論客デーヴィッド・アイク展開の異説、そちら異説にあって欺瞞性が強くも現われているようにとらえられる部分が何故もってして[人間存在の直面する陥穽]に通じていると判じられるかについて 補説2
ここ本頁では先だっての頁の内容の延長線上のこととして英国人論客デヴィッド・アイクの手になる、
HUMAN RACE GET OFF YOUR KNEES The Lion Sleeps No More『人類よ。ひざまずくのを止めよ。ライオンはもうこれ以上、眠らない』
との書籍にみとめられる[「特定の」主張内容 ―[月]にまつわっての主張内容― ]の分析を事細かになすこととする。
さて、デヴィッド・アイクの手になる『人類よ。ひざまずくのを止めよ。ライオンはもうこれ以上、眠らない』という著作は
■「[月]は人外(デヴィッド・アイク流に述べるところの爬虫類人)の建造した人工物である」
■「[月](この次元ないしは別次元の[月]とも)より人間の結晶アンテナとしてのDNAに対する操作の波が(クリスタルを介しての操作の一環として)送信されている」
■「以上操作はムーンマトリックスと呼称されるべきものともなり、それこそが人類の不幸の源泉である」
の各点を主要訴求点としているとの著作である(:荒唐無稽と思うであろう?だが、デヴィッド・アイクという人物が「よくもやる」と見受けられるのは以上のようなことらが可能性論として成り立つように見えるだけの論拠らを(下にて言及するものを含めて)斜め上、予想外の方向 ―たとえばメソポタミアの月の神の話なぞ― から多々繰り出していることにある)。
その点、著者デヴィッド・アイクが[不服従]の必要を唱く割には
[人間がいくら抵抗しても無駄であるとの力学がある]
ように「とれる」との書きよう、すなわち、
[[月]までもが人工物である ―馬鹿げていると思われるかもしれないが、続いての解説部を参照頂きたいものである― ]
[我々が相対しているのはそれぐらいまでに強大な力([月]のような星辰さえをも人工物として構築するとの力)を持った悪意ある存在である]
などとの書きようをなしている2010年刊行の著作( HUMAN RACE GET OFF YOUR KNEES The Lion Sleeps No More)からして彼のよりもって後の最新著作にも見られるとのこと、先述なしてきた、
[LHCも洗脳装置にすぎないとの書きよう]
がなされているとの著作となりもする(:といったこと、[LHCが洗脳装置にすぎない]とのことを主張しもしている[月のマトリックス理論]にまつわる著作『人類よ。ひざまずくのを止めよ。ライオンはもうこれ以上、眠らない』から多少、趣きを変えての[月と「土星の」マトリックス理論]というものを前面に出したうえで同じくものこと、【LHC=洗脳補助装置】説を唱導しているのが本稿つい先程にあってそちら内容もまた原文引用なしながら問題視した2012年に刊行されもしてのアイク著作、 Remember Who You Are Remember 'where' you are and where you 'come' from (本稿執筆現時、未邦訳.「2012年」著作権表記『自分たちが何者でどこにいるのか、そして、どこからきたのか、思い出せ』とでも訳せようアイク著作) となる)。
委細についてはその問題点込みにしてこれより解説するが、とにかくも、月が人造物であるとの概言したような特色を帯びているアイクの2010年に出た著作『人類よ。ひざまずくのを止めよ。ライオンはもうこれ以上、眠らない』にあっての、
[「月が人工物である」]
との主張の[主たる拠り所の一つ]となっているのはフリーメーソン所属のメーソン史研究者であると自認している人物ら、アラン・バトラーとクリストファー・ナイトという著述家らの手になる、
WHO BUILT THE MOON?『フー・ビルト・ザ・ムーン?』 (邦訳版の同著版元は学習教材のみならず[陰謀「論」関連本]や[トンデモ雑誌]を刊行していることでも知られる出版社たる学習研究社(手前とは縁もゆかりもない出版社)となり、その邦題は『誰が月を創ったか?』となる)
との特定著作にて呈示されている特定の主張内容、具体的には
[月と地球の間に横たわる「できすぎた」位置関係にまつわっての主張内容]
となっている。
当のデヴィッド・アイク自身がそちら著作、 WHO BUILT THE MOON?『フー・ビルト・ザ・ムーン?』が自身に多くのインスピレーションを与えた鍵となる著作であること、彼のここにて問題視している『人類よ。ひざまずくのを止めよ。ライオンはもうこれ以上、眠らない』の中で何度も強調している。
(: HUMAN RACE GET OFF YOUR KNEES The Lion Sleeps No Moreにあって(以下、引用なすところとして) First a new subject comes into my life and then information about it comes
from all angles. Who Built tile Moon? details many extraordinary mathematical
and other connections between the Moon, Earth and the Sun. The key to the alignments and connections is the size, position and movement
of the Moon.
(即時訳として)「新しくも取り組むべき主題が私の人生に立ち入ってきた、そして、その情報が全方向的にもたらされることになった。書籍 Who Built the Moon?(邦題『誰が月を創ったか?』)は月・地球・太陽の間のまったくもって際立っての数値上およびその他の一致性について数多詳述しているとの著作となる。整然さおよび一致性にまつわってのキーとなるのは月のサイズ・位置・軌道である」(引用部はここまでとする)と表記されているとおりである ―※― )
(※アイクに典拠として言及されている WHO BUILT THE MOON?『フー・ビルト・ザ・ムーン?』という著作の著者らのうち、エンジニアとの肩書きが付されてのアラン・バトラーに対してクリストファー・ナイトの方は[イエスのシンパらの古代にてのやりよう]と[メーソンの儀式性向]とを繋げての異説の展開をなしているとの書である The Hiram Key ――(邦訳版版元は学習教材のみならず[陰謀「論」関連本]や[トンデモ雑誌]をよく出すことでも知られる出版社であると直近言及した学習研究社となり、そちら、ハイラム・キーの邦訳版タイトルは『封印のイエス』となる)―― を共著とのかたちで世に出している、Freemasonでメーソン史の権威であるなぞと[相応の者たち]の間では持てはやされている著述家ロバート・ロマス( Robert Lomas )との共著との式で世に出しているとの向きとなる。同著作 The Hiram Key、作者ら(『フー・ビルト・ザ・ムーン』をものしたクリストファー・ナイトとロバート・ラマス)がフリーメーソン・イニシエーションを受けての筋金入りのフリーメーソンであるとのことが何度も文中にて自己言及されているとの著作ともなるのだが(彼ら曰くのところとしてフリーメーソンは【真っ当な親睦団体】であるなどとのことにもなっている中でそうも自己言及されている著作ともなるのだが)、同著作、フリーメーソンの特性にまつわってのこと以前に史的根拠の意味でまったく信用のおけぬ書[ unreliable source ]となりもしている、
[それ専門の陰謀論あるいは捏造秘史関連のエンターテイメント読み物 ―日本でも同じくものものらが相応の専門出版社から[商売](との名目)で供給されているとの読み物― ]
であると判じられるような著作にして、そして、(同著作が欧米圏でヒットを見たとの背景によるからであろうが)同文の世評をもって欧米圏巷間にて幅広くも評されている著作となり、
[擬似史観] (中世十字軍の一角を占めていたテンプル騎士団が中東遠征の折にイエスの古代宗教に通ずる遺産を(ナザレ教団・クムラン教徒に由来するイエスの真の人生を伝えての死海文書がかっての記録)を発見した(らしい)、それゆえ、テンプル騎士団(聖堂騎士団)の衣鉢を継ぎもしてテンプル騎士団残党としてスコットランドに辿り着き同地スコットランドで際立って異質なロスリン・チャペルを建立しもしたプレ・フリーメーソン(前メーソン)的なる紐帯、および、フリーメーソンそのものの儀式は[イエス自身が範とした真正なる古代の宗教様式]に倣っている等等との擬似史観)
がさも[真実]であるように記載されていたりするとの筋目の書籍となる(:そして、そのやりかたがあまりにも露骨なので同著著者らが属していると明言しているフリーメーソンそれ自体からして公式見解として「同著はフィクションである」と断じていることが英文Wikipedia[ The Hiram Key]項目なぞにも「現行にては」記載されているとの著作ですらある)。
