典拠となるところの明示[50]――ダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』にあっ
ての[現代的観点から見た場合の多重的ブラックホール類似物]

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ダンテ『地獄篇』とミルトン『失楽園』に見る(「今日的観点で見た場合の」)ブラックホール近似物に関して何が問題になるのかについて[5]

 振り返りをなす。先立っての直前頁では

 ダンテ『地獄篇』にあっての、

[今日的な理解にあってのブラックホール近似物の描写(於て:コキュートス)]

ミルトン『失楽園』にあっての同じくもの、

[今日的な理解にあってのブラックホール近似物の描写(於て:アビス)]

は双方別個に別々の側面からブラックホールとの近似性を呈するとのものであるが、「極めて奇怪なことに」双方共に

ルシファーによる災厄
地獄門の先にある破滅・悲劇に関わる通路

と結びつけられているとのことがある。

 以上、i.からiii.と区切ってのことらにつき、まとめれば、『地獄篇』および『失楽園』との両古典を合算して見た際に、

[ [ルシファーによる災厄]および[地獄門(と描写されるもの)の先にある[破滅][悲劇]への通路]との両要素と結びついたポイント]

に関わるところで

A.[[不帰の領域]にまつわる隻句(『地獄篇』地獄門隻句)を目にしたところから入って最終的に到達した「悲嘆」を体現しての地点] (『地獄篇』コキュートス)

B.[重力の源泉と「際立って」描写されている地点] (『地獄篇』コキュートス)

C.[(静的描写として)外側から見た際に罪障がゆえに「凍りついた」者達がそこに横たわっている、と同時に、(動的描写として)当事者から見れば「永劫に粉砕され続けている」との地点] (『地獄篇』コキュートスの中枢ジュデッカ)

D.[光に語源を有する存在](ルチフェロ)が幽閉されている地点] (『地獄篇』コキュートスの中枢ジュデッカ)

E.[[果てなき(底無し暗黒領域] (『失楽園』アビス)

F.[大きさ・時間「場所無意味となる領域] (『失楽園』アビス/17世紀成立の『失楽園』の刊行時には時間と空間を有機的一体と見る相対性理論に通ずる発想法は無論、なかった)

G.[自然の祖たる領域] (『失楽園』アビス)

との要素らを「全て兼ね備えての」ありようが具現化していると述べられるようになっており、そうしたありようが現代物理学 ――(その担い手らが本質的には知性も自由度もないにも関わらず知性あるフリをさせられている下らぬ人種(ダンテ地獄篇にて欺瞞をこととする[人類の裏切り者]らとして氷地獄に閉じ込められているような者達)か否かどうかはこの際、関係ないものとしての現代物理学)―― の発展にて呈示されるようになったとの[「今日的な観点で見ての」ブラックホール像]と共通性を呈している、すなわち、

A.[一度入ったらば二度と出れない」との(事象の地平線の先にての)領域] (ブラックホール内側)

B.[重力の源泉となっている場] (ブラックホール) 

C.[(静的描写として)外側(生者)から見れば被吸引者が[時が止まったような状況]になっているとのことがありつつも(動的描写として)その被吸引者本人(死者と化した者)から見れば「粉砕され尽くしている」との場] (ブラックホール)

D.[光さえもが逃がれられないとされる場] (ブラックホール内側) 

E.[底無し暗黒領域] (ブラックホール)

F.[時空間の法則破綻する(「時間」と「空間」が本来通りの意をなさなくなる)領域] (ブラックホール)

G.[それをもって自然の祖であるとする観点が存する場] (ブラックホール)

との特徴を全て兼ね備えたものとしての[「今日的な観点で見ての」ブラックホール像]と共通性を呈していると摘示できるように「なっている」とのことがある。

(※ダンテ『地獄篇』の最終ゴールたる氷地獄コキュートスに
B.[重力の源泉となっている場
C.[「悲嘆の」川コキュートスにて(静的描写として)外側から見た際に罪障がゆえに「凍りついた」者達がそこに横たわっている、と同時に、(動的描写として)当事者から見れば「永劫に粉砕され続けている」との地点]

との側面が伴うのに対して、現代的観点で見た際のブラックホールに
B.[重力の源泉となっている場
C.[(静的描写として)外側(生者)から見れば被吸引者が[時が止まったような状況]になっているとのことがありつつも(動的描写として)その被吸引者本人(死者と化した者)から見れば「粉砕され尽くしている」との場]

との特性が伴っているとのまさしくものそのことに関わるところとしてブラックホール(と今日、呼ばれるに至ったもの)は初期、
Frozen Star[凍った星](ダンテ『地獄篇』の[重力の中枢にあっての氷地獄]のようなものとしてのフローズン・スター)
とも形容されていたとのこと「も」先立っての段で解説した ――そちら Frozen Starの現行、Wikipediaにての関連表記は[ Black Hole ]項目、そのHistoryの節にての This is a valid point of view for external observers, but not for infalling observers. Because of this property, the collapsed stars were called "frozen stars", because an outside observer would see the surface of the star frozen in time at the instant where its collapse takes it inside the Schwarzschild radius.「この見方は外側の観測者ら(訳注:ブラックホールの外側の観測者ら)にとっては適正なる見方だが、ブラックホールに落ちこむ観測者らから見れば、適正なる見方ではない。こうもした属性がゆえに[縮退星](訳注: collapsed starはブラックホールという言葉が生み出される前にブラックホールを指して用いられていたところの一呼称) Frozen Stars[フローズン・スターズ(凍り付いた恒星)]とも呼ばれていた、というのも[外側の観察者]はその星がシュヴァルツシルト半径の内側へ向けて崩壊していくまさにその場、その瞬間を[凍り付いた恒星の外面]とのかたちで見ることになるからであるとの部位となる―― 

とのことが背景にあるとの事実認識([文献的事実]の把握)を受けてミルトン『失楽園』の問題となる部にあってトロイアとの接合性「もが」見てとれるとのことの意味性を問題視していた。すなわち、

南端の海峡(ダーダネルス海峡)と共にトロイア比定地近傍となるマルマラ海を形成するもう一方の北端の海峡(ボスポラス海峡)のことが『失楽園』アビス横断路構築の苦難を表する下りの中で言及されている」
トロイアに木製の馬で引導を渡したとの武将オデュッセウスの渦巻きの怪物(カリュブディス)との遭遇エピソードのことが『失楽園』アビス横断路構築の苦難を表する下りの中で言及されている」
トロイア比定地近傍のダーダネルス海峡(ヘレスポントス/トロイア創設者ダルダニアに命名由来を持つ海峡)のことが『失楽園』アビス横断路構築のすさまじさを表する下りの中で言及されている」
トロイアの存在地とされるダーダネルス海峡近傍で具現化を見たとされる古代史上の出来事 ――クセルクセス王の船橋構築―― のことが『失楽園』アビス横断路構築のすさまじさを表する下りの中で言及されている」

との側面がミルトン『失楽園』(のブラックホールとの類似性が問題になるアビスにての橋梁構築の部)にはみとめられ、ゆえに、トロイア(の崩壊譚)との接合性がみとめられる、そして、そのことがより先立って詳解を講じてきたところの関係性、たとえば、[下の図らにて示される方向性]などとの重なり合いがゆえに問題となると申し述べていた。

一例としての再掲図として)




 ここ本頁以降では以上、摘要振り返りをなしているが如きことがあることにつき、

[常識論で説明しようとすることの方が(普通であれば反対であるべきところを)「まったくもって困難である」とのことを示す「他の」事柄ら]

についての指し示しに入ることとする。

 とっかかりとして[ノアの洪水]や[デウカリオンの洪水]といった世界中に伝わる洪水伝承の淵源にまつわる[仮説]として、

[黒海洪水仮説]( Black Sea deluge hypothesis

というものが20世紀末より「目立って」提唱されだしているとのことを取り上げることとする。

 その点、[黒海洪水説]とは

[氷河期以来、各々、分立してつながっていなかったとの[地中海]と[黒海]が中途(およそ紀元前5600年頃)より水位変化を呈しだし、結果、[地中海から黒海への海水の大流入]がボスポラス海峡を貫通するかたちにて発生、それによって、黒海の領域が周辺に急拡大しつつ[地中海]と[黒海]が(あらたに形成された海峡を間に置くかたちで)結節するようになったとのプロセスを前面に出しての仮説 / 水位上昇による海峡形成を伴っての[地中海]と[黒海]の結節プロセスによって黒海周辺地域(の黎明期人類文明)に対して甚大な水害を及ぼした大洪水が発生したことにまつわる仮説

となり、1996年にアカデミック・ジャーナルで正式に発表されることになったとのその直前、ニューヨークタイムズに概要が発表されて物議を醸したとの説(そして、今日、説得力あるものとして市民権を獲得している説)となっていもする。直下、出典紹介部を参照されたい。


| 出典(Source)紹介の部57 |

 ここ出典(Source)紹介の部57にあっては

[黒海洪水仮説がいかようなものなのか]

についての解説を講ずることとする。

 まずもって、目に付くところとして英文ウィキペディアにいかなる記載がなされているのか、そちらより引用をなすこととする

(直下、英文Wikipedia[ Black Sea deluge hypothesis ]項目よりの部分引用をなすとして)

The Black Sea deluge is a hypothesized catastrophic rise in the level of the Black Sea circa 5600 BC due to waters from the Mediterranean Sea breaching a sill in the Bosporus Strait. The hypothesis made headlines when The New York Times published it in December 1996, shortly before it was published in an academic journal. While it is agreed that the sequence of events described did occur, there is debate over the suddenness, dating and magnitude of the events.
[ . . . ]
In 1997, William Ryan and Walter Pitman published evidence that a massive flooding of the Black Sea occurred about 5600 BC through the Bosporus, following this scenario. Before that date, glacial meltwater had turned the Black and Caspian Seas into vast freshwater lakes draining into the Aegean Sea. As glaciers retreated, some of the rivers emptying into the Black Sea declined in volume and changed course to drain into the North Sea. The levels of the lakes dropped through evaporation, while changes in worldwide hydrology caused sea level to rise. The rising Mediterranean finally spilled over a rocky sill at the Bosporus. The event flooded 155,000 km2 (60,000 sq mi) of land and significantly expanded the Black Sea shoreline to the north and west. According to the researchers, "40 km3 (10 cu mi) of water poured through each day, two hundred times what flows over Niagara Falls... The Bosporus flume roared and surged at full spate for at least three hundred days."

