[黄金の林檎]と[エデンの誘惑]の多重的関係性について[2]
先立っての直前頁では次の通りのことを述べた。
ヘラクレス11番目の功業に登場する[黄金の林檎]については
「黄金の林檎は
「聖書『創世記』に見る[エデンの蛇による誘惑の物語]とも ――「トロイア崩壊に至るまでのエピソードを媒介項にする」とのかたちで―― 多重的に関わっている」
と「記号論的に」摘示可能なものとなっている」
とのことがある。
また、さらに一歩進んで、
「黄金の林檎が聖書『創世記』に見る[エデンの蛇による誘惑の物語]とも ――「トロイア崩壊に至るまでのエピソードを媒介項にする」とのかたちで―― 多重的に関わっていると「記号論的に」摘示可能なものとなっているとのことが
[ブラックホール生成問題]
と「あまりにもできすぎた」方向性にてつながるようになっている」
とのこと「も」がある。
これ以降は同じくものことら、
[[ヘラクレスの11番目の功業に登場する黄金の林檎]が[エデンの園の蛇の誘惑]に関わる]
[[ヘラクレスの11番目の功業に登場する黄金の林檎]が[エデンの園の蛇の誘惑]に関わるとのことからしてブラックホール生成問題と結びつくようになっているとのことが ――実にもって問題となる文献的記録らを通じて―― 指摘できるようになっている]
とのことらが ―いかほどまでに響きが奇態なるものであっても―
[個人の主観より生じ、また、そこに留まって然るべきと看做されよう印象論上の話]
などではまったくもってなく、「はきと客観的に指し示せるものとなっている」ことを証示すべくもの細かくもの指し示しをなしていく。
上にて振り返りもしてのこと、その証示に向けて直前頁ではさらに次の式での話を[取っ掛かり]としてなしもしていた。
ここまで述べてきたとのことら、すなわち、
[[ギリシャ神話体系にあっての美の女神アフロディテ⇒金星の象徴存在]との流れが存在している](出典(Source)紹介の部48にて解説)
および
[[金星の象徴存在⇒ルシファー]という語句とのつながりが存在している](出典(Source)紹介の部49にて解説)
とのことらを念頭にしての置き換えをなせば、である。[トロイア戦争の原因たる黄金の林檎]をどの女神に分け与えるかの審判、[パリスの審判] のフロー(流れ)については、
[美人コンテストの勝者の証、トロフィーとしての[黄金の林檎]の獲得者の選別のための審判役としてのパリスの動員] → [美人コンテスト参加者ら女神らによるパリスに対する賄賂の提案] → [美の女神たるアフロディテの賄賂の条件(絶世の美女ヘレンとの縁の取り持ち)をパリスが受け入れる] → [パリスによるヘレンの取得(黄金の林檎をパリスより受け取ってのアフロディテの勝利)] → [ヘレンをパリスに奪い取られた夫の檄文にギリシャ諸侯が参じての(パリスが皇子となっていたところの)トロイアの滅亡に向けての戦争の開始]
から
[美人コンテストの勝者の証、トロフィーとしての[黄金の林檎]の獲得者の選別のための審判役としてのパリスの動員] → [美人コンテスト参加者ら女神らによるパリスに対する賄賂の提案] → [美の女神たるアフロディテの賄賂の条件(絶世の美女ヘレンとの縁の取り持ち)をパリスが受け入れる;[ルシファーと同様の金星の体現存在]による美女を用いての誘惑にパリスが屈する] → [[ルシファーと同様の金星の体現存在](アフロディテ)による林檎の取得] → [ヘレンをパリスに奪い取られた夫の檄文にギリシャ諸侯が参じての(パリスが皇子となっていたところの)トロイアの滅亡に向けての戦争の開始]
とのフローにも変換できるとも述べられる(純・記号論的な意味での変換とのことで、である)。
無論、だが、話がそれに留めるだけならば、[金星の象徴化存在]という共通項だけでもってして牽強付会にも(こじつけがましくも)、
[ルシファー⇔(変換)⇔アフロディテ]
との変換を無理矢理なしていると受け取られるところであろう(当然であろう)。
であるから、変換(言葉遊び)を無理矢理なしているとの言い様では済まないとのことをこれより指摘する。
ここ本頁では表記の流れを受けて
[黄金の林檎⇔(記号論的相関関係の存在)⇔エデンの誘惑]
とのことをより煮詰めるべくもの摘示をなしていくこととする。
さて、
[パリスの審判に伴っていた誘惑]
および
[エデンの園にての誘惑]
の間に横たわる接合性の問題は以下、1.から3.と振っての式で細かくも指し示せるようになっている。
まずもって書くが、[パリスの審判]および[エデンの誘惑]の間にあっては
[単純な記号論的接合性]
が認められる。
につき、「パリスの審判でも」「エデンの園でも」女という性を用いての誘惑がなされている(:前者[パリスの審判]ではアフロディテがパリスをヘレンの取得を対価にし、女という性を用いての誘惑の挙に出ている。後者[エデンの園]では蛇がまずもって女イヴから誘惑をなし、そのイヴ(エバ)がアダムの知恵の樹の飲食をなさしめている)。
また、「パリスの審判でも」「エデンの園でも」林檎という果実が[誘惑上の重要モチーフ]となっていると述べられる。その点、前者[パリスの審判]では[黄金の林檎を巡る争い]こそがトロイアの崩壊をもたらしたものとなり、そもそももって、林檎こそが[女神アフロディテがパリスに対する女ヘレン ――男にとり破滅の元となる女、ファム・ファタール( femme fatale )などと類型化されるような部類の女ヘレン―― を具にしての誘惑をなした理由]となっているとのことがある。 他面、後者[エデンの園]では誘惑の具となった[知恵の樹の実]がその実、[林檎]であったとの解釈が根強くもなされている(直下出典を挙げる)とのことがある ――林檎が[目的]か[手段]かの差分は存在するが、林檎が[やりとりの中心]にあったことに変わりはない―― 。
ここ出典(Source)紹介の部50にあっては
[[禁断の果実]が(聖書本文にはそうは記載されていないところながら)[林檎]であるとされてきた]
とのことの典拠を挙げることとする。
その点、まずもって目につきやすきところからはじめるとして和文ウィキペディア[知恵の樹]項目にては以下のごとき書かれようが現行なされている。
(直下、和文ウィキペディア[知恵の樹]項目にての現行記載内容よりの引用するところとして)
「この知恵の樹の実は俗にリンゴのことであるとされるが、旧約聖書にそうした記述はない。また喉頭隆起のことを英語で「 Adam's apple」(アダムのリンゴ)という。これはアダムが知恵の樹の実を喉に詰まらせたとする伝説に由来する」
(引用部はここまでとする)
といったウィキペディアに見受けられる見方 ―アダムとイヴらが蛇に唆されて食した果実というのがその実、林檎であるという理解― は
[著名な古典]
にも反映されているとのものである。
著名古典にあって[禁断の果実]を[林檎]とする記述が見受けられること、さらには、欧州人一般にてそういう理解があったとのことを示すため、ここでは聖書を諧謔(おどけ)を含んでの言いようで確信犯的に茶化している節がある書、 Project Gutenbergにて公開されている19世紀から20世紀に活動した文人の手になる書 BIBLE ROMANCES First Seriesより、その内容を引いておくこととする。
(直下、 Project Gutenbergのサイトより抜粋なせるところの BIBLE ROMANCES First Series(『聖書、その目立ってロマンチックな物語ら』とでも訳す書籍)にての EVE AND THE APPLE. BIBLE ROMANCES.-3よりの引用をなすとして)
God made her to be Adam's helpmeet. She helped him to a slice of apple, and that soon helped them both outside Eden. The sour stuff disagreed with him as it did with her. It has disagreed, with all their posterity. In fact it was endowed with the marvellous power of transmitting spiritual stomach-ache through any number of generations.