同じくもの著述、ここにて問題視している『フー・ビルト・ザ・ムーン』の著者らのうちの一方がかつて欧米圏で出版してヒットを記録させたハイラム・キー(邦題『封印のイエス』)という著述は[インドのクリシュナ]が処女懐胎の救世主であったなどと[こじつけがましきこと](クリシュナには何人も先だって産まれては殺されていった兄弟らがいる)を並べ立てていたりする、といった式で何の記録的証跡もないこと、文献的事実として誤っていると即時に指弾されもしようことらをさも真実であるように[断じるように語る]との手法が取られている書でもある(といった問題あるやりようはデヴィッド・アイクを含め欧米のマージナルな話を展開する向きらに多く踏襲されている風もある.筆者は比較的青かった時分、それは典拠確認をきちんとなさぬがゆえのアイクのような著者自身のある種の信じやすさ・人の良さに起因しているとも見ていたわけだが。尚、世評とのことで言えば、同じくもの著作、『ヒラム・キー』が信用できないことにまつわっての[練れてもいる批判]が世に出ていることは易々と確認できるようになっており、それは(再言するが)同著がまがりなりにも欧米圏でベストセラーを記録しており、またもって、[物事を往々にして自分で考えぬとの多くの人間にさえその内容が口撃できるとの基本的なところでの過てる側面]が広くも認識されているから、そう、世間一般の取り上げたくはないものは無視するとの筋目の向きら(【偽り】に生き、【偽り】に殺されても文句を言う資格もなかろうとの【偽り】への隷従者ら一般)「にも」嬉嬉として叩かれているとのことがあるからであろうと個人的には見ている))
その点、物議を醸すようなアイク説(あるいは「最悪の状況ならば」アイクという看板を用いて流通させている説)に材料に提供している『フー・ビルト・ザ・ムーン』をものした著述家クリストファー・ナイトと共に上述の著作『ザ・ヒラム・キー』(邦題『封印のイエス』)をものしたロバート・ロマスのほうの経歴はビジネス系の科目で教鞭をとる大学職員と「世間的にはそこそこにまとも」と看做されやすい生業 ―嘘・偽りをこととする頻度が(それが妥当かどうかは別として)俗世間では少ないと「看做され」はするとの生業― に就いてはいるが、判断は[肩書]なぞではなくそうした論者ら申しようの中身、その[検証]をなしてからにすべきであると強くも申し述べたき次第ではある ――ザ・ヒラム・キー(邦題『封印のイエス』)といった著作を読んで「なるほど.」と納得がいくことがあるとすれば、そこにフリーメーソンの者らが[目隠しをかぶせられ首に絞首の縄をつけられているとの姿]で儀式に臨み、そして、[復活・目隠しを外しての[啓蒙]の過程の擬似(あるいはその擬態)プロセス]を経験するなどとされている記述、そこから、「相応の」ゾンビ的ともとれる人間によって成り立っている組織が[イルミナティ](光を与えられたもの)なぞと陰謀「論」者らに呼ばれての[存在あやふやなるもの]と結びつけられている所以(ゆえん)が容易に部外者「にも」推察できるとのことぐらいではないかとも私的にはとらえているが、そうしたことは「本稿の後の段にて細かくも論ずる」とし、ここ本段では置く―― 。
(※ここまでの内容からアイクの説に影響を与えている著作(フー・ビルト・ザ・ムーン)著者らにつき不当かつ卑劣なる[人身攻撃](論理ではなく論者を攻撃するとの式)をなしているとの判断をなされかねないかとも思う、ゆえに、そうした誤解を避けるためにも申し述べておくが、『フー・ビルト・ザ・ムーン』という著作にはその内容の根底となるところで、
「ここをば掘り下げることを何故、掘り下げないのだ?」「どうしてこういうところではこうも胡散臭い掘り下げ方をするのだ」 (たとえば、である.同文の式はグラハム・ハンコックのような欧米圏の他の論客にも当てはまるわけだが、大風呂敷にも[神がかった遺産](と強調されてのもの)を持ち出している割にはそれを造りだした(と強調されての)太古の存在・超常的存在が[現代社会に至るまで介入をなしている存在]であるとの可能性がほぼ無視され、かつ、その存在が[未来の人類]であるなどとの「これはおかしな論理だ」との強調があわせてなされるなどとのやりようが目立ってなされていたりする ―まだ【過去にて存在した文明種族の遺産】との方が説得力ある論理であろうところを【未来にての人類の過去遡行の遺産が月であろうと考えられる】などとの捻(ひね)った見解が提示されていたりする(それについても本稿でも後述する)― )
といった側面が少なからず伴っているために著者ら来歴も加味して[相応の情報操作のための著作]とも受け取れる可能性が払拭できないとのことを示しておく必要があるか、そうした観点で著者ら(クリストファー・ナイトおよびアラン・バトラーの両二名)のうちクリストファー・ナイトの方がフリーメーソンとして問題ある従前著作(欧米圏でヒットを記録したものの、諸方面からの批判に曝されてもいる『ハイラム・キー』)をものしもしていた向きでもあることに言及した)
ここからが本題である。デヴィッド・アイクは『フー・ビルト・ザ・ムーン?』のいかような記載内容を問題視しているのか。その点につき該当するところを引用する。
(直下、『フー・ビルト・ザ・ムーン?』の訳書、『月は誰が創ったか?』にてのp.16、[皆既日食]の具現ありようが一種の数値的奇跡に依拠しているとの部より引用するところとして)
月は太陽に比べるとごくちっぽけな天体だが、われわれにずっと近いおかげで同じ大きさの円盤に見える――ということはたいていの人がよく知っている。正確にいうと、月はわが太陽系の中心にある恒星に比べて直径で400分の1のサイズだが、同時に地球から太陽までの距離で400分の1の近さに位置しているのだ。相対的な大きさと距離が400という驚くほどのキリのいい整数値で表せるのは、十進法上の愉快な偶然の一致のように見えるが、このような光学的錯視が生じる確率は、実はとてつもなく低い。だから専門家はこの現象に当惑しきっていて、あの尊敬すべき科学者でSF界の大御所アイザック・アシモフも、この完璧な視覚的配列を評して、「想像できるかぎりありえない偶然の一致の最たるもの」と述べている。
(国内にて流通を見ている訳書よりの引用はここまでとする)
(直下、同じくもの『フー・ビルト・ザ・ムーン?』の訳書、『月は誰が創ったか?』にてのp.234より引用するところとして)
月は太陽の大きさの400分の1である。
月は太陽と比べて400倍近い。
月は1地球日について400キロメートルの速度で自転する。
これは偶然の一致だろうか?そうかもしれないし――そうでないかもしれない。
地球は1日4万キロの割合で自転し、月はほぼ100倍遅い速度で自転している。月はつねに地球に同じ面を向けながら地球回転軌道上に移動しているが、赤道の自転速度が1地球日のきっかり1パーセントになるように平均的距離が保たれている。この数字はどれも検証可能で、議論の余地がない。これだけの事象がすべて偶然でありえるだろうか?
たしかに、この状況をもっと深く調べたいと思わないのは、愚か者だけだろう。とはいえ、見たところ不可能そうなことを考察しようと決めたわれわれを他人がどう見るか、あくまでも現実的に行動しなければならない。専門家の多くが、いや、おそらくはほとんどが見て見ぬふりをするだろうと、われわれは覚悟した。
(国内にて流通を見ている訳書よりの引用はここまでとする ―※― )
(※1:上のような Who Built the Moon?の内容に基づき、デヴィッド・アイクはその著作 HUMAN RACE GET OFF YOUR KNEES The Lion Sleeps No Moreの 14 Spaceship Moon[第14章:宇宙船「月」]の章にて以下、引用なすようなことを述べもしている⇒ Christopher Knight and Alan Butler reveal in Who Built the Moon? many remarkable mathematical connections with regard to the Moon, Earth and the Sun using the base number of ten. These mathematical synchronicities only work with these three bodies and not with any of the other planets or moons in the solar system. The Moon is 400 times smaller than the Sun, and at a solar eclipse it is 400 times closer to Earth. This makes the Moon appear from Earth to be the same size as the Sun - hence a total eclipse (Fig 155). The Moon has astonishing synchronicity with the Sun. When the Sun is at its lowest and weakest in mid-winter, the Moon is at its highest and brightest, and the reverse occurs in mid-summer. Both set at the same point on the horizon at the equinoxes and at the opposite point at the solstices. What are the chances that the Moon would naturally find an orbit so perfect that it would cover the Sun at an eclipse and appear from Earth to be the same size? What are chances that the alignments would be so perfect at the equinoxes and solstices?
