典拠となるところの明示[14]――加速器実験に伴う欺瞞性、 そして、そこより証示
なせもすることについて

関連情報にまつわるカテゴリ(各部クリックにて遷移)

海外にてのLHC関連訴訟を引き合いに申し述べられもするとのことについて(2)

 直前頁末尾では

「米国にてのLHC関連訴訟では原告(にして控訴人ら)が[科学理論の適否それそのものを問題視する]との式をとっていた。オンライン上よりダウンロードできる「控訴をなすにあたって」訴えをなした側(ルイス・サンチョらサイド)より提出された裁判資料( IN THE UNITED STATES COURT OF APPEALS FOR THE NINTH CIRCUITといったキーワードで該当物特定可能な文書)にあってもそうした式が強くも前面に出ていることが伺い知れるようになっている」

とのことを述べるとの流れに入ったわけだが、ここ当ページは表記のことにまつわっての出典紹介をなすことからはじめる。


| 出典(Source)紹介の部17-4 |

 ここ出典(Source)紹介の部17-4では米国におけるLHC訴訟にあっての控訴供用文書(国内の訴訟にあっては[控訴理由書]とのかたちで法廷に提出されることになるものに相当するところの文書)としての IN THE UNITED STATES COURT OF APPEALS FOR THE NINTH CIRCUITと題されての文書よりの引用をなすこととする。

(直下、 IN THE UNITED STATES COURT OF APPEALS FOR THE NINTH CIRCUITとのタイトルが付された米国LHC実験差し止め裁判にての控訴理由書(1から29とのかたちで控訴の理由が書かれた文書)にあってのいくつかの項目(1.および2.および8.の項目)より原文引用をなすとして)

1. The Amici affirm we have 'misconstrued and misrepresented' the risks to Earth the experiments at LHC represent, when the opposite is the truth: Amici misrepresent and downplay those risks (I). Since they affirm there is no risk whatsoever to Earth, as we 'do know' all possible risks involved. Yet their texts and previous, public declarations of Amici and CERN prove those risks exist and we do not know how to protect mankind against them.
2. Because CERN doesn't want to reveal them to the public, Amici don't inform this Court about them, but use an 'ad hominem' strategy (III), consisting in:- Telling this Court they are people with 'special knowledge' we must trust and Plaintiffs are people 'without merit' we must not trust, instead of analyzing the extinction risks mankind faces and the safety measures undertaken, if the most dangerous substances of the Universe, black holes and strangelets, appear at the LHC ― which are null (II).
[ . . . ]
8. Amici affirm: 'Scientists working on the Manhattan Project seriously considered whether a nuclear explosion could release enough energy to ignite the Earth's atmosphere. At that time, probabilistic risk assessment, as it is known today, did not yet exist.' Thus Amici recognize Nuclear physicists already, without any safety assessment, risked the planet. Is not CERN using the same 'procedure' - going ahead, knowing they are risking the life of all of us? Is this a proper safety procedure, or an irresponsible act of arrogance?

(補いもしての拙訳として)
「1:法廷助言人(アミカス・キュリエとしてその意見が提出されたシェルドン・グラショーら物理学者)らは我々(控訴人サイド)がLHC実験にまつわる地球に対するリスクをもってして誤っての理解を構築、かつ、それを誤っての式で呈示しているとの断言をなしているが、反対のことが事実である場合、法廷助言人の方がこれらリスクについて謬見を呈示し、かつ、リスクを低めに見繕っての話をなしていることになる。 そうもした彼ら法廷助言人は[なんにせよ地球に対するリスクは存在しない]( they affirm there is no risk whatsoever to Earth)と主張しているわけだが、我々が知っているようにそれは[全てのありうべきリスクが包含されての申しよう]でもある。 だが、[彼ら由来の文書](訳注:リスク検討をなしてきたとの関係者文書)および[従前の法廷助言人の公的宣言](訳注:[リスク検討をなしてきたとの宣言]のことと解される)は[CERNそのものが[リスクは(その可能性の大小はともかくも)ある]とのことを指し示さんとして「いた」]とのものあり(訳注:「確かに」本稿にての[出典(Source)紹介の部3]でも引用した[CERNサイドの2003年の安全性報告文書]たる STUDY OF POTENTIALLY DANGEROUS EVENTS DURING HEAVY-ION COLLISIONS AT THE LHCにても This opens the exciting possibility of observing the effects of these extra dimensions at the LHC, but also requires a new examination of potential hazards.(訳として)「この見解(訳注:先立って引用なしたところの見解)はLHC実験にあってそれら余剰次元の効果を観測するとの知的に刺激的な可能性を開くものだったが、と同時に、潜在的な脅威に対する新たな検証を要するとのものでもあった」との記述が冒頭部よりなされている)、(といった「論理矛盾を含む言いようがなされている]との経緯から、との意でか)、我々控訴人サイドは[人類を彼ら(実験機関関係者)からいかようにして守ることができるのか]につき答えを見出せないでいる
2.CERNがそれら[リスク問題]について公にしたがらないとの事由があるため、また、法廷助言人らが本法廷にてそれらリスク問題について伝えんとしていないとの事由があるため、彼らは人身攻撃との戦術を本法廷にてとってきた。すなわち、本法廷にて
[彼らが[我々が信頼せねばならぬとの専門知識を有した者達]であり、他面、原告らが[我々が信用してはならないとの価値を有さぬ者達]である]
との主張を ――「宇宙にて最も危険なるものとなっているブラックホールおよびストレンジレットらがLHCにて生成された折に人類が直面することになる絶滅リスクおよびそれに対する安全性基準についての分析をなす」ことに代えて―― 専らになしてきた。
・・・(中略)・・・
8.法廷助言人らはマンハッタン計画に携わっていた科学者らがかつて[核爆発にて地球環境を発火(かつ滅尽)なさしめるに足るエネルギーが解放されうるかどうか]を深刻に受け取っていたとのことがあると明言していた。(そのうえで)[往時は今日知られているそれのような[ありうべきリスクに対するアセスメント(監査)]が存在していなかった]として、(往時の)核物理学者らが安全性検討無しに地球を危険にさらしたことを認めている(訳注:LHC実験にまつわる安全性主張では「かつてマンハッタン計画ではこういうことがあったが、今日にあってはそういうことはない、我々は過去から学習する」とのレトリックが用いられていることを指す)。CERNが同じ轍を踏んでいないというのならば、一歩進んで、彼らは[我々全員の命を危険に曝している]とのことを理解しているということではないのか?これこそが(リスクがない、人身攻撃をなす、といったことに代えての)[適切な安全性検討手続き]ではないのか?さにあらずんば、傲岸さを体現しての無責任な挙ではないのか?

