典拠となるところの明示[46]――ダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』にあっ
ての[現代的観点から見た場合の多重的ブラックホール類似物]

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ダンテ『地獄篇』とミルトン『失楽園』に見る(「今日的観点で見た場合の」)ブラックホール近似物に関して何が問題になるのかについて

 先立っての直前頁では

[[黄金の林檎を巡ってのギリシャ神話に見る誘惑]および[エデンの園にての誘惑]の記号論的接合性]

がいかようにして多重的に

[ブラックホール生成可能性を伴うとされるに至ったLHC実験にまつわる命名規則]

と相通じているのかについて多くの典拠となるところの指し示しをなした。

 その上で同じくもの先立っての直前頁では

「これより([記号論的・留め金]となることを部分的に示してきた)[ルシファー]という存在について「ブラックホールとの兼ね合いで」さらに取り上げるべきことを取り上げる」

と申し述べ、それは具体的には

[[ルシファー]こと[サタン]が地獄の最下層に囚われていることを描くダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』の両古典の字面レベルでの描写形態にて[(今日的な意味で見た場合の)ブラックホール(の質的類似物)]が見受けられ、その絡みで問題となることが「ある」]

とのことについての話となると申し述べた。

 以上振り返ったうえで直上表記のこと、すなわち、ダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』の西洋二大古典に[ブラックホール]との絡みで問題になるとの側面が伴うとのことにつき、その典拠となるところをこれ以降、順次摘示していくこととする。


| 出典(Source)紹介の部55 |

 ここ出典(Source)紹介の部55にあっては ――さらに後の出典紹介部(出典(Source)紹介の部55(2)および出典(Source)紹介の部55(3))にて内容を補うとの前提の下に―― 

[ダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』に今日的な意味でのブラックホール類似物の描写が見てとれることにまつわる解説「兼」典拠紹介]

をなすこととする。

出典(Source)紹介の部55はここまでとする)


 直近までの解説部「兼」出典紹介部にあっては要約をなせば(箇条表記に重きを置いての要約をなせば)、次のことを摘示する方向での話をなしてきた (:尚、以下、呈示のことにまつわっては典拠紹介未了部もあるのだが、については、後にての出典(Source)紹介の部55(2)および出典(Source)紹介の部55(3)にて典拠を挙げることとする) 。


 ダンテ・アリギエーリ『地獄篇』には

[今日、物理学分野の人間らが研究対象として取り扱っているとのブラックホールとの「質的」近似物]

が描かれているとの[現象]が認められる。

 具体的には

A.[ダンテらが「一度入ったらば[悲嘆の領域]に向けて歩まざるを得ず一切の希望を捨てねばならない」との[不帰の領域]にまつわる隻句(『地獄篇』地獄門隻句)を目にしたところから入って最終的に到達した[悲嘆]を体現しての地点]

B.[重力 ―(古典『地獄篇』それ自体にて To which things heavy draw from every side[あらゆる方向から物の重さが引きつけんとする地点]と表されているところに作用している力)― の源泉と際立って描写されている場(地球を球と描いての中心ポイント)]

C.[(「悲嘆の」川コキュートス)にて(静的描写として)罪障がゆえに「凍りついた」者達が、と同時に、(動的描写として)「永劫に粉砕され続けている」との地点]

D.[光に「語源」を有する存在](ルチフェロ)が幽閉されている地点]

との全ての要素を具備した[『地獄篇』にての地獄踏破にあっての最終ポイント](コキュートス・ジュデッカ領域にまつわる描写が

A.[一度入ったらば二度と出れない」との(事象の地平線の先にての)領域]

B.[重力の源泉となっている場

C.[外側(生者)から見れば(静的描写として)被吸引者が[時が止まったような状況になりつつも(動的描写として)その被吸引者本人(死者と化した者)から見れば「粉砕され尽くしている」との場]

D.[光さえもが逃がれられぬとされる場]