(即時手仕事ながらも最低限の注記は付しての拙訳を付すとして)「クリストファー・ナイトとアラン・バトラーの両者は彼らの著述『フー・ビルト・ザ・ムーン?』の中にて十進数の系に依拠して月・地球・太陽にまつわっての際立って着目に値するとの数値上の繋がり合いを明らかにしている。これら数値上の一致性は月・地球・太陽の三者にあってのみ作用しているのであって太陽系の他の惑星・衛星に関してはそのどれもがそうもした一致性の問題とは無縁である。【月は太陽より400倍ほど小さく、日蝕の折、太陽より400倍ほど近しいとの位置に月は地球側に寄ってくることとなる】(訳注:日蝕を引き起こすのはサイズ・距離の比率の問題の一致性に収斂しているようにデヴィッド・アイクは同じくもの部で述べているが、であれば、日蝕は常日頃起こっていなければならないことになる。が、しかし、現実は交点(node)と呼ばれるところでのみ日蝕は起こるようになっている。より具体的には月と地球の obliquity of the ecliptic、黄道傾斜角がおよそ5°程度の揺らぎを呈している中でその差分・ズレを吸収するかたちで地球と月の軌道が重なり合う[交点](ノード)上の妙技としてのみ【太陽・月のサイズと対地球距離の比】が活きてくる、そこでしか日蝕が現出しないとのことがある。デビッド・アイクはそうしたことに満足に触れはしていない ―英文Wikipedia[Eclipse]項目より引くように Because the orbital plane of the Moon is tilted with respect to the orbital plane of the Earth (the ecliptic), eclipses can occur only when the Moon is close to the intersection of these two planes (the nodes). とのところが該当するところのノードの問題についての記述である(訳注はここまでとする)― )。 こうもしたありよう(月と太陽のサイズは1対400の関係にあり、その距離比も1対400にあるとのありよう)が月をして地球から太陽と全く同じサイズで見せもしており、そのうえ、皆既日食を引き起こしもする。月は驚くべき一致性を太陽との間に呈している。太陽が厳冬期、その力をもっとも弱めている際に月は最も高く輝いており、それが真夏では逆転しもする。両者とも[分点]にあってはまったくおなじ地平線上のポイントにあり、また、[至点]にあっては地平線上の反対のポイントにある。一体どうして自然界にあって月が[蝕]の折に太陽をまったく同じサイズであるようにすっぽり覆い隠すとのことが起こりえるというのか(その見込みなど普通はないであろう)。また、一体どうして分点および至点にての両者の完璧な位置関係が見てとれるなどというのか(その見込みなど普通はないであろう)」(訳付しての引用部はここまでとする))
(※2:「月はどこぞやらの異星系よりやってきた異星人の手仕事としての宇宙船である」とのデヴィッド・アイクのそれと同じくもの言説は1970年に遡っての学者ら由来のものとして存在している(意外であると思われるところだろうか)。デヴィッド・アイク彼自身が[軽んじざるところ]としてそうもした説の存在にはきと言及しているように、[仮説]として旧ソ連の天文学者ら ―ミヒャエル・ワーシンとアレクサンドル・シチェルバーコフの両二名― によって問題提起されたとの言説がそれなのだが、そちら1970年仮説の言い分としては[月と太陽と地球の玄妙なるサイズ・比率の問題]に代えて
「月の組成は地球のそれと異なる」
「月の内部は空洞であると判じられる材料があるが、そのようなことは人工物以外にはおよそ考えがたい」
とのことが目立って前面に出されていた。
以下、英文Wikipedia[ Spaceship Moon Theory ]項目より目につくところの記述を引けば、
The Spaceship Moon Theory, also known as the Vasin-Shcherbakov Theory, is a hypothesis that claims the Earth's moon may actually be an alien spacecraft. The hypothesis was put forth by two members of the then Soviet Academy of Sciences, Michael Vasin and Alexander Shcherbakov, in a July 1970 article entitled "Is the Moon the Creation of Alien Intelligence?" [ . . . ] Their hypothesis relies heavily on the suggestion that large lunar craters, generally assumed to be formed from meteor impact, are generally too shallow and have flat or even convex bottoms. [ . . . ] Additionally the authors note that the surface material of the moon is substantially composed of different elements (chromium, titanium and zirconium) from the surface of the Earth. They also note that some moon rocks are older than the oldest rocks on Earth.
「月宇宙船理論、あるいはワーシン・シチェルバーコフ理論は地球の衛星・月は現実には異星人の宇宙船であるとの仮説となり、同仮説、ソヴィエト科学アカデミー (訳注:どうやらソ連科学アカデミーの関係者らは体制当局側に極めて厚く身分保障されての生粋のエリートだったらしく、[アカデムゴロドク]との学術都市の貴族的生活に見られるようにその生活水準は絶望国家として悪名高いソ連でも実に安定的なものであったとされる;要するに先進国で胡散臭いとされがちな市井のサイエンティストとは異なる毛並みがいい(毛並み整えられた)者達由来の説だと述べたいのである) のメンバーであったミヒャエル・ワーシンとアレクサンドル・シチェルバーコフの両二名によって『月はエイリアンの創造物か?』との題名の論稿を通じて1970年7月に初出を見たとのものである。・・・・(中略)・・・ 彼らの仮説(月は内部が刳(く)り抜かれて空洞となっている宇宙船であるとの仮説)にて[重きをなす]ところは世間一般に隕石落下の衝撃によって生まれ落ちたとされる月の巨大クレーターが総じてあまりにも深度が浅いものとなっている、それでいて、平面ないし凸面をなしているとの底面構造を有しているとのことに着目しての部となっている。・・・(中略)・・・加えてワーシンとシチェルバーコフの両著者らは月の岩(訳注:日本では固有名詞化してのいわゆる[月の石])の物質組成が地球のそれと異なり、クロム・チタニウム・ジルコニウムとなっていることに着目しもし、加えて、彼らはある種の[月の石]が地球にての最古の岩石の類よりも古い(と分析されている)とのことに着目しもしている」(訳を付しての引用部はここまでとする)
との伝での異説が呈されていたとの背景がある(尚、 Spaceship Moon Theory[月宇宙船理論]についてはWikipediaのCriticismの部にて we can then calculate the density, which strongly rejects the notion that the moon could be hollow.
「我々は(調査から)月が空白たりうる可能性について強固に否定するところの計算を導出することができる」とのポーツマス大の学者ら( Karen Masters )の重力場調査などに基づいての見解も載せられていること、一応、付記しておく)。
そうもした異説の内容までをも踏襲して、また加えもして、[伝聞のいかがわしい証言ら]を元にしてデヴィッド・アイクは「月は宇宙船である」と断じきり(いかにもその断じきるとのやりようがアイクらしい式である)、の上で、「レプティリアン(と彼が呼称する爬虫類の系譜に連なる高度知性生命体)の地球操作のセンターは月にある」とまで断じきるとのことまでなしている ――※最近はそのような論理(月こそ操作のセンターであるとの論理)に加えもして、彼デヴィッド・アイクは[土星ことサターンが月の背後に控える操作のメイン・センターである]との主張にまで歩を進めているのだが、ここではその批評は講じないこととする(先だっての部では土星ことサターン(サトルナス)へのそうもしたアイクの言及のなしようが[よりもって従前よりの手前なぞのオンライン媒体にての呈示手法]と、向こうが後続する方向でながらも、「なぜなのか」やりようとして似ている、のような中でアイク言いようがこの世界では目につくようになっている、であるから、[重なり合いの問題]で[この身申しよう]や[フリーメーソンの相応のサトルナス(土星体現神格)関連のシンボリズムの問題について訴求しようとするとの後のありうべき勇士らの(まだ時間的猶予が幾ばくか残っていれば、もの未来の)言説]までが[進化する「相応の」言説]にて[錯視;重ねあわせ効果]からダメージを受ける可能性がある(少なくとも、物事をきちんと見ようとしない、それでいて何やら限界領域の問題に分け入っているつもりであるとの妄動の向きらによっては彼らの言論土壌の破壊に通ずる悪しき妄動の足しにされる可能性がある/検討意欲もないとの臆病者に「また例の法螺か」との逃げの名分を与えることとされる可能性がある)との観点で同じくものことに多少筆を割いていたわけだが、そのことはここでは置く―― )
ここまで細々と紹介なしてきたことにあって確かにもってして太陽・月・地球の位置関係は
[実にできすぎたもの]
として映る。
その点もってして、
[月が一日400㎞自転すること]
[地球が一日40000㎞自転すること]
[月と太陽の(対地球の)距離比が1:400及にあること](皆既日食現出の原因)
[月と太陽のサイズ比が1:400となっていること](皆既日食現出の原因)
を合い並べて強調するだけ、そう、それだけでは[詭弁]に留まっていると見る向きもあるかもしれない(「当初」、本稿筆者もそうした心証を覚えた)。
が、以下、続いての表記をご覧頂き、同じくものことの意味合いについてお考えいただきたい。
第一に
