典拠となるところの明示[29]――[先覚性を帯びての事物]とはいかようなものか。また、そ
こに[梁となる共通の特性]が伴うとはどういうことか。にまつわってのまずもっての話として

関連情報にまつわるカテゴリ(各部クリックにて遷移)

梁となる事柄ら、そして、それらとの純・記号論的な結びつきがみとめられる[異説]ありようについて

 直前頁末尾の段にあっては次のこと、申し述べもした。


人類に破滅をもたらしうる(ともされての)[重力の特異点]を生成すると考えられるに至った粒子加速器実験(本稿冒頭部より,にまつわっての異様なる先覚的言及文物が複数存在しているとのことの論拠呈示を原文引用を密になしながらなしてきたとのものである粒子加速器実験)

911の事前言及事物「ら」](さらに問題となる作品「ら」を都度、挙げていくとの類の事前言及事物「ら」)
とを濃密に、多重的に結びつけている要素、いわば、
梁(はり)となる要素
が存在している


 上に見る重力の特異点を生成すると考えられるに至った粒子加速器実験911の事前言及事物らとを結びつけるいわば[梁となる要素]が何かと述べれば、 ――次の各語につきしかと念頭に置いていただきたいのだが―― 、

「アトラス」
「アトランティス」
「ヘラクレス」
「トロイア」

がそれに該当する。

 本稿にての重要訴求事項に[梁]として関わるのは上記の要素ら、巨人Atlasアトラスギリシャ神話の英雄Herculesヘラクレス往古海底に没したとプラトンの手になる古典(後述のTimaeus『ティマイオス』)に言及されるAtlantisアトランティス、そして、今日の欧州文明の源流となっているギリシャ古典(後述のIliad『イリアス』およびOdyssey『オデュッセイア』)にてその破滅に向けてのありようが言及される[木製の馬で滅せられたトロイアである

 以上のことに言及したうえで、同じくものことにまつわっての詳述に入る前に、ここではデーヴィッド・アイク( David Icke )という論客、

「有史以来の人類の支配者は爬虫類人としての形態をとる」

との主張を最大限流布したことでも知られる同人物の「一部・特定の」申しようのことからさしあたり問題視することとする(申しようの主軸をなす Conspiracy Theory[陰謀論]ありようからは出来るだけ歩幅をとりつつもの問題視をなすこととする)。


付記( Supplementary Note )たるところとして

 上にて論客デーヴィッド・アイクの一部・特定の申しようのことからさしあたり問題視するとしたが、ここ付記の部ではデーヴィッド・アイクという人物に由来する異説・陰謀論につき何ら関連知識を有しておらぬとの向きを想定して、デーヴィッド・アイクという人物の主張にまつわる通俗的な解説のなされようを取り上げ、また、同アイク説に対する現行の筆者目分量についても ―そうすることもが[本稿の後の段にての記述]に対する要らぬ誤解(あるいは下らぬ人間に由来する、に対する、ありうべき口撃)を避けるために必要であると判じているからこそ― 記載しておく。

(まずもって直下、英文Wikipedia[ David Icke ]項目、その Key ideasの節にての[ Reptoid hypothesis ](爬虫類人仮説)の部より「現時点の」記載内容 ――不特定多数の者が頻繁に更改の挙に及んでいるとのウィキペディアという媒体の性質上、そちら記述の[残置]については請け合わない―― の引用をなすとして)

Icke introduced the reptoid hypothesis in The Biggest Secret (1999), which identified the Brotherhood as descendants of reptilians from the constellation Draco, who walk on two legs and appear human, and who live in tunnels and caverns inside the earth. He argues that the reptilians are the race of gods known as the Anunnaki in the Babylonian creation myth,Enûma Eliš According to Barkun, Icke's idea of "inner-earth reptilians" is not new, though he has done more than most to expand it. Lewis and Kahn write that Icke has taken his "ancient astronaut" narrative from the Israeli-American writer, Zecharia Sitchin, who argued - for example in Divine Encounters (1995) - that the Anunnaki had come to Earth for its precious metals. Icke argues that they came specifically for "monatomic gold," a mineral he says can increase the carrying capacity of the nervous system ten thousandfold. After ingesting it, the reptilians can process vast amounts of information, speed up trans-dimensional travel, and shapeshift from reptilian to human form. They use human fear, guilt, and aggression as energy. "Thus we have the encouragement of wars," he wrote in 1999, "human genocide, the mass slaughter of animals, sexual perversions which create highly charged negative energy, and black magic ritual and sacrifice which takes place on a scale that will stagger those who have not studied the subject."

(細かくも補っての訳として)
「1999年の著述 The Biggest Secret(邦題『大いなる秘密』)からデービッド・アイク ――(注:元来はスポーツ選手から英国放送協会のキャスターに転じたとの向きであったが、ニューエイジャー・チックなる主張をなしはじめた後、総好かんを食らい、陰謀論的言辞を展開しだしてより再度の注目を次第次第になされることになったとの英国論客)― は(人間社会で力を持つフリーメーソンのような友朋団としての)[ブラザーフッド]をもってして
[りゅう座からやってきて二本足で歩き地球内部のトンネル・洞窟に潜んでいるとの爬虫類人]
よりの伝来物であると主張しだした(※)。

(※上の部に対する訳注:デヴィッド・アイクという男は上に見る[りゅう座からやってきたレプティリアン](なる存在)にまつわる観点を彼が[月のマトリックス理論]というものを展開しだした2010年以降も保持し続けている節があるのだが、そう、例えば、彼アイクは2003年に世に出た Tales from the Time Loop(2003)との著作(部分的にかなり興味深くもある表記を含む著作)にて次のような書きようをなしている。

The Big Dipper includes the star Alpha Draconis, the star of the Egyptian god, Set. Alpha Draconis is an alleged home of the reptilian 'royalty', the elite leadership, known as the "Draco".(訳として)「北斗七星はアルファ・ドラコニス(りゅう座α星)、エジプト神たるセトを体現しての星を含む。アルファ・ドラコニスは爬虫類人の王族、ドラコとして知られる選りすぐりの指導者層の拠点と推察されるところである」(訳注:この部はデヴィッド・アイクによる錯誤によるところか、汎ミスによるところの誤記[error]である可能性がある。 Big Dipperこと北斗七星にはりゅう座アルファ星は現況含まれていない。但し、北斗七星と親和性が強い北極星( Pole Star )の立ち位置にかつてりゅう座アルファ星があったのは事実である)。

As I have detailed in other books, the Illuminati bloodlines are seriously into human sacrifice and blood drinking ritual and have been throughout their existence. They perform the same rituals today as they did in Babylon, their ancient headquarters after the demise of Sumer, although I think there was a much earlier version of Babylon, also. The story of Dracula originates from this theme.[ . . . ] His name is Dracula (the Draco are claimed to be the 'royal' reptilian bloodlines); he is called "Count" Dracula (symbolic of the way these Draco bloodlines have been carried by 'human' royalty and aristocracy); he 'shape-shifts' (like the Reptilians) and he is a vampire (symbolic of the need of the Draco Reptilians to drink human blood and feed off human energy, as I shall detail shortly).
(訳として)「既に私が他の自著にて詳細を解説したようにイルミナティ(訳注:アイクがこの世界の悲劇の因であると主張するところの紐帯)の血脈は深く深く人間の犠牲の儀、そして、飲血の儀に関わっているし、彼らの存在そのものに関わるところとして今まで同じくものことに関わってきた。私はバビロン仕込みの初期的やりようが(その背景に)あるとは見ているのだが、彼らイルミナティ血脈(というデヴィド・アイクが彼の主張にあっての悪の根源をそこに帰しているとの紐帯)はシュメール崩壊後の彼らの主要拠点であったバビロンでやっていたことと同じくもの儀式を今日でも実践しているのだ。ドラキュラの話はこのテーマに関わるところである ・・・(中略)・・・ [ドラコ]は爬虫類人の王族の血族と主張されているとの中で彼はドラキュラ伯爵と呼ばれていた ―「ドラコの」血脈が人間の王族と貴族によって接受されてきたことの象徴的方法ととれる― 。(「ブラム・ストーカーの小説では」)ドラキュラは(爬虫類人がそうあるように)姿を変え、そして、吸血鬼であった ―先に短くも記したようにドラコ=りゅう座のレプティリアンらに人間の生き血をすする必要性、人間のエネルギーに喰ってたかる必要性があるからであろう― 」 
(訳を付しての引用部はここまでとする)

 直上までにてアイク著作よりそのまま原文引用なしているように彼アイクは[りゅう座伝来]云々との[外宇宙起源説]に加え
「レプティリアン上層部はこの次元におらず異世界の住人である」
としたり、
「レプティリアンは恐竜が別次元で進化したものかもしれない」
とのことを述べたりするとの式の主張もあわせてなし続けている ―[異星人]と[並行世界の存在]は併存しづらいところなのにそうしたいいようをなすの「も」アイク流である― (ここまでをまずもっての[補ってもの訳注]とする))

補ってもの注記を終えてウィキペディアよりのここでの引用部に対する訳を続けるとし)
 彼アイクはレプティリアンら(爬虫類人ら)をもってして
[バビロニア創世神話における『エヌマ・エリシュ』にてのアヌンナキとして知られる神の種族]
であると論じもしている。
(陰謀論分析者としてその名が通っているとの論客の)バークンによるとアイクはそちらを最大限拡張解釈しているものの、アイクのそうした[地球内部の爬虫類人とのアイディア]は新しいものではないとのことである。また、LewisおよびKahnの両二名が(彼らの著作 The Reptoid Hypothesis: Utopian and Dystopian Representational Motifs in David Icke's Alien Conspiracy Theory『爬虫類人仮説:デビッド・アイクにての異星人陰謀論におけるユートピア主義者的モチーフとディストピア主義者的モチーフ』にあって)書くところではアイクはイスラエル系アメリカ人作家ゼカリア・シッチン、[希少金属のためにアヌンナキが地球を訪れなければならなかった]とのことを主唱していた同男の古代宇宙飛行士説にての主張のありかた、たとえば、1995年に世に出た Divine Encountersとの書籍の主張をアイクは容れているとのことである (※)。

(※上の部に対する補ってもの訳注:ちなみに上引用部に見るゼカリア・シッチンにまつわる書きように関わるところとして英文Wikipediaに紹介されている物書きら、 Richard Kahnおよび Tyson Lewisの両名はアイクの説を
Swiftian satire[ガリバー旅行記著者たるスイフト的諷刺の産物]
と評していることもがウィキペディア当該項目には紹介されているが、本質的にはそのようなレベルのもので済まされないような側面を一部伴うのがアイク説であると見立てられもする (この世界 ― this crazy world― の実体に鑑みれば数多のシンパを伴ってアイク説が評価される風潮を「たかだか」スイフト的諷刺に置き換える者達の心情の方がむしろ不誠実dishonestであると受け取れる)
 その点、 David Icke本人に言わせると「(異星人地球資源獲得目的来訪理論を唱えた)ゼカリア・シッチンは悪魔主義者の一人である」とのことになるようなのだが(同じくもの弁が下劣な中傷に留まるところなのか、でないのかは判断する術がない)、といった申しようをもなしている彼アイク本人によると、異星人来訪にまつわる自己の主張は(ゼカリア・シッチン主張に拠るというより)元コロンビア大学生物学分野の教授であった Arthur David Hornの手になる Humanity's Extraterrestrial Originsとの書籍に多く拠っているとのことである ―アイクという男はその著作 The Biggest Secret以来、そうも述べている― (ここまでをまずもっての[補ってもの訳注]とする))

(補ってもの注記を終えてウィキペディアよりのここでの引用部に対する訳をさらに続けるとし、)
 アイクが主張するところでは「アヌンナキは[神経伝達システムの働き具合を10万倍に増加させしめる単原子の金]を求めてやってきたと考えられる」とのことである。
 それを摂取することで爬虫類人は大量の情報を処理することができ、次元間旅行、そして、爬虫類人の形態から人間の形態に移行できるようになるというのである。
 彼らレプティリアンは人間の恐怖の感情、罪悪感、攻撃性をエネルギーとして利用するという。そして、アイクは「かくして我々は戦争を遂行したいとの刺激を受けるのだ」と1999年、自著にて書いている。「高付加の負のエネルギーを生み出す人間の大量虐殺・動物の大量殺戮・性倒錯、そして、黒魔術の儀式というのは同じくもの主題について研究したことがないとの人間が驚く程の規模で執り行われてきたのだ」とも彼アイクは主張している」

(細かくも補っての訳を付しての英文ウィキペディアよりの引用部はここまでとする)

 以上のような英文ウィキペディア表記に見るような主張を大要としてなしているとの論客デーヴィッド・アイクの申しようについては ――「りゅう座より侵略者が来訪した」などとのこと(普通に字義通り解せば、[正気ではないとのレベルに左巻きがかった新興宗教の徒の憑かれたが如くの妄言・妄語の類]と区別のなしがたいような申しよう)を古典でのあやふやで僅少な記述なぞに依拠していきなり大上段に振り回す以外に―― 固有の問題性が伴っている。

 銘々各自におかれてお調べいただければお分かりいただけることか、とは思うが、

爬虫類人はこの世界に実体をもって介入できる
爬虫類人の地下基地がそこかしこにある
爬虫類人が影に隠れての間接統治を支える人間世界の伝統的王族・貴顕らは爬虫類人の血脈、その遺伝子を受け継いでいる者として組織的児童虐待に手を染めている
爬虫類人がいままさに究極の世界的監獄社会をニュー・ワールド・オーダーとして構築しようとしている

といった都市伝説めかした要素](地下基地云々など多くの人間の[経験知]とも相容れぬ風が如実に伴っての「あまりにも」都市伝説めかした要素)とともにあるとのことがある、そこからしてアイク申しようには問題性が伴っているように当然に見受けられるとのことがあるのである(アイク主張ありようにあっての問題となるところについては例えば、英文Wikipediaを参照するといったことだけでもある程度の理解をなせるであろう。筆者としては英語を読むのになんら苦がないとの向きらにあってはオンライン上より苦もなく検討(ダウンロード)できるようになっているとのアイク著作の原著を検討されてみることまで薦める次第だが)

 無論、本稿筆者は直上表記の如し側面にて[極性]を帯びての申しようを「自称・目撃証人の証言」や「信憑性の低い出所」を元になす David Ickeに全幅の信を置いているわけではない。
 デーヴィッド・アイクの表記の如し申しように関しては

[20世紀からアメリカで隆盛を振るうようになっていった都市伝説(未確認飛行物体地下基地存在にまつわる都市伝説)・陰謀論(たとえば、元・エホバの証人のフリッツ・スプリングマイヤーという人物が広めていた悪魔の血流陰謀論)を一緒くたにし]

[文献的に何ら信用性の置けないソースを多く典拠に置いている]

