典拠となるところの明示[13]――加速器実験に伴う欺瞞性、 そして、そこより証示
なせもすることについて

関連情報にまつわるカテゴリ(各部クリックにて遷移)

海外にてのLHC関連訴訟を引き合いに申し述べられもするとのことについて

 直前頁、その末尾にて


[重要なることのさらなる呈示]をなしもする「その前に」、
[強くも断っておきたいことらの明示のための話]
に以降、筆を割く


と述べ、それら話とは具体的には[以下のこと]らを明示するためのものであると申し述べた。

第一。
「[本稿で問題視したいこと]は[物理学者ら理論にあっての欠陥性]を指摘するなどということには毛頭ない。そういうこと、物理学者ら理論にあっての欠陥性を摘示するとの資格も能力も筆者にはない(などと述べると心得違いをなしている向きは『この者が摘示事物に確証・自信を抱いていないからそうもしたことを言うのだろう』などと誤解するかもしれないが、そうではない)。 専門家らの理論の適否を論ずることなどせずとも、それでも、[実験](と世間的には明示されている営為)に伴う問題となることは「容易に」摘示できるようになっているし、第三者でもそのことは確認できるようになっている。そのことの把握を求め、その先にあることの意味を問うのが本稿の趣意である」
こちら第一の点の明示のために続く段にては[「反面教師としての」海外のLHC関連訴訟を巡る顛末の解説]を話柄としての説明をなすこととする

第二。
「本稿では[他の人間に誤解されるようなこと]を敢えても指摘しているが、といったことにしても[きちんとした論拠](属人的目分量の問題から離れもしてそこに確として存在しているとの論拠)に基づいているとのことを厳選・取捨選択して取り上げている。それが果たして本当なのか、本稿が真剣なる顧慮に値するもの、そう、[具体的行動の指針となして然るべきようなもの]とのレベルで真剣なる顧慮に値するものなのかとの観点にて読み手に切に確認いただきたいと考えている」
こちら第二の点の明示のために[奇異奇矯と受け取られもしようこと、であるが、顧慮に値すること]がいかようなことなのか、極々一例、先行するところの説明を間を経ずに(紙幅にしてそう先のところではないとの段にて)なすこととする

 それでは表記のこと、その第一点目にまつわる話に以降、筆を割くこととする。

本稿が細かき科学理論の適否「そのもの」の理非を問題としているわけではないことについて

 さて、
「本稿は科学理論の適否「そのもの」についての正しい・誤っているとの問題(正誤問題)について云々しようとのものではない」
などと書き手たるこの身が手ずから述べれば、

『であれば、この者の申しように重きを置けるわけがないではないか』

などと[勘違い]をなされる向きあるか、と思う。

 が、そうした見立ては至当ならざるものとして(「容易に」)斥けられる。

 海外にての訴訟案件にて原告らがLHC実験リスク問題における科学理論の適否という同文同様のことを問題視、いかに[無為たる敗退]を喫したか、とのことは続いての段にて典拠に依拠して解説するが (海外訴訟ではそれ専門の理論家らとの体裁で世間的にやっている学者らを相手に「半ば」門外漢たる者達が ――門外漢とはいえども彼ら識見水準は(学歴などといった下らぬ肩書きの面でも)世間人並みの水準を遙か上回るものであったわけであるも―― [科学理論の欠陥性]にまつわるところで非を鳴らしながら[安全性にまつわる懸念]がゆえに実験の差し止めを求めたのであるもその結果は[黒白判断保留が司法になされながらもの棄却判決]だった)、 といった[理論それものの適否の重要視]の方向性に対して、ここ本稿で重んじているのは、ひとつに、

「(問題視しているところは)[専門家らが甲論乙駁なしているところの科学理論の妥当性]などではなく、最近、人間の世界に書き込まれた科学史にあからさまな欺瞞が具現化しているとのことである
 それにつき、[科学理論]そのものの妥当性については素人、あるいは、全くの非事情通よりは幾分、道に通じているとの勉強しての門外漢(筆者のような人間)が云々できるところではないが(素人・門外漢がそれをやったならば「出歯亀的異常者」として専門家と呼ばれる者達らの軽侮・冷笑をいたずらに買うだけであろうと考える)、[科学史]、そこに書き込まれた総体としての記録に見る申しようの欺瞞性・問題性の有無については専門分野教育をさして受けておらずとも容易に分析対象とできるとのものとなっており、現実にそこに[生き死にの問題に関わる欺瞞の根]が「幾重にも幾重にも、」現出しているとのことがある」

とのこととなる ――本稿にての先立っての[事実A]から[事実J]の事実摘示で当方がつまびらやかにしているところの理解にどの程度の知識水準が必要なのか、検討されてみるとよい。同じくもの[事実A]から[事実J]についてきちんとお読みいただければ、それら事実については文系・理系を問わず[高卒程度の人間に望まれる人並みの水準]で「適否判断(確認)可能なところである」とご納得いただけるところか、と思う(:脳の情報処理能力との観点で述べれば、国内で自動車免許の筆記試験に合格するだけの知的能力があるならば、その適否について理解できるだろうとも述べておく。ただし、多く[人格]と紐付いた[意志]がない、知的かつ建設的な営為の源泉となる[意志]がないとの人間、そう、生者でありながら死体のような存在に部分的に成り下がっており、振る舞い・考える意志の力が該当分野にあって内発的に生じ得ない、ないし、宗教的狂人の如き頑なで意固地なる者として特定の思考をなすことや特定の概念・存在のことを認容する努力をなすことさえ拒否するとの筋目・筋合いの人間であるのならば、大学院で博士号をとっていても理解「しない」、理解「しようとしない」とも思うが(※))―― 。

(※それにつき筆者が呆れかえるとのことになっているのはたかだかもの上記の如きこととして[問題性の摘示]が実にもって容易になせてしまえるようになっているにも関わらず、この世界では同じくものことを大人が聞くに値する話柄で問題視しようとの人間が「絶無」に近しいほどにいないとのことがありもする、そのように「見受けられる」ことである(この身は同じくものことについてオンライン上の世界的言論「流通」動態を仔細に分析している(e.g.どういうわけか、情報にレギュレーション(規制)がかけられているとの可能性をも念頭に[検索結果ゼロ件]になるまでユニーク・キーワードで和英文の検索をかけ類似情報の流通動向を確認する/広告出稿サービスのキーワード毎コストパフォーマンスを確認可能とすべくもの世界的検索動向確認サービスを利用する等等の行為で分析している)がために「そのように見受けられる」とはきと述べもするのだ)。 そうもしたことの背面にあるのは[意志]を奪われている、ないし、[意志]に枷(かせ)が嵌められているとの[人間存在の実態的ありよう]が関わってくることだとは個人的にはとらえるが、については、ここではくだくだと述べない)

