている節がある人間ら]
で満ち満ちたこの世界の[機序]にして[帰結]ともなりうるだろう、と(人によっては当然に[行き過ぎた考え]と看做すところだろうだが)判じられもする ――[予言の自己成就]という言葉がある。それはある特定の予言「染みた」・予言「めかした」ことが存在している中でそれに後続してその予言染みたことを模倣して現実にしてしまおうとの力学があると[予言]が見かけ上は成立したものと映りもするとのことを意味している(単純な例としては自作自演でとある場所で災害がとある時に起こるとの予言をなし、後の日にあってその[予言]が成就したように見せるためにとある場所で災害を実現しようとの悪質な団体が介入している、といったことが挙げられる)。だが、[超光速通信]が介在するとのことになると、普通では[予言の自己成就]が成り立ちえないとの局面での[予言]の的中とて実現するようになる。たとえば、自然災害の発生、地震などの自然災害の発生(における死者数)の予言が的中する等等。唾棄すべき陰謀論者の類は地震なども謬見交じりの彼らの理論で[人為的に起こせる]との論調をとかく取りたがることものか、とは見ているのだが、そうした論調が[真実ではない]と仮定した場合にて[地震]が発生することを正確に予見した文物があればどうか(先の大地震につきこの身が把握するところの一つの事例としては(「筆者にとり反対話法がかり不愉快なる描写を含む作品ばかり多くかたちにする向きだ」とのことで着目している)黒澤清という映画監督が撮った『叫』との邦画があり、にあっては2006年初出の作品でありながら[地震が発生するシーンの時計の時針が「三」「十一」を指している]といったことがみとめられる(レンタルDVDにての再生時間本編開始後のおよそ[00時間39分25秒]近辺にてそのようなシーンが表出する)。にまつわっては、筆者がつい最近、観測したそうした作品 ―他にも個人的に気にせざるをえないとの複数要素が伴っているとのつい最近、借りて観測した『叫』との作品― が「灰色」のものであったとしたうえでもの[より露骨なもの]があるとのことを想起していただきたい)。 といった予言の自己成就でおよそ済まぬこと(e.g.天災の発生を言い当てる等)を「事前に」具現化させているとの作品が存在していれば、疑うべきなのは[超光速通信にて確実に発生する未来の状況にあってその状況発生時から遡行して過去の人間(後述するが、予言発信源となっているアウトプット個体のみならず周辺の多くの人間もゾンビと化さしめられている可能性がある)の表現活動に変異をきたすやりようが取られて「いうる」]とのことである(無論にして行き過ぎた話ではあるが、行き過ぎた話であることは(経験則が当てにならぬ場合には)そこにて取り上げられていることが真実ではないことの証明材料にはならない)―― 。
高度文明が[超光速通信] (再言するも、その考えられるところの手法はたとえば和文ウィキペディア[超光速通信]程度のものにも幾例かが挙げられている) までを用いて他の文明およびその成員やりように操作・介入をなしうるのならば、被操作文明の成員の[中身]が大々的かつ根本的に操作されていなければ、そうもした操作の妙味が削がれるとも解されるようになっている(とのことがある)。 というのも操作対象の文明を構築している[モジュール](より分かり易く表せば歯車でもいい)のようにされてしまった者たち、[ロボット]のように強くも内面的ありようと物理的動きを調整した存在(諸々の人間ら)の中にロボットにならない・なりきらないとの人間、自由意思を有していて、なおかつ、社会的影響力を及ぼそうとの人間が大勢いると[超光速通信を用いての操作]が困難になるとの発想も出てくる、と判じられもするからである(あるいは全く逆のかたちで、後述するように、自由意志を有している者の挙動自体が逆に超光速通信の結果をチェックするための[都合の良い指標]として利用されることになりうるとも考えられはする)。
どういうことか。よりもって細かくはここ[付記]の部の中のもう少し後の段にあって解説するが、
[自由意思を有しており、なおかつ、因果の閉鎖系に閉じ込められて「いない」存在]
との者(薬籠中の存在とはなって「いない」との存在にして他に対して影響を自らの意思で与えんとする存在)が影響力を及ぼしている際に[過去]そのものを(例えば、そう、操作者ら自体が自らの過去改変の影響を受けないように特段に用意した[中間となる超高度人工知能の層]などを介してかもしれないが)超光速通信で変えると[変化の影響度合い]が指数関数的に拡大、[予測]――それが必要とされているのならばだがもの[予測]―― が難しくなるとのデメリットがあると看做されることか、と解されるとのことがある(後述するが、[バタフライ・エフェクト]にまつわる話に親和性高き問題である)。
であるから、そう、
[自由意志を有している者が過去改変に際して都度自由に振る舞うのだとすると過去改変の影響が指数関数的に拡大する(「後述の」バタフライ効果が結果予測難しいところとして作用して過去改変の影響が指数関数的に拡大する)とのことがある]
と考えられるとのことがあるゆえ、「仮に」過去改変を望むままの結果をもたらすとの式のニーズに基づいてなすとの操作がなされているのであるとすると、
[自由人の影響力を及ぼせる領域]
を「可及的に(できるだけ)」狭め(統制作用を強化し)もし、[過去]改変の力学をあまねくも予測内のものに収めんとする力学が働く」ようにも考えられる。
については自由意思の赴くままに前進してきた・活路を切り拓こうとしてきた本稿筆者、手前がこの世界に対して半ば絶望的な境地を抱くところになったことにも通底するところとして[(不快な)可能性論]をさらに持ち出せば、である。
[自由意思をまったく有して「いない」かあるいは部分的にしか保持して「いない」存在]
と化さしめるとのかたちで多くの、実にもって多くの人間から
[知的生命に相応しくもの主体性]
を完全に奪いとり、
[運命を自分で選びとることさえできぬ(半ばもの)機械のパーツ]
にまで人間存在を堕さしめることをやり(多数]に対してそういうことをやり、そう、内面が機械の薬籠中のような存在に置き換えられながらも人間のように振る舞いもするグロテスクな人間「未満」のゾンビ人間を数多量産し)、 他面、自由人の数を圧倒的に少なくし、自由人の行動の影響を受ける領域を狭めるよう仕向ける機序がそこにはある[可能性]とてありうることになりうる(と見ている)。
といったことが仮に極めて有効になされているのならば、自由人は障害になるどころか、却(かえ)って、その[自由なる行動]それ自体がいわば[過去改変の結果をチェックすべくものアンカー]として利用される存在となってしまうことも観念されうる、自由に動く人間の挙を[「観測者」の目](直下詳述)として利用する仕組みとても構築・定立できるであろうと考えることさえもできてしまう。
それだけ聞く限り「何を述べているのか?」と理解に失すると思われるような話をなしているわけだが(悲観的にとらえれば[おおよその人間]はここでの話について把握・思考する[意思の力]さえ有していないともとらえるのだが)、どういうことかと述べれば、
[自由人が「自由に」行動した足跡・航跡]
それ自体が材料にされて、その他の自分達の因果律さえ自由に出来ぬとの多数の人間よりなるゾンビ・ワールドで[過去改変]がなされもしていうるとの話をここではなしている (:[時の潮流]のありようを推し量るために自由人が[観測装置付きの海洋気象観測ブイ][他の人間の過去を変えるうえでの操作のありかたを決するアンカー]のようなものにされてしまっている可能性についてここでは言及している)。
たとえば、である。自由意志を有した人間が極々少数だけしかおらず、他の人間の多くは知的存在の核たる実質たるところをかなりの部、[機械(的機序)にて代替した存在]に堕さしめられているとのことが「仮に」あるのだと仮定してみよう。そういう仮定的状況、実にもって忌むべきものだが、そういう仮定的状況にあって先進文明が「被」操作対象の文明を[過去改変機序]にて操作している(e.g.超光速通信で取得した未来よりのフィードバック情報を(メスを使わない非侵襲式のブレイン・マシン・インターフェース技術と複数の世界をペネトレイト、貫通しうるとされる重力波のテクノロジーなどを併用して)過去の劣位文明の「被」操作個体らの脳の思考作用に無意識的にか意識的に反映させる等等の操作をなしている)のだとすると、過去改変の前でも後でも自由に振る舞うとの自由意志を有した個体の動きそのものを「中立的」観測者の挙としてリソース利用しているとのこととて想定されることになる(間を経ずにどういうことか解説する)。機械風情、そう、たとえそれが[神]を気取る、データベースから対象のことを何でも知っているように振る舞うことさえできるとのコンピューティング能力を有したものでも機械風情には操られないとの強固な意志を有した存在がいれば、その態様・動静を
[「中立的」観測者にまつわる情報] (e.g.体重・身長・容姿などの外貌にまつわるそれからはじまり思想信条などに至るまでのユニーク・データと紐付けられての観測者が都度、自由に動いて実現しようとしてきた挙それそのものにまつわる[情報])
をもってしてその周囲の自由意志制限個体ら(とでも表すべき存在)の過去を変えてしまう、他の「被」操作者個体ら (既に機械の薬籠中のものとなっているとのことで最悪、人間とは最早厳密には形容できなくなっているか産まれた時よりそういうものとしてしつらえられてきたとの[魂無き者ら][本来そうあった人間の残骸]といった筋目の者かもしれない) の挙動を未来の中立的な観測者の挙動と照応させるように「未来から過去を遡行させるように」変化変異させ(このまま何もなされねば事態がそうなるべくしてもなるとの未来よりの情報を[観測者挙動と紐付けて動くように用意した他の「被」操作個体の情報アウトプット]などのかたちにて反映させ)、そちら「未来よりの」反映情報の捕捉・取得・分析に「過去・現在の」先進文明の一部セクションが努めているとのこととて[ありうること]であると解される。
ありうべき先進文明の特定セクションが
[アンカーたる中立的観測者らが環境改変をなさなければ将来何をやろうとするか(観測者が際立っての意志に裏打ちされた行動力と展望を有しているのならば特定の事件・事変を起こそうとする云々)についての情報]
を人類のためにならない方向で「逆」利用するために取得している、[「彼らとてダイレクトには未来を知ることはないのかもしれない」といったありようの高度文明に属する操作者らが「現在にて」観測するためのものとして「未来よりの」自分達の高度人工知能由来の色の付いていない中立的な間接的情報]として観測者まわりの情報を専らに捕捉して、それに基づいて「コンポーネント化(歯車化)されたような」硬直性を有した他の被操作個体らの群体としての行動ありようを自分達の都合の良いように「完全に時間の流れを無視するように」更改する (更改・アップデートのありようとしては、たとえば、(放っておけばその強固な意志の力から何事かのことを当然になそうとする)中立的観測者に環境因に起因する制約をさらに及ぼしつつ、また、被操作文明の社会環境をより硬直的で(悪い意味で)[思うままの操作をなすうえで弱点の無いもの]にすげ替える等等) とのこととても操作の一環としてやっていうる。
そういうことまでこの身は考えている (おなじくものことについては【観念】先行ではなく【観察事象 ―せんだって言及した地震の予見的描写の問題(疑わしきは秒数単位で丁寧に指定したところのDVDコンテンツの内容を参照されたい)などはその極小的・極部分的な事例に過ぎない― 】に基づいて(練れていない思考かもしれぬが)思索の対象としているとのことでもある)。