とのかたちでの虚妄の一大体系としての側面「をも」有している節ありであろう

と判ずるに至っているからである ――何故、デーヴィッド・アイクが持説を広める際にシンパら (たとえば[自称・悪魔的児童虐待の元被害者]や[ダイアナ妃の元カウンセラー(クリスティーン・フィッツジェラルドというスピリチュアル・カウンセラー)として故ダイアナ妃から爬虫類人の話を生前聞いたとの霊媒師]や[アフリカのシャーマン]といった爬虫類人支配説やその接合領域の説を支えているとの証人等等) がそこに目立って伴って「いる」のか、そこからして[(人間操作の)機序]との絡みで問題になりうるとはとらえているのだが、とにかくもってして、デヴィッド・アイクの上に引き合いに出した申しようなどについてこの身は虚妄の一大体系としての側面を有しての節ありと判ずるに至っている―― 。

(:尚、アイクの関連するところの主張動態の[嚆矢(original)]については Behold a Pale Horse『青ざめた馬を見よ』との書 (聖書の黙示録に見る第四の騎士の乗馬に対する形容に範を取ってのタイトルを有しての洋書で[宇宙人地下基地陰謀論]から[多くキリスト教世界観に依拠してのイルミナティ陰謀論]といったものをすべて取り込んで体系化したような書籍) をものした Milton William Cooperミルトン・ウィリアム・クーパー (群保安官事務所による加重暴行の懸念を受けての逮捕の挙の折に抵抗・発砲して射殺されたと発表されている米国民兵組織寄りの陰謀論者) および元[エホバの証人]ながらも脱退し悪魔主義陰謀論の巨視的力がフリーメーソンらを動かして世界を支配せんとしている、そのために特定の血族が利用されているとの主張をなしての Bloodlines of the Illuminati(1998)をものした[悪魔主義血族陰謀論]の旗手たる Fritz Springmeierフリッツ・スプリングマイヤーら両名による、
後追いの術が担保されていない Conspiracy Theory[陰謀
に求められると筆者は見ているし、同じくものことに気付いている欧米人の数は(そのことを口に出す人間は僅少でも)かなり多いか、と思う⇒ Icke's view point ←(affect)← Fritz Springmeier's view point ( [ satanists and "blood line" ] conspiracy theory ) + Milton William Cooper's view point ( [ power elites' cooperation with extraterrestrials ] conspiracy theory )

 だが、しかし、説の主軸となるところが信用のおけない、そう、[世の中をよく知っている大人]ら(この世界が[唾棄すべき人形劇の世界]であることを知ったうえでその[盤上の駒]として動くことに納得しきった者も無論にして含んでの[世の中をよく知っている大人]ら)には

[まったくもって信に値しない ―(アイク説のどこがどう問題になるのか、それが人類の今後に関わる欺瞞性「とも」いかように関わるかについては本稿の後の段でもかなり細かく煮詰める所存である)― ]

とのパートを少なからずも含むとのかたちで流布されているものでも[爬虫類人人類支配説]それ全体が信憑性に値「しない」とのことではないと強くも申し述べたい(:[システム運営にとって望ましいとの筋目の機械のような人間]として物事の事理につき何ら適正な判断をなせない(がゆえに中身が空っぽのことしか言わないし聞かない)といった程度よりは幾分ましだが、それでも思考作用が十二分に働いていなければ、人間は物事を一面でもって全面を語る・見ようとするきらいがある、それがゆえに[半分の毒で半分の真実すらも棄却してしまう]こともありうるかと考えられる中にて強くもそのこと、申し述べたい)

 アイク説を「よりもって陳腐化なさしめている」節すらもある爬虫類人人類支配の自称根拠 (という名の実体はそれを陰謀論に貶めるだけの爬虫類人変身証拠「画像」) や爬虫類人人類支配説を広めんとしているスタンスを取っている者達の背景にあって作用していうる、

[ありうべきことと幼稚な迷信をごった煮にするカーゴ・カルト的側面](カーゴ・カルトの意味が分からぬ向きは自身でその意味をお調べいただきたい)

の過半を脇に置き、 ――ただここではそうしたことの過半を脇に置いてもインターネット上に、相応の面構えの者達の関与ゆえにであろうが、流布されている芸能人・著名人などが爬虫類人に変身したと主張しているノンリニア編集動画などの特性およびその撒布の(愉快犯にかこけつけての)[考えられるところの真の目的]については後の段にても多少、筆を割くことにする―― 次のようなこと(1および2)が「間接証拠」として存在しているために[爬虫類人人類支配説]は唾棄すべきものどころか、真摯に検討すべきもの、「おそらく一面で真を穿っている」のではないかといったレベルで真摯に検討すべきものであると本稿筆者としてはとらえている (「本稿の結論、「いずれにせよ対策を打たねば死滅は必定である」との本稿結論を左右するところ「ではない」のでそうもした目分量については押しつけはなさない」とあわせもして申し述べたいところなのだが、とにかくもってのこととして、である) 。

(爬虫類人人類支配説の内容が軽んずべきものではないとのことにまつわっての[間接的証拠]として)

1.人類史にあっては竜・蛇との [爬虫類の象徴] が世界中で往古より「異常」とも言えるかたちで頻繁に用いられてきた、[明示的]あるいは[隠喩的]に用いられてきた、とのことがある。また、[爬虫類の象徴] が「異常」なかたちで頻用されてきたとのことと表裏をなすこととして"象徴"のみならず、世界各地の神話・伝承も蛇や竜の"神格"、蛇や竜絡みの"妖しき者達"にまつわっての叙述で満ち満ちているとのことがある

2.重んじて然るべきようなところとして複数伝承のおよそ文化伝播では説明なしがたいような「あまりにも奇怪なる」相似形問題が存在しているとのことがあり、そこに多く蛇や竜の象徴が関わっているとのことがある

 理由は上の1および2 ――殊に2の点は大きい―― で語りきれるところではないのだが、爬虫類人支配説が重んじられるところの[間接証拠]がいかようなものなのかについては直下にての別枠表記の部の記述内容に譲ってここでの付記たるところに一区切りをつけたいと思う。

図を挙げながらもの補っての表記として

 ここ別枠で括っての部では

一体全体、paranormal[超常的]かつeccentric[奇態]との話を延々なす意味がどこにあるのか

との読み手心証惹起をおそれずにもの[(図を付しての)[異説]にまつわる解説]をなしておく

 さて、直上最前の段にて先述のように爬虫類人人類支配説、その旗手たるデーヴィッド・アイクは、

異次元に本拠を置く爬虫類人が代理人(爬虫類人に憑依・コントロールされているロボット人間)を介して人間世界を支配している

との主張をなして欧米圏にて物議を醸すに至った人物である(彼の言い様はそうもした「異次元介入存在にまつわる」申しようと両立するのかに首をかしげたくなる「外宇宙よりの介入存在を想定しての」エイリアン・コンスピラシー・セオリー(宇宙人介入陰謀論)との融合もがとみに見てとれるわけではあるが、とにかくもののこととして、である)

 以上申し述べたうえで「そこからして誤解をおそれずにもの申しようをなす」が、アイクのそうもした言いよう、

「異次元に本拠を置く爬虫類人が代理人(アイク言辞における爬虫類人に憑依・コントロールされているロボット人間)を介して人間世界を支配している」

との言いように関しては、

[ほぼ同じくものことを一面で「強くも」「間接的に」示唆するような側面]

世の諸所にみとめられるとのことがある。

 たとえば、下に写真を挙げた[天龍]および[金龍]の像を引き合いにして「も」同じくものことに通底することが述べられもする(ようになってしまっている)。

 東京は浅草、その浅草にあっての浅草寺(せんそうじ)の門前に建つ[雷門(こちら[雷門;かみなりもん]は言うまでもないことか、とは思うが、日本を象徴する著名な建築物である)のまさしくもの門の裏側の両側に配された像、故・平櫛田中(ひらくしでんちゅう;人間国宝)の手になる像らが上に写真を挙げている[天龍]および[金龍]の像なのだが、それら彫像からして比喩性を感じるやりようが透けて見えるようになっているというのがこの[忌むべき世界]である、そう述べても差し障りないようになってしまっている。

 上にてそのありようを撮った写真の掲載をなしている[天龍][金龍]らは[尾が生えた竜人]として象(かたど)られているわけだが(疑わしきは各自、お調べいただきたい)、竜と人との混淆型である彼(天龍)・彼女(金龍)らの背面には

[異次元から覗くが如くのような竜の似姿]

が配されている ――[天龍][金龍]の像を手ずから撮っての上掲の写真、その下側に[光背(こうはい)の部分にて顕現している竜の似姿]を強調すべくもの図像も挙げている―― 

 ここで述べるが、といったところに基づいて「のみ」、

アイクの異次元に拠点を置く爬虫類人がラジコン化された人間を支配しているとの観点に実にもって平仄があう構図である」

などと述べるのは、もっと言えば、それをして爬虫類人人類支配説の[間接証拠]などととらえるのは[暴論]あるいはそれ以前の[妄語]に聞こえることかとは思う(はきと述べ、神秘主義者ら、さにあらずんば、陰謀論者の申しよう、懐疑的な人間であればあるほど、軽侮なしたくもなるとのそうした筋目の人間の申しようと区別なしがたいとの[暴論]ないし[妄言]に聞こえることかとは思う ―デヴィッド・アイク著作、たとえば、彼の初期の『ザ・ビッゲスト・シークレット』のような著作にあって[爬虫類人](と表されての存在)が被操作対象の人間の後ろに立って不可視領域からその人間にオーバーシャドウイング(憑依)しているといった按配の図が載せられている、そのありようが浅草の雷門裏手の先掲の彫像らの構図とそのままに重なり合うといったことがあるとしても、である(筆者としては『仮に人間に憑いている存在がいてもそれは生体ではなく人工知能風情だろうがな』と考えているわけではあるも、といったこともここでは置く)― )

 しかし、である。直上にての指摘だけではridiculous、馬鹿げていると響きもするかととらえているわけではあるも、読み手が浅草駅から徒歩で歩いて浅草寺の仲見世通り ―観光客で賑わう活況呈しての浅草寺の門前町を直通するメインストリート― を突っ切るとの道程を得、その道中みとめられる象徴主義らの問題について思料するとのことをなせば、直上表記のこと ―雷門の背面に配された金龍・天龍の像の構図にデヴィッド・アイク言い分との接合性がみとめられるとのこと― からして暴論の類とは無条件には受け取らない(というより脳が正常に機能しているのならば受け取れない)ことになろうか、とも思う。

 に関して、まずもって書くが、地下鉄浅草駅(の雷門に通ずる3番出口の脇)には
[祭装束で竜の幟(のぼり)を担ぎする衆のありよう]
が壁面モニュメントの真正面から臨んでの右側の部 ―出口階段脇に配された壁面モニュメントで浅草寺の名物である三社祭のありようを巨大パネルにて描いたの右側の部― にて具現化させられているとのその式がインパクト強くも目に入るようになっている(少なくとも筆者がここにて掲載の[天龍][金龍]の像の写真を撮った、順調にいけば、数千部との流れで初版からして商業出版されてもいたものであるとの自著に掲載すべくも2008年にそれらの像を撮った折柄にはそういう浅草駅の装飾付けが目についた ――因(ちな)みに[龍の幟(のぼり)]を複数人が棒担ぎしてうねらせるとのありようは三社祭に限らずアジア圏でよくみとめられる光景である―― )

 次いで書くが、浅草駅から徒歩にてすぐの浅草寺にあっては

[雷門(表部両脇に極めて有名な風神・雷神の像を配し背面部両脇には先述の[天龍][金龍]を配するとの日本にあって著名なる建築物たる"かみなりもん")に入る] ⇒ [浅草寺のメインストリートたる仲見世通りを歩く] ⇒ [本堂に程近いセクション(の通り右側)にて沙竭羅(さから)龍王の像にまみえる]

との観光の式が位置関係上、「自然に成立する」ようになっている ――[観光の式]とは述べても、「これはどういう縁起由来の像か」「この像の構造的特徴はどういったものか」といったことまで物を深く見ない人間にはそこにどういう特性が具現化しているのかついぞ気付くこともなく、何となくにもの物見遊山で終わることになろうか、とは思うのだが、ここでは[ものをじっくりと見る観光客(観察者)]を想定しての話をなしている―― 。 

 そちら位置関係上、自然にそうもなろうとの観光の式、繰り返すが、

[竜を衆生が皆で棒担ぎする壁面モニュメントのありようを駅で目にする] ⇒ [雷門の背面に目を向けた際に[背面に亜空間から覗くような竜を配する竜人ら[天龍][金龍]の像]にまみえる] ⇒ [仲見世通りを歩いて沙竭羅(さから)龍王像設置のセクションに向かう]

との式にあっての

沙竭羅(さから)龍王像 ――日本彫刻界の大家たる高村光雲の手になる作として知られている彫像―― ]

が一体どういった構図をとるかと言うと、同彫像は

[男が身体に竜を巻き付けるとの格好をし、その竜が天井に描かれた竜に融合するが如くの構造が具現化したもの]

となっている(下にそうした沙竭羅龍王像の[天井部の竜]を省いての構図を挙げる)。

 さて、それらが目立ってそこにそうしたものとして[ある]との蓋然性が判然としない、いや、だからこそ却(かえ)って背面に寓意性があるように感じられるところとして

[浅草駅雷門方面出口(の階段脇)に見る竜担ぎというモニュメントの一部分構図]
[平櫛田中の彫った(雷門の裏手の)[天龍][金龍]の像(先掲の像ら)]
[高村光雲が彫った沙竭羅(さから)龍王像(上にて呈示の像)]

の間には

天あるいは上位領域にある竜が人間存在(あるいは人の格好をした表現物)を拘束しているとの「共通の」式

が ―仲「見」「世」通りを介して― 窺える格好となっている(疑義があるとの向きは「ここ本稿の直上の段にて何を書いているのか読み直し、その上で浅草寺に足を運んでみるといい」とも申し述べておく)。

松下幸之助が、戦後、(現在の浅草寺門構えと同文に)浅草寺に寄進したことで知られる大提灯。観光イメージとして東京それそのものを象徴するとの観もある【雷門との字句が刻み込まれたそちら巨大な大提灯】にあっては屈(かが)んで覗き込まなければありよう察することが出来ないとの式で下側背面の部に【龍の像】が彫り込まれおり、その龍の像を撮影して構図呈示しもしたのが上掲図となる。 また、これまたあまり知られていることではないが、(浅草寺にあっての)雷門の大提灯には仏教にて瑞相(吉兆)の象徴とされる万字、卍紋様 ――ナチスがそれを反転させての鉤(かぎ)十字をもってしてシンボルとしたとのSwastikaの呼称でも知られる万字紋様(ナチ象徴である鉤十字紋様についてはそれと似たような構図、『妄言を社会に広めているだけだろう』との神智学協会という世界的団体が【ユダヤ民族の象徴でもある六芒星】・【尾を噛む蛇であるウロボロス紋様】と組み合わせて組織標章に入れ込んでいるとの紋様でもある)―― が目立つように刻み込まれてもおり(地図記号に見るように寺社仏閣がそも万字と結びつけられているとのありようからそれ単体で見る限りはあまり奇異なることではない)、また、大提灯表面部それ自体にも金色(こんじき)の龍らの頭部彫刻がまるで提灯から生えるように施されているとのありようが見受けられるようになりもしている(;だからと言って、筆者は金龍山との山号で知られる浅草寺に提灯と門構えを寄進した松下幸之助が怪物がかっての力学の全面的被影響下にあったのだろうなどと馬鹿げた言い分をなしたいの「ではない」 ―この世界にあまねくも行き渡っている節がある機械「的」操作とは何かについて思うところを示したいとの意図がある中でありながらも、である― )。