How do we know that it was an apple and not some other fruit? Why, on the best authority extant after the Holy Scriptures themselves, namely, our auxiliary Bible, "Paradise Lost;" in the tenth book whereof Satan makes the following boast to his infernal peers after his exploit in Eden:―"Him by fraud I have seduced
From his Creator, and, the more to increase
Your wonder, with an apple."Yet another authority is the profane author of "Don Juan," who, in the first stanza of the tenth canto, says of Newton :
"And this is the sole mortal who could grapple, Since Adam, with a fall, or with an apple."
Milton, being very pious, was probably in the counsel of God. How else could he have given us an authentic version of the long colloquies that were carried on in heaven? Byron, being very profane, was probably in the counsel of Satan. And thus we have the most unimpeachable testimony of two opposite sources to the fact that it was an apple, and not a rarer fruit, which overcame the virtue of our first parents, and played the devil with their big family of children.
(背景知識ない向きを想定して細かくも補ってもの訳をなすとして)
「神はアダムの協力者とすべくもイヴを造り出した。
その彼女イヴはアダムが
[ a slice of apple一切れの林檎]
へと向かうよう「助力」し、すぐに両者共々、エデンの外側に行く結果へと「助力」することになった。酸っぱい食べ物はイヴにてそうだったようにアダムの口にも合わなかった。そして、それは彼らに続く世代にても同文であった。実際、それ(林檎)は幾世代を通じて精神の胃痛を媒介する驚くべき力を授けられていたとでも言うべきであろう。
では、どのように我々はそれが[林檎]であって他の果実ではないと分かるというのか(訳注:これは聖書にエデンの果実が林檎であるなどとの言及がなされていないことを所与の前提においての物言いであると解される)。
何故かと言えば、旧約および新約の聖書の「後の世」にあって現存しているところの最良の典拠、の中にあってのまさしくもの我々にとっての聖書補足版とでも言うべき(ミルトンの)『失楽園』(訳注:失楽園は17世紀成立の古典)、その第10の巻にてサタンが彼のエデンでのやりようの後、地獄の貴族達に対して、
「我は詐欺にて彼(アダム)を彼の造物主の方向より誘惑・堕落させた。そして、君らがより驚くところして[一個の林檎]にてそれを成し遂げたのだ」
と勝ち誇って述べているとのことがあるからである。
そして、まだまだのところとして、他の典拠としては『ドン・ファン』(訳注:この場合は同名のフランスの大物文人モリエールの喜劇ではなく、文脈上明らかなところとしてロード・バイロンの詩『ドン・ファン』を指す)の敬虔ではないとのその著者、彼が『ドン・ファン』第1巻にての第10節にてニュートン([万有引力の法則着想と林檎の関係にまつわる俗信]が取り上げられてきたところのニュートン)のことを指しもし
「ニュートンはそしてアダム以来、死せる者(ザ・モータル;人間)としてながら(動詞グラップルをアップルとかけての掛詞を用いつつ)唯一、[落下](人類の堕落 Fall of manとかけての[落下]fall)と[林檎]とに取っくみあった男である」
と言及しているとのこともがある。
(サタンの林檎による誘惑を扱っている『失楽園』をものした)ミルトンはとても信心深かったとのことであるから、おそらく、その記述は神の助言によってなされているのだろう。他にどのようにしてミルトンは天の国にて行われた長い対話の真正なる型というものを我々に伝えられえただろうか? (訳注:当該古典『失楽園』に対する細かい知識を有していないとこの部、 How else could he have given us an authentic version of the long colloquies
that were carried on in heaven?「他にどのようにしてミルトンは天の国にて行われた長い対話の真正なる型というものを我々に伝えられえただろうか?」との部にての微妙なるニュアンスについて推し量ることなどできなかろうかとは思うが、おそらく、ここでの引用元書籍の著者 ――( BIBLE ROMANCESの作者;secularist(政教分離論者)でもあったとのことがWikipediaに紹介されている19世紀から20世紀にかけて活動の論客 George William Footeという人物)―― は『失楽園』著者ミルトンの霊媒師的やりようについて茶化すように言及している、すなわち、古代詩人ホメロスがその叙事詩冒頭にてムーサ(文芸の女神達)に対して「我に憑いて(憑依霊感の虜というおどろおどろしき状態をもたらして)物語を語らせたまえ」などと云々している(いわゆるインヴォケーションInvocationというものをなしている)のと同文に『失楽園』をものしたジョン・ミルトンが『失楽園』序文にて同様に「天なるミューズ(聖霊)よ物語を語らせしめたまえ」としていることをもってして[天の国の対話を地上に再現する仲立ちをするといった触れ込みの霊媒師的やりようだ]と茶化すように言及しているのだと思われる(訳注はここまでとする))。