(多少補ってもの拙訳として)
 黒海洪水説は
ボスポラス海峡(へと現時なっている一帯)を貫通するかたちでの地中海よりの水の流入による、およそ紀元前5600年頃にての黒海の壊滅的水位上昇
を扱った仮説である。同仮説は1996年12月、学会誌に発表される少し前、ニューヨークタイムズのヘッドライン部を飾った(うえで反響を呈した)ものである。言及されての一連の出来事が発生したことについては(現行、)同意がなされているが、出来事の突発性、時期、程度に関してはいまだ議論がなされている。
・・・(中略)・・・
1997年、同説提唱者ウィリアム・ライアンとウォルター・ピットマンはおよそにして紀元前5600年頃に[以下続いて表記のシナリオ]によってボスポラス経由で黒海にあっての大がかりな洪水が発生したことについての証拠を呈示した。
「(洪水の)発生するはるか以前、エーゲ海(地中海ギリシャ方面)に向けて大量の水を排水させながらものかたちで氷河期の氷を含んだ水が[黒海]と[カスピ海]をして[巨大なる淡水湖]へとなさしめた。氷河の後退を見た折、黒海に流入する河川らのうちのいくつかは水位減退し、北海方面に向けて排水がなされる方向にその経路を変えた。世界的規模での水文学(訳注:ハイドロジー、水循環を研究する学問)的兆候が[海面水位の上昇]を引き起こしていた中にてのことながらそれら湖ら(初期巨大な淡水湖であった黒海およびカスピ海)の水位は(反面で)蒸発プロセスにて低位化を呈していた。(黒海らに比して)水位上昇を見ていた地中海はついに岩盤で蔽われたボスポラス地域を越えて(黒海に流入するとの)氾濫を見た。同出来事によって地表15万5千平方キロメートル(60000平方マイル)が冠水を見、そして、黒海沿岸は際立つかたちにて北西方向に拡大することになった。調査をなした研究者らによると、[40立方キロメートル(10立方マイル)もの水量、[ナイアガラの滝にて1日に流れる水量の200倍もの水量]が一日毎に黒海に注ぎ込み、ボスポラスにて出来上がった水路が最少で300日以上も轟音を発するかたちで水が押し寄せていた]とのことである」

(訳を付しての引用部はここまでとしておく)

 以上のようにウィキペディア原文抜粋部に見るような黒海洪水説、1996年に発表された同説がいかにしてニューヨークタイムズにお目見えしたのかについて、同媒体(ニューヨークタイムズ)よりの原文引用でもって指し示しておくこととする。

(直下、オンライン上より誰でも特定できるところの Geologists Link Black Sea Deluge To Farming's Rise『地理学者らが黒海の洪水をもって農業の隆盛と結びつけた』との題名振られての1996年12月17日付け( Published: December 17, 1996 )の The New York Times記事よりの一部抜粋をなすとして)

The team leaders, Dr. William B. F. Ryan and Dr. Walter C. Pittman 3d, both of Columbia University's Lamont-Doherty Earth Observatory in Palisades, N.Y., described the results of their research in interviews last week. A full scientific report is to be published next spring.
Other geologists familiar with the work seem to have no quarrel with the basic reconstruction or the timing. But Dr. Ryan and Dr. Pittman have taken their interpretation of the flood's possible consequences a tentative but bold step further, two geologists treading on the turf of archeologists. The rumblings of controversy, like the beginnings of the Bosporus cascade, can already be heard.
Could it be, Dr. Ryan and Dr. Pittman speculate, that the people driven from their land by the flood were, in part, responsible for the spread of farming into Europe and advances in agriculture and irrigation to the south, in Anatolia and Mesopotamia? These cultural changes occurred around the same time as the rise of the Black Sea.
Could it also be, they ask, that the Black Sea deluge left such enduring memories that this inspired the later story of a great flood described in the Babylonian epic of Gilgamesh? In the epic, the heroic warrior Gilgamesh makes a dangerous journey to meet the survivor of a great world flood and learn from him the secret of everlasting youth.
If a memory of the Black Sea flood indeed influenced the Gilgamesh story, then it could also be a source of the Noah story in the Book of Genesis. Scholars have long noted striking similarities between the Gilgamesh and Genesis flood accounts and suspected that the Israelites derived their version from the Gilgamesh epic or independently from a common tradition that might have stemmed from a real catastrophe long before.

(多少、補ってもの拙訳として)
「コロンビア大の Lamont-Doherty Earth Observatory(ニューヨークはパリセードの地球科学関連研究施設)に所属しているとのウィリアム・B・F・ライアン博士とウォルター・C・ピットマン(3世)博士らの両・調査チームリーダーらは先週本紙のインタヴューに応じ彼らの(黒海洪水説にまつわる)研究結果につき語った。全容を納めての彼らの科学報告書は来春にてリリースを見る予定である。
 研究に通じているとの他の地学者らにあっては[基本的再現手法]および[時期同定]につき「議論の余地なし」と見ている節もある。しかし、ライアン博士とピットマン博士の両氏、考古学者の領分に踏み入った二人の地理学者らは洪水のありうべき帰結に関する彼ら解釈をして暫定的な(最終的ではない暫定的な)、しかし、勇気が要されるとの「さらに先への」一歩であるととらえている。
(提唱された説に見る)ボスポラス海峡が出来上がったときのように議論のさざめきが既に聞こえてきている。
 果たしてライアン博士とピットマン博士の両氏が推測するように、人々は洪水によって彼らの土地より追われるようになり、他面、(同じくもの人々が)アナトリアやメセポタミアでヨーロッパや他の(古代)先進地域に向かって、南方に向かって農業・灌漑にあっての農地経営の広がりとの役割を果たさせられることになったのだろうか。につき、これら文化的変移は黒海の水位上昇と時を同じくして発生しているとのことがある。
 また、黒海にあっての洪水が[風化に耐えもしている]との記憶、バビロニアのギルガメシュ叙事詩に見る大洪水伝承の元となったものとしての不朽の記憶を遺したということも同様にありうるものなのか、両博士は問うてもいる。叙事詩にて英雄的戦士でもあるギルガメシュは世界的大洪水の生き残りとの出会いを実現、また、彼より永遠の若さの秘密を聞き出したとある。
 仮にもし本当に黒海にての洪水の記憶がギルガメシュの物語に影響を与えているのだとすれば、それはまた聖書創世記に認められるノアの物語の源泉ともなりうる。学者らはギルガメシュ(の物語)と『創世記』の洪水への言及の間に横たわる衝撃的類似性につき長きにわたって着目してきたし、また、イスラエルの民らがギルガメシュ叙事詩から彼らなりのそれ(洪水伝説)を作るために奪うことをなしたのではないか、あるいは、イスラエルの民が遥か昔に生じた現実の壊滅的事態に端を発する共通の伝承から各々独立に彼らの洪水伝承を構築したのではないか、と疑いもしてきた」

(訳を付しての引用部はここまでとしておく)

(黒海洪水説の概要は視覚的には[上掲図]のように示されるものとなる ――尚、図の上方部に付した地図は英文Wikipedia[ Black Sea deluge hypothesis ]項目にも掲載されているもの、米国政府関係者に由来する公共的なる図として著作権の縛りがないことが表記されているものとなる―― )

出典(Source)紹介の部57はここまでとする)


 1996年という年次にあって、

[黒海がかつて(紀元前5600年、すなわち、今より7600年前とされる折)、氷河期退行の中、地中海サイドとの水位差に起因する地中海からの大量の海水の流入に曝され、によってボスポラス海峡が形成される(黒海とマルマラ海をつなぐかたちで形成される)のと同時に大規模な氾濫を呈しながら北西方向に拡大することになった]

との説が提唱され、それによって今日に伝わる洪水伝承の説明を付けようとの学界思潮が生じてきたわけである(:同じくもの仮説は「説得力が高い」ものとも現行看做されていることがよくも語られる。たとえば、英文Wikipedia[ Black Sea deluge hypothesis ]項目にあってのCriticism(批評)の節にも記載されていることとして、多重的な視点でユネスコの調査チームが2005年から2009年にかけて調査を行い、同仮説がまったくもって無理のない( quite mild )であるとの調査報告を出していると記載されていることからも同じくものことが伺いしれる ― A five-year cross-disciplinary research project under the sponsorship of UNESCO and the International Union of Geological Sciences was conducted 2005--9および A February 2009 article reported that the flooding might have been "quite mild".との英文Wikipedia該当項目内の記述がここで引き合いに出しているところとなる― )。

 上の如しの黒海洪水仮説を本稿にて取り上げたのは、無論、
[当該の仮説そのものの適否]
につき云々するためではない(そういうことの適否を具象論として云々するのは実地調査をなしているとの専門知識を有した学者ら領分であって門外漢が食指を伸ばすべきところではないだろうと当然に見ている)。

 それが「極めて真っ当なものである」と評価されていても仮説そのものの真偽自体は「本質的なことではない」として脇に置き、代わって本稿で問題視しているのは、そういう仮説が提唱されていることにも関わるところの「史的」背景・「伝承に依拠しての」背景それ自体に

トロイア崩壊の寓意

にも

アトランティス崩壊の寓意

にも

[ミルトン『失楽園』の寓意

にも「不可解に」接合する ――そう、であるから、重要なこととして「不可解に」接合する―― との側面が見受けられ、また、ブラックホールのことを想起させるとの側面すらもがそこにあるとのことが見受けられるからである(といった言いようがこの段階では[奇異さ]が際立っているものとしか受け取れぬものであることは言うまでもないことだが、何故、そうした物言いが「なせてしまうのか」、続けての段にて詳説に詳説を重ねる所存である)。

 それがゆえに、同仮説([黒海洪水説])につき取り上げることとしたのである。

 上のように断ったうえで話を続ける。

 ここで先にもそうであること、言及したように日本の高校にての『世界史』の「お勉強」でも要求される知識水準の話 (金太郎飴的な[ナレッジ]のレベルであって、[社会維持・社会構築に役立つ能吏としての才、すなわち、一定以上の理解力とインプット・アウトプット能力を有する者らの社会的適正配置]といったことを主目に置いているように見受けられる受験戦争なぞでとかく軽視されがちな知性、定石を崩すが如く応用をなし、かつ、それでいて適正なる解を導き出すとの[ウィズダム]のレベルの話ではない知識にまつわっての話) として

[マルマラ海を南の[地中海]と北の[黒海]に分かつ海峡がボスポラス海峡(北端部)とダーダネルス海峡(南端部)となっている ―地理観明瞭とせぬとの向きにおかれては先に挙げての地図を参照いただきたい― ]

とのことがある。

 うち、ボスポラス海峡については

[マルマラ海より黒海(往古、淡水湖であったとの説がある黒海)に大量の水が流れ込んだ際に形成された海峡にして大洪水と結びつくものであったとの海峡]