 以上のこと、述べたうえで理論の適否それ自体を問題視することがいかに割に合わぬことなのか、いかに妥当ならざりしところなのか、LHC実験差し止めを求めての海外訴訟にあって原告らの失敗の因のひとつとなった(と解されるところ)を紹介したい。

 その点、ハワイで提訴されたLHC差し止め訴訟 ――(欧米では日本と異なり行政に作為を求める(何らかの行為をなすように、と求める)とのことが可能であること、また、原告らが合衆国法規に通暁しているがゆえに米国で提訴されたと解される訴訟)―― にまつわる判決書にも ――皮肉ながらも実験継続を認容した判事サイドの申しようとして―― ここでの話に通底すること(「理論の適正さ・妥当性について云々することが問題になるわけではない」とのこと)が記載されているがゆえ、その部から「手始めに」引いておくこととしたい。

(尚、以降、出典(Source)紹介の部17から出典(Source)紹介の部17-4にあっては海外訴訟にてのありようを基本的なるところから解説するための引用を順次なしていくことにする ――終局的には[海外訴訟の論点が科学理論の適否それそのものにまつわるところとなっている]との解説をなすことになるわけだが、の過程で、それとは直には関わらないところにまつわる引用をもなすと断っておく―― )


| 出典(Source)紹介の部17 |

 ここ出典(Source)紹介の部17にあっては(以後のより細々とした当該訴訟関連資料よりの引用に先駆けての)米国訴訟にての判決書よりの引用をまずもってなしておきたい。
 具体的には海外のLHC差し止め裁判に関わった判事 ――(ヘレン・ギルモアという人物/「上ばかりしか見ていないヒラメ人間が出世する傾向がそうじてある」と他から揶揄されることが多い日本の官僚化している裁判官ら、背景あって手前自身、昨今、動向を多数分析することとなった[(原告敗訴率が極めて高いことでも知られる)国内行政訴訟]では不条理劇を実演することが多いと指摘される日本の官僚化している裁判官らよりは遙かに真っ当な物言いを判決書でなしているととれる米国下級審判事)―― によるところとして次のようなことが結語の部にて記されていることを引いておく。

(直下、 THE UNITED STATES DISTRICT COURT FOR THE DISTRICT OF HAWAII(ハワイ地区連邦地方裁判所)に由来するところの判決書 ―― Sancho v. U.S. Department of Energy ( CIVIL NO. 08-00136 HG KSC )との検索エンジン上での事件名(事件番号)入力でGPO( United States Government Printing Office )こと米国印刷局配布の文書としてダウンロードできるようになっているとの判決書―― の結論間近の部より原文引用をなすとして)

It is clear that Plaintiffs' action reflects disagreement among scientists about the possible ramifications of the operation of the Large Hadron Collider. This extremely complex debate is of concern to more than just the physicists.

(訳として)
「原告らの法的訴えがLHC運営に伴うありうべき結果について科学者らに不同意があることを指し示しているは明らかである。この実に複雑な議論に関しては[ただ単に物理学者らだけの関心事である]といったもの以上のものである

(訳を付しての引用部はここまでとする)

出典(Source)紹介の部17はここまでとする)


 米国でのLHC差し止め請求訴訟を「棄却」で決着させたとの判事の判断にどこまで適正と容れる余地があるかは置き、少なくとも、上の引用部に見る申しように関しては(道理に通じた人間であるのならば誰であれ)[そうであろう]ととらえて然るべきところである。

 すなわち、

この実に複雑な議論に関してはただ単に物理学者らだけの関心事であるといったもの以上のものである

という点については ――(訴訟にて訴える側になったルイス・サンチョ(スペイン人ジャーナリスト)およびウォルター・ワグナー(はじめて1999年に加速器によるブラックホール生成につき問題視しだした元原子力安全監督官)はそういった問題提起は「なさなかった」わけだが)―― [専門の科学者でもなくともその欺瞞の所在につき同定できるところ]として本稿にて摘示してきたような[事実A]から[事実J]のとおりの問題事があるわけだから、[情報]をきちんと「適正に」把握するだけの[意志]の力がある者なら誰であれ、同じくものことにつき[そうであろう]ととらえるところと解されるようになっている。

 ここで述べるが、米国で提訴された、

[LHC実験はその安全性が確認されるまで差し止めすべきであるとのことを求めての裁判]

にあっては[環境監査を担保するための法律]として制定されたNEPA( National Environmental Policy Act )が[法律上の争訟]の所以たるところとなって同法規の適用可否が(後述するような式で)法廷の場で争われていた ――※法律の基礎を学んだ向きならばお分かりいただけるのではないか、と思うのだが、裁判所という場所は特定の法律の適用の可否を争うところである。それがゆえ、[適用が争われる法律]がなければ裁判にはならない(ただし、といった中でも、行政訴訟分野にあっての米国の法制度では[法理念に規定に根ざした法運用]にあって日本とは異なるところがあり、[法律にて「はきと明示的に」保護された利益の侵害]がなくともその余地がある、[事実上の侵害行為][法律上、対処に値する侵害]があるとのことであれば、訴えをなそうとする側に原告適格(原告となる資格)が認められるだけの土壌が存在し、訴訟がより幅広くも提訴できるようになってもいるとのこともある)―― 

 上にて[法律上の争訟]を解決するための裁判の意味合いについて言及したうえで述べるが、米国の裁判では[法律上の争訟]の因たる環境と生態系の保護を志向してのNEPA National Environmental Policy Act /国家環境政策法)が当該問題で実効性を有さ「ない」と認定されたことが海外訴訟で訴えを提訴した側の敗訴の直接的要因となっていると額面上は「見受けられる」ようになっている(:少なくとも手前が米国の第一審の裁判判決書および控訴の帰結について扱った資料 ―後の段にて引用をなすこととした資料― を検証した限りでは、である)。

 同点について触れる前に勘違いしていただきたくはないところとしてそこから述べることとして、

裁判所がLHCにリスクがある可能性について全面的かつ具体的なる判断をなした。LHCの安全性には物理学者ではない人間、裁判官らもお墨付きを与えているのだろう

とはあい「なっていない」とのことがある(ご立派な科学動向解説書らの中にはさも裁判所が安全性の議論に欠陥がないとの完全な[お墨付き]を与えているような書きようをなしている書籍も含まれているのだが、はきと述べ、[事実を重んじていない]との式で科学者の名に値しない手合いによる衆目の目を曇らせるようなやりよう、といったところに通ずるところとして本質的にはそうはなっていない;裁判所(司法)は[実験]の安全性について積極的なる判断をなしているわけではない ―※― )。