ロード・バイロン、(上のニュートンについての言及パートを含む作たる)『ドン・ファン』を生み出したそちらロード・バイロン(訳注:放縦で退廃的な生き方をして最後はギリシャで客死したことで有名な詩人)の方は(ジョン・ミルトンに比して)不信心極まりない人間であったので、おそらく、サタンの助言を得ていたのであろう。
そして、このように我々は正反対の情報源(ミルトンとロード・バイロン)から最も申し分ないとの証言、「我々の最初の父祖(アダムとイヴ)をして美徳を越えるようなことをなさしめ、そして、その子供らの大家族(人類)をして悪魔と戯れることに至らしめたとの果実が[林檎]であって他のよりもって珍しい果物ではない」とのことについての申し分ないとの証言を得ることになっているのである(であるからエデンの果実は林檎であろう)」
(訳を付しての引用部はここまでとする)
(上の引用部をもってしてもお分かりいただけたか、と思うが、ジョン・ミルトン古典『失楽園』にエデンの禁断の果実をして林檎とする描写が認められるとのこと、また、そうした[エデンの禁断の果実=林檎]とする視点をある程度、欧州人が史的に共有してきたとのこともある)
(出典(Source)紹介の部50はここまでとする)
(1.から3.と分かちて[[パリスの審判]と[エデンの園での誘惑]の接合性]を指摘なすべくもなしているとのここでの話にあっての1.の部を続けるとして)
ここまででエデンにての誘惑の具たる禁断の果実(知恵の樹の実)が[林檎]であるとされる風潮があること、紹介したとして、さらに、
[誘惑の結果が ――英語で述べるところの[フォール](落下・陥落・堕落)と結びつく―― 破滅的事態であるとされている]
ことも[[パリスの審判]と[エデンでの園での誘惑]の間の記号論的つながりあい]に関わると指摘しておく。
[パリスの審判]ではヘレンを対価としての取引が ――出典(Source)紹介の部39の流れのなかで既述のように―― [トロイアの陥落]([ Fall of Troy ]と英語表記されるような事態)へとつながっているとのことがある (ヘレン略取がギリシャ連合軍の招集とワンセットであるため)。
他面、エデンでのエヴァ(イヴ)の籠絡よりはじまった誘惑の結果が至福の楽園よりの永久追放、すなわち、[人類にとっての災厄]([ Fall of man:人類の堕落]と英語表記される事態)につながっているというのが聖書の記述である。
その意で女難と共にあったところの[[黄金の林檎]に関わるところのパリスの審判に付随しての誘惑]も、また、女難と共にあったところの[禁断の果実(林檎ともされる)に関わるところのエデンにての誘惑]も破滅的帰結を伴っていたものとして相通ずるとのことがある。
加えて、
(小さいことだが)、
[パリスの審判で用いられた黄金の林檎]も[エデンの園の林檎とも看做される果実]
も
[爬虫類の類(蛇に親和性強き存在)]
と結びついているとのこともまたある。
林檎と同一視されもする神の禁断の果実が実るエデンの園では
[人語を解する蛇]
が誘惑者として林檎とも看做される禁断の果実を薦める存在として登場してくる。
他面、パリスの審判でその取得が争われた黄金の林檎がたわわに実るヘスペリデスの黄金の林檎は[アトラスの娘ら]に管掌されるのと同時に
[100の頭を持つ「竜の」怪物ラドン]
をその番人としていた、と伝わる。
そういうこともあるわけである ――出典として:先にも(出典(Source)紹介の部39にて)引用なしていたとのアポロドーロス『ギリシャ神話』(当方所持の文庫版第61刷のもの)p.99-p.102よりの原文引用を再度なすと、エウルステウスは・・・(中略)・・・第一一番目の仕事としてヘスペリスたちから黄金の林檎を持って来るように命じた。これは一部の人々の言うようにリビアにあるのではなく、ヒュペルボレアス人の国の中のアトラースの上にあったのである。それを大地(ゲー)がヘーラーと結婚したゼウスに与えたのである。テューポーンとエキドナから生れた不死の百頭竜がその番をしていた
(引用部はここまでとする)とあるが、そこにて記載されている百頭竜というのは[100の頭を持つ蛇ないし竜の怪物たるラドン]という怪物のことである。同ラドンに見る[ギリシャ神話にあっての竜]とは西洋中世に見るような翼を生やした典型的ドラゴンのようなものではなく[巨大な蛇][巨大なとかげ]といった性質を強くも有していた存在であったとされている。については Project Gutenbergのサイトより現行、全文ダウンロードできるとの幻想世界の怪物らについて扱った要覧的著作 MYTHICAL MONSTERS『神話に見る怪物ら』(1886年刊行の Charles Gouldという英国人地質学者の手になる著作)にあってのp.165にて The popular mind of the present day doubtless associates it always with
the idea of a creature possessing wings; but the Lung of the Chinese, the δράκων of the Greeks, the Draco of the Romans,
the Egyptian dragon, and the Nâga of the Sanscrit have no such limited
signification, and appear to have been sometimes applied to any serpent,
lacertian, or saurian, of extraordinary dimensions, nor is it always easy
to determine from the passages in which these several terms occur what
kind of monster is specially indicated.