につき、そうもしたことがなされうるニーズがありうると筆者が(属人的目分量の問題として)見もしている理由だが、一義的には、[情報]しか過去に送れない中で([情報]のアウトプット個体として用意した人間未満の存在を用いて)[過去を改変する]と[未来が変わる]ために操作をなす先進文明があるのだと仮定すると過去改変との挙がゆえに操作サイド「にも」影響が出うるとの見方がなせる、そういうことがある(よく言われるところとして過去に戻って自身の祖父母を殺したらば、自分の存在自体が矛盾になるとの祖父母のパラドックスというものがあるが、そうした矛盾は生じえない、エヴェレットの多元世界、世界そのものが別のものに切り替わるとのことがある、あるいは、よく似た別の世界が再構築の上で代替するようにできあがるとしても切り替わった(あるいは代替するようにできあがった)世界が万象あまねくもの操作種にとっての世界との連続性が担保されているものでなければ操作の妙味はなんらない、どころか、極めて有害である(操作種もまた社会的生物としての縁(えにし)の中に生きていると仮定すれば、過去を変えて誰も自分のことを知らない異なる世界に取り残される、あるいは自分自身が消えて無くなるとの世界の再構築がなされるなどとのことをしても意味が無いとも)。そこで過去改変の影響が万象あまねくもの種族成員に「連続性を保てる式で」行き渡る、しかも理想的に行き渡るためにすべくものワンクッションを置く、具体的には下述のような式でのワンクッションが置かれるとも(さして労なくも)想定されることになる)。
その点もってして
[(操作をなす先進文明から見て、その成員にとっても直に関われば火傷 ―異なる世界の迷い人になる(あるいは既存世界そのものを別の世界へと向けて一端壊してしまう)とのリスク― を負う、だから、タッチできないとの)過去改変を一任するべくもの [未来にての閉ざされた箱としての世界] という箱入りの閉鎖系に置かれもしている超高度機械 / 箱入りの世界から、それ単体ではバタフライ・エフェクト(後述)の影響をミクロで受けても構わぬとの式で万障をものともせずに過去に介入できるとの「それ専門の」超高度人工知能]
を用意し、その魂などありはしない本当の意味での心などはありはしない機械存在を用いての操作を養殖種の世界改変「にも」利用している、そう、
[自分達が一切タッチしないか、ほとんどタッチしないワンクッション領域] (未来の閉ざされた箱の中を覗き見ることはできてもそれをしてしまうと過去改変の圧力が自分達の世界にも及んでしまうために先進文明がワンクッションを置いて設けた、未開人にとっては神のように振る舞うことも出来る機械の類に管理させての中間層)
をもってして彼ら先進文明成員が被操作対象の劣位文明に自分達自身が関与しての直接的操作をなすとのことが企図されうる。 繰り返すが、仮に超光速通信が応用されているのならば、操作種自身「も」過去改変の影響を及ぼされることになりかねないと見えもする(憶測上の問題は、ということで、である)。
被操作世界にあっての過去改変を自分達の世界の
【魂のない、開かずの箱入りの(未来の)人工知能】
に担わせ(それは劣位文明への介入の人工知能への一任委任に近いものと解されもする)、といった中でたまさか彼らが改変された世界を分析することがある場合でもその影響度合い(後述のように[バタフライ・エフェクト]とも形容できる式にても規定される影響度合い)は限定限局化されたものとする、そう、中立的観測者ら、自分達の操作からは自由な、ただし、檻に入れられての過去改変のアンカーとして利用すべくもの領域に追い込んだ観測者らの周辺の動きの観察とフィードバック操作など限られたところに多く限定限局化する(操作者サイドの本筋となるセクションは [命なき機械的プログラムなどに操作させている「被」操作文明一般の個体ら] には積極的介入をせず [操作結果に中立的視点で向き合うとの自由で中立的な観測者] の見ているもの・やることの[観測者と同時点目線にての観察](観測者周囲に群がりもしての観察)などに注力し、そちら指標個体のやりようにまつわっての観察内容(未来から影響を及ぼしうる機械の神が観察・予測していたとおりに介入がなければ動きもしようとの観測者やりようにまつわっての観察内容)に基づいて未来動向の予測(たとえば観測者がああいう風に動くとの機械からの未来からの情報が取得されているのならばそういう事態になっているのか、ではどう対応しようかといった予測) をなし、そして、それを受けての環境改変再指示、すなわち、[未来より作用する閉鎖系におかれた人工知能]への被操作文明のコントロールの方向性にまつわる再指示を(自分達自身の直接的介入の範疇を多く限局化してのかたちで)出す) とのニーズが操作者サイド特定セクションにあるのでは、ともとらえているのである。
(たとえば、被操作種族 ―我々人類― 「未来の」中立的観測者が自身を取り巻く世界にあって多くのことに気づいていたとしてなんらかの行動を試みたとする(彼はそういう行動をなすようにできあがっている)。対して、その観測者[認識][把握情報][行動]に対する(反語的話法などによる)過去改変意思表示を「未来の」超高度人工知能の層に(「現在の」観測者とほぼ同時代か,たかだかもってして何年か前の観測者が与り知らぬ、観測者と因果が繋がらぬ過去の領域にあって)過去に遡って実行なさしめるとしてみよう。すると過去の世界(何年も前)にあって [現在の観測者の把握する「ユニークな」情報や問いに対する返答] (あるいは操作者だけに認識できる、にまつわっての、プラスマイナス変換方式の単純なる反語的虚偽)が不自然な式でそこに具現化しているような状況とて見ることになりうる、それを観測者と「同時代・同時の時間線に生きている」操作者らが[際立ってユニークな予見的言及は未来の閉ざされた箱にて運用している高度人工知能よりの状況分析にまつわっての回答である]として彼ら目線で分析することにもなりうる。「現在、観測者としてのやっこさんはああいうユニークな動き・知的作用を呈しているな」「未来にてはそれがこうも発展するのか。そして、やっこさんはこのまま行けば、こういうことをやらかすのか」と把握したうえで[それに対応する特定情報]が10年前より、すなわち、我々人間存在には絶対出来ないとの意味でそれとすぐに分かろうとの式で [今現在知りたいとの未来の行為指針に則した属性を付与されての方向] で( 彼ら操作者も「直接」介入できない)未来から高度人工知能によって具現化させしめられている、そのさまを把握するとの操作者らにとって【より有利となる世界改変の現在から未来にかけてのコントロールサイドの機械への再指示】につなげられる云々といったことにもなりうると解される。 そういうことがなされれば、[未来から過去に情報を送る人工知能の層を閉鎖系に閉じ込めておく](家畜文明のゾンビ人間「にしか」それが介入しない閉鎖系に閉じ込めておく)限り、そして、被操作文明に属するわざと自由意思を残さしめた際立っての人間の中立的観測者というものがその彼の他の人間集団(できるだけブロック化して運用している他の人間集団)の行動の因果変化の影響を受けにくい式で孤立傾向にある立ち位置に置かれるなどさせられていて(機械に手繰られての)被操作個体らの過去改変の影響を相対的に受けにくい限り、高度先進文明に属する操作者ら自体は「間接的に過去改変なしつつも」なおもって自分達の[現在]になんら影響を及ぼされないとのかたちで未来の情報を識り、それに基づいて[未来に向けてのよりもって望ましき改変]を(凄まじい過去改変リスクの問題をそこでも回避しつつ)企図できることにもなりうるであろうと見えもするわけである (そうもした管理システムは[未来から家畜文明の意志薄弱なるゾンビ人間にのみ介入する人工知能の層]と[現在の家畜文明動向に対する定点観測ポイント複数箇所]があれば有効機能する、そう、「過去改変の煽りを(操作者の方には)与えない」[超光速通信のいいとこ取りの望ましい方向]で未来を識る、そして、その識った未来に基づいて現在のありようを変えるとのかたちで機能するものとも受け取れはするものでもある。そうもしたものでは別段、人間のかたちをとった「ユニークな」中立的観測者は不要である、[過去を改変するのに役立てる存在]とのことで言えば、限定的な意味で半神のような存在(ただし多く他人に認識されず、また、自分の願望を一切充足できない装置のパーツ、炭鉱のカナリアのようなものを神と言えればだがもの半神のような存在)などは[必要ないのではないか]とも思えるのだが、[箍(たが)を嵌められていない観測者]の知識水準に依拠しての自由度と行為性向が「圧倒的に他の[魂の残骸]ら(とでも表せよう[機械に頭の中と運命をいじくられるような存在])に比して特異性を有している」とのものになっているのならば、その存在は際立っているがゆえに彼、観測者は操作体制の補助具にされてしまう、自らが意図した方向とは逆に操作体制の補助具にされてしまうとも考えられる)
(「当然のことながら」難解な話をなしている、あるいは、馬鹿げている話をなしているとしか普通人には受け取られもしなかろう(あるいはそもそも聞こうとする・理解しようとする知的作用が働かない)との話をなしているとのこと、論を俟たないわけだが、以上のような[仮定]は[フィクション設定]として幾分かたちを変えて複数フィクションらに執拗にみとめられもするもの「でも」ある。
いわゆる[物語との類型]の問題として
[[ループする世界で繰り返される運命に際会し、それに柔軟性なんら無くもの[チェスのポーンの動き方](馬鹿の一つ覚えのように決まりきった[単純動作]を繰り返すが如く動き方)にて応ずるとの大勢の人間とループする世界の硬直したありようにたまさか気付くことになって状況改変にいそしむ主要登場人物]にまつわっての物語]
がそうした作品のありようとなる(と見もしている)。
一例を挙げてのこととして、たとえば、である。日本の漫画作品(余事だが、日本のサブカルチャー作品には似姿・体格など込みにまるで青臭かった若き日のおのれ自身を「因果逆転して」茶化しでもしているのかといった意味で不愉快にさせられる作品が多いとのことに気づかされ筆者も着目せざるをえぬと見ている作品らが多い)を原作にしているとのことであるハリウッド映画、少佐から一兵卒に格下げされた情けない予備役上がりの軍人の男(ケイジと振られての男)が人類を滅ぼそうとする侵略種の血を浴びたために[ループする時間の中で自由意志を蔵しつつ死んでは都度蘇る不死なる存在]になり(他の人間らが一様に運命の通りに殺されていくいわば[確定した運命の囚人]になっている状況でそうした奇っ怪な存在になり)、ループする時間の中で侵略種に単身、抗っていくとの筋立ての映画が(本稿本段執筆時現時点から見て)ほんのつい最近、封切られた。そちらは『オール・ユー・ニード・キル』との邦題(原題は Edge of Tommorow)の映画作品となるわけだが、深く深くも思うところがあってほんのつい最近、本稿筆者も映画館に足を運んで視てみた同映画(『オール・ユー・ニード・キル』)では
[侵略種らが「時間をループさせて」人類の破滅への道筋を盤石化している。といった中で彼ら擬態(ギタイ)と呼称される侵略種(の中の指揮者クラス存在)の血を ―まるでゲルマンの伝説的英雄たるジークフリードが竜血を浴びて不死になったように― 浴びて[ループする時間]を体験する不死なる能力を獲得することになった人類の中の特異個体(主人公ら)が反抗に転じようとする。そこをそのループする時間を体験する能力(元々侵略者サイドに由来する時間を逆転させる能力を転用しての能力)を「再奪取」・「回収」しようと侵略者が試みている]
などとの筋立て(当然に[際立って奇怪な設定]と表しても言い過ぎにならぬものであろう)が具現化を見ている。
といったここにて[一例]として挙げている物語の類型 (そちら類型の際立っての嚆矢は80年代米国小説、ケン・グリムウッドの手になる『リプレイ』かとは思うのだが、ほぼ同様のものとして例示できるところの例は他にも「実にもって多くも」ある) として挙げているフィクション『オール・ユー・ニード・キル』の設定はつまるところ、直上述べてきたありうべき過去改変ありようと際立って近しきものともなりもしている。