(訳を付しての引用部はここまでとする)

 以上引用なした部には説得力が伴うところがある、米国訴訟原告(転じての控訴人)らの主張には見るべきところがあるのだが、彼らは(引用部にて)
2. Because CERN doesn't want to reveal them to the public, Amici don't inform this Court about them, but use an 'ad hominem' strategy (III), consisting in:- Telling this Court they are people with 'special knowledge' we must trust and Plaintiffs are people 'without merit' we must not trust, instead of analyzing the extinction risks mankind faces and the safety measures undertaken, if the most dangerous substances of the Universe, black holes and strangelets, appear at the LHC ― which are null (II).(大要)「安全性に対する適切な科学分析の呈示が必要であるのに彼らはそうせずに原告らの知識の欠如の強調と人身攻撃に終始した」
と述べつつ「も」専門家の理論それ自体の欠陥性(あるいはありうべき欠陥性)ばかりを批判するとのやりようを強くも前面に出しもしていた(たとえば、海外訴訟の原告らの主張を他愛ない取り合うに値せぬ申しようであると法廷にて主張していたセルドン・グラショーというノーベル賞受賞者の物理学者、同男がかつてヒッグス粒子のことを「トイレット」と皮肉っていたことを海外訴訟原告らは逆に控訴文書で指摘、なじるように物理学者らの定見のなさ・節操のなさを攻撃の具としたりもしている)。

 細かくもの引用をなしていたらばきりがないともとらえるため、それら主張適否にまつわる部については表記の控訴人主張紹介文書の IV. SCIENTIFIC ALIBIS「科学的アリバイ」の部にての(1.から29.と振られた項目のうちの)20.から28.と項目番号が振られたところ、ページ数にしてp.19からp.32との間のセクションを参照されたいとしつつ、一例、の中の23との部にあっての記述のみをこの場にて引いておくこととする。

 そこにては
そちら申しように「?」(疑問符)を素人であればあるほど、つけたくなるようなところ
として次のような申しようがなされている。

(直下、 IN THE UNITED STATES COURT OF APPEALS FOR THE NINTH CIRCUITとのタイトルが付された米国LHC実験差し止め裁判にての控訴理由書(1から29とのかたちで控訴の理由が書かれた文書)にあっての23と振られての項目より原文引用をなすとして)

it would evaporate instantly.' Amici once more copy-paste an article about RHIC as if it were LHC; and use a speculative theory, which has been falsified ad nauseam under the laws of the scientific method, to make us believe black holes are harmless time machines that evaporate information. Indeed, Hawking says Einstein is 'double wrong' because black holes evaporate. Yet black hole evaporation is a speculative theory of which there is no proof whatsoever, that breaks all the main laws of science, hence it is false;

(訳として)「RHIC(あるいはそれよりもの高エネルギーを実現する後継加速器)がブラックホールを生成しうるのならば、そのようなブラックホールはとても小さく即時に蒸発するものである」。法廷助言人はいまひとたび我々に生成ブラックホールが情報を蒸発(散逸化)させる無害なるタイムマシンであるかのように信じこませるべくもそれがLHCであるかのようにRHICにまつわる記事をコピー・アンド・ペーストしてきもし、かつ、科学的手法にまつわる法則の下、吐き気を催す程の改ざんをなさしめられてきた仮説上の理論(ホーキング輻射)のことを持ち出してきた。実体としてホーキングはアインシュタインは二重の意味で間違っている、ブラックホールは蒸発するのだから、と述べてきたとのことがある。だが、ブラックホール蒸発は、今のところ、何の証拠もないとの仮説上の理論であり、主たる既知の科学上の法則と抵触する、それゆえに誤り(と解されるもの)ですらある」

(訳を付しての引用部はここまでとする)

