[力の指輪をめぐる二つの物語]

 
 

トールキン『指輪物語』と『ニーベルングの指輪』の類似性より論ずべきことについて

冒頭よりのお断り
 本記事は[文量多く内容も入り組み、かつ、講学的な側面を少なからず含んだもの]となっている。
 そこでざっと見されたうえでも物怖じせずに本記事の内容を検討する気になられた向きに対しては
コンテンツ保存や印刷されながらのじっくりと向き合える環境での検討
を強くも推させていただきたい次第である(そうでもしないと完全理解は一難事と見立ている)。

 [19世紀にあっての至極の芸術作品]などと評されもするリヒャルト・ワーグナーの歌劇 Der Ring Des Nibelungen『ニーベンルングの指輪』。そして、[20世紀にあっての幻想文学の最高峰]などと評されもするJ・R・R・トールキンの The Lord of the Rings『指輪物語』

 題に[指輪](リング)の一語を冠する両作品、そのワーグナー『ニーベルングの指輪』とトールキン『指輪物語』には関係があるとの[事実]、極一部の向きが知るところの[事実]が
極めて重大な話とつながる
とのことを本記事 ―媒体公開後およそ二年を経て追加した記事― では訴求したい、と思う。

 としたうえで、まずもって、肝心要の
歌劇『ニーベンルングの指輪』と小説『指輪物語』(およびその関連作たる『ホビットの冒険』)の共通点
についてからだ。両作品には以下、各点にて挙げるような共通点がある。

『ニーベルングの指輪』と『指輪物語』の際立った共通点について

・両作品とも[強力な力を蔵しつつ破滅と結びつく誘惑の指輪]が物語の主題になっている。
 ワーグナーの歌劇『ニーベルングの指輪』ではヴォータン(ヴォータンとは北欧神話のオーディンのよく知られた別呼称である)がニーベルング族の黄金によって鋳造された呪われた指輪、世界を支配する力/比類なき魔力を約束するものの持ち主に破滅をもたらす指輪を入手し、それに固執するようになる(が、結局、後、指輪は ―竜の姿に変じることとなった― 巨人ファフナー、神々の宮殿である[ヴァルハラ]の建造に功あったと歌劇にて唄われる同巨人の手に落ちる)。
 他面、『指輪物語』は主人公フロドが残留思念と化している悪の体現者サウロンの力が込められた魔性の指輪 ―近づけばその指輪をつけたくもなり、それを装着しているときに精神の浸食過程が一層進むといった一品― をサウロンの領地内にある火山(指輪がサウロンによって鍛えられた the Mount Doom[滅びの山])に捨てに行く物語として知られる。

19世紀末葉から20世紀前半にかけて活動した挿絵画家、アーサー・ラッカムがワグナー『ニーベルングの指輪を題材にして作成した画より。髭面の男は妖精(ドワーフ)のアルブレヒ(Alberichで画は彼アルブレヒが[ラインの乙女たち](:[ラインの乙女たち]とはライン川に住まう水妖のことを指す)に色仕掛けをかけ、逃げられている場を描いたものとなる。 歌劇『ニーベルングの指輪は(同画に見る)鬚面の妖精と水妖らのかけあいの一幕からはじまり、の中で、アルブレヒが ―(言い寄ったラインの乙女らに逃げられたうえで)― [入手の代償に愛を捨てること]を要求されるとの設定の[ライン川水底に眠る黄金]の奪取を敢行。結果、奪取された黄金より世界を支配するに足る比類なき力と膨大な富を約束する指輪] ―物語の核となる指輪― が鋳造されることになった、との流れにて以降の話が展開していく。

・上記の[破滅の指輪]との側面に包摂されることともあいなろうが、指輪がそれが存在する周囲にたえず諍(いさか)いを起こすとの性質を有しているとの筋立てもそっくりである。
 ワーグナーの『ニーベルングの指輪』では(原典となったゲルマンの伝承を受け)力の指輪はそれを入手しようという向きと所有している向きに殺し合い込みでの諍いを絶えず誘発する。ファフナーとファゾルデ(ともにヴァルハラ建造に功あったという設定の巨人)らが指輪をめぐって殺し合いをはじめ、ファフナーがそれを得た後、ジークフリートがそのファフナーを(竜と化した姿のときに)殺す。そのジークフリートのファフナー殺しの直後にも指輪を入手せんとアルベリヒ(元の指輪の所有者)とミーメ(指輪をラインの黄金から鋳直した妖精)が介入し、結局、ジークフリートがミーメを殺傷する運びとなる。そういった按配で指輪は絶えず所持者らに争いをもたらしている。
 他面、トールキンの『指輪物語』では ―映画『ロード・オブ・ザ・リング』を見ていただければよくお分かりいただけようが― サウロンの指輪は純朴で指輪の魔力に屈しにくいといった作中設定のホビットにも諍いを誘発し、そのために主人公フロドは従者サムのありもしない悪意を狐疑逡巡するようになる。また、かつて指輪に狂ったホビットのなれの果てたるスメアゴル、フロドとサムの決死行に同道することになったその忌むべき者に至っては絶えず指輪入手のための離間工作としての中傷を繰り返し、あわよくば、フロドを殺して指輪を入手しようと企み続ける(スメアゴルの作中の通称はゴクリないしゴラム。スメアゴルという元の名前でも「中傷する」との英語動詞を想起させるのだから堂に入っている)。

 再度、アーサー・ラッカム挿絵よりの部分抜粋。
[左]はローゲ(北欧神話での呼称はロキ)と共にヴォータン(日本ではオーディンの呼称でよく知られる)が[力の指輪]を入手しようとしたくだりにまつわる画で[槍を持った帽子姿の男]がヴォータンとなり(原典となった神話でもオーディンは流浪の老人との格好をよくもとる)、その隣にいるのがアルブレヒないしヴォータンに接触したアルブレヒの弟ミーメとなる。ヴォータンは同道したローゲ(ロキ)の奸智の賜物としてアルブレヒより[力の指輪]を奪い取ることに成功するが、
「我が呪いと共に指輪あれ。黄金が与えし無尽蔵の力は所持者に死をば与えん」
といった実効性を伴った呪詛をアルブレヒから受けることになる(実際、指輪は絶えず死と結びついた諍いを周囲に誘発することとなる)。
[右]はワーグナー『ニーベルングの指輪』において神々の食物たる黄金の林檎、不死を約束する黄金の林檎を管掌する女神フライアを描いたものとなる(:北欧神話原典で不死の林檎を管掌する女神はイズンとされているがワーグナーはフライアをその女神としている)。神々の宮殿ヴァルハラの造営に功あった巨人たちが同フライアを拉致し、ニーベルング族の指輪を報酬として寄こすよう要求したがために「不死の林檎の管掌者を失い若さが失われていくなかで」ヴォータンは兼ねてから自身も欲していた指輪の奪取に赴くこととなる。着目すべきは[不死を実現する「黄金の」林檎(の女神)][絶大な力を約束する「黄金の」指輪]が天秤にかけられていることである。

・世界を支配する力を蔵するも他面、破滅をも約束する指輪。その指輪と[透明化の力の話]が ―直接的にか/間接的にかとの違いこそあれ― 結びついているとのこともある。
 『ニーベルングの指輪』ではヴォータンらがラインの黄金から加工された魔法の指輪を所有する強欲なアルベリヒ(妖精)を奸計でもって唆(そそのか)し、指輪の力でヒキガエルに変じた同アルベリヒから指輪と一緒くたに[姿を消す兜]を掠め取る。
 対し、『指輪物語』では指輪を装着した者に透明化する力 ―作中設定では指輪装着により物質的な世界から離れがちになることによって自動発動する副次的効果とも― が備わる。
 ワーグナーの『ニーベルングの指輪』にあっては指輪そのものに透明化の力がビルトイン(組み込み)されていると表されてはいないが ―ヴォータンらが掠め取った指輪とワンセットの兜にそういう力があると描写される― 、トールキンの『指輪物語』の指輪の力との接合点を見出さざるをえない。

魔法の指輪と[一つ目の存在]が結びつく、とのこともある。
 ワーグナーの『ニーベルングの指輪』では神々の長たるヴォタンが指輪を入手しようと躍起になるが、ヴォータンとはオーディンのドイツ語による呼称で、オーディンとは隻眼の存在として知られる。隻眼。すなわち、一つ目である。
 対し、トールキンの『指輪物語』では力の指輪を生成したのは冥王サウロン、肉体を失い、[まぶたのない一つ目]によって体現される残留思念としてこの世に現れる存在となる(サウロンの一つ眼の残留思念としての姿は映画ではさらにの強意をもって描写される)。ここでもやはり一つ目である。

魔法の指輪と竜退治を巡る物語が(細部まで)結びつくとのこともある。
 その点、ワーグナーの『ニーベルンゲンの指輪』ではファフナーが指輪の一時の所有者となったが、竜に変じて財宝を守っていた彼は英雄ジークフリートに[腹の鱗に覆われていない部位]を刺されて滅ぼされた。そして、竜を屠ったジークフリートは竜の血を浴びたことで鳥の声を聞く能力を身につけるに至り、その鳥の声に導かれて指輪を入手するに至る。
 対し、トールキンの『指輪物語』だが、その前日談との位置付けを与えられるようになった小説たる The Hobbit,or There and Back Again『ホビットの冒険』の内容が問題となる。『ホビットの冒険』では『指輪物語』主人公フロド・バギンズの養父にあたるビルボ・バギンズが竜退治の冒険に出るのだが、彼はその途上で指輪を入手したとの設定になっている。竜が直接、指輪を保有していたか否かどうかとの差異はあるが、[竜退治を契機としての指輪の入手]ということでは『ニーベルングの指輪』と相違はない(そして『ホビットの冒険』で退治された竜スマウグが『ニーベルンゲンの指輪』に登場のファフナーよろしく黄金を貯め込んだ財宝収集癖のある竜であったことにも同一性がある)。また、『ホビットの冒険』での竜の退治のされ方も問題だ。ビルボ・バギンズは[鱗に覆われていない部]が竜の弱点であると知るに至る。それが鳥の声を通じて最終的にドラゴン・スレイヤー(竜殺し)となる者の元に届く。そのような筋立てはワーグナーの『ニーベルンゲンの指輪』と次の点で内容を一にしている。一点目。竜は鱗がついていない腹を攻撃されて討伐された。二点目。竜殺しと鳥の声が結びついているとのこと、ワーグナー『ニーベルングの指輪』ではファフナーを殺したジークフリートが鳥の声を聞く力を(竜の血を浴びたことで)身につけ、トールキン『指輪物語』前日譚たる『ホビットの冒険』では鳥(ツグミと作中、表される)の声が竜退治につながっているとのことがある ―前後関係の問題はともあれ鳥の声が大きな役割を果たしていることに変わりはない― 。

 ここまででも、よくお分かりだろうが、
「ワーグナーの『ニーベルングの指輪』とトールキンの『指輪物語』は「これぞ密接に」という形で結びついている」。
 『指輪物語』についてはその前日譚たる『ホビットの冒険』まで挙げたことに多少、強引さを感じる向きもあるかもしれないが、とにかくも両作品は「これぞ密接に」という形で結びついているのである。

 などと書くと、次のように思われる方もおられるかもしれない。 

『トールキンは古英語(アングロ・サクソン語)の研究者で教授の肩書を持つ一流の文学者だった ―彼はそうした立ち位置でオクスフォード大学にも奉職している― 。そのようなトールキンであるのなら、欧州伝承 ―『ニーベルングの指輪』のモデルになった Das Nibelungelied『ニーベルンゲンの"歌"』 Saga of the Völsungs『ヴォルスンガ・サガ』のようなもの― の中身および縁起由来についてよくも知り、そして、そうした伝承からいかにワーグナーの『ニーベルングの指輪』が影響を受けていたかにも通暁していたはずだ。そういった背景もあって、空想世界造成者としても一流どころだったトールキン「教授」としては先達(ワーグナー)の成功した手法をも踏襲する気になり、半ば遊び心もあってだろう、ワーグナーの世界観をも「敢えて」踏襲したのではないか』。

 だが、私は大学で英文学なぞを深くもかじった有識者が抱きがちな上のような見立てでことが済むとは考えていない(であるから、このような記事をものしている)。その根拠を以下、I.からVI.と段を分け記述していく。

 事前に断わっておくが、以下、I.からVI.の事項(本記事の終わりの段間近まで通貫として書き連ねていく事項)は「各々、細目に分かれての実に細々とした内容を有しており」、かつ、「前の番号の事項の内容を受けての話を後の事項ではなしている」、といった構成となっている(III.からV.に移るといった飛ばし読みをすると立ち位置を見失う)。そうしたことを含んでいただいたうえで続く内容を読み解いていただきたい。

I.トールキン『指輪物語』は大きくも三つの部に大別される。うち第二部は The Two Towers『二つの塔』として知られる。 実はその『二つの塔』という作品にまつわる作中設定らがフリーメーソン象徴体系と密接に結びついておりそれが二〇〇一年に発生した九一一の事件につながっているとのことがある。無論、そのような話が[大人の常識人にとっての許容量]を超えているか超えそうなものであることは言うまでもないが、[証拠によって指し示せる事実]は変えられないとし話を続ける。話を続けるとして、『二つの塔』が九一一の事件と結び付くなどとすると、事物の背面をよくも見ようとする鋭き向きらは直覚的に
The Two Towers『二つの塔』の映画化作品がクランクイン(「撮影開始」)に入ったのち(映画『ロード・オブ・ザ・リング』第二部の公開自体は2002年)、先の九一一の事件で双子の塔、ツイン・タワーズが崩されたことだけでも偶然らしからぬことだな』
と思われるかもしれないが、ここではそうした[印象論]を排し、根拠主導方式の話 ―といっても一部は本媒体の他記事掲載の根拠まで目を通していただくことを求めているのだが― に注力する

 さて、九一一の事件との結び付きの話はとりあえず脇に置いておき、「まずもって」、The Two Towers(『指輪物語』第二部)がフリーメーソンの象徴につながるということから解説する。
 下の図をご覧いただきたい。