との全ての要素を具備したブラックホール特性と共通のものとなっている(話としての奇異さはともかくも[記号論的一致性・文献的事実の問題]として共通のものとなっている)とのことが現実にある ――※そうした一致性にまつわるところで初期ルネサンス期、13世紀の文人ダンテは「地球を球形と看做して」「地球の片面で夜ならばもう片面では昼である」との今日的描写までをもなしている。だが、といったことまでは常識で容易に説明ができるところである(と解される)。というのもギリシャに遡っての古典時代に既に地球は球体であるとの見解が呈されており、また、ギリシャ以後の古代ローマにてはそちら地球球体説が当然と容れられていた節もあり(ギリシャ・ローマ時代とのことではプラトン・アリストテレス・ストラボン・プトレマイオスなど主たる哲学者・地理学者は皆、同[地球球体説]を論拠あるものとして支持していたことがよく知られている)、一端、往古の知性が破壊されたとされる中世暗黒時代から近世にかけてのルネサンス期にあって「も」同説(地球球体説)が各自銘々の知識人に積極的に容れられていた、イスラム世界で残置していた古典古代の知識の欧州への再流入より容れられていた節があるからである(ただし、ダブル・スタンダードとしていまだ[地球平面説]が社会の主たる構成員のマインドを規定していたとも当然に解されるようになっている)。しかし、 古典古代のアリストテレス的[重力]観がダンテの知るところとなっていたと仮定してもダンテやりようの絡みではブラックホール(今日的な観点で見た場合のブラックホール理解)との多重的接続性の絡みで拭い去れぬ奇怪性がそこにある―― )。


 他面、ジョン・ミルトン『失楽園』にあって「も」
[今日の物理学上の話柄にあってのブラックホールの「質的」近似物]
が描かれているとの[現象]が認められる。

 具体的には

E.[[果てなき(底無し暗黒領域]

F.[大きさ・時間場所無意味となる領域]

G.[自然の祖たる領域]

とのミルトン『失楽園』に見るアビス(地獄門の先にある深淵領域)にまつわる描写が

E.[底無し暗黒領域]

F.[時空間の法則破綻する(「時間」と「空間」が本来通りの意をなさなくなる)領域]

G.[それをもって自然の祖であるとする観点が存する場]

とのブラックホール特性と共通のものとなっているとのことが現実にある(※続く段に付しての補うべくもの出典(Source)紹介の部55(3)を参照のこと))。


 ダンテ『地獄篇』にあっての、

[今日的な理解にあってのブラックホール近似物の描写(於て:コキュートス)]

ミルトン『失楽園』にあっての同じくもの、

[今日的な理解にあってのブラックホール近似物の描写(於て:アビス)]

は双方別個に別々の側面からブラックホールとの近似性を呈するとのものであるが、「極めて奇怪なことに」双方共に

ルシファーによる災厄
地獄門の先にある破滅・悲劇に関わる通路

と結びつけられているとのことがある。

 以上、i.からiii.と区切ってのことらにつき、まとめれば、『地獄篇』および『失楽園』との両古典を合算して見た際に、

[ [ルシファーによる災厄]および[地獄門(と描写されるもの)の先にある[破滅][悲劇]への通路]との両要素と結びついたポイント]

に関わるところで

A.[[不帰の領域]にまつわる隻句(『地獄篇』地獄門隻句)を目にしたところから入って最終的に到達した「悲嘆」を体現しての地点] (『地獄篇』コキュートス)

B.[重力の源泉と「際立って」描写されている地点] (『地獄篇』コキュートス)

C.[(静的描写として)罪障がゆえに「凍りついた」者達が、と同時に、(動的描写として)「永劫に粉砕され続けている」との地点] (『地獄篇』コキュートスの中枢ジュデッカ)

D.[光に語源を有する存在](ルチフェロ)が幽閉されている地点] (『地獄篇』コキュートスの中枢ジュデッカ)

E.[[果てなき(底無し暗黒領域] (『失楽園』アビス)

F.[大きさ・時間「場所無意味となる領域] (『失楽園』アビス/17世紀成立の『失楽園』の刊行時には時間と空間を有機的一体と見る相対性理論に通ずる発想法は無論、なかった)

G.[自然の祖たる領域] (『失楽園』アビス)