 米国訴訟の控訴供用文書にあっては以上、例示表記したような申しようが科学界の至宝とされるスティーブン・ホーキングらをなじるように目立って展開されていもする(:因みに、以上の米国訴訟原告あらためての米国訴訟控訴人らの主張内容を過半以上、理解するためには次のi.からiii.の如き知識が最低限要されるところである ⇒ i.ホーキング輻射が実験機関の2003年報告書の主要安全性論拠にさせられていたわけだが、2004年から一部のそれ専門の専門家 William Unruhなどが「ホーキング輻射が発現するかは(極めて特殊なケースを顧慮することで)[開かれた疑問]である」と主張しだしている(本稿の先だっての部でも解説していることである)ii.引用元控訴資料には「ブラックホールが情報を蒸発させる無害なるタイムマシンであると信じさせたがっている」などと表記されているが、そちらはスティーブン・ホーキングがブラックホールの中で情報は保持されるかの賭けを他の物理学者(Preskillら)となして敗北を認めたことを皮肉っての表記であると解されるiii.ホーキング理論が既知の物理学法則と抵触をきたすといった筋合いのことが書かれているが、それは[粒子がブラックホールの如き限られた領域に閉じ込められると、速度上、不確定性を持つようになって、粒子の速度が光速を超えることもが可能になる.そのために粒子が事象の地平線を通ってブラックホールから脱出できるようになる][ブラックホールは一定の放射と粒子を放出しているがゆえに完全に黒いとは言えない]といったホーキング申しよう(詳しくは和書 『ホーキングの最新宇宙論 ブラックホールからベビーユニバースへ』 (日本放送出版協会(現NHK出版)刊行書籍)などを参照のこと)とホーキング輻射提唱が裏表をなすために海外訴訟原告らがそうも述べているのだと解される)―― )。

出典(Source)紹介の部17-4はここまでとする)


 以上、引用なしたようなところらを受けて申し述べるが、ノーベル賞を受賞したような権威や学界の至宝などと評される学者(スティーブン・ホーキング)らの申しように対して

「彼らの科学理論は[全幅の信]を置くべきではない、よりもって納得がいく安全性論拠を出すべきである」

などとの主張を日本の法廷でなしたらば、[通弊]として権威に弱いとされる国内裁判官らに[敗訴]を言い渡されること必定であろうと医療過誤訴訟の一般的傾向などから述べられそうなところでもある(そういったことからして疑わしいとのことがあれば、―法廷・司法権の限界の問題について考えたいとの向きには読んでいただきたい書だが― 『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮文庫)といった書を手に取られてその[医療訴訟]に関する内容を見てみるとよい.「滑稽極まりないことに」最高法規である憲法が(20条[政教分離]との兼ね合いで)既に骨抜きになっているにも関わらず[言論人](と銘打たれての[虚構]の構築を専門とする「タレント」ら)は法的には[目的効果基準]とされる側面でそのことを問題視しようとさえしない一方で9条[戦争放棄]などの規定ばかりが問題視されるとのこの[不思議の国]の裁判が大筋としていかような性質を帯びているかご理解いただけるかと思う)

 といったことからもこの身が見るに、科学理論の適否、

[門外漢(含む:司法手続きに携わる人間)には理解が及びがたいとの科学理論の適否]

を前面に出すとのやりようで

[権威を笠に着る者達(実験機関関係者らであり、裁判官ら司直でもある)]

に挑み訴求をなそうとの海外にての訴訟の原告のやりようには問題があるであろうとしか申し述べようがないと見ている。

 そして、同じくものことは(権威に隠れて不正が多く黙過されてきたとの)[裁判]の外側にての物の言い様にも当てはまることと筆者は(当然に)見ている。

 LHC実験については本稿で問題視してきた、そして、これよりも問題視していく通りのこと、そう、

理系人間であろうと文系人間であろうと分かたずそこそこの知能水準を有しているのならば理解できようところとして」「[研究機関の言いようの根本的虚偽性を指し示すもの]が山なすほどに存在している」「そして、その山なすほどに存在している虚偽性を指し示すものが、と同時に、[恣意の賜物としての嗜虐性]をも帯びている

とのことこそが真に直視されねばならぬところであるはずである(筆者は同じくものことを直視できるか否かを問うこと、それがつまるところ、ありとあらゆる[逃げ]を倫理的・道義的に赦さぬことともなり、ひいては、種族の生存能力および存続価値の分水嶺そのものを確かめることに通ずることともなるととらえている)。

 検討に[最低限の知性]と同様に[生き残るために闘う最低限の勇気]をも要するとの同じくものことにまつわる至当なる訴求が

偽物としての反応しかなせぬとのロボット人間(傀儡)]
無関心Indifference・無知Ignoranceに安んじたままに生き続けていけるとの信仰・経験則を押しつけられているとの向き(この忌むべき世界の群衆の主要構成単位かとは思う)]

ではない、あるいは、そうしたものになりきっていないとの[責任感を持った人間ら]によって幅広くもなされ、 ――[勇気]も[自由度]もない、考えることさえ放棄しているとの節ある[実質上の奴隷(というよりも家畜)のような内面]しか有さぬ人間ばかりが目立ちもするこの世界にあっては『無いものねだりにも過ぎる』との現実的見方を抱く向きの方が多いかとも見るが―― そうもした訴求が目を覚ました多くの人間に直視されねば、そして、によって、人間存在が抗い、機会を掴みとらんとし、何かを現実的に変えんとせぬ限り

