典拠となるところの明示[77]――キリスト教世界観における[悪魔の王]、にまつ
わっての純・記号論的相関関係の束から問題となりもすることについて

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著名古典であるダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』に見る悪魔の王、その悪魔の王にまつわっての純・記号論的相関関係から問題となりもすること 補説2

 再度、繰り返す。現行、下のα1からα8、及び、βのことの[典拠]をひたすらに指し示すとの流れでの話をなしている (これまた先にても述べたことを再度繰り返すが、確たる事実であるとのことを「証」して「示」す、[証示]にとにかくも努めるとのことが本稿の基本理念にして本稿筆者の理念、そう、「[確たる事実]を[自分達を死地に追い込むまさしくものそのやりよう]として眼前に突きつけられてなおもって何もやらぬ者達に明日などあるわけがないとのことを訴求したい(そして、「[罪]の所在をつまびらやかにして[運命]の問題を確認しきりたい)がゆえの理念であるからである)

(金星にまつわる会合周期にあって具現化するとの指摘もなされてきた)[五芒星相似形]を[ブラックホール絡みの話]と接合させるような奇怪なることらがある。すなわち、次のようなことらα1からα8)がある。

地球と金星と太陽の内合(インフェリアー・コンジャンクション)時にあっての天体座標を結んで出来上がるとのことがよくも取り上げられるとの[五芒星]は[五角形]と結びつく図形でもある。[(ほぼ正確な)[五芒星]が描写される局面]というのは[(ほぼ正確な)[正五角形]に近しきものが内にて形成される局面]であるとも述べられる。どういうことか。[(正確な)五芒星]というものは[正五角形]に内接される図形として描けるものであり、[正確な五芒星の各点]を構成する五点というのが正五角形の各点にそのままに対応することになるとのことがあるのである。

正五角形、英語に直せば、[レギュラー・ペンタゴン]との特質を持つのがアメリカの国防総省の本部庁舎である。そのペンタゴンの広場は先の911の事件の起こる前から[ワールド・トレード・センターの跡地]がそう述べられるようになったのと同じ言葉で呼び慣わされていた、[グラウンド・ゼロ]との言葉でもって呼び慣わされていた

グラウンド・ゼロという言葉は911の事件が発生する前からペンタゴンの広場と歴史的に結びつけられてきたとの沿革がある(上のα2にて言及)のだが、そちらグラウンド・ゼロという言葉、かの911の事件が起こる「前」から[使用局面が際立って限られていた特殊用語]として存在していた同語を[ブラックホール]と関係させるとのかたちで用いていたとの書籍が存在しており、その書籍、「不可解極まりない911の予見的言及とも関わる」とのことを本稿の先だっての段で先述なしてきたとの書籍でもある
ZERO:The Biography of a Dangerous Idea(邦題)『異端の数ゼロ』
となる。
 同著『異端の数ゼロ』序盤部にては五角形と五芒星の相互に「無限に」外接・内接しあう関係性]のことが[最小の単位(無限小)に向かう力学]を指し示すようなものとして取り上げられているとのことがあるのである(α1の出典とも重なるところとなる)。
 さて、そのように問題となる ―「どうしてそういうことが?」の問題はともかくにもの911の異様なる先覚的言及をなしているとの式で問題となる― 書籍で取り上げられている五角形と五芒星の相互に「無限に」外接・内接しあう関係性にて「も」表象される最小の単位(無限小)に向かう力学は言い換えれば、原子核の領域に向かう力学、さらに述べれば、
原子核を構成する陽子や中性子の領域、そして、陽子を複合して構成するクォークのようなより極微の素粒子の世界に向かう力学
のことを想起させるものでもある。
 何故か。
 原子のなかで原子核の占める割合はおそろしく小さい、そのような原子核を構成するのが中性子や陽子であるといったかたちで(小さきことをひたすらに突き詰めていった際の)極小の世界というものは展開しているからである。五角形(ペンタゴン)および五芒星の両者の図形的特性]のことを知っていれば、自然に想起されるのが[最も小さな極小の世界へ向けての力学]であり、それは換言すれば、[素粒子物理学などが領分とする極小の世界へ向けての力学]であると言い換えられるようなところがあるのである。
 そして、そうした限りなくものゼロ・スケールに向かって展開する極微の世界の領域の研究(たとえばヒッグス粒子や超対称性粒子なぞと命名されてのものを発見に血道をあげるとの「研究」)を声高に唱道、[原子核を壊す中での膨大なエネルギー](と述べても極微領域に集中しているからこその膨大なエネルギー)で[ブラックホール]さえもが生成される可能性が取り沙汰されているのが素粒子物理学系や核物理学系の物理学者らが集まってのLHC実験であると言われている

ZERO:The Biography of a Dangerous Idea(邦題)『異端の数ゼロ』との書籍は911の事件が起こる「前」から特異な言葉であるとのグラウンド・ゼロという言葉をブラックホールとの関係するかたちで用いているとの書籍、かつもって、不可解なる911の予見的言及とも関わっているとの書籍でもある(←α3で言及したことである)。そして、同著『異端のゼロ』は[五角形と五芒星の「無限に」相互内接しあう関係性]と結びつくことに言及しているとの書籍でもある(←α1およびα3にての出典にまつわるところでもある)。
 そうした書籍で扱われる
[ゼロの世界][極小の世界]
に近しきところで(原子に比してその比率が恐ろしく小さいとの極小の存在たる)[原子核]を破壊しようとのことをなし、そこにて発生する膨大なエネルギーからブラックホールを生成しうるとのところにまで至ったのがLHC実験であると「される」(←α3にて言及のことでもある)のだが、他面、[911の事件]では何が起こったのか。[[正五角形]との形状を呈するとのペンタゴンが崩された]とのことが起こっている(←α2で合衆国国防総省庁舎たるペンタゴンが(正確な五芒星と無限に続く相互内接外接関係を呈するとの)[正五角形]であることを問題視している)。
 以上のことより[次の関係性]が想起されもする。
現実世界で911の事件が起こる「前」からアメリカ国防総省本部庁舎たるペンタゴン(正五角形)の広場と結びつけられてきたグラウンド・ゼロという特殊な言葉(←α2)] ⇔ [911の事件が起こる前から[グラウンド・ゼロ]との特殊な言葉とセットとなっていた現実世界でのペンタゴン([正五角形]状の米国国防総省庁舎)の911にあっての部分崩壊] ⇔ [正五角形(;合衆国国防総省庁舎ペンタゴンとの同一形状)の(911にての)部分崩壊(α3)] ⇔ [911の事件が起こる「前」から特殊用語として存在していた[グラウンド・ゼロ]という言葉をブラックホールとの関係するかたちで用いているとの書籍であり(そして911の不可解なる予見事物とも通ずるようになっている書籍ともなり) またなおかつもってして、五芒星と五角形(ペンタゴン)の間の無限に続く相互内接・外接関係によって表象されもする極小の世界へ向かう力学に言及している著作ともなる ZERO:The Biography of a Dangerous Idea(邦題)『異端の数ゼロ』という著作の内容] ⇔ [無限小に至る方向性での中での破壊挙動、原子核を壊す中での膨大なエネルギー発現状況でもってブラックホールを作り出しうると言われるに至っているLHC実験を想起(α3)]
 以上のような⇔で結んでの関係性については
『何を述べているか理解しがたい』
と受け取られるか、あるいは、
『穿ち過ぎ(考えすぎ)である』
と思われるところか、とも思う。それゆえ、そうした物言いがなせてしまう「他の」事情があることにつき続く段で「補いながらもの」表記をなす。

[グラウンド・ゼロ]という言葉 ―(本来、[広島・長崎の爆心地]を指すべくも考案された特別な言葉であり、また、冷戦期、核戦争の標的たるところと結びつけられるに至った言葉である)― と[911]の事件の発生前から結びつけられていた[ペンタゴン](アメリカ国防総省本庁舎)というのはレズリー・グローヴズという男(往時、米国陸軍工兵隊大佐)を責任者にして1941年9月11日に建設が開始されたとの建物である。
 そちらペンタゴンの建設計画を指揮していたレズリー・グローヴズという男が「ペンタゴン建造中に」大佐から准将に昇進、主導することになったのが[マンハッタン計画]となっており、同[マンハッタン計画]で実現・現出を見たのが[原子爆弾]と[広島・長崎への原子爆弾の投下]([グラウンド・ゼロ]との言葉がはじめて用いられるようになった爆心地を現出させた挙動との意味合いで本稿の先の段でも取り上げていた原爆投下)となる
 そこに見る[原子爆弾]というのは[極小領域たる原子核のレベルでの崩壊現象、[核分裂反応]によって実現を見た兵器]でもある
 (:1941年9月11日から建設開始(着工)を見ていた[ペンタゴン]の建設計画を指揮していた男レズリー・グローヴズが[マンハッタン計画]の責任者でもあったわけであるが、[マンハッタン計画]というのはそも、[極小の領域、原子核のレベルでの崩壊現象が原子爆弾を実現ならしめること]が着想されて開始された計画である。[原子核レベルでの崩壊現象を利用しての核兵器開発]と[ペンタゴン]が結びつく、そう、[五芒星形と五角形(ペンタゴン)が無限に相互に内接・外接しあいながら無限小へ至る方向(原子核や素粒子の世界へ至る方向)を指し示すもの]であることを想起させるように結びつくとのことが歴史的沿革として存在していることが問題となる)。

金星の内合ポイントにてその近似物が具現化するとの五芒星は史的に見て[退魔の象徴]とされてきたとの経緯があるものである。
 さて、その[退魔の象徴としての五芒星]と結びつくような[退魔の象徴物としてのペンタゴン(アメリカ国防総省本庁舎)]が爆破されて「異次元から」干渉する外側の銀河由来の妖怪が解き放たれるとの[荒唐無稽小説]が世に出ている。それが本稿の先の段で「911の「奇怪なる」予見的言及をなしている」との要素を同作が多重的に帯びていることにつき仔細に解説してきた70年代欧米でヒットを見たとの小説作品、『ジ・イルミナタス・トリロジー』である。
 につき、
[退魔の象徴としての五芒星と結びつくが如き退魔の象徴としてのペンタゴンの崩壊、および、911の事件の発生(マンハッタンペンタゴンが同時攻撃されたとの事件)を前言しているが如くの奇怪なる文物]
などとのものより想起されるのは ―繰り返しになるも― 次のようなこととなる。
[(直近にて言及の)書籍『異端の数ゼロ』に特性として認められるとの[五角形(ペンタゴン)と五芒星の内接関係を無限小に至る機序として呈示するとのやりよう]・[グラウンド・ゼロという言葉を911の事件が発生する前からブラックホールと結び付けているとのやりよう]・[不可解なる911の予見的言及と関わりもするとの側面]]←→(関係性の想起)←→[ペンタゴン(1941年「9月11日」に建造開始の国防総省庁舎)の建設計画を主導した軍人が同様に主導して[原爆]と[グラウンド・ゼロという言葉]を具現化させることになった[無限小に至る力学(五角形と五芒星が相互に無限に内接・外接されるかたちで表象される力学)の過程での原子核崩壊作用]を利用しての[マンハッタン計画]に見るありよう

会合周期(具体的に述べれば、8年単位で現出する5回の地球との周期的内合関係)でもって[五芒星]を描くとされる存在が金星となるとのことを先述した。また、同文に金星が悪魔の王ルシファーと欧州にて歴史的に結びつけられてきた星であることも先述した。
 さて、歴史的に惑星金星と結び付けられてきたとの悪魔の王ルシファーとのつながりで述べれば、ダンテ『地獄篇』にもミルトン『失楽園』にも[ルシファーと結びついた罪の領域]にあって[今日的な観点で見てのブラックホールの近似物]が多重的に具現化していると申し述べられるようになっていること、解説をなしてきたのが本稿である。