との地理学者由来の説得力高き申しようが[黒海洪水仮説]とおのかたちで1996年より目立って取り沙汰されているとのことがある(直上の段にて既述のこととなる)。

 北端のボスポラス海峡にあってそういったいわれようがなされている一方で南端のダーダネルス海峡、トロイアの始祖ダルダノスより命名されてのものである(と先述の)同ダーダネルス海峡からして
[洪水伝承]
と結びついているとのことがある。

 具体的にはトロイア始祖として知られるダルダノス、その彼自体が

[古の洪水にあっての生き残り]

と語り継がれているとの向きでもあるとのこともがあるのである(典拠はすぐに挙げる)。

 そして、そのことに関わるところで

「黒海の界隈で往古、大洪水があったのではないか」

との見解が歴年、「黒海洪水仮説(先述)」とはまた別に呈されてきたとのことがあるとのことがある。

 以上のことら、

[ダーダネルス海峡一帯 (先述のようにトロイア創建の地と伝わる一帯にしてシュリーマンがトロイアの遺構と「される」遺跡を発掘したポイント) からして ――トロイア始祖としてのダルダノス自体に大洪水の生き残りとの伝承が伴っているとの式で―― 洪水伝承と結びつく側面がある]

[黒海の界隈で往古、大洪水があったのではないかとの見解が(黒海洪水仮説とはまた別に)歴年呈されてきたとのことがある]

とのことの出典を挙げることとする。

 それにつき、まずもってはウィキペディア ――(内容の易変性・匿名の編集者ら(ときに自画自賛や情報操作を目的にしている者も含むとの匿名の編集者ら)執筆がゆえの文責の所在の曖昧さのために「必要以上にそこから言を引けば(教育程度の高い、あるいは、そう任じているとの人間からは)軽侮を招こう」との媒体とはなるが)―― 、和文ウィキペディア[ダルダノス]項目に以下のような記述がなされていることから「まずもって」問題視しておく。


| 出典(Source)紹介の部58 |

 ここ出典(Source)紹介の部58にあっては

[トロイア創建者ダルダノスが洪水の生き残りとして知られていることについての基本的解説のなされよう]

についてまずもって紹介しておくこととする

(直下、和文ウィキペディア[ダルダノス]項目よりの引用をなすとして)

古代ローマの著述家ヴォッロによると、 ダルダノスはアルカディア地方北部の都市ぺネオスの王であった。しかしぺネオスを大洪水が襲って、人々が高地に追いやられとき、 ダルダノスはぺネオスの支配を息子デイマスに任せ、自分は人々の何割かを連れてサモトラケー島に移住したというジェイムズ・フレイザーは、同地の、洪水の起きやすい土地柄から、こうした伝説が生まれたと述べている

(引用部はここまでとする)

出典(Source)紹介の部58はここまでとする)


 上にて言及されていること、トロイア創始者たるダルダノスという男が洪水の生き残りとされていることにつきさらに細かくもの出典紹介をなす。

 ここでは19世紀末から20世紀初頭にかけて人類学分野にあって草分け的なる事績を遺したことで知られている、そう、[斯界の泰斗](その方面での大立者)として知られているとのジェイムズ・フレイザー ――(同フレイザーについては大学で民俗学や文化人類学をまじめに学んだ人間ならほぼ確実にその名と事績につき知っているといった評価が聞かれるとのレベルでの学者となっているわけだが、そこからして疑わしきにあってはオンライン上より即時即座に確認いただけるとのウィキペディアなぞの[ジェームズ・フレイザー]にまつわる項目やフレイザー主著の[金枝篇]にまつわる項目から目を通してみたりするのもよかろう)―― によって[洪水伝承]絡みの分析もがなされているとの著作、

Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Law(1918年初出)

との論稿よりの引用をもなしておく(:同著作については邦訳版として英文学者の故星野徹の訳(全訳ではなく抄訳)になる『洪水伝説』(国文社)が出されており、筆者は訳書および原著の両方ともに目を通している)。


| 出典(Source)紹介の部58(2) |

 ここ出典(Source)紹介の部58(2)にあっては

[人類学分野の泰斗たるジェイムズ・フレイザーがいかようにしてトロイア創建者ダルダノスが洪水より逃げのびたと解説しているのか]

について紹介することとする。

(直下、ジェイムズ・フレイザーの洪水伝承蒐集論稿たる Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Lawの邦訳版たる『洪水伝説』(国文社)六一ページよりの原文引用をなすとして)

「アルカディアの高地帯にあった故郷から、移住者ダルダノスはサモトラケ島へと移っていたと言われる一つの説明によると、彼は筏に乗ってそこへ漂っていっただがもうひとつの版の伝説によると、大洪水がアルカディアでなくサモトラケにおいて彼に追いついたので、彼は空気でふくらせた皮袋に乗って避難し、海面を漂ったあげくにイーダ山に上陸して、その土地に彼はダルダニア、またはトロイアを建設した

(引用部はここまでとしておく ―※― )

(※上は抄訳(部分訳)とのかたちで和訳されている書籍『洪水伝承』よりの引用となるが、オンライン上の Internet Archiveのサイトより(部分部分文字化けなどしている箇所もあるが)テキスト情報を確認でき、また、原著をそのままスキャンしてのPDF版もオンライン上のサイトより入手できるとのフレイザーの原著 Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Lawの上と対応するところの原著記述の引用もなしておく (以下、 Folk-lore in the Old Testamentにての p.167、CHAP. IV GREEK STORIES OF A GREAT FLOOD(第四章[大洪水にまつわるギリシャ伝承]の部)の内容を引くとして) From his home in the highlands of Arcadia, the emigrant Dardanus is said to have made his way to the island of Samothrace. According to one account, he floated thither great flood on a raft ; but according to another version of the legend, the great flood overtook him, not in Arcadia, but in Samothrace, and he escaped on an inflated skin, drifting on the whence he face of the waters till he landed on Mount Ida, where he escaped to founded Dardania or Troia.(フレイザー原著にては(諸種サイトあたって無償PDF版などを入手いただければ確認いただけようこととして)フレイザーが典拠としているところの出典も無論、細かくも紹介されている))

出典(Source)紹介の部58(2)はここまでとする)


 直近、取り上げもしたことからお分かりいただけたことだろうが、

[トロイアの創建自体が洪水伝説と結びついている]

とのことがあるのである (:そして、本稿にての出典(Source)紹介の部44-3および出典(Source)紹介の部44-4にてスミュルナのクィントゥスの手になる Posthomerica『トロイア戦記』より原文引用なしながらも先に示していたように[(木製の馬から侵入したギリシャ勢に城門解錠されて内側から住民皆殺しの憂き目に遭った後の)トロイアの末路]も神罰としての洪水にあったとの古文献記述も存在しているため、トロイアという伝説上の都市に関しては「洪水に始まり」「洪水に終わった」都市であったとの申しようもなせるようになっている ――そのようなことをすべて把握しているとの向きは日本はおろか、[ギリシャ伝承のことが教養として知れ渡った欧米圏](たとえば、ドイツでは現代でもギムナジウム(大学進学予備門)でギリシャ語学習と同時にギリシャ古典のかなり突っ込んでの学習がなされると聞き及ぶ)にもあまりいないことか、とも思われるのだが(というのもスミュルナのクィントゥスの Posthomerica『トロイア戦記』の如き文献の当該顛末にまつわる内容が[知識]としてほとんど知られていないように見えるとのことがあるうえに、フレイザーが蒐集・提示しての直近呈示の伝承のこと「も」あまり知られていないと見受けられるとのことがあるからである)、とにかくも、古文献に見るトロイアは「洪水にはじまり」「洪水に終わった」都市であるとの形容がなせる都市ともなっている―― ) 。

 だけではない。

 トロイア始祖ダルダネスに係る洪水伝承 ――安楽椅子からであろうとフレイザーが幅広く、深く蒐集・開陳しているとの資料に基づいてのダルダネスに関わる洪水伝承―― には黒海洪水伝承「そのもの」との結節点が「濃厚に」存在するとのことがある。

 その点、[トロイア始祖ダルダニアは[サモトラケ]から逃げてきたが洪水に追いつかれた]とフレイザーが蒐集・開陳している伝承には語られているわけだが(最前にて引用したところである)、そのサモトラケ島 ――サモトラケのニケでも有名なダーダネルス海峡南東のエーゲ海に抱かれての島―― に起因する伝承としてフレーザーは次のようなことをも書き記している。


| 出典(Source)紹介の部58(3) |

 ここ出典(Source)紹介の部58(3)にあっては

[人類学分野の大家として知られるジェイムズ・フレイザーがサモトラケ島に伝わる黒海界隈の洪水伝承のことを自著にて紹介している]

とのことにまつわっての典拠を挙げることとする。

(直下、ジェイムズ・フレイザーの洪水伝承蒐集論稿たる Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Lawの邦訳版『洪水伝説』(国文社)62ページよりの原文抜粋をなすとして)

(洪水にあたって)生存者は高山に逃げのびたということだった。
・・・(中略)・・・
この高山があるためにいまでもサモトラケ島は北エーゲ海の最も目立つものの一つとなっており、よく晴れた日にはその山々がトロイアからはっきりと見えるのである。海は逃げのびていく彼らをなおも追いかけてきたので、彼らは神々に救ってくれるようにと祈った。そして救われると島の周囲に、ここから自分たちが救助されたのだというしるしの境界線をつくり、また祭壇を築いてのちのちまで欠かさず犠牲を捧げてきた。
・・・(中略)・・・
サトモラケ人が、氾濫を引き起こした原因だと考えたものは、非常に注目すべきものであった。彼らによれば、大変動は豪雨のためではなく、黒海と地中海とをそのときまで分離していた障壁の陸地の崩壊によって海が突然異常に隆起したためであったそのときこの障壁の背後に堰き止められていた厖大な量の海水が許容量を超過して海水自体の力で堰き止めていた陸地に水路を切り開き、いまではボスポラス海峡とダルダネス海峡として知られる海峡をつくった

(引用部はここまでとする ―※― )

(※上の訳書よりの引用部についてはフレイザー原著、 Internet archiveのサイトなどより現行テキスト情報として確認でき、また、PDF版もネット上サイトより入手できる(要するにインターネットを通じて全文確認できる)とのフレイザーの原著 Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Lawにあってはそのp.168の内容、 The causes which the Samothracians alleged for the inundation were very remarkable. The catastrophe happened, according to them, not through a heavy fall of rain, but through a sudden and extraordinary rising of the sea occasioned by the bursting of the barriers which till then had divided the Black Sea from the Mediterranean. At that time the enormous volume of water dammed up behind these barriers broke bounds, and cleaving for itself a passage through the opposing land created the straits which are now known as the Bosphorus and the Dardanelles, through which the waters of the Black Sea have ever since flowed into the Mediterranean.との部が原著にての該当部となっている)