何の望みもなかろう

と手前は考えているのである

 逆を述べれば、

「それが出来ないようであるのならば、」我々人間という種族は
[如何なる帰結に対しても何の文句も言えなかった(意志の力の問題として言わなかった)種族]
であったとの式で遠からず終焉を迎えるであろう」

と見ている。残念ながらも、である(ただし、そうした見立ては押しつけはしない。そう、筆者が第三者に検討を講うのは何故に上のような観点が導出されるのかとのことにまつわるその具体的材料 ――本稿にてその呈示を使命と任じているもの―― の適否と意味性だけである)。

 その点、(繰り返すも)、海外訴訟にあって訴えたサイドは

[科学者科学理論の盤石さに対する疑義を呈するとの式での指し手]

[科学言語ではなく自然言語で摘示可能な[矛盾]や[偽り]が存在するところにてそうした目立っての「マイナスの」側面を摘示するわけではなく、代わって、[科学理論そのものが至当かどうか分からない限界を孕(はら)んだものである]と申し述べるのに終始するとの式での指し手]

が強くも採用されていた節があるわけだが、常識 ――それが根本根源からして忌むべき紛い物であろうともシステムの構成要素らに最大限尊重される式で堪えがたい臭気で満ち満ちた畜舎、もとい、社会が構築されているとの決まり事―― にあっては最大限重要視されるとの[ノーベル賞級物理学者らによって防御されている科学理論]そのものが[至当ならものか、そうではないのか]は

「本稿がその中身の適否を分析対象としているものでないし、その中身の適否を重んじているものでもない」

とのこととなる。

 本稿で重んじているのは門外漢が支持を集める式にては踏み入ることができなかろうとの専門科学理論の適否などといったことではなく、

[それが蒸発せずに、なおかつ、成長するのに天文学的時間を要しなかった場合に我々全員の命を刈り取ることになる出来事(ブラックホール人為生成)につき[はきとした証拠の山](本稿のここまでの段にて摘示なしてきたような事例が「一例」としかならぬような証拠の山)に基づき[奇怪な予見的言及]が過去になされ続けてきたということが指し示せるとの[事実]がそこにある、そして、その[事実]が指し示すとの方向性があまりにも[異常無比]かつ[酷薄]なものとなっているとのことがある(より具体的には「[人間の予見性の結果]ではおよそ説明が付けがたいとの[「奇怪な」予見的言及]が山として具現化しているのみならず、それら[「奇怪な」予見的言及]が[執拗なまでの恣意性の問題]を観念されもするとのかたちで[「堂に入った」「悪意によって成り立つ」系統立った側面]を相互に連関しながら呈している」こととなっている)]

との[事実]そのものである。

 以上の真に重要視されて然るべきこと ――本稿これよりの段にあってさらにさらに煮詰めてもいくとのこと―― の重要性を強調するために

「海外の訴訟事例のやりよう ――不正を黙過しても臆病者らには[権威]に逃げるだけの言い訳を許してしまうとのやりよう―― を反面教師にしての話をここまでなしてきた」

のである(※)。


LHC裁判を巡る動向についての「さらに」補ってもの表記として

 海外で訴訟を起こした者達は ――勇気があり、自由度を有している人間であるのならば「意思確認を遺漏なくもなす」との挙とも通ずる[相手の存立基盤にダメージを与えるカード]をも切るべきであったのに―― このような世界で[適正視されるべき科学的検討]について云々するとの式にこだわり、(それとて苦肉の策であったとは慮る余地が多分にあるのだが)、常識的話柄でNEPA( National Environmental Policy Act :国家環境政策法)に応じての監督を実験一時差し止めとつながるところとして求め、必然としてなのか、の敗北を見てしまっている節がある。
(:国内で訴求の用に供するためだけに裁判を提訴していた人間として申し述べるが、国内でも差し止め訴訟との類型の裁判を提訴できるかたちに法律構成がなっていたならば筆者ならば、[相手の存立基盤]にダメージを与えるカードを切り、それでもって、判断をなす立ち位置にある人間に[選択]を求めるとのことをなしていただろう(それでもって裁判官らが至当適切ではない妙な[事実認定]をなしたならばその式での[人間性の限界]と[断罪されるべき罪業]について「も」判ずることができただろう)、しかし、残念ながら、手前が無為なるかたちでかかずらわってきたとの国内訴訟では(先述なしたところの法制度の問題があり)よりもって皮相的なる「法的」側面にてでしか当該問題では争えない、それがゆえに、「主張に使えるカードも限られていた」とのことがある ――(の中でも法廷ゲームの中で本質的な意味での悪質性を訴求できるようなカードをできるだけ切ろうとしていもしたわけだが、[LHCのブラックホールリスクにまつわる「組織的な」やりとりが果たしてなされていたのか]などといった[自明なること]に裁判の性質上、争点が矮小化を見ており、なおかつ、人事異動を見た後の担当裁判官が「LHCのブラックホールリスクにまつわる組織的やりとりが問題となる記録を伴って存在していたかは藪の中.」などと[ブラックホール蒸発訴求文書としてそこにある実物](物理学会発表文書としての国内の組織供用文書)を現に提出していた筆者に対して[「妙な」事実認定]をなしたりもしてきていたのが[国内実験機関のリスク情報に対する扱い方(と国民に対する背信行為)につき非を鳴らしていたとの長期化した国内行政訴訟]のありようとなっている)―― )。