五芒星]は[黄金比]と際立って結びつく図形でもあるそこに見る[黄金比]と[ブラックホール]が結びつくことを論証しようとの学究申しようが欧米圏にてささやかなる注目を浴びているということがある

日本でも五芒星紋様が用いられてきたとのことがある。それは海女による[セーマン・ドーマン]と呼ばれる紋様の使用にまつわる話となる。その点、海女によるセーマンこと五芒星の使用は[竜宮]に引き込まれないための呪(まじな)いであるとの物言いがなされてもいる。さて、伝承に見る[竜宮]とはどういう場か。
[時空間の乱れが発生した場]([外側に対して時間の進みが遅い場])
とされる場である。
 他面、重力の化け物、ブラックホールおよびその近傍領域も[時間の乱れ]が問題となるものである。
 以上のこともそれ単体で述べれば、「考えすぎ」の謗(そし)り免れないこととあいなろうが(当たり前ではある)、上(のαの段)にて述べてきたようなことがすべて[事実]であると網羅的に指し示されたとき、ここβの申しようも「考えすぎ」では済まされぬものとなって「しまう」だけのことがある。

(:振り返れば、α1ついては出典(Source)紹介の部68を典拠となし、
α2については出典(Source)紹介の部70を典拠となし、
α3については出典(Source)紹介の部69および出典(Source)紹介の部69(2)および出典(Source)紹介の部71を典拠
となし、
α4についてはα2からα3の部をまとめての部であるため、α2からα3の出典と重複するとの申しようをなし、
α5については出典(Source)紹介の部70(ただしα5後半部はα3と出典共有)を典拠となし、
α6ついては出典(Source)紹介の部72および出典(Source)紹介の部37-2(再掲)出典(Source)紹介の部38-2(再掲)を典拠となし、
α7については[出典(Source)紹介の部55から出典(Source)紹介の部55(3)を包摂する数万余字割いての解説部]および出典(Source)紹介の部67を指定
参照先として挙げ、
α8については出典(Source)紹介の部73を典拠となしている。
 などと細々と出典紹介部についての羅列表記なしても、
「込み入りすぎていて対応関係について把握しがたい」
との反応をいたずらにもたらすだけか「とも」見るから断っておくが、

「ここにての[出典紹介部についての網羅的言及箇所]は印刷なしたうえでの腰を入れての検討などされた向きが[全面カヴァーするとのかたちで出典摘示できているか]との確認をなす場合にあってのみ「その通りである」との理解を容易に得られるようにすべくも表記している」

との趣意のものである ――より根源的な[理念]の話をなせば、「本稿が個人の偏頗(へんぱ)な主観などによるものではなく、[客観的にそこにはきと存在していること]を受けて自然に申し述べられることのみ、申し述べているものである、とのことを遺漏無くも示す必要がある」(俎上にのせていることの重大性から同じくものことを責任感を持って遺漏無くも指し示す必要がある)との観点で[出典紹介部]について整理なしての明確化をなさんとしているとのことが背景としてありもする(語るに値する[聞く耳]を持った人間がまったくいない、ないし、語るに値する[聞く耳]を持った人間が僅少なりとも存在していたとしても[集団的黙過および言論封殺の方向の力学]がそれを上回るのならば、話は同じ、手前がやっていることも[徒労]以外の何物でもないとのことになろうとは重々承知のうえで筆を動かしてもいるわけだが、そのことは脇に置いておいて本稿を支える[理念]の話をここではなしているのである)―― )

 さて、次いで、これよりは

日本でも五芒星紋様が用いられてきたとのことがある。それは海女による[セーマン・ドーマン]と呼ばれる紋様の使用にまつわる話となる。その点、海女によるセーマンこと五芒星の使用は[竜宮]に引き込まれないための呪(まじな)いであるとの物言いがなされてもいる。さて、伝承に見る[竜宮]とはどういう場か。[時空間の乱れが発生した場]([外側に対して時間の進みが遅い場])とされる場である。他面、重力の化け物、ブラックホールおよびその近傍領域も[時間の乱れ]が問題となるものである。

とのことについての出典紹介をなし、そのうえで同じくものことがいかにして問題になるか、とのことの解説をなすこととする。

 表記のβの内容の前半部をなすところ、

[日本でも五芒星紋様が海女によるセーマン・ドーマンの使用としてのかたちで呪いにあって用いられてきたとの経緯があり、それがまた竜宮と結びついているとのことがある]

とのことについて「取りあえずも、」確認なしていただければ、とのことを申し述べることからはじめる。

 につき、グーグル検索エンジンなどで

[セーマン、海女]

と入力、[画像検索]をかけていただきたい。

 その行為によって、現行、下の「ような」図像でもって示されるものを挙げてのページらが複数表示されてくることか、と思う(それらのページがすべて消除を見ることは観念しづらいとの観点での話をなしている)。

 図にての左側
[史的に海女(説明不用かと思うが、職業としての伝統的潜水漁業従事者のことを指す)に素潜り漁の折に用いられてきたとの[セーマン]と呼ばれる魔除けとしての五芒星紋様]
を挙げたものとなり、図にての右側は 
[同文に史的に[海女]らに用いられてきたとの[ドーマン]と呼ばれる魔除けとしての格子状の紋様]
を挙げたものとなる(:うち、[ドーマン]については一般に縦に4本の線を、横に5本の線を引いての行列構造をとる紋様となる。そちらについては相応しくも荒唐無稽サブカルチャーなどに影響を与えてきたところの神秘主義体系に見る[九字]と総称される字ら、「臨」「兵」「闘」「者」「皆」「陣」「裂」「在」「前」と結びつけて理解されてきたものであることがよく知られ、については、たとえば、和文Wikipedia[九字護身法]にも[九字]と[ドーマン]を結びつけての明治期古書の図像が「現行にては」掲載されている)

 以上のように歴史的に日本国内でも[魔除け]として五芒星紋様が用いられてきたとのことについてはオンライン上の検索にて労せず同定できるところとして、次のような説明がなされている。


| 出典(Source)紹介の部74 |

 ここ出典(Source)紹介の部74にあっては

[日本国内にて[魔除け]として五芒星紋様が史的に用いられてきたとのことがある]

とのことの典拠を挙げることとする。

(和文ウィキペディア[セーマンドーマン]項目よりの現行の記述よりの原文引用として)

 セーマンドーマンまたはドーマンセーマンとは、三重県鳥羽市及び志摩市の海女が身につける魔除けである
 これに関してははっきりとした謂われは伝わっていないが、魔除け、魔おどし、龍宮にひきこまれるを防ぐためのおまじないとされている。 ・・・(中略)・・・ 陰陽道と関係するのではないか、ともいわれ、星形の印は安倍晴明判紋、格子状の印は九字紋と同じ形状である。このセーマンは安倍晴明、ドーマンは芦屋道満の名に由来するともいわれる。・・・(中略)・・・ 安倍晴明判紋は晴明桔梗とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。九字紋は横5本縦4本の線からなる(九字護身法によってできる図形)をしている。ドーマンの線数は必ずしも9本とは限らない。ウェットスーツの普及で、この風習は急速に廃れつつある。

(引用部はここまでとする)

 上の引用部にてはセーマンが[龍宮]に引き込まれないようにすべくもの呪いであると「言われている」と表記してある。

(:尚、[セイメイ⇒セーマン]とのことで[セーマン]の呼称の由来と俗に言われているところの[安倍晴明](極めて有名な平安期陰陽師)の紋(上にてのウィキペディアにても[晴明桔梗]として言及されているもの)が五芒星形状を呈していることはよく知られたこととなっており、といった情報の周知度・流布され度合いについてはオンライン上にてもすぐに確認できることである。
 その点、
[京都(の戻橋の界隈)に存在する[晴明神社]は諸所に五芒星を配した神社である]
とのことはよくも通人には認知されており(写真公開しているウェブページもある.疑わしきは[晴明神社]関連のウェブサイトをあたってみるとよかろう)、ウィキペディア[晴明神社]項目にも
(現行にての記載内容より引用するところとして)
(晴明神社にあっての)この井戸は五芒星(晴明紋)を描き、その取水ぐちがその星型の頂点の一つにあり、立春には、晴明神社の神職がその晴明井の上部を回転させ、その年の恵方に取水口を向けるのが、慣わしとなっている
(引用部はここまでとする)
と表記されているようなところとなる)

 また、[竜宮と五芒星が結びついている]とのことまでは言及されていないのだが、
[五芒星が日本にて伝統的に用いられてきた魔除けである]
とのことについては博物学者として並ならぬ知識を有していた南方熊楠の手になる『十二支考 ―蛇― 』(本稿の先だっての部でもそこよりの引用を他所表記との兼ね合いでなしているとの論稿)にあっても ―和製プロジェクト・グーテンブルクとでも言うべき青空文庫のサイトを通じてオンライン上よりテキスト確認できるとのかたちにて― 以下、引用するような表記がなされているとのことがある。

(直下、オンライン上の青空文庫媒体より全文確認できるとの南方熊楠の手になる『十二支考 蛇に関する民俗と伝説』より原文引用をなすとして)

種彦の『用捨箱(ようしゃばこ)』巻上に、ある島国にていと暗き夜、鬼の遊行するとて戸外へ出でざる事あり。その夜去りがたき用あらば、目籠を持ちて出るなり、さすれば禍なしと、かの島人の話なりといえるは、やはり新島辺の事で、昔は戸口にも笊を掛け、外出にも持ち歩いたであろう。種彦は、江戸で二月八日御事始おことはじめに笊を門口に懸けた旧俗を釈(と)くとて、昔より目籠は鬼の怖るるといい習わせり、これは目籠の底の角々は☆如此(かく)晴明九字(あるいは曰く晴明の判)という物なればなり原来の俗説、ただ古老の伝を記すと言ったが、その俗説こそ大いに研究に用立つなれ。すなわちこの星状多角形の辺線は、幾度見廻しても止まるところなきもの故、悪鬼来りて家や人に邪視を加えんとする時、まずこの形に見取れ居る内、邪視が利かなくなるの上、この晴明の判がなくとも、すべて籠細工の竹条は、此処(ここ)に没して彼処(かしこ)に出で、交互起伏して首尾容易に見極めにくいから、鬼がそれを念入れて数える間に、邪視力を失うので、イタリア人が、無数の星点ある石や沙や穀粒を、袋に盛って邪視する者に示し、彼これを算(かぞ)え尽くすの後にあらざれば、その力利(き)かずと信ずると同義である。節分の夜、豆撒くなども、鬼が無数の豆を数え拾う内に、邪力衰うべき用意であろう。

(引用部はここまでとする ―※― )

(※上にての下線部は、大要、(南方熊楠曰くのところとして)次のような書かれようがなされている箇所となる →(以下、要約表記をなすとして)特定古文献 ―江戸期戯作者たる柳亭種彦の手になる随筆『用捨箱』― などに典拠求められるところとして[鬼の遊行]による災いを避けるため籠(かご)を持ち歩く風習や笊(ざる)を家屋に立てかけるとの風習があるとのことである。これは籠(かご)などの底の編み目が[五芒星紋様][晴明九字]の形態に近しく、各辺に出口のないその構図より悪鬼がやってきて[邪視]をなさんとしてもそれに見入ってその[邪視]が[邪視]の用をなさなくなるからであるとされていることによる]

出典(Source)紹介の部74はここまでとする)


 さて、調査対象のうちの極一領域にすぎないながらも、[多くの民俗学系の書籍]「をも」検討対象としてきた(時間があまりにも限られている中でコンテキストを素早くも捕捉するとの合理的アプローチでありながらも検討対象としてきた)とのこの身にあっても、