 上掲図[上列左]はフリーメーソン員だと伝わるアーサー・エドワード・ウェイトが20世紀初頭に作成監修をした[ウェイト版タロット](タロットカードの一支流をなすに至っているもの)の女教皇のカードの図柄となり、そこにてはフリーメーソンの代表的象徴になっているヤキンとボアズの柱 ―ソロモン王の神殿の前に立つ柱― が[白と黒の柱]として描かれている(ポイントはヤキンとボアズの柱が[白と黒の柱]と表されていることである)
 また、上掲図[上列中央]はフリーメーソンのヤキンとボアズの柱の典型的構図を描いたものとなり、上掲図[上列右]はフリーメーソンの三柱の柱が描かれたシンボル画となる。
 対し、[下段]掲載の画はトールキンの『二つの塔』の原著初期版のタイトルイラストの特徴的なる部位を ―著作権の問題に抵触しないように― 意識して「真似て」描いたものとなる。

 図の概要を一言説明したうえで述べるが、「フリーメーソン象徴主義との類似性の関係では」次のようなことが問題となる

・(直近図を受けての話としてトールキン『指輪物語』の原著は表紙イラストに[白と黒の塔]を持ち出し、それとフリーメーソン製タロット(ウェイト版タロット。タロットの世界では確立された一支流をなしているもののようである)との相似性をもって、『二つの塔』という作品がフリーメーソン象徴と結びつくことを示唆している、と言える。

・トールキンは作中、塔がいくつも登場してくる『指輪物語』の中にあってどの塔が表題に用いられている[二つの塔]であるかの明言をなしていない。しかし、そうもしたなかにあって、トールキンが[二つの塔]を表題として掲げるうえで念頭に置いていたのが Minas Tirith(ミナス・ティリス。作中舞台たる中つ国に往古からあった塔 Minas Morgul(ミナス・モルグル。中つ国にミナス・ティリスと併置されたものとして往古からあった塔とあったのだと解すると
「話が ―フリーメーソン象徴との兼ね合いで― すべてしっくりくるようになっている」
とのことがある。
 ともすると[逃避文学]といった見方をされる幻想文学の設定について蘊蓄を傾けるようで実に嫌なのだが ―そも、私には幻想文学の類を読み耽る性癖はなかった― 、まずもって、
Minas Tirith(ミナス・ティリス)の旧称がやたらと凝りに凝ったトールキンの『指輪物語』の作中設定でMinas-Anor(ミナス・アノール)となるとされており、その意味が[日の没りの塔](原文ではThe-Tower-of-the-Sun)とされていること
そして、
Minas Morgul(ミナス・モルグル)の旧称が Minas Ithilミナス・イシルとなり、その意味が作中、[月の入りの塔](原文ではThe-Tower-of-the-Moon)とされていること
がある。
 トールキンは作中にあって(作中世界の凝った設定を紐解かなければならないのだが)[太陽と結びつく塔]と[月と結びつく塔]を持ち出しているのである。
 それに加えて、である。トールキンは一つ目の残留思念と化していたと描写されるサウロンの拠点としての塔、
Barad-Dur(バラド=ドゥーア)]
に重要な役割を与えている(:その塔バラド=ドゥーアは近年、封切られた映画『ロード・オブ・ザ・リング』で[巨大な(爬虫類状の)一つ目が浮かぶ塔]として描かれていたのだが、それについてはご記憶の方も多かろう)。
 とすると、トールキンは目立つ塔として[太陽]と[月]の塔、および、[一つ目存在]由来の塔を持ち出していたことになる。下の図を見てもお分かりのことだろうが、それはフリーメーソン ―トールキンの出身国たる英国を本拠とする一大組織― のシンボルを意識してのことと言えるだろう(※)。
(※尚、先にトールキンは作中本文にあって表題における[二つの塔]がどの塔のことなのか明言していないと書いたが ―実際に欧米圏論者によって二つの塔がどの塔を指すのかのとらえ方は違う― 、日本語Wikipediaなどにては
「トールキンはのちに付した第一部の注釈部(第二部から遡っての第一部。その本文ではなく注釈部)で二つの塔について明言しており、それは[オルサンクの塔] ―作中設定にいうところのアイゼンガルドの地にある魔法使いサルマンの根城たる塔(月と太陽と目の各々三つの塔とは別に『指輪物語』に登場する塔)― および[ミナス・モルグルの塔]である、としている」
と書いてある。が、ここでは二つの塔には ―多くそれに含まれるという― ミナス・モルグル(月の塔)だけではなくミナス・ティリス(太陽の塔)のことをも指すのではないか、あるいは、そう自然に解せるとの観点で話をなしている)

・さらに、の話をなす。『指輪物語』には力の指輪を造り出した存在としてのサウロン(Sauron)と力の指輪の魔力に魅了され堕落した存在としての魔法使いサルマン(Sarumanが登場してくるが、彼ら敵役の名前の響きが何故、そうも似たものとなっているか疑問に思われたことはないだろうか ―『指輪物語』著者はいい加減に名前を決めるような男ではないと見えるトールキンだから問題となる― 。私はそれもまたフリーメーソンとの結びつきによるところであろうと見ている。その点、
「フリーメーソンの象徴主義体系にあって[月と結びつく柱]および[太陽と結びつく柱]が
[ソロモンの神殿の前に打ち立てられたヤキンとボアズの柱]
と定置されている」

ということは(外部から醜団体の象徴を分析する向きにも)よく知られたことである。悪魔を使役したとも伝わる『旧約聖書』登場のソロモンとはフリーメーソンのある種、ヒーローとなっているとされる王であり、ときにその綴り/発音は[サロモン]ともなるとされている(Salomon=Solomonなのだ)。とくれば、サルマン/サウロンの両者はサロモンことソロモンのもじり ―スペリングではなく[発音]を意識したそれ― であると考えることができる、トールキンのやり方からしてそうであると考えることができる。
 が、まだ、それだけでは「根拠薄弱である」ととられる方もいるかもしれない。であるから続けて述べるが、トールキンが悪役に据えた[サルマン](第二部『二つの塔』で対峙したアイゼンガルドの塔に拠った魔法使い)が「もっと深い意味で」ソロモンと結びつきそうであるということも述べておく。その点、イスラム圏では[サルマン]との名前がよくも使われる。そのイスラム圏由来のサルマンの綴りはSalmanとなり、トールキンのサルマンSarumanの綴りとは ―(私が着目していることとして「音の響きこそほぼ同じであろう」も)― 異なるし、そも、イスラム圏のサルマンとの名前にソロモンとの直接的なつながりはないとの見立てをなすこともできはする(イスラム圏でのソロモンは「Suleiman[スレイマーン]となる」とよく知られている)。しかし、だ。セム語系言語 ―ヘブライ語やアラビア語がその系譜に連なる語派― にはS-L-Mの略称で知られる一つの共通基盤があると知られており(ちなみにS-L-MShin-Lamedh-Memの略となる)、その括りで包摂できる言葉は語源として結びついていると言われ、そして、SalmanSolomonもそうした括りに入る言葉であると指摘されている、とのことがある。もっと言えば、SalmanSolomonshalom(シャローム;平和)という言葉から派生してきた言葉、ともに[平和]という意味と結びつく言葉であるとされている(:インターネット上での調査を厭わぬ向きで疑いたくもなった方は英文情報にあたられてみればいい。すぐにそうだと確認できるはずだ)。また、同じくも言語学的なアプローチを講じれば、欧州にあってLRの音および綴りが数百年前まで混同されていたとの説がありもする。その式で行けば、[Salman⇔Solomon]と考えられるだけではなく、[Salman⇔Sar(u)man]となるようにとれる。イスラム圏のSalman ―サルマン― との名はソロモンと結びつきうる名にして、かつ、綴りの違いを吸収しながらトールキンのサルマンに接合する名となりかねない(ようにとれる)のである。教授の肩書きを持つ[古英語]の研究者にしてファンタジー世界に独自の言語体系を導入したトールキンがどこまで言語学(に見る起源にまつわる理論)に知悉していたかは分からないし、トールキンが『指輪物語』をものした時代にここにて述べたような言語学上の起源論が確立されていたかを知るのは一難事だが、意識されて悪役となるサウロンとサルマンの双方に[ソロモンの寓意]が仕込まれていると考えることができるのだ。
 また、専門的な話をなしたうえにてさらに言ってしまえば、である。伝承におけるソロモンは[字義通りの魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類を使役する力を有した魔法使い]であるわけだが、トールキンの描くサウロンもまた[魑魅魍魎を使役する魔王そのもの]であり、アイゼンガルドの塔に拠ったサルマンに至っても「堕落した」との設定にて似たような存在となっている。

 以上の理由を複合顧慮することでトールキン『指輪物語』はフリーメーソン象徴主義からの影響を「確実に」受けているといえるだろう(殊に太陽と月の塔および一つ目の塔の関係性が大きい)。影響を受けている程度の多寡および動機については議論の分かたれるところだろうが、とにかくも、の話として、である。

II.トールキンの『指輪物語』に焦点を絞っての話をいましばらく続ける。
 さて、トールキンの『指輪物語』では[月の塔]と[太陽の塔]が出てくるというのは直近I.の段でも既述のことだが、その[太陽の塔]と[月の塔] ―ソロモン王の神殿の前に立つヤキンとボアズの柱とも看做せるものだと述べている― の役割それらが配置されている場所が問題となる。
 その点、[太陽の塔](旧称たるミナス・アノールが太陽の塔としての呼称。作中本編の時代での呼称はミナス・ティリス)は『指輪物語』の舞台たる中つ国にあっての闇の勢力(サウロンの影響下の勢力)の策源地モルドールからの軍勢の侵出を防ぐための国家の防衛の要、そうした役割を振られていたとの「設定」になっている塔である。対し、[月の塔](旧称たるミナス・イシルが月の塔としての呼称。作中本編の時代での呼称はミナス・モルグル)は[太陽の塔]と共に城塞として往古にあって建設されたものであったも『指輪物語』本編の時代から見たかなり昔にあってサウロン配下の者に制圧され、中つ国侵略のための要衝へと転用されてしまっているとの設定の塔となっている。
 より具体的には、
「ゴンドール国 ―([門をこじ開けようとするサウロンの忌まわしき軍勢の挙動]/[敵方の象騎乗兵が暴威を振るう模様]/[逆転勝ちをもたらした亡霊の突進]などが映画にて印象深くも描かれた戦いが行われた王国)― の東西には[かつて[太陽の塔][月の塔]と呼ばれた塔の所在地]が存在し、そのうち、一方のミナス・ティリス(元[太陽の塔])は守備側ゴンドールの首都 ―サウロンの軍勢に攻城戦を仕掛けられた首府― となっており、他方のミナス・モルグル(元[月の塔])は既に占領されサウロン旗下の軍勢の進発地となっている」
といった塩梅だが、それにつき問題では、である。サウロンの支配するモルドール、作中設定で[黒の国]となっている悪しき国が[太陽の塔]および[月の塔]の双方をかつて領邦内に擁していた防衛側ゴンドール国と黒門を挟んで向かい合っていることだ ―現実世界の歴史にあってはゴンドール国は[キリスト教圏のイスラム勢への防備の砦]となっていたビザンツ帝国のような国家であるととれ、その首都ミナス・ティリスは史上稀に見る包囲戦が行われたビザンツ帝国首都コンスタンティノープル (オスマン帝国スルタン、ソロモン一世ことスレイマン一世後の日にあっての誤記訂正→メフメト2世)に陥落させられた都市にして「ロシア圏内にて隆盛を見ている異説体系などでは」より南にあったとの理解が通常のものである伝説のトロイヤ所在地にも比定される都市) のようなものであったともとれる― 。 
 ややこしい話ともなる中、理解する気がある向きの用に供すべく下に図 ―手に取ってパラ読みした『指輪物語二つの塔』原著ペーパーバックに付された図と英文Wikipediaに掲載されている地図を参考に作成したもの― を挙げる。

 直覚的にご理解いただけるようにした図をもってご察しいただけるかと思われるが、ゴンドール国とサウロンの一つ目が君臨する闇の国(あるいは影の国)たるモルドールは[黒門](およびそのすぐ脇にある旧[月の塔]ミナス・モルグル)を挟んで隣接し、それがフリーメーソン・シンボルへの高度な比喩的言及となっているととれるようになっている ―日本でも馬鹿げた神秘家連中(妄信と無知の毒を社会に広めていた連中)が戦前期より月と太陽にこだわりを見せていたととれるが、そこにも同様の力学を見る向きもいるかもしれない― 。

 さて、それが何故、問題となるのか。続くIII.にて解説をなす。

III.先に起こった九一一の事件でツインタワー(二つの塔でもいい)が崩されたことは多々ある根拠に基づいて
[フリーメーソンの太陽と月の二柱のシンボリズム ―[ヘラクレスの柱]にも仮託されたソロモン神殿の前に建てられた柱― と結びつくものを倒壊させる儀式]
であったと述べることができるようになっている(言っておくが、その儀式を主催したのはイスラム過激派などでは絶対にない。また、フリーメーソンは被害者ではなく加害者に多くの成員を抱えている組織であると言える。九一一を起こすことを諸種様々な媒体で前言していた者たちの色合いからして、だ)
 その点については、そう、九一一の事件がフリーメーソンのシンボリズム体系に見る二柱の柱を崩す儀式だったということについては
[呪われた世界とプログラム拘束の魂ら(九一一にまつわる儀式性詳説I)](クリックすることで遷移)
との題から始めている当サイト内の解説部をお読みいただければご納得いただけるであろう。ワールドトレードセンターの細部にかかわる視覚的根拠とそれと結びつく文献的根拠がいかな反論をも叩き潰すものとして存在していることをもって深くもご納得いただけるであろう。明言する。
 ここではそう述べ、委細を本サイト他所に譲ったこと ―九一一の事件がソロモンの神殿の前の柱を崩した儀式であったこと― を前提に話すが、次のようなことが問題になる。