 海外訴訟では訴えた側も[相手方の「科学的」言い分の欺瞞性を問題視する]との相応の主張をなすにあっても工夫をなしていたようだが(直近にて引用なしていた[出典(Source)紹介の部17-4]の前半にての引用部(のうち、1.や2.や8.と振られての部)に見るような申しようがまさしくもそうした工夫の妙・工夫の跡が窺えるところである)、結果的に
[米国訴訟の「控訴審」]
にあって「も」前審に続き[法律上の争訟]を[法律上の争訟]たらしめている根拠となる法規、NEPA(既述)の該当案件適用「不可能」性の問題を受けつつ控訴人ら(サンチョら)主張は
「(理論の適否をなじる中で)直接性ないし急迫性を有した侵害がそこにあるのか指し示せていない」
とのことで敗訴が言い渡されたとオンライン上にても流通している諸文書を通じて確認できるようになっている(:その点については In late August 2010 the Ninth Circuit affirmed the district court's dismissal of the case, holding that the plaintiffs had not established a direct or imminent injury, and therefore did not have standing.(訳として)「2010年8月下旬、第9巡回区連邦控訴裁判所は原告ら(往時appelant控訴人)が直接性ないし急迫性を有した侵害を指し示しきれていない、従って、主張の基盤がないとのことを取り上げながら、第一審の棄却判決を支持するとの結論を出した」などと訴訟一方当事者を支えた者たちに締めくくられている;左の英文の部は訴訟の被告・被控訴人ら(要するに加速器実験実施サイドたる合衆国エネルギー省、フェルミ国立加速器研究所ら)を支援していたとのことであるニューヨークに拠点を設けている ATLANTIC LECAL FOUNDATION[アトランティック・リーガル・ファウンデーション]の[自由の女神を上に据えたウェブページ]より原文引用した控訴審判決に対する解説文である ―疑わしきは原文出所をそのまま文書名や文章文言の検索エンジン入力にて特定してみるのもよかろう― ) 。

(さらに補ってもの表記を続けるとして)

 尚、(米国から転じての)欧州ではカオス理論を専門とするとのことであるドイツはテュービンゲン大の教授オットー・レスラーが同様の裁判をスイスにて提訴したわけだが、その折の裁判所の申しようも
「訴え人の主張は危険性を十全に示しきれているとのものではない」
とのものであったと「そればかり」目に入るような紹介媒体にて語られているところとなっている ――※それにつきさらに詳しく述べれば、欧州の裁判の方ではCERN実験が執り行われるスイスでドイツ人教授オットー・レスラーらグループが裁判を起こしていたが、(米国裁判控訴審と同様に)「根拠薄弱である」との申し分で訴訟は棄却されている(:オットー・レスラーについては初期、CERNの科学者らにもその申しようをまともに相手にされそうなところがあったともいうが、後、CERN関係者態度はレスラー申しようは「妥当ではない」との軽侮を伴っての無視に切り替わったと(先に出典として紹介している)米国人法学者による論稿、 THE BLACK HOLE CASE: THE INJUNCTION AGAINST THE END OF THE WORLD上では言及されている(該当ページは文書上部にて844から845と番号振られたページがそうである))。  その点、ドイツの大学教員であるオットー・レスラーらは後、最後の手段として欧州人権裁判所に提訴をなしたとも伝わっているが、裁判で[原告適格]が果たして認められるのか否か延々と揉めているうちに問題となる実験がはじまり、「遅すぎた」とレスラー自身が述懐したようなところとなっていったと欧米圏流通資料でまとめらもしているかたちが欧州で物議を醸した訴訟の顛末である(:日本の行政訴訟「一般」でも裁判の判決が出た折には遅すぎたとの処分をめぐる不条理システムが採用されているとも聞き及ぶ ―日本の御上を相手にした裁判の馬鹿馬鹿しさを解説した書籍などに記載されていることでもある― が、それと似たような運びとなっているとされる。その点、オットー・レスラーやりようを巡るここでの記述は "HONEY I BLEW UP THE WORLD!": ONE SMALL STEP TOWARDS FILLING THE REGULATORY "BLACK HOLE" AT THE INTERSECTION OF HIGH-ENERGY PARTICLE COLLIDERS AND INTERNATIONAL LAWとのタイトルでPDF化されたバージョンがオンライン上にて流通している文書、ジョージア大ロースクールで法学博士の資格をとっているとのことであるサミュエル・アダムス( Samuel Adams )という人物の手になる文書の152から153と付されてのページにて解説されているところでもある(のでそちら表記の文書名( "HONEY I BLEW UP THE WORLD!": ONE SMALL STEP TOWARDS FILLING THE REGULATORY "BLACK HOLE" AT THE INTERSECTION OF HIGH-ENERGY PARTICLE COLLIDERS AND INTERNATIONAL LAW)をダウンロード・確認いただくのもよかろう)―― 。

 とにかくも欧米の裁判にあっては
「[理論の適否](ある理論、あるいは、ある理論に基づいた実験には信がおけるか否か)が専らにして争われている」
次第である。
 につき、直近にても言及した文書となるが、JD(法務博士号)保持者、ということは法曹ということになろうとの Samuel Adamsがまとめている論稿である、