 以上のことらを申し述べてたうえでも、人間存在がいかように忌むべき状況にあるか思索を巡らしたことがなんらないとの幸せな(あるいは不幸も行き着くところに行き着いた)向きらは
『なにを馬鹿なことを延々と...』
と考えるかもしれないし(そうした向きにあっては「貴殿がそれに着目するか否かは自由だが、材料は他にも山ほどあり、この世界にはそういうものらが具現するだけとの相応の[機序](テーブル下に置かれた磁石でテーブルの上に置かれた足下にあっての磁石つき人形を動かすが如く式の機序)が作用している節があるのだ」と申し述べるまでである)、 また、幾分、理性的な批判をなさんとする向きは次のように反論を呈するかもしれない。

「今や東京を代表する観光スポットとなっている浅草寺の山号(寺社称号)とは、そも、金龍山であろう。また、そのために雷門にも金龍山と右から左に読まされる式で書かれているではないか。であるのならば、龍に対する固執はそんなにおかしなこととは言えまい?それに浅草寺には他にも観光スポットがたくさんある。浅草寺メインストリートという目立つところを引き合いに出しての持説強弁のやりようとも言える」

「言い様の具に用いているとの沙竭羅(さから)龍王は仏教における八部衆の一柱だが、八部衆には ―ナーガといった龍蛇の類を意識させる存在も含まれるものの― 緊那羅(きんなら)や乾闥婆(けんだつば)、そして、有名な三面六臂の阿修羅などの一般に龍・蛇の形状をとらぬ存在も含まれている。そうもした多種の生物の混交型たる八部衆らに含まれ、そもそも仏教におけるマイナーな護法神に過ぎぬとの沙竭羅(さから)や縁起由来さえはきとせぬ金龍・天龍らの仏像をもって巨視的なコントロールの存在の可能性を論じようとするなどとは[行き過ぎ](あるいは[ナンセンス])である」

「目立ってそういう構図がみとめられるとのことがあっても、である。そうしたことは[偶然]、ないし、[常識的文化伝播]の問題(たとえば、アジア圏では仏像の光背の部に多頭の蛇を配する構図がインドの神々の彫像ありようの影響でであろう、多分にみとめられる)で説明がなしえるところであろう」

 部分的には[反論]としてもっともな言い分ではあるか、と思う (沙竭羅龍王なる存在が法華経 ―すなわち排撃性の強い宗教の教典とされているもの―  に登場する、仏法を守護する(八部衆ならぬ)八大竜王の一に数えられることは置いておいてももっともな言い分であるか、とは思う)。

 だが、切り返して述べれば、一例として、次のようなこと「ら」までもがあるのがこの[忌むべき世界]である。

1.「建築物における奇怪な龍・蛇の具現化は浅草のそれにとどまらない。例えば、恐竜を6500万年前に滅したとされる隕石の落下地近傍領域(ユカタン半島のチチュルブ・クレーターの近傍領域)に存在している中米にてのチチェン・イッツァといった遺跡では蛇の神ククルカンを祭るピラミッド、[高度な建築技術] (今日的な目線で見ればコンピューター計算して設計でもしたのかと考えたくなるようなところとして日照の変遷から丁度、[春分の日]にピラミッド段差部に彫られたククルカン神が蛇行するような蛇の影を呈するようになっているといったことに見られる建築技術 を体現してのカスティーヨと呼ばれるピラミッドがみとめられもする。そのような高度な建築技術を体現してのピラミッド(カスティーヨ)を含むマヤ文明の同じくもの遺構チチェン・イッツァではアメリカ大陸に対するスペインの侵略前にあって生け贄の儀が執り行われていたことが知られており、その生け贄の儀では[セノーテ]と呼ばれる隕石落下によって形成された鍾乳窟に直結している地下用水地に人身御供が放り込まれていた、それも、[爬虫類の似姿を呈しての神々]に五穀豊穣・天候にまつわる伺い立てをなさせるために人身御供が放り込まれていたとのことが伝わっている(:につき、解説書を読む時間はないものの、同じくものことにまつわっての通俗的解説のなされようについて把握したいとの向きにあってはインターネット上の基本的情報、チチェン・イッツァの生け贄のセノーテ(天然井戸)をダイビングで探索した著名考古学者にまつわる英文ウィキペディア[ Edward Herbert Thompson ]項目や同[ Sacred Cenote ]項目、そして、それらにまつわっての他、英文による解説媒体 ――(他解説媒体としては、例えば、セノーテに放り込まれた生け贄が同神へのお伺いをたてさせられるとのことが伝わっていたChaacチャク神のありよう(ウィキペディアなどには[ Chaac is usually depicted with a human body showing reptilian or amphibian scales, and with a non-human head evincing fangs and a long, pendulous nose(訳として)[チャク神は爬虫類あるいは両生類状の鱗片を呈しており、際立っての牙・長くぶら下がっての鼻を伴った人外の頭部を保持した姿で描写される]と表記されているような構図上のありよう)などにまつわる解説媒体を挙げておく)―― を参照されたい。 その奇怪な意味合いについて科学的かつ確率的目分量から論ずる向きはこの世界には目立って「いない」わけであるが、とにかくも、[恐竜を滅したと伝わる隕石跡地の界隈に存するマヤ文明の遺構(チチェン・イッツァ)]にては[爬虫類の類を様式に組み込んでの高度の建築技術]が具現化を見ており、なおかつ、同遺構では[隕石の跡地そのものである用水地]に人間を放り込んで[爬虫類の神々]に人身御供を介してのご機嫌伺いが実施されていた、そういうことが歴史的ありようとして具現化しているのである(過半大多数の人間にあってはコロンブス到来前のアメリカにてのそうした文明形態ありようについて知らぬ存ぜぬ、それが自分達にどう関わるのか、とのことさえ理解する意思の力さえ無いとは思うのだが、そうもなっている)
 さらに述べれば、上にて言及のマヤの遺構チチェン・イッツァとは別物となるところとして、
[隕石の落下地(恐竜を6500万年前に滅したとされる隕石の落下地チチュルブ・クレーター)に先述のチチェン・イッツァよりも近しいとの「際立っての」隕石落下近接ポイント]
に存在している[ウシュマル]というマヤ文明古代都市の遺跡にあっては
[[イグアナの卵より孵化した子供]によって魔法によって短期間に建設されたと伝わるピラミッドの伝承
が語り継がれてきたとのことが考古学関係者に知られている
(:につき、同文に解説書を読む時間はないものの、通俗的解説のなされよう程度について把握したいとの向きにあってはインターネット上の基本的情報、現行にての英文ウィキペディア[Uxmal]項目および同[ Pyramid of the Magician ]項目の内容を ―チチュルブ・クレーターの位置状況を別媒体で確認されるなどしながらも― 参照されるとよかろう) 

[爬虫類人の類による人間支配のを示唆する間接的証拠まではそこら中に存在している]とのことに通ずる現実世界に見受けられる[現象]についてさらにもって言及するとして)

2.「欧州にあまりにも質的に近しい近似物、文化伝播ではおよそ説明がなしたがたいとの式での近似物がみとめられるとの浦島伝承では[龍]や[蛇]のアイコンが入れ込まれている(浦島は「亀」の背に乗って「竜」宮に至ったとある)。そして、浦島伝承に関しては[双子のパラドックス]とのアインシュタイン相対性理論の帰結との接合性が(直近言及の文化伝播で説明がなしがたいような近似物の存在以外の際立ってのところとして)伴っているとのこともがありそこからして龍・蛇の登場との式も軽んじることができない(上のことは本稿の先だっての段 ――出典(Source)紹介の部28-3から出典(Source)紹介の部30-2(2)を包摂する段―― で典拠を細かくも挙げながら指摘してきたことである)

3.「[粒子加速器][浦島伝承でも問題となる双子のパラドックスを用いての通過可能なワームホール構築にまつわる思考実験の双方と結びつく[奇怪な予言的言及]を含む文物らが時期的に不可解な折柄に世に出ているとのことがある(ラジコン人間・傀儡クグツの類を無意識的にか、そうではないのか、とにかくも手繰って現出でもさせたのか、といった式にて、である)そして、それら予言的言及らはまた爬虫類の異種族の来寇(人間への侵略)とも結節点を有するものである(先立っての段 ――出典(Source)紹介の部22から出典(Source)紹介の部27を包摂する段―― でこれまた典拠を細かくも挙げながら「まずもっての」一例たるところを取り上げたことである)

 上記のようなことらに相対したとしても、である。人間に相応しい[中身][内面]がない、神秘主義者らが[魂]と呼ぶような実質部がそもそも欠を見ているとの仕儀にまで至ってしまったとの多くの向きらにあってはその[中身][内面]の欠如がゆえに[何の反論の論拠もなしにもの否定の言]をそれこそ[獣声]、そう、[理なき獣の声]のようにあげる(あるいは「獣畜の飼い主」に叩かれてあげ「させられる」)ところか、あるいは、問題の可能性を極小化するようにそうしたことの意味合いに真摯に何ら向き合わないか(たとえそれが自分達種族に対する絶滅オペレーションを進行させている者達の素顔をその絶滅オペレーションそのものとあわせて同時に示すものでもその意味合いに何ら真摯に向き合わず[好事家の領分]の出来事に矮小化させてしか情報処理しない)といった風にその[反応の程]が限られているかとは思うところなのだが、実にもって遺憾なことに上にての2.および3.と振ってのことらは[確認のための論拠]を本稿でも都度、入念に挙げているとの多くの人間が易々と真偽確認なせるとの重大事そのものである(ゆえに述べるが、筆者のことを小馬鹿にしてやりたい、笑いたおしてやりたい、忌まわしい仮想論敵として反駁(はんばく)しきってやりたいとの意図でもいい、[意]ある向きらは上にて挙げていることらからしてきちんと検証いただき、その真偽の程につきよくよくご判断いただきたい次第ではある

 お分かりかとは思うが、たかだかもの一例として挙げた(接合するところとして問題となることはより入念にこれよりの本稿の後続する段にて摘示していく所存である中でたかだかもの一例として挙げた)以上のようなことらをもってからして

「爬虫類人類支配説の類には[間接証拠] (操作なす側がわざわざ自分達自身で明示的に疑いの余地もなく自分達がこれをやったと告白・自白しているとの如き直接証拠の類とまでは言えぬも[ぎりぎりの線]で人間を馬鹿にしきってなのか、わざと歴史的に前面に出してきた節があるとの間接証拠の類) は存在している」

と述べざるをえぬ、判じざるをえぬ、とのかたちとなっている(:くだくだしくも繰り返すが、救いようがないのは人間一般にあって多くの者が容赦ない操作によって[人間未満の磁石移動方式のマネキン]のようなナンセンスなものに成り下がっているとでもいうのか、さにあらずんば、そのような[愚かさ]が種族の一大特性だとでもいうのか、そうした露骨なることに何ら目を向けず、他方で「情報流通の関門に配されての」相応の筋目の者達 ――社会の口・目・耳に[それら]が主要構成要素として配されているとのいわば向こう側の手先、あるいは[手先]云々との表現が悪意・確信犯的性質との意味で言い過ぎであっても、向こう側が利用しているだけだとの実にもって愚かな社会の目・口・耳に相当する部に配されての者ら―― の流布し続けている「人間だけの」「人間だけによる」「人間のためだけの」世界の幻想に対しては無批判の受容をなしている、脳髄まで浸りつつとのかたちでなのかの無批判の受容をなしている、といった中で種族の多くの者らが[処女懐胎]や[題目]といったものを押しつけるとのあまりにも下らぬガラクタ([宗教]などと呼ばれるもののことである)さえも信じているモードで日々を生きていることだが、読み手たる貴殿がある一定以上の自由度を蔵した向き、そして、勇気をも蔵した向きならば、問いたいものである。仮にもし(確認未了である段階を想定してここでは便宜的に「仮にもし」と付しておく)、[功利的に人間という名の養殖種を副次的に絶滅させる必要がそこにある]との場合にて愚劣な幻影しか見ようとしない、そして、ブレーキング・ポイントにまつわる情報が呈示されたうえでもなお愚劣な幻影を紡ぐしか能がないとの種族が ―可能・不可能の問題として― [明日の日]を見ることが出来るのかと)

 尚、ここでの筆者の言いよう・摘示事項をわざと歪曲して馬鹿噺に落とし込もうとの手合い(「筆者から見れば」、そこに自我があれば、[自身のせせこましき安寧安泰のために自分の属する種族を売り払い、愚劣にも殺されていくのだろうといった按配の下らぬ屑ら]でもある)なぞは
「浅草は爬虫類人の拠点である」
「爬虫類人が人間の中に「物理的実態」を伴ってまぎれこんでいるからそういうことになるのだ」
などといった[酸鼻を極める妄言妄語の類]を流布・撒布する可能性もあるかとは思うが (自種族に資する有益なる情報を破壊しようとの筋目の情報操作の輩ら ―経験則から筆者は「彼ら」が「工作としての自組織に対する悪言悪罵をなすことにもやぶさかではない」カルト成員と多く重なるようになっていることを捕捉している・させられてきたわけだが、とにかくもってして「工作員でござい」といった者達― がいかにももってしてやりそうなことである)、 述べておくも、筆者はそうしたことを述べたいのではない。 そう、浅草の住人らやあるいは問題となるモニュメントを遺した向きら ―上述の高村光雲や平櫛田中― が物理的実態を伴っての爬虫類人そのものであるとかその[「意識的なる」手先]であるなどと述べているのでは断じてない(浅草でその活気に好感を覚えもしていたとの人間としてそのような馬鹿なことを考えたことは一度もない)。
問題なのは、人間存在一般が自分がやっている行為の意味を考えず・考えられずにコントロールされる可能性がある(多世界解釈論におけるその他の世界から侵出してくる何らかの媒質を用いての超高度技術を介して「無意識的に」コントロールされる可能性すらもがある)とすら判じられるだけのことが「ある」とのことでありニューロンの活動電位の問題やEEG、脳波がまさしくもそうしたものの体現物であるところの[電気的に作用するとの脳機序]を悪用して操作をなすとの手法が用いられているのか (でなければ厳にそこら中にある[奇怪な先覚的言及をなしている文物ら]を残す・残させることはできないであろう) と普通に考えられるようになって「しまっている」そうもした状況下で脳が外的作用を受けての中での[視覚的幻影]( visionary hallucination )・[聴覚的幻影]( auditary hallucination )を越えては具現化しえない(すなわち我々人類の物理的に手の届く領域には具現化しえない)、また、先方からも[操り人形]の手を介して以外は直に介入することはない(というより出来ない)のであろうと判じられるとの嗜虐的操作者らが相応のメッセージングをなしていると判断できることであり、また、といった状況の行き着く先は絶望的な破滅だけであると判じられる状況・材料「も」がそこかしこにあると判断できることである(:下らぬ、そう、なんら有効な処方箋を呈示しないとの意で下らぬ[終末論者]としてものを述べているのではなく[終末状況「回避」主義者]として強調するところとして、「ここ本稿では我々人類の文明を[忌むべき紛い物]として構築するうえでの手助けを高度機械を(当然に、であろう)活用してなし、(宗教にいう[エデンの子孫]が宗教経典たる聖書黙示録によって[最終的に大部分、永劫の地獄に落とされる]との筋書きを見ているように)[あからじめ用意した破滅]に向けての行進を人類になさしめていると判じられるようになっている科学的先進文明のやりようのことが問題になる(嗜虐的前言があまりにも体系的かつ執拗になされている中で問題になる)とのその具体的論拠を都度、十分と判ずる量だけきちんと明示していく所存である ―筆者としてはそうした内容に怖じ気づき、逃げ惑うとの向きらをそもそも読者として想定していない(情報の拡散流布に陳腐劣化という意味以上で協力するわけでもなく、足を引っ張ることしかなさぬであろうとのそういうものらには本稿は読んでもらわなくていいと考えている)との中での[証示]を命を賭けてなす所存である― 」 )