 (五芒星が[魔除け]として日本で用いられているとのことを越えて)

「[龍宮に引き込まれないための呪(まじな)い]として日本では五芒星紋様が用いられてきた」

とのことに関する明示的な文献上の根拠、伝承上の根拠について

[古典の具体的表記「そのもの」]

を挙げながら紹介しているとの書籍に出会ったことがない(筆者が把握していないとのところでそのレベルでの論拠につき言及しているとの真っ当な書籍もある可能性もあるが)

 それがゆえ、

「龍宮に引き込まれないための呪いが五芒星紋様によって体現される」

とのことが海女らに伝わっているとされはすれどもそれは口伝・口誦の問題に留まっている、そう、そちら内容さえ後追いすれば、そういう伝承が残っているとのことが[記録的事実]であると異論なくも誰もが確認できるといった文献を名指しできるわけ「ではない」(:これが例えば、江戸期に成立の通用性高き古文献に[龍宮に引き込まれるのを防ぐための五芒星状の呪符]に対する言及が認められるのならば話も違ったろうとのことになろうが、そういう古文献・伝承上の論拠は ―当方が探査する限り― 見当たらない)。

 しかしながらも、
[関連すると思しきところ]
の古典上の記述、すなわち、

[海女が[龍宮]に向けて潜水した]

との[古典上の記述]までは確と存在しているとの指摘まではなせるようになっている(口伝・口誦の問題として[龍宮に引き込まれないためのもの]ともされるセーマンという五芒星状の魔除けを用いてきたと現在、俗間にて語られている潜水漁業従事者たる海女、彼女らが(五芒星を帯びていたかどうかは別として)[龍宮]に潜水したとの[古典上の記述]までは存在していると指摘できるようになっている)。
 
 この身も把握するところとして以下、出典紹介部にて示すような古文献上の記述がなされていることまでは容易に確認可能な記録的事実となっているのである。


| 出典(Source)紹介の部75 |

 ここ出典(Source)紹介の部75にあっては

[著名古典『源平盛衰記』(げんぺいじょうすいき/『平家物語』の異本として成立したもので江戸期よりその由来について争いがあったとの古典)にあっても[[海女]が[龍宮]に向けて潜水した]との記述までは認められる]

とのことを紹介する。

 その点、オンライン上より「現行」確認可能となっているとの記載を引くが、『源平盛衰記』には次のような記載が含まれている。

(直下、オンライン上の国内サイト(j-texts .comとのサイト)にて掲載されている『源平盛衰記』(国民文庫刊行版として紹介されているとのもの)の特定の下りよりの抜粋をなさせていただくとして)

 老松は母也、若松は女也。 勅定の趣を仰含。母子共に海に入て、一日ありて二人共に浮上る。
 若松は子細なしと申す。
 我力にては不(レ)叶、怪き子細ある所あり、凡夫の可(レ)入所にはあらず、如法経を書写して身に纏て、以(二)仏神力(一)可(レ)入由申ければ、貴僧を集て、如法経を書写して老松に給ふ
 海人身に経を巻て海に入て、一日一夜不(レ)上。人皆思はく、老松は失たるよと歎ける処に、老松翌日午刻計に上。
判官待得て子細を問。
 非(レ)可(二)私申(一)、帝の御前にて可(レ)申と云ければ、さらばとて相具し上洛。
 判官奏し申ければ、老松を法住寺(ほふぢゆうじの)御所に被(レ)召、庭上に参じて云、宝剣を尋侍らんが為に、竜宮城と覚しき所へ入、金銀の砂を敷、玉の刻階を渡し、二階(にかい)楼門を構、種々(しゆじゆ)の殿を並たり。
 其有様(ありさま)不(レ)似(二)凡夫栖(一)心言難(レ)及。暫惣門にたゝずみて、大日本国(だいにつぽんごく)の帝王の御使と申入侍しかば、紅の袴著たる女房二人出て、何事ぞと尋、宝剣の行へ知召たりやと申入侍しかば、此女房内に入、やゝ在て暫らく相待べしとて又内へ入ぬ、遥在て大地動、氷雨ふり大風吹て天則晴ぬ。
 暫ありて先の女来て是へと云。老松庭上にすゝむ。御簾を半にあげたり。庭上より見入侍れば、長さは不(レ)知、臥長二丈(にぢやう)もや有らんと覚る大蛇、剣を口にくはへ、七八歳の小児を懐、眼は日月の如く、口は朱をさせるが如く、舌は紅袴を打振に似たり。詞を出して云、良日本(につぽん)の御使、帝に可(レ)申、宝剣は必しも日本(につぽん)帝(みかど)の宝に非ず、竜宮城の重宝也。我次郎王子、我蒙(二)不審(一)海中に不(二)安堵(一)、出雲国簸川上に尾頭共に八ある成(二)大蛇(一)、人をのむ事年々なりしに、
 素盞烏尊(そさのをのみこと)、憐(二)王者(一)孚(レ)民、彼大蛇を被(レ)失。其後此剣を尊取給(たまひ)て、奉(二)天照太神(てんせうだいじん)(一)、景行天皇(けいかうてんわうの)御宇(ぎよう)に、日本武尊東夷降伏の時、天照太神(てんせうだいじん)より厳宮御使にて、此剣を賜ひて下し給(たまひ)し、胆吹山のすそに、臥長一丈の大蛇と成て此剣をとらんとす。去共尊心猛おはせし上、依(二)勅命(一)下給間、我を恐思事なく、飛越通給(たまひ)しかば力及ず、其後廻(レ)謀とらんとせしか共不(レ)叶して、簸川上の大蛇安徳(あんとく)天皇(てんわう)となり、源平の乱を起し竜宮に返取、口に含るは即宝剣なり懐ける小児は先帝安徳(あんとく)天皇(てんわう)也平家の入道太政大臣(だいじやうだいじん)より始て、一門人皆此にあり見よとて傍なる御簾を巻上たれば、法師を上座にすゑて、気高上﨟其数並居給へり汝に非(レ)可(レ)見、然而身に巻たる如法一乗(いちじよう)の法の貴さに、結縁の為に本の質を不(レ)改して見ゆる也、尽未来際まで、此剣日本(につぽん)に返事は有べからずとて、大蛇内に(はひ)入給(たまひ)ぬと奏し申ければ、法皇を奉(レ)始、月卿(げつけい)雲客(うんかく)皆同成(二)奇特思(一)給(たまひ)にけり。偖こそ三種神器の中、宝剣は失侍りと治定しけれ。

(引用部はここまでとする)

 以上、引用なしたところに対して[文系]と呼ばれるような進路選択をなしたうえでほぼ意のままの大学に入学できるだけの古文・漢文知識(込:上にての引用文に含まれるレ点表記や一・二点表記に見る訓読メソッドに関する知識も含めての知識)を身につけた向きならば労せずもなせるであろうところの現代語訳をも ―長々としたものになるが― 下に付しておくこととする。

(直下、壇ノ浦の合戦の後、宝剣草薙が海中に没し、法皇(後白河上皇)が草薙の回収が図った中、海女が回収に召集されたとの下りについての直上『源平盛衰記』引用部に対するこの身による現代語訳を付すとして)

宝剣回収のために招集された海女らのうち)老松オイマツという女の方は母親となり、若松ワカマツという女はその娘であった
 勅命の趣旨を言い含められたうえで彼女らは母子共々、壇ノ浦に潜り、一日を経て、浮上してきた。
 若松が言うには「子細なし」とのことであった(註:「子細なし」とは「別状ない」と訳されるような言いまわしだが、この場合は悪い意味で「どうしようもない」とのニュアンスともとれる)
 続いて、
我らが力では適うところではなく、怪しいとのところはあったものの、普通の人間が入り込めるようなところではなかった。如法経(法華経別称)を書写して身に帯び、神仏の加護を受けてのことならば先へと進めるであろう
と言うので、由緒ある僧らを集め、如法経
(註:[法華経]の別称である)を書写しそれを老松に与えた
 海女(註:引用元の『源平盛衰記』の表記では海人)としての彼女らはその如法経(法華経)を身にまとって潜水し、一日一夜の間、浮上してこなかった。人々が老松らは死んでしまったのであろうと嘆いていたところ、老松が翌日の午後に海中より浮上してきた。
 そこで義経(註:この部は原文では[判官]と表記されているが、前段の文脈上、検非違使として朝廷に仕えていた源義経、頼朝に討伐される前の源義経が草薙之剣回収作戦に旗下100騎を伴って関与しているとの記載が認められるので、この場合の[判官]とは[判官贔屓]の語源としても知られる[検非違使(判官)としての九郎義経]のことであろうと当然に解せられるようになっている)が「どうだったのか」と委細を問うた。
 すると海女らは
「申し上げることができません、帝の御前でならば申し上げられますが」
と言うので、義経は海女らを伴って上洛した。
 義経が用向きを上奏したならば、老松は法住寺(の後白河の)御所に召し出され、そちら御所庭園にて彼女老松が申し述べたところ、(彼女らは)宝剣を得るがために[竜宮城]と思われるところへ入り込むことになり、そこにて金銀の砂が敷かれているとのありさま、玉(宝玉)製の渡りが設けられ二階建ての楼門と種々様々な御殿があったとのありさまのを見出したという。
 そのありようはまさしく普通人には形容しがたいこの世のものとは似ても似つかぬものであったという。
 しばらくの間、そこにての門前でたたずみ、次いで、「大日本国の総攬者たる帝の使いでやってきた」と言い伝えたらば、紅色の袴を着た女官(女房)らがそちら竜宮内部より二人出てきて、「何事か」、と問うてきたので、
「宝剣(註:文脈上、壇ノ浦海戦で海中に没した[草薙の剣]のこと)の行方が知りたいのです」
と伝えたところ、女官らは宮殿内に入り、ややあって「しばらく待つように」と伝えに来もし、それからまた宮殿内に入っていった。大地が動くほどにも長き間、氷雨が降り風が吹き、そして、天は晴れたとの長き間、待つような想いであった(註:海底の龍宮の中で天候の話をしているようにとれ、妙にも映るとの部だが、[遥在て大地動、氷雨ふり大風吹て天則晴ぬ]とは時間が長くも経っていることの修辞的表現と受け取れもする)
 しばらくしてから先の女官がやって来て、「これへ」と言うので、老松らは中庭の中へと進んでいった。
(その先の龍宮の統治者が座する場にて)すだれが半分ほど、上にあげられていた。
 庭の方より老松らがそちらを見ると、正確には分からぬが、全長にして二丈(今日で言うところの6メートルか)もあろうことかとは分かる大蛇が口に剣を加えて、七から八歳の小児 (註:別の古典内容から判断するにこれは[八歳の竜女]との法華経用語への言及と解される) を懐に抱いてそこに座しており、その眼は日月のように見え、また、口は朱を塗ったようになっており、その舌は紅の袴が動いて揺れるようにゆらゆらと振られていた
 その存在(竜宮主催者との出で立ちで描写される大蛇)が言葉を発して言うところ、
以下、かなりもっての長口上の記載箇所であるため、他との別を設けるために段下げして表記するとして)