(大要訳なすところとして)「今日の通俗的精神というものは疑いもなくのところとしてそれら生き物、竜の類は[翼を持っている存在]としているが、中国にてのロンLung(竜)、ギリシャの δράκων、ローマのDraco、エジプト版ドラゴン、そして、サンスクリットのナーガらはそうした意味付けに限られるようなものではなく、蛇・蜥蜴のような特性を呈しており、文脈上、そうした生き物がいかな怪物として特に描写されているのか決するのが難しいとのことともなっている」(引用部大要紹介はここまでとする)と掲載されている程度のことからして推し量れもし、さらに述べれば、といったこと、元来、史的に竜という伝説上の生き物は洋の東西を問わず ――[東洋の龍]と[西洋の竜]の別を論ずる以前の問題として―― [蛇](次いで[蜥蜴]の類)に近しくもの存在として描写されることが多かったとのことがあるとされ、についてはここ日本にての一部の識者からして「戦前期より」指摘なしていたことでありもする。たとえば、この身がデヴィッド・アイクという論客の異説を多角的に分析することとしたなかで竜・蛇の類の伝説を扱った書籍を色々と読んでいた際に出逢った書籍となり、現行、和製 Project Gutenbergとも表せられよう青空文庫よりオンライン上より全文確認できるところの南方熊楠の手になる『十二支考 04 蛇に関する民俗と伝説』(岩波文庫)の記述を極一部のみ掻い摘まんで引用なせば、故にフィリップやクックが竜は蛇ばかりから生じたように説いたは大分粗漏ありて、実は諸国に多く実在する蜥蜴群が蛇に似て足あるなり、これを蛇より出て蛇に優まされる者とし、あるいは蜥蜴や鰐(がく)が蛇同様霊異な事多きより蛇とは別にこれを崇拝したから、竜てふ想像物を生じた例も多く、それが後に蛇崇拝と混合してますます竜譚が多くまた複雑になったであろう
(引用部はここまでとする)といった式で(『十二支考』の著者たる南方熊楠の浩瀚なる読書量に支えられての例証とセットにされながら)「竜という存在の[起源]が諸種伝承にては蛇・蜥蜴に近しい」と戦前期から日本「でも」述べられていたことが伺い知れるようになっている(:「戦前期日本からして竜蛇の起源を同一視する識者指摘があった」とのことで南方熊楠のことを[例]として挙げたが、不適切だったかもしれない。というのも「字義通りずば抜けていた彼と比べ見れば、知識のマス(総量)との意味で日本史上に並び立てる知識人(一流大学出でも知識人のチの字にも値しない人間が過半であるところを知識人とするに相応しき人間)など日本史上にて全くもっていなかろう」といった評価もなされもする「別格」の熊楠(言い分・言い様に論理的な流れがまったくもって欠けているとの言われようがなされているしそうだともとれるのであるも、知識の蒐集・整理・呈示との意では神童のまま大人になったような向きであり、かつ、真偽定かではないが神がかった伝説を伴った人物)を識者の「例」として挙げるのは何ではあるかもしれないとの思いが筆者にはあるからである)―― )。
ヘラクレスの第11功業では[黄金の林檎(神の果実たる黄金の林檎)の果樹園]の番人として[百頭竜ラドン]なる怪物が控えていると描写される。それにつき、ギリシャ・ローマ(Greco-Roman)時代の竜は今日知られているような翼ある西洋の竜のようなものではなく、[巨大な蛇]のようなものであったと認知されている。ゆえに[神の黄金の林檎の果樹園]を守っていたのは巨大な多頭蛇との解釈が自然になせるし、なされている(上にての図ではそのことを示すために英文ウィキペディア[Ladon]項目に掲載の[ローマ時代のラドンおよびヘラクレスの描写遺物]を挙げ、また同時に、同じくものウィキペディアの他項目にみとめられる[ギリシャ時代の金羊毛皮探索の英雄イアソンが巨大な蛇たるドラゴンに呑まれる様を描写した遺物]を挙げもした)。
ここまで述べたきたような類似性 ――[女という性を武器にしての誘惑がなされている][誘惑が[林檎]に結びつくものとしてなされている][林檎と結びつく誘惑の結果が破滅的事態に通じている][双方とものエピソードに[果樹園の爬虫類の存在]関連の描写が垣間見れる]―― に加えて
[[黄金の林檎を巡るパリスの審判にまつわる誘惑]と[エデンの誘惑]]
の間には
(「先にも言及したことだが」)
[誘惑者が双方ともに[金星と根深くも結びつく存在]となっている]
との一致性もが伴っている。
(:本稿出典(Source)紹介の部49にて既に解説しているように[パリスの審判]にあって贈賄工作を奏功させたアフロディテという女神は[明けの明星]こと金星と結びつく存在であると広くも認知されている存在である。また、[エデンでの誘惑をなした蛇]はルシファーことサタンであると定置されもし、そちらサタンはアフロディテと似通ったところで(本稿にての先の段出典(Source)紹介の部49にて典拠示しているように)[ルシファーとして明けの明星の体現存在]でもあると歴年看做されてきた存在である ([エデンの誘惑にまつわる下り]を含む『新約聖書』から離れてのユダヤ教の聖典である『旧約聖書』それ自体には[誘惑の蛇]=[悪鬼の王としてのサタン]であるといった表記は認められないもののそのようにキリスト教徒の間でそのように定置されている ――※たとえば、本稿のさらに後の続く段にあって細かき記述内容を原文引用なしながら問題視するつもりである古典とはなるも、17世紀成立の古典、ジョン・ミルトン( John Milton )の手になる Paradise Lost『失楽園』などはその筋立てとして(和文ウィキペディア[失楽園]項目にてのそちらあらすじ紹介部より原文引用するところとして)(『失楽園』は)ヤハウェに叛逆して一敗地にまみれた堕天使のルシファーの再起と、ルシファーの人間に対する嫉妬、およびルシファーの謀略により楽園追放に至るも、その罪を自覚して甘受し楽園を去る人間の姿を描いている
(引用部終端)と要約されるような内容を有していることがあり、といったところに見るように、ルシファーこそがエデンでの[楽園追放をもたらした蛇]であるとの観点がキリスト教圏では呈されてきたとのことがある―― ) )
(:「さらに付け加えてのこと」として
直上にてトロイ滅亡につながったパリスの審判にあっての林檎を巡る取引にあっての誘惑者たる女神アフロディテが[金星]と結びつく存在であるのなら、エデンの園にての誘惑者たる蛇(と同一視されること多きルシファー)もまた[金星]と結びつく存在であるとの話をなした。
それにつきここ追記部で補って表記しておくこととするが、
[パリスの審判で諍(いさか)いの元となっている黄金の林檎]
というものからして
[金星]
と結びつくものであるとのことがある。
本稿出典(Source)紹介の部39にて紹介しているように
[黄金の林檎]
は[ヘスペリデスの園]という場にて管理されていると伝承は語るものであるが、そこにて解説したところの黄金の林檎を管理するヘスペリデスらからして[金星]と浅からぬ関係にあるとされているとのことがあるのである。
につき、ヘスペリデスが[アトラスの娘]らとしてのアトランティス(単数形:Atlantis、複数形:Atlantides)であるといった存在であることは先述のことであるが(出典(Source)紹介の部40を参照のこと)、ヘスペリデス、彼女らについては[アトラスの娘ら]ではなく[金星「体現」存在の娘ら]であるとの異伝もまた伝わっているとのことがある。
異伝・異説の類ではヘスペリデスらの父親は
[宵の明星こと金星の体現存在たるヘスペロス(Hesperus)]
であるとされているとのことがあるのである。
ヘスペリデスが[ヘスペロス]という[金星の体現神格]の娘とされていることについて細かくは
出典(Source)紹介の部62
にて典拠を挙げることとするが、とにかくも、黄金の林檎の管掌者らであるヘスペリデスの父親たるヘスペロスが[宵の明星としての金星]を体現する存在となっているとの式で、また、そのヘスペロスの響きが[黄金の林檎の管理者]であるヘスペリデスと近しきものである ――(ということはヘスペロスHesperus及びヘスペリデスHesperidesは語としての成り立ちが近しいと推察されるし、直下、申し述べるとおりに実際にそうなっている)―― との式で黄金の林檎もまた[金星]と結びつくようになっていると述べるのである。
については本稿にての先の段、出典(Source)紹介の部49で中世期文豪たるジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』について解説した著作 ASTRONOMICAL LORE IN CHAUCER内より引いたところにも、