出典(Source)紹介の部58(3)はここまでとする)


 ここまで呈示してきたことの整理をなす。

「トロイアの始祖となったダルダノス(黒海とエーゲ海の境界部に存在するマルマラ海の南端に位置するダーダネルス海峡周辺にトロイアを建立したとされる男)には[洪水の生き残り]との伝承が伴っており」

「ダルダノスが洪水から逃げた先たるサモトラケ島(エーゲ海にてのトロイア遺跡近辺の地)に伝わる洪水伝承では今日にて隆盛を見るに至った黒海洪水仮説とほぼ同様の内容 ――黒海が地中海から孤立している存在であったところをボスポラス海峡・ダーダネルス海峡の両海峡を形成するだけの水の氾濫が起こったとの内容―― がみとめられる」

とのことがある、「現実問題として」あるわけである(その点、1996年に威力高き説として提唱されたとのことを先述の今日の黒海洪水仮説では地マルマラ海北端の[ボスポラス海峡]のみを形成するだけの[地中海と黒海をつなぐことになる大規模氾濫]が起こったとされているわけだが、伝承では[ボスポラス]および[ダーダネルス]の両海峡を形成するだけの[地中海と黒海をつなぐことになる大規模氾濫]が起こったとされている ――[伝承]と[近年呈示の仮説]の間に横たわる相違点についても一応、後の段でまとめての図示をなしておくこととする―― )

 以上整理したうえでさらに述べれば、である。

 ゴールデン・バウ( The Golden Bough )、[人間の歴史にあっての[呪術的観点の影響の系譜につきつまびらやかにせんとしたとの論稿]たる同『金枝篇』で令名を馳せていた学究、民俗学・人類学分野の方面での大立者として今日認知されている学究たるフレイザーが論稿 Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Lawを発表した当時、1918年の時点からして、そして、さらに述べれば、遙か昔から

[20世紀末(1996年)に提唱された黒海洪水説に相通ずる先駆版的なる説](氾濫の方向性を異にするのだが、黒海界隈で大規模氾濫があったとの説)

が提唱されていた、とのことにまで同じくものフレイザーが言及しているとのことがある(その程度のことからしてオンライン上の情報だけではなかなか特定しづらくなっているわけであるが)。
 フレイザーが語るところとしてサモトラケ人の伝承に限らず、そういう観点がフレイザーの同時代人、そして、古代の史家のレベルで「科学的観点でもって」導出されていたとされるのである(続いての出典紹介部を参照のこと)。


| 出典(Source)紹介の部58(4) |

 ここ出典(Source)紹介の部58(4)にあっては

[1996年に提唱された黒海洪水仮説と似たり寄ったりのことがフレイザーの同時代人、そして、古代の識者に由来するところとして「科学的に」口の端にのせられていた]

とのことにまつわっての典拠紹介をなすこととする。

(直下、フレイザー著作の邦訳版『洪水伝説』(国文社)62ページから62ページよりの掻い摘まんでの原文引用をなすとして)

さて、このサモトラケ島の伝承は近代の地質学によってある程度まで確証される。<さほど遠くない時代まで>とハクスレイは言う、小アジアの陸地とヨーロッパの陸地とは現在のボスポラス海峡の位置を横切って地続きになっており、高さ数百フィートの障壁を形作っていたが、これが黒海の海水を堰き止めていたしたがって東ヨーロッパと西中央アジアとの大部分は一つの巨大な貯水池となっていて、貯水池のヘリの最低の部分は、北極洋に流れこむオビ河の現在の南流域に沿って海抜二〇〇フィート以上の高さにおそらく位置していた。この盆地の中には、ダニューブ河とかヴォルガ河のようなヨーロッパ最大の河や、またかつてはアジアの大河であったオクソス河とかヤクサルテス河が、途中の支流を集めて水を注ぎ込んでいた・・・(中略)・・・黒海、カスピ海、アラル海が別々に存在する代わりに、地中海に似たポント・アラル海があって、・・・(中略)・・・ウラル河、またその他の支流の低地帯に沿って、入江やフィヨルドとなりながら伸び拡がっていたにちがいない・・・(中略)・・・この膨大な貯水池、もしくは広大な内海は、小アジアとバルカン半島とを結ぶ自然の高いダムによって限られ、かつ堰き止められていたが、その海は洪積世まで存在していたように見えるのであり、また侵蝕作用によってダルダネス海峡ができたために、堰き止められていた水がついに地中海への出口を見出したのだが、その海峡の生成は洪積世の末期近くか、あるいはその後のことであったと信じられる。・・・(中略)・・・ここから、東ヨーロッパの住民が、広大なポント・アラルの内海について、そしてまたその内海を地中海から隔離していたダムの侵蝕により、言い換えるとボスポラス海峡とダルダネス海峡との開口によりその海が部分的に干上ったことについて、伝承的記録を保持していたことはありうるだろうと思われる。

(国内で刊行されたとの訳書よりの引用部はここまでとする ―※― )

(※尚、オンライン上より表記テキスト入力で誰でも内容全文確認可能な原著 Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Lawにての対応箇所はp.168-p.169にあっての Now this Samothracian tradition is to some extent confirmed by modern geology. " At no very distant period," we are told, "the land of Asia Minor was continuous with that of Europe, across the present site of the Bosphorus, forming a barrier several hundred feet high, which dammed up the waters of the Black Sea. A vast extent of eastern Europe and of western central Asia thus became a huge reservoir, the lowest part of the lip of which was probably situated somewhat more than 200 feet above the sea-level, along the present southern watershed of the Obi, which flows into the Arctic Ocean.[ . . . ] At that time, the level of the Sea of Aral stood at least 60 feet higher than it docs at present. Instead of the separate Black, Caspian, and Aral seas, there was one vast Ponto-Aralian Mediterranean, which must have been prolonged into arms and fiords along the lower valleys of the Danube, and the Volga (in the course of which Caspian shells are now found as far as the Kuma), the Ural, and the other affluent rivers ― while it seems to have sent its overflow, northward, through the present basin of the Obi." This enormous reservoir or vast inland sea, bounded and held up by a high natural dam joining Asia Minor to the Balkan Peninsula, appears to have existed down to the Pleistocene period ; and the erosion of the Dardanelles, by which the pent-up waters at last found their way into the Mediterranean, is believed to have taken place towards the end of the Pleistocene period or later.[ . . . ]Hence it seems possible that the inhabitants of Eastern Europe should have preserved a traditional memory of the vast inland Ponto-Aralian sea and of its partial desiccation through the piercing of the dam which divided it from the Mediterranean,in other words, through the opening of the Bosphorus and the Dardanelles.との部位なる)

(直下、続いて、フレイザー著作邦訳版『洪水伝説』(国文社)64ページから65ページよりの掻い摘まんでの原文引用をなすとして)

サモトラケ人の伝承には、ダルダネス海峡の開口にともなう広範囲な氾濫の現実の記憶が保存されていたと想定する代わりに、この大洪水の物語は昔のある哲学者の推測にすぎぬものと想定する方がいっそう無難なように見える。哲学者は大自然による開口のきわめて緩慢な過程を想い描くことができなかったので、海峡の起源を当然そのように想像したわけである。実際、紀元前二八七年に逍遥学派の長の地位をテオプラストスから継承した有名な自然哲学者ストラトは、純理論的根拠にもとづいてこの見解を主張したのだが、彼は古代から言い伝えれられた伝承だからとして主張したのではなくて、黒海の自然的特徴の観察からその伝承を弁護したのである彼は厖大な量の泥土が幾つもの大河によって年々黒海に流しこまれることを指摘し、もしボスポラス海峡という出口がなければ黒海の海盆は早晩泥でふさがってしまうだろうと推論したさらに彼は、昔はこの同じ大河が河自体の力でボスポラス海峡を押し通って流れ、それらの河の合流した水量をまずマルマラ海に排出し、次にそこからダルダネス海峡を通って地中海に排出していた、と憶測した同じように彼はまた、地中海が昔は一つの内海であって、地中海と大西洋との連絡水路については、堰き止められていた水がそれ自体の力でジブラルタル海峡という出口を切り開いてつくったのだと考えた。結果としてわたしたちは、サモトラケ人が大洪水を引き起こした原因だと考えたものは古代の伝承よりもむしろ巧妙な推測にもとづいていたのだろう、という結論を引き出すかもしれない。

(国内で刊行されたとの訳書よりの引用部はここまでとする ―※― )

(※オンライン上より表記テキスト入力で誰でも内容全文確認可能な原著 Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Lawにあっての対応箇所はp.170-p.171に見受けられる Hence, instead of assuming that Samothracian tradition preserved a real memory of a widespread inundation consequent on the opening of the Dardanelles, it seems safer to suppose that this story of a great flood is nothing but the guess of some early philosopher, who rightly divined the origin of the straits without being able to picture to himself the extreme slowness of the process by which nature had excavated them. As a matter of fact, the eminent lationof physical philosopher Strato, who succeeded Theophrastus as phiio- head of the Peripatetic school in 287 B.C., actually main-sopher. taincd this view on purely theoretical grounds, not alleging it as a tradition which had been handed down from antiquity, but arguing in its favour from his observations of the natural features of the Black Sea. He pointed to the vast quantities of mud annually washed down by great rivers into the Euxine, and he inferred that but for the outlet of the Bosphorus the basin of that sea would in time be silted up. Further, he conjectured that in former times the same rivers had forced for themselves a passage through the Bosphorus, allowing their collected waters to escape first to the Propontis, and then from it through the Dardanelles to the Mediterranean. Similarly he thought that the Mediterranean had been of old an inland sea, and that its junction with the Atlantic was effected by the dammed up water cutting for itself an opening through the Straits of Gibraltar. Accordingly we may conclude that the cause which the Samothracians alleged for the great flood was derived from an ingenious speculation rather than from an ancient tradition.との部位となる ――尚、本稿筆者としては、である。[泥土堆積の力学が発散するとのかたちにてボスポラス・ダーダネルス海峡の両海峡が[黒海]⇒[地中海(のエーゲ海方面)]の方向での水の流れにて生まれることになったとの見解を呈していた古代哲学者ストラト(日本で使われる呼称は[ランプサコスのストラトン])が同文の式で[ジブラルタル海峡(ヘラクレスの柱)が[地中海]⇒[大西洋]の方向での水の流れに伴い、[純然たる内海たる地中海]と[大西洋]の結節点となる海峡として開通するとのかたちにて生まれることになった]と考えていたとのことがフレイザー洪水伝承分析論稿にて記述されている(そこだけ切り抜いて再引用なせば、Similarly he thought that the Mediterranean had been of old an inland sea, and that its junction with the Atlantic was effected by the dammed up water cutting for itself an opening through the Straits of Gibraltarとの式で記述されている)ことをも意味深くも見ている、すなわち、[ボスポラス・ダーダネルス海峡構築の機序がジブラルタル海峡構築の機序(ヘラクレスの柱構築の機序)と古代哲学者ストラトンによって結びつけられている]ことを意味深くも見ているわけだが、そこにいう本稿筆者が意味深くもとらえるところの理由、[何故なのかの問題]については(長大なる)本稿全体の内容からご判断いただきたいものである―― )