※断り書きとして

 上のようなことを書き記していることにつき、

『[素人]が何を偉そうに.法制度のことに、裁判制度に語り手たるこの書き手(本稿筆者たる手前)はそこまで詳しいとでもいうのか.呆れさせてくれるな』

と思われる方もいるかもしれない。

 であるから、述べておくが、

「筆者はエキセントリックと看做されかねない ――「相応の」人間ら(の紐帯)には特にそのような(エキセントリックであるとの)ラベリングをなされかねない―― 、そして、現実改変可能性がある式で顧みられもしないために半ば匙を投げていた反響確認も兼ねてのウェブ媒体などを展開するといった行為の脇にての常識的活動の一環として、(先にも申し述べたことだが)、現実的・実際的なる行為として、
[国内実験参加機関 ―LHC実験主催者機関たるCERN(欧州原子核研究機構)のLHC実験リスク問題検討にCERNのSPC( Scientific Policy Committee/科学政策諮問会議)での安全性検討との兼ね合いで人脈接合している研究機関/国内でCERN実験を応援・推進することをなすとの人脈の供給源となっているハブ的研究機関― のLHC実験それそのものの欺瞞性に関わる特定挙動にこの日本で疑義を呈し、LHC関連裁判を第一審からして年度にして2年間またいで(現行、当追記部を記している2014年を基準に見て2012年からの2年間またいで)やってきた]
との人間となりもし(これまた先にも申し述べたことだが、単に奇異なる提訴をなしただけならば第一審からして長引かず、即時棄却dismissを見て終結を見るか、ないしは、そも、「訴えの利益がない」とのことで原告適格なしで門前払いともなろうとのことが一般論としてある ――訴訟とて国家公務員が公金を食みながらもの公務として携わっているもの、[訴訟経済]との言葉があるように税金にて運営されている国の公的機能なのであるから当然である―― )、 その意では少なくとも当該問題について語る資格なき素人とはならないだろう」

と申し添えておく ――そういうところで(本来ならば)エポックメイキングとなって然るべきような性質の訴訟が長々と続いての中、日本国内マス・メディアがそれにつき一切取り上げ「ようとしない」、取り上げ「なかった」ことを読み手がどうとらえるところかとのことは置いてのこととして、である―― 。

(:尚、国内では法律規定および社会状況の問題から実験それ自体を[停止]させることを法律上の争点として求めるとの訴訟、[差し止め訴訟:インジャンクション・ケース]としての(住民)訴訟は提訴できない ――LHC実験はそも、国内自治体など公的機関が国内で主導していることでは[ない]からである―― 、そのような有識者意見を手ずから聞いているし法制度を調べて見て実際にそうであろうと判じた中、他の法的事由でもってCERN関係機関(そして加速器マフィアの本丸たるIFCAこと International Committee for Future Acceleratorsの国内中枢にして国内に設置予定であるILC( International Linear Collider )との兼ね合いで現時の世界的重要セクション)を相手取った訴訟、長期間続くことになったとの訴訟にて2012年に東京地方裁判所に提出した原告文書(準備書面ら)の中からしてこの身は
1980年初出の小説( Thrice Upon a Time『未来からのホットライン』)が今日の状況を仔細に言及していた(研究機関の申しようと平仄が合わぬかたちで言及していた)
とのことまで問題視していた(:といったことは本来ならば[法律上の争訟]の[要件事実] ―権利関係の確定の適否に関わるところの事実― に関わらぬところとも解されようところなのだが、それを敢えてもそこにかぶるように工夫なして、書証の一として書籍の問題となる部のコピーを付してそういうことまでやってきた)。 
 そうしたやりようが当該問題にあって筆者が
[「情報」を呈示・提供した向き]ら(被告研究機関および被告の代理人としての弁護士らも含めての関係者ら)
の琴線に触れるところがあったかは「何の期待もできない」との心証を ―極めて遺憾なことながら― 覚えたわけだが、とにかくものこととして、である)

 そのように述べた上でさらにもって付け加えて申し述べるが、

「筆者の[水準]および[人間性]に対してここ本稿での本段に至るまでの書きよう一つとっても[愚弄][軽侮]できるところのものなのか ――オンライン上で字義通り「無責任に」[不適切なる物言い]をなしている一群の[相応の種別の人間ら](何も建設的なことを言わずなさず、そうした手合いらがやることといえば、行為をなすことに対する諦観を増長しようといったこと、賽の河原の石塔崩しの如きことのみであるといった按配の相応の種別の人間ら)に近しいところがあるのか、でもよい―― 、きちんと見極めていただきたいとのところでもある」

(断り書きの部はここまでとしておく)


 裁判所が「法的に実験継続に異を呈することはできない」(結論として実験の正当性に積極的お墨付きを与えているわけではないもののストップをかけることはできない)との判断を示しもしている(さらに後述なしもする)とのものながら、とにかくも、LHC実験を巡る法的問題として ――直上にてほんの少し薄っぺらい言及をなしたように米国では[法律上の利益]の融通無碍なる解釈がなせるように法制度ができあがっているために―― 実験の差し止めの可否というまさしくもクリティカルなことが海外では争われた(:法廷という場で欺瞞性の問題を示し、もって、訴外での訴求の用に供することができれば、との観点のみでLHC関連訴訟を国内で提訴した筆者などがそれをいかにやりたくとも[[法律上保護された利益]の範囲を厳格に見、幅広くもの保護を求めないとの日本の法運用のありかた]および[住民訴訟との類型にも落とし込めない属地性の問題]から国内にて差し止め訴訟を提訴することはできなかったのだが、米国では(原告敗訴に終わったところながらも)差し止め訴訟それ自体が提訴されていた)。 

 そちら米国の訴訟にあっては

[[NEPA( National Environmental Policy Act /国家環境政策法)]という法規の適用可否が争われた]

とのかたちとなっており、また、

[原告らの主張が実験機関(お抱えの物理学者ら)に彼らのフィールドで彼ら理論展開ありように非を鳴らすとのものであった]

との点については ――[海外訴訟原告ら動き方にあっての問題点](そして、本稿にあってそうしたやりようを避けていること)として―― これより順次解説をなす所存であるが、その前に、いまひとつ、

[米国訴訟を巡るところで実験関係者によって顰蹙(ひんしゅく)を買って然るべきやりようがなされていた]

とのことにまつわる案件解説文書よりの記述を引いておくこととする(:どういうやりようをとる者達が[実験](と呼称される営為)に邁進しているのか、を示すために、である)。


| 出典(Source)紹介の部17-2 |

 ここ出典紹介部では

[LHC実験に異を呈した向きに対しては「理によらぬ」人身攻撃 (こちら[人身攻撃]の意味は下に解説する) がなされるとの風潮がある]

