デメテル・ペルセポネ母子崇拝の古代にあっての密儀大系、エレウシス秘儀のようなものが何故、今日に生きる我々の直面する問題に関わっていると述べられるのかについて 補説3
直前頁では、大要、
「[冥界の女王ペルセポネ]が[ケルベロス](ヘラクレス12番目の功業にてその冥界よりの引きづりだしが目標となっていた三面の犬の怪物)、そして、さらには[ダンテ『地獄篇』で地獄の中枢に据え置かれている悪魔の王](ルシファー)とも ―フリーメーソンという団体の秘教主義(正確にはフリーメーソンという団体にあって履践が因習として引き継がれている[動き方]の伝統に関わるところの特質)に相通ずるところで― 「奇怪に」結びついている(結びつくようにさせられている)存在であること、そして、そのことが[極めて悪質なやりよう]に接続しているとのことについて以降、指し示していく」
との旨のこと、申し述べ、そのうえで、同じくものことに関わるところとして[エレウシス秘儀](古代ギリシャ及び古代ローマにて隆盛を見ていたと伝わる秘教会)というものの特質についての説明に入った。
ここ本頁では上のような流れでその説明には入ったとのエレウシス秘儀についてさらに微に入っての解説をなすこととする ―ちなみに前頁ではエレウシス秘儀、同密儀体系が[エジプトにあってのイシス・オシリスの神話]といかように接合しているのかについてのまずもっての話をなしもしてきた― 。
さて、ここまでの内容を敷衍(ふえん.押し広げ)しもして、
[[古代エジプト神話にあって悪神セトによってオシリスが殺された後、イシスがオシリスを探し求めての彷徨をなしたとのエピソード]が[エレウシス秘儀]がそれにまつわってのものである[ギリシャにあってのペルセポネが冥界に略取された後、デメテルがペルセポネを探し求めての彷徨をなしたとの伝承]と接続性を呈している]
とのことについて次のことに「も」言及しておく。
⇒
[学究らに指摘されるところとしてオシリスには[穀物神]としての側面が古来より語られてきたとの背景がある。そして、そのことはデメテル・ペルセポネ母子が穀物の体現存在とされていることと ―デメテル・ペルセポネ密儀とイシス・オシリス伝承の繋がり合いに関わるところとして― 平仄が合うようになりもしている]
上のことについては先だってそこよりの抜粋をなした著作で Project Gutenbergサイトにて著作権喪失を見ながら全文公開されている(すなわちオンライン上より誰でもダウンロードなせるし、一部テキストのみ検索エンジンより入力してその文献的事実たることを結果画面より容易に特定することもできるようになっている)との著作、
The Golden Bough In Two Volumes.Vol. I.(1894)§ 6.Osiris.(表記表題で誰でも閲覧・取得可能なもの)
にあってその983および984と注記番号が付けられているパートにて以下の如しの記載が簡潔になされているところである。
⇒
A name for Osiris was the “crop” or “harvest”;983 and the ancients sometimes explained him as a personification of the corn.984
「オシリスとの名前は収穫物ないし収穫それ自体を意味するものとなっており(注記番号983)、古代にては彼はしばしば穀物の人格化存在と言及されていた(注記番号984)」(※)
(※ちなみに、上にて引用なしている The Golden Bough In Two Volumes.Vol. I.(1894) ―『金枝篇』 1894年版(巻の1)― のそちら引用部内にあって注記番号983と振られているのはフランス人のエジプト学者、ユージーン・ルフェビュール( Eugène Lefébure )の手になる Le mythe Osirien (Paris, 1874-75), p. 188となり、注記番号984と付されての後者はより[文献的事実]として重きをおけるところとしてのローマ期文人 フィルミクス・マテルヌス Firmicus Maternusの手になる De errore profanarum religionumとの古文献およびエウセビオスEusebiusの Praeparatio evangelicaとの文献(本稿の先の段、出典(Source)紹介の部48でも[明けの明星]にまつわる神話解釈とのことで同著作よりの引用をなしていたとの4世紀キリスト教の識者階層、「教父」のエウセビオスの手になる Preparation for the Gospelこと『福音の備え』)となる ――フレーザー原著の方ではギリシャ語での原文引用などもなされているが、その部は割愛する―― )。
また、デメテル・ペルセポネ母子が
[穀物の神格化存在ら](直上にてエジプトのオシリス神がそうであったとの言われようを引いたような穀物人格化存在)
であることは「よく知られた」ことである(:誰でも即時即座にオンライン上より確認できるところの英文Wikipedia[Persephone](ペルセポネ)項目の現行にての記載内容として During summer months, the Greek Corn-Maiden (Kore) is lying in the corn
of the underground silos, in the realm of Hades and she is fused with Persephone,
the Queen of the underworld. At the beginning of the autumn, when the seeds
of the old crop are laid on the fields, she ascends and is reunited with
her mother Demeter, for at that time the old crop and the new meet each
other. For the initiated, this union was the symbol of the eternity of
human life that flows from the generations which spring from each other.[80][81]
(訳として)「夏の間、ギリシャの穀物の女神たるKore(コレ.処女)はハデスの王国にての地下の室(むろ.サイロの時代がかっての訳として)に横たわっており、冥界の女王としてのペルセポネと融合している。秋のはじまり、古き穀物の種らが大地に蒔かれた折、彼女は上昇を見、母たるデメテルと融合をなし、その折、古き穀物と新しきが共に出会う。(エレウシスの)秘儀参入者にとり、この結合過程は互いにわき出てくる世代らから流れ生じる人間の生命の永遠性の象徴でもある[80][81]」(引用部に対する訳はここまでとする)と広くも認知されてきたとのことがある ――ちなみに上引用部にあって[80][81]と注記番号振られながら出典とされているのは Martin P. Nilssonというギリシャ学者の手になる著作 The Greek popular religion, The religion of Eleusisに依拠して記載されていることとなる。また、同じくものこと、デメテル・ペルセポネ母子が穀物の体現存在であるとされていることについては先述の『金枝篇』を記したジェイムズ・フレイザーによって20世紀前半にてなされている指摘、「デメテル・ペルセポネ母子は[本来的には一体の存在]である」と見られていることに関わるところとしての指摘として本稿の後にての段でも取り上げることとする―― )。
以上のこと、[穀物の象徴化存在としてのオシリス・およびペルセポネ](に関わる[探索]と[幽冥境にしての離別]の物語)とのことで、
[イシス(Isis)とオシリス(Osiris)の物語]と[デメテル(Demeter)とペルセポネ(Persephone)の物語]
がよりもって接合すると述べられもし、実際に(後述するように)そのように指摘されている。
さらに、である。一致性問題について指摘するうえで避けては通れぬところとして[古代エジプトより伝わる幽冥境をすることになったオシリスを求めて彷徨中のイシスやりよう]と[古代ギリシャより伝わる幽冥境をすることになったペルセポネを求めて彷徨中のデメテルやりよう]が「細部に至るまで」非常に似通ったものであるとのこともある。
その点、 ――そういうことまでが[エレウシス秘儀の秘儀内容]に影響を与えているとの可能性を顧慮すれば、非常に気色悪いこと限りなしではあるが―― ペルセポネの母親デメテルは(既述のようにオシリスのように冥界の統治者になる前に探索がなされることとなった)ペルセポネを探索する過程で
「子供を不死にするためにその子を燃やす」
とのことをなしている(:誰でも即時即座にオンライン上より確認できることとして英文Wikipedia[Demeter]項目にての[ Demeter at Eleusis ](エレウシスにてのデメテル)の節にて Demeter's search for her daughter Persephone took her to the palace of Celeus, the King of Eleusis in Attica. She assumed the form of an old woman, and asked him for shelter. He took her in, to nurse Demophon and Triptolemus, his sons by Metanira. To reward his kindness, she planned to make Demophon immortal; she secretly anointed the boy with ambrosia and laid him in the flames of the hearth, to gradually burn away his mortal self. But Metanira walked in, saw her son in the fire and screamed in fright. Demeter abandoned the attempt. Instead, she taught Triptolemus the secrets of agriculture, and he in turn taught them to any who wished to learn them. Thus, humanity learned how to plant, grow and harvest grain. The myth has several versions; some are linked to figures such as Eleusis, Rarus and Trochilus. The Demophon element may be based on an earlier folk tale.