出典(Source)紹介の部58(4)はここまでとする)


 まとめれば、である。

 上にて引用なしたところでジェームズ・フレーザーは

[[ハクスレイ] (注記:こちらハクスレーとは[ダーウィンのブルドック]との異称でも知られるトーマス・ヘンリー・ハクスレー、既にフレイザー著作 Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Lawの刊行時には故人となっていたもののヴィクトリア朝期を通じて英国で影響力を持っていたとの生物学者にして Geological Society of London[英国地理学会]の代表者としての来歴を有しているとの同T homas Henry Huxleyのことを指している ――につき、フレイザーはここにて問題としているところの著作 Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Lawにての洪水伝承を扱ったセクション( CHAPTER IV THE GREAT FLOOD;日本にてその部を切り取っての抄訳がなされての著作もが出されているセクション)の冒頭部(Introductionの部)で自身がそのトマス・ヘンリー・ハクスレーの名を冠してのハクスレー記念講演( the annual Huxley lecture )にて講義をなす栄に与ったとのことを述べてもおり、そうした経緯でハクスレーのことがさして前置きなくに引き合いに出されているとのことが背景としてある―― ) が呈示していた見解]

を敷衍(ふえん・押し広げ)しもするとのかたちにて、


「サモトラケの伝承 ――(本稿にての先行するところの出典(Source)紹介の部58(3)で紹介したように The catastrophe happened, according to them, not through a heavy fall of rain, but through a sudden and extraordinary rising of the sea occasioned by the bursting of the barriers which till then had divided the Black Sea from the Mediterranean. At that time the enormous volume of water dammed up behind these barriers broke bounds, and cleaving for itself a passage through the opposing land created the straits which are now known as the Bosphorus and the Dardanelles, through which the waters of the Black Sea have ever since flowed into the Mediterranean.(訳として)[大変大変動は豪雨のためではなく、黒海と地中海とをそのときまで分離していた障壁の陸地の崩壊によって海が突然異常に隆起したためであった。そのときこの障壁の背後に堰き止められていた厖大な量の海水が許容量を超過して海水自体の力で堰き止めていた陸地に水路を切り開き、いまではボスポラス海峡とダルダネス海峡として知られる海峡をつくった]との内容を有しての伝承)―― に近しくものところで、

[地質学に依拠すれば、小アジア(トルコ界隈)とヨーロッパは今日そこにあるボスポラス海峡がかつて陸地となっていたとのかたちにて地続きになっており、その式で黒海は洪積世 ――(注記:洪積世とは一般教養の問題として今より258万年前から1万年前の期間を指す)―― まで巨大な閉じた内海(海抜200フィートに存在しての[ポントス・アラル海])だったと見受けられる。その洪積世にての膨大な貯水池・内海としてのポントス・アラル海に堰き止められていた膨大な水が(侵蝕作用によって)ダルダネス海峡を開通させて地中海に向けて水が流れ込んだ]

とのトーマス・ハクスレーのような人間による見解が存在しているが、同じくもの見解が真を穿っており、それが
[(そちら記憶を(洪積世のことながら)保持していたかもしれない者達を担い手としての)黒海近辺(トロイア近辺)のサモトラケ島での洪水伝承]
の淵源になっていうる (あるいストラトのような古代哲学者が実地観察に基づき呈していたとの見解 ――[黒海は周辺大河からの水流に伴う泥土堆積で放っておけば埋まるようなものであり、といった泥土潮流の勢いのはけ口たる出口が必要であった。そこで地中海に水が流れ込む海峡が構築される結果となった(同じくものことはジブラルタル海峡が地中海と大西洋をつなげるものとして構築されたことにも当てはまる)]との見解―― を同文のものとしてサモトラケ島島民が導きだし、往古洪水の記憶が保持されていない中ながら、島民が後付けで伝承を構築したとも考えられる)


との趣旨のことを述べているのである。
 すなわち、今日の[黒海洪水仮説] (くどくもなるが、1996年に提唱されて物議を醸すに至った仮説)に通ずる見解、そう、「黒海界隈にて」「往古、大洪水が発生した」との仮説に「類似」する見解がフレイザー当該著作発表時(1918年)より「既に」英国にて呈されていたことを示す[文献的事実]がみとめられるようになっているとのことがあり、のみならず、そうした見解の淵源は古代世界に求められもすると述べられているのである ――※ただし[地中海より水が流れ込むとの氾濫によって黒海が拡大する結果を呈するとの格好でボスポラス海峡が構築された]というのが現代の黒海洪水仮説である一方でハクスレーらヴィクトリア朝期の人間のいいようの伝では[そこにあった巨大な黒海を包摂する内海が氾濫を呈して地中海に水が流れ込むかたちでボスポラス・ダーダネルス海峡を構築したように見受けられる]となっており、水の流れの方向性はまるきり逆であるとのこともまたある(下図を参照のこと)―― 。

図は双方ともに[黒海が大洪水に関わっている]との説ながらも内容を異にするとの説ら(片方は黒海サイドから地中海(エーゲ海)サイドに向けての水の流入があり、地中海サイドにて洪水を見たとのトーマス・ヘンリー・ハクスレーらが呈示していた説、もう片方は地中海サイドから黒海サイドに水の流入があり、黒海周辺にて洪水を見たとの20世紀末に物議を醸すに至った黒海洪水説がそれぞれ時期的に何時頃から問題になっていたのかを示すために挙げた図となる ――細かくは図内の表記を参照のこと―― 。 に関して「問題は、」何にせよ、黒海周辺地域がここ百数十年、近現代の学者らによって洪水と結びつけられるだけの地質学的特色・歴史的特色(サモトラケの伝承の存在などの存在に見る特色)を伴っている場所と見られてきたとのことである。


[フレーザー申しようにまつわる付記として]

 尚、ここに至るまでそこより事細かな引用をなしてきたとのジェイムズ・フレーザーの手になる Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Lawにあっては次のような言いようもがなされてもいる。

(直下、抄訳版として国内にて流通している『洪水伝説』(国文社)p.175より原文引用をなすところとして)

「あらゆる種類の数多くの改悪や変更は、口誦的伝承が世代から世代へ、国から国へと悠遠な時代を伝達されてくるとき必然的にこうむるものであって、そのことをわたしたちが斟酌したとしても、大洪水に関する雑多な、往々にして奇妙な、子供っぽい、奇怪な幾つもの物語の中に、単一の崇高な原版の人間の手による複写を認めることは、それでもなお困難であると思うだろう。そしてこの困難性が甚だしく増加してきたわけであって、それは『創世記』の崇高な原盤であると思われたものが原版などでは全くなくて、遥かに古いバビロニア版とか、あるいはむしろシュメール版の比較的後代の複写であることが、近代の研究によって立証されたからである。キリスト教擁護論者で、多神教的色彩の強いバビロニアの物語を人間に対する原始的な神の啓示として取り扱うようなひとはいないだろう。また霊感説が原版に通用できないとするなら、その霊感説を用いて複写の物語を説明することもおよそ不可能であろう
 したがって
啓示説とか霊感説を既知の事実と調和しないものとして退けながら
わたしたちがさらに問わなければならないのは、あらゆる洪水伝承の内で確かにバビロニア伝説、もしくはシュメール伝説が、その他のあらゆる伝説を派生せしめたそのもとの伝説であるのかどうか
ということである」

(訳書よりの引用部はここまでとする ―※― )

(※尚、オンライン上より表記テキスト入力で誰でも内容全文確認可能な原著 Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Lawにあっての対応箇所はp.170-p.171に見受けられる Even when we have allowed for the numerous corruptions and changes of all kinds which oral tradition necessarily suffers in passing from generation to generation and from land to land through countless ages, we shall still find it difficult to recognize in the diverse, often quaint, childish, or grotesque stories of a great flood, the human copies of a single divine original. And the difficulty has been greatly increased since modern research has proved the supposed divine original in Genesis to be not an original at all, but a comparatively late copy, of a much older Babylonian or rather Sumerian version. No Christian apologist is likely to treat the Babylonian story, with its strongly polytheistic colouring, as a primitive revelation of God to man ; and if the theory of inspiration is inapplicable to the original, it can hardly be invoked to account for the copy. Dismissing, therefore, the theory of revelation or inspiration as irreconcilable with the known facts, we have still to inquire, whether the Babylonian or Sumerian legend, which is certainly by far the oldest of all diluvial traditions,may not be the one from which all the rest have been derived.との部位となる)

 以上抜粋したところに見るフレイザー申しようにあっての、

キリスト教擁護論者で多神教的色彩の強いバビロニアの物語を人間に対する原始的な神の啓示として取り扱うようなひとはいないだろう。また霊感説が原版に通用できないとするなら、その霊感説を用いて複写の物語を説明することもおよそ不可能であろう。したがって、啓示説とか霊感説を既知の事実と調和しないものとして退けながら・・・(以下略) No Christian apologist is likely to treat the Babylonian story, with its strongly polytheistic colouring, as a primitive revelation of God to man ; and if the theory of inspiration is inapplicable to the original, it can hardly be invoked to account for the copy. Dismissing, therefore, the theory of revelation or inspiration as irreconcilable with the known facts, we have still to inquire,[ . . . ]

との部は

「キリスト教隆盛欧州社会にあっての世情・世論の方向を見てなのか、――[曲学阿世(世に阿(おもね)って学を曲げる)]とは言うが―― 、馬鹿げた申しようをなしている」

ことが露骨に見受けられるところのものとなっている(碩学と表される向きに相応しからぬ,「非論理的illogicalなことこれ限り無し」との意でnonsenseなことをいけしゃあしゃあと述べている、でもいい)。

 というのも、表記の部ではフレーザーは

「[神の啓示・霊感が如きもの(あるいはそれに仮託されうる力学)が作用しているとの論理]を「キリスト教擁護論者がバビロニアの宗教も自分達の神の恩寵を受けていたとは考えたくはないものだから」棄却し(dismissし)話を進めるとして」