[「(地球を基準点にしての月と太陽の)距離の比率」および「サイズの比率」が同じくもの1対400となっている]
とのことからしてできすぎている、極めて不自然(すなわち人工的)であると映るだけのことがある(自然界の法則としてそうなりやすいとのことがあるのではないかとのことについては否定の弁を続いて後に付す)。
第二にサイズ比率x:400xのx、月の直径が3474キロメートルである (現実に月のダイアメーター、直径はおよそ3474㎞であると認知されており、太陽のそれはおよそそれに「400.887」倍しての1392684㎞であるとデータ表記されることが多い) とのことがある中で月が一日400キロメートル、地球が40000キロメートルの割合で自転するなどとのことまでを持ち出すことは詭弁の徒のこじつけのように映りもする中で、だが、現実にはそうではない(こじつけなどではない)と解されること「も」ある。[およそ400]との共通のまとまった約数、とすれば、
[2×2×4×5×5]
との約分にあってのまとまっての共通要素が「㎞」との度量衡単位 ―後述する― を基礎にして
[月・太陽の「サイズ」・「距離」の比率](うち片方の[距離]の比率は「地球を基準にしての」距離の比率)
と
[月・地球の回転性向]
とを架け橋するものとしてそこに具現化していることまでは[事実]であるからこじつけではなかろうと判じられる(月は400「㎞」一日に自転するとの観点と月を含んでの球体サイズ比および距離比がほぼ「400」となっているとの観点(サイズ比では「400.887」などとの計算が小数点以下換算の方式で若干の誤差、0.2ぐらいの誤差を伴って問題となる)との比率問題があわせて呈示されれば、[それら数値上の一致性に何らかの関係性がありうる]と考えるのは普通のことであろうかと思う)。
にまつわってはそうもした一致性をきたすのは
[何らかの自然界の作用 (相互重力作用、たとえば、万有引力の法則などに通ずるところをもってしての自然界の作用) に起因する衛星の形成性向の自然なる問題]
ではないのか?と即時・即座に脳で疑念視するのが[健全な脳]の作用 ―知識は伴わぬも健全に働いてはいるとの脳の作用― かとは思う。
だが、当然にその点について「普通に」まずもって疑いもした本稿筆者からして太陽系の内部の惑星らの主たる衛星の仕様(木星の周囲をまわるカリストやエウロパや火星の周囲をまわるフォボス ―60年代、こちらからして人工天体説が強くも取り沙汰されていた火星の衛星― やダイモスなどの太陽系惑星ら衛星、大は月よりも巨大か同じくらいに大きいとのものから小はアステロイドであろうとのものまで色々ある)の即時チェックをなしても同じくもの[比率の玄妙さ]は他の惑星・衛星間に認められないばかりか、そういう玄妙なる一致性をきたすとの自然界作用が働くとの話がなんら特定・捕捉できない、のみならず、「月と太陽のそうもした位置関係は今時分にだけ現出している特殊なものである(だから、自然界一般にそういうことがあるわけ「ではない」)」との反対論拠(後述)が目についたとのことがある。
話を続ける。
[自然界の作用(重力作用、たとえば、万有引力の法則などをもってしての自然界の作用)に起因するところの衛星の自然なる形成性向の問題]
では説明なしがたい(と少なくとも映る)とのものでありながらも地球-月-太陽の数的関係性が実に「整然とした」ものとしてそこにある、繰り返すが、皆既日食具現化の原因ともなるところとして、
[月のサイズは太陽の大きさの400分の1である](皆既日食具現化に通ずるサイズ比)
[月は太陽と比べて地球に400倍近い](皆既日食具現化に通ずる距離比)
[月は1地球日にあって400キロメートルの速度で自転する.対して地球はその100倍速くもの4万キロメートルにて自転する]
とのことについて、筆者は10進数以外でどうなるのかとのことについてざっと計算なして見るとのことまで当然になしている。
例えば、だ。数のありようを(16進数などに変換するならばいざしらず)10進法から3進法 ―1,2,0しか数がなく、2の次で桁上がりする数の体系― に変換して見てみるとのことをなしているのだが、少なくともそれでは[不可解さ]は減じはしない。x:400xとの比率が問題になっているところで1日400㎞自転とのありようを持ち出されてしまうとその伝での数的操作をなしても、(base,すなわち、数の底(てい)をいじることができる表計算ソフト(spreadsheet)のBASE操作機能の操作 ―たとえば、フリーでダウンロード使用できる無償のエクセルとでも言えよう OpenOffice.org Calcでは=BASE(10;2)「10を二進法に変換せよ」といった方式が用いられる― にて少し慣れた向きにはすぐに変換できようこととして)、10進法での[400]は3進法(trinary)表記で[112211]であるから[月と太陽のサイズ比率x:112211x]とのことがあるのに対して[月-地球と地球-太陽の距離比=x:112211x]となる、であるから、玄妙な一致性は縮減するどころか[一層際立って見えることになる]と解されるところとなる(:ちなみに[400]との数にまつわる一致性は精妙なる暦を遺していたことで知られるかのマヤ文明などで用いられていたとされる[20進数;Vigesimal] ―我々現行人類が使っている10進法にての11との数をアルファベットA,12との数をアルファベットBといったものに代替させて20まで数えたところで桁上がりをなすといったような表現が現代的観点ではなせるところの20で桁上がりする記数法― に試みに変換してみるときっかりと[100]にまつわっての一致性になり、一層もって[できすぎさ]が際立つとの式の一致性でもある。何故[できすぎ度合い]が際立つかと言えば、100とは三桁目に初めて到達しての数であり、そこにゼロとの特殊な値が二つ付属するからである(しかしもってして細々したところに重ねての細々とした注釈を加えておけば、マヤ文明は20進数を用いていたが、数値としてではなく絵記号としてゼロを使っていた (ゼロの観点それ自体はあったとも)とされるから厳密にはできすぎ度合いの意味合いがマヤ文明成員それ自体が考えることができたものと多少異なるとも見えるとのこともあるのだが、それは置く) )。
直前にての括弧内にて言及の20進数の問題はいいとして、他面、記数法の桁上がりの基準を別方向でかさ上げすれば、たとえば、16進数のシステムだと400は190となりもし、多少、ゼロの減退とのことで切りの悪い数に落ち着く。さらに[24進数]だと[GG](アルファベットで足りぬところを補っての数値体系にてのGG)とさらに[一致性の幅]がありふれた二桁の数(にまつわっての一致性)に見えるようになる(10進数の悪戯のことを問題にするのならば、 ―二〇進数はさておきも― 16進数だとか24進法のことらを問題視せねばならない)。
とにかくも
[10進数のためにそうも見える妙技]
との観点は若干ながらも述べられるところがあるのだが(月と太陽のサイズ比率、および、[地球-月]距離と[地球-太陽]距離における出来すぎ度合いが10進数がゆえに目立つとのことは若干ながらもあるのだが)、それとて[たかだかもの偶然]を「強くも」主張するうえでの助けにはあまりならぬか、と(いまひとつ足りぬ検討性向・十全に確保できぬとの検討時間の問題から実にもって不十分不適切ながらかもしれないと自身で断りながらも)個人的には考えもしている。
ここで書くが、[偶然性]で済むかの問題の重大ポイントは多く[メートル]や[キロメートル]、そして、[ヤード]といった[度量衡の単位系]( systems of measurement )に通底しもすることに収斂しているようにも見える(とのことがある)。であるから、その点はどうなのかとの観点での話をなすこととする(同じくものことも健全な頭脳が検証すべき当然の点であろうと判じて、である)。
さて、([月は1地球日にあって400キロメートルの速度で自転する.対して地球はその100倍速くもの4万キロメートルにて自転する]との点にての)400㎞におけるキロメーター(km)との単位は無論、1000メートルを指すわけだが、[長さ]と[数]の対応関係をメートル法で考えない、ヤード法で考えるとどうなるのか。1ヤードは現行にての基準では0.9144メートルとのことにあいなり(逆に1メートルは約「1.0936」ヤードとなる)、そちらヤードをここでの話に導入すると、
【太陽と月の大きさ(サイズ)に見る400:1との比率】【太陽と月の距離(地球から見ての月と太陽のそれぞれの距離)にあっての400:1との比率】
との純粋に割り算にて導出されてくる相対的比率にあっての数値は無論、「相互一致性を保って」残置する中で、だが、キロメートルという度量衡単位に依存している
「(月が)400キロメートル ―せんだって紹介の表計算ソフトの関数機能でものの数秒も関わらずに導出できるところとして400㎞はたとえば3進数(trinary)なら112211km、4進数(quaternary)なら1200km となる― 自転移動、地球が40000キロメートル ―こちら40000㎞はたとえば3進数(trinary)なら20002112211kmとなり4進数(quaternary)なら201301000kmとなる― 自転移動.」
との[数値の底に依存する10進数のシステム]ではなくに度量衡単位の方に強くも[きりの良さ]が依存しているとの問題 (月と太陽のサイズ・距離比の400に極めてよく照応するように見える問題)は消えてなくなることになる(:400㎞との単位系がなく400×0.9144ヤード=365.74 ―(誤記訂正として:執筆時のあまりにもの不手際、同時読解著作の内容への過てる拘泥と除算と乗算の計算ミスとのかたちで[とんでもない誤記]をなしていた.この部は正しくは[400×1.0936=437.44]となる(400ヤードは365メートルに等しいが、400メートルが365ヤードに等しいなどとのことはない).そして、当ページの事後の部もここでの誤記と同様の手違いに引きづられて一部重篤な誤表記をなしているため、それらの部の順次訂正もなしていく)― であるとのヤードしかない世界を想像いただきたい)。
そうもしてここでの話は度量衡単位、その中の近代に成立したメートル法に負うところが強くもある話であると[批判的な向き]には強くも指摘されるような側面が「なくはない」。
だが、そうしたことをやってしまうと[新たな問題]が首をもたげてくる。それはどういうことか。「400キロメートル移動、4万キロメートル移動.」との問題(月と太陽のサイズ・距離比の400に照応するように見える問題)は消えてなくなるが、そこでは新たな奇怪な一致性の問題が出てくる、メートルと並んで現代の長さの尺度を二分するヤードを用いると、