・九一一の事件で崩されたのがソロモン王神殿前に立つ柱の等価物 ―太陽の塔と月の塔と結びつくそれでもいい― であるのならば(実際にそうであると本サイト内他所で立証していると再強調しておく)、そのことはトールキンのフィクション、凝りにも凝ったフィクションの作中設定に引き直せば次のように言えるであろう。
ゴンドール国の防備の要が一挙に崩された、あるいは、闇の国モルドール(あるいはモルドールへのゲートとなる[黒門])の前に ―そこより軍勢が進発した際に― 前に何も遮(さえぎ)るものがないとのことになった
 上は馬鹿げたこじつけとは言えない。先のII.の部で ―繰り返しになるが― 次のことを指し示しているからだ。
「トールキンの『指輪物語』 ―なかんずくそのうちの第二部『二つの塔』― という作品はフリーメーソンの月と太陽と目に結びつく柱のシンボリズムを意識して書かれている節がある。如実にある。そして、フリーメーソン象徴体系にあっての月と太陽と結びつく柱の位置づけは主にソロモン王神殿の前に立つ柱であり、一つ目のサウロンおよび魔法使いサルマンとはソロモン(あるいは「サ」ロモ「ン」)を意識して生み出されたキャラクターである風がある」
 そして、(トールキンが用意した結末とは異なる形にて)、現実に[ツイン・タワー](月と太陽の柱に仮託されていたと言える九一一で着目された双子の塔)が崩されているのだから、危険な状況と言える ―その危険な状況というものが何なのかについても本記事にあっての後の段で考えられるところを指し示す― 。 

・トールキンはハイ・ファンタジーないし大人のファンタジーなどと称される『指輪物語』にあってホビットらの決死の踏破行によって ―紆余曲折こそあれ― 忌まわしき力の指輪が[滅びの山]で滅せられ、結果、サウロンが力の拠り所を失い消滅するさまを、また、サウロンの邪悪な軍勢が敗退を喫すさまを描く。そうして『指輪物語』という物語は[中つ国の長き争いの歴史に終止符が打たれる]とのこの上ないハッピーエンドで終わる。が、それが[反対話法]であるとしたらばどうか。私とてそうであるとは思いたくはないのだが ―当たり前だ― 、トールキンが意識的にか無意識的にか『指輪物語』に反対話法を込めさせられている可能性を考えざるをえないとのことがあるのである。
 より具体的には
(分析したところ)『指輪物語』の世界観では象徴主義にまつわる寓意が現実のそれと逆転されている
とのことがある。現実世界に見て取れる寓意を意図的に逆転させ、「これはお伽話です」と言うにとどまらず、逆のことが起こると解釈させるようにしているととれもするのだ。
 その点、ファンタジーの世界ならぬ現実の世界では
「洋の東西で太陽は男性的象徴、月は女性的象徴と看做される」
との側面がある(※下にての補足部も参照のこと)。それに対し、トールキンの『指輪物語』の世界観では太陽が女の象徴、月が男の象徴とされているのである(『指輪物語』の中では太陽が女性sheとして月が男性heとして称される。それは『指輪物語』のやたらと凝った作中設定で月の運行を司る神格が男、太陽の運行を司る神が女であるから、とされている)。

補足現実の世界で太陽が男、月が女と表される傾向がある点について解説を講じておく。
 その点、西洋の錬金術の象徴体系では太陽を王、月を女王の象徴とするとの観点があった ―疑う向きは sun king, moon queen, alchemyなどと入力して調べてみればよい。きちんと調べれば、数百年前の書籍に付されたそれ絡みの版画も目に入ることと思われる― 。
 また、東洋の陰陽思想では西洋錬金術の発想法と同様に[太陽]すなわち[陽]は男性原理と対応付けさせられ、[月]すなわち[陰]は女性原理と対応付けさせられている ―陰陽、太陽、月、男、女などと入力して調べてみればよい。そのような思考法があることが分るはずだ― 。
 そうしたこととも関係しているのだろう、自分たちが駒として乗っかるものとしての白黒のチェス盤紋様などに拘らされているような者たち、フリーメーソンの代表的紋章は男と女、陽と陰との組み合わせを指し示すものでもあるとの観点があり(上からのコンパスと下からの定規を合わせ真ん中にGの字を配置する有名な彼らの紋章は男女や陰陽の結びつきを指し示すとの観点が流布されている)、そのフリーメーソンだからこそ[太陽の柱 ―(陰陽でいうところの白/陽の柱)― ]と[月の柱 ―(陰陽で言うところの黒/陰の柱)― ]に固執するのだろうという見立ても成り立つ
 以上のように太陽と月を男と女の象徴と看做す伝統は根深くもあるのだが、に対し、次のような反論を講じる向きもあるかもしれない。
性の概念を文法に持つ言語にあってラテン語のように太陽に男性名詞、月に女性名詞としての位置づけを与えるものもあるが、そうではない言語もある。また、日本では天照大神(アマテラス)が女性でその弟、月読尊(ツクヨミ)が男ではないか。北欧神話でも太陽と紐付けられているのは ―マイナーな神だが― ソールという女神であり、同じくもの北欧神話で月と紐付けられているのはマーニという男の神だ(:ここではギリシャの太陽神アポロンが男でギリシャの月の女神アルテミスが女であること、また、アマテラスには原初、[男の蛇の神]であったとの異説があることは置く)。そうしたことから太陽が男で月が女である、というのは一般的法則とまでは言い切れないのではないか
 そうした物言いに対してはこう応えたい。
細部は別としておおよその流れで洋の東西にあって太陽が男と対応づけさせられ月がその逆である、という伝統があることを問題視したいのである

 そのようにありうべきこと(というより実際にそのように見てとれること、か)を目立って逆転させているからこそ、述べるが如しのこと、「トールキンの作品は[反対話法]の賜物ではないか」、と疑うのである。
 そして、そう解釈すれば([反対話法]であると解釈すれば)、 実際に九一一の事件が象徴主義との接合を見せつつも発生していること、すなわち、
[ゴンドール国の二つの塔を打ち壊し邪悪な目の影響下にある者達が勝利すること ―映画『指輪物語―王の帰還―』劇中では敵軍のオーク指揮官が「人間の時代の終わりである」といったことをほざいていた― を想起させもするものとしている発生していること]
と話の辻褄が ―実に嫌な感じで、だが― 完全に合うのである。


 図の上部は東洋の陰陽思想にて太陽・男性原理が陽の属性のものとされていること、反対に月・女性原理が陰の属性のものとされていることを指し示すべくのものである。
 対し、下の部はトールキン小説『指輪物語』にあっては上の部で示しているようなことが逆転化されていることを示している。
 そこに「反対話法の匂いが感じられなくもない」というのがここにて問題視したきことである()。

(※尚、上図の上の部では中央に[指輪](状の形状)を配しているが、それは[指輪](で指し示されるもの)が我々の生き死ににも関わる重要な話と接合している、[遠大な操作の目的]との絡みで接合していると見、そのことを上図程度のものからでも「まずもって」訴求しようと考えたからである。
 につき、東洋にあっては[陽]と[陰]に対応する[男]と[女]の結婚の象徴として何故、西洋キリスト教が[男女一対の指輪]を採用したか、その意味を考えられたことがあるだろうか。常識人は指輪の縁起由来など一切顧慮せずに結婚指輪の存在意味について、
「それ(指輪)が
[結婚とは男女の契約でありその契約の実効性を担保する手段が要る]
(もっとロマンティックに)[愛で結ばれた男女の絆の象徴が求められている]
といった考え方に最も適合する効率的な形状 ―指に嵌めておしまいという意味で効率的な形状― を有したものだからだろう」
などと述べるところだろうが、この私はそこに[やらせ]の臭いを感じているのだ。
 インドのヒンドゥー教徒の既婚女性が[ビンディ]という顔料を結婚の証しとして眉間につけること。[硫化水銀](西洋では蛇の杖を持つ神マーキュリーと呼称を共有する水銀/東洋では竜の血との語感を有した言葉たる辰砂と同義たる水銀)によるビンディという顔料を(結婚の象徴として)眉間につけること。それが蛇を巻きつけた姿でよくも偶像化されるヒンドゥーの神らの似姿に第三の目 ―サウロンの目を想起させるしメーソンのシンボリズムの中空を浮く目を想起させもする第三の目― が描かれているとの一事に関係しているようにも「見える」といったことに通底する[やらせ]の臭いを感じているのだ。
 その点、私の嗅覚が誤ったものを嗅ぎ取った可能性に期待したいとも考えていることなのだが、
男女が結婚の契約の証しとして指輪を用いる風習がこうも一般化することになった背景には男女(陽と陰)を、光と闇で体現されるものを指輪(で象徴されるもの)で最終的に結び付けるのが、人間を地に[養殖]してきた本当の理由となっているからではないのか、と穿つのである(であるから、「偏執的に」そうした比喩がそこかしこに見て取れる/[部分的にやらせの人形となっている者達]の挙動を介したものとして見て取れる、とも考えられる)。
 それにつき、
「肝心要の主語が欠けている ―何がわれわれを[養殖]してきたのか言及していない― し、主語が欠けていなくともそうした話を理路整然と多くの人間の納得させるようになしたという人間にお目にかかったことなどない」
といった指摘をなしたき向きに対しては「当サイト他記事内容をよくよくもお読みいただきたい」と述べさせていただくにとどめ、寛容性をより世間基準に近づけ、
「結婚指輪と人間の養殖目的などということを結びつけるなどあまりにもぶっ飛んじまっている話 ―パラノイアスティック(体系妄想症的)なる話でもいい― だろう。そんな話は容れる/容れない以前に聞く気にすらなれない」
との意見(至極当然の意見)呈示をなしたき向きには「まずはご自分が世の中についていかほどまでに知っているか振り返っていただいたうえで本記事でこれから書いていくことと当サイト上での同様の話に対するより煮詰めた詳述部の読解をなしてほしい。そして、常識で世の中を眺めることの問題性に少しでも気づいていただくことを希求する」とまで述べさせていただきたい ―相応の程度の人間に固守させしめている[常識]を打破できない限り我々は[絶滅]の憂き目にあうと諸々の根拠に基づいて自然にとれると言えるだけのことがある
(:結婚指輪の話が私の嗅覚が臭いの無いところに臭いを嗅ぎ取ったケース、[養殖]目的と関らぬ話だったとしても[絶滅]が副次的効果たる[養殖]のことは動かぬものとして語る ―「騙る」ではない― ことができるのである)。「実に残念だが」それが現況だと述べざるをえないのだ。尚、[常識]の世界では不可解極まりなくも聖母マリアの処女懐胎といった[ミラクル]を信じることさえ許されているキリスト教、その中のローマカトリックに対するギリシャ正教(東方正教会)にての[婚配機密(コンパイキミツ)の儀]に関しては1000年以上前から指輪が結婚する男女間にて交換されていたことを示す資料があるようだが、そうした指輪交換の伝統の長さはここでの話(男女を陽と陰を指輪で結びつけるのが終局的目的であるととれるの話)を否定するものではない。人間が[意図]をもって養殖されているとしたらば(私はそのように考えているし、くどいが、実際にそう述べざるをえない理由が多々ある)、その[意図]の比喩を1000年単位で垣間見ることに(話の常軌を逸した奇矯さは置いておくとして)無理はなくなるからだ― )

IV.トールキンの『指輪物語』が主軸となる設定をそのまま踏襲している作品であるとも言えようリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指輪』のことをも交えつつ重要な話をなす。
 先述のように『指輪物語』も『ニーベルングの指輪』も
[絶大な魔力を蔵するも結局は破滅しかもたらさない指輪]
を中心に物語が展開する。そこにいう指輪、英語で表せば、[リング]と包括的な意味合いをもった単語で表されるが ― Der Ring Des Nibelungen The Lord of the Ringsとの表題にある通りである― 、その[リング]と結びつく
[史上最大の"実験"用の装置]
が世界中の科学者らの協賛によって構築されており、その装置には[世界を崩壊させる力]が蔵されているとの話がある。
マイクロブラックホールを生成しうる装置と多くの人間が「純・理論的に」認めている超巨大粒子加速器LHC(Large-Hadron-Collider)]
がそうである ―LHCは周長27kmの超巨大なリング(指輪でもいい)状の構造をとるリング状粒子加速器( ring accelerator )である― 。

 以上述べたうえでここからが本記事本題だ。下の各点A.からC.にて述べるようなことにつきよくよくも考えていただきたい。

A.直近、名を挙げたリング状粒子加速器LHCはマイクロブラックホールを生成しうる装置であると一流の学究も含め多くの人間が認めるものだが(:ただし世間的に一流とされるところの学究ら ―他ならぬLHC実験主催者サイドの科学者も含む― は「マイクロブラックホールは生成されても即座に蒸発し科学知見の発展をもたらすにすぎない」と強弁する)、同LHCに関しては
「マイクロブラックホールと同様に時空間を結びつけるゲートたりうるワームホールことアインシュタイン・ローゼン・ブリッジを生成しうるエネルギー規模を実現する装置である」
との見解もまた出されている(:ロシアの権威ある数学研究機関の職員複数名がその可能性を呈示し、また、LHC運用をなすCERNの枢機にかかわる職員がそのことにつき ―どういった心中でか― 同じくもの可能性論に言及して物議を醸してもいる)
 そのワームホール生成可能性の話につき、まずもって問題としたきは、である。
 先の九一一の事件の発生を露骨に前言している映画群があり(:当然にしてこの時点で信じがたい話ととらえる向きもおられようが、多くの映画が九一一の事件の発生を事前予告する描写を露骨に含んでいたというのは[事実]なのだ。疑う向きは海外情報に強き動画サイトその他から[現物確認]をなしていただきたい)その数多ある九一一の予告映画群の中に
[隕石によって次元が分かれた世界に存する恐竜人が次元を接合させようとしているとの粗筋を有した映画]
が含まれている、ということがある ―次元を結びつけるとの話はワームホールことアインシュタイン・ローゼン・ブリッジを想起させるとは述べたとおりだ― 。
 そして、さらにもって問題なのは
[九一一の事前言及に関してはブラックホールやワームホールとの絡みで重要視されるべきであるとの背景事情が(予告映画の話から「離れて」も)存在している]
ということである。
[正統派学究の世界にてワームホールがタイムマシンと結びつくことを概説したことで耳目をさらった旨、知られている著名物理学者キップ・ソーンの手による[ブラックホールやワームホール、そして、タイムマシンの問題について概説した書籍]に九一一の事件発生の事前描写ととれる側面が現われているとのことさえある]
とのことがあるのである。