と述べているわけが、それは

[[(宗教的)願望]の類で[可能性論]の方向性を選り分けることを首肯する物言い
自分が宗教の徒の内面に譲歩するような,科学的ではない人間であることを肯定する物言い

となってのものと判じられるようなものだからである ([自身の願望]と[事実]とを混同するような物言いをなすのは ――そういう下らぬ輩でこの世界は充満しているわけだが―― 狂人と愚者だけであろう.また、狂人と愚者の論理が世界を牛耳っていることを知った上でそれに準拠して、それに忠実たらんとしてものを言うのは学者でも何でもない、[ただの望ましからぬシステムの宣伝マン]と自らを規定してのやりようと言えるであろう) 。

 上のように述べたうえで強調するが、ジェイムズ・フレイザーが時代背景よりか、他の事由でなのか、遠慮をなしていると手ずから言明している[宗教的人種]らが決して認めようとしないところに、そう、

[狂った人間(話が通じぬとのことで述べれば、人間「未満の」[機械]Robotのような類と化しているといった者達)らを含めての我々の生きる世界がどういったものでどういった方向性と結びついているかの寓意、宗教「的」狂人らが相応の心性で地に頭をつけて永年、崇め敬ってきた、ないし、怖れてきた存在に由来するが如くの(天から降ってきたのか、あるいは、地獄から涌いてきたのかといった不可思議さを呈しつつもの)酷薄無情な寓意]

が含まれているとの解釈が自然に導出できるようになっていることを「根拠主導方式で」問題視しようというのがこの身、そして、本稿であることをここにて断っておきたい。
 この身、筆者はジェームズ・フレイザー著作などを引用しはするが、その主張を全面的に容れているわけではないとしつつも、そのようにここにて断っておきたい次第である(述べておくが、筆者は神託・霊感がかった作用で人形・傀儡のようになった人間らが相応のことを言い、やるとの可能性をも容れているが、だが、だからといってその理由を非科学的なところには求めていない。であれば、[科学的機序]が当然に作用してそのようになっていると見繕っている)

(:本稿ではミルトン『失楽園』に見受けられるとの、
[悪魔の王サタンが開通させ、悪魔の王の擬人化されての妻子たる[罪]と[死]が人間に襲いかかるために用いるとされる通路にまつわる描写]

「「どういうわけなのか」[今日的な意味で見てのブラックホール「的なる」もの]と多重的かつ複合的なつながりを呈している」
とのことを問題視している。
 につき、そのような「不可解な」ことがさらに類似の要素群と ――いかにそのことが奇異奇怪なることなれども―― 「多重的」・「複合的」に接合しているとのことが示されてしまうとの中にあって、そして、さらにもって言えば、その接合関係が[今日の加速実験に伴う命名規則][(これまた不可解にも存在しているとの)先の911の事件の予見事象]とも結びつくようになっていることが示されてしまうとの中にあって、に対して、宗教的狂人の視野狭窄的なるドグマを持ち出すことがいかに愚かなことか、また、とおりひととおりの一般的説明を講じようとすることが種族の未来を絶つとの愚挙に通ずるとのことになるのか、理解なしていただきたいものではある。
 尚、宗教的人間が容れることを強いられるとのドグマと親和性強きところについて述べれば、である。本段に至るまで
[(『失楽園』にての)[罪]と[死]が人間を餌食にするために用いると描写される通路 ―アビス横断路― にまつわる寓意]

[トロイア崩壊の寓意][大洪水伝承][エデンの失楽園]
を相互に結節させるものであること、そして、そうした結節関係もが「奇怪に」CERNLHC実験にも結線するところのものであるとのことを問題視しもしてきたわけだが(ここに至るまでの出典(Source)紹介の部55から出典(Source)紹介の部58(4)を包摂しての部はそのことを示すための前提となる話をなすための部でもある)、 そこに見る[通路]の開通それ自体が
[神の意志(天の意志)である]
要するに、
[宗教の徒の類が無条件に同意を求められる性質のものである]
なぞとの書かれようもが問題となる描写を含むミルトン『失楽園』の問題となるパートにてなされているとのことがある([文献的事実]の問題として、である)。
 具体的には(本稿にての出典(Source)紹介の部55(2)にて引用なしていたところに包含されるところとなるが)、『失楽園』にあっての(岩波文庫『失楽園(上)』p.112より引用するところとして)
「罪」と「死」がすぐに悪魔(サタン)のあとを追い(それが神の御意志(みこころ)であったのだ)、その足跡に従って、暗欝な深淵の上に、踏みかためた広い路を敷いたからだ
(引用部はここまでとする ―― Sin and Death amain Following his track, such was the will of Heaven, Paved after him a broad and beaten way Over the dark abyss, whose boiling gulfとの部位、such was the will of Heavenがオンライン上より確認できるところの原著表記となる―― ) 
との部がそうである。[神の御意志(みこころ)であった]( such was the will of Heaven )ならば、時果つるところ、ブラックホールに飲まれること(に通ずる先覚的描写)をも許容するのか。といった者らは騙され、すかされ、挙げ句に殺されるだけだとの「相応の」類となろう。冗長となったが、ここではそうしたことについても訴求しておく)

[付記の部はここまでとする]


 さて、ここまでにて

「1996年に取り上げられたとの黒海洪水仮説、それと「ほぼ」同様のもの(黒海が氾濫して大洪水伝説らの源泉となっており、また、の中で海峡が形作られていたといったとの物言い)が現実として今より1世紀も前、フレイザーの活動年代より一部で既に問題視されていた」

とのことを[文献的事実]の問題として指し示した。

 また、の中では、

「黒海近辺の洪水は[トロイア伝承]と結びついている、しかも、[サモトラケ島の伝承]と[古代の学徒の物言いのレベル ――古代哲学者ストラト(ランプサコスのストラトン)の物言い―― ]にて示される古代人の見方のありようのレベルで結びつくような素地があるものである」

との申しようが20世紀初頭にてジェイムズ・フレイザーによってなされていたとのことの指摘をもなした。

 何故、そのように黒海洪水仮説の由来について延々取り上げてきたかにつき「顧みながら」述べれば、である。(人によってはくどくも響こうが)[以下、続けて述べるようなこと]があるからである。

(これより取り上げるような「さらにも、」のことがあるがために問題視してきたところをまとめて摘示することとして)

「ジョン・ミルトン『失楽園』にあって描写されている[罪と死が利用する通用路]が[トロイア崩壊伝承]と結びつくような側面がある。
 ミルトン『失楽園』にあっての[罪と死が利用する通用路]の構築にまつわるパート ――要するに[本稿先立っての段でブラックホールの質的特徴と接合するものであることを示してきたもの]の構築にまつわるパート―― で

南端の海峡(ダーダネルス海峡)と共にトロイア比定地近傍となるマルマラ海を形成するもう一方の北端の海峡(ボスポラス海峡)のことが『失楽園』アビス横断路構築の苦難を表する下りの中で言及されている」
トロイアに木製の馬で引導を渡したとの武将オデュッセウスの渦巻きの怪物(カリュブディス)との遭遇エピソードのことが『失楽園』アビス横断路構築の苦難を表する下りの中で言及されている」
トロイア比定地近傍のダーダネルス海峡(ヘレスポントス/トロイア創設者ダルダニアに命名由来を持つ海峡)のことが『失楽園』アビス横断路構築のすさまじさを表する下りの中で言及されている」
トロイアの存在地とされるダーダネルス海峡近傍で具現化を見たとされる古代史上の出来事 ――クセルクセス王の船橋構築―― のことが『失楽園』アビス横断路構築のすさまじさを表する下りの中で言及されている」

との意味合いで[トロイア比定地]と接合する( 『失楽園』にてのサタンの飛行経路とサタンに引き続いての横断路の構築過程が(地理的ありようとして)ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を突き抜けるプロセスとして描写されているとのことが「ある」(そちらプロセスは黒海洪水「伝承」および黒海洪水「仮説」の海峡構築プロセスと重ねあわせられるようなものである)。 そして、のようなことがトロイア関連事物としての色彩をも帯びている ―サタンの飛行がトロイアを滅ぼした男(オデュッセウス)の苦難の航海と重ねあわせられているからである― )。

それにつき、

「ミルトン『失楽園』にあって[[トロイア(比定地)]と多重的に結びつけられているとの[[罪]と[死]の通用路]にまつわるパートはエデンの林檎による誘惑の結果に係るものとして描写されているわけだが、そのこと ―[トロイア(比定地)]と[エデンの誘惑]の結果が結び付けられていること― と
トロイア崩壊伝承がアトランティス伝承と結びついているとの見立てがなせる「ようになっている」こと]
及び
アトランティスと同一視されてきた[黄金の林檎の園]が[エデンの園]と結びつくとの見立てがなせる「ようになっている」こと]
が結節し、
[関係性の環]
が描けるようになってもおり、そのために、[不気味さ]が際立つ、とのこともある」

「(そして、さらに、)その[不気味さ]が[現実的なる危険な兆候としての重大なること]と結節するところとしてミルトンの古典の当該描写部 ――[[罪]と[死]の通用路]にまつわるパート―― がブラックホールの科学的特性と結びつくこと、また、ブラックホール生成挙動ともされるCERNLHC実験がアトランティス寓意][トロイア寓意と結びついているとのことがあり、関係性の多重性度合いが(そこからして)際立つとのこともがある ――出典(Source)紹介の部35から出典(Source)紹介の部36(3)を包摂する部を参照のこと―― 」

 以上、述べた上で書くが、同じくも振り返っての表記・整理するための話として次のことをも表記しておくこととする。

(くどいこととは考えるが、読み手に咀嚼なしての理解を求めたいため、重複しての申しようを分けて段階的に直下なすとして)