との要素らを「全て兼ね備えての」ありようが具現化していると述べられるようになっており、そうしたありようが現代物理学 ――(その担い手らが本質的には知性も自由度もないにも関わらず知性あるフリをさせられている下らぬ人種(ダンテ地獄篇にて欺瞞をこととする[人類の裏切り者]らとして氷地獄に閉じ込められているような者達)か否かどうかはこの際、関係ないものとしての現代物理学)―― の発展にて呈示されるようになったとの[「今日的な観点で見ての」ブラックホール像]と共通性を呈している、すなわち、

A.[一度入ったらば二度と出れない」との(事象の地平線の先にての)領域] (ブラックホール内側)

B.[重力の源泉となっている場] (ブラックホール) 

C.[外側(生者)から見れば(静的描写として)被吸引者が[時が止まったような状況になりつつも(動的描写として)その被吸引者本人(死者と化した者)から見れば「粉砕され尽くしている」との場] (ブラックホール)

D.[光さえもが逃がれられないとされる場] (ブラックホール内側) 

E.[底無し暗黒領域] (ブラックホール)

F.[時空間の法則破綻する(「時間」と「空間」が本来通りの意をなさなくなる)領域] (ブラックホール)

G.[それをもって自然の祖であるとする観点が存する場] (ブラックホール)

との特徴を全て兼ね備えたものとしての[「今日的な観点で見ての」ブラックホール像]と共通性を呈していると摘示できるように「なっている」とのことがある。


さらに補ってもの表記として

 ダンテは
ルシファー]([金星]こと[明けの明星]を語源とする存在であるが、よりもって根本的には[光]に語源を有するとの存在)の幽閉地

重力の中心点
として設定しているのと同時に
永劫の凍土(氷地獄)]
とも設定している(先立って原文引用なしているとおりである)。
 その氷地獄との描写の仕方からしてブラックホールのありようを想起させるところともなる。
 というのもブラックホール理論の発展過程において[重力の怪物]たるブラックホールは
[凍り付いた恒星](フローズン・スター)
と当初、(そうなるべくして)形容されていたからである。
 については
[英文Wikipedia[ Black hole ]項目のHistory(理論史)の節]
にあって次の表記がなされているところである。

(直下、英文ウィキペディア[ Black hole ]項目のHistory(理論史)の節にあっての現行記載内容より引用をなすとして)

Oppenheimer and his co-authors interpreted the singularity at the boundary of the Schwarzschild radius as indicating that this was the boundary of a bubble in which time stopped. This is a valid point of view for external observers, but not for infalling observers. Because of this property, the collapsed stars were called "frozen stars", because an outside observer would see the surface of the star frozen in time at the instant where its collapse takes it inside the Schwarzschild radius.

(入念に補いもしての拙訳として)
「オッペンハイマー(訳注:重力崩壊に対する理論を煮詰めもしてブラックホール理論の旗手ともなっていたかのマンハッタン計画の主導者ロバート・オッペンハイマー)および彼の共著者ら ――(訳注:文脈上、Tolman-Oppenheimer-Volkoff limitこと[トルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ境界]という星の重力崩壊の区切り点にまつわる理論を提唱したオッペンハイマーの理論展開にあたっての論稿共著者ら)―― 
[[シュヴァルツシルト半径] (訳注:本稿の後の段で説明のされようを呈示するところの[ブラックホールができあがるうえでの円形領域の半径]/思索対象となる物体の[質量]によってそちら[半径]が変動するとのもの)の境界面にあっての特異点(訳注:そこを越えると従来の法則が成り立たなくなり際限なくもの重力崩壊プロセスが進むとのポイント)
をして
[これは[時間]が停止を見る泡の境界を示しているのであろう]
と解釈していた。
 この見方は外側の観測者ら(訳注:ブラックホールの外側の観測者ら)にとっては適正なる見方だが、ブラックホールに落ちこむ観測者らから見れば、適正なる見方ではない
 こうした属性がゆえに、[縮退星
(訳注: collapsed starはブラックホールという言葉が生み出される前にブラックホールを指して用いられていたところの一呼称)
Frozen Stars[フローズン・スターズ(凍り付いた恒星)]
とも呼ばれていた、というのも外側の観察者はその星がシュヴァルツシルト半径の内側へ向けて崩壊していくまさにその場、その瞬間を[凍り付いた恒星の外面]とのかたちで見ることになるからである
(訳注:ここにての[ frozen stars ]との呼称についての解説については引用元とした英文Wikipedia[ Black hole ]項目にて現行は Ruffini, R.; Wheeler, J. A. (1971). "Introducing the black hole". Physics Today 24 (1): 30-41.との出典が紹介されている。そちら出典表記に見るWheeler, J. A.ことジョン・アーチボルト・ホイーラーはブラックホールとの呼称を生み出した著名物理学者のことを指す)