「良き日本よりの使者よ、帝(みかど)へと申すがよい。宝剣(註:文脈上、草薙の剣)は必ずしも日本国の帝の宝物(ほうもつ)ではなく、竜宮城にあっての至宝なのだ。私の次男にあたる王子、それが我が不興を蒙(こうむ)ってのこととし、海中にて安心しての居所を見出せず、出雲の国の簸川(ひかわ)の地にて頭と尾が共に8本ある大蛇と化し、人を呑み込んでは殺していたとのこと、多年に渡ってなしていた。そこを素盞烏尊(すさのおのみこと)が土地の王を憐れみ、民を慮っての挙に出たために、その次男坊としての大蛇を失うことになった。その後、素盞烏尊(すさのおのみこと)がその大蛇より剣を取り、天照大神(あまてらすおおかみ)に献上し、その宝剣を景行天皇(註:伝説上の帝で九頭竜を草薙で退治した日本武尊こと[やまとたける]の父でもある)の統治期に日本武尊(やまとたける)が夷(蛮族)の討伐にと東征に出た際に天照が同皇子に授与することになった。 授与されての宝剣を[全長1丈(註:3メートル程か)の大蛇]へと変じて(註:元[ヤマタノオロチ]であった存在の親たる竜宮の主が、か)胆吹山の裾野のところで略取しようともした(註:話の筋立て上、[日本各地に伝わる日本武尊の[九頭龍]退治伝承]へのそれと明示せずにの言及であるように解される)
 しかし、剣を佩(お)びての日本武尊が心猛々しき者にして、また、勅命を帯びていたとのかたちでもあったために、この我を恐れることもなく、飛び越えて行ってしまって力が及ばなかった。
 後、謀(はかりごと)を再度めぐらし、剣を略取せんとしたがすべてうまくいかなかった。
 さらにその後、簸川(ひかわ)にて素盞烏尊に退治された大蛇(註:文脈上、竜宮の主催者の次男で八岐大蛇のこと)は生まれ変わって安徳天皇(註:壇ノ浦で平家一門と共に入水して果てた、平家一門の権力の源泉となっていた幼帝)となり、(騒乱を煽って)、[源平の合戦]を引き起こし、竜宮に宝剣を取り返した。いま口に咥えているのがまさにその剣であり、ここに抱いている幼児が先の帝、安徳天皇である。平家の入道太政大臣(註:壇ノ浦の合戦の前に没した平清盛のこと)よりはじまって、その一門も皆、ここにいる。見るがいい

と述べてその大蛇が簾(すだれ)を全て巻き上げて見せたらば、法師(註:剃髪して仏門に入ったとのスタンスを生前取った平清盛のことであろうと当然に解される)を上座に平家の高貴なる者たち(公達)がそこに居並んでいた
(大蛇が続けて口を開いて言うには、との文脈にて)
本来ならば汝(註:老松のこと)は見ることが出来なかったようなところだが、身につけた如法一乗(註:先述のように[法華経]のこと)の尊さ、および、縁(えにし)がゆえに[ことの本質]を見せた。未来永劫、この剣が日本に返ることはないであろう
と述べ、大蛇は奥へと入って行った。
 そのように(老松が上皇に)上奏したらば、法皇(後白河上皇)をはじめとしたその場に居合わせた公達らは皆、一同、「奇特なることだ」との面持ちであられた。三種の神器のうち、宝剣が失われたとのこと、これにて定まった」

(抽出部に対して筆者がなしたところの補ってもの現代訳はここまでとする)

 以上、[現代訳]を付しつつもの引用元古典『源平盛衰記』内記述に見るように、

[[竜宮]と[海女]はときに結びつく存在となっている]

とのことまでは(口伝・口誦の類に留まらず)著名な古典に見受けられる[文献的事実]の問題として摘示できるようになっている。

出典(Source)紹介の部75はここまでとする)


 さて、

[竜宮と海女が古典上にあって結び付けられている](『源平盛衰記』)

[竜宮に引き込まれないようにと海女が用いる魔除けがセーマン(五芒星)であるとの言われようがなされている](現代に伝わる口伝にあっての語られよう)

との両二点がみとめられるようなことがある中で[セーマン(五芒星紋様)]が[竜宮]と色濃くも結び付いていると述べることは ―現在現時点での俗間での言われよう・口伝(に見る風習伝播ありよう)には[近代以後由来の夾雑物]が入りうるとのことが念慮される中でも― [牽強付会の論法](こじつけがましき論法)になるだろうか。いや、ならないだろう。そのように申し述べたい(:現代にて[竜宮に引き込まれないようにするためのものである]と[五芒星紋様]が言及されることがあるとのことからして取り上げるに足りることであると見えもする中、さらにもって ―たった一事例のことながらも― 伝承上・文献上の記録とのつながりも見出せるのであるから、牽強付会にはならぬであろうと述べたいのである)。

 ここまで書き進めたうえで申し述べるが、[竜宮]とくれば、

[時間の流れが外の世界より遅くも流れる場]

としてつとに知られている場でもある(浦島伝承)。

 そして、

[時間の流れが外の世界より遅くも流れる場]

とのことで述べれば、同じくものことが

[ブラックホール(の近傍領域)]

にも当てはまるとのことがある。同じくものことがここにて指し示しの対象としていβと振っての段の後半部内容となるわけだが、その出典を下に挙げておくこととする。


| 出典(Source)紹介の部75-2 |

 ここ出典(Source)紹介の部75-2にあっては

[ブラックホール近傍領域では時間の遅れが発生するとされている]

とのことの典拠を挙げておくこととする。

(直下、 The Black Hole War: My Battle with Stephen Hawking to Make the World Safe for Quantum Mechanics『ブラックホール戦争』(早川書房刊行の邦訳書/紐理論大家として知られるレオナルド・サスキンドがスティーブン・ホーキングとのブラックホール理論にまつわる争いをテーマにしてものしたとの趣旨の著作)にあっての49ページから50ページよりの「再度の」原文引用をなすとして)

「アリスが(ブラックホールの)帰還不能点の方へ漂っていくとき、同じことが彼女の歌声に起こる。最初に、ボブは262ヘルツで音を聞く。それから音は200ヘルツ、次に100ヘルツ、50ヘルツというふうに変わっていく。帰還不能点に近いところで歌った歌声は、脱出するのに長い時間がかかる。・・・(中略)・・・しかし一連の音波がボブに届くのにかかる時間はどんどん長くなるので、アリスに関するすべてのことが遅くなってほとんど止まってしまう。ボブが最後の波を感じとるには無限の時間がかかる。実際、ボブから見ると、アリスが帰還不能点に達するには、無限の時間がかかるように見える。・・・(中略)・・・ボブにとっては、彼が聞く音から判断するとアリスが帰還不能点に達するには無限の時間がかかる。だが、アリスにとっては、まばたきするほどの時間もかからない」

(引用部はここまでとする。この部は出典(Source)紹介の部55にても引用なしていたところともなる)

 以上のように原文引用なしたところに加えて、同じくもの引用元にあっては ――(ここ出典(Source)紹介の部75-2にて本稿でははじめて引用なすところとして)―― 次のような書かれようもがなされている。

(直下、レオナルド・サスキンド著『ブラックホール戦争』にあっての86ページよりの原文引用として)

 大きなブラックホールはもうひとつの非常に手軽なタイムマシンになるだろう。それにはこのようにする。まず、軌道をまわる宇宙ステーションと、地平線の近くまであなたを吊りおろす長いケーブルが必要だ。ブラックホールに近づきすぎないようにしなければならないし、絶対に地平線を通って落ちないようにしなければならないので、ケーブルはとても頑丈なものにしなければならない。宇宙ステーションにあるウィンチがあなたを下におろし、一定時間経過した後、リールを巻いて上に戻す。たとえば、ケーブルにぶらさがって1年過ごすだけで1000年後の未来に行きたいとする。重力の加速による不快感は少なくしたい。それは可能かもしれないが、それには私たちの銀河系とほぼ同じくらい大きな地平線を持つブラックホールを見つける必要がある。

(引用部はここまでとする)

 直上引用部は

「事象の地平線を「超えずに」ブラックホールの近傍領域に足入れした者がいたと仮定すれば、(事象の地平線を「超えて」ブラックホールに呑まれた者が凍り付くが如くように[時の停止]と[粉砕]を見るとされるのに対して)、[耐えられるぐらいの重力の加速感で時の遅れを体感することになるだろう]との見解が呈されている」

とのものである。

出典(Source)紹介の部75-2はここまでとする)


 上にて

[ブラックホールの近傍領域では時間の流れが(竜宮よろしく)乱れるとされている]

とのことを指し示した。

 そのうえで書くが、

[[ブラックホール]と[竜宮]の関係]

から多少、逸れるところがあるのであるも、「ほぼ似たようなところ」に関わるところとして、

[([時空間に生じた重力の歪み]として[ブラックホール近縁の存在]ともなる)[ワームホール]と[竜宮]の関係]

について本稿の先立っての段で取り上げてきたとの事前経緯がある。

 すなわち、

「[通過可能なワームホール]を構築したうえでそちらワームホールを(ケージなどに入れて)光速でも到達に時間がかかるとの領域にまで搬出すれば、(竜宮に見受けられるそれとまったくもって同様の[時間の遅れ]に関わるところの)[双子のパラドックス]が具現化する中で[タイムマシン]ができあがるとの物理学者申しようがなされている

とのことにまつわり同文のことを取り上げてきたとの事前経緯が(本稿には)ある。

 本稿の先だっての部にては問題となる箇所より微に入っての原文引用をなしつつ、キップ・ソーンという物理学者の著作 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』(原著の方は1994年刊行)のそうした伝での内容、

[[通過可能なワームホールを用いてのタイムマシン]に関わるところで[[双子のパラドックス]=[竜宮関連説話に見るのと同様の時間の遅れにまつわるパラドックス]の現出化]に通底することが目立って取り上げられている]

とのことについて解説してきたとの事前経緯があるのである(出典紹介部としては本稿にての出典(Source)紹介の部28-2および出典(Source)紹介の部28-3が解説なしていたとの部位となる)。

 同じくものことにまつわっての[おおよその内容]を下に再掲しておくこととする。

(以降、双子のパラドックスと龍宮伝承、そして、通過可能なワームホールにまつわっての(一部で著名な)思考実験との絡みで本稿にての先行する段にて何を述べていたのかについて振り返っての話をなす)

(直下、[竜宮におけるが如く時間の遅れ]を利用しての[ワームホール(ブラックホールに近縁のもの)式タイムマシン構築方法]にまつわるキップ・ソーン著作『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』解説部p.456-p.457の内容の「再度の」原文引用をなすとして)

私は彼女の手を握ったまま ・・・(中略)・・・ ワームホールを通して眺めながら私は当然、彼女がちょうど十二時間後の二〇〇〇年一月一日午後九時頃に帰ったことに同意する。午後九時〇〇分にワームホールを覗いた私に見えるのは、カロリーだけではない。彼女の背後、わが家の前庭、そしてわが家も見ることができる。
・・・(中略)・・・
この旅は地球上で測れば、・・・(中略)・・・ 一〇年もかかる旅である。(これは典型的な「双子のパラドックス」だ。高速度で往復した双子の一人(カロリー)は時間の経過を一二時間と測るが、地球に残った双子のもう一方(私)は、旅が終わるまで一〇年も待たなくてはならない
・・・(中略)・・・
二〇一〇年一月一日が到来し、カロリーは旅から帰ってきて、前庭に着陸する。私は走り出て彼女を出迎え、予想どおり、彼女が一〇年ではなく一二時間しか年をとっていないのに気づく。彼女は宇宙船の中に座っており、マウスに手を差し入れている。だれかと手を繋いでいるようだ。私は彼女の背後に立って、マウスの中を覗き、彼女が手を握っている相手は一〇年若い私自身で、二〇〇〇年一月一日の私の居間に座っていることに気づく。ワームホールはタイムマシンになっていたのである。

(再度の引用部はここまでとする ―※― )