( ASTRONOMICAL LORE IN CHAUCERより再引用するところとして)
Chaucer refers to Venus, in the classical manner, as Hesperus when she appears as evening star and as Lucifer when she is seen as the morning star
(拙訳)
「チョーサーが[ヴィーナス](金星)に言及するとき、そのやりようは古典的なところに従っており、金星が[宵の明星](イブニング・スター;夕闇にて見受けられるとの金星似姿)として現われての折には[ヘスペロスHesperus]として金星につき言及し、金星が[明けの明星](モーニング・スター;明け方にて見受けられるとの金星似姿)として認められるときには[ルシファーLucifer]と言及していた」
(再度の引用部はここまでとする)
と記載されているようにHesperusがLuciferと相並べ立てられての[金星の体現存在]と古典上にて記述されているといったことがある ――尚、Hesperidesと語感近くもある(アトラスに代替する)ヘスペリデス父親候補Heperusはその名それものからして[宵の明星]・[(宵の明星としての金星が観察される、日の沈む方向たる)西方]・[夕餉(ゆうげ.夕食)]を意味するラテン語[vesper]と語源を一にするとの指摘が存するものでもある。については英文Wikipedia[Hesperus]項目にて Hesperus' Roman equivalent is Vesper ( cf. "evening", "supper",
"evening star", "west"
「ヘスペラスのローマ語にての対応語句はヴェスパー、[夕刻]・[夕食]・[宵の明星]・[西方]との意となる語句である」 と現行にて記載されているようなことがある(Hesperus⇒イブニング・スター⇒金星という式が成立している)。 以上、言及したうえで一応断っておくが、直前にて既述のように黄金の林檎を管理管掌するHesperidesらの父がHesperusであるとの見方がある(後にての出典(Source)紹介の部62でその言われようについては言及する)一方でのこととして[彼女らHesperidesの母親の複数候補のうちの一人の名前]や[彼女らHesperidesの単数形ないし構成単位と結びつく名前]がHesperia(父親候補Hesprusとは異なるがHesperusと同様にHesperidesと非常に似たような響きの名たるHesperia)とされているとのこと「も」ある。についてはブリタニカ百科事典で最も著名なる版にしてオンライン上より全文確認できるようになっているとの版にあって HESPERIDES, in Greek mythology, maidens who guarded the golden apples
which Earth gave Hera on her marriage to Zeus. According to Hesiod (Theogony,215)
they were the daughters of Erebus and Night; in later accounts, of Atlas
and Hesperis, or of Phorcys and Ceto ( schol. on Apoll. Rhod. iv. 1399; Diod.Sic.iv.27).
They were usually supposed to be three in number-Aegle, Erytheia, Hesperis ( or Hesperethusa ); according to some, four, or even seven. They lived far away in the
west at the borders of Ocean, where the sun sets. Hence the sun (according
to Mimnermus ap. Athenaeum xi. p. 470) sails in the golden bowl made by
Hephaestus from the abode of the Hesperides to the land where he rises
again.
(幾分か委細省いての訳として)「ヘスペリデスはギリシャ神話にて大地神が女神ヘラのゼウスとの婚礼に際して贈り与えた黄金の林檎を守護する乙女らとなる。ヘシオドス『神統記』によれば、彼女らはエレボス神と夜(の体現神格)の娘らであるとされ、より後の説明では、アトラスおよびヘスペリス[Hesperis]神の娘ら、あるいは、ポルキュスとケートーの両神の娘らであるとされている(ロドス島のアポロニウスらの言いようの特定部による)。彼女らは通例、アイグレー・エリュテーイア・ヘスペリス[Hesperis](またはヘスペレトゥーサ)の三人よりなるとされている。他の説明によるところでは4人、あるいは、7人であるされることもある。彼女らは[遙か西方の大洋の果て]、[日が沈むところ]にて住まうとされる。それゆえに、(ミムネーマスによる古典によれば)太陽はヘパイトスにて鋳造された黄金の鉢状の容器に入っての式にてヘスペリデス住まいから彼が再び昇る場へと航海をなしていくとされている」(引用部はここまでとする)との記載がなされているところでもある)。 まとめて述べれば、ヘスペリデスHesperidesという黄金の林檎の管掌者らは[金星=宵の明星]と同義のローマ名を持つHesperusを父親とするとも言われ、その構成単位ないし母親をHesperisとするとも言われる存在とのことになり、Hesperidesという[Hesper]との語句と結びつく黄金の林檎の管掌者らがいかに日没にて輝く金星と結びつくか推し量れもするとのことになる―― )
(後にてもよりもって簡明なるまとめての表記をなすが、本段までにて丁寧を心がけて指し示してきた[黄金の林檎を巡るギリシャ神話上の誘惑]と[エデンの園にての誘惑]の間の関係性とは図示なすと以下のようなものとなる)
ここまで述べただけでは「それでも、」
[パリスの審判とエデンにての林檎の誘惑の接合性]
を論ずることをもってして独創先行のきらいありの申しようであると考える向きもあられるかもしれない(エデンの林檎は誘惑の[手段]であるが、黄金の林檎は誘惑の[動機]であるからここでの話には[こじつけがましいものである]と看做したりしながらも、である)。
だからこそ、ここにきて指摘するが、
[黄金の林檎の園](明けの明星と結びつくアフロディテ、その女神の誘惑目的となった林檎が実る果樹園)
[エデンの園](明けの明星と結びつく蛇、ルシファーことサタンの同等物と看做される蛇による誘惑がなされた場)
が[質的な意味での同一物]と長年看做されてきた、そして、そのように看做されるだけの事情があるとのことが([パリスの審判にまつわる黄金の林檎を巡っての誘惑]と[エデンの園での誘惑]が接合していると論ずるうえでの強力なる論拠として)[無視できぬこと]としてある。
同点については直下、出典紹介部を参照されたい。
ここ出典(Source)紹介の部51にあっては
[「実際に」[エデンの園]と[黄金の林檎の園]が「歴史的に」質的に同質のものと看做されてきた]
とのことについての論拠を挙げる。
エデンの黄金の林檎の園と黄金の林檎の園が質的につながるものであるとの理解がなされてきたことについては(まずもって目につきやすきところからはじめるとして)英文Wikipedia[ Garden of Eden ]項目にて現行、次のような記載がなされていることを取り上げたい。
(英文Wikipedia[ Garden of Eden ]項目よりの引用として)
The garden of the Hesperides in Greek mythology, was somewhat similar to the Christian concept of the Garden of Eden, and by the 16th century a larger intellectual association was made in the Cranach painting (see illustration at top). In this painting, only the action that takes place there identifies the setting as distinct from the Garden of the Hesperides, with its golden fruit.