"HONEY I BLEW UP THE WORLD!": ONE SMALL STEP TOWARDS FILLING THE REGULATORY "BLACK HOLE" AT THE INTERSECTION OF HIGH-ENERGY PARTICLE COLLIDERS AND INTERNATIONAL LAW

にては筆者が[ことの問題性]をよくも示すと見る次のような記載がなされている(のでそちらよりの引用もなしておく)。

(直下、 "HONEY I BLEW UP THE WORLD!": ONE SMALL STEP TOWARDS FILLING THE REGULATORY "BLACK HOLE" AT THE INTERSECTION OF HIGH-ENERGY PARTICLE COLLIDERS AND INTERNATIONAL LAWにあっての153と振られてのページよりの引用をなすとして)

First, as seen in the RHIC case, it is difficult for a plaintiff to prove that there is a danger when relying solely on theoretical physics.

(訳をなすとして)
「一義的に(かつてワグナーらが1999年の騒動の後、加速器RHICにて提訴した訴訟に見られるように)原告にとって理論物理学にのみ依拠していることが問題となっている時点で[危険]があると立証することが困難である」

(訳を付しての引用部はここまでとする)

 上にては
[言うまでもないこと]
が記載されていると思われる(加速器訴訟の相手方がノーベル賞受賞物理学者らさえその気になれば法廷助言人(アミカス・キュリエ)として援護射撃要員として動員できるような組織体ならば、そして、訴える側が主流派物理学者らの言うがまにまにの世論の理解を得られないような状況ならば ――常識の世界での常識サイドの声の大きい方の論理に衆が固執する中で―― 勝敗は自ずと決していようと思われる)。
 詰まるところ、そうもした上にて記載されていることが本稿筆者が海外訴訟にての原告やりように伴う問題点、否、本件にかかずらう人間が陥ってはならぬ陥穽のありようが端的に表されているところと見ている。

 ここまで述べてきたうえで

「ブラックホール生成問題にまつわる先覚的言及をなしている文物が存在しているのだが、それがその[先覚性][正確性][克明さ]のどの面でも群を抜いているとの異常無比なるもの、まさしくもの[[予言的作品]にして[告知文物]]といった形態のものとして存在しているがゆえに問題になる ――本来的には[[未知]を前提にしての予言「的」作品]と[[既知]を前提にしての告知文物]は論理的に両立するものではないわけだが、それらの要素を双方体現しているがために異常無比となるものが存在している(がゆえに問題になる)―― 」

との観点で本稿の先の段にてその細かき内容を問題視してきた作品、
『ホール・マン』(CERNの名前を露骨に想起させる架空の組織の15兆電子ボルト加速器を登場させている他の小説 Adrift Just off the Islets of Langerhans:Latitude 38°54'N, Longitude77°00'13W (邦題)『北緯38度54分、西経77度0分13秒 ランゲルハンス島沖を漂流中』と[ブラックホール関連文物]として連結していると[事実F]から[事実J]の段を通じて摘示してきた1974年初出の小説)
より次のような表記を引用していたことを再度、取り上げる。

(直下、邦訳版の『ホール・マン』掲載撰集のp.270-p.271 ――[出典(Source)紹介の部6]にて取り上げた出典―― よりの「再度の」引用をなすとして)

「リアは肩をすくめ、首をふった。「何による殺人だい?あの中にブラックホールがあるなんて、チルドレイは信じてもいなかった。あんたたちも、似たようなもんだ」唐突に、にやりと笑った。「裁判がどんなものになるか、考えてみろよ。検事が陪審団に、ことの次第に関する自分の考えを説明するところを想像するんだ。それにはまず、ブラックホールについて話さなきゃならない。つぎに量子ブラックホール。それから、兇器が発見できない理由、それが火星の中をつきぬけて動きまわっていることを、説明しなくちゃならないんだぜ!そこへいくまでに、笑いとばされて法廷からおん出されずにすんだとしても、その上さらに、原子よりも小さなそんなものがどうして人を殺せるのかということを、説明しなくちゃならないんだ!
・・・(中略)・・・
 それでおしまいだった。裁判が成立するみこみはない。並みの裁判官や陪審団に、検事側の話を理解させることなど、できっこないからだ。このまま明るみに出ずに終わる事実も、二、三あることだろう

(邦訳版よりの引用部はここまでとする ―※― )

(ちなみに上の引用部に対応する原著 The Hole Manの表記は Neither did many of you." He smiled suddenly. "Can you imagine what the trial would be like? Imagine the prosecuting attorney trying to tell a jury what he thinks happened. First he's got to tell them what a black hole is. Then a quantum black hole. Then he's got to explain why he doesn't have the murder weapon, and where he left it, freely falling through Mars! And if he gets that far without being laughed out of court, he's still got to explain how a thing smaller than an atom could hurt anyone!"[ . . . ]Obviously there would be no trial. No ordinary judge or jury could be expected to understand what the attorneys would be talking about. A couple of things never did get mentioned.となる)