とのことにまつわる出典紹介をなす。

(直下、 THE BLACK HOLE CASE: THE INJUNCTION AGAINST THE END OF THE WORLD(本稿の先の段でも典拠として挙げている米国法学者によるブラックホール生成問題にまつわる裁判の解説資料)にての[857][858]と振られた頁よりの引用をなすとして)

Sergio Fabi and Benjamin Harms of the University of Alabama and Roberto Casadio of the Universita di Bologna published a paper from a stringtheory perspective, arguing against the possibility of danger at the LHC. The paper, titled “On the possibility of Catastrophic Black Hole Growth in the Warped Brane-World Scenario at the LHC,” was based on their “previous study of black holes in the context of the warped brane-world scenario.” While the talk of “warped branes”sounds like an ad hominem attack on LHC detractors, it is not. The word “brane” is a term of art in string theory referring to a kind of cosmological structure existing in a higher-dimensional universe, and “warped” describes a geometric quality, not a psychological one.
Yet there were ad hominem attacks. John Ellis of CERN referred to LHC detractors as “nuts” and insinuated that one of them, Walter Wagner, was only pursuing a lawsuit against CERN to make money. Yet Wagner was suing for an injunction, not damages.354 Another CERN physicist referred to LHC critics as “crazy people.” Much more blunt was renowned University of Manchester physicist Brian Cox:
“Anyone who thinks the LHC will destroy the world,” he said, “is a twat.”

(補いもしながらもの拙訳として)
「アラバマ大学の Sergio Fabiおよび Benjamin Harms、そしてボローニャ大学の Roberto CasadioはLHC実験危険性に関する可能性について紐理論的側面から反論をなすとの論文を刊行した。同論文、 On the possibility of Catastrophic Black Hole Growth in the Warped Brane-World Scenario at the LHC『LHCにあってのワープするブレーン・ワールド・シナリオにおける破滅的ブラックホールの可能性を顧慮して』は[「ワープする」ブレーン・ワールド・シナリオ]に関する彼らの従前研究に依拠したものだった。[ワープ(跳躍)するブレーンにまつわる話]とくれば何やらLHCの値打ちを減じさせるような論調を張る向きらに対応する[人身攻撃](訳注:人身攻撃ことホミネム・アタックとは「当該論点と関係ないところで対象の性質を攻撃すること」を指す)のようなものにも聞こえるが(さらにもの訳注:braneブレーンを[膜]ではなくbrain脳みそと仮託して[飛躍性(ワープしている)を呈している頭脳]との側面を暗喩として示しているとの言いようととれる)、そうではない。"ブレーン"との言葉は高次元宇宙にあって存在しているある種の宇宙論的構造物に対する紐理論にあっての特殊用語であり、[ワープする]は幾何的な性質に言及したものであって、心理的なものではない。
 だが、[人身攻撃](訳注:ホミネム・アタック/繰り返すが、当該論点そのものとは関係ないところで主張をなす向きの性質を貶めるとのやりよう)はあった。
 CERNの John Ellis(訳注:CERNの理論家グループにあっての有力物理学者ジョン・エリス)はLHCの値打ちを減じさせるような論調を張る向きらを[狂的な人間達]であると呼び、LHCの値打ちを減じさせるような論調を張る向きらのうちの一人、CERNに対する提訴をなした Walter Wagner(訳注:ウォルター・ワグナー.本稿の先の段でもそのやりようを取り上げているとの向き)は「金を得るために訴訟を提訴しただけである」と遠回しに言い放った。だが、 Wagnerは[差し止め]のために訴訟を起こしていたのであり、損額請求のためではなかった。他のCERNの科学者らもLHC批判者らをして[狂った人間ら]であると言及している。よりあからさまだったのはよく知られたマンチェスター大学の物理学者、 Brian Cox(訳注:ブライアン・コックス/ダンス歌手グループD:Ream出身のメディア露出型物理学者である ―英語で Brian Coxと検索すると近年封切られたハリウッド映画『トロイ』でトロイアを木製の馬で滅ぼしたギリシャ勢の司令官であるアガメムノン王を務めたとの同姓同名の熟年俳優のことなどが英文Wikipediaの紹介ページにて出てくるが、同男とは別人の芸能人グループ成員から転じての異色の物理学者― )で、彼ブライアン・コックスによると「LHCが世界を破壊すると考えている向きは誰でも、」「[馬鹿者](トゥワット、コック(ス)から連想される卑語を兼ねる罵倒語をもってしての[馬鹿者])である」とのことである」

(訳を付しての引用部はここまでとする)

出典(Source)紹介の部17-2はここまでとする)


 直上にての出典紹介部にて示しているように米国訴訟原告らに関わるところでは

[人身攻撃] (論点とは関係ないところで相手方の人格に対する攻撃をなして自分達に有利となるように"こと"を運ばんとするが如くやりよう ―あるいはそこに[腹黒さ]といった言葉で表されるようなかたちでの実利的意図がないというのならば、「純粋だが」性質が悪いとの者達、内省的側面を有していない一方で他罰的には振るう舞うとの宗教的狂人やイデオロギー的狂人の類が「純粋に」自分達の狂態・浅ましさについて自己認識できずに第三者から見れば実に醜くもそうしたやりように出るとの挙― ))

がなされていたと米国法学者 ――本稿にての[出典(Source)紹介の部1]から[出典(Source)紹介の部3]にあっても出典資料の一として引用をなしている論稿 THE BLACK HOLE CASE: THE INJUNCTION AGAINST THE END OF THE WORLD(テネシー州法学紀要掲載論稿でもある)をものしたエリック・ジョンソン―― によって解説されているわけである。

 筆者などは他人事ではない、「自身が国内LHC関連裁判の被告側準備書面にてなされたことにまつわる経験から」上のような記載内容についてさえ驚かされることは[ない]のだが、

[[事実](実験結果とその反復的具現化の確認)と[理](事実より導き出せるところの法則性およびその法則性に対する適切な説明)のみが重んじられる科学の世界の伝道師(科学者)]
たるよう常識の世界では求められている「はず」の物理学者らが
「[予断]と[情]でもって他罰的に他を貶め攻撃するとの式での人身攻撃
との[種の進化とは相容れぬ愚劣な真似](本稿筆者が最も忌むところの類、[宗教的狂人]や[イデオロギー的狂人]ら仕様の所業でもいい)をなしていた

と(上の[出典(Source)紹介の部17-2]にて呈示の法学者論稿 ――文中、表記のことについても典拠がきちんと挙げられているとの論稿―― の内容からして)摘示できてしまえるようになっているのである(※)。