「ギリシャ神話にあってのヘスペリデスの園(黄金の林檎の園)は幾分、キリスト教のエデンの園のアイディアと似ており、16世紀、クラナッハの絵画にて知的関連付けがなされた。この画ではそこにて発生した動きのみが黄金の果実を伴ったヘスペリデスの園との区別をつけるうえでの設定条件となる」
(訳を付しての引用部はここまでとしておく)
直上にて抜粋した英文Wikipedia[ Garden of Eden ]項目の記述は当該項目内記載内容それそのものからして論拠として弱い(insufficient)であるとはとれるところでもあるのだが、そこにて問題視されているルーカス・クラナッハ・ジ・エルダー( Lucas Cranach the Elder )という画家の絵画がいかようにエデンの園と黄金の林檎の結節点になるのかの一例摘示をなしておく。
上掲図にては ――述べるまでもなく瞭然としているところだが―― 枠にて囲ってルーカス・クラナッハ・エルダーの作品を二例ほど挙げている(:うち、上部のものは Law and Graceと題されるようなモチーフを扱った絵画となり、[キリスト教の神の定めた人間の運命が楽園追放からイエスの犠牲によっての復楽園へとつながっていくさま]をモチーフとして描いているとのものとなり、下の段のものが Judgement of Parisことパリスの審判をモチーフとして描いているとの画となる、すなわち、[構図にてアフロディテ・アテナ・ヘラの黄金の林檎を巡って争った三女神を配し、そのうえで、彼女らの誰に黄金の林檎を渡すのか決しさせしめるとの前段階として[アンニュイな表情をした中世甲冑姿のパリス]に黄金の林檎が渡される場を描いているとの画]となる)。
また、上掲図にてはルーカス・クラナッハの絵画らを挙げての枠内から外れての部にて英文Wikipedia[Ladon (mythology)]にて現時掲載されており、ローマ期にて製作されたと解説されている、
[ヘラクレスとラドン(黄金の林檎を守るとされる百の頭を持つ竜)の黄金の林檎取得のための戦いを描いたレリーフ]
を挙げもしている。
以上、一言のみ概要解説しての各図葉らがいかにして結びつくのかは図をご覧いただければ、よくお分かりいただけるか、と思う ――たとえば、下の段にて呈示の[パリスの審判]関連の画にて[審判役のパリスにトロフィーの黄金の林檎を渡すさまが描かれているとの神の似姿]が上の段にて呈示の Law and Gopselとのテーマを持つ画にての[アダムよろしく裸の格好をとる人類の表象的人物に道筋を示している老人の似姿]と(同じくもの画家の手になる画らの間にて)「視覚的に照応している」風ありと見受けられること、お分かりいただけるか、と思う―― 。
直近抜粋したところの英文ウィキペディアではルネサンス期画家ルーカス・クラナッハ・ジ・エルダーの絵画のことが言及されてはいるが、それとはまた別の側面で
[[エデンの園]および[黄金の林檎の園]の同質性を示す]
とのことがある(のを捕捉している)ので、そちらについて「も」紹介しておくこととする。
についてはとっかかりとして、「信用の置けぬ行き過ぎた著作との評価が伴いがちなものであるが、」と断りながらも本稿の先の段にても挙げていたとの著作、
Atlantis: The Antediluvian World『アトランティス大洪水前の世界』(オンライン上から古書をスキャンしたとのPDF版およびテキスト抽出版をそれぞれダウンロード可能となっているとの著作)
の[書籍執筆時の言論動向を示す記述](19世紀欧州にあっての言論動向の影響下にあるとのかたちで『アトランティス大洪水前の世界』作者ドネリーがなしているとの記述)を引くことからはじめる。
(直下、 Atlantis: The Antediluvian World冒頭部p.1-p.2にあっての[同著著者がメイン・テーゼとして挙げている13のテーゼの中の1つにまつわる記載部]より抜粋をなすとして)
5. That it was the true Antediluvian world ; the Garden of Eden; the Gardens of the Hesperides ; the Elysian Fields ;the Gardens of Alcinous; the Mesomphalos ; the Olympos; the Asgard of the traditions of the ancient nations; representing a universal memory of a great land, where early mankind dwelt for ages in peace and happiness. The Bible tells us that in an earlier age, before their destruction, mankind had dwelt in a happy, peaceful, sinless condition in a Garden of Eden. Plato tells us the same thing of the earlier ages of the Atlanteans.