 上の異常無比なる話を一言で表せば、次のようになる。

「子供向けの荒唐無稽映画『スーパーマリオ魔界帝国の女神』(一九九三)が[上階に風穴が開き倒壊してくツインタワー]を登場させて九一一の事件を前言するようなことをやらかしていた。そこで問題になる[恐竜人 ―全くもってありうべき表現だ― が次元間を接合しようという手法]を我々の知る科学体系に当てはめればワームホールの人為的生成ということになるが、そのワームホールがタイムマシンと結びつくことを論じたカリフォルニア工科大学(カルテク。物理学をはじめ理系分野の名門中の名門大学)のカリスマ物理学者キップ・ソーンの著名な著作 ―1994年刊行の著作― にもまた九一一の事前描写ととれる側面が表れているとのことさえある」

 上につきワームホールと九一一の事前言及映画が結びついているとの話については本サイト内の下記事、
[CERNと「重力の扉」開閉の懸念(九一一にまつわる儀式性詳説X)](クリックすることで遷移)
を参照いただきたい(:上記事ではゲート ―あるいは過去へのレコンキスタを可能ならしめるタイムマシンか― が出来上がれば、我々全員が殺されることになるだろうと述べるところの根拠 ―ごく一部の愚か者らは「大洪水を生き延びた」と妄言宗教が伝えるノアのように自分たちだけは助かるだろうと心性醜くも妄信できているようだが我々人類は全員殺されることになるだろうと述べるところの根拠― を部分的に呈示している。抗う力と意志を有した向きがそうした情報を検討しなければ、私のやったことも無駄骨、水疱に帰すだけだろうと考えつつもだ)

 他面、カリスマ物理学者と九一一の前言が結びついているとの話

との著作と九一一の事件の関係について論じた[私が構築したところの他媒体]を参照いただきたい。

B.既述のようにブラックホールを生成しうる粒子加速器はリング状をとる。そのリング状をとるとの特性、
[粒子が回転のなか、加速されると螺旋軌道を描くようになり、そうもした中、回転リズムに呼応して振動する電圧をかけることにより加速の維持が可能となり、それによって、原子核を粉砕するに足る高エネルギーが得られる、とのアイディア]
に端を発して最初の[70cm未満の装置]から遂に[27kmの装置]になるまで至った円形粒子加速器のあるべき姿として不可避のことのようであるともとれるが、問題は、である。
 絶大な力 ―(それなりの手法でひと押しさえすればブラックホールやワームホールの類、[タイムマシンのような時空間移動装置にも宇宙が許しうる限り最善のコンピューティング(データ処理)の原動力にもその他、ワグナー『ニーベルングの指輪』に登場した北欧神話の黄金の林檎が約束するような不老不死の実現を込みにしての究極的テクノロジーの実現手法にもなりうるとされるブラックホールやワームホールの類]を(我々を全員殺した上で)もたらしうるだけの絶大な力)― と結びつく円形粒子加速器、リングとして『ニーベルングの指輪』のことを想起させる円形粒子加速器の沿革がマンハッタン計画とも密接に結びつき、かつ、ブラックホール理論を発展させた人脈とも密接に結びついていることである。
「広島と長崎に核の二本柱を打ち建てたマンハッタン計画に深くも関わった科学者らによって円形粒子加速器(サイクロトロン)のアイディアは煮詰められ」、
「そうした科学者らによってブラックホールにまつわる理論が進展を見せ」、
「そこにいう科学者ら相互に深い結びつきが見てとれる」
とのことがあるのである。
 それについては本サイト内の
[現代社会で取り沙汰される悪魔崇拝(ボヘミアン・グローブの宴の背後で)](クリックすることで遷移)
と題した記事を参照されたい ―仰々しくものタイトルとはなっているが、上記事の内容は「(本記事以上に)まともである」と明言しておく。なお、同記事の追記部にて[カリフォルニアの古木生い茂る森でのひと夏の集いで悪魔主義よろしくの狂態を演じていると今日、非難されている(流出映像によって非難されている)グループたるボヘミアン・クラブ]に属していた科学者アーネスト・ローレンスの挙動から始まり不快なことが見て取れるとの話をなしている。すなわち、アーネスト・ローレンスが(マンハッタン計画を推進したと[正史]が伝えるボヘミアン・クラブ主催の集いとの関係もあってだろう)円形粒子加速器の発明者にして原子爆弾開発グループにて重きをなす者となっていたこと、そのアーネスト・ローレンスの紹介によってマンハッタン計画に参画することになったのがかのオッペンハイマーであること、そして、そのオッペンハイマーの物理学者としての専門が(現時、円形粒子加速器によって生成されうるといわれているところの)ブラックホールであったとのことを述べている― 。
 私が他記事で提示していることを疑いたき向きは英文wikipedia程度の情報 ―たとえば英文の Ernest Lawrence(アーネスト・ローレンス)のwikipedia項目― を確認するだけでも、あるいは、専門的に突っ込んでことの本質を知りたいのなら The Making of the Atomic Bomb(邦題)『原子爆弾の誕生』などの著作を参照されるとよいだろう()。通史としてでさえマンハッタン計画と[リングとも言えようサイクロトロンの開発者]/[ブラックホール理論の開拓者]が結びついていることがお分かりいただけるはずだ。

(※上に確認の用に供していただくべきのものとして『原子爆弾の誕生』という書物のことを挙げたが、同書物の中には
「サイクロトロンを最初に発明したのは ―その開発の功もあって― ノーベル賞を受賞したアーネスト・ローレンスではなくレオ・シラードであるようにとれる」
との記述が含まれているが、円形加速器の産みの親と世間に認知されているアーネスト・ローレンスにしろ、レオ・シラードにしろ、マンハッタン計画と切っても切れない者たちとなっていることは事実である ―ユダヤ人レオ・シラードが原子爆弾の誕生に与えた影響は極めて大きく、同男は原爆開発のアイディアの大元かつマンハッタン計画の開始の影の大立役者となっていたとも言える。対し、ボヘミアン・クラブ所属者たるアーネスト・ローレンスは若くしての米国科学会重鎮との立ち位置でもってマンハッタン計画推進者とし振る舞い、計画の現場でもウラン同位体分離の試行といった形で貢献していた― 。
 また、アーネスト・ローレンス(粒子加速器開発者)とロバート・オッペンハイマー(マンハッタン計画技術部門指導者にしてブラックホール理論の精緻化をなした者)の親交についても記している書籍『原子爆弾の誕生』という書に関しては
[(まだ大戦がはじまる前にあって)中性子発見の報が届いた折、ゲーテ『ファウスト』 ―浮世での享楽の代償に悪魔に魂を売り払った碩学の話― の現代物理学者「版」置き換え劇がニールス・ボーア研究所祝賀パーティで披露された経緯などが細かくも記されており、そういったことを通じ、建て前と現実のギャップ、『天賦の才の持ち主と褒めそやされつつも実際はそれ相応の存在にすぎない』との想いが当の第一級の物理学者ら自身にもありそうである、とのことが揶揄されるように描かれている]
との側面もある。そうした点でも『原子爆弾の誕生』という書には ―人格に欠陥があるとも伝わる科学者らをさも偉人のように担ぎもするとの科学読み本特有の通弊も見て取れるが― 見るべき点がある)

 また、そうもしたマンハッタン計画、リングと結びつくマンハッタン計画がこれまた九一一の事件と結びついている、とのこともある。
 その点について詳しくは当サイト冒頭頁から[巨人の象徴物(911にまつわる儀式性詳説V)](クリックすることで遷移)と題したページまでの一連の内容を読み解いていく過程でご理解いただけるだろう。

 さて、ここで考えなければならない。

『九一一の事件が後、起こるとの前言事象 ―そのようなものの存在が認められるという時点で奇怪かつ異常なのだが― がブラックホール(的なるもの)と結びついている。だけではなく、その極微ブラックホールを構築するとされる装置たる円形加速器(の原初的形態たるサイクロトロン)を発明した者たちがマンハッタン計画と結びついており、そのマンハッタン計画自体もが九一一と結びついている(と述べられるだけのことがある)。それは一体全体どういうことなのか』

 話が[関係性の弧]を描いているのだ(いいだろうか。論拠を確認していただきたいのだが、私の主観はここでの話にほとんど介在していない。私は現実に観察される事実関係から[関係性の弧]を描いて見せている「だけ」である)。
 そうしたことからも、ある特定の思惑の発露が見て取れると解釈すべきだろう ―「九一一の前言がなされている」時点で思惑の発露があると自然にとれるのだが、問題はそうした思惑がどういった文脈のものなのか、ということである 。

C.ここC.の話は極めて長くなる。としたうえでまずもって述べるが、
[LHCを運用する専門家筋を含む広くもの学究らに生成されうるとされる極微ブラックホール][極一部の専門家のみにLHCによって生成されうると可能性指摘されたワームホール]は重力の怪物としての振る舞い・特徴より相互に結びついている」
と言える(:「ブラックホールを入口にワームホールをエレベーターに時空間の旅行者は旅をする」などと[米国にあっての超紐理論の伝道師]と表される日系人物理学者ミチオ:カクの書物、 Parallel Worlds; A Journey Through Creation,Higher Dimensions and the Future of the Cosmos(邦題)『パラレルワールド』にはある。入り口たるブラックホールが巨大であれば巨大であるほど、ゲートと通路は安定するとその方面の物理学者らは指摘するわけだが)

 そうもして結びつくブラックホールとワームホールのうちのブラックホールの生成懸念がその直截的な効果 ―それが蒸発せず急拡大するものとして具現化すれば我々はスパゲッティのように[細切れにされ無限に引き延ばされて]の秒殺の憂き目にあうとの効果― より訴訟で問題にされた。安全性が確認されるまでLHC実験は停止されるべきであるとの海外で提訴された訴訟で問題にされたのだ。さて、その訴訟の原告の名は[ウォルター・ワグナー氏]という人物である。私はそこに皮肉を感じざるをえない。ワーグナーという姓が『ニーベルングの指輪』をものしたリヒャルト・ワーグナーを輩出したワーグナー一族のことを想起させるがゆえに、である(日本語のWikipediaにも関係者羅列の一項が設けられている[ワグナー家]はリヒャルト・ワーグナーが際立った問題児であったこと、係累の者達がユダヤ人蔑視を掲げての親ナチスとして活動したことをもって必ずしも誉れある一門とは言えない。多くの芸術家を輩出しているようだが)
 私はウォルター・ワグナーという人物当人にそのことにつき確認したいとすら思っているのだが、同人物、粒子加速器を停止すべきだとの訴訟の原告になったウォルター・ワグナー氏がワグナー一門の係累であればすべてが「出来すぎ」ということで問題となる。すなわち、悪しきリングを目立って描く作品、トールキンの『指輪物語』の主軸としての粗筋に影響を与えている作品たる『ニーベルングの指輪』が粒子加速器のリングに結節してしまうからだ(:ワーグナー氏がリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指輪』の特性から思うところがあってリヒャルト・ワーグナーと関係ない身 ―おそらくそうであろうと思われるが― ながら訴訟を提訴したととれるとも述べておく。尚、ワーグナーというのはゲーテの『ファウスト』に登場したファウストの弟子の名でもあり、彼の助力で生成されたホムンクルス ―[ビンの中の小人]― の力でファウストらは(ブラックホールの効用ともつながることだが)タイムスリップなぞをしていると描かれている、とのこともある。海外で提訴された実験停止請求訴訟は結果的に敗訴となり、[なかったこと]と沈静化されつつあるが、ワグナーという人物が本人の意図とは反対のところでそういう役割を果たさせられる ―ファウストのような類のLHC実験関係者らに人類皆殺しを対価にしての時空間操作装置を提供する助力をなすとの役割を果たさせられる― ことになっているとの可能性さえも脳裏をよぎる(:誰も主流の科学者らが異を唱えようとしない中、弱き反対で実験強行名分が却って強化されてしまった可能性さえ想起される)。この私自身、臆病者と卑怯者らが率先して売り払ったようなものを守り通したこの私自身の脳裏にすら『自分は悪魔に嘲笑れ無駄に足掻いて無駄に死ぬことになる運命を背負わされているのではないか』との可能性が常によぎっているのと同様に、である)。