「デメテルのペルセポネを求めての探索行は彼女をアッティカにてのエレウシスの王、ケレウスのところへと赴かせた。デメテルは老女に身をやつし、ケレウス王に宿を乞うた。ケレウス王は彼女(姿を変えたデメテル)を彼とメタネイラの間に生まれた子供達、デーモポーンとトリプトレムスの乳母となした。そうもしたケレウス王の親切に報いるため、デメテルはデーモポーンを不死にすることを企図した。彼女は密かに少年をアンブロシア(注:ギリシャ神話で神々に不死を約束するとされる飲み物)で清め、彼の死を免れない側面を徐々に燃やし去るために彼を暖炉の炎にくべた。しかし、メタネイラが歩み近づいてきて、彼女の息子が炎の中にいるのを見、恐れおののき叫び声を上げた。そこでデメテルは試みを取りやめた。その代わりに彼女はトリプトレモス(注:火にくべられた子デーモポーンの兄弟)に農業の秘訣を教え、そして、転じて、トリプトレムスはそれを学ぶことを望むものには誰にでもその農業の秘訣を教えた。同神話にはいくつかのバージョンがあり、うち、いくつかはエレウシスのラウラスとトロキロスのような登場人物と接合している。デーモポーン的要素はより初期の民話に依拠してのものなのかもしれない」 と ―― Martin P. Nilssonというギリシャ学者の手になる著作 The Greek popular religion, The religion of Eleusisに依拠して―― 記載されているようなことがよく知られている)。
次いで述べるが、イシス「もまた」そのオシリス探索の過程で
「子供を不死にするためにその子を燃やす」
とのことをやっているとの言い伝えの伝がある(:ヴィクトリア朝から第二次大戦前までにての英国で影響力あった学者としてよく知られているエジプト・アッシリア学者の E. A. Wallis Budge(同ウォーリス・バッジについては大英博物館の責任者としても知られる)の手になる Egyptian Idea of The Future Life『来世に対するエジプト人の観念』との書籍、 Project Gutenbergにて公開されている(オンライン上より全文確認なせる)との同著にての CHAPTER II.OSIRIS THE GOD OF THE RESURRECTIONにあってはそこより原文引用するところとして Isis fed the child by giving it her finger to suck instead of the breast; she likewise put him every night into the fire in order to consume his mortal part, whilst transforming herself into a swallow, she hovered round the pillar and bemoaned her sad fate. Thus continued she to do for some time, till the queen, who stood watching her, observing the child to be all in a flame, cryed out, and thereby deprived him of that immortality which would otherwise have been conferred upon him.
「(イシスがオシリス探索の過程でたどり着いたビブロスByblosにてその王女の子供に祝福を授けているとの文脈にて)イシスはビブロスのその子供に乳房を吸わせる代わりに彼女の指を吸わせ、そのようにして彼女は毎夜、子供の死を免れえぬとの部を費消しつくさせる(不死にする)ためにその子を火にくべ、一方で自身の似姿をツバメに変え、(オシリスの棺が埋め込まれた)柱の周りを飛び交い、そして、彼女の運命を嘆き悲しんだ。このようにして幾時かの間、彼女がなしていたとのことは女王(ビブロスの女王)が彼女の子供が全身、炎にくべられているのを立ち見するまで続き、彼女(ビブロス女王)が叫んだため、そうでなければ彼に与えられていたであろう不死を取り上げることになった」(引用部はここまでとする)と記載されているようなことがある ――以上のウォーリス・バッジの物言いの元となっているところは二世紀帝政期ローマの著述家たるプルタルコスの著作『モラリア』、その[イシスとオシリス]にまつわる巻に依拠している、すなわち、( The Online Library of Libertyを通じてPDFファイル公開されているとの Plutarch, The Morals, vol. 4 (1878)よりの抜粋をなすとして) 16. Isis nursed the child by putting her finger into his mouth instead of the breast; and in the night-time she would by a kind of lambent fire singe away what was mortal about him. In the mean while, herself would be turned to a swallow, and in that form would fly round about the post, bemoaning her misfortune and sad fate; until at last,
との部位に[そのまま依拠]しているものであるとのことも(その気があれば、だが)該当文書をダウンロードするなどしてすぐに確認なせるようになっている―― )。
上掲図左は Project Gutenbergのサイトにて無償公開されている The Golden Fleece and the Heroes Who Lived before Achilles(1921)との著作に見るデメテル行状を描いた挿絵を抜粋したものとなる。デメテルは最愛のペルセポネの探索の過程で世話になった土着の王族の王子デーモポーンを不死にすべくも火にくべたとの話が伝わっている(よく知られたところの神話上の一挿話として英文ウィキペディア程度の媒体の目に付く現行の記述内容を上にて引いたとおりのことがある)。
上掲図右は Project Gutenbergのサイトにて公開されている Myths and Legends of Ancient Egypt(1915)との著作にて掲載されているツバメ(Swallow)に変じたイシスの似姿を彫った遺物を抜粋したものとなる。同遺物に見るようにツバメに変じながら移動していたイシスがシリアの王族の子供を不死にしようと火にくべたとの話が伝わっている ―― E. A. Wallis Budgeの手になる著作権喪失の Project Gutenberg公開著作 Egyptian Idea of The Future Life(1908)にての先述の引用部などにて解説されている(元となったのはプルタルコスの手になるローマ期古典か)ところとしてそういう話が伝わっている―― )。
デメテルとイシスにまつわる以上エピソードから両女神に関係性があることを推し量るのは
[相似形 ――愛する存在の探索のため彷徨していたとの女神らがその過程で土着の王族の子供を不死にするために火にくべる(ものの覗き見られてその試みが失敗する)との相似形―― があまりにも際立ったものである]
ために易いが、問題はといった接続関係が積もりに積もったところから何が申し述べられるようになっているか、「なってしまっているか」とのことであると強調したい(皮相の面で述べれば、ただ単純に[古代ギリシャの神話←(文化伝播と習合のプロセス)→古代ギリシャの神話]とのことで片付けられるのは論を俟たないのだが、[同じくもの話が極めて重篤かつ悪質なやりように接続しもしているからこそ問題となる]とのことを異論など出もしなかろうとの式できちんと指し示すというのが本稿の趣意である ―以上、申しようが大言の類で済まされるのかよくも確認なしていただきたい― )。
ここまでにて事細かに典拠呈示しながらも指し示してきたような相似形が存している、すなわち、
1.[冥界行きを強いられた最愛の存在を探し求めての彷徨をなすに至った女神ら(古代エジプトのイシスと古代ギリシャのデメテル)は最愛の存在をついに発見したが、その最愛の存在(オシリス及びペルセポネ)は結局、中途半端な復活しか成し遂げられず、その結果、冥界の統治者となったと伝わっている(オシリスは冥界にて審判をなす冥界の主催者神に、ペルセポネは冥界の王の伴侶たる冥界の女王になったと伝わっている)]
2.[デメテル・ペルセポネらに穀物の体現存在としての話が伝わる一方、エジプトのオシリス神に関しても同神は穀物の体現存在であるとの言われようがなされている]
3.[デメテルのペルセポネ探索時の行状は細かい部分からしてイシスのオシリス探索時の行状と酷似している([デメテルが探索時にて土着の王族の王子を不死にするためにその子を火にくべていたもののそれが覗き見されて失敗した]との部と[イシスが探索時にて王族の王子を不死にするためにその子を火にくべていたもののそれが覗き見されて失敗した]との下りはそっくりである)]
との相似形が存在している中で、(それこそが[文献的事実][記録的事実]の問題に関わるところとして肝要なことであると述べられもしようところなのだが)、
エジプトのイシスとギリシャの女神デメテルの物語は
[古代それ自体から文人に[類似のもの]として見られていたとのことが現実にある]
とのものとなっている。
その点、本稿にあってのさらに続いての段で[エレウシス秘儀とイシス秘儀の間の類似性に関していかような古代人視点が存在するのか]につきより真っ当な典拠らを挙げる所存だが、さしあたって、その記述を引けば、現行、英文Wikipedia[Isis]項目に
Using the comparative methodology known as interpretatio graeca, the Greek historian Herodotus (5th century BCE) described Isis by comparison with the Greek goddess Demeter, whose mysteries at Eleusis offered initiates guidance in the afterlife and a vision of rebirth. Herodotus says that Isis was the only goddess worshiped by all Egyptians alike.