(拙訳として)
「[それ](注:文脈上、伝承が語るアトランティス)こそが[真なる大洪水前の世界 ―聖書のノアの洪水の観点と接合するところの大洪水前の世界― ]である。それは[人類が平和と幸福の内に時代を重ねていたとの偉大なる地]の普遍的記憶を示すとの存在、[エデンの園]であり、[ヘスペリデスの園]であり、[エリュシオンの園]であり、[オリンポス]であり、古代国家群の伝統を体現存在としての[アスガルド]である。初期の時代、破滅に先立つ折にて人間は幸福、平和的心境、無原罪の内にエデンの園に住んでいたと聖書はわれわれに語っている。対してプラトンは(アトランティス言及著作にて)アトランティスの初期の時代に同様のことが当てはまると語っている」
(訳を付しての引用部はここまでとする)
ドネリー (政治家から転身しての19世紀活動の草莽の史家として[古代文明揺籃の地となった失われた世界(大洪水前の世界)が存在する]とのことを主張していたとのこと、先述の Atlantis: The Antediluvian Worldの著者イグナティウス(イグネイシャス)・ロヨラ・ドネリー) が呈示しているテーゼそのものが正しいか正しくないかはここでは問題とはならない( My point of view: It makes no difference whether Donnellys' hypotheses are true or not.)。
「問題なのは、」
[ドネリーが上のような申しようをなしている背景に「[エデンの園]と[黄金の林檎の園]を同一の起源を持っているものである」と主張しても[行き過ぎ]にはならないような[時代的背景](往時にての人間のものの見方を受けての事情でもいい)が存在している]
とのことである。
その点、そちら[往時の言論動向]に関わるところとしてドネリーが Atlantis: The Antediluvian Worldの中で
[次のようなこと]
「をも」記載しているとのことがある。
(直下、 Atlantis: The Antediluvian Worldのp.324よりの引用をなすとして)
" The Gardens of the Hesperides, with their golden apples, were believed to exist in some island of the ocean, or, as it was sometimes thought, in the islands off the north or west coast of Africa. They were far famed in antiquity ; for it was there that springs of nectar flowed by the couch of Zeus, and there that the earth displayed the rarest blessings of the gods ; it was another Eden." (Ibid., p. 156.)
(拙訳として)
「黄金の林檎が実るヘスペリデスの園は大洋にあってのどこかの島に存在する、あるいは、アフリカ沖から北ないし西に向かった先にあると考えられている。それらは古典古代の時代にあって[ゼウス寝所のそばにて流れるネクター(神々の不死の飲料のこと)の発する場]にして[この地上にあって神々の最も得がたき祝福が施された場]として非常に有名であった。すなわち、ヘスペリデスの園はもう一つのエデンであった」(上に引用の書(Ibid)p.156より)
(訳を付しての引用部はここまでとする)
表記引用部にあってそちらp.156の内容が問題視されている(Ibid., p. 156.「上にて引用の書籍の156ページより」とされている)との[上にて引用の書]とは Atlantis: The Antediluvian Worldの直上抜粋のページ(p.324)にて同書書名が言及されている、
Murray's" Manual of Mythology,"(ムーレイ著『神話学の手引き』)
という書籍となる。
同著 Manual of Mythology『神話学の手引き』の著者の Alexander Stuart Murrayは19世紀後半 ――イグナティウス・ドネリーが活動していたとの時代―― にての古典研究にあっての[デ・ファクト・スタンダード]を構築していた権威筋の考古学者として認知されている向きとなる。それに関しては英文Wikipediaにて[ Alexander Stuart Murray ]と一項目が設けられもしており、の中で
(原文引用するところとして)
In 1886 he was selected by the Society of Antiquaries of Scotland to deliver
the next years Rhind lectures on archaeology, out of which grew his Handbook
of Greek Archaeology (1892).
(大要訳として)「ムーレイはスコットランド考古学会に考古学リンド講演(訳注:リンド講演会とはリンド数学パピルスという遺物を発見したアレクサンダー・ヘンリー・リンドに由来するところのスコットランド考古学界主催の講演会となり学者ら身内で権威筋にある者が進行役に選ばれるように見受けられるようになっているものである)の進行役に選出され、一八九二年、ギリシャ考古学ハンドブックを生み出した向きとなる」
と記載されているような学者が同じくものアレクサンダー・ムーレイという学者となる(述べておくが、筆者は[[権威]そのものが何かを証明する]と考えているような類の人種、要するに相応の権威主義者なぞではない。断じてない。ただし、権威が彼ら流の論拠に基づきかくかくしかじかのことを「表立ってのところで」「目立って」述べているとのことが摘示できるようになっているときにはそのことを even though「・・・でさえも」との式で取り上げることが ――[時代人を縛るそれだけのマス(総量)としての考え方がある][述べんとしていることにある程度の通用性が伴っている]ことを指し示すとの意で―― 有意義たりうると考える人間とはなる)。
以上述べたうえで書くが、英文原著内容をオンライン上のアーカイブ( Internet Archive )より誰でも確認できるところの同著 Manual of Mythologyには確かに次のような記載がなされている。
(直下、 Manual of Mythologyにての II. INFERIOR DEITIES.と振られた節にあっての THE HESPERIDESの項目より原文引用するところとして)
The Gardens of the Hesperides with the golden apples were believed to exist in some island in the ocean, or, as it was sometimes thought, in the islands on the north or west coast of Africa. They were far-famed in antiquity; for it was there that springs of nectar flowed by the couch of Zeus, and there that the earth displayed the rarest blessings of the gods : it was another Eden.
(訳として)
「黄金の林檎が実るヘスペリデスの園は大洋にあってのどこかの島に存在する、あるいは、アフリカ沖から北ないし西に向かった先にあると考えられている。それらは古典古代の時代にあって[ゼウス寝所のそばにて流れるネクター(神々の不死の飲料のこと)の発する場]にして[この地上にあって神々の最も得がたき祝福が施された場]として非常に有名であった。すなわち、ヘスペリデスの園はもう一つのエデンであった」
(訳を付しての引用部はここまでとする ――以上内容は上の段にて引用した Atlantis: The Antediluvian Worldの特定部内容と[まったくもって同文のこと]を述べているとのところとなる―― )
ドネリーと同様の19世紀の時代の人間たる Alexander Stuart Murrayアレクサンダー・スチュアート・ムーレイからして自らの手になる神話の解説書の一で[黄金の林檎の園]たる[ヘスペリデスの園]を[その他のエデン]と評していたというわけである(:黄金の林檎の園とエデンの類似性にまつわる論点としては[楽園的領域としての特質][林檎と結びつくとの特質][神が大切にしている不死の飲食物と結びつくとの特質(ヘスペリデスの園には黄金の林檎と結びつくだけではなくネクターこと[ギリシャ神話の[不死を約束する神の飲料]と結びついていたとの申しようが上の訳出部にてはなされている.そして、エデンの園にあっては[知恵の樹の実]だけではなく知恵の樹とそれを同時に食すと神にも等しくなるとの[命の樹の実]が実っていたと聖書 ―創世記2章9節― は語っている)]とのことがあるのだと解される)。
(追記:アレクサンダー・ムーレイ以外に[ヘスペリデスの園]を[エデンの園]と同質視していたとの近代の欧州の知識人の申しようもここ追記部にて引いておくこととする。
具体的には英文Wikipedia[ George Stanley Faber ]項目にも一項設けられての解説がなされている19世紀の英国国教会系の神学者としてのジョージ・スタンリー・フェイバーという人物の手になる著作 The Origin of Pagan Idolatry (1816年初出/表題訳すれば『異教の偶像崇拝の起源』となる著作)にも次なる表記がなされているとのこと、引いておくこととする。
(直下、オンライン上より容易に確認できるところの Project Gutenbergのサイトにての公開著作 BIBLE MYTHS AND THEIR PARALLELS IN OTHER RELIGIONS(1910年刊行版)『聖書にての神話、そして、他の宗教にみとめられるその類似物らについて』にても引用されているところの The Origin of Pagan Idolatry(1816)内記述を引くとして)
"But the garden of the Hesperides was none other than the garden of Paradise; consequently the serpent of that garden, the head of which is crushed beneath the heel of Hercules, and which itself is described as encircling with its folds the trunk of the mysterious tree, must necessarily be a transcript of that Serpent whose form was assumed by the tempter of our first parents. We may observe the same ancient tradition in the Ph?nician fable representing Ophion or Ophioneus."