(ここまでにてデ―ビッド・アイク説にまつわる付記( Supplementary Note の部を終えることとする ―※― )

(※尚、筆者も一面では評価していた ―殊に徐々に自身の中の常識の壁が決壊していく中、一時期、過度にニューエイジャー・チックとなっていた折はそうであった― ものの、ここ最近になって失望ばかりを強めさせられもしているとのデーヴィッド・アイクという論客、彼アイクが具体的に何を言いやってきたのかについては本稿を公開しているサイトの一でも解説しているところなのだが、彼の主張内容にとみにみとめられる欺瞞性、特にもってして[[人類滅亡を企図してのものであるトロイアの木製の馬の「不在」性]を印象づけるようなやりよう][ありとあらゆる問題の根をたかだかもの虚偽を伴った新世界秩序陰謀「論」に矮小化させるやりよう、また、重要な不正への認識を間違った方向に誘導し正しいことを見させないようなにしているが如くやりように見る欺瞞性については本稿それ自体の後の段にても都度、解説していくこととする)


(直上までの付記の部から本題に引き戻すとして)

 さきんじてデヴィッド・アイクの「特定の」申しようからさしあたり問題視すると申し述べもしていたが、について具体的には、論客デヴィッド・アイクの著作、 Children of the Matrix(2001)にあって

[アトランティスに対する蛇の種族の侵略]

にまつわる記述が ――極めてエキセントリック(奇矯)かつパラノーマルな(paranormal:超常的な)話であること、そして、歴史的贋造物( archaeological forgery )であるものが引き合いに出されての話であることを承知の上で書くところとして―― みとめられる、[そうもしたことからして何が述べられるのか]とのことより問題視する(直下出典紹介部を参照されたい)。


| 出典(Source)紹介の部34 |

 本段、出典(Source)紹介の部34にあっては

[アトンラティスが蛇の種族に侵略されたとの神秘家申しようがかなりは早い段階からなされもしており、かつ、ある程度、知名度を得ている]

とのことを示すための引用をなすこととする。

(直下、 Children of the Matrix(2001)原著にての CHAPTER 8 the shape-shifters[変身なす者達]、その中の The children of the shadowsと振られての節よりの引用をなすとして)

 Ancient tablets, alleged to come from beneath a Mayan temple in Mexico, describe the reptilians and their ability to shape-shift. These accounts correlate remarkably With modern experience and reports. They are known as the Emerald Tablets of Thoth, who was a deity of the Egyptians. It is claimed that they date back 36,000 years and were written by Thoth, an "Atlantean Priest-King" who, it is said, founded a colony in Egypt. His tablets, the story goes, were taken to South America by Egyptian "pyramid priests" and eventually placed under a Mayan temple to the Sun God in the Yucatan, Mexico. The translator of these tablets, who calls himself "Doreal" (Maurice Doreal), claims to have recovered them and completed the translations in 1925. But only much later was he given "permission" for part of them to be published, he says. However, you don't have to accept all the details of that story to appreciate the synchronicity between what these tablets say and what is now being uncovered.
The following is the relevant section in the tablets to the subjects we are discussing.
"Speak of ancient Atlantis, speak of the days of the Kingdom of Shadows, speak of the coming of the children of shadows. Out of the great deep were they called by the wisdom of earth-man, called for the purpose of gaining great power.
"Far in the past before Atlantis existed, men there were who delved into darkness, using dark magic, calling up beings from the great deep below us. Forth came they into this cycle, formless were they, of another vibration, existing unseen by the children of earth-men. Only through blood could they form being, only through man could they live in the world.
"In ages past were they conquered by the Masters, driven below to the place whence they came. But some there were who remained, hidden in spaces and planes unknown to man. Live they in Atlantis as shadows, but at times they appeared among men. Aye, when the blood was offered, forth came they to dwell among men.
"In the form of man moved they amongst us, but only to sight, were they as are men. Serpent-headed when the glamour was lifted, but appearing to man as men among men. Crept they into the councils, taking form that were like unto men. Slaying by their arts the chiefs of the kingdoms, taking their form and ruling o'er man. Only by magic could they be discovered, only by sound could their faces be seen. Sought they from the kingdom of shadows, to destroy man and rule in his place.

(上記原著引用部に対する拙訳として)
メキシコはマヤ期神殿に由来すると主張されもしている古代の碑文らがレプティリアン[爬虫類人](とデーヴィッド・アイクが呼称する操作者)および彼らの変身能力についての描写をなしている。その碑文らに見る書かれようは今日の経験・報告事例と合致するところがある。
(ここで取り上げている)それら碑文とは[エジプトの神として知られるトートの名を冠するエメラルド・タブレット]である。「36000年前に遡るものである」と主張され、また、「エジプトにコロニーを創始した[アトランティス神官王]たるトートによって書かれたものである」とも主張されているとの碑文らとなる
 同[トートの碑文]にてはその碑文がエジプトのピラミッド聖職者らによって南アメリカに持ち込まれ、そして、メキシコ・ユカタンにての太陽神を祭ってのマヤ神殿の下に安置されたものであるとつづられている。自身を「ドリール」 ―注:ここでは「リアルにする」とのことをデービッド・アイクは強調しているようにとれる― [モーリス・ドリール]と名乗る碑文解読者は1925年にそれらを修復・解読をなし終えたと主張し、「だが、一部の出版の許可を与えられたのはより後のことである」と同人物は述べもしている。
 しかし、あなた(デービッド・アイクが読者を形容してのあなた)はその碑文らが言っていることと今日、明かされてきていることの一致性の価値を認めるうえで、ドリールのそうした話の細部についていちいち認容する必要もないだろう
 次の部が我々が議論の俎上にのせている主題と相関関係を呈している碑文にあっての問題となる部となる。
古代アトランティスについて語りたまえ、影の王国たるありし日について語りたまえ、暗闇の子らの到来について語りたまえ。より強き力を欲せんとのため、彼ら暗闇の存在、地上の賢者より深淵の外へと呼び出されるなり]
アトランティスのありし日より前に遡る往古、暗闇によって分かたれし者ども、黒魔術を用い、我々より下にある深淵からの存在を呼び出さんとした人間らがいた。この世界の輪に彼らがやってくるとき、彼らは別の振動領域に属して形なさず、地上の者達には姿が見られずとの形にて存在をなす
[かつて、彼らは彼らがやってきた場へと下ったマスターらによって征服された。しかし、思い出すべきは人間には知られぬ隠された空間、領域があることである。彼らはアトランティスに影として生き、時に人の間にその姿を現した。血が供されたとき、彼らは人の間に居を定めるべくも上昇してきた
[人の形をなして彼らは我々の間を闊歩し、彼らはただ見かけ上、人間であるように見せたのだ。彼らは魔力が発露するとき蛇の顔を現した。彼らは人間の形をなして議会に入り込んだ。そうした者らはその秘法にて王国の首長らを殺害し、殺害した彼らの形をなし、全民衆を支配した。魔術によってのみ彼らは探知され、音によってのみ彼らの素顔は見られた。人間を破滅させ、そして、そちら領域より支配なすためのものとなっている影の王国にこそ彼らは見出される(以下略)」

(訳を付しての引用部はここまでとする)

出典(Source)紹介の部34はここまでとする)


 さて、要約すれば、上にて引用なしたところにあってデービッド・アイクという論客は

「トートのエメラルド・タブレットというマヤの神殿にて発見されたと「主張」される碑文(モーリス・ドリールという人物に一九二五年に修復・解読されて、より後の折に許可が下りて刊行されたと「主張」なされてのもの)にて
[アトランティス時代よりはるか前に地上に呼び出された蛇の顔を持つ別の振動領域の存在がいたこと]
[その存在らがアトランティスにも血によって具現化するとの形にて人知れず存在し、王国の首脳部を乗っ取ったこと](デービッド・アイクはその記述がアトランティスの崩壊と結びつくようにも引用部の後に強調する)
とのことがに書き記されているとされること、そうしたことらが(文書由来どうあれ)今日の状況に合致する」

とのことを述べているわけである(疑わしいとの向きは引用部との対応関係につき確認されたい)。

 以上、要約なしたことについては ―裏を取ってそこまで確認したとの人間がいかほどまでにいるかは分からないが― 

[「それ自体では」歴史的贋造物( archaeological forgery )に依拠しての何ら信用の置けない話をなしている]

とのものである。

 その点、[トートのエメラルド・タブレット]と訳出部にて呼称されているもの、

[中世期欧州にて現実に存在したエメラルドタブレットという(それからして出所に疑義がある文書とも考えられるが)錬金術関連文書からその呼称を神秘主義者が勝手に借り受けている捏造古代碑文]

その刊行より以前に刊行されていたパルプ雑誌掲載の小説の粗筋から[露骨な影響]を受けている、[文言レベル]で[露骨な影響]を受けていると判じられるとの[紛い物]である([古代アトランティス]に由来するなどという[子供騙し的なる胡散臭さ]は言うに及ばず、紛い物であると該当サブ・カルチャーにつき知っている人間にはすぐに判断できるようになっているし、そうも紛い物であると確言しもする論拠も直下、挙げることとする)。

 そこにいう[史的「紛い物」性]に関わるところとして

[アトランティスが蛇人間の[影の王国]に侵略されているとの筋立て]

を伴っている『トートのエメラルド・タブレット』 (和文ウィキペディア[モーリス・ドリール]項目に見るように1939年に変名のフランス人 Marice Dorealにて刊行されもの ―ちなみに左モーリス・ドリールは前世でキリストと会ったなどと主張する「相応の」人種であったとも知られている― ) という文書の内容が小説家ロバート・エルヴィン・ハワード (拳銃自殺を遂げた早世の作家として知られる多作の作家 Robert Ervin Howard の創作物に「使用文言込みで」酷似している、すなわち、1929年(の8月、とすると、第二次世界大戦の契機となったと歴史家が総括しもする世界大恐慌発端の株価大暴落開始の二ヶ月前)に作家ロバート・エルヴィン・ハワードがものした The Shadow Kingdom『影の王国』 ―反響を呈したためにシリーズ化されたキング・カル・シリーズの第一作にあたる小説― と「文言レベルで」非常によく似ているとのことがある(直下、出典(Source)紹介の部34-2を参照されたい)。


| 出典(Source)紹介の部34-2 |

 本段、出典(Source)紹介の部34-2にあっては

[神秘家による[アトランティスが蛇の種族の影の王国に次元間侵略された]との太平洋戦争勃発前から存在している言い様]が[より以前から存在していたパルプ雑誌掲載小説から「文言込みに」剽窃されたと判じられるものとなっている]

とのことの典拠を挙げておくこととする。

(直下、英文Wikipedia[ The Shadow Kingdom ]より問題となる部を引用するとして)

"The Shadow Kingdom" by Robert E. Howard is the first of Howard's Kull stories, set in his fictional Thurian Age. It was first published in the pulp magazine Weird Tales in August 1929.
[ . . . ]
The story starts shortly after the Atlantean barbarian Kull has conquered Valusia and become its King. Kull is invited to a feast by the Pictish ambassador to Valusia, Ka-nu the Ancient.
[ . . . ]
Brule reveals that the Serpent Men, an ancient pre-human race that had built Valusia but was almost extinct, ruled from the shadows, using their Snake Cult religion and ability to disguise themselves with magic. They intended to replace Kull with a disguised Serpent Man, just as they had done with his predecessors.

(拙訳として)
「『影の王国』は作家ロバート・E・ハワードによる架空のトゥーレ時代(注:日本語訳では訳者らがテューリア時代と訳している)を作品舞台に据えてのカル・シリーズ、その第一作にあたる作品である。同作はパルプ雑誌『ウィアード・テイルズ』に1929年8月に発表された作品となる。
・・・(中略)・・・
物語はアトランティスの蛮人カルがヴァルーシア国を征服、その王となってより間もなき折からはじまる。カルはピクト人の特使の老カ・ヌによって宴に招かれることになる。
・・・(中略)・・・
(宴の席にてその近々の来訪が王に伝えられた槍の名手である)ブルーは[蛇人間ら、ヴァルーシア国を設立したもののほとんど絶滅しかけているとの人類より前より存在している太古のその種族が[スネーク・カルト]を用いて影よりの支配をなしていること、そして、魔法によって彼らの姿を偽れる能力を有しているとのこと]を明かした。彼ら蛇人間はカルを彼の前任者の王らがそうであったように人間に化けた蛇人間へと置き換えることを企図しているとのことをカル王に伝えた」

(訳を付しての引用部はここまでとする ―※― )

(※微々たることであろうと向きによってはとらえるところかとも思うのだが、上の小説『影の王国』の主人公たるカル王が君臨するヴァルーシア国が古代アトランティスに内包されている国家であるとの設定が採用されていることの典拠を挙げておく。 
(直下、和文Wikipedia[キング・カル]項目(ほぼ英文Wikipedia[ Kull of Atlantis ]内容に準拠して書かれている項目)の現行記載より原文引用なすとして)
カルは、紀元前20000年、大変動で沈没する前のアトランティス群島に生まれた。当時のアトランティスは未開の蛮人たちによって支配されていた。アトランティスの東部、古きテューリア(Thuria)は、コモリア(Commoria)、グロンダー(Grondar)、カメリア(Kamelia)、テューレ(Thule)、ヴァレリア(Verulia)などのいくつかの王国に分割されていた。その中で最も強大だったのがヴァルーシア(Valusia)である
(引用部はここまでとする ――尚、英文ウィキペディア[ Kull of Atlantis ]項目の該当部解説では Kull was born in pre-cataclysmic Atlantis c. 100,000 BC. At the time Atlantis was ruled by barbarian tribes. East of Atlantis lay the ancient continent of Thuria, divided among several civilized kingdoms, including Commoria, Grondar, Kamelia, Thule, and Verulia. Most powerful among these was Valusia.と同文のことが記載されている――  )