 さらに、こういうこともある。

「ブラックホール実験と揶揄されるところの実験を主催するCERN(欧州原子核研究機構)の設立旗振り役を務めたのはイシドール・ラビ(表記ではIssacをイサクではなくアイザックとするように「イジドール」・ラビとする仕方も)というマンハッタン計画で活躍したユダヤ人科学者だが、そのイシドール・ラビの名にさえ[奇怪な偶然の一致]を感じたくもなるとのことがあるのである。
 イシドール・ラビのイシドールと[スペリング・発音が似た人物]が気になるところに登場してくるのだ。どこにか。イシドール・ラビが丁度、CERN ―ブラックホール生成実験と揶揄される実験の主催者機関― の設立に尽力し、その代表者の名のひとりに名を連ねることになった1954年(CERN設立年)という年と同年に初版が世に出た『指輪物語』 ―第二次世界大戦中にトールキンがものしはじめていたともされる『指輪物語』三部作の出版は1954年から1955年に立て続けになされた― 作中に、である。
 具体的にはロード・オブ・ザ・リングスにてのイシルドゥア(Isildurとの人物がそうである イシドゥール「Isi」「d」o「r」イシルドゥア「Isi」l「d」u「r」とあいなる。名前構成アルファベット中、イシィドールとイシルドゥアは[イシルドゥール6字中の5字/イシルドゥア7字中の5字]を共有していることになる。などと述べると、『[牽強付会(こじつけ/far-fetched)の極]である』と思われる方も多いだろう。殊に「この世界で偶然の一致とは思えぬことが多発すること、そうしたことを必然として被操作者に無意識的に(unconsciouly)という形でか体現させうるメカニズムが介在していると示せること」があるのをご存知ない向きならば、だ。だが、この世界では馬鹿げたこと、すなわち、[これは到底、人為のなせることではないとのこと]が「人間の挙動を介して」具現化してきたとのことが歴史上、類例の列挙に暇がないとの形で示せることは当サイト公開著作『人類と操作』で嫌となるほどに解説していることである。筆者に呆れたとの向き、あるいは、信じがたいとの向きはそちら(『人類と操作』)を読み、かつ、続く話を読んだ上で最終的なここでの話に対する評価付けをなしていただきたい、と思っている(:尚、ここでの話をはなからトンデモと決めつけ取り合わないでもらっても私としては一向に頓着しない。また、そうした向きが当サイト全体の内容に対してそう決めつけても一向に頓着しない。私は宗教の徒輩ではないのでおしつけなどしないし、当サイトで述べているようなことをはなから一方的にトンデモと指弾するが如きの雅量(ホスピタブリティー)の人間が己一個の小利の問題を越えて我々全員のために何かを変えたり何かをなせるとは露も思わないからだ) 。

 その点、『指輪物語』に登場するイシルドゥアという人物はかつてサウロンを敗った伝説の英雄王の息子にしてその後を継いだ王であり、彼、イシルドゥアは父に斃されたサウロン(:一つ目存在としての姿を映画でも描かれていた、何度も復活している『指輪物語』における悪の本尊)の手から[太陽の光で輝いていたこと]を命名由来とする名剣 ―ナルシル(Narsil)と呼称。wikipediaにも一項目設けられている空想小説内の著名なガジェット(小道具)― で切断し、そこから[呪われたリング]を回収したとされる。が、同イシルドゥアはリングを破壊することを拒否、秘宝として保持しようと考えたところを結局はリングの呪いによって滅ぼされた存在との設定になっている。
 対し、イシドゥール・ラビが『指輪物語』三部作の初版刊行期とほぼ同時期に設立に尽力したCERNとは史上稀に見るリング、そう、
[この地球上でかつてなかったほどの高エネルギー状態を狭い空間内に人為的に作り出すためのリング]
の設計・建設・運用に特化している機関といっても過言でない位置づけに現時、立っている機関である(その伝ではCERNは[力 ―超高エネルギー状態― の指輪]の持ち主でもある)。

 以上をもって偶然と思うだろうか。のちに一つ目と結びつくようになった冥王サウロン]から[太陽と月と結びつく名剣]指輪(リング)、ワーグナーの『ニーベルングの指輪』同様、所有者を破滅にいざなう指輪を奪った英雄の名(イシルドゥア)と史上最大の世界に破滅をもたらすとされるリングを運用しているCERNの創立者(イシドール)の名前が近しいものであることを偶然と思うだろうか。この際、『たかがフィクションに意味を求めすぎる』との相応の人間が呈しがちな異見のことは置いておき、年次 ―1954年(1955年)という年次― を込みにしての一致性も加味して私にはどうも偶然とは思えない。[指輪を破壊することを拒否、指輪の存続を良しとして指輪に殺されることになったイシルドゥアにまつわる作中設定]および[太陽と月と一つ目の先の段で述べたような『指輪物語』"にも"見いだせる奇怪無比な関係性]のことが脳裏をよぎりもし、だ。
 それにつき、述べておくが、ロボットのように中身がからっぽの科学者が完全なお人形さんとして女子児童がままごとをやるときのようなやり口でそれ相応のところに配置されていると言いたいのではないのだ。ある一定のレベルで人間は無意識的な ―あるいは意識しての― 操作に晒され、結果、偶然では絶対にありえないことが現出している可能性がある、十二分にあると述べているのである。それをよくも示しているのが当サイトの
[LHCとブラックホールの発生リスクの関係が問題となりだした始原期](クリックすることで遷移)
という記事である。同記事をお読みいただければ、そも、粒子加速器実験をめぐるリスクの問題が何でそこにいかなことが介在しているのか、ということをよくよく理解していただけると考えている。


『指輪物語』作中設定にその名を見いだせる王イシルドゥアは「月と太陽と結びつく」宝剣ナルシル ―(映画『指輪物語―王の帰還―』でアラゴルンが背信の亡霊の軍勢を動員する際の証につかった剣も同ナルシルの残骸を鍛えなおした剣であるとの作中設定となっている)― によって肉体を伴っていた折のサウロンから指輪を回収することになった。当サイト用に作成した図にあってはそうしたことに見いだせる要素、フリーメーソン・シンボリズムと通底する太陽と月と一つ目の結びつきに指輪(リング)が介在しているとのことに
[史上最大の力のリング]
の作り手たるCERNを設立した人間の一人となっているイシドール・ラビにまつわる比喩が込められていかねないことを問題視している。

 (C.の段の話を続け)また、非常にややこしい話ともなるが、私としてはイシドゥール・ラビのファーストネーム、イシドゥールの本来の語源も軽んじざるべきものであるととらえている。
 英語版WikipediaのIsidore項目、Isidorと同一視される名前を扱った項目の記述を参考に述べれば、Isidore(Isidor)の由来は
gift of Isis ](イシス神の恩寵)
という語のギリシャ語、転じて、[ gift of God ](神の賜物)の語感の言葉であるとされている(イシス神は元来、エジプトの女神の名だが、イシスという語自体がエジプトと人的交流あったギリシャ語に由来する言葉である ―イシスはエジプトでは[アセト]と呼ばれる名の女神だった― )

 エジプトのイシス神とは星天で最も輝く星にしてナイル川の氾濫時期を判断する星として非常に重要視されていたシリウスと結びつく女神であるとされている。私はそのシリウスが非常に重要であるととらえている。につき、「人類がシリウス星系から来たウチュウジンに文明を授けられた」などと一見すると知性の欠片もない ―それを無条件で唱導すれば知性の欠片もないとのことになると言っている― 説を唱えたいわけではなく、シリウス(イシス神の体現した星)が
[歴史上、ブラックホール理論の進展に甚大な役割を果たした白色矮星(シリウスB)]
と密接に結びついていると ―専門書を精読し― よく知っているからだ(:具体的にはそれは書籍 Empire of the Stars Friendship,Obsession and Betrayal in the Quest for Black Holes邦題『ブラックホールを見つけた男』に掲載されているチャンドラセカール限界(Chandrasekhar-Limit)]という白色矮星シリウスBを分析対象としたうえでの天体物理学上の概念の発見にまつわる話となる)。  そして、そのこととも関わるように[イシスとその妹ネフティス神の比喩]が古代の文献 ―ローマの史家プルタルコス由来の文献― に[往時の知識と技術では目視不可能性より言及できぬはずのシリウスB(シリウスの双子星)とシリウスの関係性の比喩]が込められているとの説が「一面で」説得力を伴って存在していることを知っているからだ ―私はそのようなことをはじめて主張するにいたった英国人論客が展開している説に見る[結論]を容れているわけではないが― 。
 以上については本記事の続く段でも図解を講じるが、細かくは当サイト内の
[CERNと「重力の扉」開閉の懸念(九一一にまつわる儀式性詳説X)](クリックすることで遷移)
という他記事の追記部を参照されたい。 とにかくも、そうしたことより、イシドゥール・ラビという名は
[神の賜物のラビ]ないしは[ブラックホール理論の発展に寄与してきた星(シリウスB)の双子星の恩寵のラビ]
とも言い換えられるとのことを重く見ている(:尚、知る向きも多かろうが、[ラビ]というのはユダヤ教における[宗教的指導者階級]や[尊敬すべき知識階級]を指す言葉である)

 さて、イシドゥール・ラビが[イシスの恩寵のラビ]あらため[ブラックホール理論の発展に寄与してきた星(シリウスB)の双子星の恩寵のラビ]であるととらえようと思えば、とらえられることは ―あらためて述べれば― 次のような観点から着目すべきことになる。
 第一の観点。イシドゥール・ラビ ―表記によってはイジドゥール・ラビ― が創設者となったCERNはブラックホールを生成しうるとされる機関である(今、この地球上でブラックホールの人為的生成に最も近しい機関はCERNであるとされている)。それは[ブラックホール理論の発展に寄与してきた星の双子星の恩寵のラビ]という解釈が出てくることと不気味につながる(:尚、ラビを指導者として推戴するユダヤ系に属する科学者ら ―イシドゥール・ラビもそのうちの一人と言えもする― がナチスの脅威もあってマンハッタン計画(CERNを生んだ計画とも言える)の一大推進勢力となったのは歴史的事実だ)
 第二の観点。伝わるところではイシドゥール・ラビはブラックホール理論の大家であるオッペンハイマーとも親交厚かったようだが、そのオッペンハイマーがマンハッタン計画に参画する前の1939年に同僚の科学者らと世に問うたトルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ限界はブラックホール理論のさきがけとなった白色矮星の崩壊時の挙動における質量上の差異を論じるチャンドラセカール限界、すなわち、白色矮星シリウスBと密接に結びつく天体物理学上の概念の後続する焼き直し版であるとも言える。そこからも、
[ブラックホールに関わるチャンドラセカール限界(シリウスB限界でもいい)]→[ブラックホールにまつわる初期理論の発展に最大限貢献したオッペンハイマー]→[(オッペンハイマーの親しき知己でともにマンハッタン計画参画者たる)イシドール・ラビ]→[CERN(ブラックホール生成実験の主催者機関として後ろ指さされる機関)]
との関係が奇怪なものとして導き出せるとのことがあるこうした話は先に記したアーネスト・ローレンス ―CERNで用いられるサイクロトロンの開発者― とロバート・オッペンハイマーの関係にも当てはまると既述のことだ

 補足

 直近、イシドール・ラビのイシドールの由来が ―英文wikipediaなどにも記載されていることとして― [イシスの恩寵]にあると述べ、あわせて、そのことが問題視される理由について言及した。[枠線で囲っての補足部]として設けた本段ではその点について、すなわち、イシドール・ラビのイシドールがイシスと結びつくことを問題視する理由について詳しくもの解説を「多少、長くなりつつも」なすこととする。

 としたところで下の図をご覧いただきたい。

 [上掲図左]はグレコ・ローマン式(ギリシャ・ローマの特徴を体現した様式)のローマ時代のものと伝わるエジプトからの渡来神イシスの像。[上掲図右]は黒魔術本尊としての色彩を有するとされる女神にして日本にいうところの道祖神としての役割をも期されていたとされるヘカテ ―三面の顔を持つ存在/番犬を連れた冥府の番人― の彫像が近代にあって模写されたもの。
 さて、イシドール由来との兼ね合いでここで問題視したきは上にて偶像呈示をなしたイシスとヘカテが関係していること、そして、それが ―およそつながるべくの話とは常識人には想起できぬところだろうが― ブラックホールの理論的発展にまつわる話に関わってくることである。

 以下、その根拠をa.からf.との形で順序表記する。

a.まずイシス ―エジプトの女神のギリシャ語名― についてだが、彼女は(本補足部の外で述べたように)[シリウス]と密接に結びつく女神だ。死者の保護者でもある彼女がシリウスの神格化存在[ソプデト](あるいは[ソティス]Sopdet/Sothis)の同一物ともいうべき位置づけを与えられていた存在であるゆえに、である。

b.イシスについての話を続ける。ローマ時代の史家プルタルコスの著書 ―具体的にはMorals『倫理論集』― によると
「イシスと彼女の姉妹にあたるネフティスはアヌビス(エジプト神話における犬の顔を持った冥府の裁判官)によって[見える存在]と[見えない存在]([地下のあの世]とも)に分割されている」
とある。そのようにイシス=シリウスが[見えるもの]であるのに対し、ネフティスが[見えないもの]であるとされていることに[シリウスA][シリウスB]の関係、星天にあって最も目立つ星にしてナイルの氾濫時期を知らせていた[シリウスA](主星)と重き白色矮星で19世紀にあっての天体観測技術の発展を見るまで目視不可能性より人類にその存在を知られることがなかった[シリウスB](伴星)の関係が描き出されているとの説が「他の根拠も存在しているために」一面で説得力を伴って存在している(:ただし、そうした説の唱道者 ―ロバート・テンプルという人物― は[多くの虚偽]をも持説の中に入れ込み、かつ、その説が向かう結論も神秘主義者のような類が(おそろしくチープな物言いで誉め殺すように)担ぎがちな[シリウス星系由来の地球外生命体介入説]、すなわち、世間にあって鼻で笑われる説の域を出ない。その点についての詳細は「本記事の上の段にて」リンクを張っている当サイトの他ページの解説内容を参照していただきたいとしつつ述べるが、私としては『シリウスBの比喩がアフリカ未開人の伝承の中に含まれているといった話が本当でもそれがウチュウジンと呼称される存在の介入の確たる証拠になる』とは考えていない。並行宇宙に我々の世界と同じような地球があったらばどうか。その場でも星天にあって目立つ(地球から見て目立つ)シリウスが研究対象その他の意味で重要視されていたと考えればどうか。そういう観点からである ―そして、我々の世界にはそれが真実であれば納得がいく要素が多々、存在している― )