(訳として)「[ interpretatio graeca ](注:ラテン語にて[ギリシャ式翻訳法]との方式)を用いることでギリシャの史家ヘロドトス(紀元前5世紀活躍)はイシスをしてギリシャの女神デメテル、秘儀参入者に死後の案内と復活のヴィジョンを与えるとのエレシウス密儀体系の保持者としての同女神と結びつけての描写をなした(注:ウィキペディア同項目でも出典として挙げられているものだが、そのような描写が認められるのはヘロドトスの『歴史』ヒストリアである)。ヘロドトスの言うところ、イシスはすべてのエジプト人に似たりよったりで崇拝された唯一の女神であったとのことである」(引用部はここまでとしておく)
と記載されている通りのことがある ――上と同じくものことに関しては Project Gutenbergにて全文閲覧できるとの THE HISTORY OF HERODOTUS Vol.Iには(そこよりワンセンテンス引用なすところとして) now Isis is in the tongue of the Hellenes Demeter
「現在、エジプト人のイシスはヘレネス(ギリシャ人)の舌にあってはデメテルとなっている」といった記述が認められるようになっている―― )。
ここまでで
[セトによってオシリスが殺された後、イシスがオシリスを探し求めての彷徨をなした]
[ペルセポネが冥界に略取された後、デメテルがペルセポネを探し求めての彷徨をなした]
との言い伝えの伝が ―エレウシス秘儀に通ずることとして― 「明確に」関連付けさせられているとの指し示しをなした。
直上まで展開の話をなす限りにおいては、そう、[ただ文化伝播の問題である]と「当然に」指摘されるようなところながらも純・記号論的な問題として上掲図にあっての左列と右列に際立っての相似形が具現化を見ている、すなわち、[イシスのオシリス探索神話]と[デメテルのペルセポネ探索神話]に際立っての類似性が存在すること、また、イシスとデメテルが古代人(ヘロドトス)のような向きにあってからして関連付けられていることの指し示しをなしてきた ――尚、[イシスとデメテル・ペルセポネら母娘の同一視]との関連付けの視点の存在については本稿にてのさらに後の段でよりもって充実させての典拠を示すこととする―― 。
次いで、述べるが、
[エレウシス秘儀というものに関してはエジプトで悪神セトによってオシリス神がばらばらにされて殺された後、オシリス神の妻たるイシス神がオシリスを求めての彷徨いをなした故事に倣(なら)っての部分が多いと古文献の時点で言及されているのみならず、 ――諸種要素(後述)から―― フリーメーソンの秘教思潮とのつながりが一部の識者に知られているとのもの「とも」なる]
ということが([それが何故、問題になるかは本稿の後の段にて詳述することにする]ところとして)「ある」。
上記のこと ――フリーメーソンの秘教思潮などと述べると、物識らぬ向きにとっては相応の情報操作要員、根拠に何ら依拠していないがゆえに何かを変える可能性が絶無であるばかりか何かを変えるのを困難ならしめるとの相応の陰謀「論」者ら由来の[陰謀論]との区別がなしがたいと見られることかも知れないが、文献的事実の問題として指し示せること―― について「細かくも」出典を下に挙げていくこととする。
ここ出典(Source)紹介の部93にあっては、
[エレウシス秘儀はフリーメーソンの秘教思潮とのつながりが一部の識者に知られているとのもの「とも」なる]
とのことの典拠を挙げることとする(事前に断っておくが、ここ出典紹介部はかなりもって長くなる)。
まずは国内にて流通を見ている和書、
『フリーメーソンと錬金術 西洋象徴哲学の系譜』(人文書院)
よりの引用を手始めになす(:上著作『フリーメーソンと錬金術 西洋象徴哲学の系譜』は執筆時肩書きとして名古屋大学の吉村正和教授が執筆なしたとのものでフリーメーソンをして[何でもやり、何でもやらされるとの陰謀団]として取り上げる書籍としての側面は「絶無」に近しく、フリーメーソンが講学的に見てどういう象徴体系と結びついているのか「直接的に」ではなく「間接的に」示唆するように講学的に論じているとの著作となる)。
(直下、『フリーメーソンと錬金術 西洋象徴哲学の系譜』(人文書院)のp.22-p.24([ルキウスのイシス=オシリス密儀]の節)よりの[中略]なしつつの掻い摘まんでの引用をなすとして)
古典密儀宗教については現存する資料が限られており、正確な内容が伝えられていないことはすでに述べた通りである。その中で、アプレイウスの『黄金の驢馬』第十一巻は、ルキウスのイシス=オシリス密儀への参入をかなりなまなましく描いていることで有名である。物語形式を通して叙述されてはいるが、そこにはアプレイウスの実体験が入り込んでいることはほぼ確実であり、少し詳しく見てみるだけの価値がある。
『黄金の驢馬』の主人公ルキウスは、魔術への好奇心から梟になって空を飛び回ろうとしたが、誤って驢馬に変身する。
・・・(中略)・・・
第一巻から第十巻において「運命の女神」に支配されたルキウスが、第十一巻においてイシスに救済されるまでの物語である。
・・・(中略)・・・
予言通りに翌日、イシスを祀る行列が繰り出され、ルキウスは大神官の待つ薔薇の花環を飲み込む。と同時に、ルキウスの体は驢馬から人間へと戻る。
・・・(中略)・・・
ルキウスは毎晩のように密儀を受けるようにというイシスのお告げを受けていたが、ようやく意を決して大神官のもとにいく。大神官は彼に対して、密儀参入が死を賭して行われるべき行事であること、「世俗の食べ物」や「禁制の飲み物」を断って心身の浄化に努めることを告げる。
ルキウスはまず斎戒沐浴ののち、十日の間「肉食と飲酒」を絶つ禁欲生活を送り、密儀参入の日を迎える。ルキウスは新しい亜麻布の衣服を着て、神殿の至聖所へと導かれる。アプレイウスはここで、密儀参入に関する秘密厳守の規定について、次のように述べている。
「あなたがたはおそらくその部屋で交わされた二人の会話とか、そこで起こった事件とかについて、何か話してほしいと強く要望なさることでしょう。・・・・しかし、それについて不謹慎なお喋りをしたり、あるいは大それた好奇心から、それを聞こうとしたら皆さんのお耳も私の舌も等しく罰を蒙ることは必定です。」
古代密儀宗教はほとんど例外なく、密儀に関する沈黙の義務を参入者に課している。エレウシス密儀においても、「その密儀には怖れ畏むべきもので、これを侵すことも、それについて問うことも許されない」として、秘密厳守が要請された。
(引用部はここまでとする)
上のように和書『フリーメーソンと錬金術 西洋象徴哲学の系譜』では
[イシス密儀が古代ローマにものされた小説『黄金の驢馬(ろば)』(同小説については後に本稿でもその内容を取り上げる)にて作中、重要なモチーフとされていること]
[イシス密儀がエレウシス密儀 ―(本稿の直近の段にて指し示しているようにイシスのオシリスを求めての彷徨はエレウシス秘儀がその筋立てを重要視しているところのデメテルのペルセポネを求めての彷徨と対応関係にある)― と同様に参加者に秘密厳守を強いているとのものであること]
[イシス密儀の秘密厳守を求めるやりようは掟を破ったものに厳しい罰を強いるといった性質のものであること]
が言及されている。
同じくもの著作『フリーメーソンと錬金術 西洋象徴哲学の系譜』をものした大学人(書籍著者欄に紹介されている書籍執筆時点の肩書きに依拠して表記すれば名古屋大学の吉村正和教授)はどうしてそのようなイシス密儀のことをフリーメーソンの分析著作にて言及したのか細かくも明言してくれて「いない」のであるが、「その意図は明確で、」(当該問題に興味関心があって、なおかつ、知識水準も高く、そして、ある程度の思考力を有している人間には明確であり)、要するに、
「イシス密儀およびエレウシス密儀のようなものは秘儀参入者に[秘密厳守]を強いるとのもので、また、その誓約の中には秘密漏洩者の死が含まれているため、[秘儀体系を秘匿化して保持し、組織の秘密の暴露者に死の制裁 ――(浮かび上がらぬところで海に沈めるといった文言を含む[死の制裁]にまつわる具体的文言については本稿のかなり後の段にて原文引用にて紹介することにする)―― を科すとの宣誓を強いる]との体裁をとってきたフリーメーソンの歴史的やりようはイシス密儀やエレウシス密儀の体系と地続きにある」
とのことを述べたいのだと分かるようになっている。
その点、これまた、『フリーメーソンと錬金術 西洋象徴哲学の系譜』という著作では「明示的に述べられて「いない」」との節あることなのであるが、しかし、暗喩的示唆の式として
「[小説『黄金の驢馬(ろば)』に認められるイシス密儀の内容が黄泉の国に下って、それから、復活させての啓明を与えるとの筋立]が[死と再生、そして、光を与えるとの舞台設定を最大限活用しているフリーメーソンの儀式体系]に通ずるところがある」
との書かれようが同著にてなされている(同文にその伝でのフリーメーソンの儀式ありようについては続く段にフリーメーソン内部の人間による作成媒体を含めての出典紹介をなす)。
(直下、再度、表記の書籍『フリーメーソンと錬金術 西洋象徴哲学の系譜』(人文書院)のp.25末尾-p.26冒頭部よりの[中略]なしつつの掻い摘まんでの引用をなすとして)
アプレイウスはルキウスのイシス密儀への参入において最も重要な場面を明らかにしている。「私は黄泉の国に降りていき、プロセルピナの神殿の入口をまたぎ、あらゆる要素を通ってこの世に還ってきました。
・・・(中略)・・・
密儀参入の最も重要な部分は、「黄泉の国」、「プロセルピナの神殿」という言葉から推定できるように、死の試練を指すものと思われる。参入者は、死の試練を経ることにより生まれ変わるのである。
(引用部はここまでとしておく)
上にての引用部ではローマ期作成の小説『黄金の驢馬(ろば)』(著者アプレイウスがルキウスなる人物のイシス信仰への回帰を描く作品)にあって
[黄泉行きを試みるイシス密儀]
が実践されるなかで、
[(さきだってエレウシス秘儀がそうしたものを使っていたらしいとのことについて一般的言われようを引いたところの[麻薬]でも使ってか)[プロセルピナ(プロセルピナはペルセポネのローマ呼称である)の国行きが体験される]
との記述が含まれるとのこと、言及されているが、それは
「イシス密儀とデメテル・ペルセポネの儀たるエレウシス密儀が結びつく」
ことに明示的に言及しているとの記述であるばかりではなく、エレウシス密儀同様のイシス密儀が
[死と再生、そして、光を与えるとの舞台設定を最大限活用しているフリーメーソンの儀式体系と類似性を強くも呈している]
とのことが示唆されているとの部「とも」なる(それについては直下にてフリーメーソンらの同文の申しようを引いておく)。
(出典(Source)紹介の部93を続けるとして)
続いて、次の媒体よりの抜粋をなす。
[ The Symbolism of Freemasonry: Illustrating and Explaining Its Science and Philosophy, its Legends, Myths and Symbols(訳せば、『フリーメーソンの象徴主義:その科学と哲学、その伝説と神話とシンボルについての描写と説明』ともなろう同著、 Project Gutenbergのサイトにて公開されているとの1882年に初出の書籍で講学的にメーソン・「インサイダー」( Albert Mackeyという元医者にして史家であったとの人物)がメーソンのシンボリズムにつき解説しているとの書籍となる ――尚、本稿筆者はといった蒼古とした書籍にまで食指を伸ばし、メーソンのシンボリズムについて「も」知悉しているとの人間ではあるが、(自身の名誉に賭けて述べるところとして)メーソンなでは「断じてない」―― )
(直下、 The Symbolism of Freemasonryの XXVI.The Legend of the Winding Stairs(曲がりくねった階段(螺旋階段)の節)よりの引用をなすとして)
Hence there is in Speculative Masonry always a progress, symbolized by its peculiar ceremonies of initiation. There is an advancement from a lower to a higher state ―from darkness to light― from death to life― from error to truth. The candidate is always ascending; he is never stationary; he never goes back, but each step he takes brings him to some new mental illumination―to the knowledge of some more elevated doctrine. The teaching of the Divine Master is, in respect to this continual progress, the teaching of Masonry―"No man having put his hand to the plough, and looking back, is fit for the kingdom of heaven." And similar to this is the precept of Pythagoras: "When travelling, turn not back, for if you do the Furies will accompany you."