(引用部はここまでとしておく)

 以上のことからも、そう、ブラックホールがそのように呼称されるべくして[凍り付いた星( Frozen Star )]と呼ばれていたとの歴史的経緯からもダンテ『地獄篇』の[光に語源をもつ存在が幽閉されている重力の中枢領域]たる[氷地獄](外側から見れば永劫に凍り付いているとの者達が、と同時に、粉砕されつくしているとのポイント)が何故もってブラックホールと相通ずるものとなっているのか、よりもってお分かりいただけることか、と思う。

さらに補ってもの表記はここまでとする


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直下、本稿冒頭部へのリンクを設けておく

(⇒冒頭頁へは下の部より)

[典拠紹介部第1頁 加速器実験に伴う欺瞞性から証示なせることについて]

 上にて挙げているのはドイツ浪漫主義芸術の巨匠たる18世紀画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Freemasonでもあったとの画家 Caspar David Friedrich)の手になる一品、

Der Wanderer uber dem Nebelmeer雲海の上の旅人』(に多少の[動き]をアレンジとして加えたもの)

となる。

 言われようの問題として一般に、

[人間の崇高なる精神が高みを目指し、ついぞ多くの物事を達観するに至った時、その折の孤独と感慨を描いた画]

などと形容される上掲の『雲海の上の旅人』に関して(本稿でもその言行を順次・段階的に取り上げることになるとの)物理学者リサ・ランドールは[次のような申しよう]をなしている。


(直下、物理学者リサ・ランドールの手になる著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)にての CHAPTER THREE LIVING IN A MATERIAL WORLD[第三章 物質世界に生きる]の章の記述内容 ――オンライン上検索エンジンにあっての原文検索にて該当部特定できるところの記述内容―― よりの原文引用をなすとして)

Our universe is in many respects sublime. It prompts wonder but can be daunting ―even frightening― in its complexity.  Nonetheless, the components fit together in marvelous ways. Art,science, and religion all aim to channel people’s curiosity and enlighten us by pushing the frontiers of our understanding. They promise, in their different ways, to help transcend the narrow confines of individual experience and allow us to enter into―and comprehend―the realm of the sublime. (See Figure 11.)
          [ . . . ]
[ FIGURE 11 ] Caspar David Friedrich’s Wanderer Above the Sea of Fog (1818), an iconic painting of the sublime ― a recurring theme in art and music.

(上の原著引用部に対する[訳文]として国内流通訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版にあっての81ページに記載されているところを引くとして)

多くの点で、私たちの宇宙は崇高だ。その複雑さは好奇心を駆り立てはするが、無力感も抱かせるし、ことによっては恐怖さえも感じさせる。にもかかわらず、宇宙の構成要素は素晴らしくぴたりと絡みあっている。芸術、科学、宗教は、いずれも人々の好奇心を促して、理解の限界を広げさせ、それによって私たちを啓蒙することを目指している。いずれもそれぞれのやり方で、個人の経験の狭い領域を越えさせることを約束している。それがかなえられたとき、私たちは崇高なものの領域に踏み込む――そして理解する――ことができるのだ(図11を参照)。 …(中略)… [図11]ドイツの画家カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ。崇高さは、美術と音楽に繰り返し登場するテーマである

(以上をもって Knocking on Heaven’s Doorにての原著表記および訳書よりの引用とした)


 さて、何故、ここ脇に逸れての部にあって「目立つように」特定絵画 ― 『雲海の上の旅人』― を挙げ、その絵画に対する物理学者の評しよう ―「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ....― などを引いたりもしたのか