c.さて、a.の段で述べたようにイシスはシリウスと結びつく女神だが、同様に彼女イシスはヘカテ ―上掲図右にてその彫像の近代スケッチを挙げた女神(多く三面の姿をとる番犬を伴う女神)― と結びつくとの説がある。たとえば、ルキウス・アプレイウス(Apuleius)というローマ時代の著述家が記した著名古典 The Golden Ass『黄金のロバ』 ―同『黄金のロバ』、ローマ時代の小説として唯一、完全体として現存するとされる作品である(ラテン語文学の最高峰ともされトロイヤ戦争のその後の顛末を描いている『アエネウス』は未完で終わっている)― にそうした記述があるといった形で部分的なる史料上の裏付けを伴ってである直に確認したこととして猥雑な内容を少なからず含んだ古典ながらも『黄金のロバ』には[イシス]がギリシャの冥府の女神ペルセポネの本名であるのと同時に三面のヘカテの本名であるといった記述が認められる
 そうもしてイシスと結びつくととれるヘカテだが、同ヘカテは地獄の番犬ケルベロスとも結びつくとされる。その点につき、端的に述べれば、
「ヘカテが多く[三面]であること、[番犬]を連れていること、[冥府を守護する存在]であることゆえに」、
と言っても差し障りないだろう(ケルベロスは[冥府を守護]する[三面]の[番犬]である)。
 とすると、イシス→ヘカテ→ケルベロスとあいなるわけだが、そうして矢印が向う先たるケルベロスもまたシリウスとかかわる存在であるとの見立てが成り立つだけの事情がある
 お気楽で世の中につき深く考えるのを厭うといった向きほど、『馬鹿げている』ととられるかもしれないが、
・ケルベロスが一つの伝承では「3つではなく50の頭をもつ存在である」とされていることが洋の東西で[犬の星]といった語感(西洋での Dog Star、東洋での天狼星)で呼ばれるシリウスに対する不可視存在たる双子星シリウス「B」の公転周期50年を想起させるとの物言いがなされたりもするのだ ―無論、これだけでは牽強付会(こじつけ)を出ないとされてしまうだろうが― 。
・ケルベロスが[イシス(シリウス。見える存在)とネフティス(イシスと姉妹関係にある見えない存在。シリウスBも目視できない存在である)の両者を分かつ存在たる冥府の犬面の審判官たるアヌビス]先のb.の段で言及したプルタルコス由来の記述)と結びつくとの話があったとされること。古典時代よりの話としてあったとされていることより、ケルベロスはより[犬の星とされるシリウスのシリウスBのことを想起させる存在]へと近づく
といったことがある ―冥府の犬がらみの存在たるアヌビスとケルベロスを介して― 。

d.ここで唐突となるが、ダンテの the Inferno『神曲:地獄篇』の話をなす。『地獄篇』には地獄の中心に[三面のヘカテないしケルベロス状のルチフェロ(サタン)]が横たわるのだが、ダンテの『地獄篇』については
ルチフェロを中心としてブラックホールの構造が表出している
との見方をなすこともできる。地球のコアの部分に位置するルチフェロ(ルシファー)を[ブラックホールの中心たる特異点]の象徴物ととらえてのそういう見立てもできるようになっているのであるその点についての委細についても当サイト内の解説ページ ―上の段にてリンクを貼っている[CERNと「重力の扉」開閉の懸念(九一一にまつわる儀式性詳説X)]とのページの追記部― を参照いただきたい

e.ブラックホールと来たところで述べるが、
ブラックホール理論の開闢(かいびゃく)]には白色矮星シリウスBに対するチャンドラ・セカールの分析が大きな役割を果たしていた(:チャンドラ・セカール限界[Chandrasekhar-Limit]の話は本記事でも先に言及している)
 その[チャンドラ・セカールのブラックホール理論開闢をもたらした挙動]と結びつくシリウスB ―19世紀まで発見されなかった不可視存在― と「古典時代の知見から」不可解極まりなくもの結節点を有していたととれるシリウス象徴神格とも言うべき女神イシス。彼女がイシドゥール・ラビ、ブラックホールを生み出しかねないとされるリングを構築・運用しているCERNを設立した男の名の語源(エティモロジー)と密接に結びついている女神であるとは先の段で既述のことである(Isidor→ Gift of Isis[イシスの恩寵])。

f.以上述べてきたことは[実に不気味なこと]である。
 直近、d.の段で述べたような[ダンテ『地獄篇』と結びつくブラックホールの隠喩]「など」の兼ね合いもあって
死者の世界(陰の世界)と生者の世界(陽の世界)の扉にまつわる伝承にブラックホールと接合する比喩が介在している
ということを私は本サイト上の他所にて解説しているのだが ―該当頁[CERNと「重力の扉」開閉の懸念(九一一にまつわる儀式性詳説X)]の追記部を参照されたい― 、そのことを裏付けるようなこととして次のようなことが言えてしまうからだ。

([まとめ]も兼ねての話として)
ケルベロスと接合するヘカテは
[生者と死者の境界にまつわる神(後の時代には黒魔術の本尊)]
とされ、同時に門の神たる同ヘカテは[生死両界の扉]を想起させる存在となる。他面、イシス(:ヘカテ同等物とも伝わる同イシスはローマ期古典『黄金のロバ』ではIsidisと表記され、その名はIsidorを強くも想起させる)もまた[死者の守り手]、かつ、[生と死と再生を管轄するソティス(シリウス体現存在)との同一存在]とされており(:ソティスとの一致性については英文wikipediaのIsis項目にもそれなりのことが書かれている)、彼女イシスもまたその伝で[生死両界の扉]を想起させる存在となる(それについてはイシスとネフティスが ―プルタルコスの著作によれば― 可視世界たるこの世と不可視世界たる地下のあの世に分割されているとされることもある)。
 そうしたヘカテやイシスと結びつく[生死両界の扉]。その[生死両界の扉]がブラックホール(に関する現代物理学から得られた知見)とあまりにも不可解に結びつくと言えるだけの伝承上および古典記述上の背景がある(参照頁もタイトル名とともに上にて言及している)
 そこより全てがあまりにもできすぎた按配で結びついているととれる。
[ブラックホールの比喩と(伝承や諸種古典を介して)結びついているととれる生死両界の扉]とつながるイシス。同神は[シリウス体現神格ソティスとの同質性]および[不可視と可視に分かたれるとの古典にあっての形容のされ方]から[理論の発展史からシリウスB境界とも言い換え可能なチャンドラ・セカール限界](白色矮星崩壊プロセスにあっての質量上の理論的限界線)のことを想起させる存在「とも」なり ―上のb.の段を参照のこと― 、そのチャンドラセカール限界がブラックホール理論の開闢をもたらしたものであるとされている。だけではなく、[生死両界の扉]および[チャンドラセカール限界]と接合するイシス、要するに、ブラックホールの臭いがするイシスと語源で結びつくイシドール(イシスの恩寵)・ラビらが世に生み出した機関たるCERNブラックホール人為生成に向けて邁進しているとのこともある。
 以上のような文脈ですべてが出来すぎた按配で結びついているととれるのである

補足部の中の補足として上にて私は意識して[生死両界の扉]という言葉を用いている。近年、日本でアニメ映画化された『ゲド戦記』。あの映画作品の原作小説(原著タイトルは『ゲド戦記』ではなく『アース・シー』である)の第三巻、1972年に原著が世に出ている『さいはての島へ』を最近、手にとって読し、同小説に登場する[生死両界の扉](映画でも重要な役割を付与されていた生者と死者の世界の境界線)に
[反対話法的なるものの臭い]
を感じたからだ(トールキンの作品もそうだが、この世界では[耳に心地よい善き魂の活躍を描く物語]にも悪しき反対話法が含まれていることが往々にしてあるように見える)
 小説『アース・シー』シリーズ第三巻『さいはての島へ』では邪まな魔法使い([ハブナーのクモ]と称される魔法使い)が生死両界の扉を開き世界を収拾不能な状態に持って行ってしまう。竜らが住まう領域の隣にある最果ての島で、だ。そうした挙動をまわりの竜らが止めようとするのだが、結局、竜らも言葉を奪われ、ただの獣と化す。
 一体全体、その意味不明な粗筋が出てきた発想の原点はどこにあるというのか(私は作者アーシュラ・ル=グウィンの純然たる想像力の賜物であるとは考えていない)。その点、物語の中で最後に[世界に破滅をもたらす生死両界の扉]が閉じられるのはいいとしよう。だが、生死両界の扉が閉じられた後、小説『さいはての島へ』では竜たちの太母に当たる[赤い竜]が登場、扉を閉じた魔法使い(大賢人ゲド)に礼を述べつつ、彼を故郷に運ぶと描写されているのはいただけない。そこに反対話法との絡みで問題視すべき側面があると考えられるからだ。
 『聖書』に言うところの[赤い竜]とはサタン ―ヒトの祖先をたばかった古き蛇― のことであり、実のことを言うと、そのサタン(ルシファー)と[地獄門](生死両界の扉でもいい)が複数の古典で「ブラックホールの比喩が垣間見れるとの形にて」結び付けられているとのことがあるのである。内、一作品の古典はダンテの『地獄篇』でそのことに触れた当サイト上の他記事のことは本記事ですでに紹介しているもう一作品はジョン・ミルトンの『失楽園』で17世紀にあっての傑作とされる同作品ではサタンがブラックホールに仮託可能な(いいだろうか。20世紀に発見を見た物理学上の法則に基づき仮託可能な、と述べるのである)[地獄門の先にある深淵の領域]を横切る橋を構築、それによって、人間らはサタンの配偶者たる[罪]とその子たる[死]から逃れられぬ定めを負うことになった、と描写されているのである(『失楽園』では蛇に変じたサタンの胸中にブラックホール的なるもので人類を殺すことがあると描写されている、と言ってもいい)。
 そのような話を聞き、『馬鹿げている』あるいは『どうかしている』と思われるのは勝手だが、古典の字面に、それも同じくもの地獄門(あるいは生死両界の扉)にかかわるものとして、
[今日の知見から見た上でのブラックホールの特性を凝った形で挙げ連ねた記述]
が含まれているのは[動かぬ事実]となり、ミルトンの『失楽園』のそれについても ―本記事同様、当サイトに後の日にあって追加した記事となるが― 
[遺跡チチェン・イッツァ。そして、チチュルブ・クレーターについて](クリックすることで遷移)
という他記事にて細かくも解説している。
 そうした話「をも」含んだ上で私が正しいことを言っているか、ご判断いただきたいものである。

 上のa.からf.の話を委細を譲った参照先にも目を通していただいた上でご理解いただければ、だ。分かろうものである。
「すべてがブラックホールを基点に円環状の関係を描いている」
と。

 いかがお思いだろうか。以上をもって[イシドゥール・ラビ]の名称の由来にまで意味を求めるのを考えすぎだ、ととらえられるだろうか。私はそうは思わない。

 直近まで続いていたC.の部の話が極めて長くもなってしまったが、以上、A.からC.でもってブラックホールの人為的生成が取り沙汰される実験がどうして問題となるのか、本記事のようなテーマの記事でどうして問題になるのか、(半面でも)、ご理解いただけたのではないだろうか。

 それではここまで話をしたところでIV.からV.の段に移りたい。

V.以下の図をご覧いただきたい。

 図は皆既日食を撮った写真よりおこしたものとなるが、ただの皆既日食の写真よりおこしたものではない。アインシュタインの一般相対性理論を「検証」するために撮られた1919年の皆既日食の写真にまつわるものであることが問題になる。
 その点、写真を撮影したのは20世紀前半の天体物理学者アーサー・エディントンとなる。同エディントン、新発の科学者だったスブラマニアン・チャンドラセカールの理論 ―ブラックホール理論の地平線を切り開いた理論体系(先述のチャンドラセカール限界を包摂する理論体系)でもいい― を自身が固執する理論のために握りつぶし、その後、科学者に相応しからぬ恣意的データの乱用と憶測による誤った持説の押し付けをもって晩節を汚したとされる人物であるも、ブラックホールの理論的展開を潰した同男が[一般相対性理論の検証をなし科学史にその名を刻んだ]のは有名な事実でその委細はこうだ。
「(エディントンは)皆既日食時の撮影を通し、[太陽の背景の星の光が太陽の重力場によって歪められる(bendされる)こと]、によって、[星の位置がずれて見えること]を ―皆既日食時のその時にしかできぬこととして― 観測し、重力によって光が曲がる(従来のニュートン力学で想定されるケースの二倍に曲がる)ことを指し示し、もって、アインシュタインの一般相対性理論が正しいことを証した」
 何故、そうしたことをいきなりもこの場に持ち出したのか。無論、[衒学的(げんがくてき。学を誇る俗物の挙動)な動機]からなどではなく(言っておくが、私は[実用から離れた死んだ知識]など犬と好事家にくれてやればいいと考えている類である)、そうしたことにも意味があると世の探究活動の中、理性に基づいて判断を下したからだ。具体的には次のような理由1.→4.と順序表記するような理由)で皆既日食とエディントンの証した一般相対性理論の関係などにスポットライトを当てたのである。

1.太陽と月が結合しているとも言える日食。それが生命の源たる太陽の死を想起させもしたことだからだろうと常識論者は述べるが、日食は終末理論や凶兆との絡みで人類史にあって定置されることが多かったイベントでもある。北欧神話では二匹の狼(フェンリル・ウルフの子ら)が太陽と月を呑み込み世界を終末の暗闇に導くとされる(:北欧神話で世界が暗闇に包まれるのは死した光の神が蘇生されないとの決定が下されたからであるともされるわけだが)。印度ではラーフ(ナーガ(蛇)の頭の意とも)とケートゥ(蛇の尾の意とも)の二柱の神格が[蝕を引き起こす存在]と定置されたがゆえにラーフとケートゥの名を冠する架空の天体が用意され彼らは恐れ崇められていた ―(蝕が発生する月の昇交点と降交点がラーフとケートゥを指す仮定上の天体の位置とされるに至った)― 。 とにかくもって、そんな按配で、蝕は禍々しきものと看做されていもしたわけである。

2.ここでよくよくも考えていただきたいものである。先に九一一の事件で崩された二つの塔(ツインタワー)は月と太陽の塔に仮託されていたという話をなしたことを、だ(そうした話につき「根拠を出せ」といった向きには当サイトの[問題意識の所在]と題したカテゴリを最初からお読みいただくことを推させていただきたいともしていた)。月と太陽の塔が崩されるということは太陽と月が死ぬ、あるいは、蝕で体現される状態になる、ということを想起させもする。