(※尚、Google海外版が現行展開しているオンライン上の書籍内容閲覧サービスよりも確認できるところの原著 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacyにあっての該当表記部(原著p.503-p.504、[14.WORMHOLES AND TIME MACHINESの章]の表記)を引用すれば次のとおりとなっている: Carolee departs at 9:00 A.M. on January 1 2000, as measured by herself, by me, and by everybody else on Earth. Carolee zooms away from Earth at nearly the speed of light for 6 hours as measured by her own time; then she reverses corse and zooms back , arriving on the front lawn l2 hours after her departure as measured by her own time. I hold hands with her and watch her through the wormhole throughout the trip, so obviously I agree while looking through the wormhole , that she has returned after just 12 hours , at 9:00 P.M.on 1 January 2000. Looking through the wormhole at 9:00 P.M., I can see not only Carolee; I can also see, behind her, our front lawn and our house.[ . . . ] Instead, if I had a good enough telescope pointed out the window, I would see Carolee's spaceship flying away from Earth on its outbound journey, a journey that measured on Earth , looking through the external universe, will require 10 years. [This is the standard“twins paradox”; the high-speed“twin”who goes out and comes back (Carolee) measures a time lapse of only 12 hours, while the“twin”who stays behind on Earth (me) must wait 10 years for the trip to be completed.I then go about my daily routine of life. For day after day, morlth after month, year after year, I carry on with my life, waiting―until finally, on 1 January 2010 , Carolee returns from her journey and lands on the front lawn. I go out to meet her, and find, as expected, that she has aged just 12 hours, not 10 years. She is sitting there in the spaceship,her hand thrust into the wormhole mouth, holding hands with somebody. I stand behind her, look into the mouth, and see that the person whose hand she holds is myself,10 years younger,sitting in our living room on 1 January 2000. The wormhole has become a time machine. (オンライン上より確認できる原著よりの引用はここまでとしておく))。

 上がどういうことなのかを「堅い線で」(「ひたすらに原意に忠実たらんとする式で」)要約すると次のようなこととなる。


「ソーンの妻は宇宙船で旅を開始した。そのソーンの妻の主観時間では12時間の間だけ宇宙旅行をして地球に戻ってくるとのことになっているわけだが、彼女のスペースシップは光速近似のスピードで飛んでいる(との設定である)。そのような[光速近似のスピードの存在]から見た時間と地球で我々が体験している時間の間ではずれが生じる(と現代物理学では説明されている)。アインシュタインの特殊相対性理論より導き出せる[双子のパラドックス](上にての引用部でも「これは典型的な「双子のパラドックス」だ( This is the standard“twins paradox”)」とそのままに言及されているもの)と呼称されているような現象が作用するなかで
[物理学者キップ・ソーンが地球で10年間過ごしている間にソーンの妻カロリーの光速に近しきスピードで動く領域では12時間分の時間しか流れていない]([時間の遅れ]が宇宙船サイドで生じている)
とのことになっている。
 従って、ソーンの妻カロリーが2000年1月1月午前9時に出発して2010年1月1日午後9時に帰ってきたとのつもりでも地球は20「10」年1月1日になってしまっている。
 そうして[12時間のつもり]で[10年経過していた]との地球に帰ってきたカロリー女史(物理学者ソーンの妻)であるが、彼女の手からは[ワームホール]が出発時と同様に発生している(ソーンと彼の妻は当初よりワームホールでリンクされているといった思考実験上での[設定]が採用されている)。 その[手より発生しているワームホール]が繋がる先は10年前の世界のソーンの家である。
 それがため
[ソーンの妻のワームホール付きロケット]
が2010年に地球に辿り着いたところで
[2001年(地球)と2010年(地球)がワームホールゲート]
で結ばれたことになる。 
 これにて ―そのワームホールが自由に通過可能なものであれば(ここでのソーンの設定上ではワームホールを介して手を繋いでいるようにそうなっている)―  タイムマシンが構築されたことになる」


 馬鹿げたことを云々しているように見えるかもしれないが、「上は科学関連書籍に見る[まじめな思考実験]にまつわっての物言いである」と強くも述べ、話を続ければ、である。同じくもの話の流れの中にて利用されているとの Twins Paradox[双子のパラドックス]とは次のようなものである。

(直下、和文ウィキペディア[時間の遅れ]項目、そこにての[特殊相対性理論における時間の遅れ]の節にあっての現行記載よりの「再度の」原文引用をなすとして)

特殊相対性理論では、物体が高速で移動するほど、その系における時間の流れが遅くなる。速度の条件は光速なので、光速に近い速さで運動する物体はほとんど時間の進みがないことになる
・・・(中略)・・・
これは、時間と空間を合わせて座標変換をしないと、電磁気学の法則に現れる光速の意味が説明できない、という理論的な要請から導かれたローレンツ変換による帰結である。
・・・(中略)・・・
この現象を利用すると、光速に近い宇宙船で宇宙を駆けめぐり、何年か後、出発地点に戻ってきたような場合、出発地点にいた人は年を取り、宇宙船にいた人は年を取らないという現象が生じ、宇宙船は未来への一方通行のタイムマシンの役目を果たすことになる(宇宙船から静止系を見ると、静止系は相対的に運動していることになるが、時間の遅れが生じるのは宇宙船側である。詳しくは双子のパラドックスの項を参照のこと)

(引用部はここまでとする)

(続いて直下、和文ウィキペディア[双子のパラドックス]項目、そこにての[双子のパラドックスのストーリー ]の節にあっての現行記載よりの「再度の」原文引用をなすとして)

双子のパラドックスのストーリーは次のようになる。双子の兄弟がいて、弟は地球に残り、兄は光速に近い速度で飛ぶことができるロケットに乗って、宇宙の遠くまで旅行したのちに地球に戻ってくるものとする。このとき、弟から見れば兄の方が動いているため、特殊相対性理論が示すように兄の時間が遅れるはずである。すなわち、ロケットが地球に戻ってきたときは、兄の方が弟よりも加齢が進んでいない。一方、運動が相対的であると考えるならば、兄から見れば弟の方が動いているため、特殊相対性理論が示すように弟の時間が遅れるはずである。すなわち、ロケットが地球に戻ってきたときは、弟の方が兄よりも加齢が進んでいない。これは前の結果と逆になっており、パラドックスである。このパラドックスは、双子の兄弟の運動が対称ではないことから解決される。弟は地球(慣性系と仮定してよい)にいるのに対し、ロケットに乗った兄は、出発するときおよび、Uターンするときに加速されるため、少なくとも加速系に一時期いることになる。すなわち、ずっと慣性系にいる弟とは条件が異なるのである

(引用部はここまでとする)

 上にて引用しているところにつき[双子の兄⇒(変換)⇒浦島][双子の弟⇒(変換)⇒浦島が故郷に残してきた関係者ら][ロケット亀(型スペースシップ)]との切り替えをなした「だけ」でそのまま表記しなおすと次のようになる。

(引用部に対して一部単語のみを切り替えたテキストとして)→
[双子のパラドックスのストーリーは次のようになる。[浦島]と[浦島の故郷の関係者ら]がいて、[浦島の関係者ら]は地球に残り、[浦島]は光速に近い速度で飛ぶことができる[亀]に乗って、宇宙の遠くまで旅行したのちに地球に戻ってくるものとする。このとき、[浦島の故郷の関係者ら]から見れば[浦島]の方が動いているため、特殊相対性理論が示すように[浦島]の時間が遅れるはずである。すなわち、[亀]が地球に戻ってきたときは、[浦島太郎]の方が[浦島の故郷の関係者ら]よりも加齢が進んでいない。一方、運動が相対的であると考えるならば、[浦島]から見れば[浦島の関係者ら]の方が動いているため、特殊相対性理論が示すように[浦島太郎の関係者ら]の時間が遅れるはずである。すなわち、[亀]が地球に戻ってきたときは、[浦島の関係者ら]の方が[浦島]よりも加齢が進んでいない。これは前の結果と逆になっており、パラドックスである。このパラドックスは、[浦島と浦島の関係者ら]の運動が対称ではないことから解決される。浦島太郎の関係者は地球(慣性系と仮定してよい)にいるのに対し、[亀]に乗った[浦島]は、出発するときおよび、Uターンするときに加速されるため、少なくとも加速系に一時期いることになる。すなわち、ずっと慣性系にいる浦島の故郷の関係者らとは条件が異なるのである

 世間一般にての説明のなされようからただ[特定の単語]のみをそのまま切り替えただけで上のように変換できることになるわけである。もって、お分かりいただけるとは思うが、[双子のパラドックス]とは浦島太郎伝説に非常に親和性が強い科学理論上の概念となってる

(ここまでをもってして[双子のパラドックスと龍宮伝承、そして、通過可能なワームホールにまつわっての(一部で著名な)思考実験との絡みで本稿にての先行する段にて何を述べていたのか]についての振り返っての表記を終えることとする)

 以上振り返って見たように
[竜宮]
とは[ワームホール(ブラックホール近縁の重力の怪物)を用いてのタイムマシン関連のトピックス]「とも」実にもって親和性が強いものとなっているとのことが述べられるようになっている。


「長くもなるも、」の[付記]の部として


 直近までの段にあって

「[竜宮 ―現行にて世に語られているところでは海女らがそこに引きずり込まれるのを避けるために[五芒星]形状の呪符(セーマンと呼ばれるもの)を用いるとされている領域― ]
に関しては
[時間が外側に遅れるとの側面]
にて
[ブラックホール近傍領域]
と結びつくような側面があり、また、同様の側面で
[双子のパラドックス(ブラックホール類似のワームホールに関する先進的トピックと接合するパラドックス)]
と結びつくような側面がある」

とのことを指摘してきた。

 以上のことを踏まえてさらに述べれば、
[竜宮]
に関しては

[常夜(とこよ)・常闇(とこやみ;定常的なる闇の領域)の領域]

との側面が伴っているとの申しようもなせ、その伝でも

[常夜(とこよ)・常闇(とこやみ)の領域とも表せようブラックホール]

との近接性を観念できるようになっているとのことがある(『竜宮が[常夜の領域=定常的なる闇の領域だと?そのような話は聞いたことはない』と考える向きもあろうが、典拠は続いての段で示す)。

 以上のことにまつわる典拠について「も」ここにての

[脇に逸れての付記の部](いくつかの出典紹介部を包摂させての長めのものとして設けての付記の部)

にて解説しておきたいと思う。
 
 その点、日本の民俗学の先駆けとしての役割を柳田國男に引き立てられるとのかたちで果たしたことで有名な(そして[私生活にての問題ある行状]および[確たる自身の学統(後裔)をついぞ生み出せず(育てられず)に生涯を閉じた(とされている)との側面]から毀誉褒貶が激しいことでも知られている)折口信夫(シノブ)の手になる、

『国文学の発生 まれびとの意義』(和製プロジェクト・グーテンベルクとでも表すべき青空文庫でもオンライン上に公開されている著作権消失著作)

にあって「も」上のこと ――[竜宮が常闇の領域と通ずる]とのこと―― に通底していると判じられる記述がなされているので同著にてのそちら記述をまずもって引いておくこととする。


| 出典(Source)紹介の部75-3 |

 ここ出典(Source)紹介の部75-3にあっては

[民俗学分野の特定著作にあって「竜宮は常闇(とこやみ)の領域に通ずる」との観点に通底する記述がなされている]

とのことの紹介をなしておくこととする。

(直下、『国文学の発生 まれびとの意義』 ――著作権の切れた著作を無料公開している[青空文庫]のサイトより全文ダウンロード可能となっているとの著作―― より読み仮名を付しての原文引用をなすとして)