出典(Source)紹介の部34-2はここまでとする)


 上もてお分かりいただけることか、とは思うのだが、

人間の姿をとる蛇人間らによる[影の王国](シャドウ・キングダム)が[アトランティス(正確にはアトランティス時代のアトランティスに近接する領域にての王国)の統治機構]を[人間らの王族にすり替わった蛇人間]を通じて支配している

というのがロバート・ハワード小説 The Shadow Kingdom(1929) ― Kull of Atlantisシリーズとも銘打たれる一群の作品らの第一作― の作品設定である。

 対して、デヴィッド・アイクがその著作 Children of the Matrixで引き合いに出しているモーリス・ドリールという男が刊行した The Emerald Tablets of Thoth(1939)は

人間の姿をとる蛇人間らによる[影の王国](シャドウ・キングダム)が[アトランティスの統治体]を[人間らの王族にすり替わった蛇人間]を通じて支配している

といった内容を有しているとのものである(ただし、ロバート・エルヴィンの小説『影の王国』と[同様の言い回し]・[同様の内容]を有していてもドリールのそれには[次元間侵略]とのモチーフが付け加えられてもいるわけではあるも)。

 本稿筆者は、であるから、

「[影の王国]という文言込みでの盗用(古代アトランティスの碑文を解読したと自称している神秘主義者モーリス・ドリールによる盗用)が問題になる

と当然に判じているし、それはまた至極当然の一般論の問題である(と述べても差し障りなかろうことである ――※尚、『第二のエメラルドタブレット』(1939)なる自称古代アトランティス由来の神秘家文書の窃用・模倣の対象とされている節が露骨にある『影の王国』(1929)をものした著名作家の名は(直上表記のように)ロバート・エルヴィン・ハワードとなるのではあるのだが、デービッド・アイクという男はそちら作家のミドルネームでもある[エルヴィン]との名について「エルヴィンElvenなどのエルフと結びつく言葉は爬虫類人・イルミナティ血族(と彼がその実在を主張する人的紐帯)の暗号となっている」などともその著作『チルドレン・オブ・・マトリックス』の中で「まったくの別文脈で」何度も強調するとのことをなしている(エルヴィンの言い分は爬虫類人の手先の言い分であるとの印象付けをなしているとのことである)。その点、作家ロバート・「エルヴィン」・ハワードの手になる『影の王国』という作品の具体名を一切出さぬ中でそうもした(作家のミドルネームでもある)「エルヴィン」まわりの主張をアイクという男が何度もなし、そして、同じくもの著作『チルドレン・オブ・マトリックス』の中で(先に引用なしたようなかたちでの)ドリール文書の取り上げ(それがさも重んずべき対象であるかのようの取り上げでもある)を(ドリールの妄言文書による[エルヴィン]手仕事に対する剽窃の可能性になんら言及することをせずに)なしもしている。筆者としてはそこにて計算されての巧妙かつ悪辣なやりようが介在している可能性もあると見ている。そう、現実改変能力がポテンシャリティとしてなんらない(のみならず[イルミナティ血脈]云々といった的外れなところで人間(じんかん)に相互不信を広めるとの役割は帯びている)との虚偽としての「現代神話」体系の[一面での説得力を伴った効率的流布] (たとえばモーリス・ドリールの手仕事が先達のロバート・エルヴィン・ハワードの模倣と気づいた向きにあっても「エルヴィンは悪魔の血脈である」云々といったアイクの論理が滲透するように計算されているといった意味での効率的流布) のためにそうもした巧妙なやりようが介在している可能性もあるかもしれないと私的に考えているのだが、については、だが、私的目分量とのことで押しつけをなすつもりはない――  )。

 上掲図にての非テキスト部にて挙げているのは英文Wikipedia[ The Shadow Kingdom ]項目に記載されている小説『影の王国』掲載の図となる(同図は著作権失効明示画像としてウィキペディアに掲載されているものとなる ――また、同じくもの図は(筆者が手ずから確認しているところとして)国書刊行会より出されているパルプマガジン『ウィアード・テイルズ』復刻版(ウィアード・テイルズ(2))にての和訳版『影の王国』掲載部にて「も」見受けられるものとなる―― )。
 上掲図に付したテキスト部にて何が影響・被影響との絡みで問題になるのか ―[傀儡のような人間に対してどこぞやら指示がなされたうえでの窃用が具現化を見ているとも受け取れもする]のだが、それは置き、常識的先後関係の問題で何が問題になるのか― ご理解いただけるか、とは思う(:当時当代にあって押しも押されぬ売れっ子作家となっていたロバート・ハワードの1929年小説『影の王国』では[古代アトランティス世界にての蛇人間らによる影の王国からの侵略]がその作中モチーフとされている。他面、時期的にロバート・ハワード小説に10年遅れてのモーリス・ドリールという神秘主義者による自称古代アトランティスの解読碑文(1939)でも[古代アトランティスにての蛇人間らによる影の王国からの侵略]がモチーフとされている)。

本筋から離れての付記として (言論それそのものの効用に関わりうるとのかたちで今後生じうる[ありうべき誤解]を避けるべくもの付記として)

 ここで「これ偏狭也.」「くどいにも程があろう」との誤解をおそれずにも付記しておくが、先の段にて意図してその申しようを引いたデービッド・アイクという人物(欧米圏で物議を醸しているとの[爬虫類人人類支配説]という異説の主唱者)の言論につき、現行、

『(デヴィッド・アイクというのは)多く「捏造論拠・信用のおけない論拠にばかり基づいて」話をなす(さらには把握するところとして「他者言論を吸収しながら[悪魔主義爬虫類血族支配の新世界秩序企図陰謀理論]なるものに組み込んでの話をなす」)向きであろう
 そうもしたやりようがために、 ―我々人類がこの先も存続することが可能である、あるいは、存続の可能性があると仮定して― 後代にあってその言説の実態調べた向きに[広く流通しているその申しよう](人類の支配者は爬虫類人であるとの異説)について
『また例の法螺話か』
と思われるといった向きであり(あるいはそれに類する攻撃材料を与えるだけの向きであり)、彼のやっていることは ―人類を詐害せんとする機序によって[知名度](虚名とも)は与えられても― 多く[なんら意をなさない]だろう』

との心証を覚えるに至ってしまったとの者がこの身、本稿筆者である (:さらに述べれば、本稿筆者は『多くの熱烈なる宗教信者に[宗教]というシステムの高度な実利的側面についての想像が及ばぬように個人思惑とは別のところとして上のような効果をもたらすことがデヴィッド・アイク・プロモーション力学の背後にある[はなからの狙い]であるかもしれない』とさえ考えるに至ってしまっているとの者でもある。その点、デヴィッド・アイクやりよう ―本稿を公開しているサイトの一でも多少細かくもの解説を講じているところのやりよう― には当初、肯定的に評価していたのではあるが、最近になってとみに失望感を一層深めさせられている(ひとつに彼が出典上の誤りをなんら正さず、また、本質的な問題となるところが他にあるにも関わらず、ある種の俗悪性も感じさせるやり方で表層的なところで非を鳴らすか、(本稿でも後述(かつ講述)するような式で)まったくもって真偽不明なる話をなすのに注力しつづけているからである)。 それにつき、筆者考えでは「ゼロやマイナスは足してもゼロやマイナスにしかならず、ただ単に真偽不明であるとのことに加えて捏造論拠に依拠しての申しようをなすなどとのことは人類の本当に望ましき未来にあっては[マイナス]にしかならない」とのこととあいなる)

 そう、デービッド・アイクという人物およびそのコラボレーター(説の流布に努めているとの者達)らに

[本当に重要なこと]

の真実性について裏を取る気風があるのか、彼らに真実の訴求との観点で本当に人類のために動く気概(あるいは真に人間たらんとする者に相応しき自由度)があるのか、ということについては筆者としては[何ら期待などできない]と見るに至っているのである。今日ここに至るまでの彼らやりようの分析をなし続けてきた結果をもってして、である同じくもの点に関しては本稿のかなり後の段で具体論としてデヴィッド・アイクという人物が[LHCの類]をどのようなものと看做して、それについてどういった物言いをなしているのか、そして、そうした言説が「自分では満足に考えることのできない」種別の人間らを媒介項としての[妄信の毒]たるかたちでいかように社会に広められているのかについて手前が把握するところの解説を「細かくも」なすこととする

 ただ、同アイクについては

「ここでは慎重になるのか」

ととれるところもあり、

(上の訳出引用部にてもそうしたところが含まれるところとして)

「しかし、読み手はそのドリール碑文ら(アトランティスに対する蛇人間の影の王国の侵略について扱っているとの碑文)が伝えんとしていることと今日、明かされだしてきていること(爬虫類人支配の実体とのアイクの申しよう)の一致性の価値を認めるうえで、ドリール申しようの細部につきいちいち認容する必要もないだろう」

と書くとのやりようまでは往々にしてなす、ドリール申しようが矮小なる剽窃物のそれであることを受け入れる用意がある(実際には彼はそれをしてくれはしないのではあるも欠陥を受け入れる用意があるように臭わす)とのことを書くぐらいのやりようまでは往々にしてなしている ――であるから、(信の置けぬ論拠を挙げていることを知った上での狡猾さの発露でなければだが)、デービッド・アイクのやりようの方が彼の手放しの礼賛者らよりは「幾分ましである」とは見えもする―― 。

 以上、デヴィッド・アイクという人物のやりようの問題性について言及したうえで

「自身の言論(訴えんとしていること)を守るために必要なこと」

と判じて書いておくが、日本で現行、デービッド・アイク関連の物言いを広めている者達には「個人的にも」そのやりようについて[それなりの判断をなさざるをえぬ]との側面が多々見受けられるとのことがある。

 そうした者たち ―匿名ないし偽名・筆名でか、の日本にてのデーヴィド・アイクの説の拡散者ら― のやりようについては元より計算でもしているのか、もしそうであるのならば、「悪質であろう」ととれるところとして、
[「文献的事実にまつわるところで裏を取った人間には」多く信用の置けぬところがあるデヴィッド・アイクの話]
に対して、「さらに」との式で、
[まっとうな人間には軽侮されて然るべき類の話]
を付しているといったところが目につくとのことが「ある」(:たとえば、先にそちらよりの引用をなしているところの Children of the Matrix「の訳書」 ―相応の邦題が振られ、ほとんど国内では流通「していない」との訳書でもある― にカブレラ・ストーンといった偽造プロセスまで問題視され広くも如何物(イカモノ)視されているものにまつわる追加トピックを目立って「付け加えられている」といったことまでが国内ではなされているのだが、その委細はここでは解説しない)。といった力学に通ずるところでこの身の訴えんとしている(ところの類縁領域)にまで[色]を付けたいのか、との観点を「強くも」抱くに至っているとのことがある。

 その点もってして[公憤]ではなく[私怨先行の話]をなしているなどと誤解して欲しくはないのだが、
[次のようなこと]
が[手前のやってきたこと]に対して「も」なされたことがある(常識世界の問題では「[債務不履行](民法414条から415条)・[不法行為](民法709条)といった法律問題に発展させるべきか」とも考えたことなので慎重な筆致で書く)。


 本稿のようなものをものし、その真偽を問うことを自身の余力を全て注力してなすべきと判ずるに至った人間、そうした人間由来の話としてなすこととして、手前が自身の訴求活動の前身としてものしていた著作の商業出版 ―自費出版ではなく手前がいくばくかの印税を貰っての商業出版である― に関して「も」[事実上の出版契約]締結がなされていたとの状況下で相応の者達による尋常一様ならざる陳腐化の憂き目に逢ったとのことがある。

 検索エンジンには引っかかるようなかたちとはなっていないが、改訂を加えてオンライン公開なすことにしたとの『人類と操作』という著作が手前手仕事としてある。
 同著については事実上の出版契約が結ばれ特定出版社からの商業出版での話が進んでいたのだが、どういうわけか、「99.99(略)パーセント出版します」との先方出版社役員の話が
「経営事情で出版は出来なくなりました」
との運びとなった(既に先方から編集者も付けられておりこちらの時間も制約されていた、機会損失が発生していたのであるから、弁護士が述べるところでは役員の申しようとあわせて本稿筆者に対する債務不履行の問題が観念されるとのことであった)。
 の際、同出版社からの出版に代えての大手出版「など」複数社 ――の中にはデヴィッド・アイク関連の書籍を出している大手出版社が含まれている―― での出版提案とのかたちでの[介入](初期の出版計画が潰れた後、即座にトンデモ化が強くも想起されるかたちでの[合いの手]を入れての介入)の提案が特定人(某大規模宗教団体関係者とのことをこちらで聞き及んでいた人物)関与の下でなされていることが明らかになったのだが、まずもって、そこに至るまで

[原稿流出なければ説明できずとの品性に欠ける相応の行為 ―関連するようなテーマのネット掲示板での褒め殺すように原稿に近しいことを書き綴るなどとの眉をひそめるようなやりよう― ]

をなされていたとのことがある(目立っては2010年前半期からの動きである。こちらが印税もらってのいわば金銭にまつわる約束事が前提になっての素人のお家芸ではないところでの話で[そういうこと]が起こっている ―といっても筆者は『びた銭でも大枚でもこの期に及んで銭金(ぜにかね)などどうでもいい』と心底思っていたのだが― )。

 また、その他の意味でも[それなりの判断]をなさざるをえないといった動きを ―記録証跡の取得に当然に努めざるを得ぬとの式で― 後に把握させられたとのことがある(あまりにも悪質かつ組織的なやりようである、かの有名な[言論出版妨害事件]の再燃かと自然にとらえられるものであるために話を聞いた人間ならば、[尻込みするようなやりよう]をなされたとのことがある)。

 そうした動きとの兼ね合いで[手前の言論]に関わるところ「でも」日本のアイク説の広め手との兼ね合いでは[他人事]と見ることができないといったことがあるのである。


 以上が(不快極まりない委細を全て端折っての)色つけのやりようの端的なる例である ――(自著の商業出版が初期目標通りに実現させられないようになった一方で[橋頭堡とすべくもものした自著の原稿の流出](出来の悪いマーケティングがなされたというよりも陳腐化をなされたとの式を伴っての流出)が「相応の掲示板書き込み内容との絡みで」観察された、また、それと並行して[アイク系の本を出している大手を含む出版社ら]よりの[トンデモ本化]でもしたいのかといったかたちでの代替出版が提案されていた)―― 。

 以上のことに言及したうえで加えて書き記しておくが

[[大事なもの]が奪われた人間らには絶対に「出来ぬ」と見立てるに至った指し示し ――批判的視座にてでもの精査検討を請いたいとの確たる論拠に依拠しての指し示し―― ]

に「遺漏なくも」努めている(意あるところとしてそうしたものとしてしたためている)との本稿にあっては、

[デヴィッド・アイクの言論展開(の「舞台裏」)を巡るあれやこれや]

など本来的には

[取り上げるに値せぬもの]