「トロイアそれそのものが往古より洪水伝承と結びつき、その洪水伝承とは[ボスポラス・ダーダネルス洪水伝承]にして[神の粛清としてのノアの往古の洪水]と関わるとの[解釈論]が出てくるようなものである」 (少なくとも各地の洪水伝承を蒐集してまとめているとの論稿、引用をなしてきた Folk-lore in the Old Testament: Studies in Comparative Religion, Legend and Lawとの論稿に見るジェイムズ・フレイザーが20世紀前半にて呈示の観点からしてそういうところがあると窺い知れるし(出典(Source)紹介の部58(3)および出典(Source)紹介の部58(4)、また、洪水水流の流れる方向は逆としているものだが、似たようなことが20世紀最後の方にて科学的論拠を具備するかたちにて目立って提示されてきた現代版ブラック・シー・デリュージ・ハイポセシス、[黒海洪水伝承]にも当てはまるとのことがある(出典(Source)紹介の部57にてニューヨークタイムズに見る If a memory of the Black Sea flood indeed influenced the Gilgamesh story, then it could also be a source of the Noah story in the Book of Genesis. Scholars have long noted striking similarities between the Gilgamesh and Genesis flood accounts and suspected that the Israelites derived their version from the Gilgamesh epic or independently from a common tradition that might have stemmed from a real catastrophe long before.(訳として)「仮にもし本当に黒海にての洪水の記憶がギルガメシュの物語に影響を与えているのだとすれば、それはまた聖書創世記に認められるノアの物語の源泉ともなりうる。学者らはギルガメシュ(の物語)と『創世記』の洪水への言及の間に横たわる衝撃的類似性につき長きにわたって着目してきたし、また、イスラエルの民らがギルガメシュ叙事詩から彼らなりのそれ(洪水伝説)を作るために奪うことをなしたのではないか、あるいは、イスラエルの民が遥か昔に生じた現実の壊滅的事態に端を発する共通の伝承から各々独立に彼らの洪水伝承を構築したのではないか、と疑いもしてきた」(引用部はここまでとする)との書かれようを引いているところである))

[ノアの大洪水]に聖書の時系列上では先立つものながら、同じくも[神の粛清]にまつわることとなる[エデンの園からの追放]を主要なるテーマとしている(楽園追放を主要なるテーマとしている)とのミルトン『失楽園』特定パート(ルシファーがアビスを横断、エデンの園にて暮らしていた新発の人類に林檎でもってしての誘惑をなしたとのパート)にて[トロイアの崩壊伝承と通ずるエピソード]が持ち出され、そこにては[黒海洪水伝承][黒海洪水仮説]の内容と結びつくものである特定ワード「ら」が「それと明示せずにもの隠喩的な式で」「複合的に」持ち出されているようなところがある ――具体的にはサタンが[妻子たる罪と死の餌食に人間を供する道]を拓いたとの部にあって[アケメネス朝の王クセルクセスがアジアとヨーロッパを結ぶかたちでボスポラス海峡(黒海洪水伝承・黒海洪水仮説の舞台)に船橋を掛けようとしたことへの言及]がなされている(出典(Source)紹介の部56(2))、[洪水にて漂流してトロイアに辿り着いたとされるの式で洪水伝承と結びつくダルダノス王の地(ボスポラス南方にてのトロイア創建の地)たるダーダネルス海峡と同義のヘレスポントス海峡に対する言及]がなされている(出典(Source)紹介の部56)、[後日譚(Posthomerica『トロイア戦記』に見る後日譚)では攻囲勢も戦後の帰路にてことごとく[洪水]に呑まれたとの帰結が語られているトロイア戦争、そのトロイア戦争に木製の馬で決着をもたらした謀将(オデュッセウス)が帰路にて際会した渦巻きの怪物カリュブディスへの言及]がなされている(トロイア戦争の勝者となったオデュッセウス一行らはカリュブディスに飲み込まれてオデュッセウスを除き海の藻屑と消えたと伝わっているわけだが、それと同様の帰結、洪水や渦巻きによって海の藻屑へと消えるとの帰結が他のギリシャ勢にももたらされたとの描写がなされるのが『トロイア戦記』という先に引用をなしたところの古文献である)との部がそうなる―― 。 にまつわってはミルトン古典では(悪魔の王とその妻子たる[罪]と[死]が)[通用路を構築・切り開く]とのパートでボスポラス海峡・ダーダネルス海峡への言及がなされているわけだが、黒海洪水伝承では黒海洪水にてボスポラス海峡・ダーダネルス海峡の両海峡が「切り開かれ」「構築された」ことになっており、他面、近年物議を醸した黒海洪水仮説では地中海(エーゲ海)サイドより水位差を呈していた黒海に水が流れ込みボスポラス海峡が構築されたとされているとのことが一致性を呈してもいる」

「問題となるミルトン『失楽園』特定パートは現代的な理解で見るブラックホール類事物を見出せるとの部位となっているが(再三再四述べるが、先の段、出典(Source)紹介の部55から出典(Source)紹介の部55(3)を包摂する箇所にて詳述のことである)、[トロイア伝承にまつわる記述]および[黒海洪水伝承を想起させる「ような」記述]とそうしたパートが結びついていることはブラックホールの人為生成をなしうるとされるCERNの実験が[洪水絡みのアトランティス伝承]それそのものや[洪水絡みの伝承ともつながるトロイア崩壊伝承]それそのものの寓意と結びつくような格好で(どういうわけなのか、実験機関がアトランティスやトロイア関連事物を実験関係の命名規則に採用しているとの格好で)実施されていることを想起させ、多重的接合性を感じさせもするところである(:出典(Source)紹介の部35から出典(Source)紹介の部36(3)を包摂するパート、出典(Source)紹介の部46を包摂するパートを参照のことCERNはトロイア崩壊の原因となった黄金の林檎の在所を知る巨人として神話が語る巨人たるアトラスを検出器や実験グループの名前に転用し、検出器アトラスATLASのイベント・ディスプレイ・ツール「アトランティス」ATLANTISでブラックホールを特定できるなどとときに主張しながら「実験」を推進してきたし、また、同実験ではトロイアを滅ぼした謀将(オデュッセウス)が際会した渦潮の化け物カリュブディス、ミルトン『失楽園』の問題となるパートでも登場するその渦潮の化け物の名を冠するブラックホール・イベント・シュミレーターCHARYBDISを用いたりもしている、そうしたことらにつき本稿では唯、事実のみに依拠しての呈示をなしている)」

(整理のための部はここまでとする)

 上にて整理のための記述をなしたところで、続けて関係の多重性が尋常一様ならざるものを示すための話を「さらにもって」なすこととする。

 さて、識見と判断力に恵まれ、なおかつ、ここまでの内容をきちんと読まれているとの人間ならば分かろうことか、と思うところとして、ここまでの話には[新たな反論]を「さらに」呼ぶような側面がある。

(黒海洪水仮説に通ずるところとしての)[黒海洪水伝承]のことを取り上げ、同[黒海洪水伝承]のようなものとの絡みでミルトン『失楽園』が

[ギリシャ勢と大戦争を演じての中での(ギリシャ勢を巻き込んでの)アトランティスの地震と洪水による最期 ――出典(Source)紹介の部36にて引用なしているとのプラトン『ティマイオス』表記内容―― ]

[始原期および末期ともに洪水と結びつくトロイア、ギリシャ勢と大戦争を演じた後に(ギリシャ勢を巻き込んで)完全に洪水により洗い流されたとのトロイアにまつわる伝承 ――本稿にての出典(Source)紹介の部44-3で取り上げているスミュルナのクィントスの古典に見る申しよう―― )]

の双方とつながる節があるとのことはここまでの内容で指し示したきたつもりだが(少なくとも世間人並みの理解力と理解なさんとする意思を有した人間には[黄金の林檎]と[エデンの禁断の果実]を媒介項にしてそういうことが指摘できるようになっていることが当然に理解できるであろうとのかたちにて指し示したつもりだが)、 といった話からして、

「常識で説明がつき難い不可解な関係性が「本当に」そこに存在していると述べられるか。そして、であったとしても、その関係性が我々の生き死にの問題に関わるものと言えるのか」

との疑念を強くも前面に押し出すような向きらから次のような新たな反論が出されることになりうると見ている。

(LHC実験にあってのブラックホール生成問題のことを敢えても脇に置いておいてものを見たうえで)

ミルトンの時代にあってからして黒海洪水伝承のようなものが ―あるいは[トロイア]それそのものと関わるところかもしれぬ式で― 文豪ミルトンの耳に届くような形で流布されていた可能性もある (:出典(Source)紹介の部58(4)にて抜粋のフレーザー論稿の抄訳版、『洪水伝説』(国文社)p.65内の記述を再引用との形で引けば、(再引用なすところとして)紀元前二八七年に逍遥学派の長の地位をテオプラストスから継承した有名な自然哲学者ストラトは、純理論的根拠にもとづいてこの見解を主張したのだが、彼は古代から言い伝えれられた伝承だからとして主張したのではなくて、黒海の自然的特徴の観察からその伝承を弁護したのである。彼は厖大な量の泥土が幾つもの大河によって年々黒海に流しこまれることを指摘し、もしボスポラス海峡という出口がなければ黒海の海盆は早晩泥でふさがってしまうだろうと推測した(再度の引用部はここまでとする)との申しようがなされている、すなわち、「実際に」紀元前3世紀(B.C.287)からして黒海洪水説がギリシャの哲人に顧慮されていたことを学究フレーザーがその20世紀前半に出された論稿内で言及しているといった事情がある) 。
 であるから、そういう伝存しているところの伝承の内容をも顧慮したうえでミルトンという男が「わざと」黒海近辺への言及を『失楽園』にてなすことでトロイアの比喩を ―それが洪水伝承がらみのものであることについては一切言及せずに、だが、しかし、隠喩的には洪水伝承絡みのものであるとの認識でもって― 込め、それでもってして、神の粛清にまつわる楽園追放、罪と死の人間への襲い掛かりにまつわるエピソードの装飾としたのではないか?』

 以上のような[ありうべき反論]を新たに呈示すると、17世紀、文豪ジョン・ミルトン(1608-1674)の時代の人間が関与しての、
[隠喩(メタファー)使用に対する「注力」度合い]
を過度に買い被っての物言いをなしているようにとらえる向きもおられるかもしれないが、
[そういうことも[ありうる]のではないか]
との式で批判者が知恵を絞って反論をなすとの局面を想定、そうした反論を徹底的に斥けることが可能であるとのかたちにての立論を本稿では試みており、

[黒海洪水説に対するミルトン(の同時代人)のありうべき認知の程度]

を持ち出しての上のような[ありうべき反論]をも容易に斥けられる方向での話をこれよりなしていく所存であるそこまでするとのやりようを取っているのはこの身に[生き死にに関わる話を証拠主導方式でなしているとの自負と責任感]があるからである