※属人的経験に基づいての話として

 この身、本稿筆者からして国内法廷でもって「身をもって」上と似たようなこと、人身攻撃の問題が何たるかを思い知らされたとのことがある。
 につき、 
「それ自体が公民に対する名誉の毀損であろう」
とのかたちでの
[人身攻撃]
すらも[巨大な[マシン](システムの用意した機構)としての実験機関]というものをなす、向かいに立った相手方の気勢を削ごうとするとの式でそういうことをなすとのことを把握するに至っている。
「経験に基づいての具体例として、」この身が関わった事例より引き直して述べれば、

「研究機関関係者(ポストの問題として世間的には大物といわれる向きも含む)とこの身の水面下のやりとりが法廷での代弁者に曲解させられて伝えられていたのか、「国内」訴訟の相手方の弁護士らが呈示してきた文書の中にあって「裁判に至るまでの具体的事実関係(告知電話録音しながら記録しているところの具体的事実関係)が改変され」たうえで訴えを起こした側たるこの身が[迷惑電話を頻繁かつ異常な式でかけてきた異常者]であるかのような描写が初期の法廷文書にあってなされていた」

とのことが現実にある。

(:『まさか、このようなことまでやるのか・・・・』とさえ思ったのだが、実際にそういうことがあった。 
 につき、従前、たまさか別件で話を聞いた弁護士などから聞くところでは
「[相手側の特性を裁判とは関係ないところで貶めるようなやりよう]を用いるのはまともではないやり口、それも多く(訴訟での)負け筋の側がやることだ。であるが、案件にかかずらう裁判官の心証をコントロールし、また、その案件を世間にて問題視するのを困難たらしめるためにそういうことがなされることもあるにはある。要するにまさしくもの[人身攻撃]の問題である。そして、それが[事実に合致していない方向]あるいは[相手方の名誉を「不当に」毀損する方向]でなされれば、法治国家であれば、本来的には ―法廷でのそうした挙動に対する名誉毀損の判例も僅少ながら出ているように― それ自体、[違法行為]となる「はず」ではある」
と表されるようなところなのだが、そういうことがあった。
 その点、補っても述べれば、
[何度か必要に駆られて嫌々ながら常識的やりようで架電をなしていた人間]
[先方との応対に基づいて何度か日を改めて架電をなしていた人間]
であったこの身が
[国内唯一かつ初のLHC関連訴訟(本稿本段執筆時の2014年時点に至っても国内唯一かつ初のLHC関連訴訟)にあっての初期の相手方の法廷提出文書(準備書面)]
では
[何度も何度も電話を食い下がるようにかけてきた異常者]
であるように目立つように記載されていたとのことがあり、しかも、その際の架電回数それ自体が「奇怪に」水増しされていた(捏造がなされた)などということを[やられた]とのことがあった(:無論、法廷でもそれが偽りであることをはきと示せるとの証拠としての記録(具体的架電回数に言及しながら何度も何度も電話をかけさせてくれるな、無為なるやりとりをなさせてくれるな、とのことを筆者自らが先方に伝えていたとの(録音告知しての)電話録音記録や筆者の会社経緯のメールやりとり記録)もあるとして、「平然と偽りをなす」その姿勢に抗議をなし、法廷にてその求釈明をなしもしていたのだが(反対論拠呈示してのこちら言い分に対する弁解を求めたのだが)、 相手方は法廷でそうした筆者(原告)からの切り返しての申しように対してはひたすらに[沈黙]でもって応えるとのやりようを取り、そうした[目立っての不品行]が無視されるかたちを伴いつつも訴訟はその第一審からして年にして二年をまたいで続くことになった)。
 そうした事実歪曲行為さえ、
[公金で養われている人間らによって運営されている国際加速器マフィアと揶揄される団体(IFCA)に関わる国内の中枢センターの一つともなっている「某」研究機関]
からしてなすとのことがある。
 同じくもの不品行に対して[付け加えての訴訟]を起こすのは
[市井の人間には冷たく、他面、御上(行政サイド)や権威の発するところのやりようには温かい]
ととかく事情通からは評される日本の裁判慣行に鑑(かんが)みる限り、効果も薄く品性も疑われるだけの無為なる挙、
「この局面では最早、時間の無駄であるとの挙であろう」
と現時差し控えているわけだが([相応の圧力団体関係者]が手前が物事を訴求するために設立した会社 ―2011年年内にて設立をなしているものの、現時、半ば税金だけを食うだけの会社に成り下がっているとの会社― に嫌がらせ電話をかけてくるようなことばかりが目についたり、常識の殻を破っての完全に非常識的なところに敢えても踏み込んでのオンライン上での訴求活動に関しては[存在自体が衆目の触れ得ぬところにされている節がある]、の中で、相応の人間らによって頭の具合のよろしくはないとの色合いを付そうとしているとの反応しか目に付かないとのその様からして「も」「といったことをやっても時間の無駄」と差し控えているわけだが)、 そうした実験機関やりようには[宗教団体関係者]あるいは[宗教閥]を向かいにしているような気色悪さ、そう、名誉毀損や人身攻撃、あるいは、社会的排斥 ――他の[尊厳]を平然と侵害しようとの行為一般でもいいが―― といったことを含めてのなにからなにまで[特定のドグマ(信仰)]に基づいて正当化しようとの(あるいはそうも正当化させられる方向で手繰られているとの)手合いら特有の気風のようなものを感じさせられてきたとのことがこの身からしてある(そのようなことを堂々と書いているのはこちらに告知録音テープがあり、法廷でもどこぞなりでも[相手方のそのレベルでの(下らぬ)偽りを堂々と暴ける]との判断があるからである)。
 そのように述べつつ、"こと"はそういうやりよう ―公金で養われているのに公民名誉を毀損するような手管さえ平然と弄するとのやりよう― を取る者達の[不品行]がそれだけでは済まない、[より根底的なところ]に及んでいるとのことが摘示なせるようになっているがために[悲劇]であるとこの身はとらえている ――こちらも「相手よりの話をよく聞き、相手方の人となりをよく見て、情報提供をなす対象を選ぶ」との人間だが、といった中で筆者をして「質的詐欺師などではなく、品行も方正であるとのまともな人間であり、[真っ当な動機]を有している」(あるいは本当にそうなのか、真摯にその是非について確認をなすに値する)と検討の結果、判断した向きにして、なおかつ、当該案件の裁判資料を欲しているとの向きがあったならば、[一審からして年度にして二年続いたとのその裁判にて口頭弁論の流れを受けて都度作成してきた延べにして数十万字のこれまでの長引いた法廷資料の電子データ版]をお送りしてもいい(そちらは水面下で一部の学者筋に対しては敵対的ともなろうと判じられる向きも込みにしての配布をなしてきた(筆者が設立した会社の名義で配布をなしてきた)とのものでもある)。 それにつき、連絡先記載媒体として「(わざと)常識を無視しきっている」との体裁ながらもの自社媒体を設けているので(この身は必要と感じたところでは「偽物の型=常識」を破る・無視するのを常套としている)、資料を求めるための手前の連絡先を調べる気力がある向きにならばそちらは特定化できるはずであろうと述べつつも「必要ならばデータ化した資料を送付差上げてもいい」と申し述べておく (但し、筆者は宗教のにおいがする、尊厳の愚劣なる侵害行為と結びついている圧力団体であろう、言い様・やりようが神秘主義的でよろしくはない、その他事由から害物と見た紐帯は基本的には取り合わないことにしていること「も」一応、断っておく)―― )