 常夜往(とこよゆく)と言ふ古事記の用例は、まづ一番古い姿であらう。「とこよにも我が往かなくに」とある大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の用法は、本居宣長によれば、黄泉の意となる此(これ)は少し確かさが足らない。が、とこよを樂土とは見て居ないやうで、舊用語(きゅうようご)語例に近よつて居る
 常夜・常暗(とこやみ)など言ふとこは、永久よりも、恆常(こうじょう)・不變(ふへん)・絶對(ぜったい)などが、元に近い内容である。ゆくは續行(ぞっこう)・不斷絶(ふだんぜつ)などの用語例を持つ語だから、絶對(ぜったい)の闇のあり様で日を經ると言ふことであらう。
 而(しか)も、記・紀には、其すぐ後に海の彼方の異郷の生物を意味するとこよの長鳴鳥(ながなきどり)を出して居るから、一つゞきの物語にすら、用語例の變化(へんか)した二つの時代を含んでゐることが見られる。
 古事記には尚、常世の二つの違うた用例を見せて居る
 海龍の國を常世として、樂土を考へてゐること、浦島子の行つた常世と違(ちがい)はない。此(これ)は新しい意味である
 たぢまもりの橘を求めた國は、實在(じつざい)の色彩濃いながら、やはり常世の國となつて居る
。其他異色のあるのは、常陸風土記の常陸自身を常世國だと稱(しょう)した事である。此は理想國の名を、如何にも地方の學者らしく、字面からこじつけ引きよせた一家言であつたのだらう。
 ほをりの命と浦島子との場合の常世は、目無筐(まなしかたま)に入ると言ひ、魚族の居る國と傳(つた)へ(記・紀)、海中らしく見えるが、他の場合の常世の意は、すべて海の彼岸にあるらしく傳(つた)へてゐる。つまりは、古代人の空想した國、或は島であつたのだ。たぢまもりの場合は、其出自が漢種であり、現實性(げんじつせい)が多い書き方の爲(ため)に、如何にも橘を齎(さい)した國が南方支那の樣に見える。けれども、此出石(いずし)人の物語も、一種のりつぷあんゐんくる式の要素を備へてゐて、常世特有の空想の衣がかゝつてゐる。思ふに、古代人の考へた常世は、古くは、海岸の村人の眼には望み見ることも出來ぬ程、海を隔てた遙かな國で、村の祖先以來の魂の、皆行き集つてゐる處(ところ)として居たであらう。そこへは船路或は海岸の洞穴から通ふことになつてゐて、死者ばかりが其處へ行くものと考へたらしい。さうしてある時代、ある地方によつては、洞穴の底の風の元の國として、常闇の荒い國と考へもしたらう。風に關係のあるすさのをの命の居る夜見の國でもある。又、ある時代、ある地方には、洞穴で海の底を潛つて出た、彼岸の國土と言ふ風にも考へたらしい。地方によつて違ふか、時代によつて異るか、其は明らかに言ふことは出來ない。

(引用部はここまでとする ―※― )


(※尚、昭和初期時点での「いかにも、」での文語調で書かれている上のパートを「補いもしながら」現代語風に内容変換すると、以下のようになる)

 古事記に見ることのできる
常夜往(とこよゆく)]
とのパートは[常夜] ――常(つね)なる夜の領域―― という語の使用で[一番古い例]となろう

 同じくものことについて(江戸期国文学者の)本居宣長の解説するところでは
「[とこよ]にも我が往かなくに」
という大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ.万葉集にての代表的女流歌人)の語句使用例に関しては
[[黄泉]のことを指してのもの
とのことになるとされている
 といった本居宣長の見方に関しては確度の面で幾分欠けるところがあるが、そうしたところは
とこよ
を[楽園・楽土]とは見ていないとの節ありの古い用語法に近いもののように見える
(本稿にての註記:ここは[楽園]としての[常世]ではなく闇の領域としての[常夜]との意味合いに近しいもののように見える、とのことが述べられている部となる)
常夜・常闇(とこやみ)
といった語句の用い方については
永久・永遠性
といったところよりも
恒常性・不変性・絶対性
といったところの方が元来からしてのその語感に近しいとのものであると言えよう

 しかも、日本書紀・古事記に関しては
[常夜往(とこよゆく)]
との記載がなされているとのその後ろの部([常世]ではなく[常夜]の記載がなされているとのその後のパート)にて
[海の彼方の[異郷]の生物]
としての
[長鳴鳥(ながなきどり)]
のことを持ち出しているのであるから、そのために、[同じくもの一続きの物語]であっても古事記にての常世には
[用語例が変化しつつあるとの二つの時代]
の感覚が反映されているように見える(本稿にての註記:長鳴鳥(ながなきどり)というものが異郷の生物であるとされることの由来についてはすぐ下の段にてどういうことか解説をなすが、ここで折口信夫は「長鳴鳥(ながなきどり)という異郷の象徴と結びつけられている側面では[とこよ]は[黄泉]ではなく[異郷]的ニュアンスを伴っていると解される」と述べている、すなわち、「[夜の国たる黄泉=とこよ]と[異郷としてのとこよ]が古事記にて併存している」との趣旨のことを述べているのである ――註記はここまでとしておく―― )
 古事記』にあっては[常世]に(時代を異にする)二つの違った用例を見出せる
 
海竜の国を[常世]として楽園・楽土の類いを考えていることについては浦島子 ――(註:室町時代以前の浦島伝承での浦島太郎の呼称)―― の伝承と同じである。こちらの方は[新しい時代の例]と言えるであろう
 田道間守 (本稿にての註記:たじまのもり/帝の命を受けて常世の国に渡り[非時香菓(ときじくのこのみ.橘とされる)]を持ち帰った者と記紀神話が語る存在) が[橘 (本稿にての註:古事記に登場する[たちばな]は紀州蜜柑のようなものであるという説「も」ある) を求めて渡ったとの国も実在性が強いものでありながら、やはり[常世の国]と表されている。『常陸国風土記』で当の[常陸]をして[常世(つねにそうあっての世界)の国]としたといった類のことである。これは[理想的な土地]の名をいかにも地方の学識者がやるように字面でもってかこつけての申しようであったのであろう。
 ほおりのみこと(訳注:漢字表記は火遠理命.記紀神話に登場する山幸彦の別名で神武の祖父との設定が付された存在であり、海神の娘・豊玉姫と婚儀を結び三年を海の宮殿で過ごしたとの設定が付されている存在でもある)や浦島子(訳注:先述のように浦島太郎の旧呼称)の伝承に見る[常世]は魚族の住まう国とされ、海中の国のようにも見えるが、海の彼方の国であったと伝えられている。つまりは古代人の空想した国ないし島だったわけである。田道間守(たじまのもり)の場合はその出自が漢人(中国の民)であったこと、また、現実性が感じられるとの記載がなされているため、田道間守が目指した方向は中国大陸南方の部とも見える。が、出石(田道間守伝承を伝える兵庫県豊岡界隈)の者の伝える伝承に関してもある種のリップ・ヴァン・ビンクル (訳注:折口著作表記では[りつぷあんゐんくる].リップ・ヴァン・ビンクルとはアメリカにて19世紀にワシントン・アーヴィングが発表した短編小説に登場する木こりの名前でそちら木こりが山の中で遊戯に興じていたらば、故郷で数十年が経っていたとの筋立てで有名な存在となっている ――その筋立て、中国の『述異記』に認められる木こりが時から取り残されたとの[爛柯(らんか)の故事]に近しい内容のものだが、アメリカ版[浦島太郎]と表されること多き物語ともなる―― ) 的なる側面があり、[常世]の話に通ずる空想がかった側面が透けて見える。思うに、古代人の考えた常世とは古くは[遙か海の彼方の異郷の国土]であり、また、[祖先らの魂が最後にはそこに行き着く場所]とも見られていたのだろう。そちら常世へは船で、ないしは、洞窟から行けると考えられていたと見え、死者のみがそこへの道を歩むと考えていたらしい。そのようにある時代、ある地域によっては洞窟の底にある(洞窟から吹きすさぶ)風が吹いていくる元となる国、常に闇なる荒れた国として考えもしたのだろう。風に関係があるとのスサノオノミコト(訳注:スサノオについては暴風雨の神との言い伝えの伝がある)が控えている[夜見(よみ)の国]でもあるということである。同様にある時代、ある地域によっては洞窟経由で海の底に潜った先にある彼岸の国土といったように考えられていたようにも見える。地方によってどう違うのか、時代によってどう違うのか、そちらは明確な区別はできない

(これにて『国文学の発生 まれびとの意義』(昭和初期文語調の著作)を現代語訳しての部を終える)


 上に現代語訳を付したうえでもなおもって
「(明治大正はおろか)昭和さえ遠くなりにけり」
の昨今にあっては分かりづらいところもあろうと見るから上に見る折口信夫の申しようについてその要旨を「さらに」下に記載しておく。

「古事記には[常夜]と[常世]の二つの[とこよ]が登場しており、それは
[時代が違っての認識を受けてのこと]
であろう。
 前者は本居宣長が江戸期にて「黄泉の領域」と表したもの、万葉集の[とこよいく]を古事記風の[常夜往く]と解するようなところに認められるとのもので、その意味するところは楽園・楽土といった語感のものではなく、より古い用法としての[常なる夜の領域]との意味合い、不変・絶対との語感が強いとの[黄泉]のことを指している節があるものである。
 他面、[常夜往く]との常なる夜の領域について持ち出している古事記ではそうした[常夜(常なる暗闇の領域)]の後の段にあって[異郷の生物]のことを指す[長鳴鳥(ながなきどり)]のことなどを持ち出しており、そのうえでさらに(常「夜」ならぬ)[常「世」]との字を充てているので、加えて、新しい時代の[常世]([常夜]に対する新しい異境としての[とこよ])との語感、浦島が異郷を想起させる海底の竜宮に向かったとの楽園・楽土のイメージでの常世が出てきていることになりもしよう。それについては田道間守(たじまのもり)が[橘]を探し求めたとの[外地]としての楽土としての常世でもあろう。
 火遠理命ほおりのみことや浦島に関わる常世は海中の国とも伝わる一方で異郷・外地としての色彩が強いものである。他面、田道間守の伝承については田道間守の渡来人としての属人的特性もあって中国大陸を指しているように見えよりもって現実的なかたちの外地であるように見える。ただ、そちらも(アメリカの)リップ・ヴァン・ビンクル的なる側面が伴っており、常世にまつわる空想的な側面がつきまとっているものではある。
 思うに、古代人は[常世]をして[海の彼方の遙か異郷の国にして先祖の魂が還る場所]とみなしていたようにもとれ、そこに行くには船あるいは洞窟経由であったとされているようである。常世は[洞窟の先にある常闇(とこやみ)の夜の国(夜見の国)]であり[彼岸の国]であったのでもあろうが、地域・時代毎にそうした定義がいかようになされていたかはこれと判ずることができない」
(ここまでを[さらにもって噛み砕いてもの要約表記部]とする)

出典(Source)紹介の部75-3はここまでとする)


 上にて意味合いを解説したようなパートを含む折口信夫『国文学の発生 まれびとの意義』との書にあっては

[[長鳴鳥(ながなきどり)]を持ち出し、そのうえでさらに(常夜ならぬ)[常世]との言葉を持ち出しているから古人の[とこよ]にまつわっての理解は[(亡者が行き着く)絶対性・不変性体現しての常闇の領域]であるのと同時に[理想郷としての外地]との二面性がある]

との趣旨の記載がなされているわけだが、 ―(脇に逸れての付記の部とは言えども)過度に細々とした話を延々続けるようで何なのではあるが― [同じくもの箇所]は続いて挙げるような
[『古事記』記載]
が現実に存在していることを念頭に当該著作『国文学の発生 まれびとの意義』著者たる民俗学者(折口信夫)がこれまた古典に通じた識者(明治生まれの訓詁学にも通じていようとの識者)らともなろうそういう著作を読みもせんとしてきた往時の読み手らを想定して書き記していると判断できるようになっているものでもある。


| 出典(Source)紹介の部75-3(2) |

 ここ出典(Source)紹介の部75-3(2)にあっては、(細々としたことに拘っているようにとらえられるかもしれないが)