Now, this principle of masonic symbolism is apparent in many places in each of the degrees. In that of the Entered Apprentice we find it developed in the theological ladder, which, resting on earth, leans its top upon heaven, thus inculcating the idea of an ascent from a lower to a higher sphere, as the object of masonic labor. In the Master's degree we find it exhibited in its most religious form, in the restoration from death to life―in the change from the obscurity of the grave to the holy of holies of the Divine Presence. In all the degrees we find it presented in the ceremony of circumambulation, in which there is a gradual inquisition, and a passage from an inferior to a superior officer. And lastly, the same symbolic idea is conveyed in the Fellow Craft's degree in the legend of the Winding Stairs.
(補ってもの訳として)
「その上、思弁的メーソン(注:[スペキュレイティブ・メーソン]/初期の石工の職能ギルドとしての色彩が強いメーソンをオペレイティブ・メーソンと表されるのに対して思弁的メーソンという言葉が生まれたと一般に説明されている)にてはイニシエーションの独特な儀式らによって象徴化される進歩というものがある。低き状態から高き状態への進歩があり、闇から光へ、死から生へ、誤りから真への進歩というものがある(注:メーソンは表向き構成員の人格陶冶を謳っており表記のような記述がなされているわけだが、ここでは from death to life[死から生へ]というところが重きをなす)。候補者は常に上昇の過程にある。彼は決して留まっておらず、決して立ち戻ることもなく、彼がとる各々のステップが彼をして新しき精神の[啓明](イルミネーション)へと、より上昇を見ての教義知識へといざなう。神性を帯びたマスターの教えはこの継続的なる発展、「鋤を手元に持ったまま後ろを振り返り続けているような者は誰も天の王国に適合しない」とのメーソンリーの教えに通ずるものである。そして、これと似たようなものがピタゴラス教団の指針、「旅をなしている折には振り返るな。なぜならば、そうすれば、怒り(あるいは怒りを体現しての復讐の女神ら)がおまえに付きそうことになるからだ」となる。
いまやこのメーソン・シンボリズムにまつわる規範が各々の場所、各々の位階にて明確なものとなっている。入門徒弟位階のそれにあっては我々(注: The Symbolism of Freemasonry: Illustrating and Explaining Its Science
and Philosophy, its Legends, Myths and Symbolsの著者たる Albert Mackeyはフリーメーソンリーの成員であるため、一人称がメーソンのそれとして「われわれ」と表記されていると推し量れる)は[神学的な梯子を発展させてのもの、すなわち、地にあって留まり、天に向けてそのてっぺんを傾斜させ、「下からより上層の圏へ」の上層をメーソン的梯子の目標として教示しているとのもの]を見出すことができる。親方位階にあっては我々は[最も宗教的な形態にて、死から生への復活、墓の重しによる障害から神意介在しての聖なるものらの中にあってのまさしくもの聖なるものに向けての変容にて呈示されるもの]を見出す。すべての位階にあって我々は遠回しの(表現形態をとるとの)儀式にて呈示されるところのものとしての段階的探求、そして、低位から上位への成員への道程を見出すことになる。そして最後になるが、同一のシンボル上の観念が曲がりくねった階段(螺旋階段)の伝説とのかたちで[職人](徒弟と親方の中間たるフィロウ・オブ・クラフト)位階にあって伝達されることになる」
(訳を付しての引用部はここまでとする)
以上の抜粋部は
[死と再生の思潮及び儀式]
をフリーメーソンという団体がいかように重んじているかを指し示すうえでの好例となるものである(:上にて引用の、 Hence there is in
Speculative Masonry always a progress, symbolized by its peculiar ceremonies
of initiation. There is an advancement from a lower to a higher state ―from
darkness to light― from death to life― from error to truth. The candidate
is always ascending; he is never stationary; he never goes back, but each
step he takes brings him to some new mental illumination―to the knowledge
of some more elevated doctrine.
[思弁的メーソンにてはイニシエーションの独特な儀式らによって象徴化される進歩というものがある。低き状態から高き状態への進歩があり、闇から光へ、死から生へ、誤りから真への進歩というものがある。候補者は常に上昇の過程にある。彼は決して留まっておらず、決して立ち戻ることもなく、彼がとる各々のステップが彼をして新しき精神の[啓明](イルミネーション)へと、より上昇を見ての教義知識へといざなう]との記述、 In
the Master's degree we find it exhibited in its most religious form, in
the restoration from death to life―in the change from the obscurity of
the grave to the holy of holies of the Divine Presence.
[親方位階にあっては我々は[最も宗教的な形態にて、死から生への復活、墓の重しによる障害から神意介在しての聖なるものらの中にあってのまさしくもの聖なるものに向けての変容にて呈示されるもの]を見出す]との記述などがそのことをよく示している)
さらに上と同じくもの著作、オンライン上より取得できるとの19世紀末のフリーメーソンの手になる著作である、
The Symbolism of Freemasonry: Illustrating and Explaining Its Science and Philosophy, its Legends, Myths and Symbols
よりの抜粋を続ける。
(直下、 The Symbolism of Freemasonryにあっての XXVII.The Legend of the Third Degreeよりの抜粋をなすとして)
Thus in the Egyptian Mysteries we find a representation of the death and subsequent regeneration of Osiris; in the Phoenician, of Adonis; in the Syrian, of Dionysus; in all of which the scenic apparatus of initiation was intended to indoctrinate the candidate into the dogma of a future life.
It will be sufficient here to refer simply to the fact, that through the instrumentality of the Tyrian workmen at the temple of King Solomon, the spurious and pure branches of the masonic system were united at Jerusalem, and that the same method of scenic representation was adopted by the latter from the former, and the narrative of the temple builder substituted for that of Dionysus, which was the myth peculiar to the mysteries practised by the Tyrian workmen.
(訳として)
「このように古代エジプトの秘儀に関しては我々は[オシリス]に[死の表象]と[続いての再生]を見出すことをなし、フェニキアにては[アドニス]について同様のものを見出すことをなし、シリアにあっては[ディオニソス]につき同様のものをば見出すことをなし、それらについて[秘儀の背景にての仕組み]が秘儀参入候補者を[後の日にあっての生への教義]の方へと教化するのを意図してのものであるとのすべてを見出せる。
ここでは[ソロモン王の神殿に関わるティロスよりの労働者らの尽力を通じて石工機構の非純正の、そして、純正の支部らがエルサレムにて結集を見、前者から後者によって背後の表象が採用され、[神殿建立者らの語りにてティロスの(ソロモン神殿建設に従事の)職人らによって実施されていた秘儀]がディオニソスに特有な神話であったとのことが代弁されることになる]と述べれば十分であろう」
(訳を付しての引用部はここまでとしておく)
上抜粋部については(多少、複雑な話とはなるが)
「フリーメーソンにはソロモン王の神殿をエルサレムにて建立した石工ら(聖書上ではティロス(ツロ)という古代都市国家、レバノン南部に現行遺跡が存在する国から来た石工ら)の故事を重んじての教義体系が存在しており」、
そうしたメーソン教義体系に見る伝説上の石工ら (ヒラム・アビフというメーソン儀式体系にあって重きをなす仮想の棟梁と結びつけられる石工ら) に対して、
[ディオニソス、オシリスやアドニスのように死と復活の神話が伴う神の秘儀への参入が認められた]
と ―それが史実であるととらえる余地あるものか否かは置いておいて― 表記引用部にては記載されているのであり、もって、
[メーソンの[死と再生への固執]を[メーソンが重んじる伝説上の石工らのその伝での秘儀参入]と結びつけての話をなす]
との意図が抜粋著作の著者(アルバート・マッキー)にはあるのだと(「背景知識ある識者には、」だが)分かるようになっているとのものである ――ここにて取り上げなしている著作、 Project Gutenbergのサイトよりダウンロードできるとの The Symbolism of Freemasonry(1882)にての巻末 Synoptical Index.Aの段(各事項解説[ア行]段)のAdonis解説項目にて In the mythology of the philosophers, Adonis was a symbol of the sun; but his death by violence, and his subsequent restoration to life, make him the analogue of Hiram Abif in the masonic system, and identify the spirit of the initiation in his Mysteries, which was to teach the second life with that of the third degree of Freemasonry.