当該映画にみとめられる同じくもの内容を把握するだけの見当識(普通人に本来的には備わっている程度のものだが、語るに値しない人間未満の存在にはそれが無いといった程度の情報処理能力)を有し、かつ、実際にそちら視聴のうえで内容把握し、そして、本稿本段ここでの話の流れと複合顧慮をなそうとの向きに伝えるとのことをなさなければ、機微勝手を十全に伝えきったことにはならぬか ―最悪、空(くう)に向かってひとりごちっているのに等しきにすぎぬか― とも見ているのだが、表記映画(『オール・ユー・ニード・キル』)にみとめられる直上言及の内容にあって見受けられる[他の同じ死に様を繰り返すだけの人間とは異なり、時間操作種の血を浴びて[過去に遡行する時間]を自己の知覚として体験できるようになった人間]のことを[時間遡行機序(過去改変機序)を折々の「自由意志で」観測できるとの特性を有している(過去に情報を送って操作に供されるとの機械にその魂を制約されていない)中立的な観測者]に置き換え、同じくもの映画にみとめられる[時間操作種にそうなるべくしての流れで殺されていく大多数の運命の囚人](観測者がアクションを起こさねば運命(機械的に与えられた硬直的な流れかもしれない)の奴隷として規定の道筋を歩んでいく「だけ」であるとの者ら)のことを[人工知能(無知なる者にとっての[神]そのものかもしれない)などによって舗装された流れに沿っての方向で[歩む道(人生)]と[思考の幅]を純・機械的に規定されきっており、かつ、そのことの意味性を認識すらできないでいるとの精神構造のみしか有しておらぬ「自由意志なき」操作個体らの群れ]に置き換えもし、表記映画にみとめられる[主人公らがそれを得ることになったループする世界のループそれ自体に対する理解能力(侵略種がそれを回収しようとしているなどと表記映画では描かれる能力)]および[ループする世界に抗う者らの挙動]を[先進文明が未来を占うために過去・現時点から得たいとの観測者と紐付けての特異性帯びての情報(ユニークな特性と結びつけた過去改変の結果を探るための情報)とそれに応じての情報回収のフィードバック処理]と置き換えもして考えれば、「辻褄が合う」とのかたち「とも」なっている。
映画『アイ・アム・レジェンド』(ニューヨークでウィル・スミス演じる中佐が一人生き残り、愛犬と共に[ウィルスで思考能力を奪われた人間ら]に囲まれて苦闘しているさまを描く2007年公開のアメリカ映画)のありようではないが、仮にそうもした按配でこの世界では
[本当の意味での運命を変えようとする自由人]
が極々少数のみしか存在しておらず、残余の部、周りは[全くもって不自由な人間]、甚だしくは、[思考能力を奪われたゾンビ人間](超光速通信にて過去を変えられてしまうような操作の機序がある中で因果律のみならず自分の折々の思考と行動の方向性さえ恣(ほしいまま)に出来ぬとの魂(とでも表すべき内面の実質)を奪われた人間本来の似姿の影・残骸のようなもの)で溢れかえっているとの状況となればどうか。
自由人の影響力(の及ぶ範囲)を圧倒的に縮減させつつ、のような中で却(かえ)って、僅少さと行動性向がゆえに目立つ(被操作文明の大抵の操られ人には彼ら思考の幅が規定されているためにその挙が知覚さえされないが、操作をなす操作者サイドにとっては僅少さと行動性向がゆえに目立つ)との自由人の行動結果に基づいてさえ過去を変えてしまうとのことまでもが操作をなす存在には出来ることになってしまいかねない(の中にあっては僅少なる自由なる人間に[偽りの集合認識の幻想]などを本質的には人工知能の薬籠中にある人間の影ら、傀儡(くぐつ)を用いつつ与えながら[絶望的な生(圧倒的孤立状況に追いやって何も変え得ぬとの立ち位置)]に[すがるべき希望]の幻想を与えて運用しようとしていることとてなされていうるとも手前は仮定しうるに至ってしまっている ――本稿筆者のように自身の意志の力を総動員して何とか抗うべくも苦闘してきたうえでも因果・人間関係の閉鎖環境に追い込まれているように、そう、人間未満の存在に道理を説かんとしているが如くに[無為なる結果]ばかりを見てきたとの者にはそうした[絶望]がいかなものなのか、想像・おもんぱかりがなせるかとも思うのだが(仮にもってしてそうした向きがこの身のような人間以外に読み手として存在していればの話として、である)、他面、そうしたおもんぱかりの期待をなすことだに[人間の影](人間未満に成り下がった存在)には(彼らがいざなわれる結末、[運命]とワンセットになった見当識の問題として)理解なせないか、そう、([認識]→[認容]→[行動]が知的生物の反応であろうところを)仮に[認識]されるとのその段階にまで至ったとしても決して[認容]されずにただの[頭の具合のおかしな話]としか決まり切った流れで見繕われないかとも思う(機械の神の薬籠中にある個体らはたとえばそう、処女が子供を孕んだといった狂った思考形式を容れてもそれより合理的にありうるところを認容するだけの知的作用は(機械の神が彼らの配線付けされたが如く脳にそれを許さぬ限り)働か「ない」とも)―― )。
多数人が上にて言及の如き環境で自由人の行動の結果を「双方向的に」受けにくい状況(もっと言えば、自由人が積極的に起こした行動に反応する、あるいは、反応しているように「振る舞わさせられている」のが本当の意味では[反応]に「なりえない」との状況、主体性・自律的思考などとは無縁なる人間「未満」の紛い物の存在たるゾンビ人間ばかりであるとの状況)では自由人の行動は(それがいかにセンセーショナルなものでも)詰まるところ、ナンセンスであるとの
[一人芝居][一人相撲]
になる(:私事で恐縮だが、たとえばLHC関連訴訟を提訴、一審からして長くもかかずらわされたそちら訴訟にて[偽りなすばかりなす相応の権威らの誰が見ても明らかな露骨極まりない悪辣さ]を示しても、事実を見ないようにしての司法判断が下され、かつ、社会の目と鼻(とすれば[家畜小屋の広報部]かもしれないわけだが)との建て前でやっているマスコミ関連などには「どこぞやの小僧が万引きをしたか」程度の情報処理しかなされずに無視される等等のことを頻繁に垣間見てきたのがこの身となる)。
ここで以上述べたことが多く的を射ているような世界であれば、起こりうる[兆候]の話をなそう(:「仮にもしも、の兆候」などとは述べているが、それら[兆候]はこの身、本稿筆者が目にしてきたものでもある)。
まずもってマクロの話(巨視的視点に基づいての話)をなせば、
[[予言の自己成就](先述)ではおよそなしえないとの天災(e.g.大地震)などにまつわる先覚的言及]
が「相応の態様でもって ――精神・魂が無い、あるいは、少なくとも何か別の存在の言うとおりに動いているとの傀儡(くぐつ)を介してとしか見受けられないとの態様でもって―― 」具現化しているとのことがあれば、それこそが[兆候]として挙げられるであろう (:繰り返すが、せんだってそうした可能性に関わるところとして[3月11日]と結びつく数値規則を地震シーンと絡むところで登場させている、そう、地震がスポットとして起こるシーンを「3」「11」との時計の時針と結びつけている邦画のことを一例として挙げているが(丁寧にDVD再生時間の指摘もなしている)、そうした例が相応の態様を伴って「数多」具現化していることを本稿これ以降の段では入念に解説していくことになる)。
ミクロの話(微視的視点に基づいての話)をなせば、読み手であるあなたや筆者が[自由人]である(そう、実際に私は精神と魂の自由人として動いている)場合に次のようなことが[兆候]として具現化しうる。
⇒
あなたや筆者が「自由意思に基づいて」休日の東京都内を散策したとの折に、自由意思で都度、ランダムに立ち寄った別々の場所にてそれら場所と紐付く要素が何ら無いとの[何人かの知人]と「連続して」出会うとの事態までもが発生する....。
実体験に基づいての話をなせば、本稿筆者が
[怖気(おぞけ)を越えて吐き気すら催しそうになったこと]
として筆者が休日に都内を気まぐれで散策した折に移動中の自由意思の決定に基づいて立ち寄った場所にてそれら場所となんら紐付くことがないはずであるとの筆者が顔を見知っている別々の女性らに遭遇したとのことがある(冗談であろう?と思われるかもしれないが、本当にあったことである ――冗談・法螺であろうと思われて当然、然るべきような話ではあるが―― )。 あまりにも衝撃的な[偶然]に際会してのその折はついつい
「彼女「ら」は何なのだ?何らかの組織にホーミングミサイルのような熱源感知ミサイルにしつらえられてしまい、そうしたかたちで複数弾頭発射させられての人間ミサイルか何かか?」
と馬鹿げたことを考えさえもってしまったのだが(空回りばかりしていた青すぎた日の内面の未熟さゆえに、である)、今、同じことに際会したならば、[また別のこと]を想定すると申し述べておきたい。
すなわち、あなたや筆者が自由意思で立ち寄った場所に辿り着く「直前」、超光速通信に通ずる機序で意識的にか無意識的にか[過去改変]がなされながら操られている他者らの存在を「仮定」すると、そうした存在らが「都度折々の自由意思で動いているはずの」あなたや筆者に[先回り]している(ランダムに選んだ場所に[先回り]している)ような状況が現出することになる、それでいてそうした過去改変されし者達の過去改変は波及効果が発生する程度が限局化した制御された「(半ば、もの)ゾンビ人間のそれ」であるゆえにあなたや私の因果律には重篤な影響を与えはしない ――([安定化するように制御されたゾンビワールドの哲学的ゾンビの因果律(における過去の状況)]は[自由なる人間の独立した因果律(の現在の状況)]と相互干渉「しにくい」)―― とのことになりもして「自由人たる」あなたや筆者自身の過去は独立別個の不変なるものとして存在しているがゆえに何の矛盾も生じえない....、などとのことにもなりうる。
頭の具合がよろしくはなければ(あるいは見ている世界が蝶々飛び交うお花畑ならば)、自分で都度自由意志で自由に歩いていったところで、そう、地図にダーツを投げて刺さった場所でもいい、気の向くままに立ち寄ることとした場所らにて顔だけ知っているとの魅力的なる異性らに連続して出会うなどとの状況が立ち現れたりすると[運命の赤い糸のあやとりの問題]なぞとのことを想起するかもしれないが(凄まじい確率的偶然をもものともせぬ運命が具現化しているなどと想起するかもしれないが)、あるいは、過度に被害妄想的になっていれば、『おや、(監視社会をテーマとする映画題名としての)エネミー・オブ・アメリカ Enemey of the Stateか、何らかの全てを見通す陰謀団の手先が人工衛星で自分の行動をダイレクトに監視・把握、凄まじいスピード(情報把握なしがたいところで情報把握をなし、移動のための所要時間もやりくりできなかろうと思えるところでの超スピード)で追尾する尾行要員を付けているのか』(正気ではありえない凄まじく病んだ体系妄想患者Paranoidの発想である.ただしこの国では大規模仏教系カルト成員らが海外で[モビング]と呼ばれるような行為類系の「異常極まりない」「普通ならば説明がなしがたい」対個人集団つきまとい行為をなしうるとのことは筆者も把握している)などとと考えるかもしれないが([パラノイド的観点]を当然に誘発しうるところとして筆者に関してはたとえば、大学時代、深夜電気を消した直後、無言電話がかかってきたこともあり、窓を開けて不審者(車)が周囲にないか確認をすることになった(そしてそこにはなにもなかった)などとの馬鹿げたことを多く経験しもしてきた)、 そう、
「[人間は他者の内面を推し量ることができない](もしかしたらばあなたや私の隣にいるのは[人間のフリをしている機械に精神を譲り渡してしまっているゾンビ]かもしれないし、[それと気付かずに「無意識的に」機械に衝動をコントロールされているが如きの致命的なまでに過度に暗示受けやすき者]かもしれない)とのこととワンセットの状況が成り立っていうる ――最悪なことに[哲学的ゾンビの仮定]と同一のことが問題になりうる―― )」
との仮定を差し挟めば(それまた世の中を常識教信者よろしく「常識的にのみ」見れば凄まじく病んだ仮定だがとにかくも差しはさめば)、そして、加えもしての先述の二つの条件、