[[常世]と「常夜」との語は古典・古事記それもので接合するものである(近代民俗学者の弁だけによるところだけではなく元来からして接合するものである)

とのことを紹介しておくこととする。

(直下、アマテラスがスサノオの狼藉に苦しみ岩戸に引きこもったとの部に関わるところ、オンライン上でも容易に特定できる ――著作権の切れた著作を無料公開している青空文庫のサイトより全文ダウンロード可能となっているとの著作―― ところの『古事記』(角川書店版)よりの抜粋をなすとして)

[かれここに天照らす大御神見み畏かしこみて、天の石屋戸(いはやど)を開きてさし隱(こも)りましき。ここに高天の原(たかまのはら)皆暗く、葦原の中つ國(あしはらのなかつくに)悉に闇し。「これに因りて、常夜(とこよ)往く」。
 ここに萬(よろづ)の神の聲(おとなひ)は、さ蠅(ばえ)なす滿ち、萬(よろず)の妖(わざはひ)悉に發(おこ)りき。ここを以ちて八百萬の神、天の安の河原に神集(かむつどひ)集(つどひ)て、高御産巣日(たかみむすび)の神の子思金(おもひがね)の神に思はしめて、「常世の長鳴(ながなき)鳥を集(つど)へて鳴かしめて」、天の安の河の河上の天の堅石(かたしは)を取り(以下略)]

(『古事記』よりの引用部はここまでとする)

 上はスサノオミコトがアマテラスのところへ皮を剥いだ馬を投げつけるなどの悪逆非道の限りを尽くし、太陽神アマテラスが岩戸に引きこもり、天上界・高天原(タカマガハラ)が闇に包まれ、また、地上界の葦原の中つ国もまた闇に包まれ、まさしくも世は[常夜]の状況に陥った、とのことが述べられているとの部位となり、また、八百万の神々が集まり、対策の一環として
[「(異郷のか)常世」の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かせた]
といったことを実行したとのことが記載されているとの部位である。

 といったパートに[常世]と[常夜]の二語が登場している ――[葦原の中つ國(あしはらのなかつくに)悉に闇し。「これに因りて、常夜(とこよ)往く」]との部位と[高御産巣日(たかみむすび)の神の子思金(おもひがね)の神に思はしめて、「常世の長鳴(ながなき)鳥を集(つど)へて鳴かしめて」]との部位がそうである―― とのことが柳田國男の高弟であったとのことでも知られる折口信夫の物言いの背景にあるところであると自然に解されるようになっている(古典に対して多少の知識があればそのように解されるようになっている)。

出典(Source)紹介の部75-3(2)はここまでとする)


 さて、仮に[常世](『古事記』に具現化しての[往時にあって新しい語法を受けての表記]とされる書かれよう)に[常夜](『古事記』に具現化しての[往時にあって新しい語法を受けての表記]とされる書かれよう)としての意味を残置させて用い続ける力学があればどうか
 となれば、日本の民俗学分野の大家であったとの折口信夫の申しようとは幾分異なるが、

「[竜宮](折口信夫が[新しい意味での常世の領域=海外異郷の領域]に近しいと述べている[海竜の支配する海底の領域]となる)はまた[常夜](不変なる常闇の世界)としての領域「とも」親和性が強い」

とのことになるし、実際にそういう解釈が出てくる余地が大いにある。

 以上言い様に関して下の話「をも」ご覧いただいて飛躍や無理があるのか、判じていただきたい次第でもある。

竜宮]とは古典字面そのものからして[常世]との言葉と結びつくようになっているとの領域である。

 その点、本稿の先の段にて取り上げた著作、

『浦島子伝』(一九八一年に現代思潮社より刊行/著者は重松明久元広島大学教授(物故者))、

にてはそのp.120より「再度の」原文引用をなすとして次のような記載がなされている。

(直下、本稿にての出典(Source)紹介の部29でなしたところの『浦島子伝』(現代思潮社)p.120よりの再度の引用をなすとして)

『風土記』系と『万葉集』系のうち、何れをこの伝説の本源的な型と考えるべきかについて、従来対蹠(たいしょ)的な見解が見られる。まず『万葉集』系に軍配を上げられるのは、佐々木信綱氏である。佐々木氏は『万葉集』の長歌が、浦島伝説のなかで最も原始的かつ本源的な形をもつとする。その理由として、「日本紀も風土記も、ともに浦島が亀を得、亀が神女と化したとあるが、これは長歌にはない。両書とも女を蓬莱の神女とした。これは言ふまでもなく志那思想の影響で、長歌では単にわたつみの神の女となつてゐる。而してまた、蓬莱といふ如き思想は長歌には見えないで、単にとこ世、即ち遠い国なる海底の宮となつてゐる(以下略)」

(以上、再度の引用部とする)

 上の再引用部に見るように、原初の浦島伝承(『丹後国風土記』などに見るそれ)では浦島が向かった先は
蓬莱(ほうらい)]
であり、また、
とこ世
であると言及されている([両書とも女を蓬莱の神女とした。これは言ふまでもなく志那思想の影響で、長歌では単にわたつみの神の女となつてゐる。而してまた、蓬莱といふ如き思想は長歌には見えないで、単にとこ世、即ち遠い国なる海底の宮となつてゐる]とのパートがそうしたことを述べているところとなる)

 原初、浦島が向かった先が目立って竜宮とは表されず[蓬莱(ほうらい/不死の仙境)]ないし[とこ世]とされているのだから、後にて目立って[竜宮]とされるに至った同じくもの場が[蓬莱(ほうらい/不死の仙境)][とこ世]と結びつくと述べることに何の無理も飛躍もないというわけである。

 そのような[竜宮]=[常世][蓬莱]との側面がある点について常世との側面に着目すれば、である。原初、記紀神話(日本書紀と古事記)にあっての古事記にあって[とこよ]が[常世]であるのと同時に[常夜]であったと字面として記載されているとのことがあるこ(上にての出典(Source)紹介の部75-3(2)で原典引用なしたとおりである)、また、そちら[常「夜」]が[夜見(よみ)の国]としての[常闇(とこやみ)の領域]とのニュアンス強きものであったとされる(折口信夫も黄泉の国たる常夜の国に[洞窟]ないし[洞窟および海底]にて至るとの見方があったとまでは書いている)とのことから[竜宮]が[常闇の領域]たる[とこよ]と接合しうるものであると述べることにもまた無理はないというわけである ――折口信夫はそこで[竜宮](=蓬莱・常世)は海外の異郷的ニュアンスが強いものであると強調しているわけだが、筆者はそうした[場合分け]をなす必要はないと見ている―― 。

 以上、ここまでにて細々と書いてきたことから、

[竜宮=常世⇒常夜⇒常闇の領域]

と申し述べるのだが、先程来より問題視していることとして

[竜宮は[時空間が歪んだ領域としての性質]をも伴っている]

とのことがある。

 まとめれば、

[竜宮とは[常闇(とこやみ)の領域に(訓詁学的見地から)親和性強き領域]と[時空間が歪んだ領域]との融合が想起させられる場である]

とのことである(:[属人的心証の押し付け]といったところは「ない」と申し述べたくもあることである。竜宮が[時間が歪んだ領域]であるとされるのは伝承にそのように語り継がれているところとなり、[常夜]と併存を見てきた[常世]と竜宮が歴年結びつけられてきただけの文献的事実「も」またある、そういった事実に基づいての自然なる解釈論をここでは述べているにすぎない)。

 そして、それは

ブラックホールの特質]([常闇]の[時空間が歪んだ]世界)

の特質を語ることに近似している(さらに述べれば、竜宮が[重力作用が存在に強くも及ぶとの水圧高き場]であるとのことも筆者としては想起している)。
 
 何が述べたいか分かるであろう。

 無論、そういうことを

それ単体だけで云々する

だけでは非本質的な話をこととする[神秘主義者](筆者などは近付いてきたらば塩を撒きたいと考えているような種別の[現実を望ましい方向で変化・回転させるようなことを絶対にやりはしなかろう]との種別の人種、本当に賢明なる者らの世界(があれば、だが)では軽侮の対象にしかならぬとの質的に狂った人種)やりようとなんら変わるまい

 だから書いておくが、本稿筆者が[浦島伝承]のような類のものまでをくだくだ延々とここ本段にて問題視しているのは

そうした伝承(浦島伝承)と関係があるところで「極めて不可解に」犯罪予告がなされているとのことすらもがあるというのがこの世界であり、その「極めて不可解に」なされている犯罪予告がまたブラックホール生成問題とも接合している

とのことに関する「十分な」情報 ――いいだろうか.それは「属人的主観などとは無縁なるものである」との典拠を入念に指し示しているところの[情報]である―― を捕捉しているとのことがあるからである
 
 同じくものこと、そう、浦島伝承と接合することが[ブラックホールと接合する奇怪なる予見的やりよう]と接合するようになっている(なってしまっているとのことが

[[「時空間が歪んだ常闇の領域と親和性が強くなっている」竜宮にまつわる浦島伝承]と[「時空間が歪んだ常闇の領域そのものである」ブラックホール]の関係について論じているとのここでの話が[こじつけ]で済まされないとの論拠]

となるのだが、につき、疑わしきにおかれては本稿にあっての以下のとおりの先掲なしてきたところの内容をきちんと把握いただきたい次第である(と強くも申し述べたい)。

[911の事件が起こることを双子のパラドックスとの兼ね合いで多重的に前言しているが如くの著作として ――そちらが[通過可能なワームホール]をタイムマシンとして言及しているとの著作ともなるのだが――  BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy 『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』(原著の方は1994年刊行、邦訳版は白揚社より1997年刊行)が存在している] (:本稿にての出典(Source)紹介の部28から出典(Source)紹介の部33-2を包摂する段にて『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』という著作が[「双子の」パラドックス(1「911」年提唱)の機序の利用による二点間時差の応用]/[91101(2001年9月11日を指し示す数)との郵便番号ではじまる地を時間軸上の始点に置いてのタイムワープにまつわる解説や同じくもの地で疾走させた爆竹付き自動車の爆竹順次爆発にまつわる思考実験による[時間の相対性]にまつわる説明の付与]/[2000年9月11日⇒2001年9月11日と通ずる日付け表記の使用]/[他の関連書籍に見るブラックホール⇔グラウンド・ゼロとの対応付け]といった複合的要素を[僅か一例としての思考実験]にまつわるところで同時に具現化させ ――個人の主観など問題にならぬ文献的事実の問題として同時に具現化させ―― 、もって、[双子の塔が崩された911の事件]の前言と解されることをなしているのかについて詳述なしているのでそちらのほうを(筆者の主観など問題にならぬ客観情報にまつわるところとして)確認いただきたい次第ではある)

[意味論的に双子のパラドックスが[浦島伝承]と接合するとの指摘がなせるようになっている] (:直近にても振り返ったところだが、本稿にての出典(Source)紹介の部28-2から出典(Source)紹介の部28-3を包摂する解説部にて言及なしはじめていたことである)

[[双子の塔(ツインタワー)倒壊の予言]を[上階に穴が開き、片方のタワーが崩れるとのツインタワー]を登場させることで1993年時点でなしているとの映画作品があり、そちら「一見するかぎりは、」もの荒唐無稽映画作品たる『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』は[(本稿にて先述の論稿)キップ・ソーン『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』がそれについて取り扱っているワームホール(のようなもの)と接合するような作品]にして[映画原作の「亀」の悪役から変じての[恐「竜」人]を悪役とする作品]となっている](:出典(Source)紹介の部27を包摂する部位にて論じていることである)