3.図解部を挟んだうえで重要な話に入る。1.の段で述べたように凶兆あるいは終末そのものと結び付けられる蝕の寓意はアポロ計画の月面着陸や本記事で深くもの分析対象としている『指輪物語』のあらすじの中にも含まれていると言える。後の段で解説するが、アポロ計画でも『指輪物語』でも太陽と月の結合を想起させる比喩がこれぞ「執拗に」込められているのだ。では、何故、そうなのか、ということを考えなければならない。

4.一般相対性理論を証明したアーサー・エディントン。彼の証明過程は皆既日食によって焙りだされた重力レンズの作用そのものを世に示すことであった。光が重力によって歪んでいる、と。
 そうやって相対性理論が証明されたことで相対性理論の鬼っ子 ―本記事の先の段にて九一一の予見を含んだ書籍をものしたカリスマ物理学者と言及した物理学者キップ・ソーンは[相対性理論の Outragous Legacy(とんでもない遺産)]と述べている― とも言うべきブラックホールやワームホールの存在の予言へと人類の科学的知識は一歩進むことになった。皮肉なことに一般相対性理論の証明をなしたエディントン自身が[とんでもないもの]と言下に切り捨てたブラックホールの光を喰うという特色が一般相対性理論証明プロセスの中で想起されるものとなっている中、化け物のようなブラックホールの存在の予言へと一歩進むことになったのである(それに次いで人類はブラックホールの科学的「予測」、転じて、部分的「観測」へと進むこととなった)。
 とここでブラックホール化した天体(たとえばLHCで蒸発しない極微ブラックホールが生成されるとそれがコアに落ち込み地球を根っこから破壊されるとされる)を光源を背に近傍から眺めるとどうなるか考えてみる。ブラックホールの無限大の重力が光を呑み込み、ブラックホール化した天体の末路としての[一個の蝕ともいうべき影]が見て取れるようになっているとも思われる。LHC実験で蒸発せぬブラックホールが生成されたとして地球を滅ぼすのはミリメートル単位のブラックホールで十分であると考えられるが(存在が確認されていない中規模ブラックホールを基準に見た場合、地球全質量相当分がブラックホール1cm分(正確には直系1.8cmメートル以下・シュヴァルツシルト「半径」0.9cm以下)、石ころ程度にしかならないとされる)、とにかくも、[ブラックホールに呑まれたもの]の末路はそのような外貌を呈していると考えられる。
 より真っ当ならざる憶測の話をすれば、[ブラックホールと太陽と月が闇と化す蝕が一般相対性理論証明プロセスで結び付けられていること]には相対性理論の検証はどの世界のどの文明も皆既日食の観測を要するからかもしれないといったことにとどまらず、ひも付きの人間、相応しき類を対価で釣って金ぴかなファウスト博士としたような者達を自殺要員として用いてすぐ側の月、あるいは光でさえ到達に8.3分を要する太陽までをも飲み込まんとするブラックホールを[LHC実験の地球発の成果物としての「極微」ブラックホール]に何らかのひと押しをなして太陽系に構築しようとの計画がある ―非科学的で実に馬鹿げているだろう?だが、本稿で書いているようなことが成り立つ背景について考えてみればよい― からかもしれないが(:ブラックホールは大きければ大きいほど、宇宙空間を漂う者(あるいは潮汐力に耐えうるようにしたナノマシンのような極小機械でもいい)にとって安定・安全なダイブ対象となるとされる。ブラックホールが通路として機能しうると「仮定」した場合の安定性に関わることとも科学読み本なぞに書かれていることとして、だ)、重要なことはエディントンが一般相対性理論証明過程で示した重力と光の見方、皆既日食の問題がイシルドゥア(既述)が狂わされたとある指輪を巡る『指輪物語』にも深くも関わっているようにとれる要素がさらにもって存在していること(後述)である。

 上の1.から4.の話の中で私は ―私が最も忌むところながらの― 憶測がかった話をなしている。が、そうした話を敢えてもなす必要を感じたのを蝕の比喩が『指輪物語』にもアポロ計画にも関わるようにとらえられるとのことがあるからだ。太陽と月の塔を崩した事件ともいえる(根拠は他所詳述)九一一の事件の背景にある思考法と「最悪の文脈で」関わるようにとらえられるとのことがあるからだ。
 以上、述べた上で本記事の"とり"に当たる部に入る。ここでの話が伏線になってもいる次のVI.の部の内容、蝕の寓意について取り上げた内容をよくよくも検討いただきたい。

VI.再び『指輪物語』に戻っての話をなす。
 さて、
「サウロンの支配するモルドール、『指輪物語』作中設定で黒の国となっている悪しき国が守備側ゴンドール国と[黒門]を挟んで向かい合っていること、そして、そのゴンドールの防備の要として旧称を[月の塔][太陽の塔]とする塔が、(空想世界の歴史上)、建てられていたとの設定になっていること」
を先の段 ―II.と振った段― にて問題視した。現実世界で起こった九一一の事件で月の塔と太陽の塔と定置されるものが崩されたことと接合していると言えるとの観点上である(お忘れの向きはII.の段の話を再度、参照されたい)。
 トールキンのこさえたやたらと詳しい中つ国の年表上でイシルドゥアが太陽と月の光と結びつく名剣ナルシルでサウロンの手首を切断したとされること「にも」太陽と月と一つ目の関係でつながる ―儀式的につながる、でもいい― そうした設定上の話はブラックホールのこと「をも」想起させると言えてしまう。
モルドゥール(Mordor)が[黒の地](Black-Land)/[影の地](Land-of-Shadow)ともされ、かつ、そのモルドールとのゲートが黒門(Black-Gate/トールキンお手製の人造言語ではMorannonなどと表されるようだ)と執拗に表されていることに[光さえ逃がさぬブラックホール]の黒き特性が反映されているのではないか
 表層的にはそういう理由があってだが、無論、より深い理由もある(より深い理由がなければただのこじつけだろうというのは言うまでもなきことである)。
 その理由につき語る上でまずもって述べるべきはモルドールがトールキンによって[冥府および冥府の境界線と密接に結びつく領域]と設定されていることである(モルドールから進発してくるサウロンの兵士たちであるオークとてトールキンが冥府神ないし冥府そのものを指す言葉(Orcs)からゲルマンの叙事詩『ベオウルフ』を介し借用したものであるとは先のIV.の図解部の中で一言述べたことである)。その上で指摘できることとして
世界の神話伝承体系上モルドールよろしく影や黒といった要素と密接に結びつく冥府および冥府との境界線。それらにまつわる事象に ―奇怪無比な形で― ブラックホールと結びつく特性が寓意として込められている
ということがある。について詳しくは ―先に挙げた記事ともなるが― 当サイト上の他記事、
[CERNと「重力の扉」開閉の懸念(九一一にまつわる儀式性詳説X)]
と題した記事の追記部を参照されたい。そこではダンテの『神曲』地獄篇やギリシャの地獄観 ―ホメロスの『オディッセイア』にはじまる地獄観― にブラックホールの比喩が介在しているととらえられることを仔細に論じている
 それにつき冥府および冥府との境界にブラックホールの寓意が異常な形で込められているとのことについては ―直近紹介の当サイト内他ページ他記事の内容を受けての話ともなるのだが― 本記事にあっての先のIV.の段、イシスにまつわる言及部「でも」(モルドールのことと「半ば」別個の話として)それなりに細かく取り上げている。
 とにかくも、そうしたことからモルドールにまつわる設定のなし方にすらブラックホール(のような[光を喰らう重力の妙技がなせる業])の比喩が介在しているのではないか、ととれるようになっている。そう指摘し、より細かくも煮詰めるべくの話を
[下にての(別枠を設けての)図解部]
で ―重要なこととしての日食の寓意にも言及しつつ― なすこととする。

 図解部

 上にて『指輪物語』作中にてサウロンの本拠モルドールが[黒の国]/[影の国]と表記され、そのモルドールと守備側ゴンドール国の領域が(月の塔および太陽の塔としての沿革を持つ城塞を争奪戦の対象に)[黒門]を挟んで向き合って存在していることを問題視した。
 執拗に黒や影といった言葉が[モルドール]と結び付けられ、そのモルドールとゴンドールの境界にも黒い門が据えられていることを
「人類の伝承体系にあって影の国/黒の国と看做されていること多き冥界、および、その冥界との境界線に(現代物理学の知見から見た)[ブラックホールの比喩]が付加されている(際立った古典にて付加されている)とのことがある」
との観点から問題視したわけである 古典にブラックホールの比喩が介在していること自体が[まともな話柄]にならないだろうと思われる向きが過半ではあろうも、私はそのように述べられる根拠を仔細に挙げている当サイト内解説頁を上にて紹介している(:尚、トールキン『指輪物語』が刊行された1954年から1955年当時にあっても[ブラックホール]という言葉すらなく、その折、同語で今日、表象される[重力の化け物がかった構造体 ―コラプサーと表されていた― ]のことを知る人間の数も極々僅かであったのだから、トールキン『指輪物語』にブラックホールの比喩を認めようとするのも同じく異常な話となるのだが)― 。
 そうした形での問題視の発するところは
[「ワーグナー『ニーベルングの指輪』との際立った相似性が見て取れ」「フリーメーソンのシンボリズムへの隠喩的言及をも含んだものであり」「そういったことに実に性質悪き比喩が込められていると述べられる」『指輪物語』に関係することならではのもの]
なわけだが、納得しかねる、との方を想定し
背景に人間業とは思えぬ巧緻さと悪辣性が透けて見えるとのこと
についての図解をここにて ―理解促進を期しもし― なしておくこととする。

 まずもって下の図をご覧いただきたい。

 図は『指輪物語―王の帰還―』に映画でも生々しくも描かれていた悪の軍勢の進軍経路を指し示したものである。矢印の方向を見ていただければお分かりいただけようが、オークを主戦力にトロル(トールキンの描くトロルはムーミン・トロールのように愛敬ある妖精ではない)や指輪の幽鬼を加えたサウロンの支配するモルドール軍は[黒い門およびかつて月の塔だったミナス・モルグルの城塞]から[かつて太陽の塔だったミナス・ティリス]を陥落させんと侵攻してくるとの設定になっている。いいだろうか。そこに[黒い力とその影響下にある月が日の光をかげらせんとする寓意]を見て取るのは易い。

 『指輪物語―王の帰還―』ではサウロンの忌まわしき軍勢に絶体絶命といった按配にて包囲されたゴンドールが勝利をおさめる。ローハン国の騎馬軍団が援軍として包囲側の脇腹を突き、かつ、長らく不在だったゴンドール王の血筋を引くアラゴルンが(サウロン軍の援軍として駆け付ける予定だった海賊らの船を奪取したうえで)サウロン軍の背面を急襲したからだ。その後、王として帰還したアラゴルンらはサウロン支配下のモルドール本土に対し無謀とも言える侵攻を開始する(原作小説でも彼我の戦力比10:1以上といった旨、モルドール本拠に残置されたサウロン側戦力が圧倒的である旨、描写される)。 何故、戦疲れをものともせずアラゴルンらがそうもした挙動に出たかといえば、ホビットのフロドらがモルドール領内で決死の踏破行を続けており、彼らが[滅びの山]に力の指輪を無事に捨てられるように(サウロンの力の源泉を滅せられるように)サウロンとサウロンの軍勢の目をしばし自軍に釘付けにしておく必要があったからだ。要するにアラルゴンらは命がけの[陽動作戦]を敢行したわけだが、問題は、である。アラゴルンらの進行経路である。アラゴルンの軍勢はかつて太陽の塔 ―日本で大阪万博のシンボルになったあの像ではないが同じ語感のものではある― と呼ばれていたミナス・ティリスから進発、ゴンドール包囲戦で駐屯するサウロン軍兵員が悉く討ち死にしていたミナス・モルグル(かつて月の塔だった城塞)に見張りの兵を立たせたうえでモルドールとの境界線上 ―先述の理由から冥界との境界線上でもいい― に位置する黒門に到り、その前で最後の決戦たる[モランノンの戦い]に突入することになる。そこより、アラゴルンの経路に[日の光が月の領域を出、黒の領域を照らし出す、という寓意]を見て取るのは易いわけである。

 上のような流れから『指輪物語』は太陽と月の競合問題、要するに、[日食の問題を比喩として含んでいる作品]と言える。モルドールの闇と月の軍勢が勝てば、日の光は死に世界は闇に包まれるとの寓意が付加されつつ、だ。が、そのように述べてもご納得いきかねる、という向きもあられるかもしれない。『ただ、[そのように見える]だけではないのか』と。であるから、以下のようなことも述べておく。