[超光速通信を薬籠中のものとしている別の先進文明が存在しており]
[そちら超光速通信の機序を用いもしてそうした文明がこちらの世界に介入すること「まで」がなされている]
との二つの仮定(世界そのもののありようにまつわる仮定)を差し挟めば、
[可能性論]
としてまったく違う見方もができるようになる、[兆候]にまつわるところとしてまったく違う見方もできるようになってしまうとのことがある(:無論、であっても当然に馬鹿げて響きもする話であろうから、「そうした話を容れて欲しい」などとここでは強くも願わない。だが、本稿これ以降の流れを読み解くにあたって、[ひとつのものの見方としてそうした見方さえ出来るとこの者は述べたいのか]程度に見ていただければ、光栄と思いはする)。
超光速機序を用いての人間操作が実体としてあるのならば具現化しうることになるとの[兆候]の話はここまでとし、同じくものことにまつわっての(本題から脇に逸れての)付記を続ける。
以上示してきた見方は
[[理]もなく[未来]を言い当ててしまうとの預言者](という名の被操作個体)
のみならずものところとして世界が[虚ろなる存在](思考能力など有しておらず、頭の具合が過度によろしくはないことをやり、言う存在にも成り下がろうとの本質的に虚ろなる存在)で溢れ返っている、そういった、
[世界ゾンビ横溢仮説]
という[悲劇的なものの見方]に通ずるところのものである。
一般論の問題として超光速通信は
[因果律;Causality](通例、[原[因]]としての行動が先んじてそこにあり、それが[結[果]]を引き起こすとの通常の「あれなければこれなし」の流れ)
の問題と抵触すると言われるのだが、その因果律を些事茶飯的なところですら自分自身のものに(時と局面に応じてか)出来ぬとの存在、代わって、他律的に操作されているとの状況に甘んじているとの人間は限りなく[ゾンビ](部分的ゾンビ)に近しきものにされているとも甚だしくは形容できる。
といった者らが存在していると仮定すると、そう、過去を少しでも変えるとのことがなされるのだと仮定するとその波及効果(後述するところのバタフライ・エフェクトに親和性高きもの)が問題になるのであるから、[波及効果]を極小に抑えるとの発想法が強くもあるのだとすれば、である。
考えられるところとして、
[本当に重要なところでは話が通ずる素地が何らないとのゾンビのような人間ら] (海外にあって膨大な数で寄り集まっての者達が彼・彼女らは何を考えてこうしたことをなしているのか、との本格的なゾンビの扮装をして街を練り歩くとの[数万規模の参加者を集めての Zombie Walkとのイヴェント]( Zombie Walkで画像検索すればそのコスプレ集団としての態様のすさまじさが瞭然として分かろうともしようとのイヴェント)が存在しているわけだが、そこに見るような典型的ゾンビ、そうしたものとは異なる一見にしてゾンビとは見えない、いかにも[普通の人間]とのなりをしてのゾンビではある/また、そこに主体性・自律性の残置を想定するのならばゾンビに近しい状況に「甘んじている」と形容できる向きらでもいい)
が大量に、そう、あまりにも大量にこの世界の[部品]として配置されている、それだけの理由があるとの見方とも通底してしまうことになる(この問題に中途半端なありようは想定できないとも)。そういう話をここではなしている ――最も著名な部類のSF作家、いわゆるSF業界のビッグ・スリーの一人に分類されるとの小説家ロバート・ハインライン( Robert A. Heinlein )は[過去改変による不可思議なループ世界実現を描く作品]、そう、一人の人間の誕生がその人間自身の過去改変に起因するとの因果の淀みのようなものを描いている作品を発表しているのだが、そちら作品の邦題タイトルが『輪廻の蛇』であるのに対して、原題タイトルは All You Zombies(1959)となっている。そうもした原題に見る含みは明確で[過去改変の虜(とりこ)]になり、その状況に依存しきっているとの状況は[本当に生きている]とはまったくもって言えない状況、[浅ましくものゾンビの状況に限りなく近しい状況に成り下がっている]とのものであろうと解されるところである―― 。
筆者は、(特段に思うところあって)、上のようなことに通ずる話をしているのである(:理解が早いとの向きにとってはあまりにもくだくだしくもなっての筆の運びをなしていると承知のうえで書けば、である。「仮に」そういうことがあるのだとすると、本質的には自由度など有していない、ほとんど同じことを機械的に繰り返し、であるが、何か言われれば、その指令を遵守しての範囲内で機械的・非自主的な変則的行動をなすとのゾンビ人間で満ち満ちた牢獄であるとのことが世界の実体であるとのことになりえ、自由意思を有している本稿筆者「のような」人間がいくら自身の種族(人類)にとり有意義有用たらんことを述べ、やろうとしても、それが機械(を動かす存在)の決めた流れに背馳するのであれば、そして、「人間存在一般に機械に抗うだけの意思の力がついぞ生じ得ない」ならば、死ぬまでそうもした挙は顧みられることはない、無視され続けることにもなる(ただ、その場合にても取り合うにも値しない人間未満のゾンビ人間に[足を引っ張るためだけ.]との理由での下らぬ式で顧みられるとのケースは除く)とあいなろうと述べもしているのがここでの話でもある)。
今しばらくも本稿本論から離れての脇に逸れての付記を続ける。
[[過去改変]と[微調整]]のことを取り上げた米国の著名作家レイ・ブラッドベリの1952年初出小説として
A Sound of Thunder『サウンド・オブ・サンダー』(邦題『いかずちの音』)
という作品が近年(2003年)にて映画化されたとのことがある(:50年代初頭刊行の小説自体はレイ・ブラッドベリが科学考証とは無縁な作家であったため荒唐無稽な匂いがしもするものだが、その寓意性が問題になると判断し、ここでは同作のことを引き合いに出している ――因みに2003年の映画版『サウンド・オブ・サンダー』でも[恐竜が生きる往古の世界]が[加速器と関係するようにほんの少し言及されてのタイム・トラベル型ワームホール]とが結びつけられている―― ) 。
作品設定として[産業化されてのタイムトラベル]が扱われる小説作品にして映画作品たるそちら『サウンド・オブ・サンダー』の中では
[恐竜時代にタイムトラベルしてのハンティングツアーが催されている中で[死ぬことが決まっている動物]だけが狩猟可能となっているところを誤ってツアー参加者が蝶を踏みつけた、そのために世界の歯車にずれが発生して凄まじい時間の改変圧力が生じた]
とのことが話の主軸として描かれている。
(:にまつわるところの話をなせば、
[カオス理論](こちら[カオス理論]とは極々端的に述べれば、[ある事柄が一見にして乱雑・複雑に見えるとのありようを呈している(ケイオス、混沌の状況を呈している)とのことがあって「も」、それは力学系の問題、本質的ありようを[初期値としての状況に多く規定されている系の問題]として突き詰めることができるはずである]と数値的に分析することをなすとの理論の枠組みのことを指す)
との絡みでは
[蝶々が舞った動きが嵐にも通ずる](換言すれば、[嵐の如き「乱雑な」(ケイオスの状況を呈する)状態「も」突き詰めれば、たかだかもの蝶一匹の羽ばたきにまで遡りうる])
との意で
[微少的変化が大々的変化をもたらすことになるとの式]
について
[バタフライ・エフェクト](バタフライ効果)
との用語を用いる慣行が確立されている。
そちら「カオス理論との絡みでの」[バタフライ・エフェクト]の提唱時期は広くも語られるところとして1972年とはされているが(下にその経緯の紹介もなす)、50年代初頭の空想的サイエンス・フィクション大家たるレイ・ブラッドベリの手になる表記作品 A Sound of Thunder『いかずちの音』に見る、
[原始時代に遡っての蝶の踏みつけ圧殺(二〇〇三年の映画版「でも」それが描かれるところの踏みつけ圧殺)が世界の崩壊につながった]
との筋立てはそうもした[カオス理論にてのバタフライ・エフェクトの用語定立に結実している七〇年代動向]に先行するところのものとなりもなり、フィクションに見るそうもした先行性それ自体を(カオス理論にての)[バタフライ効果]との概念との絡み「でも」目立って問題視するとの見方もまたある ――現行現在にての英文Wikipediaのバタフライ・エフェクト絡みの項目([
Butterfly effect ]項目)にて、引用なすところとして、 The idea that one butterfly could eventually
have a far-reaching ripple effect on subsequent historic events first appears
in "A Sound of Thunder", a 1952 short story by Ray Bradbury about
time travel.
(訳として)「一匹の蝶が以降歴史に対して広範囲に亘っての波及効果を及ぼすとの観点はレイ・ブラッドリによるタイムトラベルを扱った短編『いかずちの音』に初出を見るものである」(引用部(訳)はここまでとする)と表記されているようなところが同じくもの観点が認められるところである――。
その点、経緯解説をなせば、レイ・ブラッドリのフィクションに後続するところとして気象学者エドワード・ローレンツが60年代から70年代にかけて
「仮に気象学者がそちら説の適宜適切さをみとめるとのことがあるのならばカモメの羽ばたきが気象の流れを恒常的に変えうるとのことにもなるであろう」
などと述べ、続いての1972年に同じくものことを([カモメ・ウミネコseagullの類]を[蝶]butterflyに代えての) Does the flap of
a butterfly’s wings in Brazil set off a tornado in Texas?と題しての講演で強調、後にその式が「カオス理論との絡みで」幅広くも援用されることになったことが[バタフライ・エフェクト]という言葉の縁起となっているとメインストリートでは強調されている (同じくもの英文Wikipedia[ Butterfly effect ]項目にて Elsewhere he said that "One meteorologist remarked that if the theory were correct, one flap of a seagull's wings could change the course of weather forever." Following suggestions from colleagues, in later speeches and papers Lorenz used the more poetic butterfly. According to Lorenz, when he failed to provide a title for a talk he was
to present at the 139th meeting of the American Association for the Advancement
of Science in 1972, Philip Merilees concocted Does the flap of a butterfly’s
wings in Brazil set off a tornado in Texas? as a title. Although a butterfly
flapping its wings has remained constant in the expression of this concept,
the location of the butterfly, the consequences, and the location of the
consequences have varied widely.