(訳として)「哲学者らに由来するところの神話学見地にあってはアドニスは太陽のシンボルとなる。しかし、彼アドニスの暴力による死、そして、続いての生への復活は同アドニスをしてメーソン体系にあってのヒラム・アビフ(メーソンに重要視されるティロスの地からソロモン神殿建立のために馳せ参じた石工らの棟梁)の質的同等物となさしめ、彼アドニスの秘蹟へのイニシエーションの精神を[第二の人生への教授をなそうとの意味でメーソンの第三位階の秘蹟](訳注:マスター・メーソン位階への参入秘蹟)と結びつけるものである」と記載されていることからも[同様のこと]はうかがえるようになっている―― 。
以上の学究系のフリーメーソンリー成員 ―― Albert Mackey―― の手になる19世紀著作からの引用部、そこから分かることは
「メーソンの象徴体系には[死と復活の象徴主義]が色濃くも影を落としており」
「そうした要素と共にある神格ら神話(オシリス・アドニス・ディオニソスら神話)がメーソンに影響を与えているとの観点がメーソン自身にある」
ということである(ポイントはイシス秘儀にもエレウシス秘儀にもそういうモチーフが関わっているとのことである)。
(出典(Source)紹介の部93を続けるとして)
さらに同じくもの点につき指し示すべくもの引用、
「メーソンのシステムは多く[エレウシス秘儀](ペルセポネ・デメテルの神話に依拠しての秘儀)および[イシス秘儀](イシス・オシリスの神話に依拠しての秘儀)に結節するように「できあがっている」」
とのことを指し示すべくもの引用をなすことにする。
その点、こまれたオンライン上より全文取得できるとの、
THE ELEUSINIAN MYSTERIES AND RITES(1919)
という著作よりの引用をなす(同書 THE ELEUSINIAN MYSTERIES AND RITES(1919)は『エレウシス秘儀とその儀式』とでも訳せようものとなり、 DUDLEY WRIGHTダッドリー・ライトという人物、明示されてのFreemasonによってものされた著作となる。(そして、容易に後追いでき可能なるところの典拠を挙げるとの本稿の方針に適うところとして)現況、 Project Gutenberg経由で全文ダウンロードできるとの著作である)。
(直下、 THE ELEUSINIAN MYSTERIES AND RITES(1919)、その冒頭部、Preface(序文)の部よりの抜粋として)
The Eleusinian Mysteries ― those rites of ancient Greece, and later of Rome, of which there is historical evidence dating back to the seventh century before the Christian era ― bear a very striking resemblance in many points to the rituals of both Operative and Speculative Freemasonry.
(訳として)
「エレウシス秘儀、古代ギリシャおよび後期ローマのそれら儀式がキリスト教時代より7世紀ほど遡るとの史的根拠を伴うとの同儀式は実務的フリーメーソンリー(注:オペレイティブ・メーソンリー.職能組合的色彩が強かったと「される」前期メーソン紐帯)および思弁的フリーメーソンリー双方の儀式体系に対して多数の点でまさしくもの著しい一致性を帯びているとのものである」
(訳を付しての引用部はここまでとする)
お分かりかと思うが、メーソン自身が前世紀初頭より[エレウシス秘儀]が自分達の組織の儀式体系と甚だしくもの一致性を呈していると述べている(上にて引いているように bear a very striking resemblance in many points to the rituals of both Operative and Speculative Freemasonry
と述べている)とのことがあるわけである。
上掲図左部で挙げているのは(本稿にての後の段にてもその内容を問題視する所存である書籍たる)19世紀後半にものされたメーソンの象徴・儀式体系要覧書 Duncan's Masonic Ritual and Monitor(1866年刊行版/現行、全文オンライン上より取得可能となっているとの著作)にて掲載されているとの挿絵となり、
[フリーメーソンのエンタード・アプレンティス(第一位階 First Degree[徒弟]位階希望者)、すなわち、フリーメーソンの門を叩く者がそれを受けることを強制されるイニシエーション(画期としての儀式)にて
[死刑囚の格好](目隠しをされ、絞首刑の縄を巻き付けられての格好)
をなさしめられた後、目隠しを取られ、光を与えられるとの式がとられるとの一連のそのプロセスを描いたもの]
となる。
他面、上掲図にての右側サイドに挙げているのはメーソンの第三位階 Third Degree(マスター・メーソン位階)に格上げされる者がその額面上の寓意性を学ばされるとのトレーシング・ボードに見る棺桶の象徴となり、英文Wikipedia[ Tracing board ]項目に現行、その写真が掲載されているとのものとなる(後の段でも触れるが、フリーメーソンのマスター・メーソン位階が棺桶およびそこよりの引き上げをモチーフとしていることはメーソン通にはよく知られていることである。ちなみにトレーシング・ボードとは[フリーメーソンの諸種様々なイラストレーションを組み合わせて形作られ、メーソンの各位階にての講義に用いられるとの絵画ないし版画]のことを指す ――同じくもの図像の抜粋元となっているウィキペディア該当項目にて Tracing boards are painted or printed illustrations depicting the various emblems and symbols of Freemasonry. They can be used as teaching aids during the lectures that follow each of the Masonic Degrees, when an experienced member explains the various concepts of Freemasonry to new members.
「トレーシング・ボードとはフリーメーソンの諸種様々な紋章・シンボルらを描いているとの描画・印刷されての図像らとなる.それらは古参のメンバーが新参者に対してメーソンの様々な概念を説明する際に各々のメーソン位階に応じての講釈にて教示の材として用いられるとのものである」と記載されているとおりである―― )。
上にて挙げたところのものらに見るように、メーソンの象徴体系は[生と死の象徴体系]と表裏をなすものである。そして、そのことと通ずるところとして他ならぬフリーメーソン関係者によって「メーソン象徴体系はエレウシス秘儀(ペルセポネの死と復活にまつわる儀式)と結びついている」との申しようがなされているとのことを実例挙げて指摘しているのがここでの話である。
※本稿の後の段の論証の布石として表記の著作 THE ELEUSINIAN MYSTERIES AND RITES(1919)には次のような記述が含まれていることを「も」問題視しておく。
(以下、 THE ELEUSINIAN MYSTERIES AND RITES『エレウシス秘儀とその儀式』にての II THE RITUAL OF THE MYSTERIES[第二節 秘儀にての儀式]の節よりの抜粋として)
With regard to Hercules, there is a legend that on a certain time Hercules wished to become a member of one of the secret societies of antiquity. He accordingly presented himself and applied in due form for initiation. His case was referred to a council of wise and virtuous men, who objected to his admission on account of some crimes which he had committed. Consequently he was rejected. Their words to him were: "You are forbidden to enter here; your heart is cruel, your hands are stained with crime. Go! repair the wrong you have done; repent of your evil doings, and then come with pure heart and clean hands, and the doors of our Mysteries shall be opened to you." The legend goes on to say that after his regeneration he returned and became a worthy member of the Order.
(訳として)
「ヘラクレスに関してのこととなるが、ある時期のものとしてヘラクレスが古代の秘密結社の成員にならんと望んだことがあるとの伝承が存在する。彼はそれに応じて自身立ち位置を明らかにし、入会儀礼(イニシエーション)に適したかたちにての申し込みをなした。ヘラクレスの場合は評議会、賢く、また、美徳を体現した者ら、ヘラクレスが従前犯してきたいくつかの犯罪行為に応じてヘラクレスへの入会許可に対する反対をなしたとの者らよりなる評議会にて取り上げられるとのことになった。結果、ヘラクレスは(エレウシス秘儀への入会を)拒絶なされることになった。評議会成員の彼に対する言葉は「ここに入ることは禁じられている。あなたの心持ちは冷酷で、あなたの両の手は罪で染まっている。いくがよい。自身がなした過ちを正すようにし、そして、自身の悪行らを悔やむがよい。そして、それから清らかな心ときれいな手でやってくるといい。さすれば、我々の秘儀の扉はあなたに対して開かれることになるだろう」とのものであった。伝承は(人格の)再生の後、彼が戻り、彼が秘儀団の価値あるメンバーになったと続いている」
(訳を付しての引用部はここまでとする)
上については THE ELEUSINIAN MYSTERIES AND RITES文中には明示的論拠は呈示されていないのであるが、
[「ケルベロス捕獲のために」ヘラクレスが12番目の功業にて冥界下りをなした]
との伝承、そこにて冥界下りをなす前にヘラクレスがエレウシス秘儀を受けたとの故事に倣(なら)っているものともとれる。それについてはビブリオテーケー、本稿でも度々引用してきたアポロドーロスのローマ期にてのギリシャ神話要覧書にての記載されているところとなり、(ビブリオテーケーの邦訳版として流通している岩波文庫版アポロドーロス『ギリシャ神話』102ページから103ページよりの再度の原文引用をなすとして) 上とほぼ同文に次のように記載されている。
(直下、岩波文庫版アポロドーロス『ギリシャ神話』102ページから103ページよりの[中略]なしつつもの引用をなすとして)
「(ヘラクレスは)第十二番目の仕事として地獄からケルベロスを持って来ることを命ぜられた。これは三つの犬の頭、竜の尾を持ち、背にはあらゆる種類の蛇の頭を持っていた。これを目指して出発しようとして、秘教に入会させてもらう目的でエレウシースのエウモルポスの所へ来た。しかしその当時は異邦人は入会を許されなかったので、ピュリオスの養子となって入会した。しかしケンタウロスの殺戮から身を潔められていなかったので、秘教会を見ることができず、エウモルポスに潔められて、それから入会を許された ・・・(中略)・・・ 地獄の門の近くに来てテーセウスとペルセポネーに求婚してそのために縛られたペイリトゥースとを見出した。彼らはヘーラクレースを見て、あたかも彼の力によって蘇生するように手を差し延べた。彼はテーセウスの手を取って醒ましたが、ペイリトゥースを立ちあがらせようとすると、大地が動揺したので、彼は放した(以下略)」
(引用部はここまでとする ―※― )
(※直近の部については Internet ArchiveよりダウンロードできるところのApollodorusのビブリオテーケーの英訳版、 THE LIBRARY( BOOK II(V.))の原文には次のように記載されているところとなる ――(訳は上に邦訳版より引用している通りなので付さない)―― A twelfth labour imposed on Hercules was to bring Cerberus from Hades. Now this Cerberus had three heads of dogs, the tail of a dragon, and on his back the heads of all sorts of snakes. When Hercules was about to depart to fetch him, he went to Eumolpus at Eleusis, wishing to be initiated. However it was not then lawful for foreigners to be initiated : since he proposed to be initiated as the adoptive son of Pylius.But not being able to see the mysteries because he had not been cleansed of the slaughter of the centaurs, he was cleansed by Eumolpus and then initiated.And having come to Taenarum in Laconia, where is the mouth of the descent to Hades, he descended through it. [ . . . ] And being come near to the gates of Hades he found Theseus and Pirithous,' him who wooed Persephone in wedlock and was therefore bound fast. And when they beheld Hercules, they stretched out their hands as if they should be raised from the dead by his might. And Theseus, indeed, he took by the hand and raised up, but when he would have brought up Pirithous, the earth quaked and he let go.