 長くもなったが、国内裁判に関わるところでの属人的経験に基づいての話はここまでとしておく ――尚、現行は裁判にて発生した人身攻撃との絡みで筆者は(知人弁護士からは厳密には違法だろうとの話も得ているが)[追加しての問責]をなすつもりはない(応射すれば黙ろうとのたかだかもってしての市中の低水準のチンピラ風情を相手にしているわけでもないため、一層、行いには慎重になりたいと考えている)。 にも関わらず、それに類する行為を[筆者の名を借りるように]別側面でなすような挙に出るような者達がいたらば、そう、加速器問題を極めてレベル低きやりようで問責するような類らが目につくようなことがあったならば、「その者達は(そう見えても)断じて筆者の側にはいない者達であること、お含みいただきたい」とも申し述べておく(:筆者には次のような懸念もある。『[どういう理由があってなのか、この身に対して[仇(かたき)に相対するような悪感情]をもってちょっかいをかけてきた]との宗教団体成員などが[敵]([仏敵]といった彼ら流の他罰的表現でいうところの敵)に対する反感の助長をなさんとのたかだかものその程度の観点で褒め殺しをなす、(彼ら流の)[敵]の言論を[フリーク・ショー](畸形を売り物にするが如くのレベル低きもの)に貶めんとするとのことをなすかもしれない、そう、筆者のやったことそれそのものに名を借りて、まるで筆者と昵懇なる友人の如き面をかぶって「実にもって頭の具合のよろしくはない」(一言で述べれば「愚劣な」)[言論操作・言論企画としての(確信犯的に)下手な問責行為]などを[本質的に重要なところ]でなすかもしれない....』。馬鹿げて聞こえはするであろうが、自身の眼前に「どういうわけなのか」いままで石を置いてきたとの相応の手合いらの挙からそうもしたことさえ危惧・懸念しているのである)―― 。


([裁判にての人身攻撃]にまつわる話は以上として)
 さて、次いで、これよりは海外にてウォルター・ワグナーらによって提訴されていた訴訟にあってクリティカルと述べられるところで何が争われたのかについての引用をNEPAとの米国法規にまつわるところとしてなすこととする(:ただし、そちら引用段階ではまだもってして[海外訴訟での原告らの主要なる主張が科学理論それ自体の適否であった]との(本段にて重要視している)ことに直に関わるところまでは踏み込んで「いない」とも断っておく)


| 出典(Source)紹介の部17-3 |

 ここでは

[米国のLHC差し止め訴訟にあってクリティカルと述べられるところで何が争われたのか]

とのことについてオンライン上から誰でもダウンロード可能な文書、「先にても言及の」米国訴訟第一審判決書 ――( Sancho v. U.S. Department of Energy ( CIVIL NO. 08-00136 HG KSC )として検索エンジン上での事件名(事件番号)入力でGPO( United States Government Printing Office )こと米国印刷局配布のものをダウンロードできようとの文書)―― に依拠しての話をなすこととする。

(直下、米国にてのLHC実験差し止め裁判( Sancho v. U.S. Department of Energy ( CIVIL NO. 08-00136 HG KSC )と分類付けされての裁判)の判決書にての26(計11頁に収めらての配布他PDF版では10)と振られた部の記述内容を原文引用なすとして)

The United States Congress provided more than $500 million toward the construction of the Large Hadron Collider. But Congress did not enact NEPA for the purpose of allowing this debate to proceed in federal court. "Neither the language nor the history of NEPA suggest that it was intended to give citizens a general opportunity to air their policy objections to proposed federal actions.

合衆国議会はラージ・ハドロン・コライダー(LHC)建設に5億ドル超の資金を提供しているが、議会は合衆国法廷にてこの種の議論を許容する方向でNEPA( National Environmental Policy Act/国家環境政策法 )を制定していない。推し進められての合衆国行為らに対して市民らに政治的反対意見表明を議題にあげるとの一般的機会を与えるよう意図しているとのことをNEPAの文言も歴史も提案するところではない

(引用部はここまでとする)

 上にて引用なした判決書では

NEPA (こちらNEPAは英文Wikipedia[ National Environmental Policy Act ]項目に NEPA's most significant effect was to set up procedural requirements for all federal government agencies to prepare environmental assessments (EAs) and environmental impact statements (EISs) (訳)「NEPA(国家環境政策法)の最も重要な効力は全合衆国政府機関に環境アセスメントと環境に対するインパクト(影響)にまつわる声明を求めることにある」と記載されているような法規となり、日本の法律解釈論にあって訓示規定に留まるものとされる法規([プログラム規定]と呼ばれるそれ)のようなものかとも解されるものとなる) は[今回の訴訟]で実効規定として適用される余地がない。それがゆえ、(NEPA基づいてのLHCの差し止めを求めての訴訟は)法律上の訴訟としての相応の結果を見た」

とされて、そうしてConclusion(結論)の間近の部、

III. The Court Lacks Subject Matter Jurisdiction Over Plaintiffs’ Claims(「III.本法廷は原告ら主張につき本件に関する司法管轄権に欠けるところがある」)

と付された一節内に認められる司法判断 ―正確に述べれば司法が当該問題に容喙できない(くちばしを入れることができない)との判断― を受けもし、米国第一審訴訟判決書では[結論]の部で

The Court lacks jurisdiction to adjudicate this action. Defendants' Motion to Dismiss (Doc.14) is GRANTED.「本合衆国法廷は本件につき司法的決着をつけるだけの管轄上の権能を有していない。ゆえに被告の棄却を申し立てる言い分は承認を見た」

との最終的判断が呈示されているとの体裁をとっている(疑わしきにおかれては直に資料をご検討いただいての確認を請いたい)。

 上記のことについては(本稿にての他出典紹介部にて)都度内容を取り挙げてきた米国の法律家の訴訟案件分析資料( THE BLACK HOLE CASE: THE INJUNCTION AGAINST THE END OF THE WORLD/本稿の先の段でも典拠として挙げている資料)では次のようなとりまとめがなされているところでもある。

(直下、 THE BLACK HOLE CASE: THE INJUNCTION AGAINST THE END OF THE WORLDにての860および861よりの引用をなすとして)

The plaintiffs attempted to bridge the transoceanic divide and reach CERN by invoking the National Environmental Policy Act (“NEPA”). Through NEPA, the plaintiffs sought to require an environmental impact statement from the U.S. government in its role of funding and participating in the LHC project.
[ . . . ]
Yet the outcome was still what one would tend to expect ― the case was dismissed on jurisdictional grounds. The federal government's funding and involvement did not provide a sufficient nexus for substantive jurisdiction under NEPA.
Gillmor's opinion suggested that the political process was the appropriate forum for airing what it characterized as a policy disagreement. Thus, in American courts, the question remains: What cause of action could be used to force CERN to defend a suit on the merits?