であるとの認識、そうした認識を抱くに至るまでに突き抜けたとの人間なりの逡巡もあったのだが、かつて自身のデヴィッド・アイク説に関する拙き分析を記していたとの自著にまつわるなせされようのことを顧慮しつつも「本稿にて」展開している言論を守るべくも次のこと、「さらに」言及しておくこととする。


 筆者はデヴィッド・アイクの主張「をも」細かくも分析なしての書を特定出版社(だけ)に渡しており、の折、2009年に遡る折に相応の者達に非常に望ましくはないとのやりようをなされたとのことがある人間となること、 ―委細を省きつつ― 直近にて述べた(:[民法上の問題]としては時間・労力配分を拘束しての中での100万ほどでの債務不履行の可能性ありということで法律問題にはできるのではとのことであったが(弁護士は「腹を立てずにその程度が妥当であろう」と述べていたのだが)流石に大人気ないとのことで法的問題化などは差し控えた)。

 そのようなデヴィッド・アイク説に対する分析をなしてもいた自著を巡る事前経緯があったことについて(「敢えても」委細触れずではあるも)言及なしたうえで強調しておくが、筆者はデヴィッド・アイク本の紹介に携わっている者らと ―彼らのやりよう(あるいは[やらされよう]か)についてはよく知っているが― 「なんら関係がない」との人間である。

 だがしかし、
「他者目分量の問題として」
同じくものことにまつわって誤解を抱かせる素地あることが「際立って」具現化しているとのことをこれまでに観察することになってしまったとのことがあるので、についての多少微に入っての表記をなしておく。

 たとえば、 ――これよりが殊更に自身の言論を守るために書くことだが―― 筆者が重要なことを訴求するために設けたサイト、出版頓挫した自著を半ば拙きPDF版に焼き直して公開することにしたもの「でも」あるサイトがサーバー領域で「どういうわけか」まさにここまで言及なしたとのまさしくもの流れに関わる大手出版社 (筆者著作の出版にお呼びではないところを合いの手を入れてきた向きによってそこよりの出版が推されていたとの大手出版社) に出入りしている向き、ユダヤ系陰謀論を展開しているとの向きの宣伝サイトと筆者自身の関知できないところで隣り合うことになさしめられているとの状況が出来(しゅったい)し、その対処(逆引きドメインIP情報の録画までもしている)に思案を巡らせつつ怒りを覚えたとのことまでもが「ある」 (そちら「も」弁護士に資料を渡しているようなことでもある。というのも[同じくもの関係出版社の一つ]に関わるところとしてそうした偶然が起こる可能性は普通では考えがたいことであるとの認識「も」当然にあったからである)

 それにつき、ただもってそういうことがあったと断るだけでは
[ある程度情報技術に通じ情報収集力が高いとの人間]
などがさも抱こうとの人間関係の誤解を払拭できはしないことかとは思う(それだけ異常異様なることがサーバー領域で具現化している)。
 だから、ありうべき誤解を可及的に避けるためにさらに次のこと、申し述べもしておく(いざとなれば自身の訴求せんとしていること、世に知らしめんとしている[真実]のために全力を投じて不条理に抗うつもりだが、現時点では[詰まらぬこと]で法律問題にしたくないとの観点から(法的観点で)「抑えめ」の具体例呈示をなしておく)。


2009年に筆者は(ここでは敢えて名を伏せるが)著名なる洋著らの邦訳版の版元でもある堅めの某出版社(こちらは大手ではない)に自身の原稿 ――以降の自身の訴求活動の前哨とすべく、そして、[データーに基づいての人間の歴史の虚偽性の訴求をなすべくも著した拙著『人類と操作』の原稿―― を渡していた。そちら著作『人類と操作』の出版の過程で不快な状況を見、「99.99(略)パーセント当社から出版します」と述べられていた状況が頓挫に向かい(前述の通りである)、後、俗悪な書籍ばかりを出していると見ていた大手出版社にての(陰謀論本としてか)代替出版を出版社出入りの向きに薦められて、名も利もいまやどうでもいい、ただひたすらに[真]にのみ生きようと決していた筆者はそうもした提案を固辞した(その過程も最後の方は非通知ではなくにもの「告知」録音に努めていた)。
 といったプロセスを経て著作『人類と操作』をオンライン公開することにしたのだが、そちらサイトに関しては「2011年に遡っての」サイトヴィデオ録画記録映像を ――偏執狂的ともとられようが、相応の行為・やりようの表出を受けてのこととして―― 遺してきたとのことがあり、そうして記録遺しているところ(現行、「どういうわけなのか」検索エンジンにも表示されにくくなっていると見ているところの自サイト)にては

「デヴィッド・アイク説、爬虫類との特性を有する知的存在が人類史に介在しているとの説については日本にての宗教のありようと接合性が観念されるところである。日本にての神道、その神なるものの領域に飾られる注連縄(しめなわ)が交差する蛇に由来するとされてきたことや、また、同じくも神道、そちら体系を受けて神棚にて飾られる[鏡]カガミにあってのカガとの言葉の由来が(とぐろを巻く鏡餅「カガ」ミモチの名称にもその片鱗が見出せるとの式にて)[蛇カガ]にあるとされることとの兼ね合いで相応のにおいを感じさせる」

といった趣旨のことをも ―微細なることをくだくだと述べていると思われるかもしれないが― 書き記しもしていたとのことがある(:ちなみに、筆者は自身のやろうとしていることを無為に変ぜんとするといった悪質な剽窃その他の行為に曝される可能性、および、サイトそのものがそこにあるのにも関わらず視界内に存在しないものとなさしめるインターネット・センサーシップ(本来的には違法なる実質「非」表示化措置)のことをも考え、サイトの内容や映り具合を ――過去に遡ってその内容の変化を確認する手法もあるのだが、海外アーカイブに全幅の信頼が置けるか疑義があるとの観点から―― 全ページ日付け証跡付きの式で録画をしてきたとの人間となる.ために、自サイトの記述内容や細かき表示のなされようは2011年前期に遡って記載事項として日付け証跡付きで証明可能なことである)

 なにがしかの有用な作用を及ぼせたらば、世を(自身が属する)人間という種に望ましい方向に変えるうえでの[一石]を投じるようなものと出来ればと公開していた自身のウェブサイトにての「特定部」 ――そちらはサーチ・エンジンのセンサーシップ(非表示化)の危惧からの経年録画との兼ね合いで示せるところとして[爬虫類人にまつわる異説]関連のトピックスをそれなりに深く煮詰めんとした(つもりである)との特定ページでもある―― と
[酷似していること]
が最近になっ有為転変を見ているとのウィキペディアの特定項目(同ウィキペディアもギガバイト級のダンプファイルを筆者が定期的に取得している媒体であり,オフラインでもその記載内容の変化を確認できるようになっている媒体ともなっている)、[デイビッド・アイク]項目に後付けで掲載されるように[なった]のことを把握しているとのことがある。

 その点、延々、微少的なる(下らぬ)属人的あれやこれやについて書き記すようであるが、それ自体をもってしても本稿指し示しの主体としての筆者誠実性を推し量る材料としていただければ、との観点で引用なすところとして、2011年前半に遡る録画内容から日付け証跡の指し示しができるとの筆者サイト(『人類と操作』という自著作を公開し、そちらを敷衍しての申しようをなしもしている筆者サイト)申しようと内容と「極めて似たようなこと」が後付けで、だが、[先後関係]や[人間関係]につき誤解を抱かせるようなかたちで和文ウィキペディア ―最低限のIPは残るが、手順させ踏めばだれでも編集可能な媒体― に下のようなかたちで登場を見たとのことがある。

(直下、本稿執筆本段執筆時現時点にあっての現行にての和文ウィキペディア[デイビッド・アイク]項目 ――当初は一言のみの解説に毛が生えた程度のものであったところが記述ボリュームをここ最近になって徐々に増してきたとの項目―― の一部記載内容を原文引用するとして)

デーヴィッド・アイクの著書の翻訳家である為清勝彦は、レプティリアンを「蛇の神」と置き換えれば民俗学ではよくある話になる、と指摘している。また為清は、吉野裕子らの研究を挙げ、デーヴィッド・アイクのレプティリアン説を補強している。それによれば、日本の縄文時代には既に「蛇の神々」を崇拝する文化があり、その信仰は神社の注連縄(しめなわ)や神体である鏡(蛇身:かかみ)という形で残っている。かつての日本には様々な動物信仰が存在したが、その中でも蛇は「祖先神」「宇宙神」として破格の扱いを受けている。日本古代の祭は、巫女と蛇の混合がテーマであった可能性がある。縄文時代の土偶は非人間的で異様な姿を取っているが、それは「来訪者」の姿を模したものである可能性がある。

(「現行にての」記載内容よりの引用はここまでとしておく)

 上から見受けられるように日本のアイク関連の書籍の翻訳者の一人となっている人物につき、(誰でも編集がなせるが、IPは残るとの)ウィキペディアにて

「また為清は、吉野裕子らの研究を挙げ、デーヴィッド・アイクのレプティリアン説を補強している。それによれば、日本の縄文時代には既に「蛇の神々」を崇拝する文化があり、その信仰は神社の注連縄(しめなわ)や神体である鏡(蛇身:かかみ)という形で残っている」

との書かれようがなされているわけだが(少なくとも現行現在でのウィキペディア記載内容ではそうなっている)、そうした書きようは上にて紹介の筆者が自サイト、色々と不快なる状況に曝されてきたとの自サイトにてよりもって従前より

(再度繰り返すとして)
「爬虫類との特性を有する知的存在が人類史に介在しているとの異説があることについては日本にての神道、その神なるものの領域に飾られる注連縄(しめなわ)が交差する蛇に由来するとされることや、また、同じくも神道、そちら体系を受けて神棚にて飾られる鏡カガミにあってのカガとの言葉の由来が(とぐろを巻く鏡餅「カガ」ミモチにその片鱗が見出せるとの式にて)蛇にあるとされることとの兼ね合いで相応のにおいを感じさせる

との内容は
[際立っての類似性]
を感じさせるものである(:ちなみに訳書内容よりその識見の程は分かるとの為清氏なる人物が出典として挙げている吉野裕子氏の研究とのことについては同じくものサイトにて筆者が公開することとしたとの筆者著作、2009年に出版社に渡り、[相応の憂き目]をそのしばらく後より見ていた(と直上先述の)自著『人類と操作』でそういうものがあると紹介なしていた著作『蛇』、日本の祭りなどの習俗を陰陽思想などとのからみで紹介した著作をものしていることでも知られるし手前もその複数著作を読み解いているとの草莽の民俗学者、故・吉野裕子氏の手になる著作『蛇』(講談社学術文庫)に認められる研究のことを指しているのであろうと解される。そちら吉野裕子氏由来の資料については表記項目に見るアイク本の広め手たる為清氏なる人物「も」氏の名がアイク絡みで活字媒体として目に入るようになった2011年後半以降世に出たアイク書籍の邦訳版で言及しているところとなる)。

 以上のように類似性が認められるようになっている中であるからこそ断っておくが、上のウィキペディア表記に見る為清勝彦氏なる人物 (「2011年後半より」刊行されるに至ったアイクの HUMAN RACE GET OFF YOUR KNEES The Lion Sleeps No More『人類よ。ひざまずくのを止めよ。ライオンはもうこれ以上、眠らない』の邦訳本に対する翻訳で関与するようになった向き、少なくとも、その名でははじめて関与するようになったとのことが事実関係として把握できるとの向き) と際立って近しいものの書きようを(同人物に先行するところとして)なしている筆者の間には人的関係をはじめ「何の関係もない ――筆者としてはその為清勝彦氏と[実名]でやっているとの自身に関係があると他に思われたくない、まったくもって思われたくもないと考えている―― 」。

 そして、 ―これからが殊に強調なしたい(それだけの問題性認識がこの身にある)とのことなのだが― 同人物(為清氏なる人物)が筆名(ペンネーム)でか出入りしているとの新発の出版社、

[アイク系の書籍を出している大手出版社系の人脈に由来するところで(スピンアウトとの式で)設立されたとの新発の出版社]

筆者の間にもまた何の人的関係がない商業サーバー領域の尋常ならざるセッティングの問題に関わるところとして露骨に筆者と「彼ら」の間に関係があるように見せんとする力学が働いたと判じられるだけのことが具現化しているのではあるも、とにかくもって彼らと筆者の間には何の関係もない)。

 小さなこと、狭隘なることに延々こわだっていると良識人(を任ずる向き)にも見られようかと当然におもんぱかるところなのだが、については次のことが「ある」からこそもってしての訴求をなしている。


筆者は反ユダヤ主義 ―アンチ・セミティズム― の崇拝者などでは断じてない(筆者にも『アンネの日記』などを読して『これが人間の歴史の一断面か.』と思うぐらいの感性はあるし、反ユダヤ主義者の虚偽としての、そして、ある種、邪悪な全体主義 ―日本ではカルトがその体現者であろうとの人間を[物を考えぬ触手]とすることを是とするが如く思考体系― と紐付いての歴史的具現化具合についても研究してよく「識っ」ている)。 だが、何故なのか、筆者が自著の商業出版が頓挫した後にその拙きPDF版を公開しだしたサイトとサーバー上の同一IP領域 (筆者が関知できないところの商業レンタル・サーバー上の特定領域いくつものサイトが詰め込まれているサーバーでありながらも特定企業の特定サーバー上の同一IP領域にサイトが並立しているとのことはそれは膨大な数ある東京都内のオフィスビルの中の同じオフィスビルの同一階数の同一パーティションにあるといった程度の縁(えにし)に等しいし、インターネットの仕組みに多少なりとも通じている向きらには当然にそう見られるであろうところでもある) に反ユダヤ主義を標榜しているように見える大手出版社著作の宣伝サイト ―為清氏なる人物がアイク訳本を出しているところの新発の出版社の人脈の供給元となっている大手出版社(同出版社は筆者著作の出版における介入過程でもその名が出されたとの多くの人間が名前を識っている出版社でもある)にあっての同じくもの人脈に由来する著作にまつわっての宣伝サイト― が据え置かれ(どうしてかそういう商業サーバー領域でのセッティングがなされもし)、 かつ、そちらサイトのことが筆者サイトのことを検索すると ―サイトの冒頭一文字のアルファベット態様より― 一時期この身筆者のサイトと並立表示されてグーグル検索エンジンに表示されてきていたとのことが「ある」 (録画しているし、知人弁護士にも諮ったとの[事実]である)

 以上、[事実] ―この身、筆者をして、にまつわって「も」弁護士に迷わず相談なさしめる程に心底いからせしめたとの[事実]でもある― について解説したうえで書いておく(情報収集能力が世人よりは優れているとの向きに去来しうるとのありうべき誤解を避けるために書いておく)が、仮に筆者が[剽窃](盗作)をなす者であるとの[誤解]を受ければ、あるいはよりもって問題となるところとして[相応のやりよう]をなす紐帯(狭隘な反ユダヤ主義者に通底する物言いを商業的になしている者達)の関係者か何かかと受け取られれば
自身の言論およびそこにての重要なる指摘事項(他に同じくものことを同じくもの水準で摘示なさんとする人間が「いない」ために「遺憾ながらも」現行、というより、ここ数年間ずっと、非力なる手前自身と紐付いているとの言論および重要なる指摘事項)そのものに疵(きず)が付けられるうる
と判じての断り書きをここではなしている