[400metre(メートル)→(変換)→365.74yard(ヤード)](誤記である;正しくは[400metre(メートル)→(変換)→437.44yard(ヤード)]となる.なお、[400yard→(変換)→365metre]との式が当たり前に正しいところとなる)
とのことになり、そこにあっての[365.74]は太陽暦の一年の日数に「あまりにも」近似している(グレゴリオ暦の一年の日数は365.2425日である)とのことが目に付いてくる(誤記訂正:この部も直上部同様、当記事執筆初期に併読していたメガリスティック・ヤードとの概念に関わりもする論考・著作の内容の斜め読みに引きづられての誤記部となってしまっているため、訂正をなす。正しくは、[400メートルとのメートル方式をヤード方式になおすと玄妙さはかすんでくる。[400対1との月と太陽のサイズ比]に関係があるように「見えていた」との[1日における地球4万キロメートル自転時の月400キロメートル自転]との関係性は消えてなくなる。というのも、度量衡のメートルではなく度量衡のヤードでは400とのきりのいい数字が437に変じるからである][ゆえに[距離の単位系]が月と太陽の異常に目立つとのできすぎた関係性を過度に演出していることはなんら否定できない][だがしかし、(多少こじつけがましいが)400とのきりのいい数字をメートル単位400メートルではなくヤード単位400ヤードと勝手にも切り替えて見てみると、そちら400ヤードは365メートル相当との太陽暦における1年日数そのものの数値が出てくるとのことも他面で想起される。乗算・除算が逆転しているからこじつけがましいところではあるのだが、メートル:ヤード=1:0.9144とのそこにある比率は400とのきりのいい数値から365を導出しやすい関係性であるとのこと、そのことが(代わって)出来すぎて見えるとのことはある]と表記すべきところであった)。
ここで読み手はこう思うかもしれない(追記:この場合、[上の誤記訂正部にも表記の関係性を過度に重んじられての向き、そうもした向きならば、]とおもんぱかりの範囲を限定化して表記すべきことともなろう)。
『では、ヤード法に見るヤードという単位のはつまるところ、[太陽と月の比率](よくできた400:1との比率)と比較した際の月の一日自転距離(および地球の一日自転距離)がそのまま太陽暦一年の日数に収斂するようにはなから考案されている単位系なのではないか?』
(あるいは ―同文に問題となるところとして― 『従前定義不明瞭であった慣習的単位であるヤードに後発するような側面があるとのメートルという単位系はヤードの365(上記と同じくもの式での訂正→400)を400(同じくも訂正→365)に変換するべくも人間レベルで考案された単位系なのではないか?』)
だがしかし、ヤード法およびメートル法の縁起由来・定義ありようを望見する限り、以上のことらに対してそうだと考える余地は「乏しい」と判じられる、少なくとも人間のレベルではそう考える余地が「乏しい」と判じられるようになっている。1年をして365日とする太陽暦( Solar Year )とはそもいかようなものか。最低限の一般教養の問題ながら述べれば、それ(太陽暦)とは
[地球が太陽の周りを一周する期間をして1年としてその中に日数が365日(プラス閏年などの調整分)が内包されていることを端的に表してのもの]
である。
といったソーラー・カレンダー、太陽暦の始原期は古代に求められることが知られている(たとえば古代エジプトの暦は既に太陽暦だった等等)。たとえば、である。たまさか目に付いた Project Gutenbergのサイトにて公開されている ランカスターの貴族の手になる MORE SCIENCE FROM AN EASY CHAIR『安楽椅子より分かる多くの科学』との著作(1920)からその記述をひとつ引いてみれば、 But the Greeks made three weeks of ten days each in a month. The true year―the exact period of a complete revolution of the earth around the sun―is 365 days 5 hours 18 minutes and 46 seconds. It was measured with a fair amount of accuracy by very ancient races of men, who fixed the position of the rising sun at the longest day by erecting big stones, one close at hand and one at a distance, so as to give a line pointing exactly to the rising spot of the sun on the horizon, as at Stonehenge.
などとのこと、大要、「真に一年が365日5時間18分46秒となるなどとのことはストーンヘンジに見るような巨石を打ち立て太陽の位置関係をライン上に再現するなどして太陽位置を計っていた古代人からしてかなり正確に測定していた」などと[表向きの人間の天文発達史]について建て前上、記載されているとのことがある。 そうもして太陽暦が地球が太陽の周りを一周する(原始的ありように依拠すれば季節折々にての太陽の配置を見つめて導出されている)とのものであるのに対して、他面、ヤード法とは何か、だが、その起源については諸説あれど、表立って説明されるところでは
(以下、英文Wikipedia[Yard]項目の Origin theoriesの部にての記述を引くとして)
The precise origin of the measure is not definitely known. Some believe it derived from the double cubit, or that it originated from cubic measure, others from its near equivalents, such as the length of a stride or pace. One postulate was that the yard was derived from the girth of a person's waist, while another claim held that the measure was invented by Henry I of England as being the distance between the tip of his nose and the end of his thumb.
(和文ウィキペディアに記載されているところの対応する表記を同文に引くとして)
ヤードはその長さから、古代から使われていた長さの単位であるキュビットの二倍のダブルキュビットが元になっているものと考えられる。しかし、ヤードの起源とされる説は多数ある。/アングロサクソン人のウェスト回りのサイズがヤードである/イングランド王ヘンリー1世が、自分の鼻先から親指までの距離をヤードとした/これらはダブルキュービットから派生した各種の単位の起源であり、それらを統一するためにヤードという単位が作られたと考えられ、また、ヤードの標準化の過程であるとも考えられる。ヤードという言葉は、まっすぐな枝または棒が語源であるとされている
(引用部はここまでとする)
といったものとなる。
そうもした常識的な[太陽暦の由来]や[ヤード法のきしたし]にまつわる説明を並べたうえで述べるが、近代1893年にて正式に対メートルの比率が定められた(それ以前まではアバウトに運営されていた)との慣習的単位であるヤードについて
[400との太陽・月の純粋なる比率(や月および地球の自転周期)を対メートルで太陽暦一年の365に変換する]
のがヤードとの単位、[ Yard Converter ]としての単位系であるなどとの話は「常識の世界では」聞かれないようになっている(追記:月が一日400km自転時、地球が40000km自転との太陽・月のサイズ比にして対地球距離の比でもある400:1のことをよくも想起させる[400]との数値。その[400]との数値はヤードとの単位系で(等価変換しない中でながら)400ヤードとして見るとそれは365メートルになる。地球が太陽周囲を公転する距離から引き出されるタイムスパン、太陽暦の1年日数としてできすぎている。そういうことをここでは述べている。 ただしもって、400キロメートルを基礎に置いての話としては400メートルは(先の誤記訂正部で述べているように)365ヤードなどではなく約437ヤードなのでここでの話は、だがしかし、人によっては[こじつけがましさ]を覚えるところか、と述べざるをえないところもある)。
その点、ここにて問題視している著作 Who Built the Moon? ―デヴィッド・アイクに月が人工物であるとの主張の論拠を提供しているとの著作― に影響を与えている Alexander Thomアレクサンダー・トムというイングランド巨石文明の研究者由来の見解としてエジプトに由来する Royal Cubitなる古代にて流通していた原初的単位がヤードにその伝での影響、近代にて定立されたメートルの定義付け(革命後フランスにて1791年に【地球の北極点から赤道までの子午線弧長の1000万分の1】との定義がなされたとのメートルとの度量衡に対応する定義付け)にも相互作用する式での影響を与えたとの見方がある、巨石文明に遡るヤード単位、すなわち、[メガリス・ヤード Megalithic Yard]なるものが持ち出されての見方があり、それでもってして Who Built the Moon?の著者らが400キロメートル系は366に変換可能である、
[そこからしてできすぎている.(今日のメートル定義にも照応するような)古代の叡智の賜物だ]
などととの話をも展開しているとのことがありもするのだが(彼らはそうもした度量衡単位の仮説上の沿革を問題視する一方で[メートルとヤードの定義の背面にあって作用している操り人形を手繰る力学]にまつわってのありうべき可能性については露も口に出さず[古代の叡智の賜物]であるなどと強弁している)、だが、しかし、それは往々にしてメインストリートでは全く認められていない、
Pseudoscientific metrology、