(拙訳として)
「(合衆国はハワイの法廷にて争われた訴訟の法廷では)原告らはNEPAことナショナル・エンバイロンメンタル・ポリシー・アクトの規定に訴えることで大洋をまたいで(大西洋をまたいで)CERNに肉薄することを試みていた。NEPA法規を通じては原告らは合衆国政府より[環境に対する影響にまつわる声明]を請求するよう求めることが出来る(訳注:によって安全が確認されるまで実験を差し止めすべしとの原告ら目的を法的に達成しようとしたと解される)。
・・・(中略)・・・
 だが、結果は人がそうあるのだろうと考えるところ、[同訴訟(ケース)が司法管轄の見地から棄却される]とのものであった。合衆国政府の(実験への)資金的援助と関与はNEPAの名の下にの実質的管轄のための十二分なつながりを提供するとのものではなかった。
(当該問題に関わった判事たる)ギルモアの意見は政治的過程こそが政治的不同意として顕在化しているところすべてを議題にする適切なる場であるとのものであった。
 このように合衆国法廷では「訴えの利益に則ってCERNをして訴訟に抗弁させしめるにはいかな訴えの原因(となる法規)が用いられるものなのか」との問題が疑念として残置することになった」

(訳を付しての引用部はここまでとする)

出典(Source)紹介の部17-2はここまでとする)


 以上表記のようなことが米国LHC裁判の流れなのだが、(繰り返すが)、何を勘違いしてなのか、一部の科学読み本や一部の者に、
「米国裁判では裁判所がLHC実験の至当性に賛意を表した。それゆえ、訴えた側の申しようは当然の棄却を見た」
などとも述べているとの向きもある。
 が、(再度、述べるところとして)、それは事実に裏打ちされたものではないこと、
「法律上の権利関係の争点の話と実験理論の適否を混在させてのやりよう」
とご理解いただきたいものである(:司法が[実験機関が大義としている理論の適正さ]それそのものに太鼓判を押したなどということはない。そのようなことは当然だが、裁判官などという人種、科学者ですらないとの人種にはできようはずもない。にも関わらず国内書籍ないし邦訳されている書籍などでそういう申しようをなしている書籍を特定することがあったらば、その著者のやりよう ―実験関係者にとり都合の良いように提灯を持つようなやりよう― の是非につきよくも考えていただきたいものである)。

 さて、「司法管轄の枠外の問題である」とのことが明言されての裁判にて判決書にては、(先の引用部表記を繰り返すとして)、

It is clear that Plaintiffs' action reflects disagreement among scientists about the possible ramifications of the operation of the Large Hadron Collider. This extremely complex debate is of concern to more than just the physicists.

(訳として)
「原告らの法的訴えがLHC運営に伴うありうべき結果について科学者らに不同意があることを指し示しているは明らかである。この実に複雑な議論に関しては[物理学者らだけの関心事である]といったもの以上のものである」

とのこともが述べられていた(まとめれば、それは[法的事由から管轄の問題で司法権が及ぼせない]ところであり、[公衆の幅広くもの議論が必要である]といったところになるだろう)。

 といった判決書が出されての海外裁判にて原告(plaintff)あらため控訴人(apallent)となったスペインのジャーナリスト(ルイ・サンチョ)らが法廷でどういう主張をなしていたか、であるが、 ――「本稿ではそうしたやりようを反面教師としている」と申し述べるところとして―― 彼らは自分たちの主張を否定せんとする物理学者ら申しようが「全幅の信を置くに値しない」ことを強くも強調するとの式、
[専門家の[理論]そのものの妥当性の適否はいかなものか]
との観点で法廷で非を鳴らすとの戦術を第一審終結後控訴審に到るまで採用しもしていた(先立ってより、その旨、問題視すると申し述べていたとおりに、である)。

 たとえば、オンライン上よりダウンロードできる「控訴をなすにあたって」訴えをなした側(ルイス・サンチョらサイド)より提出された裁判資料( IN THE UNITED STATES COURT OF APPEALS FOR THE NINTH CIRCUITといったキーワードで該当物特定可能な文書)にあっては、(それなりの識見を有している人間が精査すれば、理解なせもしようところとして)、

「アミカス・キュリエ (法定助言人/海外法制度にて法廷に出廷して専門的意見を呈する専門家) としてその申しようが法廷に提出されたノーベル賞受賞物理学者(1979年にノーベル物理学賞を受賞したシェルドン・グラショーという人物)が[時代遅れの観もある科学的議論]で控訴人側申しようを否定しているが、そういうことは時事性より見て妥当ではない。 また、物理学者理論にはもとより確実性に乏しいところがある。そのような者達の主張に全幅の信を置いて実験の推進を見守るのは公衆の安全との兼ね合いで統治体として適切な行為ではない」

との主張が強くも前面に出されていた。

 につき、海外LHC裁判の控訴人の主張としては続いて呈示する通りのことが ――[ときに軽侮されることもある異端][行き過ぎての主張をなす向き]なりといえども原告にてのルイ・サンチョも[一般人](ひたすらに[無関心]と[無知]に安んじているといった按配の人類の[マス](過半)を構成する一般人)の遙か上を行く知力を持った人間でもあるのだから[それはそれで見るべきところがある]物言いとして―― 主張されていた。

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直下、本稿冒頭部へのリンクを設けておく

(⇒冒頭頁へは下の部より)

[典拠紹介部第1頁 加速器実験に伴う欺瞞性から証示なせることについて]

 上にて挙げているのはドイツ浪漫主義芸術の巨匠たる18世紀画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Freemasonでもあったとの画家 Caspar David Friedrich)の手になる一品、

Der Wanderer uber dem Nebelmeer雲海の上の旅人』(に多少の[動き]をアレンジとして加えたもの)