)
以上、本稿の後の段での指し示しの布石となることとして
「ヘラクレスの12番目の功業が[エレウシス秘儀]と伝承それ自体のレベルで(古文献に見る)[文献的事実]の問題として結びついている」
とのことを指摘した ――補っての話はここまでとする―― 。
(出典(Source)紹介の部93はここまでとする)
直近までの長くもなった出典(陰謀論者が持ち出すようなものではなく、そういう言及がなされているとのこと、それ自体が[文献的事実]として問題となるとの史書およびフリーメーソン内部者の「額面上の」理念の解説文書を含めての出典)を通じて次のことらを指し示してきた。
[エレウシス秘儀は秘教・密儀と呼ばれる所以(ゆえん)として参入資格がある者のみが参加し、その知識を参加者身内だけで保持するとのものである ――参加者が限られている秘密の儀礼、それがゆえにもの[秘儀]である―― ](通念化しているところの見解を出典(Source)紹介の部91にて紹介)
[エレウシス秘儀は大地の女神デメテルが自身の娘ペルセポネが冥界の王ハデスに略取されたことを嘆いて彼女を探して彷徨う過程を、そして、ペルセポネが地上に戻るとの過程を模し再現するとのものである(しかしそうもしたエレウシス秘儀についてはその細かい内容についてまでは今日に伝わっていないとされる)](通念化しているところの見解を出典(Source)紹介の部91にて紹介)
[エレウシス秘儀にての儀式では酩酊作用が伴う薬物が利用されていたとされる([キュケオン]という大麦・ハッカ・水を主成分とする飲み物がアヘンを混入されながら利用されていたとの説が学者らによって唱道されている)](通念化しているところの見解を出典(Source)紹介の部91にて紹介)
[エレウシス秘儀については[エジプト神話にあっての著名な筋立て]としての[悪神セトによってオシリス神がばらばらにされて殺された後(セトは棺を用意して、まんまとオシリスをその中に誘い込み、そこでオシリスをばらばらにして殺したと伝わる)、オシリス神の妻たるイシス神がオシリスを求めての探索をなしたとの筋立て]に倣(なら)っての部分が多いと古文献の時点で言及されているとのことがある](学者らの指摘および記号論的類似性にまつわるところとして長くもなっての出典(Source)紹介の部92にて解説)
[エレウシス秘儀はフリーメーソンの儀式体系とのつながりが一部の識者に知られているとのものとなる](メーソン内部の人間らの世間的申しよう及び記号論的類似性について細かくも言及しての長くもなっての出典(Source)紹介の部93にて解説)
(:ちなみにエレウシス秘儀との連続性が観念されるところのイシス秘儀に秘密暴露者に死を含むと解される厳罰にての制裁を科するやりようがなされていること、それがローマ期古典『黄金の驢馬(ろば)』にて認められる表記であり、また、『フリーメーソンと錬金術 西洋象徴哲学の系譜』(人文書院)との著作でフリーメーソンやりようと結びつけられるが如くの物言いがなされているとのことも先に言及したことであるが、そこにては長くもなるために言及していなかったこと、メーソンにての[死の制裁の甘受にまつわる宣誓]の具体的内容については本稿にてのかなり後の段にて(そうした世間では知的でもなければ誠実でもないとの陰謀論者話柄とされるようなことすらもが重要なことに関わっているとの観点から)別途取り上げる ――筆者自身はフリーメーソンなどという操り人形がかった集団の成員では断じてないが、仄聞されるところの具体的文言については後の段にて取り上げる―― こととする)
さて、ここまでの段にあっては、繰り返すも、
[エレウシス秘儀は秘教・秘儀と呼ばれる所以として参入資格がある者のみが参加する儀式である]
[エレウシス秘儀は大地の女神デメテルは自身の娘ペルセポネが冥界の王ハデスに略取されたことを嘆いて彼女を探して彷徨う過程を、そして、ペルセポネが地上に戻るとの過程を再現するとのものである]
[エレウシス秘儀にての儀式では酩酊作用が伴う薬物が利用されていたとされる([キュケオン]という大麦・ハッカ・水を主成分とする飲み物がアヘンを混入されながら利用されていたとの説が学者らによって唱道されている)]
[エレウシス秘儀については[エジプト神話にあっての著名な筋立て]としての[悪神セトによってオシリス神がばらばらにされて殺された後(セトは棺を用意して、まんまとオシリスをその中に誘い込み、そこでオシリスをばらばらにして殺したと伝わる)、オシリス神の妻たるイシス神がオシリスを求めての探索をなしたとの筋立て]に倣っての部分が多いと古文献の時点で言及されているとのことがある]
[エレウシス秘儀はフリーメーソンの儀式体系とのつながりが一部の識者に知られているとのものとなる]
との各点につき指し示してきたわけではあるが、以上のことらと地続きにて問題になるところとして
[次のような指し示し]
もが「なせてしまう」とのことがある(:そして、その指し示しはさらに後に続く段で問題視するところとして[ブラックホール理論の開闢のプロセス]と「奇怪極まりなくも」の予見的な式でつながることと「とも」なっている ――そちら奇怪性([奇怪]であるとのことは[不自然]であるとのこと、また、[恣意的やりよう]であるとのこととも同文である)が[人間存在のこの先の可能性]を否定するとのものであるがゆえに細々とした指し示しをなしてきたし、これよりもなすのだと何卒、よく含んでいただきたいものではある―― )。
(ここまでの指し示し内容と[地続き]なることとしてこれより指し示していくところとして)
「エレウシス秘儀でその存在が極めて重要となっている女神ら、デメテル(母たる女神)とペルセポネ(娘たる女神)については[母子分かたれずに本来的に一体としての存在]であるとの分析が学究になされてきた存在であるとのことがある」
「一体一対の存在と見立てられもするデメテル・ペルセポネ母子は古文献それ自体のレベルで女神イシスと結びつけられている存在であるとのことがある」
「デメテル・ペルセポネ両者およびイシスとの結びつきに関しては[ヘカテ]という女神もその結びつきの環に入ってくるとの申しようがなせるところとなっている]
[デメテル・ペルセポネ両者およびイシスと結びつくヘカテという女神に関しては[ヘラクレス12番目の功業にて登場した犬の怪物ケルベロス]にそれ自体で接合する存在となっているとのことがある」
以上のことらがきちんとした「資料的裏付けをもって」(要するに[言論の産まれ出うる土壌を駄法螺で埋め尽くして土壌汚染をなしているとの神秘主義者や陰謀論者ら由来の「相応の」軽侮して然るべき申しよう]とは一線を画するところとして)指し示せるとのことをこれより呈示する。
まずは
「エレウシス秘儀でその存在が極めて重要となっている女神ら、デメテル(母たる女神)とペルセポネ(娘たる女神)については[母子分かたれずに本来的に一体としての存在]であるとの分析が学究になされてきた存在であるとのことがある」
とのことの論拠を指し示すことにする。
同点については最初にジェイムズ・フレーザーの手になる分厚くもある[大著にして名著]と識者の世界で総括されている書、1894年版『金枝篇』 ―(著作権が切れ、 Project Gutenbergのサイトにて公開されている(によって誰でも確認なせる)版)― よりの抜粋をなすことにする。
ここ出典(Source)紹介の部94にあっては、
「エレウシス秘儀でその存在が極めて重要となっている女神ら、デメテル(母たる女神)とペルセポネ(娘たる女神)については[母子分かたれずに本来的に一体としての存在]であるとの分析が著名な学者になされている」
とのことの紹介をなしておくこととする。
(直下、――多少長くなるも―― The Golden Bough In Two Volumes.Vol. I.(1894)§ 8.― Demeter and Proserpineの部よりの引用をなすとして)
Compared with the Corn-mother of Germany and the harvest Maiden of Balquhidder, the Demeter and Proserpine of Greece are late products of religious growth. But, as Aryans, the Greeks must at one time or another have observed harvest customs like those which are still practised by Celts, Teutons, and Slavs, and which, far beyond the limits of the Aryan world, have been practised by the Incas of Peru, the Dyaks of Borneo, and the Malays of Java ―a sufficient proof that the ideas on which these customs rest are not confined to any one race, but naturally suggest themselves to all untutored peoples engaged in agriculture. It is probable, therefore, that Demeter and Proserpine, those stately and beautiful figures of Greek mythology, grew out of the same simple beliefs and practices which still prevail among our modern peasantry, and that they were represented by rude dolls made out of the yellow sheaves on many a harvest-field long before their breathing images were wrought in bronze and marble by the master hands of Phidias and Praxiteles.