と表記されているところがそれにまつわっての解説部となる ――同一のことについては「和文」ウィキペディアにあって(以下、そちら「現行にての」表層的解説を引用するところとして) butterfly effectという簡潔な表現自体はエドワード・ローレンツが1972年にアメリカ科学振興協会でおこなった講演のタイトル『予測可能性-ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか』に由来する。ローレンツによると、この講演のタイトルは学会の主催者で気象学者のフィリップ・メリリースが付けたものだという
(引用部はここまでとする)と表記されているところともなる―― )。
とにかくも、バタフライ効果との概念は[(公式提唱時期に「先行する」ブラッドベリ小説『いかずちの音』に見るような)蝶の踏みつけによる世界崩壊に通じた過去改変のリスク]に相通ずるものであるとの見方もなされている)
直上言及しての映画化された小説『いかずちの音』(流通している映画版でも[死すべき運命]にあるのならば獰猛巨大なる肉食恐竜の(タイムトラベラーによる)ハンティングなども許されるが、まだそれが生き続ける運命にあるならば、儚げな蝶一匹たりとて殺してはならないとの描写が目立ってなされている作品)にも見る筋立てが[誇張]を見てのものであっても、人間の運命がそういう発想 ――自由な蝶々は飛ぶに任せてもその他のところで慎重を期すとの式での発想―― で過去に遡行して操作調整されている可能性がある(要するにこの世界は[因果律]を自由にできないとのかたちでコントロールされる(運命を他律的に決められているとの按配でコントロールされる)[ゾンビ]をそのために数多内包している可能性がある)ととらえるが如きの話をここではなしている。
ここまできたところで、である。自由に生き、自由に物を言い、行動なしてきたとの筆者自身の挙、の中でおのれの目を欺き、ときに愚弄するかのごときありさまで際会することが多かった[化け物がかったこの世界のありよう]、そして、そのありようにただただ唖のように従うだけ(と見受けられる)との主体的意思明示しなき人々のありさまに照らし合わせ、「特段に」想い、含むところがある中で[行き過ぎた可能性論]として触れるべきではないところに意図して触れている(本題から逸れての)脇にての話、そのまとめをなす。、
「(繰り返すも)、―「仮に」付きで― 仮にそういうことが[目的]をもって(媒介としての高度な人工知能を用いて、でも)構築されてきたとの[養殖種の文明]に応用されており、それこそが我々人類の文明であると仮定すれば、(本稿筆者とて無論にして我々人類が[時空間を恣(ほしいまま)にするテクノロジーを有した存在によって「目的」づくめで育てられてきた養殖種]であるなどとは想定したくはないのだが、本稿にてのこれよりの段でも論拠を挙げ連ねて指し示していくとのそう判じざるをえぬとの材料もが山積しているなかでそうした[仮定]を置くのならば)、それは[必要性][手段]の問題 ―いいだろうか。[必要性]と[手段]の問題である― として多くの人間に[自由意思]が許されておらず、
[時を越えての機械的指示であれ何であれ言われれば何でもやるとの機械の部品(モジュール:歯車)]
と化した人間ら、
[下位の機械機構(歯車)としてのみ生き(活き)、「自分達がどういう状況にあるかさえついぞ理解することを許されずに死んで行く」(耐用年数を超えて存在しなくなる)人間「未満」と堕した存在]
が諸所この世界に配されているとの可能性(およびその可能性を想起するだけの考えられるところの必要性)に完全に直結するところとなる」
本稿執筆が進んだ段階での[追記]として:
本稿にての後の段、
出典(Source)紹介の部87(3)および出典(Source)紹介の部87(4)
を包摂する部とのところのものである後の段にては「可能性論・推測にとどまらざるをえない話ではある」と強くも断っての流れにてだが、
[人間存在のありうべき機序(作用原理)]
の話も申し分け程度に付すとの運びとした([追記部]であるからかなりもっての後の流れについて細かくも言及をなせるところとして、である)。
そうもした後の段では
[非侵襲性(医療器具としてのメスを使わない)とのかたちでのブレイン・マシン・インターフェース(と呼ばれる装置)を「機械⇒(作用)⇒人間の脳機能の方向性で」作用させる式]
が[具体的操作手法]として考えられるとのことを ――[この世界で人間レベルのものとして60年代よりエール大学所属の医学博士ら(悪名高いホセ・デルガドら)によって実現されていたとの動物の脳の電気刺激による制御技術]および[多世界(マルチバース)を浸潤するとされる[重力波](傍受できないために守秘性に優れるとされる重力波)をいかにして電磁気力に変換し、それを媒質として用いるのかに関わる科学論文ら内容]を引き合いに―― ひとつの可能性、[他の世界よりのゾンビ人間(の群体)の意識的ないし無意識的な操作]にまつわるひとつの可能性の問題として呈示しもすることとしている(エール大の設備を利用して科学者らが霊長類に属する猿の脳内電流構造を制御していかにその感情と物理的単純行動を([被実験体の存在の核にある意思]に抵触しないとのレベルで)ラジオ・コントロール方式で実現したのか、当該実験関係者の論稿内容と往時にまつわる評を原文引用しながら示し、また、それと併せて、[多世界]を浸潤すると「される」重力波にいかような[応用可能性]があるのか、との解説をなし、ひとつの可能性を呈示しもすることとなっている)。
そうした後にての段の解説内容は
[未来の情報に基づいての超光速通信による過去に対するコントロール]
にも相通ずるところがありうる(ととらえる)ところとして、ここ本稿[脇に逸れての付記の部]では意図して次のような引用をもなしておく。
(以下、本稿筆者がつい最近、読みもした Breaking the Time Barrier The Race to Build the First Time Machine(邦題)『タイムマシン開発に挑んだ物理学者達』(邦訳版版元は日経BP社)との著作にての第15章[ひもつきのタイムマシン]、147ページより引用なすとして)
同じような実験がカナダのオンタリオ州サッドベリーにあるローレシア大学の名高い神経科学者マイケル・パーシンガー(一九四五~)によって進められている。被験者を使った実験は二〇年にわたってつづけられ、詳細な結果が医学と科学の論文に数多くまとめられている。パーシンガーが設計した装置は、強力な電磁場を発生させて脳を刺激する。その結果、被験者の意識が変容し、しばしば幻覚が引き起こされる。時間を超越したり、精神が肉体から離れたりといったように、報告される特徴の多くはバセットのそれと共通している。パーシンガーの研究の目的は、人工的に発生させた電磁場の作用をもとに、天然に存在する電磁場の悪影響を調べることだ。その独自の理論によれば、地質の状態が原因で電磁場のエネルギーが浮遊し、「過渡現象」として澱むことがあるという。ある程度の敏感な人間は、たまたま悪い時間に悪い場所にいると、身体に奇妙な刺激を感じたり、不思議な物体を見たりする。そして、タイムトラベルをしたとか、異星人に遭遇したとか思い込む
(引用部はここまでとする)
操作対象となる生命体の脳(猿などの比較的高度な生物の脳も含む)の機序を自在自儘(じまま)に操れる、その生体の本然的欲求に完全に背くことがない限り、ラジコンのようにコントロールできるとのテクノロジー(ブレイン・マシン・インターフェースにまつわるテクノロジー)が人間世界の科学者に由来するものとして60年代より実現していたとされる(執筆が進んだ段階より立ち戻っての追記部だから書けるところとして本稿のかなり後の段、出典(Source)紹介の部87(3)および出典(Source)紹介の部87(4)を包摂する部にて同じくものことを当該の理論にまつわる科学理論解説英文文書より原文引用なしながら事細かに取り上げている)。 他面で生体の脳に対する通電に近しい行為をより雑然かつ包括的になす、側頭葉に電磁場放射をなすことで対象に[時間を超越したり][精神が肉体から離れたり][異星人と出会ったり]との幻覚を与える効用がもたらされるとの「実験」結果も人間レベルで(直上にて引用なしたような式で)呈示されている。
仮にもし[後者実験(マイケル・パーシンガーの時間錯誤をもたらすとの頭部に対する電磁波照射実験)にまつわる言いよう]が[前者テクノロジー(ブレイン・マシン・インターフェース技術)の応用の極にあるところ]を愚劣にも茶化す(結果的に茶化す)ようなありようのものとしてたかだかもの人間レベルの科学者(傀儡くぐつかもしれない)によって引き合いに出されているのだとすれば、何が言えるのか。(ここ追記部を付した対象としての)本稿直前の段ではそういうことに通ずる話をなしてもいる ――本稿執筆が進んでから付しもしたとの追記部はここまでとする―― )
上の図で示さんとしていることは[次のこと]である。
⇒
[バタフライ・エフェクト]というものが過去改変と抵触interfereする(先述の小説および映画の『いかずちの音』にその表象を見るように抵触する)と考えれもする中、[世界[ゾンビ][不自由人]充満仮説]の類のありようがそこにあればそちら[バタフライ・エフェクト]を縮減(reduce)することが可能であり(自由意志がないゾンビのような人間の行動は時局折折の硬直的な機械的操作の影響を受けておりさして大きな変数とならない)、によって過去改変の効果測定を向上させしめることができると考えられる ―[ありうべき先進文明のやりよう]を考えた際のこととして、である― 。 他面、同じくものことと表裏をなすこととして過去改変を効率的になせる(過去に情報を送って「どういう機序でか」その結果を過去にて反映できる)といった技術体系があるのならば、それは半ばゾンビに近しき人間で世界が満ち満ちていることとも通ずることになる([過去改変]と[ゾンビ充満仮説]はインターディペンデント、相互依存の関係を呈する)。
図にて端的に示そうとしているそうした関係性それ自体について和文にて極めて事細やか解説をなさんとしてきたのがここまでの内容である。
以上のようなものの見方に対しては、
「そのような観点は馬鹿げている。[自由]が容認されている人間の社会を貶める出鱈目(がかっての馬鹿げた推論)である」
などと述べたい向きもいるかもしれない、とも思う (:[人間だけの、人間だけによる、人間だけのためのお花畑世界(の押しつけ)の鼻についてならぬとの虚偽]、その臭気放ったありようを「どういう料簡でなのか」すべて無視しながら世界が[人間という種族のためだけの世界]であるなどと無条件に想定し(あるいは不誠実極まりなくも強弁し続け)、 逆に真実を手探りで探る行為については諸共もってしてステレオタイプ化された頭の具合のよろしくはない者達に由来するもの、[陰謀論者][フリーク(畸形)]の[「痛い」行為]としての前提での語り口上をなすとの能しかないとの[愚劣な偽り人(いつわりびと)]の横溢の問題を観念せずに最大限、好意的に解しても[この世界で自由について強弁するなど騙され人の謬見にすぎぬ]とも筆者なぞはとらえるようなところなのだが、とにかくも、そういう意見が当然に想定されはする)。
その点、(魂の)自由の問題についてさして深い[思考]([思考]とて自由を前提にしての意志の力から生じるものなのだろうが)も伴わずに云々しようなどとのその行為は「実に甘い」ものであろうと見受けられる(※)。
(※これからもそのことを[必要である]と判じて厭々ながらも示していくが、この世界は
[[自由]が紛い物でなければ説明が付きがたいとの[結果]([現象])]
で満ち満ちている(そして、それが[我々を全員皆殺しにする(と自然に解される)が如くの意思表示]とワンセットになっている)。
成程、「言い得て妙.」の問題として、
There are two freedoms,-the false, where a man is free to do what he likes; the true, where a man is free to do what he ought.「二つの自由がある。一方は[[自身が好きなこと]を自儘(じまま)にやれるのを自由と感じる人間のところに存在する]との[紛い物の自由]であり、もう一方は[自身が[なすべきと判じたこと]をなす自在性を有した人間のところにある]との[本物の自由]である」(英国国教会牧師にして歴史家たる Charles Kingsleyの弁となる)
とのこと、
[ものを考えることをせぬ、それゆえ、ものを考えてそれに基づき[行動]を決している節もないとの人間]
にとっての[自由]とは
[低次の嗜好、三大欲求あるいはそれに毛が生えた程度の欲求 ――球技と呼ばれる球遊びを[余暇]として愉しむ程度の欲求でもいい―― を満たすのが関の山であるとの[【飼われての獣畜】にはせいぜいその充足だけが意味をなすとの欲求]の消化作用を十二分に味わえるとのそれ程度の意味合いのもの]