 直上にて再引用なしたところの記載が[奇怪な先覚的言及に関わっているところの文物(『ホール・マン』)]にてなされていることが

「いかに悪魔(狂った宗教の徒輩ら流に言うところの神でもいい)が人間を嘲笑うがごときものなのか」

についてブラックホール生成議論のありようについて深くも分析してきた人間には分かろうとのものである(国内で当該問題に関する裁判を長々と闘っていもした筆者にそのようなことを述べる資格があるかないかは本稿こここれに至るまでの内容を読み直していただいてうえででもきちんと考えていただきたいものではある)。

LHC裁判動向についてのさらに補ってもの表記はここまでとする


 法廷にての鍔迫り合いのあり方、そちらに材をとっての今までの話から

[「本来的には、」人類が一丸となってその是非について検討「すべき」ような当該案件]

につき ―(世人がそれに向き合う[意志の力]を果たして実際に蔵しているかはまた別問題として)― 「何を」「どう」問題視すべきなのか筆者が指摘していることはご理解いただけたことか、と期待する。

 ここまでにて「[強くも断っておきたいことらの明示]をなしたい」とのことで取り上げるとしてきた二点のことら、すなわち、

第一。
「[本稿で問題視したいこと]は[物理学者ら理論にあっての欠陥性]を指摘するなどということには毛頭ない。そういうこと、物理学者ら理論にあっての欠陥性を摘示するとの資格も能力も筆者にはない(などと述べると心得違いをなしている向きは『この者が摘示事物に確証・自信を抱いていないからそうもしたことを言うのだろう』などと誤解するかもしれないが、そうではない)。 専門家らの理論の適否を論ずることなどせずとも、それでも、[実験](と世間的には明示されている営為)に伴う問題となることは「容易に」摘示できるようになっているし、第三者でもそのことは確認できるようになっている。そのことの把握を求め、その先にあることの意味を問うのが本稿の趣意である」
同点、第一の点の明示のために本稿では[「反面教師としての」海外のLHC関連訴訟を巡る顛末の解説]を話柄としての説明をなす

第二。
「本稿では[他の人間に誤解されるようなこと]を敢えても指摘しているが、といったことにしても[きちんとした論拠](属人的目分量の問題から離れもしてそこに確として存在しているとの論拠)に基づいているとのことを厳選・取捨選択して取り上げている。それが果たして本当なのか、本稿が真剣なる顧慮に値するもの、そう、[具体的行動の指針となして然るべきようなもの]とのレベルで真剣なる顧慮に値するものなのかとの観点にて読み手に切に確認いただきたいと考えている」
同点、第二の点の明示のために本稿では[奇異奇矯と受け取られもしようこと、であるが、顧慮に値すること]がいかようなことなのか、極々一例、先行するところの説明を間を経ずに(紙幅にしてそう先のところではないとの段にて)なすこととする

とのことらのうちの第一の点についての話をなし終えた。

 次いで、

第二。
「本稿では[他の人間に誤解されるようなこと]を敢えても指摘しているが、といったことにしても、いや、といったことであればこそ、[きちんとした論拠](属人的目分量の問題から離れもしてそこに確として存在しているとの論拠)に基づいてのことを厳選・取捨選択して取り上げている。それが果たして本当なのか、本稿が真剣なる顧慮に値するもの、そう、[具体的行動の指針となして然るべきようなもの]とのレベルで真剣なる顧慮に値するものなのかとの観点にて読み手には切に確認いただきたいと考えている」

とのことについて ――そちらは極めて長い話ともなるのだが―― 舵をきりたいと思う。

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直下、本稿冒頭部へのリンクを設けておく

(⇒冒頭頁へは下の部より)

[典拠紹介部第1頁 加速器実験に伴う欺瞞性から証示なせることについて]

 上にて挙げているのはドイツ浪漫主義芸術の巨匠たる18世紀画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Freemasonでもあったとの画家 Caspar David Friedrich)の手になる一品、

Der Wanderer uber dem Nebelmeer雲海の上の旅人』(に多少の[動き]をアレンジとして加えたもの)

となる。

 言われようの問題として一般に、

[人間の崇高なる精神が高みを目指し、ついぞ多くの物事を達観するに至った時、その折の孤独と感慨を描いた画]

などと形容される上掲の『雲海の上の旅人』に関して(本稿でもその言行を順次・段階的に取り上げることになるとの)物理学者リサ・ランドールは[次のような申しよう]をなしている。


(直下、物理学者リサ・ランドールの手になる著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)にての CHAPTER THREE LIVING IN A MATERIAL WORLD[第三章 物質世界に生きる]の章の記述内容 ――オンライン上検索エンジンにあっての原文検索にて該当部特定できるところの記述内容―― よりの原文引用をなすとして)

Our universe is in many respects sublime. It prompts wonder but can be daunting ―even frightening― in its complexity.  Nonetheless, the components fit together in marvelous ways. Art,science, and religion all aim to channel people’s curiosity and enlighten us by pushing the frontiers of our understanding. They promise, in their different ways, to help transcend the narrow confines of individual experience and allow us to enter into―and comprehend―the realm of the sublime. (See Figure 11.)
          [ . . . ]
[ FIGURE 11 ] Caspar David Friedrich’s Wanderer Above the Sea of Fog (1818), an iconic painting of the sublime ― a recurring theme in art and music.