[ . . . ]
Thus the story that Iasion begat a child Plutus (“wealth,”“abundance”) by Demeter on a thrice-ploughed field, may be compared with the West Prussian custom of the mock birth of a child on the harvest field. In this Prussian custom the pretended mother represents the Corn-mother (Zytniamatka); the pretended child represents the Corn-baby, and the whole ceremony is a charm to ensure a crop next year. There are other folk-customs, observed both in spring and at harvest, with which the legend of the begetting of the child Plutus is probably still more intimately connected. Their general purport is to impart fertility to the fields by performing, or at least mimicking, upon them the process of procreation. Another glimpse of the savage under the civilised Demeter will be afforded farther on, when we come to deal with another aspect of these agricultural divinities.
[ . . . ]
The reader may have observed that in modern folk-customs the corn-spirit is generally represented either by a Corn-mother ( Old Woman, etc.) or by a Maiden (Corn-baby, etc.), not both by a Corn-mother and by a Maiden. Why then did the Greeks represent the corn both as a mother and a daughter? In the Breton custom the mother-sheaf ―a large figure made out of the last sheaf with a small corn-doll inside of it― clearly represents both the Corn-mother and the Corn-daughter, the latter still unborn. Again, in the Prussian custom just described, the woman who plays the part of Corn-mother represents the ripe corn; the child appears to represent next year's corn, which may be regarded, naturally enough, as the child of this year's corn, since it is from the seed of this year's harvest that next year's corn will spring. Demeter would thus be the ripe corn of this year; Proserpine the seed-corn taken from it and sown in autumn, to reappear in spring. The descent of Proserpine into the lower world would thus be a mythical expression for the sowing of the seed; her reappearance in spring would express the sprouting of the young corn. Thus the Proserpine of this year becomes the Demeter of the next, and this may very well have been the original form of the myth.
But when with the advance of religious thought the corn came to be personified, no longer as a being that went through the whole cycle of birth, growth, reproduction, and death within a year, but as an immortal goddess, consistency requires that one of the two personifications, the mother or the daughter, should be sacrificed. But the double conception of the corn as mother and daughter was too old and too deeply rooted in the popular mind to be eradicated by logic, and so room had to be found in the reformed myth both for mother and daughter.
(注記付しながらもの拙訳として)
「[ドイツ(の遺風)に見る「穀物の」母]、そして、[Balquhidder(注:フレーザーが民話比較検討の対象としたスコットランドの小村)にての穀物の処女]と比較してみた場合、ギリシャのデメテル(母神としての「穀物の」神)とペルセポネ(乙女としての「穀物の」神)らは
[宗教的観念成長に伴っての後期的産物]
となろう。
だが、アーリア人のように、ギリシャ人らからしてある時期、あるいは別の時期にて[収穫に関する文化]としてケルト人ら・チュートン人ら、そして、スラブ人らに今日もってなお実演され、アーリア世界の境界を遙か越えてはペルーのインカの民やボルネオのダヤクの民ら、そして、ジャワ島のマレーの民らに実演されてきたのと[同様のもの]を見出していたにちがいない ――(そうした文化が一つの民族にとどまらず、農耕に従事しているとのすべての未開の民らに担われているところであるという点についてはそうした文化ら自体が生来、示しているとの十分な証拠がある)―― 。
従って、[デメテルおよびペルセポネら、ギリシャ神話にあって堂々と、かつ、美しくもあった彼女ら(と同一・同種たる)存在]が我々の近代と同時代の小作農らの間にても未だ流布しているとの共通の単純なる信仰形態およびその実演方式から生起してきたとのこと、そして、また、ペイディアスおよびプラクシテレス(注:ペイディアスもプラクシテレスも著名なギリシャ期の大理石彫刻家の名前である)ら匠の手によって青銅および大理石で息をしているような精巧な似姿が形作られるより遙か前より収穫もたらす場にて黄色き束によって構築された粗雑な作りの人形ら(案山子)によって彼女ら存在が体現されていたとのことはありえることではある。
・・・(中略)・・・
このようにイーアシーオンが[富と豊穣]を意味する[プルートス]という子を[三度、鋤を入れられた農地] (訳注:三圃制は中世まで登場を見なかったともされるため、このように訳した) の野にてデメテルとの間に設けたとのこと (訳注:ギリシャ神話ではトロイア創建者ダルダノスと兄弟にあたり神の血を引く男というイーアシオーンがプルートスという神をデメテルとの間に設けたとされる/尚、そのプルートス、ペルセポネの異父兄弟にあたる存在は冥府の主催者たるハデスのローマ版プルートとも同一視されることがある存在である) は[収穫の野にて子供の擬似誕生]を垣間見せているとの西プロシア(現:西部ドイツ)の文化と比較されうるものである。
このプロシア風習では母を模される存在は[穀物の母(Zytniamatka)]を体現しており、子供に模される存在は穀物の赤子を体現し、すべての祭りは翌年の穀物収穫を確実にするための誘因としての役割を果たしている。春および収穫期の双方にて観察される他の民族的風習ら、それらが子たるプルートスを生み出すとの伝承とよりもって密に関わるものとして存在しているとのことである。
それら風習のより一般なる目的は出産の過程を演じる、あるいは、少なくともそれを模すことで地に豊穣を与えんとすることであると思われる。文明化を見てのデメテル信仰の底流にある蛮風を他の側面で一望すること、それによって、これら農業の神格化存在の他の側面を取り扱う際にてのさらにもっての視野が得られようとのものである。
・・・(中略)・・・
読み手らは現代的民俗風習にあって穀物の霊らは[穀物の母](ないし老婆等々)あるいは[乙女](ないし穀物の赤子等々)によって体現されており、[穀物の母]と[穀物の乙女]の双方によって体現されては「いない」とのこと、観察されてきたかもしれない。では、何故、古代ギリシャ人らは穀物をして母(たるデメテル)と娘(たるペルセポネ)の双方にて体現させていたのか。ブルターニュ慣習にては母なる穀物の束、[小さな穀物の人形]をその中に蔵しているとの[過ぎ去らんとする年の穀物の束]にて構築されているとの巨大な人形が明らかに[穀物の母]と[穀物の娘]の双方を体現しており、後者は未だ生まれざるものとなる。再びの話として、先述のプロシア風習では[穀物の母]としての役割を演じるとの女性が[成熟を見た穀物]を表象する。翌年の穀物、次年度の穀物が産まれ出ずることになるのが今年度の収穫物の種からなのであるから子自然にその年の穀物の子供と見なされるに十分であろうものとして子は翌年の穀物を表象している。デメテルはこのようにその年の成熟した穀物たるものであり、ペルセポネはそこより取られた種たる穀物、秋に播種(種蒔き)され、春に再度現れるとの類たる穀物たりうる。ペルセポネの地下世界への降下はこのように播種の神話的表現となっているのだろう。このように本年度のペルセポネは次年度のデメテルとなり、これが神話の原初的形態であるとよくも解されるところである。
しかし、宗教的思考法の発展を伴って穀物が人格化なされるようになった折、最早、年度内に収まった誕生・成長・生殖・死の全サイクルを伴って歩んだ存在としてではなく、しかし、一個の不死なる女神として人格化がなされている存在として、一致性問題は[二つの人格化の一なる存在]を要請するようになり、ゆえに、母あるいは娘が犠牲に供されることになった。しかし、母と娘の作物の二重概念はあまりにも古く、かつ、深く衆人の胸に根ざしているとのものとなり、論理では根絶できるようなものではなく、であるから、母と娘の双方のための改訂されての神話を見出すとの余地がなければならなかった」
(訳を付しての引用部はここまでとする)
何がどう論じられているのか完全に汲みとりづらきかたちにての掻い摘まんでの引用にとどめざるをえなかったが(同じくものことを際限なく指し示している時間はないとの判断が手前にある)、上の『金枝篇』よりの引用部にての申しようの前提になっているのは次のような観点である。
[デメテルとペルセポネは行く年来る年の穀物を体現している存在で、本来的に一なる同一存在であると見立てられる(との視点が文化人類学を領分とする学者、斯界の泰斗として知られるジェイムズ・フレイザーの胸中に諸種領域の観察に基づいてあった)]( Demeter would thus be the ripe corn of this year; Proserpine the seed-corn taken from it and sown in autumn, to reappear in spring. The descent of Proserpine into the lower world would thus be a mythical expression for the sowing of the seed; her reappearance in spring would express the sprouting of the young corn. Thus the Proserpine of this year becomes the Demeter of the next, and this may very well have been the original form of the myth.