に停滞、留まっている節もあり、実際にその程度の紛い物にこの世界の[自由]の効用と意味は多くの人間にとり限定限局されているようにも「見える」(この世界には種族の未来にとっても種族に内包される個々人の未来にとっても[どうでもよい]との下らぬ手前語り・属人的印象論を論客ぶって云々する[自由人]も数多いるが、この世界の主たる者達は[「長期の展望にての望ましき存続、あるいは近々の生存それ自体のためにそれを[なさねばならぬ]とのことがある」と露骨に判じられる中でそのことを突き詰めて見、かつもって、種族とおのれの生存のためになさねばならぬと判じられることに命を賭けるとの自由]は有しておらず、[[屠所の羊]がメェメェ鳴いて食べて寝て交尾する程度のものに完結している自由]を有しているにすぎぬ風もある)。
につき、日本を含め先進国では教育現場その他にて絶えず
「自由は尊い」
などとそれこそマントラか何かのようにひたすらに鼓吹されるわけだが、
[本稿で一部事例につき詳述を詳述を重ねてきたし、これより、さらにもって数多存在摘示していくような[奇怪な前言現象]](残念ながらそれらは[屠所の羊]らを予定通りに「皆殺しにする」との執拗なる恣意性が透けて見える、そう、「露骨に透けて見えもする」との前言現象らでもある)
が「何故にもってして」山なす程に多々見受けられるのか、そして、そうした状況下でその異常なる状況が「何故にもってして」世人一般に顧みられて「いない」とのことがあるのか(陳腐化を領分とする下らぬ陰謀論者・神秘家・詐狂者・質的狂人らによって彼らお得意の馬鹿噺として顧みられるケースは除く)、そこより[人間の世界の自由の真なるありよう(欠如そのもの)]が見てとれるようになっていると当然に筆者は考えている。
超光速通信の機序を用いての介入の話は ――くどくも申し述べたいところとして―― [可能性論]として呈示したいところだが(そうしたもの、可能性論として目立って強調したうえで呈示しなければ、たとえもし、無視なされずに顧みられても、頭の具合がよろしくはない「相応の」者達(に足を引っ張れるうえでの足しにされるのがせいぜいであるともとらえる ―筆者からして人間としては不自然性を感じさせる動きの者らに接近され不愉快の念に駆られたことが何度となくある― )、そうもした[可能性論]さえ顧慮して然るべきであると考えられるところとして[人間の歴史] ――(本稿筆者がどの程度までの歴史知識を有しているかは本稿の歴史関連事物に関する表記および本稿公開サイト上にて公開している著作のデータ分析部をご覧いただきたいものではある)―― にあっては[自由]ほど軽んじられるものはなかった、そのように解されるとのかたちで人間の歴史には「個々人が人間として、人間らしいものとしてなすべきと判じたことを禁ずる」とのその意での[自由]を否定する[ドグマ]と[結果]で満ちているとの節がある。
(半ば余事記載となっているところをいましばらく続けるとして)
著名な文献文書に基づくところとして欧州の支配的観念、キリスト教の中のプロテスタントについてはその開祖マルティン・ルターの物言いからして
「[自由意思]と[理性]は呪われた忌むべき者の特性である」
なぞとする風潮があり、といった観点を神の御心(というもの)を絶対視する会衆らが容れてきたとの事情がある。また、同じくものプロテスタントのカルヴァン主義では運命は[生まれた時からすべて正しくもあるべくもの方向]に決定されているとのドグマがあり、そういう理念を「きわめて重要視する」との塩梅で多くの人間が「是」としてきたのが人間の歴史であると判じられるようになってもいる(:「生まれた折より神の御心からすべての運命はきまっている」なぞとするカルヴァン主義については同観点が資本主義の原動力たる資本蓄積の原因となっていた、信徒らがその[神授されての運命]が望ましい[予定調和]に適ったものと「確認」するために逆説的に(自分達の与えられた(とドグマで規定された)[生]の有用性を確認するために)資本蓄積に奔ったなどという ―『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と題されての著名論考が皮相を撫でるようにそういうことを扱っているとの― 学究ら観点もあり、といったことは多くの大学生(との名の社会の「良き」構成要素の候補)ですら学ぶことである)。
につき、たかだか和文ウィキペディアにての誰でも確認できるところとしての[奴隷意志論]項目(ルター著作『奴隷意志論』こと De servo arbitrioにまつわる項目)や同[予定説]項目(多くのプロテスタントにとって甚大な影響を与えたとされるカルヴァン主義の中心理念にまつわる項目)を参照されてみるのもよかろう。といったものにての記述からして人類の文明世界の地平を切り開いてきた欧米文明の背面にある発想が
「人間の自由意思を否定し」「神の恩寵に身を委ね」「ひたすらに神の御心に沿って生きる」
ことこそが[正しき人(義人)の道]とするものであることが推し量れるようになっている (:ポイントは[自由意思の「否定」]が望ましいものであるなどとの[生物の生存能力](「局面に応じて臨機応変に判断をなす」すなわち「融通無碍に「自由な」判断をなす」、によって、知的生命体として状況を分析して生き残れもしようとの生存能力)と矛盾する不自然な、いや、グロテスクですらある観点が支配的ドグマとして鼓吹されてきたことである)。
そうもした中近東に端を発する一神教のドグマ ――会衆は[神]に対してその自由を捨て去り、その恩寵のため、おのが身を捧げるべしとのドグマ―― に対して仏教、そして、そちら仏教とその発想法にて相補関係を呈するヒンドゥー教のドグマに関して「も」話として限りなく似通っているとの側面があることも指摘できるようになっている。仏教の根本理念は[渇愛・愛着や喜怒哀楽を私的な[我]の領分として切り捨てて、[私(わたくし)をむなしくしての無我]の境地に至ることを最上の道としている(生物としての自然なる存在ありようをプラスとするのではなくそれをしてマイナスとする[不可解な観念]ではある)。
それでもって、無我に至ることでもって ―ここからが肝要なわけだが― 仏教は
[涅槃(ねはん/ニルヴァーナ)に至る道]
すなわち
[我ゆえに囚われての輪廻転生の苦界から脱却するとの道]
と鼓吹してきた(といった仏教の輪廻転生ことサンサーラの[苦しみから脱却する]云々の観点はヒンドゥー教の観点と共通性を呈する)。
そうもした無我の境地に至る、煩悩を捨てることで輪廻の悪因悪果から逃れ出るなどとの「特異なる」思考様式がどうして[このような世界]で歴年唱導されてきたのかとまで考えてこその[思考する人間]かとは思うのだが、さて、そこに見る[輪廻転生]を[繰り返す運命]をもってループ構造とすれば、それを科学的に実現する手段は何か。
科学的に見れば
[人間の生は死ねばおしまいであり、繰り返しはない]
とのことになる。
だが、だ。超光速通信が如く[過去]に遡行する操作機序による人間操作がなされれば、人間は「そうとは知らずに」死んでからも多少異なる動作を繰り返しなさしめられることとなりかねない(管理用の機械 ――お為ごかしに被操作種族の個体毎に対してデータベースに照応して神か何かのように振る舞えもするマシンたりうる―― に計算管理をなさしめる十分なコンピューティングの素地があり、かつ、そちらコンピューティングを約束する電力が約束されているのならば、そう、それこそ何度も何度も超光速通信による微弱過去改変が付与されてのループが試行されているとのこととてありうる)。 超光速通信による自由束縛の力学、そう、[我](人間らしさを捨てておらぬ状況)に対する[無我](人間らしさを捨てた機械の境地)を容れている状況が理想的なループ環境として[要請]されもしているとの状況にてそういうこととてありうる ――といった中ではまさしく[無我]の境地こそが仏教の額面の論理とは完全に真逆に、何度もそれと「識らず」に[空っぽの偽りの人生]を繰り返させられる[超光速通信による因果律の牢獄](ゾンビの境地)への要件とのことになるであろう―― 。
その点、「仮に、」であるが、超光速通信でもって薬籠中の存在を操作する者達(が用いる超高度な機械的力学)があるのだとすれば、である。[悪辣な反語的表現]としては[仏教]なども[自由意思と知性を楽園(エデン)にてそちらサイドより否定した神の最終救済]へと話が向かっていく一神教とおおよその話は同文であると受け取れるようになっていると述べられもするわけである(:尚、仏教が忌まわしくもとらえているとの[ループ](涅槃にて克服されるべきとされる輪廻)が金輪際生じえないとのケースを考えれば、である。重力波などの(マルチバースを貫通しうるとも科学読み本らでされる)操作の媒質となりえるものが「多」世界解釈の他の世界から影響を及ぼしえないとの状況に至っている、そう、操作対象となる世界が(ハイウェイのゲートのような性能を帯びていようともの)ブラックホールの如き多くの情報・物理的実体を破壊し尽くすとのものに呑まれる、時空間の穴の中に消え失せた場合などが挙げられるのではないかとは個人的には見ている ――本稿の後半部ではそれにまつわって(邦訳されずに留まっている著作だが)米国人物理学者フランク・ティプラーの手になる The Physics of Immortality: Modern Cosmology, God and the Resurrection of the Dead(1994)との書籍の「まさしくものそのことの絡みで問題となる」反語的内容を細かくも取り上げる所存である―― )。
さて、人間の歴史にあっての支配的ドグマの特質についての一歩進んでの確認までをなす[自由意思]を有した機械「以上」の向きらが本稿を目にしていると仮定しての奨め(『それはあまりにも状況を楽観視しての奨めかもしれない』と自分でも考えているものではある)として書いておくが、
「本稿公開サイトの一つで同文に公開しているとの『人類と操作』(2009)という著作では[人間の歴史操作の可能性]について論じているので、 ――([諦観]ではなく[反抗]の糧にすべくも)―― 、データに依拠して示唆される[永年に渡っての操作]の可能性の理非について考えていただきたいものである」
(:手前がいくばくかの印税を得ての初版数千部との式での商業出版の流れで話が進んでいたことに付随して相応の人間らに褒め殺し・トンデモ化の試みをなされるとの憂き目を見ることになったし未だ見ている(要するに存在そのものを消されようとしている、そういう力学に強くも曝されている)との節ある著作ともなる拙著『人類と操作』についてはまだ筆者が比較的に楽観的かつ未熟(今よりも未熟)であった折に「まずもっての橋頭保にでもなせたら」との観点で著した著作としての[欠陥]も伴っているのだが(筆致も内容も俗受けするようにとの配慮・調整がなされていてそれがゆえに[軽いところ]が少なからずあり、のみならず、社会的環境および科学的見解にまつわっての[問題ある言い様]を真に受けすぎていたとの側面も少なからずあるとの(著者自身認めざるをえぬところの)[欠陥]が伴っている)、 であっても、同著に関しては人間の歴史から推し量れる悲劇の積み重ねについては多くを示唆しえた著作としての意義もあるか、と考えている)
以上で
[過去改変]
[ Faster than light超光速]
についての長くもなっての[付記]の部を終える(尚、これより[本題]に戻って問題視することは、である。超光速「通信」(情報を過去に送るとの行為)、そう、[予言]の類を可能ならしめる超光速「通信」がそうしたものであるとの[情報]を過去に送るとのもの以上のもの、[(まとまった)物体]を過去に送るとの[通過可能なワームホールにまつわる思考実験(にまつわる書籍内記述)]に[文献的事実]との観点でいかような悪辣な側面が垣間見れるのか、とのこととなる)。
ここをもってして「長くもなっての」付記の部の終端とする
(直前直上にあっての脇に逸れての部、[超光速にまつわる可能性論に基づいての(行き過ぎての節もあったもののそれとて必要かと判じて付しもした)付記の部]から話を本筋の部 ――双子のパラドックスが何故、問題になるのかの話―― に回帰させるとして)
日本にて伝わる[浦島太郎伝承]に対して[双子のパラドックス(先述)にまつわる観念]と[安っぽいサイエンス・フィクションの風味]を加えてのアレンジを加えてみる。
「浦島太郎は[亀]型宇宙船に乗り込んだ。亀型宇宙船は凄まじいスピードで、光速度とのスピードでプラネット・竜宮に向けて前進しているのだが、彼、浦島太郎はといった旅路につく前に故郷にワームホールカメラを置いてきた。そこで浦島は都度、悪趣味な亀型宇宙船に敷設してあるワームホール連結型ワームホールカメラ映像受信機(ワーム・カムとしておく)で故郷の様子を見てみた。結果、都度、観察するごとに自分の双子の兄弟が(そうした存在がいたとして)老いさらばえていく様に際会した」
無論にして馬鹿げている話の運びである(と読み手によっては聞こえよう)が、物理学者キップ・ソーンの「思考実験」上での申しようはそれにプラスアルファして奇矯なるものとなっており(出典(Source)紹介の部28および出典(Source)紹介の部28-2にて原著および訳書よりの原文引用をなしているところがその該当部位となる)、ソーンの科学的仮説は ――同じくもの書きようはつい先立っての段(長くもなっての直前の補足部に入る前のつい先立っての段)にあってもなしていたわけだが―― 次のような内容のものとなる。