(上の原著引用部に対する[訳文]として国内流通訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版にあっての81ページに記載されているところを引くとして)

多くの点で、私たちの宇宙は崇高だ。その複雑さは好奇心を駆り立てはするが、無力感も抱かせるし、ことによっては恐怖さえも感じさせる。にもかかわらず、宇宙の構成要素は素晴らしくぴたりと絡みあっている。芸術、科学、宗教は、いずれも人々の好奇心を促して、理解の限界を広げさせ、それによって私たちを啓蒙することを目指している。いずれもそれぞれのやり方で、個人の経験の狭い領域を越えさせることを約束している。それがかなえられたとき、私たちは崇高なものの領域に踏み込む――そして理解する――ことができるのだ(図11を参照)。 …(中略)… [図11]ドイツの画家カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ。崇高さは、美術と音楽に繰り返し登場するテーマである

(以上をもって Knocking on Heaven’s Doorにての原著表記および訳書よりの引用とした)


 さて、何故、ここ脇に逸れての部にあって「目立つように」特定絵画 ― 『雲海の上の旅人』― を挙げ、その絵画に対する物理学者の評しよう ―「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ....― などを引いたりもしたのか

「それは、」
絵画『雲海の上の旅人』に対して直上引用なしたような評しようをなしているとの物理学者リサ・ランドールが

加速器によるブラックホール生成可能性にまつわるトピックの理論深化に一廉ならぬ貢献をなしているとの著名物理学者

[[崇高なるもの]を目指しての宇宙の探求(およびそのための装置と銘打たれている巨大加速器LHC)の称揚・礼讃をなしているとの向き

であるとのことがあり、また、なおかつ、彼女リサ・ランドールの手による、(絵画『雲海の上の旅人』を科学者が目指しての[崇高さ]とを結びつけている)引用元著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)が

人間のありよう(崇高さとはおよそ程遠いところにあるありよう)]
人間の辿る運命

を嘲笑うような[嗜虐的寓意]で満ち満ちていると申し述べられるようになっている著作であるとのことがある、遺憾ながら
[理の当然]
として申し述べられるところとしてある ――個人のせせこましい偏頗(へんぱ)な主観などとは一線を画したところで客観的かつ具体的にこれはこうでこうだと申し述べられるようになっている(出典呈示を第一義にしての本稿では無論、その論拠を事細かに挙げる)とのところとしてある―― からであり、そのことに注意を向けたかったからである(※)。

(※上にて引用元とした著作、 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)、同著にあってはその冒頭部より
September 10, 2008, marked the historic first trial run of the Large Hadron Collider (LHC). Although the name―Large Hadron Collider― is literal but uninspired, the same is not true for the science we expect it to achieve, which should prove spectacular. (表記英文引用部に対する訳として)「2008年9月10日、ラージ・ハドロン・コライダー(LHC)が歴史的始動を見た.[ラージ・ハドロン・コライダー]との名称は有り体に言ってインスピレーションを何ら与えぬとの平凡なものだが、私たちがそれ(LHC)に[証明すべきととらえている壮大なる挙]を託しているとの意では[科学(の進歩)]にとり同じくものことは真実とはならない(LHCは際立ってのインスピレーションを与えるものである)」
などとのことが書き記されている。
 そうもした書きようが目立ってもの冒頭部にてみとめられる著作ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアにおける表題、 [天国のドアをノックする]の由来についてリサ・ランドール女史は同じくもの著作の中で次のようなことを述べてもしている。
(以下、 Knocking on Heaven’s Doorにての CHAPTER FOUR LOOKING FOR ANSWERSより引用なすところとして)
I first heard the phrase “knockin”on heaven’s door”when listening to the Bob Dylan song at his 1987 concert with the Grateful Dead in Oakland, California. Needless to say, the title of my book is intended differently than the song’s lyrics, which I still hear Dylan and Jerry Garcia singing in my head. The phrase differs from its biblical origin as well, though my title does toy with this interpretation. In Matthew, the Bible says, “Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find; knock, and it shall be opened unto you: For every one that asketh receiveth; and he that seeketh findeth; and to him that knocketh it shall be opened. (以上原著表記に対して訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版[第四章]103ページにての表記を引くとして) Knocking on Heaven’s Door(天の扉を叩く)]――これが本書の原題だが、私が最初にこのフレーズを聞いたのは、一九八七年、カリフォルニア州オークランドでのグレイトフル・デッドとのコンサートで、ボブ・ディランが『天国への扉』を歌うのを聞いたときだった。いまでも私の頭の中ではディランとジェリー・ガルシアがこれを歌っているのが聞こえてくるけれど、いうまでもなく、私の本のタイトルは、この曲の歌詞とは意味が違っている。このフレーズは出典である聖書の一節とも違っているが、私のタイトルはこちらの意図を拝借したものだ。聖書の「マタイ伝」には、このように書かれている。「求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり
(以上、引用部とした)
 といったところ、新約聖書のマタイ伝にあっての
[求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり]
とのフレーズ、それが
[天国の門]・[天国への扉]・[天国への階梯](ステアウェイ・トゥ・ヘブン)
との兼ね合いでいかように嗜虐的なる別側面での意味( Double Meaning )と共にあるのか、そのことからして具体的典拠を挙げ連ねるとの式で遺漏無くも事細かに示そうというのが本稿の本義であるとここ脇に逸れての部にあって訴求しておきたいとの意図が筆者にはある)

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