となる。

 言われようの問題として一般に、

[人間の崇高なる精神が高みを目指し、ついぞ多くの物事を達観するに至った時、その折の孤独と感慨を描いた画]

などと形容される上掲の『雲海の上の旅人』に関して(本稿でもその言行を順次・段階的に取り上げることになるとの)物理学者リサ・ランドールは[次のような申しよう]をなしている。


(直下、物理学者リサ・ランドールの手になる著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)にての CHAPTER THREE LIVING IN A MATERIAL WORLD[第三章 物質世界に生きる]の章の記述内容 ――オンライン上検索エンジンにあっての原文検索にて該当部特定できるところの記述内容―― よりの原文引用をなすとして)

Our universe is in many respects sublime. It prompts wonder but can be daunting ―even frightening― in its complexity.  Nonetheless, the components fit together in marvelous ways. Art,science, and religion all aim to channel people’s curiosity and enlighten us by pushing the frontiers of our understanding. They promise, in their different ways, to help transcend the narrow confines of individual experience and allow us to enter into―and comprehend―the realm of the sublime. (See Figure 11.)
          [ . . . ]
[ FIGURE 11 ] Caspar David Friedrich’s Wanderer Above the Sea of Fog (1818), an iconic painting of the sublime ― a recurring theme in art and music.

(上の原著引用部に対する[訳文]として国内流通訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版にあっての81ページに記載されているところを引くとして)

多くの点で、私たちの宇宙は崇高だ。その複雑さは好奇心を駆り立てはするが、無力感も抱かせるし、ことによっては恐怖さえも感じさせる。にもかかわらず、宇宙の構成要素は素晴らしくぴたりと絡みあっている。芸術、科学、宗教は、いずれも人々の好奇心を促して、理解の限界を広げさせ、それによって私たちを啓蒙することを目指している。いずれもそれぞれのやり方で、個人の経験の狭い領域を越えさせることを約束している。それがかなえられたとき、私たちは崇高なものの領域に踏み込む――そして理解する――ことができるのだ(図11を参照)。 …(中略)… [図11]ドイツの画家カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ。崇高さは、美術と音楽に繰り返し登場するテーマである

(以上をもって Knocking on Heaven’s Doorにての原著表記および訳書よりの引用とした)


 さて、何故、ここ脇に逸れての部にあって「目立つように」特定絵画 ― 『雲海の上の旅人』― を挙げ、その絵画に対する物理学者の評しよう ―「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ....― などを引いたりもしたのか

「それは、」
絵画『雲海の上の旅人』に対して直上引用なしたような評しようをなしているとの物理学者リサ・ランドールが

加速器によるブラックホール生成可能性にまつわるトピックの理論深化に一廉ならぬ貢献をなしているとの著名物理学者

[[崇高なるもの]を目指しての宇宙の探求(およびそのための装置と銘打たれている巨大加速器LHC)の称揚・礼讃をなしているとの向き

であるとのことがあり、また、なおかつ、彼女リサ・ランドールの手による、(絵画『雲海の上の旅人』を科学者が目指しての[崇高さ]とを結びつけている)引用元著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)が

人間のありよう(崇高さとはおよそ程遠いところにあるありよう)]
人間の辿る運命

を嘲笑うような[嗜虐的寓意]で満ち満ちていると申し述べられるようになっている著作であるとのことがある、遺憾ながら
[理の当然]
として申し述べられるところとしてある ――個人のせせこましい偏頗(へんぱ)な主観などとは一線を画したところで客観的かつ具体的にこれはこうでこうだと申し述べられるようになっている(出典呈示を第一義にしての本稿では無論、その論拠を事細かに挙げる)とのところとしてある―― からであり、そのことに注意を向けたかったからである(※)。

(※上にて引用元とした著作、 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)、同著にあってはその冒頭部より
September 10, 2008, marked the historic first trial run of the Large Hadron Collider (LHC). Although the name―Large Hadron Collider― is literal but uninspired, the same is not true for the science we expect it to achieve, which should prove spectacular. (表記英文引用部に対する訳として)「2008年9月10日、ラージ・ハドロン・コライダー(LHC)が歴史的始動を見た.[ラージ・ハドロン・コライダー]との名称は有り体に言ってインスピレーションを何ら与えぬとの平凡なものだが、私たちがそれ(LHC)に[証明すべきととらえている壮大なる挙]を託しているとの意では[科学(の進歩)]にとり同じくものことは真実とはならない(LHCは際立ってのインスピレーションを与えるものである)」
などとのことが書き記されている。
 そうもした書きようが目立ってもの冒頭部にてみとめられる著作ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアにおける表題、 [天国のドアをノックする]の由来についてリサ・ランドール女史は同じくもの著作の中で次のようなことを述べてもしている。
(以下、 Knocking on Heaven’s Doorにての CHAPTER FOUR LOOKING FOR ANSWERSより引用なすところとして)
I first heard the phrase “knockin”on heaven’s door”when listening to the Bob Dylan song at his 1987 concert with the Grateful Dead in Oakland, California. Needless to say, the title of my book is intended differently than the song’s lyrics, which I still hear Dylan and Jerry Garcia singing in my head. The phrase differs from its biblical origin as well, though my title does toy with this interpretation. In Matthew, the Bible says, “Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find; knock, and it shall be opened unto you: For every one that asketh receiveth; and he that seeketh findeth; and to him that knocketh it shall be opened. (以上原著表記に対して訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版[第四章]103ページにての表記を引くとして) Knocking on Heaven’s Door(天の扉を叩く)]――これが本書の原題だが、私が最初にこのフレーズを聞いたのは、一九八七年、カリフォルニア州オークランドでのグレイトフル・デッドとのコンサートで、ボブ・ディランが『天国への扉』を歌うのを聞いたときだった。いまでも私の頭の中ではディランとジェリー・ガルシアがこれを歌っているのが聞こえてくるけれど、いうまでもなく、私の本のタイトルは、この曲の歌詞とは意味が違っている。このフレーズは出典である聖書の一節とも違っているが、私のタイトルはこちらの意図を拝借したものだ。聖書の「マタイ伝」には、このように書かれている。「求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり
(以上、引用部とした)
 といったところ、新約聖書のマタイ伝にあっての
[求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり]
とのフレーズ、それが
[天国の門]・[天国への扉]・[天国への階梯](ステアウェイ・トゥ・ヘブン)
との兼ね合いでいかように嗜虐的なる別側面での意味( Double Meaning )と共にあるのか、そのことからして具体的典拠を挙げ連ねるとの式で遺漏無くも事細かに示そうというのが本稿の本義であるとここ脇に逸れての部にあって訴求しておきたいとの意図が筆者にはある)

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