 同じくもの筋合いの誤解がなされれば、 ――制約だらけだと筆者が見る人間存在というものに訴求事項それ自体を容れる・認容するだけの雅量(寛容さ)あるいは自由度があるかどうは置き―― [自身が訴求なさんとしていること](自身ではなく自身の言論それ自体)にもダメージがもたらされうる可能性があるかとの観点で以上、表記のことにまつわっての断り書きをなしているのである (:はきと述べ、筆者には[あれは小人(しょうじん)よ]と後ろ指を指されるような類が抱きがちなものであるせせこましい属人的名誉感情などに今は拘(こだわ)っている時ではないとの判断があるのだが(本稿にて訴求していることを理解出来る程度の水準があれば惑うことなく「最早時間等ありはしない.即時に愚劣に滅せられることになってもおかしくはない状況である」と納得いただけることかとは思う.といった中で筆者は自分自身の下らぬ生も間もなく終焉を迎えるとの覚悟でやっている)、ここではメリット・デメリットを秤にかけたうえで[あれ小人よ]との誤解を招きかねないことを敢えても言及することにしたとも申し述べておく)。

 また、さらにもって述べれば、直上・直近述べたような、

[ありうべき勘違いの問題]

からのダメージより[自身の言論および指摘事項]そのものを守るとの意図がある中でながら、逆に、為清氏なる特定の人物によって[剽窃] ―その行為をなすような人間が信用性との面で社会的に相応の評価を与えられかねない行為― がなされていると指摘しようとしているわけでもなければ、そうだと名指しで非難をなしているわけでもない(:読み手によっては意外と受け取られるかもしれないが、自身「の言論」の信用性に関わらなければ、この先、自身のやろうとしていることの障害になるようなことが「なければ」、障害になりえないとの判断があれば、筆者は第三者やりようにあってのそうした性質の有無に拘る人間ではない)。

 為清氏なる人物、ペンネームか否かは知らぬが、同人物にあっての
[法的名誉感情]
を「強くも」慮って申し述べることでもあるが、上にて言及した内容近似性にまつわってのこと、

[たかだかもの[注連縄](しめなわ)や[鏡]にまつわる蛇に通ずる類似性 ―せんだって言及しているところの筆者の先行するところの書きようとオーバーラップする類似性― ]

程度のことならば、一定以上の情報探査能力・思考能力さえあれば、難なくも思いつこうところか、とも思われるとのこともある(であるから筆者とはまた別側面から本名か筆名か存じないが、氏が筆者と同文のことにたまさか思い至り、そのことを口の端に出して述べ、その言い様を誰だかは知らないが、ウィキペディアに書き込んだ可能性はあるか、とも当然に思っている。このような世界にして社会にあって、そう、[何ら本当に重要なことが顧慮されるようなことがない(しそうしたことの顧慮および指摘を阻害するような力学が ―相応の「紛い物の綺麗事までは口にする」とのカルト団体成員などを介して― 強くも作用していると判じられる)との世界にして社会]にあってながら「も」である)。


 以上、述べたうえで[峻別なしていただきたきこと]について一転して書いておくが、個人特性 ――[個人特性]にまつわるあれやこれやなどを[問題でもないところ]にて重箱の隅をつつくように槍玉にあげるなどおよそまともな大人がやるようなことではない、[程度の低い者ら]がやる人身攻撃(陋劣な類がこととする人身攻撃がいかようなものなのかについては本稿の出典(Source)紹介の部17-2の記述を参照されたい)であると筆者は見立てている―― のことではなく、個人から離れての「不特定多数の」アイク説の国内ヴェンダー(供給者ら)やりようをなじるようなことを他のところで述べているとのこと「も」この身にはある。

 自身が把握を強いられることになったこととの兼ね合いで複数出版社・複数執筆者を総称しての「不特定の」アイク説 ―いわゆる爬虫類人介入操作説― の日本にてのヴェンダーら(供給者ら)全般となっている者達のやりよう(その品質につき先述なしたところのやりようでもある)につき「証跡を取りながら捕捉している諸所事情から」心中に深く深く含むところがあり、[不特定数のそれなりの数の人間が関わっての総称してのそのやりよう]を言葉きつくも責めるようなことを筆者サイトにて従前から書きもしていたのである ――[我々の種族(人類)を惑わすようなこと、[大なる虚でもって一部の真を埋めきるが如きこと]を「相応の」種別の一群の人間らが相応の式でやっている(やらされている)]との観点でもって、である―― 。
 そちらは当然に属人的批判とは無縁なるもの、大局をおもんぱかりつつもの慷慨(こうがい)を込めての訴求でもあったと断っておく (:尚、この世界では[大なる虚]が[一部の真]を全方位から圧倒的に陵駕し、それがゆえに、(真実に向き合いその背後にあることに抗い挑むことこそが人類に存続可能性が担保されている唯一無二の生存の途であるならば)、私こと筆者が属する種族たる人類の行く先は[可能]・[不可能]の問題として「たかだかも知れている」との心証をこの身からして強くも抱くに至っている、そう、[マス(大数)]としての情報・言論の流通度合いを望見しつつも[存続できない][存続を望めるところはほとんどない]との心証をこの身からして抱くに至っていること「も」繰り返しもしてここに書いておく ――[アイドル](という名の一頃は砂利タレと呼ばれていた芸事稼業の人間ら)や[醜悪なる権力](崇拝行為をなす者らの特質から権力それ自体およびそれにたかる手合いらの愚劣さが際立つとの北朝鮮の将軍のようなものでもいいし、同文のことが当てはまるところの醜悪なるカルトの教祖などでもいい)の元にひたすらに拝み奉るように蝟集(いしゅう)することはあってもおのが頭で考え、おのが言葉で語り、そして、真実に相対することは決してなさぬ、拒みきるといった筋合いの[虚ろな目をした者ら]で満ち満ちているとのこと、[種としてのくだらなさ]の問題がおもんぱかれるわけだが(にまつわって具体的なるところとして[大衆挙動]としての検索エンジンのクエリ分析 (情報を[大衆]というものがどれだけ積極的に自ら収集しようとしているのかとのことについてインターネット全体の動向として(検索エンジンに対する入力ワード連動型広告の単価見積もり手段としてサーチ・エンジン会社がプラットフォーム提供をなしているサービスを介して)把握できるようになっているとのそちらウェブ全般にあってのクエリ ―検索エンジンに対する入力ワード― 分析) からも[そうしたこと]、真実に相対することは決してなさぬ、拒みきるといった筋合いの[虚ろな目をした者ら]の全体としての動向が如実に推し量れるようになっている)、  だが、であったとしても、そう、自身の属する種族が現状改変可能性を微々たるものとしても[兆候]として伴わぬとのいかに下らぬもの、下らぬ状況に甘んじているものであるかについて精査なさんとしてきて「よく知るに至ってしまっている」とのことがあっても、『死ねば無に帰すだけとの命を賭けて[真実に対する[認容度合い]について[確認]したい(生ある限りは可能性を見極めたい)、そして、出来れば、(自己犠牲の美化思潮・ヒロイズムの類は大概にして胡散臭くて嫌いなのだが)、虚偽世界の改変、現代のお伽噺であろうとのサブ・カルチャーにあってのご都合主義的展開などとは一線を画しての[現実的変化]をきたすことの一助となれれば.』とこの身は考えてもいる (自身、下らぬものが圧倒的多数を占める中でそうした[およそ不可能なること]に死命を賭すことは実に愚かであるとも考えているのだが、『「ださい」(あるいはより悪くも「馬鹿だろう」)と見られてもそれ以外に歩む途はなかろう』と見つつ[決死]の覚悟を定めているのである)―― )。

(「本筋から離れてのこと」、だが、「自身の言論を守るために付す必要があるかと判じてのこと」の付記の部はここまでとしておく)

(尚、再言しておくが、デヴィッド・アイク本人のLHCにまつわっての問題ある物言い]に伴う虚偽性(欺瞞性の最たるところであると筆者が見立てている側面については本稿の後の段でかなり細やかなる解説をなす所存である)

(直近までの補足、本稿の本筋をなすことから引き比べて見もすれば、「非本質的」といったことを交えての補足に過分に筆を割いてしまったきらいがあるが、話を引き戻すとし)

 先にデーヴィッド・アイクの書籍『チルドレン・オブ・マトリックス』にみとめられる特性として

(デーヴィッド・アイクが爬虫類人の介入説を唱道するうえで引き合いに出しているとの)[アトランティスに対する蛇の異種族の侵略]をテーマとしているとの神秘家由来の文書はそれに僅かばかり先立って世に出ていたパルプ雑誌掲載の小説に文言込みで倣っている節が如実にあるとのものである]

とのことを解説した。

 につき、

『[戦前期アメリカに遡る神秘家由来のインチキ臭が鼻につくとのやりよう](モーリス・ドリールの碑文の捏造性)を喝破するなど愚にもつかぬことに注力している』

とそこからして思われた向きもおられるかもしれないが、神秘家なる人種たるモーリス・ドリールの申しようをわざわざもって引き合いに出した目的は[下らぬものの実態の喝破]をなすとのことにはない

 たかだかものそのような[アナロジー](analogy)の問題からして我々人類の今後の問題、我々人類の種族としての脳髄を狙う銃座の問題に関わるとの認識があるがゆえにわざわざもって同じくもの神秘家(モーリス・ドリール)やりようのことを取り上げたのである。

 その点、先にも呈示した際立っての各要素ら、

との各要素を核とするとの関係性から、たかだかもの上記のようなこと「とても」が我々の今後に関わるとの指し示しが「なせてしまう」(個人的にはそのようなことが本当ではあってはほしくはないのだが、残念ながら、知性ある大人であるのならばそうであると納得しようとの[偶然を棄却する方向]での指し示しが「なせてしまう」)がための問題視をなしている。

 以上のように述べもするところに関わるところとして[文献的事実]の問題として ―くどくどとした同様のことの言及に辟易としもするとの方もおられるかもしれないが― 次のことら、α.からγ.のことらを「まずもって」示してきたのが本稿である。


α[カシミール効果]検証実験(1948実施の実験)のことを露骨に想起させる独特なる行為によって宇宙開闢の実現が図られるとの小説『フェッセンデンの宇宙』(初出1937年の小説作品)ではその作中、誕生した宇宙で[爬虫類の種族]が人間そっくりの種族を「皆殺し」にするとの描写がなされている(介入者たる科学者によって繋がれた相互惑星の間の戦争にまつわるところでそうもした描写がなされている)。 さて、先覚性 ――初出1937年の作品のそれでありながら1948年のエポックメイキングな実験([カシミール効果]検証実験)の内容をなぞるが如くの先覚性―― を有した『フェッセンデンの宇宙』(に見る[悲劇の宇宙]の開闢手法)と同様の手法で現実世界で検証されることになった[カシミール効果]が同文に現実世界にてその存在を指し示すことになったとの[負のエネルギー]というものに関しては[ワームホールを安定化させうるもの]とも80年代後半より考えられるに至っているとのことがある(出典(Source)紹介の部24にて指し示しにつとめているところとして「物理学者キップ・ソーンによって加速器実験とは何ら関係ないところでそれ絡みの科学仮説が呈示なされての」1980年代後半のこととしてである)。 他面、(人為的に繋がれた惑星の間での戦争を通じての爬虫類に似た種族による人類に似た種族に対する皆殺し挙動が描かれるとの)小説作品『フェッセンデンの宇宙』と同様に[宇宙の開闢状況]を再現する、すなわち、宇宙開闢時(ビッグバン時)のエネルギー状況を極小スケールで再現すると銘打たれながら後に執り行われるに至っている加速器実験に関しては[(『フェッセンデンの宇宙』と同様の手法で検証された)[カシミール効果]に見る[負のエネルギー]でこそそれが安定すると80年代後半に考えられるに至ったものたるワームホール]をそちら加速器実験が生成しうるとの観点が「ここ最近になって」(プランクエネルギーとの高エネルギーを用いなくとも加速器実験にてワームホ-ル生成なしうるとの観点が「ここ10数年で」)呈されるようになったとのことがある(出典(Source)紹介の部18出典(Source)紹介の部21-2らを通じて専門の科学者の手になる書籍に見る科学界の主たる理論発展動向に関して解説しているとおりである)。

β上のαでフィクション『フェッセンデンの宇宙』と現実の[加速器実験]を ――[宇宙の開闢状況の再現の企図]といった共通事項に加えて―― 結びつける要素となるのが、
[[カシミール効果による負のエネルギーの検証]と密接な関係にある「通過可能な」ワームホール]
となるのではあるが、そちら通過可能なワームホールのことをテーマとして扱っているのがキップ・ソーン著書『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』という著作となる。同著に関しては[911の事前言及][他界との扉]との観点で爬虫類の異種族による次元間侵略を描いた映画、『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』という[上階に風穴が開き、片方が倒壊していくツインタワー]のワンカット描写を含む映画]と記号論的につながる素地がある(:その理由は事細かに先の段にて述べている。(羅列しての表記をなせば)出典(Source)紹介の部28出典(Source)紹介の部28-2出典(Source)紹介の部28-3出典(Source)紹介の部29出典(Source)紹介の部31出典(Source)紹介の部31-2出典(Source)紹介の部32出典(Source)紹介の部32-2出典(Source)紹介の部33出典(Source)紹介の部33-2によって物理学者キップ・ソーンの手になる『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』という書籍がいかようにして双子のパラドックス(1911年提唱)の機序の利用による二点間時差の応用91101(2001年9月11日を意味する数)との郵便番号ではじまる地を始点に置いてのタイムワープにまつわる解説や同じくもの地で疾走させた爆竹付き自動車にまつわる思考実験による[双子のパラドックス]にまつわる説明の付与2000年9月11日⇒2001年9月11日と通ずる日付け表記の使用他の関連書籍を介しての「ブラックホール⇔グラウンド・ゼロ」との対応図式の介在といった複合的要素を[僅か一例としての思考実験]にまつわるところで同時に具現化させ、もって、[双子の塔が崩された911の事件]の前言と解されることをなしているのか、について(筆者の主観など問題にならぬ客観情報にまつわるところとして)摘示している。他面、『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』という書籍にて[多重的に911と結びつくようにされている双子のパラドックスにまつわる思考実験]が[通過可能なワームホール](他空間の間をつなぐ宇宙に開いた穴)にまつわるものとなっているとのことがある一方で1993年の荒唐無稽映画 Super Mario Bros.(邦題)『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』がツインタワーが異次元の恐竜帝国の首府と融合するとの粗筋の映画であることについては出典(Source)紹介の部27を、そして、同映画がツインタワーに対するジェット機突入前のことであるにも関わらず上階に風穴が開き、片方が倒壊していくツインタワーをワンカット描写している映画であることについてはオンライン上に流通している記録動画群 ―― Super Mario Bros., 1993, 911といったクエリで検索エンジン走らせればすぐに特定できようとの動画群―― などを通じて確認されたい)。