すなわち、[スードウサイエンティフィック・メテロロジー、似非科学的計測学]の領分であるとの評価が一様に下されている節がある(:またもってして述べれば、現行使われている度量衡単位としてのヤード、400meter(yard)⇒365yard(meter)ときっかりなせる変換性向を有したヤードは[1893年にメートルに対応するものとして定められた]と公表されているところとなっている.にまつわっては[太陽と月のサイズおよび対地球距離に見る比率である400を太陽暦のおおよもってしての一年日数に変換するための単位として(メートルに対応する式での)ヤードの統一的な定義付けをなした]などとの意思表示は全くもってして伴って「いない」と見受けられる(1893;defined without refering to [400meter(yard)⇒365yard(meter)] converter function))。
さらに、である。ヤードとの単位は厳密な長さが微調整、時代毎に変転・変遷を遂げていったものでありながらも11世紀のイングランド王、ヘンリー1世( Henry I)の折よりすくなくとも存在していたとされ(上にてのウィキペディア引用部にも同じくもの見解がみとめられる理解である)、かつもってして、その折の定義のありようは今日のインチ法に対応するものとして極めてアバウトなものであったとのことが史実の問題としてよくも語られている(:信憑性の薄い歴史的挿話としてヘンリー1世が自分の鼻先から親指までをもってして1ヤードとするようにあらためさせたといった話が伝わっているなどとされている.その点、ヤードの変換性向の奇怪性・できすぎ度合いに筆者自身非常に疑念視しているのだが、については依然もってしての「?」(疑問符)をつけるに留めてここでは(この身浅見さと検証の難度から)あまり深くは踏み込まないことにする(※))。
(※尚、節義の問題として付記・解説しておくが、直上にて言及したようなヤード法の不可思議なコンバーティング性向(変換能力;―地球と月と太陽の数的関係性で際立って目に入るとの400を度量衡単位の問題としてメートルを介して一年の日数(地球の太陽周辺公転周期)に置き換えるとの変換性向)のことがあるような中で欧州中世暗黒時代にてその知識が一端破壊されたとの古代ギリシャから太陽と月のサイズの想定や両者と地球との距離のおおよその測定の試みが ―不十分ながらも― なされていたことが知られている。例えば、である。目につくところの記述として和文ウィキペディア[太陽]項目にあって
(以下、引用なすとして)
太陽を天文学的に観測した初期の例は、古代ギリシアのアナクサゴラス(紀元前500年頃 -- 紀元前428年頃)が800km離れたシエネ(アスワン)とアレキサンドリアで同時刻の太陽視差を測定し、三角法で距離と大きさを求めた。これは、地球は平面という前提でなされたもので、距離を6400km、直径を56kmと算出し「太陽はペロポネソス半島ほどの大きさ」と述べた。実際とはかけ離れた数字だが、当時のギリシア人はあまりの大きさに誰も信じなかったという。地球が球体という前提で距離を計算したアリスタルコス(紀元前310年 - 紀元前230年)が日食時に月と太陽の視差がほぼ同じという観察を根拠に三角関数を用いて月と太陽までの距離を計算した。さらにヒッパルコス(紀元前160年 - 紀元前125年)が精度を高めた計算を行った
(引用部はここまでとする)
とのような言われようがなされており、またもってして、ローマ時代の地理学の大家(にして古典的天文学の大家)たるトレミーことプトレマイオス、彼プトレマイオスの手になるローマ期成立古典『アルマゲスト』(注:同アルマゲスト、2世紀、紀元148年あたりに成り、その後、一端もってして歴史の闇に消えながらもギリシャ・ローマ期の知識が伝存していたイスラム世界経由で欧州に再流入、中世末期にて往時人類最先端の天文学者らに[天文知識のデ・ファクト・スタンダード]を提供してきたとされる(古代の)天文学の集大成とでも言うべき書物となる/ただしもってして同著については天体データが甚だしくも不正確である、あるいは、そこからさらに進んで後世の天体データが用いられているとの作成日付捏造が取り沙汰されているようなところがある ―『アルマゲスト』の欺瞞性の問題については(欧米圏で一部識られているところとして)ロバート・ニュートンという20世紀天体物理学者によって書かれた論稿 The Crime of Claudius Ptolemy (1977)の内容が論議の火付け役になっている― ) の4巻および5巻は月と太陽の大きさ、および、月と太陽の対地球距離などの説明に充てられている ―先達のヒッパルコスやりようを紹介しつつそれに疑念を呈するとの式にて充てられている― とのことがある。
同じくものこと ―古代人にも太陽 ・月を巡る位置・距離についてのある程度の練れた思索・分析が伴っていた(とされる)こと― について極めて目につくところでは英文Wikipedeia[ On Sizes and Distances ]項目にあって(以下、現行記述内容より引用なすとして) In Almagest V, 11, Ptolemy writes: / Now Hipparchus made such an examination principally from the sun. Since from other properties of the sun and moon (of which a study will be made below) it follows that if the distance of one of the two luminaries is given, the distance of the other is also given, he tries by conjecturing the distance of the sun to demonstrate the distance of the moon. First, he assumes the sun to show the least perceptible parallax to find its distance. After this, he makes use of the solar eclipse adduced by him, first as if the sun shows no perceptible parallax, and for exactly that reason the ratios of the moon's distances appeared different to him for each of the hypotheses he set out. But with respect to the sun, not only the amount of its parallax, but also whether it shows any parallax at all is altogether doubtful. / This passage gives a general outline of what Hipparchus did, but provides no details. Ptolemy clearly did not agree with the methods employed by Hipparchus, and thus did not go into any detail.
(大要訳)「アルマゲストの巻の五にてプトレマイオスは 「ヒッパルコスは太陽と月の特性から一方の発光体としての距離が呈示された際に視差よりもう片方の距離も導出出来るとして太陽との距離を推察することで月との距離を呈示しようとしている.にあって彼ヒッパルコスは[想定上の最低限の知覚可能なる[視差] ―この場合の[視差;パララックス]とは同一天体を異方向から見た場合に方向の違いから三角測量がかったやりようで距離を算出することを指しての語か― のありようによる予測]と[知覚可能な[視差]を太陽の方は示さぬように見えるも、そのために、月の異なった視点での距離比にまつわっての観点呈示がなせるとの日蝕時ありよう]の両者をあわせてそうも述べているわけだが、そうしたヒッパルコス手法は視差の程度どころか視差の有無そのものとの観点ですら疑わしい」 とのことを書いており、(プトレマイオスは)先達ヒッパルコスのやりように賛意を表さずにそれ以上はヒッパルコス方式の細目に触れないにとどめている」
(ここまでを大要にての紹介とする)
との記述が(英文ウィキペディア程度の媒体にも)見受けられるようになっているといった按配にて、である。
またもってして、プトレマイオス古典に見るありよう(プトレマイオスに引用・言及されるとのかたちでのみその説の枢要部が(三角測量などとのからみで)推し量れるとのかたちで伝存しているとされるヒッパルコスによる月と地球との距離分析)にあっては誤差が目立ちもするようになっているとされる、たとえば、[ヒッパルコスが古代にて特定した地球となって月の距離比率]は[現在の近地点距離と遠地点距離のそれの中間値]に比べ[およそ7%の誤差]があったといった話が目立つところとして概括されていること、すぐに確認出来るようになってもいる ――英文Wikipedia[
Lunar distance (astronomy) ]項目にて The first person to measure the distance to the Moon was the 2nd-century-BCE astronomer and geographer Hipparchus, who exploited the lunar parallax using simple trigonometry. He was approximately 26,000 km (16,000 mi) off the actual distance, an error of about 6.8%.
との記載がなされているところである―― 。
が、それでも月と太陽の具体的(対地球)距離比にまつわる古代人の知識(把握情報)とのことで述べれば、である。紀元前3世紀に生きたアリスタルコスが[異常に小さい太陽の模型]を科学的観察手法から導出していた時分に比しては格段の進歩がみとめられると映るようになっているわけだが、ただし、太陽と地球の間の距離がかなり正確に測定されたとされるのは11世紀イラン(のサーマーン王朝)にてその事績を遺した万能人的知識人 Abū Rayḥān al-Bīrūnīアブー・ライハーン・アル・ビールーニーに端緒が求められるともされていることも即時に目につくところとなっておりもし、アル・ビールーニー著書『マスウード宝典』には(古代ギリシャのエラトステネスの手法を踏襲してか)地球の半径を今日の観測データと誤差0.01%と少しのところで導出されていたなどとのことまでもが言われている(具体的な中身について検証したわけでも何でもないので何とも言えぬが))