 さて、別観点から導出されよう反論、ここでの話が常識論にて片付けられ、我々の今後の問題に関わることはないとの納得に通ずるとの反論としての、

『ミルトンの時代からして[黒海洪水仮説に見るような申しよう]が ―場合によっては[トロイア]それそのものと関わるところとして― 文豪ミルトンの耳に届くような形で流布されていた可能性もある(フレイザーが蒐集・呈示しているようなサモトラケ島のそれに見るような洪水伝承が(再発見されるとの式ではなく)残置し、かつ、通用性を伴っていた可能性がある)。
 それゆえ、ミルトンが「わざと」黒海近辺の比喩を、トロイアの比喩を、―それが洪水伝承がらみのものであることについては一切言及せずに、だが、しかし、隠喩的には洪水伝承絡みのものであるとの認識でもって― [神の粛清]にまつわる楽園追放、罪と死の人間の領域への来襲にまつわるエピソードに塗(まぶ)したのではないか』

とのありうべき見解には

[物事の奇怪性がより露骨に示されるところである(『失楽園』著者のミルトンのありうべき識見の豊富さでは説明がなせないような奇怪性が示されるところである)]

との再反論が呈示可能となっている。

 その再反論として引き合いに出したいのは

[ギルガメシュ叙事詩](の細かき内容およびそこから指摘出来るようになっている事柄ら)

である。

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直下、本稿冒頭部へのリンクを設けておく

(⇒冒頭頁へは下の部より)

[典拠紹介部第1頁 加速器実験に伴う欺瞞性から証示なせることについて]

 上にて挙げているのはドイツ浪漫主義芸術の巨匠たる18世紀画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Freemasonでもあったとの画家 Caspar David Friedrich)の手になる一品、

Der Wanderer uber dem Nebelmeer雲海の上の旅人』(に多少の[動き]をアレンジとして加えたもの)

となる。

 言われようの問題として一般に、

[人間の崇高なる精神が高みを目指し、ついぞ多くの物事を達観するに至った時、その折の孤独と感慨を描いた画]

などと形容される上掲の『雲海の上の旅人』に関して(本稿でもその言行を順次・段階的に取り上げることになるとの)物理学者リサ・ランドールは[次のような申しよう]をなしている。


(直下、物理学者リサ・ランドールの手になる著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)にての CHAPTER THREE LIVING IN A MATERIAL WORLD[第三章 物質世界に生きる]の章の記述内容 ――オンライン上検索エンジンにあっての原文検索にて該当部特定できるところの記述内容―― よりの原文引用をなすとして)

Our universe is in many respects sublime. It prompts wonder but can be daunting ―even frightening― in its complexity.  Nonetheless, the components fit together in marvelous ways. Art,science, and religion all aim to channel people’s curiosity and enlighten us by pushing the frontiers of our understanding. They promise, in their different ways, to help transcend the narrow confines of individual experience and allow us to enter into―and comprehend―the realm of the sublime. (See Figure 11.)
          [ . . . ]
[ FIGURE 11 ] Caspar David Friedrich’s Wanderer Above the Sea of Fog (1818), an iconic painting of the sublime ― a recurring theme in art and music.

(上の原著引用部に対する[訳文]として国内流通訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版にあっての81ページに記載されているところを引くとして)

多くの点で、私たちの宇宙は崇高だ。その複雑さは好奇心を駆り立てはするが、無力感も抱かせるし、ことによっては恐怖さえも感じさせる。にもかかわらず、宇宙の構成要素は素晴らしくぴたりと絡みあっている。芸術、科学、宗教は、いずれも人々の好奇心を促して、理解の限界を広げさせ、それによって私たちを啓蒙することを目指している。いずれもそれぞれのやり方で、個人の経験の狭い領域を越えさせることを約束している。それがかなえられたとき、私たちは崇高なものの領域に踏み込む――そして理解する――ことができるのだ(図11を参照)。 …(中略)… [図11]ドイツの画家カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ。崇高さは、美術と音楽に繰り返し登場するテーマである

(以上をもって Knocking on Heaven’s Doorにての原著表記および訳書よりの引用とした)


 さて、何故、ここ脇に逸れての部にあって「目立つように」特定絵画 ― 『雲海の上の旅人』― を挙げ、その絵画に対する物理学者の評しよう ―「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ....― などを引いたりもしたのか

「それは、」
絵画『雲海の上の旅人』に対して直上引用なしたような評しようをなしているとの物理学者リサ・ランドールが

加速器によるブラックホール生成可能性にまつわるトピックの理論深化に一廉ならぬ貢献をなしているとの著名物理学者

[[崇高なるもの]を目指しての宇宙の探求(およびそのための装置と銘打たれている巨大加速器LHC)の称揚・礼讃をなしているとの向き

であるとのことがあり、また、なおかつ、彼女リサ・ランドールの手による、(絵画『雲海の上の旅人』を科学者が目指しての[崇高さ]とを結びつけている)引用元著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)が

人間のありよう(崇高さとはおよそ程遠いところにあるありよう)]
人間の辿る運命

を嘲笑うような[嗜虐的寓意]で満ち満ちていると申し述べられるようになっている著作であるとのことがある、遺憾ながら
[理の当然]
として申し述べられるところとしてある ――個人のせせこましい偏頗(へんぱ)な主観などとは一線を画したところで客観的かつ具体的にこれはこうでこうだと申し述べられるようになっている(出典呈示を第一義にしての本稿では無論、その論拠を事細かに挙げる)とのところとしてある―― からであり、そのことに注意を向けたかったからである(※)。

(※上にて引用元とした著作、 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)、同著にあってはその冒頭部より
September 10, 2008, marked the historic first trial run of the Large Hadron Collider (LHC). Although the name―Large Hadron Collider― is literal but uninspired, the same is not true for the science we expect it to achieve, which should prove spectacular. (表記英文引用部に対する訳として)「2008年9月10日、ラージ・ハドロン・コライダー(LHC)が歴史的始動を見た.[ラージ・ハドロン・コライダー]との名称は有り体に言ってインスピレーションを何ら与えぬとの平凡なものだが、私たちがそれ(LHC)に[証明すべきととらえている壮大なる挙]を託しているとの意では[科学(の進歩)]にとり同じくものことは真実とはならない(LHCは際立ってのインスピレーションを与えるものである)」
などとのことが書き記されている。
 そうもした書きようが目立ってもの冒頭部にてみとめられる著作ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアにおける表題、 [天国のドアをノックする]の由来についてリサ・ランドール女史は同じくもの著作の中で次のようなことを述べてもしている。
(以下、 Knocking on Heaven’s Doorにての CHAPTER FOUR LOOKING FOR ANSWERSより引用なすところとして)
I first heard the phrase “knockin”on heaven’s door”when listening to the Bob Dylan song at his 1987 concert with the Grateful Dead in Oakland, California. Needless to say, the title of my book is intended differently than the song’s lyrics, which I still hear Dylan and Jerry Garcia singing in my head. The phrase differs from its biblical origin as well, though my title does toy with this interpretation. In Matthew, the Bible says, “Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find; knock, and it shall be opened unto you: For every one that asketh receiveth; and he that seeketh findeth; and to him that knocketh it shall be opened. (以上原著表記に対して訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版[第四章]103ページにての表記を引くとして) Knocking on Heaven’s Door(天の扉を叩く)]――これが本書の原題だが、私が最初にこのフレーズを聞いたのは、一九八七年、カリフォルニア州オークランドでのグレイトフル・デッドとのコンサートで、ボブ・ディランが『天国への扉』を歌うのを聞いたときだった。いまでも私の頭の中ではディランとジェリー・ガルシアがこれを歌っているのが聞こえてくるけれど、いうまでもなく、私の本のタイトルは、この曲の歌詞とは意味が違っている。このフレーズは出典である聖書の一節とも違っているが、私のタイトルはこちらの意図を拝借したものだ。聖書の「マタイ伝」には、このように書かれている。「求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり
(以上、引用部とした)
 といったところ、新約聖書のマタイ伝にあっての
[求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり]
とのフレーズ、それが
[天国の門]・[天国への扉]・[天国への階梯](ステアウェイ・トゥ・ヘブン)
との兼ね合いでいかように嗜虐的なる別側面での意味( Double Meaning )と共にあるのか、そのことからして具体的典拠を挙げ連ねるとの式で遺漏無くも事細かに示そうというのが本稿の本義であるとここ脇に逸れての部にあって訴求しておきたいとの意図が筆者にはある)

当サイト内にあっての【各頁および各典拠への一覧方式遷移部】、及び、【PDF形式文書配布ページ】へのリンクを直下、設けておく

各頁および各典拠への一覧方式遷移部へは以下より


問題となる[「予見的」言及→実現]の体系についての[典拠紹介部]一覧呈示頁

PDF形式文書配布ページへは以下より


典拠解説媒体としての[一括PDF文書]の公開頁

ここ本頁内の記述内容を支える【「容易に後追い確認なる」「堅い」ソースを呈示しての出典紹介部ら】のうち、枢要なるものへの[遷移経路]を下に設けておく。 典拠について疑わしいとの部があれば、必要に応じて参照されたい (:クリックすることでブラウザ ―インターネット閲覧ソフト― の[別タブ(別枠)]にて典拠紹介部を表示( open "additional" tabbed window(s) of web browsers ))

[出典(Source)紹介の部35]LHC実験とトロイア崩壊およびアトランティスの関係性を示す命名規則上のありようにまつわっての部LHC実験にあっては[(トロイア崩壊の因たる)黄金の林檎の在処を知ると神話が語り継ぐ巨人アトラス]の名前を冠する検出器ATLASおよび黄金の林檎の果樹園とも同一視されもするアトランティス]の名前を冠するディスプレイ・ウェアATLANTISによって生成極微ブラックホール捕捉をなしうるとの可能性が取り沙汰されてきたとのことについての出典紹介の部35)
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第30頁 アトラス・アトランティスとLHC命名規則の繋がり合い

[出典(Source)紹介の部36(2)](LHC実験にあってはブラックホール生成可能性が問題視されるそれ以前、1992年から覚書が交わされてATLASとの名称の使用が確定していたことにまつわっての出典紹介の部36(2))
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第30頁 アトラス・アトランティスとLHC命名規則の繋がり合い

[出典(Source)紹介の部44(3)](海中に没したアトランティスとトロイア城塞に記号論的類似性が幾点もあることにまつわっての出典紹介部44-3(以降の部))
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第38頁 アトランティスとトロイアの記号論的関係性の深耕として

[出典(Source)紹介の部55](ダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』にあって[「今日的な観点で見た場合の」ブラックホールの質的近似物]が描写されていることにまつわっての出典紹介部55)
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第46頁 ダンテ『地獄篇』とミルトン『失楽園』に見るブラックホールに通ずる描写

[出典(Source)紹介の部55(3)](ダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』にあって[「今日的な観点で見た場合の」ブラックホールの質的近似物]が描写されていることにまつわっての出典紹介部55(3))
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第47頁 ダンテ『地獄篇』とミルトン『失楽園』に見るブラックホールに通ずる描写[2]