[浦島が亀型宇宙船で用いていたワームホールが[異なる時空間の情報を捕捉するカメラ]を越えての[ワームホール型ゲートドライブ](とここではしておく)となっており、それでもって、[光速で移動している、あるいは、移動をやめてのプラネット竜宮に到達した浦島太郎周辺の領域]と[過去と化した遥か離れての浦島故郷(地球)の場]をつなぐワームホール型タイムマシンができあがった。浦島は惑星[竜宮]から故郷[地球]に時を越えて「物理的に介入できるようになった」 ―たとえば、ワームホールに手を突っ込むなどしてその先の存在と握手できるなどのことができるようになった― のである。そして、浦島がそちらワームホールゲートを再び地球に立ち戻って使用すれば、それは過去の地球と未来の地球を結ぶゲートとしての役割を帯びるようにすらなるのである]
疑わしきは邦訳版『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』(白揚社刊行の邦訳版)p.456-p.457より以下、再引用なしての部と直上直近述べたことの中身の比較をなしていただきたい。
(直下、出典(Source)紹介の部28-2にて挙げた内容の再度の原文引用をなすとして)
私は彼女の手を握ったまま ・・・(中略)・・・ ワームホールを通して眺めながら私は当然、彼女がちょうど十二時間後の二〇〇〇年一月一日午後九時頃に帰ったことに同意する。午後九時〇〇分にワームホールを覗いた私に見えるのは、カロリーだけではない。彼女の背後、わが家の前庭、そしてわが家も見ることができる。 ・・・(中略)・・・ この旅は地球上で測れば、・・・(中略)・・・ 一〇年もかかる旅である。(これは典型的な「双子のパラドックス」だ。高速度で往復した双子の一人(カロリー)は時間の経過を一二時間と測るが、地球に残った双子のもう一方(私)は、旅が終わるまで一〇年も待たなくてはならない。) ・・・(中略)・・・ 二〇一〇年一月一日が到来し、カロリーは旅から帰ってきて、前庭に着陸する。私は走り出て彼女を出迎え、予想どおり、彼女が一〇年ではなく一二時間しか年をとっていないのに気づく。彼女は宇宙船の中に座っており、マウスに手を差し入れている。だれかと手を繋いでいるようだ。私は彼女の背後に立って、マウスの中を覗き、彼女が手を握っている相手は一〇年若い私自身で、二〇〇〇年一月一日の私の居間に座っていることに気づく。ワームホールはタイムマシンになっていたのである
(引用部はここまでとする)
以上によって示されることは浦島伝承というものが[特殊相対性理論と双子のパラドックスを巡る議論]と親和性がいかようにして高くもなっているか、ということである ―話柄はエキセントリックなものであるが、浦島伝承という核を変えずにソーンの思考実験と同様の言いようがなせるようになっていることが問題となる― )。
さて、ここで殊更に浦島伝承などを引き合いにしたのには訳がある。
[生き死にの問題に関わる訴求の一材料]
として[次のこと]を問題視したいとの背景上、上のようなたとえ話 ―向きによっては「滑稽さ」が目立つようなものかもしれない― を持ち出しもした、とのことがあるのである。
(まずもっての振り返っての話をなすが)
[ワームホール生成][加速器使用挙動][爬虫類の異種族の進出]との要素で複数の文物らがつながりあっているとの話が[文献的事実]にまつわるところでなせるようになっている(との指摘をなしてきた ――出典(Source)紹介の部22から出典(Source)紹介の部27とのかたちにての出典紹介部を付しつつそうした方向性を念頭にの一群の指摘をなしてきた―― )との経緯がある。
上記のことに関わるところとしては(今はA.からF.と分けてのE.の段階での話をなしているとして)先立ってのA .およびB.の段にて[カシミール効果]を観測するとの結果に至った実験 ――「二枚の無電状態の金属プレートを真向かいから近接させられるところまで近接させそこで[反重力]といった言葉と結びつけられる負のエネルギーを観察する」に至ったとの実験―― に類似の行為、
[「二枚の金属プレートを向かい合うかたちで配してその間の重力を中和する」なかで宇宙を創造する]
との行為が[文献的事実]の問題としてフィクション、『フェッセンデンの宇宙』にも描かれていることを問題視した(:ひとつの問題は二枚の金属プレートを並べて[反重力]ともつながる負のエネルギーの観測をなしたカシミール効果発見の実験が行われたのが「1948年」であったのに対して二枚の金属プレートを並べてその間の重力を遮断しているとの『フェッセンデンの宇宙』が初出を見たのが1937年であったとのことである)。そして、同じくものことにまつわって次の関係性もが指し示せるようになっていることを先立っての段では指摘していた。
[加速器実験の結果] → [宇宙開闢の状況の再現(加速器実験の目的はビッグバン、宇宙創成の状況の極微領域での再現と銘打たれもしている)]/[最近になって加速器実験がそれを実現すると考えられるようになったとのありうべきところとしてのワームホール生成(ワームホールの生成安定化の理論と結びつくカシミール効果が留意されていることも先の段にてポール・ディヴィス著書 How to Build a Time Machineを引き合いに紹介)] ← ([カシミール効果発生挙動と類似の行為による宇宙創成]という設定を介しての接合) ← [『フェッセンデンの宇宙』]
(上記の関係性をさらに要約なせば、
[加速器実験]→[宇宙開闢状況再現/ワームホール生成と結びつけられる挙との関係性]←[『フェッセンデンの宇宙』]
とのことになる ――ポイントはそこに[先覚性]が介在していることである―― )
以上のようなことに加え同じくもの先立つA.およびB.の段では、
[爬虫類型別種族との遭遇・皆殺しとの帰結に至った侵略戦争]
という『フェッセンデン宇宙』に描かれる一局面のことを殊更に問題視した。
加えて、上の通りのことを事細かに出典に依拠して指し示しもしていたA.とB.の段に続いてのC.の段、同段では1985年初出のフィクション『スキズマトリックス』の内容に見る、
[加速器実験を想起させるような巨大施設にあっての死闘の後、爬虫類型宇宙人が来訪するとの設定]
のことを問題視していた。
[AおよびB]と[C]のそれぞれの段の間には ―個人の主観とは無縁なる[文献的事実]よりのみ導出してのこととして―
[加速器実験を想起させるもの][爬虫類型の異種族との遭遇]
との要素が双方共に関わっているとの相関関係が存在しており、また、同一作品(小説『フェッセンデンの宇宙』)について取り上げた[A.の段]および[B.段]に着目する限り、そこには
[ワームホール生成挙動とつながる負のエネルギー](にまつわるカシミール効果)
の話が科学理論の発展動向から「時期的に」「不相応な形で」関わっているとの指摘がなせてしまうとのことになっている(:再三再四述べるが、1937年初出の『フェッセンデンの宇宙』が1948年に実施されたカシミール効果発見の実験のことを想起させるような行いを描いているのも奇怪であるととれる素地がある ――(につき、『フェッセンデンの宇宙』の宇宙開闢具現化装置と後にて取り沙汰されたカシミール効果測定実験挙動の両者の間に[行為としての類似性]があってもそのことを問題視する人間がいない(現行にては本稿筆者を除いてはいない)ことは筆者が相応のキーワードで検索結果ゼロ件になるまで特定キーワードで切り詰めての言論流通動態の確認より把握することなのだが、発言をなす者が僅少であることはその発言の信憑性が低いとのことと同義とはならないのは言うまでもない)―― 。 他面、加速器によってブラックホールやワームホールの類が生成されると考えられるに至ったのがここ最近のこととなっており、そして、『フェッセンデンの宇宙』で宇宙を創造するとされる行為がカシミール効果測定につながった挙動、すなわち、[通過可能なワームホールを構築する要件と仮説付けられるに至った負のエネルギー]の捕捉につながった挙と類似するものとなっていることがあり、関係性はいよいよ「時期的に」「不相応な形で」奇怪なものとなる(『フェッセンデンの宇宙』の執筆年代(1938)にはカシミール効果のことも況や加速器によるブラックホールやワームホールの生成など問題視されていなかったがゆえに、である))。
そちら先覚性と[Cの段]にて指摘してきたことを複合顧慮すれば、より一層、不気味さが際立つというかたちとなっている ――[Cの段]にて問題視している『スキズマトリックス』の刊行時である1985年にあって「も」人類の実現できる加速器ではワームホールもブラックホールも生成されると看做されていなかった(と考えられるようになっている。については本稿先の段にあって出典を細かく明示しているとの[事実A]から[事実B]にまつわる人為的ブラックホール実現に至る理論的動向に関する解説部(出典(Source)紹介の部1および出典(Source)紹介の部2)、および、先にポール・ハルパーンという物理学者の手になる著作の訳書としての『神の素粒子 ―宇宙創成の謎に迫る究極の加速器― 』の記述紹介(出典(Source)紹介の部18)からはじめてのワームホール生成に対する解説部や人為的ワームホールのことを仮説上の先進文明のやりようとして検討したとのキップ・ソーンの1985年以降の挙動(キップ・ソーンのよく知られた挙に関しては出典(Source)紹介の部20-2にて先述)にて確認されたい※)―― 。
※振り返ってもの表記として
それが[人間の(加速器の)手によって実現できるもの]とは看做されていなかったものだが(すなわち、出典(Source)紹介の部21-2にて引用していた How to Build a Time Machine(邦題)『タイムマシンをつくろう!』(草思社)p.120よりの再度の引用をなすとして従来の電磁気技術では、プランク・エネルギーは太陽系に匹敵するぐらい巨大な加速器を建造しないと獲得できないが、まったく新しい加速器技術が開発されれば、はるかにコンパクトな装置を用いて非常に高いエネルギーを得ることができるかもしれないのだ。またいくつかの理論によれば、空間の大規模な改変はプランク・エネルギーよりもずっと低いエネルギーで実現できるかもしれず、技術的にも見通しがつけられる可能性があるという。もし重力をほどほどのエネルギーで操作できれば、これまでにのべたような途方もない圧縮や加速を必要とせずにワームホールを作ることができるだろう
(再度の引用部はここまでとする)と考えられるようになった「以前の」状況にあってのことながらも)、
[通過可能なワームホールについての「仮説」(現行人類とは異なる先進文明を想定しての仮説)]
が ――スター・トレックや日本国内の宇宙戦艦ヤマトのようなフィクション作品にそれ以前かお目見えしていた[ワープフィールドを介してのワープ・ドライブ][ワープ航法]のような空想上のものではなく―― [現実的なもの]として取り沙汰された契機は[1985年]にあると一般には説明されている。
については以下のような解説のなされようを先に呈示していた。
(直下、出典(Source)紹介の部20-2にて取り上げたキップ・ソーン著作の邦訳版『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』437ページよりの再度の引用をなすとして)
私は一九八四年-八五年度の最後の授業をちょうど終えて、研究室の椅子に深々と座り、アドレナリンの分泌が鎮まるのを待っていた。電話のベルが鳴ったのはそのときだった。コーネル大学の天体物理学者で古くからの友人でもあるカール・セーガンからだった。「邪魔してすまん。キップ」と彼は語った。「人間と地球外文明との最初の接触に関する小説を今、書き終えたところだが、困っているんだ。科学的なことはできるだけ正確を期したいと思っているんだが、重力物理学の中に間違いがあるのじゃないか、と心配なんだ。どうだろう。目を通して助言してくれないだろうか?」私はもちろん引き受けた。
(引用部はここまでとする ―※― )
(※以上の部の原著 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacyにての表記は I had just taught my last class of the 1984-85 academic year and was sinking into my office chair to let the adrenaline subside, when the telephone rang. It was Carl Sagan, the Cornell University astrophysicist and a personal friend from way back. " Sorry to bother you , Kip," he said. "But, I'm just finishing a novel about the human race's first contact with an extraterrestrial civilization and I'm worried. I want the science to be as accurate as possible,and I'm afraid I may have got some of the gravitational physics wrong. Would you look at it and give me advice?" Of course I would.