(↑追記:つい直上までの[ヤードの沿革の記載]はせんだって言及の[ヤードとメートルの関係を履き違えての誤記]に引きづられての部となっている。当該のヤード法沿革の記述部の記述趣意は
「メートル法より変換することで[月と地球自転距離]からヤードでは太陽暦一年年数が導出される.ヤードとは天体の細かい数的配置を古代から意識していた単位系ではないのか.」
とのことを単位発祥の時期的側面から問題視することにあったのだが、そも、ヤードとの単位系で地球と月の自転距離に関わる400メートル系より365が導出されるなどとのこと「はない」(400つながりで400ヤードは365メートルだが、自身の即時計算を過信し、同時検討していたメガリスティック・ヤード366系との概念にまつわる固執に引きづられもして不手際も甚だしいかたちで誤記していたところとして、その反対ではない.まさにもの月および地球の自転距離40000kmとの観点で問題となる[400メートル系]では437.44ヤードとなる)
。
そのため、直上部までの表記は言及の「不適切さが目立ちもするところの古代史関連表記であった」と本追記部追加現時、書き手たるこの身自身、反省しているところとなる(ただしもって自転距離に関わる400メートル系から等価変換とは別に顧慮しての400ヤードでは[365メートル]になることには恣意性が感じ られ、(乗算・除算の逆転を顧慮すれば)できすぎ度合いが依然払拭されないとのこともあるにはある ―わざとそういうかたちでヤードやメートルといった単位系を構築している力学があるように考えられる、そうも述べもする次第である― ) 以上追記部とする)
単位系の変換をなせばどうかとのことから入って、直上、ヤードの沿革(及び人間の歴史における天体の大きさに対する分析の歴史的変転に関しての言われよう)にまつわっての話がやたらと長くもなったが、[度量衡単位]に着目しての話にあってのメートル、そう、【月は太陽の大きさの400分の1である】【月は太陽と比べて400倍近い】【月は1地球日にあって400「キロメートル」の速度で自転する】との400にまつわっての関係性を現出させるメートルそれ自体についての話を次いで、なす。
通例、メートルは常識的なところでは、そう、Wikipedia[Metre]項目に見るところなどでは Originally intended to be one ten-millionth of the distance from the Earth's
equator to the North Pole (at sea level)
と表記されている、そう、和文ウィキペディア[メートル法]では
(以下、多少長くなるが引用するとして)
フランス革命後の1790年3月に、国民議会議員であるタレーラン=ペリゴールの提案によって、世界中に様々ある長さの単位を統一し新しい単位を創設することが決議された。それを受けて1791年に、地球の北極点から赤道までの子午線弧長の1000万分の1として定義される新たな長さの単位「メートル」が決定された(これにより地球の円周が4万キロメートルとなるように定義されたが、地球は厳密には球ではなく、回転楕円体に近い形をしているので実際にはやや誤差がある)。なお、この時の測量はダンケルクからバルセロナの距離を経線に沿って三角測量で測定し、その値を元にして計算が行なわれた。質量も、このメートルを基準として、1立方デシメートルの水の質量を1キログラムと定めた
(正確な定義はそれぞれの単位の項目を参照のこと)。他に、面積の単位としてアール(are, 100平方メートル)、体積の単位として乾量用のステール(stere, 1立方メートル)と液量用のリットル(litre, 1立方デシメートル)を定めた
(引用部はここまでとする)
との式で同メートル(法)は定められた ―啓蒙の時代、フランス革命の副産物であるとの式で定められた― 単位系と認知されており(メートル原器の問題など誰でも調べればすぐに特定出来るであろう)、そこにては
[かなりもってして自然のリソースに依拠して構築された単位系(地球の北極点から赤道までの子午線弧長の1000万分の1として構築された単位系)としての由来]
が見てとれるようになっている(だが、そうした由来については「先行するヤードという単位系と変換し合うかたちで地球月太陽の位置関係から年月を導き出すことになさしめる」との観点があったとはまったくもって目につかないかたちとなっている)。
メートル定義についての上のような杓子定規的言われようがなされている中で
(地球の円周がおよそ40000「㎞」となる中で)
【月は太陽の大きさの400分の1である】【月は太陽と比べて400倍近い】【月は1地球日について400キロメートルの速度で自転する】
との玄妙不可思議なる一致性が「結果的に」捕捉されもすることになりもし、そこにヤード (こちらヤードは1893年に対メートルとしてのその比率が厳密厳正に定義付けされたとの従前よりの因習的単位となるが、近代1893年以後確定した今日のヤードありようと従前の中世期よりのヤードの近似性の程はいくばくかとのこともまた問題になりうる) を挟んでの変換性向のことを考えると、繰り返すが、
【太陽暦一年の日数と重なる365ヤード(yard)(ここまでと同様に誤記訂正する;400meterは437yardだが、400yardは365meterとなり、メートル・ヤード比は400とのきりのいい数値を365にもっていきやすいものであるとのことである)への変換方式が首をもたげてくる】
とのことになりもしている。
度量衡単位制定の問題としてそこでもわざわざもって地球・月・太陽の位置関係までもが顧慮されていたとは判じがたい(少なくとも「人間レベルの」単位制定者意中思惑では顧慮されていたとは「普通には」判じがたい、というのも、そうしたことにまつわっての言いようがなんら見受けられないからである)ところながらも、(くどいが)、[月は太陽の大きさの400分の1である][月は太陽と引き比べて地球に400倍近い][月は1地球日について400「キロメートル」の速度で自転する][地球は1地球日について40000「キロメートル」の速度で自転する][表記の一致性が「人為的単位の問題として」ナンバー365と接続するようになっている]とのことらに関しての異質性がさらに首をもたげてくることに相違ないわけである(:「問題は」そうもした[現実的ありよう]にあっていかほどまでにどのレベルでの[恣意]が影響を与えていうるかだが、それについては既述のヤード(1893年メートル対応単位として古来からの単位があらためて厳密定義されたとのヤード)のことも顧慮しての[偶然の一致の問題]ではまったくもって話が済まされぬところであろうと筆者としても当然にとらえている ――月が人工物か否かということに関わることでなしに度量衡(ヤードやメートルといった systems of measurement )の制定を根本操作しているとの力学に通ずるところの恣意性が当然に問題になろうということである―― )。
以上、何故にもってして位置関係にまつわる一致性が一笑に付せぬものなのか、浅見の身ながらも筆者の見解および普通に述べられることを細々延々と講述しもしてきた(反省するところとして多少、不消化感を読み手に与えかねないところもある、そういう[説明不足]かつ[詰め込み過ぎ]の筆の運びをなしたところがあったかとは思うのだが、それについては(真摯なる読み手の方がおられたらば)容赦頂きたい)。
そこまでなしたうえで述べるが、だが、筆者は手ずから分析なしてきたところを書き連ねもした同じくもの問題 (軽んじざるべきところと述べたきことら) が仮に[およそ人間業「ではない」ような恣意性(既にそこにある月と太陽の位置関係やサイズに依拠してかなりもって昔から度量衡体系を「執拗に」構築しているとの恣意性)]を示す方向で正鵠を射ていても、
[月が人工物である]、
そう、
[できすぎた位置関係から月が人工物であると判ずる]
との結論には向かって「いない」(分析した身ながら筆者は現時点、月が人工物であるとは考えていない)とのこと、強くも申し述べておく(そうした可能性を全否定することもまたもってしてできぬとは思うが、ただ、この世界に操作者がダイレクトに侵入していることは[ない]との観察事実に基づいての判断をなしつつもそういう見方をなしている)。
捕捉に努めたところの[月と太陽と地球の位置関係]にあっての WHO BUILT THE MOON?『フー・ビルト・ザ・ムーン?』の内容を「一面で」傍証するが如くもの(度量衡の表立っての説明のされ具合からかけ離れた特性を顧慮しつつもの)不可解性について直上言及なした上で、である。「それでもなお、」のこととして強調したきところとして
「本稿筆者としては[精妙な数値的一致性に[人為]の跡が見えるが、それでも月は人工物である]などとの見解は容れていない。いや、月それ自体は自然の産物であると考えている」
とのことを申し述べもするわけだが、にまつわっては、メートル(および先行するヤード系)なぞの度量衡単位の制定プロセスまでを[薬籠中のものにできる存在]のことを顧慮して、
[日食を実現させる極めてよくできた月と太陽の「現状の」位置関係(「現状の」位置関係と述べる理由は後述する)との対比から操作なす力学がまさにその部分に対する拘(こだわ)りを見せての度量衡単位を人類に押しつけていると観念出来る]
[そこにての押しつけのプロセスは今現在の月と太陽の位置関係が皆既日食を現出させる絶妙なものとなっている(が別の時代は異なっていた)とのことに対する執拗な拘(こだわり)りによるところであるとも観念出来る]
とのことを申し述べたいとのことがある。
そして、さらにもってして、上にあっての[観念出来る]とのことがちゃんとした論拠の山を伴っているからこそ問題であると述べたいのだということがある。
にまつわってネックとなるのは[月の経年移動]である。
その点、手ずからお調べいただければ、ご理解いただけようこととして、
「月は1年毎に数センチほど移動しており大昔は地球に極めて近いところにあり、それがゆえ、太古にあっては地球から見た月は実にもって巨大に見えた」
と観測データに基づき指摘されているとのことが現実にあり ――たとえば、オンライン上に流通しているBBCニュースの[ BBC News -
Why the Moon is getting further away from Earth ]と題された記事(表記のタイトルの検索エンジン上の入力で捕捉できようもの)にて The Moon continues to spin away from the Earth, at the rate of 3.78cm (1.48in) per year, at about the same speed at which our fingernails grow.