[先の911の事件の前言をなしている、また、ワームホールといったものと意味論的に通じているとの按配の「一見するかぎりは、」もの荒唐無稽映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』が[亀から転じての恐竜を悪役とする作品]であることは浦島伝承、[双子のパラドックス]との近似性を有しているとのそちら浦島伝承が[「亀」の背に乗って海底の「竜」宮に行く男の物語]であることとのつながりを想起させもする] (:筆者とてこうした話が額面通りの[馬鹿げたもの]で済めばどれほどよいか、と考えてもいる中で敢えてもこうした話をおおまじめになしている)

 上のことらが「すべて無理なき申しようである」とはきとした論拠に基づき指し示せるようになっている(実に残念だが、すべてそのように指し示せるように「なってしまっている」)とのこと、[確認]いただければ、何故、筆者が

[竜宮とブラックホールの結びつき]

などにつき縷々(るる)細々延々と問題視なしてきたのか、一面にてでもご理解いただけることか、とは思う。


長くもなっての[付記]の部はここまでとしておく


 補ってもの表記が実にもって長くもなりもしたが、ここまででもってして、

日本でも五芒星紋様が用いられてきたとのことがある。それは海女による[セーマン・ドーマン]と呼ばれる紋様の使用にまつわる話となる。その点、海女によるセーマンこと五芒星の使用は[竜宮]に引き込まれないための呪(まじな)いであるとの物言いがなされてもいる。さて、伝承に見る[竜宮]とはどういう場か。[時空間の乱れが発生した場]([外側に対して時間の進みが遅い場])とされる場である。他面、重力の化け物、ブラックホールおよびその近傍領域も[時間の乱れ]が問題となるものである。

とのことについての指し示しを終えることにする。

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直下、本稿冒頭部へのリンクを設けておく

(⇒冒頭頁へは下の部より)

[典拠紹介部第1頁 加速器実験に伴う欺瞞性から証示なせることについて]

 上にて挙げているのはドイツ浪漫主義芸術の巨匠たる18世紀画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Freemasonでもあったとの画家 Caspar David Friedrich)の手になる一品、

Der Wanderer uber dem Nebelmeer雲海の上の旅人』(に多少の[動き]をアレンジとして加えたもの)

となる。

 言われようの問題として一般に、

[人間の崇高なる精神が高みを目指し、ついぞ多くの物事を達観するに至った時、その折の孤独と感慨を描いた画]

などと形容される上掲の『雲海の上の旅人』に関して(本稿でもその言行を順次・段階的に取り上げることになるとの)物理学者リサ・ランドールは[次のような申しよう]をなしている。


(直下、物理学者リサ・ランドールの手になる著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)にての CHAPTER THREE LIVING IN A MATERIAL WORLD[第三章 物質世界に生きる]の章の記述内容 ――オンライン上検索エンジンにあっての原文検索にて該当部特定できるところの記述内容―― よりの原文引用をなすとして)

Our universe is in many respects sublime. It prompts wonder but can be daunting ―even frightening― in its complexity.  Nonetheless, the components fit together in marvelous ways. Art,science, and religion all aim to channel people’s curiosity and enlighten us by pushing the frontiers of our understanding. They promise, in their different ways, to help transcend the narrow confines of individual experience and allow us to enter into―and comprehend―the realm of the sublime. (See Figure 11.)
          [ . . . ]
[ FIGURE 11 ] Caspar David Friedrich’s Wanderer Above the Sea of Fog (1818), an iconic painting of the sublime ― a recurring theme in art and music.

(上の原著引用部に対する[訳文]として国内流通訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版にあっての81ページに記載されているところを引くとして)

多くの点で、私たちの宇宙は崇高だ。その複雑さは好奇心を駆り立てはするが、無力感も抱かせるし、ことによっては恐怖さえも感じさせる。にもかかわらず、宇宙の構成要素は素晴らしくぴたりと絡みあっている。芸術、科学、宗教は、いずれも人々の好奇心を促して、理解の限界を広げさせ、それによって私たちを啓蒙することを目指している。いずれもそれぞれのやり方で、個人の経験の狭い領域を越えさせることを約束している。それがかなえられたとき、私たちは崇高なものの領域に踏み込む――そして理解する――ことができるのだ(図11を参照)。 …(中略)… [図11]ドイツの画家カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ。崇高さは、美術と音楽に繰り返し登場するテーマである

(以上をもって Knocking on Heaven’s Doorにての原著表記および訳書よりの引用とした)


 さて、何故、ここ脇に逸れての部にあって「目立つように」特定絵画 ― 『雲海の上の旅人』― を挙げ、その絵画に対する物理学者の評しよう ―「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ....― などを引いたりもしたのか

「それは、」
絵画『雲海の上の旅人』に対して直上引用なしたような評しようをなしているとの物理学者リサ・ランドールが

加速器によるブラックホール生成可能性にまつわるトピックの理論深化に一廉ならぬ貢献をなしているとの著名物理学者

[[崇高なるもの]を目指しての宇宙の探求(およびそのための装置と銘打たれている巨大加速器LHC)の称揚・礼讃をなしているとの向き

であるとのことがあり、また、なおかつ、彼女リサ・ランドールの手による、(絵画『雲海の上の旅人』を科学者が目指しての[崇高さ]とを結びつけている)引用元著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)が

人間のありよう(崇高さとはおよそ程遠いところにあるありよう)]
人間の辿る運命

を嘲笑うような[嗜虐的寓意]で満ち満ちていると申し述べられるようになっている著作であるとのことがある、遺憾ながら
[理の当然]
として申し述べられるところとしてある ――個人のせせこましい偏頗(へんぱ)な主観などとは一線を画したところで客観的かつ具体的にこれはこうでこうだと申し述べられるようになっている(出典呈示を第一義にしての本稿では無論、その論拠を事細かに挙げる)とのところとしてある―― からであり、そのことに注意を向けたかったからである(※)。

(※上にて引用元とした著作、 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)、同著にあってはその冒頭部より
September 10, 2008, marked the historic first trial run of the Large Hadron Collider (LHC). Although the name―Large Hadron Collider― is literal but uninspired, the same is not true for the science we expect it to achieve, which should prove spectacular. (表記英文引用部に対する訳として)「2008年9月10日、ラージ・ハドロン・コライダー(LHC)が歴史的始動を見た.[ラージ・ハドロン・コライダー]との名称は有り体に言ってインスピレーションを何ら与えぬとの平凡なものだが、私たちがそれ(LHC)に[証明すべきととらえている壮大なる挙]を託しているとの意では[科学(の進歩)]にとり同じくものことは真実とはならない(LHCは際立ってのインスピレーションを与えるものである)」
などとのことが書き記されている。
 そうもした書きようが目立ってもの冒頭部にてみとめられる著作ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアにおける表題、 [天国のドアをノックする]の由来についてリサ・ランドール女史は同じくもの著作の中で次のようなことを述べてもしている。
(以下、 Knocking on Heaven’s Doorにての CHAPTER FOUR LOOKING FOR ANSWERSより引用なすところとして)
I first heard the phrase “knockin”on heaven’s door”when listening to the Bob Dylan song at his 1987 concert with the Grateful Dead in Oakland, California. Needless to say, the title of my book is intended differently than the song’s lyrics, which I still hear Dylan and Jerry Garcia singing in my head. The phrase differs from its biblical origin as well, though my title does toy with this interpretation. In Matthew, the Bible says, “Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find; knock, and it shall be opened unto you: For every one that asketh receiveth; and he that seeketh findeth; and to him that knocketh it shall be opened. (以上原著表記に対して訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版[第四章]103ページにての表記を引くとして) Knocking on Heaven’s Door(天の扉を叩く)]――これが本書の原題だが、私が最初にこのフレーズを聞いたのは、一九八七年、カリフォルニア州オークランドでのグレイトフル・デッドとのコンサートで、ボブ・ディランが『天国への扉』を歌うのを聞いたときだった。いまでも私の頭の中ではディランとジェリー・ガルシアがこれを歌っているのが聞こえてくるけれど、いうまでもなく、私の本のタイトルは、この曲の歌詞とは意味が違っている。このフレーズは出典である聖書の一節とも違っているが、私のタイトルはこちらの意図を拝借したものだ。聖書の「マタイ伝」には、このように書かれている。「求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり
(以上、引用部とした)
 といったところ、新約聖書のマタイ伝にあっての
[求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり]
とのフレーズ、それが
[天国の門]・[天国への扉]・[天国への階梯](ステアウェイ・トゥ・ヘブン)
との兼ね合いでいかように嗜虐的なる別側面での意味( Double Meaning )と共にあるのか、そのことからして具体的典拠を挙げ連ねるとの式で遺漏無くも事細かに示そうというのが本稿の本義であるとここ脇に逸れての部にあって訴求しておきたいとの意図が筆者にはある)

当サイト内にあっての【各頁および各典拠への一覧方式遷移部】、及び、【PDF形式文書配布ページ】へのリンクを直下、設けておく

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[出典(Source)紹介の部28-3](爬虫類たる亀にいざなわれて「竜の宮」たる龍宮に辿り着くとの浦島伝承が何故もって双子のパラドックスという現象と密接に結びつくのかについての解説をなしているところの出典紹介部28-3)
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典拠紹介部第23頁 双子のパラドックスと浦島伝承、そして、タイムマシン理論

[出典(Source)紹介の部29](爬虫類たる亀にいざなわれて「竜の宮」たる龍宮に辿り着くとの浦島伝承が欧州ケルトの特定伝承と「伝承の伝播関係など想起し難いところで」不可解に酷似しているとのことについて文献的論拠を挙げているとの出典紹介部29以降の部)
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典拠紹介部第24頁 浦島伝承とOisin伝承の相関関係について

[出典(Source)紹介の部31](キップ・ソーン著作 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』が[911の事件の先覚的言及文物]となっていることにまつわっての出典紹介部31(以降)の部)
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典拠紹介部第25頁 ソーン『ブラックホールと時空の歪み』のとんでもない特性

[出典(Source)紹介の部32](キップ・ソーン著作 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』が[911の事件の先覚的言及文物]となっていることにまつわっての出典紹介部32(以降)の部)
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典拠紹介部第26頁 書籍『ブラックホールと時空の歪み』の問題性(続き)

[出典(Source)紹介の部33](キップ・ソーン著作 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』が[911の事件の先覚的言及文物]となっていることにまつわっての出典紹介部33(以降)の部)
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典拠紹介部第27頁 ソーン著作とサイフェ『異端の数ゼロ』の関係性

[出典(Source)紹介の部55](ダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』にあって[「今日的な観点で見た場合の」ブラックホールの質的近似物]が描写されていることにまつわっての出典紹介部55)
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典拠紹介部第46頁 ダンテ『地獄篇』とミルトン『失楽園』に見るブラックホールに通ずる描写

[出典(Source)紹介の部55(3)](ダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』にあって[「今日的な観点で見た場合の」ブラックホールの質的近似物]が描写されていることにまつわっての出典紹介部55(3))
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典拠紹介部第47頁 ダンテ『地獄篇』とミルトン『失楽園』に見るブラックホールに通ずる描写[2]

[出典(Source)紹介の部67](ルシファーとのラテン語と結びつく明けの明星、すなわち、惑星・金星が(天文における)内合周期の問題として[五芒星]形状の具現化と結びつけられるとのことにまつわっての出典紹介部67)
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典拠紹介部第74頁 金星会合周期と五芒星

[出典(Source)紹介の部68]以降の部(一連のα1からα8と振ってのことらの典拠として先立っての段で既に挙げてきたところの出典紹介部68以降の部)
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典拠紹介部第75頁 グラウンド・ゼロと「マンハッタン」計画について