(拙訳として)
「しかしヘスペリデスの園(黄金の林檎の園)は[楽園の果樹園]に他ならなかったとのものであり、従って、その果樹園の蛇、その頭もてヘラクレスの足下に踏みしだかれている、そして、神秘的な果樹園樹木の幹に覆いかぶさるように巻き付いているとの描写がなされているとの蛇は[我らが始祖(訳注:文脈上、アダムとイヴのこと)への誘惑者にそのかたちが模された蛇の類似型]に違いなかろうとの存在と必然的になる。我々は同じくもの古代の伝統(的描写)をオピオーンないしオポオネウス(訳注:オピオーンというのはギリシャ神話にてタイタンのクロノスらと主導権を争い、消えていったとされる古の神、蛇の姿と結びつけられることもある神のことを指す)にまつわるものたるフェニキアの伝承にも見出せるかもしれない」
(訳を付しての引用部はここまでとする)
上に見るように[ヘスペリデスの園]と[エデンの園]とは19世紀初めの著作 ――神学者ジョージ・スタンリー・フェイバーの手になる The Origin of Pagan Idolatry―― からして結びつけられて見られていたものである。
(出典(Source)紹介の部51はここまでとする)
(ここまでにて1.から3.と分けてもの段階的なる指し示しの部を終える)
以上、書き連ねての指し示しのプロセス(どのことを指し示しの材にするのかとの話柄選択以外の面では属人的主観などが入る込む余地が一切無いとの指し示しのプロセス)にあっては以下のことらを呈示してきた。
a.[黄金の林檎にまつわる誘惑]および[エデンの園にての誘惑]の双方ともに[女という性を用いての誘惑]が主軸をなしているとのことがある(一方はヘレン、もう一方はイーヴという女という性を用いての誘惑がなされている)。
b.[黄金の林檎にまつわる誘惑]および[エデンの園にての誘惑]の双方ともに[誘惑が破滅的事態をもたらした]との結末がつきまっているとのことがある(片方が[フォール・オブ・トロイア;トロイア陥落]、もう片方が[フォール・オブ・マン;人類の堕落・失楽園]との結末に通じている)。
c.[黄金の林檎にまつわる誘惑]および[エデンの園にての誘惑]の双方ともに誘惑にてその授受が争われたのは[林檎]および[林檎と歴史的に同一視されてきたもの]となっているとのことがある(聖書にては[エデンの禁断の果実]ことフォゥビドゥン・フルーツが[林檎]であるとの明示的表記がみとめられないわけであるが、それが歴史的ありようとして林檎と看做されてきたとのことがあり、本稿ではその点についても解説している)。
d.[黄金の林檎の果樹園]は百頭竜ラドンに守られているとされる。そして、ギリシャ・ローマ時代における竜とは[巨大な蛇]のようなものであるとされる。他面、[エデンの園の誘惑]は蛇によってなされたと伝わるものである。従って、[黄金の林檎]および[エデンの園の禁断の果実]の双方ともどもに[(蛇たる)爬虫類とのつながり]があいが見てとれるとのことになる。
e.[黄金の林檎にまつわる誘惑]および[エデンの園にての誘惑]の双方ともにあって[金星の体現化存在]が誘惑者となっているとのことがある(片方は金星の体現存在たる女神アフロディテを誘惑者としており、もう片方では金星(明けの明星)の体現存在たるルシファーことエデンの蛇と同一視されるサタンを誘惑者としている)。また、誘惑者が金星と結びつくだけではなく、黄金の林檎というのはそれが実る果樹園からして[金星]と親和性が高い存在となっているとのことがある。すなわち、黄金の林檎を果樹園で管掌するとされるヘスペリデスらが金星こと[宵の明星]と非常に近しい存在であるとのことがある(ヘスペリデスHesperidesという黄金の林檎の管掌者らは[金星=宵の明星]と同義のローマ名を持つHesperusを父親とするとも言われ、その構成単位ないし母親をHesperisとするとも言われる存在とのことになり、Hesperidesという[Hesper]との語句と結びつく黄金の林檎の管掌者らがいかに日没にて輝く金星と結びつくか推し量れもするとのことがある)。
f.[黄金の林檎の園]および[エデンの園]の双方は「互いに関係があるもの」として欧州人に「歴史的に」隠喩的・明示的な式で結びつけられてきたものらとなる。隠喩的な式とのことで言えば、ルネサンス期画家のルーカス・クラナッハ・ジ・エルダーの絵画に両者関係性を示唆するが如きものが存在しているとのことがある(その[具体例]を本稿の先の段で挙げている)。他面、明示的な式で関係づける式とのことで言えば、近代知識人らの著作にあって[[神に不死を約束するネクター]と結びつく黄金の林檎の園]と[[不死と知恵の果実が実るエデンの園]とを結びつける表記がなされている(そちらも原文引用にて摘示している)。
表記のa.からf.のことらより[黄金の林檎にまつわる誘惑]および[エデンの園にての誘惑]の双方が多重的に結びつくのは自明とのこととなっている(再言するが、話者の属人的な主観が問題になるようなことではない)。