「それは、」
絵画『雲海の上の旅人』に対して直上引用なしたような評しようをなしているとの物理学者リサ・ランドールが

加速器によるブラックホール生成可能性にまつわるトピックの理論深化に一廉ならぬ貢献をなしているとの著名物理学者

[[崇高なるもの]を目指しての宇宙の探求(およびそのための装置と銘打たれている巨大加速器LHC)の称揚・礼讃をなしているとの向き

であるとのことがあり、また、なおかつ、彼女リサ・ランドールの手による、(絵画『雲海の上の旅人』を科学者が目指しての[崇高さ]とを結びつけている)引用元著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)が

人間のありよう(崇高さとはおよそ程遠いところにあるありよう)]
人間の辿る運命

を嘲笑うような[嗜虐的寓意]で満ち満ちていると申し述べられるようになっている著作であるとのことがある、遺憾ながら
[理の当然]
として申し述べられるところとしてある ――個人のせせこましい偏頗(へんぱ)な主観などとは一線を画したところで客観的かつ具体的にこれはこうでこうだと申し述べられるようになっている(出典呈示を第一義にしての本稿では無論、その論拠を事細かに挙げる)とのところとしてある―― からであり、そのことに注意を向けたかったからである(※)。

(※上にて引用元とした著作、 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)、同著にあってはその冒頭部より
September 10, 2008, marked the historic first trial run of the Large Hadron Collider (LHC). Although the name―Large Hadron Collider― is literal but uninspired, the same is not true for the science we expect it to achieve, which should prove spectacular. (表記英文引用部に対する訳として)「2008年9月10日、ラージ・ハドロン・コライダー(LHC)が歴史的始動を見た.[ラージ・ハドロン・コライダー]との名称は有り体に言ってインスピレーションを何ら与えぬとの平凡なものだが、私たちがそれ(LHC)に[証明すべきととらえている壮大なる挙]を託しているとの意では[科学(の進歩)]にとり同じくものことは真実とはならない(LHCは際立ってのインスピレーションを与えるものである)」
などとのことが書き記されている。
 そうもした書きようが目立ってもの冒頭部にてみとめられる著作ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアにおける表題、 [天国のドアをノックする]の由来についてリサ・ランドール女史は同じくもの著作の中で次のようなことを述べてもしている。
(以下、 Knocking on Heaven’s Doorにての CHAPTER FOUR LOOKING FOR ANSWERSより引用なすところとして)
I first heard the phrase “knockin”on heaven’s door”when listening to the Bob Dylan song at his 1987 concert with the Grateful Dead in Oakland, California. Needless to say, the title of my book is intended differently than the song’s lyrics, which I still hear Dylan and Jerry Garcia singing in my head. The phrase differs from its biblical origin as well, though my title does toy with this interpretation. In Matthew, the Bible says, “Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find; knock, and it shall be opened unto you: For every one that asketh receiveth; and he that seeketh findeth; and to him that knocketh it shall be opened. (以上原著表記に対して訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版[第四章]103ページにての表記を引くとして) Knocking on Heaven’s Door(天の扉を叩く)]――これが本書の原題だが、私が最初にこのフレーズを聞いたのは、一九八七年、カリフォルニア州オークランドでのグレイトフル・デッドとのコンサートで、ボブ・ディランが『天国への扉』を歌うのを聞いたときだった。いまでも私の頭の中ではディランとジェリー・ガルシアがこれを歌っているのが聞こえてくるけれど、いうまでもなく、私の本のタイトルは、この曲の歌詞とは意味が違っている。このフレーズは出典である聖書の一節とも違っているが、私のタイトルはこちらの意図を拝借したものだ。聖書の「マタイ伝」には、このように書かれている。「求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり
(以上、引用部とした)
 といったところ、新約聖書のマタイ伝にあっての
[求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり]
とのフレーズ、それが
[天国の門]・[天国への扉]・[天国への階梯](ステアウェイ・トゥ・ヘブン)
との兼ね合いでいかように嗜虐的なる別側面での意味( Double Meaning )と共にあるのか、そのことからして具体的典拠を挙げ連ねるとの式で遺漏無くも事細かに示そうというのが本稿の本義であるとここ脇に逸れての部にあって訴求しておきたいとの意図が筆者にはある)

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