「モルドールの軍勢がミナス・ティリス(元[太陽の塔]だったゴンドール国の首府)の堅牢なる城門を破り、あと少しでゴンドール国の滅亡を実現するといった状況を実現させたのはモルドール軍が持ち出した破壊槌[グロンド](Grond、どういうわけかわざわざ固有名詞が付された破壊槌に依るところが大だったと原作小説にはある。そのグロンド、映画でも短いシーンながら目にすることができる破壊槌は
[サウロンですら服従していた暗黒の神格モルゴスの武器と同一の名を冠する兵器で[アングマールの魔王]と呼称される指輪の幽鬼らの首領(サウロン腹心)が呪いを込めて力を増幅させたものである]
などとやたらと凝った設定になっているものだが、その格好は[狼を模したもの]である、と描写されている。そこにいう[破壊槌グロンドの狼の姿]と[黒と月の軍団が日の光を食わんという蝕の寓意]が結びつくのである。なぜなら、欧州にあっては終末に狼が太陽と月を喰らって[蝕]を引き起こすとの伝説が残っているからである 狼は蝕の発生源と伝わる。そして、サウロンの軍勢が狼のグロンドであと少しで日蝕(月が太陽を闇で覆う)を実現するところだった、とあいなる― 
 さらに言えば、グロンドが
[蝕を起こす伝承上の狼の寓意を受けての作品中の意図的なる小道具(ガジェット)]
であるととらえれば、辻褄があうことが他にもある。先にサウロン軍が進発してくるモルドールが冥界の体現物となっているとの話をしたが(細かき解説は本記事のIV.の段にてなしている)、モルドールが[冥界の体現物]となりモルドールとの境界にあたる黒門が[冥界との境界線]であると考えると[蝕を引き起こす伝説上の終末の狼]はその冥界のゲートキーパー(門番)的存在との同等物であると言えるだけの神話的背景 ―トールキンに由来する空想世界の神話的背景ではなく現実世界に伝わってきた神話・伝承に由来する背景― があるのである。
 その点、サウロン軍が出軍してきた城塞ミナス・モルグル(かつての月の塔)は冥界との境界線たる黒門のすぐ側にある ―地図を参照― とのことでまずもって[グロンドを用いた軍勢と冥界の境界線の接点が近くなる]。その上で述べれば、グロンドにその寓意を見る[蝕を引き起こす狼]は伝承上、冥界の番犬ケルベロスの類と結びついている、とのことがある。ケルベロスが北欧神話の[ガルム]という存在およびその近縁の存在たる[マナ・ガルム]という存在と地獄の番犬/死者への見張り役との属性を共有しつつつながっている存在であるとされていること、そして、ガルム(およびマナ・ガルム)が北欧神話のフェンリル・ウルフおよびフェンリル・ウルフの子である蝕を起こす狼たるスコルとハティにこれまた接合すると言われていることが意味をなしてくるのだ(フェンリルは同じくも北欧神話に由来するガルムとときに同一視される存在であるとされる。他面、ガルムの近縁のマナ・ガルムという存在はフェンリルの子にあたる蝕の狼たるスコルとハティと接合しているとされる。尚、ガルムは狼ではなく地獄の猟犬であるなどと伝わるが、化け物 ―映画『もののけ姫』に出てきた山犬のような化け物― について犬と狼の違いを持ち出すことには意味がない)
 [ケルベロス⇒ガルム(マナ・ガルム)⇒フェンリルとその子らの蝕の狼]との神話・伝承上の関係が成立しており、その関係を想起させるようにグロンド(太陽の塔だった都を潰すための狼の破壊槌)は[ケルベロスやガルムの類が番犬を務めている冥界との結節点の領域]から持ち出されてきている。そういう「より深くもの」文脈でもトールキン『指輪物語』は蝕の寓意と結びつけられていると言えるのである」。

 以上をもってトールキンの小説作中に含まれている蝕の寓意が何であるかにつき多くを伝えた。

 さて、[蝕の比喩]とくれば、本記事中、先のV.の段にあって私は(まとめると)次のようなことを指し示していた。

[フリーメーソン・シンボリズムおよび同シンボリズムと結びつくトールキン『指輪物語』の扉絵には錬金術関連書籍に見る図像との視覚的つながりが見て取れ、そこにいう錬金術関連図像には蝕の比喩が ―ウロボロス構造との兼ね合いで― 垣間見れる。そうしたことは月と太陽の塔の崩されている九一一の事件との兼ね合いでも重要となってくる]

 上の復習としての話をお含みいただいたうえで続く図解部に目をお通しいただきたい。

概説として
 最上段では[アポロ計画の記章とメキシコの国章]を挙げている。
 中段では[『指輪物語』(とアポロ計画)に蝕の寓意が介在している旨を指し示す関係図]を挙げている。
 下段にては[アポロ計画と蝕の寓意の結びつきを主観を挟まずに指し示すべくの関係性のパス]を描いている。
 そのように上中下段各段の内容を一言紹介したうえで述べれば、
「図解部はそれら最上段/中段/下段にて挙げたものを[相互に結びつける事由]があることを「視覚的に」訴求するためのものである」。

(:より細かくもの解説として
 上図解部は一見、複雑そうに見えるかもしれないが、次の観点から見れば、道を失いにくくなるだろう、と述べておく。
アポロ計画が蝕の比喩と結びついていることを図は示しているものである]
[(上に言うところの)アポロ計画にまつわる蝕の比喩が伝説にあって蝕を引き起こす狼達と結びついていることを図の関係式は示している。だけではなく、同じくものアポロ計画にまつわる蝕の比喩が滅んだアステカの太陽神に対する崇拝 ―太陽が死ぬのを恐れて生きた人間から黒曜石のナイフで心臓を抜き取るといった醜悪な生贄の儀をなしてもいた崇拝― と結びついていることをも図の関係式は示している]
(:尚、図の最上部右側に挙げているのは国家が拠って立つ場で栄えたアステカの太陽神信仰を受けて採用された[メキシコの国章]となる)
[蝕の比喩と多角的に結びつくアポロ計画 ―太陽の神アポロが月にランディングする計画でもいい― が反対話法を体現しての陽動作戦であった可能性についても図の中では言及している]

(:尚、「細かいことだが」上の図が重きを持ってくる事情のひとつには甘きフィクション『指輪物語』にて[モランノンの戦い]というフロドらを救うための陽動の会戦に突入した結果(先の段にて既述)、フロドらが指輪を[滅びの山]で滅することに成功し[滅びの山]の噴火に巻き込まれた際の顛末のことも影響している。アラゴルンらの太陽を月に接近させる陽動作戦が功を奏した後、リングを滅したフロドらは火山の噴火に巻き込まれたわけだが、その状況を救ったのが鷲であった。『指輪物語』の主要登場人物たる魔法使いガンダルフに使役される鷲の王グワイヒア(Gwaihirが「鷲は舞い降りた」といった風にフロドらを救うために急降下、火山噴火に巻き込まれそうだったフロドらを救ったとの設定とあいなっているのである(さらに言えば、グワイヒアら鷲たちはアラゴルンの太陽が月に接近するが如くの陽動作戦そのものにも頼もしい援軍として駆け付けている)。そうしたことは太陽(アポロ)が月に接近(着陸)した計画たるアポロ計画、『指輪物語―王の帰還―』初版刊行時から14年後に月に人を立たしめたことになっている同計画が[月に鷲が舞い降りる記章 ―表向きには合衆国国章に白頭鷲が描かれていることによる記章― ]を用いていることを想起させてやまわないわけである)

 いかがであろうか。ここに至るまでのI.からVI.の話で私は
J・R・R・トールキンの『指輪物語』(および極部分的にはその関連作品たる『ホビットの冒険』)とそれに先行するリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指輪』の関係から何が問題になるかにつき事細かに論じた
つもりである ―が、書ききれていないことがあるためにさらに追記をなす可能性もあるが― 。
 一言でいえば、それは
[ブラックホール生成と結びつくリング(指輪)状の超巨大装置との絡みでの話]
となる。そうした話を[突拍子もないこと]と聞きたくもないとする気持ちは分かるが、ことは我々全員の生き死ににかかわる話であると定置している ―実際にこれからますますもって出力を上げていく実験によってブラックホール生成がなされて、それが大方の科学者の予想どおりに蒸発せず、しかも、早期に拡大しはじめれば我々は瞬殺されてしまうことになる― 。であるから、是非、本記事本文中に提示している紹介記事ととあわせても検討し、ここでの話が取り合うに足りるものであるか、各自、ご自身の頭で考えていただきたい

 以上、まとめたところで最後に[ためにしての話]をひとつなしたところで ―長くもなった― 本記事を終えることとする。


 上図をいかがお思いになられただろうか。本記事趣意をご理解いただけた向きには同図をもってだけで私が何を述べたいのか、おおよそ想像がつくのではないだろうか。

 としつつも一応、指し示せば、上図によって伝えんとしていることはこういうことである。

トールキン『指輪物語』(原題は[指輪]Ringに複数系のsがついて『ザ・ロード・オブ・ザ・リングス』。Lordは君主の意味で指輪物語の原題には『指輪の主』といった意味合いがある ―ちなみに[指輪の主]はサウロンの作中、数回登場する異称でもある― )はその名を The "Road" the Rings『リングによる通路』と言い換えできそうなものでもある。その点、 [リング]とは[周長だけで都市をまるまる包み込むような超巨大リング型加速器]のことを指し、[通路]とは超巨大リングによって実現する[微小スケールにてはビッグバン直後の状況に匹敵するエネルギーとワンセットになった極微ブラックホールおよびその極微ブラックホールと結びつくワームホールのようなもの]を指すものと当方は見立てている(:「ブラックホールを[エレベーターの入り口]にワームホールを [エレベーター]にして複数の時空間を行き来する」といった"発想"は(その 聞こえに反し)空想家の領分を越えもし、理論物理学者が[(先進文明を仮定して)考えられるところの技術]と述べるところのものでもある)

(図を挟んで続けて)実際にそのように考えれば、全てがしっくりくるようにこの世界はできている。それにつき全くもって理論的ではないが、感性に訴えるべくの話をひとつしてみる(言っておくが、本記事自体は[きちんとした論拠に範を求めての論理的な展開を重要視しているもの]となる)。
 読者は『マトリックス』という映画をご覧になられたことがあるだろうか。あの映画ではエージェントと呼ばれるプログラム達が「私はこの世界は嫌いだ」などといった台詞を吐いたりしながらも世界の運営を担っている。[意図をもって養殖されている人間たち]を管理しているわけである。につき、その管理の目的がナチスの使っていたのと同じ文脈での[最終的解決]であったらばどうか(:[最終的解決]の意味が分からないという方はご自身で近現代史に見る該当部をお調べいただきたい)。それなりの利益と結びついた[最終的解決]であったらばどうか。しっくりくる、この世界が(映画『マトリックス』ではないが) [管理を厭わしく思っている仮想世界管理サイドのプログラム]や[絶滅収容所のサディスティックなナチス親衛隊]に仮託されるような者たちに管理されているように「とれる」要素で満ち満ちているのも[強いられての"業務"ゆえに]ということで納得がいくわけである(:映画『シンドラーのリスト』では[戦時体制を支えるべくの労働力とも定置されている囚人たち]をナチス親衛隊の大尉  ―(アーモン・ゲートという[悪魔(綴りを同じとするアモンは強欲をつかさどる悪魔の名である)の扉]とも[悪魔のゲーテ]とも言い換え可能な実在の親衛隊大尉)―  が「いらいらして一人や二人、撃ち殺したくなる」と伝わるところの通り[選民らと自認しているところの囚人]をライフルで撃ち殺している場が描写されている。私はそこにマンハッタン計画が推し進められたあの時代なりの世の縮図を見ているわけである)

 「馬鹿げている」と思われるのは各自の勝手だが、それは本記事で書いてきたことの意味を[理解]してからにしてほしいものである(尚、私は意味を[理解]する気もない人間を想定して本記事をものしているわけではないので、理解する気がはなからない向きがたまさか本記事を目にしていたとしたら、次のような趣旨のことを述べたい次第である。「ああ、そうですか。では、ご自由に。どうぞ日々の生活をできるだけ[エンジョイ]してください」)。


 あと二、三言、述べるべきと見たことを述べてから書き納めとしよう。

 さて、長くもなった本記事の過程で耳に苦しい話もさんざんといった按配でなしてきたと自認するが、私とてトールキンの『指輪物語』は美しい物語、この世界の悪 ―サウロンの一つ目に表象されるもの(そして、その一つ目に威服し醜く浅ましくなったオークらによって仮託されていると思しき人間らの心性)― に対し抗おうという気風を体現した美しい物語であると思っている(:臆病者らは語りたがらないが、右がトールキンの物語が支持される大きな理由となっているととらえられる)。

 だが、この世界が本質的に[毒入りのお菓子の家]であればどうか。甘味が凝集しているところに毒もまた強く凝集しているととらえられないだろうか。希望が込められた物語にストーリーテラー達の時に賞嘆されるべくもの想いに反し、相応の力学が介在、物語に悪しき寓意もまた込められたことになってしまった、と。
 尚、『指輪物語』作者J・R・Rトールキン自身は『指輪物語』追補版に付された後書きで
作者の思惑としてはこの物語に[よく言われているような寓意]を込めたつもりはない」
と述べたりしている。それにつき、「作者の思惑としては」というところに誠意の発露があるのなら、それはそれでいい(あるいは「象徴主義に無知だった人間として誰かと相談しつつ『指輪物語』世界観を構築していた」のならそれはそれで、いい)。が、属人的誠意の問題はさておき、トールキンという人間も所詮は
[夢売りの行商人]/[最終的に従業員が皆、殺される絶滅収容所から人員を徴発しているが如くの工場にて不満を爆発させんための煙突 ―そういったものらしくもそれなりの装飾が施された煙突― を構築するための要員]
にされてしまっていた向きととらえている。言葉きつくもそうも述べるのは、[毒入りのお菓子の家]だと考えられるこの世界にてその味に耽溺してきた我々に遅行性の毒が決定的作用を及ぼすその時が近づいてきていると判断するに足る材料が多々ある、ありすぎる程にある、しかし、にも関わらず、幻想譚『指輪物語』それ自体も『指輪物語』を至上の傑作ともてはやす向きらも[耳に苦しき真実]を直視などしておらず、はきと指し示せるところの危急存亡の状況に抗う存在となっていないと見受けられるからである(:当記事で示してきたように不快な象徴主義とも深く結びつく『指輪物語』は現実を見ぬ、見ようとさえせぬ人間らに食餌として与えられた逃避文学になるべくして留まっていると(言いたくもないところながら)述べざるをえぬととらえている)。

 最後に。当サイト諸所にて述べていることだが、肝心要なのは[証拠によって指し示せる容赦のない事実]に相対した際にどのように立ち位置を決するか、であると考えている。闘う気がないという人間に何かを強制することなどできないが、我々、全員がそうであるのなら、我々(あるいは我々に続く世代)は諸共、死ななければならない、というのが私が不快な事実関係に基づいて導き出した帰結である(無論、「理に適った」異論・反論は歓迎するが)。ゆえに、あとは本記事のようなものでさえもが心ある人間の意中に何がしかの変化を引き起こすのを望むばかりである。

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