γ上のα.β.は異様なる先覚性がみとめられるところで[[爬虫類の似姿をとる異種族の侵略]と[加速器実験の結果たるワームホール]との接合]が見てとれることを示すものであるが(問題はそのようなことがあるのが「偶然の一致」で済むか否か、である)、[[加速器と同様のもの]と[爬虫類の異種族の侵出]を結びつけて描く作品]は他にも存在している。先に言及したブルース・スターリングの『スキズマトリックス』との作品、ローンチ・リング(加速器と同様の機序を有する装置)での死闘の最中に爬虫類の異種族の来訪を見るとの同作が該当文物となる(委細については先の解説部を参照されたい。出典(Source)紹介の部26から出典(Source)紹介の部26-3との出典解説部を設けながらなしてきた本稿にての従前の段がその部に該当する)。

(尚、上にα.からγ.と振って再言及しているところの関係性に加え、[加速器とブラックホール特質を繋げての同時言及(「異様なる先覚性を伴っての」同時言及)][爬虫類の種族による人間種族への侵略]との要素をあわせて具備しているとの作品が一九五〇年代初頭より Philological Truth[文献的事実]の問題として具現化しているとのこと「も」がある、その点についても本稿の後の段では解説する所存である ――当該文物原著よりの事細かな原文引用をなしながら The Sword of Rhiannon(邦題は『リアノンの魔剣』)という作品のその伝で問題になる特性について詳説を講ずる所存である―― )


(出典となるところを参照することでそれらが事実であるとのこと、理解できようもしようαからγの関係性に関わるところの図として)





 以上、α.からγ.の間に成立している関係性はそこに異様なる先覚性が介在しているがために
[常識的な意味で際立っての説明困難性を伴っている]
と解されるとのものである(少なくともそれだけの関係性を理解出来るだけの脳の自由度を伴っているとの世間人並みの状況認識能力 ――[神]なるものに由来する[内面に響き渡る声]を聞いてそれを容れている節があり、ときに愚劣極まりない自殺テロをなしたり、処女懐胎を信じたフリをなしたりといった宗教の徒輩などはそれすら「欠」のありようを呈している節があるから問題なのだが、とにかくもの世間人並みの状況認識能力―― を有していれば、[常識的な意味で際立っての説明困難性を伴っている]と易々と解されるとのものである)

 すなわち、

・『フェッセンデンの宇宙』(1937)がものされた折、まだ、カシミール効果の観測(1948)は具現化しておらず、似たような特性が伝播関係で描写されることに通ずる共通の知識基盤などそこに観念できなかった。にも関わらず、『フェッセンデンの宇宙』と[カシミール効果観測のありよう](マイナスのエネルギーと主流科学者らに呼びならわされるものの発見のありよう)の間にあっては際立っての近似性(本稿先立っての頁で詳説を試みているところの[向かい合わせた二枚の金属プレートの間にて反重力作用を具現化させる]との意での近似している特性)が具現化を見ており、のみならず、 ―今日的な視点を加味してのみそのありようをはじめて指摘できるとの― 加速器実験を介しての接合性「も」がそこに観念されるところとなっている。 すなわち、
小説『フェッセンデンの宇宙』にて企図される宇宙開闢の状況の再現とは加速器実験のビッグバンの状況の再現とかさなって見えるところとなっている] ⇒ [『フェッセンデンの宇宙』にあっての宇宙(人間の惑星と爬虫類人の惑星が繋げられ絶滅戦争が繰り広げられるとの悲劇の宇宙でもある)の開闢方式は[マイナスのエネルギー]の発見につながったカシミール効果発見実験ありよう(二枚の金属プレートの間にて斥力作用(しりぞけあう作用)を発現させるとの手法)と類似しているものであるとのことがある] ⇒ [カシミール効果観測によってその存在がはじめて実験的事実として裏付けられた[斥力を呈するマイナスのエネルギー]は80年代後半より物理学者キップ・ソーンの思索によって[通過可能なワームホール]を実現するためのエキゾチック・マターの特性と強調されるに至ったところのものである] ⇒ [[ワームホール]についてはここ10数年にてLHCのような大規模加速器にてそれが構築されうる可能性があると考えられるようになった] ⇒ [加速器実験と『フェッセンデンの宇宙』の宇宙開闢試行挙動とを介しての接続性がみとめられる(回帰)
とのパスが記号論的に炙り出せるようになっている。

・[911の事件が起こることを先覚的に言及しているような文物]としての特性を有したものが関わってきているとのことがある、それがゆえにもってしても異常性が際立っている。

との観点から常識的な意味での際立っての説明困難性が伴っている(時期的、そして、内容的に科学理論の発展動向では説明がつきがたいものである)。であるから、それ単体だけで見たらば、[エキセントリックな話]とだけで済ませられかねないことも然にあらずとも先に述べている。

 そして、話はそれだけで済まされない。直近呈示のα.よりγ.のことらの間には「他の」多数の事柄とも接合する共通の[梁となる事柄ら]が介在しているとのことがあり、それらが

「アトラス」
「アトランティス」
「ヘラクレス」
「トロイア」

との要素となっているとのことが「ある」のである。

 上記各要素を媒介項にしての多重的[密結合関係]がはきと証示できて「しまう」ため ――数学的証明のように厳密な式で「証明して」指し「示せる」ため―― 、

「常識的に[偶然]の可能性が否定されようとの特性(およそ自然にはありえない密結合度合いがゆえに[偶然]の可能性が否定されようとのもの)、すなわち、
[恣意性(もっと言えば執拗性)帯びての特性]
のことが首をもたげてくる。
 そして、露骨に透けて見える[恣意]的やりようが[我々全員を殺すという意思・意図を濃密に体現している]との場合にて抗わぬというのならば、人という生き物は重要・重大なことに何にも抗えぬとのことになる」

と述べざるをえぬとのことが[問題]になってくる(そのような性質を見出すことが果たして妥当か否かをひたすらに具体的根拠に基づき突き詰めるというのが本稿の趣旨である)。

 以上述べたうえで、

[1939年初出の出版物に見る神秘家申しようが[アトランティスが蛇の種族に「次元間侵略」された]とのものであったこと]

との話に回帰しもさせて述べるが、 ――そうした神秘家申しようが1929年初出のパルプ雑誌掲載小説の内容を受けていたもの(相応の史的贋造物 archaeological forgery)であったとしても―― 同じくものこととの兼ね合いで「問題となる」ことについて、次いで、幾点かの指摘をなしていくこととする ――以降の論証への橋渡しとして「問題となる」この指し示しを幾点かなすこととする―― 。

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直下、本稿冒頭部へのリンクを設けておく

(⇒冒頭頁へは下の部より)

[典拠紹介部第1頁 加速器実験に伴う欺瞞性から証示なせることについて]

 上にて挙げているのはドイツ浪漫主義芸術の巨匠たる18世紀画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Freemasonでもあったとの画家 Caspar David Friedrich)の手になる一品、

Der Wanderer uber dem Nebelmeer雲海の上の旅人』(に多少の[動き]をアレンジとして加えたもの)

となる。

 言われようの問題として一般に、

[人間の崇高なる精神が高みを目指し、ついぞ多くの物事を達観するに至った時、その折の孤独と感慨を描いた画]

などと形容される上掲の『雲海の上の旅人』に関して(本稿でもその言行を順次・段階的に取り上げることになるとの)物理学者リサ・ランドールは[次のような申しよう]をなしている。


(直下、物理学者リサ・ランドールの手になる著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)にての CHAPTER THREE LIVING IN A MATERIAL WORLD[第三章 物質世界に生きる]の章の記述内容 ――オンライン上検索エンジンにあっての原文検索にて該当部特定できるところの記述内容―― よりの原文引用をなすとして)

Our universe is in many respects sublime. It prompts wonder but can be daunting ―even frightening― in its complexity.  Nonetheless, the components fit together in marvelous ways. Art,science, and religion all aim to channel people’s curiosity and enlighten us by pushing the frontiers of our understanding. They promise, in their different ways, to help transcend the narrow confines of individual experience and allow us to enter into―and comprehend―the realm of the sublime. (See Figure 11.)
          [ . . . ]
[ FIGURE 11 ] Caspar David Friedrich’s Wanderer Above the Sea of Fog (1818), an iconic painting of the sublime ― a recurring theme in art and music.

(上の原著引用部に対する[訳文]として国内流通訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版にあっての81ページに記載されているところを引くとして)

多くの点で、私たちの宇宙は崇高だ。その複雑さは好奇心を駆り立てはするが、無力感も抱かせるし、ことによっては恐怖さえも感じさせる。にもかかわらず、宇宙の構成要素は素晴らしくぴたりと絡みあっている。芸術、科学、宗教は、いずれも人々の好奇心を促して、理解の限界を広げさせ、それによって私たちを啓蒙することを目指している。いずれもそれぞれのやり方で、個人の経験の狭い領域を越えさせることを約束している。それがかなえられたとき、私たちは崇高なものの領域に踏み込む――そして理解する――ことができるのだ(図11を参照)。 …(中略)… [図11]ドイツの画家カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ。崇高さは、美術と音楽に繰り返し登場するテーマである

(以上をもって Knocking on Heaven’s Doorにての原著表記および訳書よりの引用とした)


 さて、何故、ここ脇に逸れての部にあって「目立つように」特定絵画 ― 『雲海の上の旅人』― を挙げ、その絵画に対する物理学者の評しよう ―「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ....― などを引いたりもしたのか

「それは、」
絵画『雲海の上の旅人』に対して直上引用なしたような評しようをなしているとの物理学者リサ・ランドールが

加速器によるブラックホール生成可能性にまつわるトピックの理論深化に一廉ならぬ貢献をなしているとの著名物理学者

[[崇高なるもの]を目指しての宇宙の探求(およびそのための装置と銘打たれている巨大加速器LHC)の称揚・礼讃をなしているとの向き

であるとのことがあり、また、なおかつ、彼女リサ・ランドールの手による、(絵画『雲海の上の旅人』を科学者が目指しての[崇高さ]とを結びつけている)引用元著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)が

人間のありよう(崇高さとはおよそ程遠いところにあるありよう)]
人間の辿る運命

を嘲笑うような[嗜虐的寓意]で満ち満ちていると申し述べられるようになっている著作であるとのことがある、遺憾ながら
[理の当然]
として申し述べられるところとしてある ――個人のせせこましい偏頗(へんぱ)な主観などとは一線を画したところで客観的かつ具体的にこれはこうでこうだと申し述べられるようになっている(出典呈示を第一義にしての本稿では無論、その論拠を事細かに挙げる)とのところとしてある―― からであり、そのことに注意を向けたかったからである(※)。

(※上にて引用元とした著作、 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)、同著にあってはその冒頭部より
September 10, 2008, marked the historic first trial run of the Large Hadron Collider (LHC). Although the name―Large Hadron Collider― is literal but uninspired, the same is not true for the science we expect it to achieve, which should prove spectacular. (表記英文引用部に対する訳として)「2008年9月10日、ラージ・ハドロン・コライダー(LHC)が歴史的始動を見た.[ラージ・ハドロン・コライダー]との名称は有り体に言ってインスピレーションを何ら与えぬとの平凡なものだが、私たちがそれ(LHC)に[証明すべきととらえている壮大なる挙]を託しているとの意では[科学(の進歩)]にとり同じくものことは真実とはならない(LHCは際立ってのインスピレーションを与えるものである)」
などとのことが書き記されている。
 そうもした書きようが目立ってもの冒頭部にてみとめられる著作ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアにおける表題、 [天国のドアをノックする]の由来についてリサ・ランドール女史は同じくもの著作の中で次のようなことを述べてもしている。
(以下、 Knocking on Heaven’s Doorにての CHAPTER FOUR LOOKING FOR ANSWERSより引用なすところとして)
I first heard the phrase “knockin”on heaven’s door”when listening to the Bob Dylan song at his 1987 concert with the Grateful Dead in Oakland, California. Needless to say, the title of my book is intended differently than the song’s lyrics, which I still hear Dylan and Jerry Garcia singing in my head. The phrase differs from its biblical origin as well, though my title does toy with this interpretation. In Matthew, the Bible says, “Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find; knock, and it shall be opened unto you: For every one that asketh receiveth; and he that seeketh findeth; and to him that knocketh it shall be opened. (以上原著表記に対して訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版[第四章]103ページにての表記を引くとして) Knocking on Heaven’s Door(天の扉を叩く)]――これが本書の原題だが、私が最初にこのフレーズを聞いたのは、一九八七年、カリフォルニア州オークランドでのグレイトフル・デッドとのコンサートで、ボブ・ディランが『天国への扉』を歌うのを聞いたときだった。いまでも私の頭の中ではディランとジェリー・ガルシアがこれを歌っているのが聞こえてくるけれど、いうまでもなく、私の本のタイトルは、この曲の歌詞とは意味が違っている。このフレーズは出典である聖書の一節とも違っているが、私のタイトルはこちらの意図を拝借したものだ。聖書の「マタイ伝」には、このように書かれている。「求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり
(以上、引用部とした)
 といったところ、新約聖書のマタイ伝にあっての
[求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり]
とのフレーズ、それが
[天国の門]・[天国への扉]・[天国への階梯](ステアウェイ・トゥ・ヘブン)
との兼ね合いでいかように嗜虐的なる別側面での意味( Double Meaning )と共にあるのか、そのことからして具体的典拠を挙げ連ねるとの式で遺漏無くも事細かに示そうというのが本稿の本義であるとここ脇に逸れての部にあって訴求しておきたいとの意図が筆者にはある)

ここ本頁内にて[参照先]として挙げている【「容易に後追い確認なる」「堅い」ソースを呈示しての出典紹介部ら】、それら一部への[遷移経路]を設けておく (:クリックすることでブラウザ ―インターネット閲覧ソフト― の[別タブ(別枠)]にて典拠紹介部を表示( open "additional" tabbed window(s) of web browsers ))

[出典(Source)紹介の部25](異様なる先覚性を帯び、また、[通過可能なワームホール](というもの)にまつわっての後の科学考察「にも」関わるとの1937年フィクションにて[爬虫類の種族]による[人間に似た種族]への絶滅戦争の完遂が描かれていることを呈示しての出典紹介部25)
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第21頁 フェッセンデンの宇宙とカシミール効果

[出典(Source)紹介の部28-3](爬虫類たる亀にいざなわれて「竜の宮」たる龍宮に辿り着くとの浦島伝承が何故もって双子のパラドックスという現象と密接に結びつくのかについての解説をなしているところの出典紹介部28-3)
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第23頁 双子のパラドックスと浦島伝承、そして、タイムマシン理論

[出典(Source)紹介の部29](爬虫類たる亀にいざなわれて「竜の宮」たる龍宮に辿り着くとの浦島伝承が欧州ケルトの特定伝承と「伝承の伝播関係など想起し難いところで」不可解に酷似しているとのことについて文献的論拠を挙げているとの出典紹介部29以降の部)
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第24頁 浦島伝承とOisin伝承の相関関係について