「デメテルはこのようにその年の成熟した穀物たるものであり、ペルセポネはそこより取られた種たる穀物、秋に播種(種蒔き)され、春に再度現れるとの種たる穀物たりうる。ペルセポネの地下世界への降下はこのように播種の神話的表現となっているのだろう。このように本年度のペルセポネは次年度のデメテルとなり、これが神話の原初的形態であるとよくも解されるところである」とフレーザー大著『金枝篇』にて掲載されているところである)
(出典(Source)紹介の部94はここまでとする)
などと摘示しても
「エレウシス秘儀でその存在が極めて重要となっている女神ら、デメテルとペルセポネについては[母子分かたれずに本来的に一体としての存在]であるとの説が存在する」
とのことはその道の大家なれど僅か一学究の申しよう(フレイザーのみの申しよう)にとどまるのではないか、と見る人間もいるかもしれない(といった反論すらも機械・人工知能の類に脳の首座を奪取されでもしたかといった心もない、魂もないとの筋目の人間の胸中には去来しないかもしれないかとも思うのだが、ここでは人間性を蔵した向きのための筆の運びをなしている)。
であるから、さらに続いて、次のような申しようがなされていること「をも」一応、引いておく。
ここ出典(Source)紹介の部94(2)にあっては、
「エレウシス秘儀でその存在が極めて重要となっている女神ら、デメテルとペルセポネについては[母子分かたれずに本来的に一体としての存在]であるとの言いようはその道の大家に限られてのものではない」
とのことの典拠を ―不十分か、と思うところながらも― 挙げておくこととする。
(直下、英文Wikipedia[Demeter]項目よりの抜粋として)
According to the personal mythology of Robert Graves, Persephone is not only the younger self of Demeter, she is in turn also one of three guises of the Triple Goddess ― Kore (the youngest, the maiden, signifying green young grain), Persephone (in the middle, the nymph, signifying the ripe grain waiting to be harvested), and Hecate (the eldest of the three, the crone, the harvested grain), which to a certain extent reduces the name and role of Demeter to that of group name.
(訳として)「ロバート・グレーヴズによる私的(に展開されていた)神話(解釈)によると、ペルセポネはデメテルの若き分身であるばかりではなく、彼女は本当のところ、三柱ワンセットの姿をした女神らの一柱、Kore(最も若きところで緑がかった若い穀物を意味するところの乙女)、Persephone(年が中頃になって刈り取りを待つところの成熟した穀物としてのニンフ)、Hecate(三柱の最年長で刈り取られた穀物の同等物)らの一柱であり、ある一定程度、(それら三位一体の神らの)集合名称であるデメテルのそれへと名前および役割を減じているのだというのである」
(訳を付しての引用部はここまでとする)
表記ウィキペディアの元となっているところとして20世紀前半、英国にての文人として影響力を持っていた Robert Gravesの The Greek Myths ―(先にも本稿にての出典(Source)紹介の部63(3)で[ギルガメシュとヘラクレスの関係性で「こじつけがましき」説明をなしている書籍]とのことでその内容を批判的に問題視していた、オンライン上より内容確認できる書籍)― の DEMETER'S NATURE AND DEEDSの節よりの引用をなせば、
1. Core, Persephone, and Hecate were, clearly, the Goddess in Triad as Maiden, Nymph, and Crone, at a time when only women practised the mysteries of agriculture. Core stands for the green corn, Persephone for the ripe ears, and Hecate for the harvested corn ― the‘carline wife’ of the English countryside. But Demeter was the goddess’s general title, and Persephone’s name has been given to Core, which confuses the story. The myth of Demeter’s adventure in the thrice-ploughed field points to a fertility rite, which survived until recently in the Balkans: the corn priestess will have openly coupled with the sacred king at the autumn sowing in order to ensure a good harvest. In Attica the field was first ploughed in spring; then, after the summer harvest, cross-ploughed with a lighter share; finally, when sacrifices had been offered to the Tillage gods, ploughed again in the original direction during the autumn month of Pyanepsion, as a preliminary for sowing (Hesiod: Works and Days; Plutarch: On Isis and Osiris; Against Colores).
2. Persephone (from phero and phonos, ‘she who brings destruction’), also called Persephatta at Athens (from ptersis and ephapto, ‘she who fixes destruction’) and Proserpina (‘the fearful one’) at Rome was, it seems, a title of the Nymph when she sacrificed the sacred king. The title ‘Hecate’ (‘one hundred’) apparently refers to the hundred lunar months of his reign, and to the hundredfold harvest. The king’s death by a thunderbolt, or by the teeth of horses, or at the hands of the tanist, was his common fate in primitive Greece.
(訳として)
「1.[コレ](注:CoreあるいはKoreは[乙女]および[ペルセポネ]を指す語である)、[ペルセポネ]、[ヘカテ](注:ヘカテは本稿のこれよりの段にてその特性を問題視する頭を三つ持つ魔術の神となる)は明らかに女性らのみが農業にまつわる秘儀を実演していた時代にての乙女、ニンフ、穀物としての三柱ワンセットの女神である。コレはまだ緑がかった穀物を表し、ペルセポネは成熟を見た穂を表し、ヘカテは刈り取られた穀物を、英国田園地帯の carline wifeの如きものを表する。が、デメテルとなれば、女神らの汎用的な呼称となり、また、ペルセポネの名前がコレ(乙女)に対して与えられている、それがゆえに話がややこしくなっている。[三度、鋤を入れられた農地] (訳注:三圃制は中世まで登場を見なかったともされるため、このように訳している) にてのデメテルの冒険の神話は豊穣の儀、それは[近年までバルカン地方にて息づいていたもの]であるとのもの、に関しては、穀物の女祭司が望ましき収穫を確実ならしめんため、秋の播種の折、聖別された王と開放的につがいとなろうとのものであったが、豊穣の儀を指し示しているとのものである。アッティカ地方(注:ギリシャのアテナ周辺領域のこと)にては野は春にて最初に鍬を入れられ、それから、夏の収穫の後、より軽めの作物による連作が行われ、耕作の神々に対する犠牲(生贄の獣畜)が供され、秋にての[Pyanepsionの月](注:アッティカ、すなわち、アテナ周辺地域の暦にての特定の月)の最中にて元あった方向を目指して、播種に先立ち、再度の鋤入れがなされる ――(ヘシオドス『労働と日々』、プルタルコス『イシスとオシリス』)―― 。
2.ペルセポネ(pheroおよびphonosとの部から[破壊をもたらす彼女]との意味合いの存在)、アテナのペルセファタ(ptersisとephaptoとの部から["破壊"を整える彼女]との意味合いの存在)、ローマにてのプロセルピナ([恐ろしき存在]との意味の存在)は、そう見えるところとして、彼女が聖別されし王を(豊穣の儀にて)犠牲に供した折にてのニンフの呼び名になっている。ヘカテ([百]を意味する)との呼び名は明らかにその統治下にある[百の(アッティカ地方太陰太陽暦の)月]に言及したもの、そして、百回の収穫に言及したものであろう。落雷ないし馬の歯ないし後継者の手になる王(儀式にて生贄に供されることになるとの王)の[死]は古代ギリシャにての彼の共通の死に様であった」
との部がその該当部となる。
尚、表記のロバート・グレーヴズの The Greek Myths(原著はオンライン上より全文閲覧できるが、訳書も『ギリシャ神話』との題にて紀伊國屋書店から出ているとの書)は
[ the "personal" mythology of Robert Graves]
と「私的な」付きでWikipediaにすら表記されているように[論拠を伴わないもの](groundless)、それがゆえに、[さして信に値しないとのもの](unreliable)とされてもいるが、ここ本稿では ――[デメテルとペルセポネの一致性]にまつわる見立てにつき―― 他に見るべき要素がある中でロバート・グレーヴズ申しようを「も」引いているとのこと、ご理解いただきたいものではある(:尚、さらに述べれば、日本では論拠がないばかりか、それ以前にあまりにも稚拙かつ馬鹿馬鹿しくもある(軽侮反応をそれを見た人間がきたせば御の字といった式で稚拙かつ馬鹿馬鹿しくもある)との陰謀論の類を後追いもしがたいとのかたちで再頒布しているような一群の者らが目立ち、といった者達が本稿公開をなすことにした媒体の一にすら[彼らの色](「絶対に」何も変ええないとの色/そのためにこそもの色)を付けんとしてきた様すら今までに観察してきたところなのだが(といった中で筆者従前媒体が誰にも顧みられないとのことを観察しているのであるから、の中に、錯簡・錯誤・行き過ぎが一部含まれている中でも訂正表記をなそうとの意欲すらほとんどわかなくなった)、私的にも思い含むところがある国内にてのそういった筋目の者達のやりようと本稿筆者スタンスを峻別いただきたいものではある)。
(出典(Source)紹介の部94(2)はここまでとする)
※直上にて英国にての著名なる学究(ジェイムズ・フレイザー)および言論人(ロバート・グレーヴズ)に由来するところとしての、
[[デメテルとペルセポネは同一の存在である]とする言辞]
を引いてきたわけだが、そこにて同一視の理由として挙げられている、
[穀物体現存在の世代交代(にまつわる宗教上の位置付け)]
といったことを観念せずとも両者、[デメテルとペルセポネの同一存在としての特性]は古典それそのものに由来するところとして「純・記号論的に」呈示できるようになってもいる。
第一。デメテルはエジプトからの渡来神イシスと同一視される存在であるとヘロドトスの古典『歴史』などにて記されているとのことがある(先にての出典(Source)紹介の部92にて表記のことを参照のこと)。
第二。ペルセポネもまたエジプトからの渡来神イシスと同一視される存在であるとローマ期の古典『黄金の驢馬(ろば)』にて表記されているとのことがある(これより後の段にての出典(Source)紹介の部94(3)を参照のこと)。
とすると、古典それそのものより[デメテル]=[イシス]=[ペルセポネ]との古代人のものの見方が存在していたと述べられることになる。