とのものである)
(次いで、出典(Source)紹介の部20-2にて取り上げたキップ・ソーン著作の邦訳版『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』439ページ末から441ページ冒頭よりの再度の掻い摘まんでの引用をなすとして)
「ワームホールはSF作家のたんなる空想の産物ではない。それらは一九一六年、アインシュタインが場の方程式を定式化したわずか数ヵ月後に、その方程式の解として数学的に発見されたのである。ジョン・ホイーラーと彼の研究グループは、一九五〇年代にさまざまな計算を行って、それを徹底的に調べ上げた。・・・(中略)・・・ワームホールはある瞬間に作り出され、やがてちぎり取られて消えてしまう――創造からちぎれるまでの全寿命はあまりにも短すぎて、何物も(人も、放射も、どんな種類の信号も)、その中を通って一方のマウスから他方のマウスまで行くことはできない」
(引用部はここまでとする ―※― )
(※以上の部の原著 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacyにてのほぼ対応するところの表記は Wormholes are not mere figments of a science fiction writer's imagination. They were discovered mathematically, as a solution to Einstein's field equation, in 1916, just a few months after Einstein formulated his field equation; and John Wheeler and his research group studied them extensively, by a variety of mathematical calculations, in the 1950s. However, none of the wormholes that had been found as solutions of Einstein's
equation, prior to my trip down Interstate 5 in 1985, was suitable for
Carl Sagan's novel, because none of them could be traversed safely.[ .
. . ] The wormhole is created at some moment of time, opens up briefly,
and then pinches off and disappears ― and its total life span from creation
to pinch-off js so short that nothing whatsoever ( no person, no radiation,
no signal of any sort) can travel through it, from one mouth to the other. Anything that tries will get caught and datroyed in the pinch-off. Figure
14.2 show's a simple example.
とのものである)
(加えて、直下、出典(Source)紹介の部20-2にて取り上げたキップ・ソーン著作の邦訳版『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』444ページの記載内容 ――今までその通過可能性が科学的には否定されていたワームホールについて物理学者キップ・ソーンが[エキゾチック物質]というものを(1985年に)導入することで通過可能性を問題視しだしたことにまつわる部の記載内容―― よりの再度の掻い摘まんでの引用をなすとして)
パサデナに着くと、私はカールに長い手紙を書いて、なぜ彼の小説のヒロインは急ぎの星間旅行にブラックホールを使うことができないかを説明し、ヒロインにはそのかわりにワームホールを利用させること、そして小説の中のだれかにエキゾチックな物質がほんとうに存在し、ワームホールを開けておくのに利用できることを発見させるように提案した。カールは私の提案を喜んで受け入れ、それを彼の小説『コンタクト』の最終稿に取り入れた。カール・セーガンに私の意見を伝えた後、私は彼の小説が一般相対性理論を学ぶ学生の教育用に使えることを思い当った。こうして学生に役立たせるために、マイク・モリス(私の学生の一人)と私は、一九八五年の冬にエキゾチックな物質に支えられたワームホールに対する一般相対論の方程式と、これらの方程式とセーガンの小説との関連について論文を書きはじめた。・・・(中略)・・・一九八七―八八年の冬以前に、われわれは論文を[アメリカン・ジャーナル・フィジックス]誌に投稿したが、その時点では論文はまだ掲載されていなかった
(引用部はここまでとする ―※― )
(※以上の部の原著 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacyにての表記は So upon reaching Pasadena, l wrote Carl a long letter, explaining why
his heroine could not use black holes for rapid interstellar travel, and
suggesting that she use wormholes instead, and that somebody in the novel
discover that exotic material can really exist and can be used to hold
the wormholes open. Carl accepted my suggestion with pleasure and incorporated
it into the final version of his novel, Contact. / It occurred to me, after offering Carl Sagan my comments, that his novel
could serve as a pedagogical tool for students studying general relativity.
As an aid for such students, during the autumn of 1985 Mike Morris (one
of my own students) and I began to write a paper on the general relativistic
equations for wormholes supported by exotic material, and those equations'
connection to Sagan's novel. / We wrote slowly. Other projects were more urgent and got higher priority.
By the winter of 1987-88, we had submitted our paper to the American Journal
of Physics, but it was not yet published ;
とのものである)
上の記述に見るようにワームホールを現実的に通過可能なゲート(兼タイムマシン)に使うとのやりとりが1985年「以降」にて ――仮説上の先進文明やりようとして―― 学者(キップ・ソーン)と学者兼作家(カール・セーガン)の間で交わされたとのことがある。
そして、そうもしたワームホールというものがブラックホールと同様に後にあって[プランク・エネルギー]を投下するなどという人類が実現出来ぬことをなすことなしに構築可能でありうるとの新規理論が浮上してきた ――新規理論とは1998年より取り沙汰され、加速器によるブラックホール生成が可能でありうるとしたとの余剰次元理論のことである。については(本稿にて既に論じてきたところに加えて)本稿の後の段でもさらにロシア人物理学者らの論稿(ITEPという研究機関に所属する IF LHC IS A MINI-TIME-MACHINES FACTORY, CAN WE NOTICE?(2006)との論稿など)を引き合いにより煮詰めての話をなす所存でもある―― )
(振り返っての表記はここまでとする)
直上までの振り返り部にて再度しつこくも内容再表記をなしたA.からC.と振っての段の話に続くものとして(それぞれ別個のものとして括っての中での)D.と振っての段では、加えもして、
[1993年に封切られた映画 Super Mario Bros.『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』の
[片方の上階に風穴が空き、片方が崩落するとのツインタワー]
が粗筋[設定]上、
[異なる次元が融合させられて(異なる次元の融合となれば、ワームホールのことが想起されるが、とにかくも、融合させられて)の中で恐竜帝国の首府ダイノハッタンと融合させられる建造物]
として劇中にワンカット描写されていた]
とのことを[記録的事実]の問題として ――意図しているところは直上にて振り返り言及した[[ワームホール関連事物にまつわる文物]と[爬虫類の異種族の侵出]のつながりあい]との絡みで(まじめな)読み手にとっても明確か、とは思うが―― 取り上げもしていた。
さて、2001年に上階に穴が開きツインタワーが崩壊することになったその前に「時期不相応に」
[片方の上階に風穴が空き、片方が崩落するといった描写形態でのツインタワー]
とのものを(短きワンカットにあってながら)登場させているとの映画 SUPER MARIO BROS.『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』で悪役とされるのは[恐竜人]である。
それにつき ――聞こえから『細かく、かつ、くだらないことをぐだぐだと述べているようだ』との誤解を招きかねないような話をなしているとは重々承知の上で敢えても述べることなのだが―― 、映画で恐竜人の王となっているクッパというキャラクター、それは原作のゲーム作品スーパーマリオシリーズでは恐竜ならぬ[「亀」の大魔王]といった設定の存在である。
(:繰り返しも述べたくなるところとして「きちんとした教育を受けた学識ある大人には『くだらない』と内心で看做されようことを述べていることを重々承知の上で出典明示に遺漏なきようにと書くが、和文ウィキペディアにての関連項目には原文引用するところとして「次のように」記載されている。
(直下、和文ウィキペディア[クッパ(ゲームキャラクター)]項目よりの引用をなすとして)
クッパ(Bowser)は、任天堂が発売したコンピューターゲームソフトのシリーズ、マリオシリーズに登場する架空のキャラクター。・・・(中略)・・・ クッパ軍団(初期はカメ帝国とも)のボスキャラクター。怪獣を思わせる姿をした巨大なカメで、黄色と緑色からなる皮膚と赤色のたてがみを持ち、甲羅には10本のトゲが、頭には鋭い角が付いている(以下略)
(引用部はここまでとする)。
(続いて直下、同様に和文ウィキペディア[スーパーマリオ 魔界帝国の女神]項目よりの引用をなすとして)
クッパ ・・・・ 地下に広がる恐竜帝国「ダイノハッタン」の帝王(字幕では大統領と表記されている)。ティラノサウルスから進化した恐竜族である。前の国王を追い落として国を奪った。地上世界と恐竜帝国の次元を融合して両世界を征服しようと企む
(引用部はここまでとする)
以上引用部については映画設定にまつわり(その手の話、商業作品の半ば広報を兼ねているような皮相的なる話に関してはあまり誤りが認められないとの媒体である)そちらウィキペディアに記載されているとおりのことが現実にある)
1993年公開の作品であるにも関わらず、
[穴が上階に開いて崩落するツインタワー]
とのまるで2001年に現出した[ビル連続倒壊事件]のことを想起させるようなものをワンカットにて登場させている映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』では[悪の恐竜人の首魁]が次元融合を企図しているとの作品粗筋解説がなされているが、そうもした映画の原作のゲーム作品では[悪の「亀の」軍団の首魁]がマリオという主人公キャラクターと闘うことになっているのである。
ここで話を日本の浦島伝承 ――[双子のパラドックス]という物理現象に実にもって親和性が高い伝承であることをつい先立って紹介しもした伝承―― に持って行くが、浦島伝承では
「亀に乗っかって浦島が竜宮に足を運ぶ。そこではしばしの楽しき時間を過ごした後に故郷に戻ってみれば、あまりにも時間が経過しており、立つ瀬がない。そこで受け取った玉手箱を開ければ、老いさらばえた老体となってしまう」
との粗筋が具現化している。それにつき、「亀」に乗った男が「竜宮」に行くとの伝承粗筋と[映画]および[ゲーム]の『スーパーマリオ』の[恐竜の悪の軍団][亀の悪の軍団]との設定に ―[カメ]や[「竜」宮]との爬虫類を介しての― アナロジー(類似性)を問題視したらばどうか。
無論、常識的な人間には鼻で笑われるとのことになるであろう。そう、
『子供だましの話を[子供だましの作品](往時のおとぎ話/現時の荒唐無稽映画やヴィデオ・ゲーム)を引き合いにしてなしているにすぎない。きちんとした識見を蔵した大人が、きちんとした大人に対してなすような語り口上ではない』
と鼻で笑われるのが関の山とのことになりかねない(と思う)。
だが、以降摘示していくようなことを複合加味したうえでなお鼻で笑おうとするのは
「きちんとした大人に相応しき知性を有していない」、
いや、
「延々騙されてきたうえで殺されても最期までその死因について理解するだけの知性を有していない」
との類 ―残念ながら語るに値しないとの筋目の向き― となろう (と無礼承知の上で申し述べたい次第である)。
(ここで頁を改めるが、E.と振っての一連の段は今しばらくも続ける)