「月は私たちの爪が年にて伸びるのとおよそ同じスピード、通年3.78センチの割合で地球より離れ続けている」との一般的な科学的理解についての記述が( When the Moon was younger, it would have been much closer「月が今よりも若かったとき、それはより近くにあった」との記述とともに)なされている―― 、現行にあっての[できすぎた位置関係]、月と太陽にあっての奇跡的一致性(とされるもの)が皆既日食( Total Eclipse )をきたす[月が人為的生成物である]などとの一見にしてnonsenseともとられうる帰結とは「直線的には」つながらない ――筆者は『それこそがまさに問題になる』との観点を持っているのだが、そういう時期的局面(皆既日食が月と太陽の数値比例上の一致性でもって見事に具現化するとの局面)・タイミングにあっての[介入]がなされるだけのことがあるからこその拘(こだわ)りが見てとれる可能性もあるとの主張もがなせる一方のこととしてで、である―― 。
以上のことを含んで多少細かい話をなす。以降表記のこと、(語るに足りる、そう、死滅していく、死滅させられる世界にあって虚偽ではなく真実に向き合い現実現状に挑もうとの気概を有しているとの向きにあっては)検討いただきたい、と思う。
[地球-月]の距離は一年で3.78㎝ずつ拡大しているとの基準を導入した場合、[月と地球の距離]と[太陽と地球の距離]が ――前者にきっかり400倍なしたものが後者であるとの[月=自然の産物]の立場にとって最も不利であるとの尺度を持ち込んだ際に(すなわち月の怪物染みた側面を強くも否定する尺度を持ち込んだ際に)―― いかように変化していくのか、そのモデルを呈示してみることとする。
月にあっては対地球にての近地点距離(月が地球に最も近付く相対距離;Perigee)で「約」363,304km、遠地点距離(最も遠ざかっての相対距離;Apogee)で「約」405,495kmとされる(和文ウィキペディアなどの現行にての記載内容よりすぐに確認できるところの記述を引けば、である)。
その現在の[地球―月]の距離を基準にして、である。
まずもって原生人類たるアウストラロピテクスが誕生したとされている(正確か否かは保証しかねるが広く世間ではそうだと主張されている)とのおよそ400万年前あたりの[地球―月]との差分、すなわち、
[(既述のように一年で3.78センチ程、月は地球より遠ざかっているとされているのであるから)400万×3.78÷100(センチメートル⇒メートル)÷1000(メートル⇒キロメートル)=151.2キロメートル]
との[単純な算数]から導出出来るとの差分(400万年前まではおよそ150キロメートルほど月は地球に近しくも浮いていた)を顧慮した際に
[地球と月の距離は地球と太陽との距離の400分の1の距離である]
云々の問題を考えてみるとどうか。
結論から言うと、(これまた単純な算数で151.2キロメートルでは(現時点の近地点距離を363300㎞、太陽と地球の間の分母となるところの距離をそれに400をかけたものとして計算した場合に)、[地球と月の距離は地球と太陽との距離の400分の1の距離である]とのありようについては400万年前もあってはほとんど差分は生じない。
だが、それが2000万年前(ユカタン半島に巨大隕石が落下して地球環境が長らくもの厳冬期に陥ったとの有力視されている仮説から恐竜が滅んだとされる折柄である6500万年前、同時点から4500万年ほど後の年代)にあってはどうか、とのことまで考えると話が変わってくる。2000万年前には月はおよそ現況より756㎞ほど地球に近くも位置していたとの計算がなせるところとなる ―近地点距離(Perigee)を仮に「約」363,304kmと見繕って計算した場合に756㎞近かった(400万年前(151.2㎞)に対して2000万年前なのだから151.2×5=756㎞近くも位置していた)― 。そうもした2000万年前をベースに考えると、手元の簡易電卓で計算してみる限り、[地球と月の距離][地球と太陽の距離]の比率は([地球と月の距離]を363300㎞から756㎞引いたもの、[地球と太陽の距離]を前者の[現在値]に400倍しての不変なるものとした場合に)およそ[1対400]が少なくともおよそ[1対400.8(⇒401)]にまで比率が傾いているとの結果が見てとれる(400分の1と約401分の1では話が「かなり違う」であろう)。
さらに、である。それが白亜期末、恐竜が絶滅したと一般に考えられている6500万年前を基準に考えると、そう、およそにして2450㎞超、地球と月の距離は狭かったことになりもし、とすれば、([太陽-地球]の距離が不変であると想定すれば、だが)[地球-月]と[地球-太陽]の距離の比はさらにもって大きくも隔たってくる。たまさか手元にあった簡易計算機の即時計算であれなのではあるが、6500万年にあっては概数にして[1:400]が少なくとも[1:402.7(⇒403)]にまで比率が変わってくる。
直上にて記述の計算は端数をばっさりと切り取ってのかなり乱暴・粗雑なものとなっている、そういうものとなりもしているとのことであれなのだが、話を極々単純化させて見れば、とにかくもってして、
1.[月と太陽の距離比が1:400及にあること]
2.[月と太陽のサイズ比が1:400となっていること]
3.[月は(メートル法表記を用いれば)一日400㎞自転する]
との一致性問題における
1.[月と太陽の距離比が1:400となっていること]
についてはそれが有効に成り立つのは
[大体にしてここ2000万年ぐらいの限局化された限られた時代区分のことである]
との見方ができるところとなる ―誤差はかなり出ていうるが、それは数千万年単位のものにはならないであろうと思われる(仮に本当に地球と月の年齢が46億歳だというのならば2000万年というのは20分の1未満の期間である)― 。
また、
3.[月は(メートル法表記を用いれば)一日400㎞自転する]
は度量衡単位に依存する話であるので ―最前にて細かくも解説しているように― メートル表記を別の単位系に換えると[異なる結果]が当然に出てくる(ただしもってヤード表記に換えると、先述のように太陽暦における一年の日数365日がおよそ365ヤード自転との式で出てきてしまうとのそれはそれで奇っ怪なことになる)とのことで同じくものことは月が人工物であるなどとの論理を強くも支持しないことになる ―だがもってしてそういう論理を虚偽として広める力学があるのだとすれば、その力学に由来するある種のこだわりと人類という種に対する操作の徹底さの方向性は示唆する(とこの身、筆者としては主張する)― 。
ここまでの説明 ―手元簡易電卓を用いての実にもって大雑把な計算ながらも有効有意義であろうとの説明― にておおよそにしてお分かりいただけることかとは思うのだが、月は人工物であるとの申しようの論拠とされている[(殊に10進数にあっての)数値上のできすぎた一致性の問題 ―先述のように太陽系内の他の惑星・衛星の比率に類例となるような事例がなく、またもってして、既存の物理法則でそういう関係性が自然なるものとして産まれてくるのかとの説明がなんらなされないようになっていると解されるところの数値上の一致性の問題― ]は(地球史にあってのここ数千万年の期間ありように依存しての)時期的に限られての時限的なるもの、そして、単位系に強くも依存してのものであるがゆえに、その有効性を多く失うと語気強くも強調できるようになっている。
であるから、筆者は
[デヴィッド・アイクの申しよう(およびデヴィッド・アイクに彼の異説の部分的論拠を提供している著作 Who Build the Moon?に見るような主張内容)]
を支持「しない」のである ―これが相応の人間ならば、「月が人工物であるはずがない」と「はずがない」などとのことを論拠もないところで強弁する「愚者の否定」(という名の検討それそのものの「非」論理的なる魯鈍なる[拒絶])を振り回すところなのだろうが、筆者は論理的に支持できないとのその論拠をきちんと呈示しているつもりである― 。
他面、筆者はデヴィッド・アイクら申しようを全く無意味無価値なるものとして斥けているわけでもない。彼らの申し分(および彼らにそうした申し分を与えるだけの1970年に遡るソ連科学者の世に出した論文などに見る[月宇宙船]説やそれを受けてか、最近、サブ・カルチャー分野などにて撒布されだしていることが目に付く類似の設定の亜種)は別の問題となる側面、[我々人類の陥穽に通ずる別の問題となる側面]を「露骨に」示すとの側面から「軽々には扱えぬものか」と判じている。
これまたもってして聞く耳を持った人間がいなければ何の意味も無い(そうもした話をなすことが我々人類の置かれた状況を示す上でいかに重要であろうとも聞く耳がそこになければ何の意味も無い)とのことではあるが、まとめもして記せば、それは以下のA.からD.の順序にて申し述べられもすることとなる。
A.度量衡単位の基準が仮にもし調整されていれば、どうか。データに依拠しての観測事実 ―400のサイズ・距離の「比率的」一致性と400の移動距離、そして、それが365に別度量衡単位でリンクするようになっているとの観測されるところの事実― の問題から述べられるところとして[メートル法]というものからして極めて堂に入ったものとして構築「させられている」節があり、またもってして、それに先行するところの単位系がさらに後に厳密規定されるようになったとの[ヤード法]も極めて堂に入ったものとして構築「させられている」節がある ―※せんだって細々と解説してきたようにメートル法を容れれば、[400との数値の連続現出]が地球・月・太陽の位置関係にあって際立って具現化し、に対してヤード法を容れれば、[太陽暦における365日との日数]が地球・月・太陽の距離・サイズ比に照応するように(距離に対する度量衡単位系の表記法との絡みで)見事に立ち現れてくる、そうしたこととなっている。だが、【皆既日食】の現出にも関わる(そして月人工物説の基礎に据えられている)あまりにもできすぎた類例見当たらぬ地球・月・太陽の位置関係に照応するように度量衡単位がそうもしたかたちになるようにわざわざもって調整されてきた、度量衡制定をなした人間集団に企図されての調整がなされてきたとは我々人間の歴史では(すくなくとも筆者が把握するところでは)度量衡単位制定の歴史関連資料らの中で明言されておらずに「結果論として」そうもなっていると見えるようになっている。であるから、そう、「あまりにも露骨」かつ「あまりにも巧妙」に見受けられるところであるのに説明がなされていないとのことがあるから、[度量衡単位制定の表向きの力学ではなくにもの背後の操作の力学の拘(こだわり)り]の介在(の「可能性」)が観念できもする、と申し述べる― (:先に筆者は Who Build the Moon?との著作の訳書から次のとおりの記述を引用した。⇒(以下、訳書『月は誰が創ったのか?』よりの再引用をなすとして)月は太陽の大きさの400分の1である。/月は太陽と比べて400倍近い。/月は1地球日について400キロメートルの速度で自転する。/これは偶然の一致だろうか?そうかもしれないし――そうでないかもしれない。/地球は1日4万キロの割合で自転し、月はほぼ100倍遅い速度で自転している。月はつねに地球に同じ面を向けながら地球回転軌道上に移動しているが、赤道の自転速度が1地球日のきっかり1パーセントになるように平均的距離が保たれている。この数字はどれも検証可能で、議論の余地がない。これだけの事象がすべて偶然でありえるだろうか?/たしかに、この状況をもっと深く調べたいと思わないのは、愚か者だけだろう。とはいえ、見たところ不可能そうなことを考察しようと決めたわれわれを他人がどう見るか、あくまでも現実的に行動しなければならない。専門家の多くが、いや、おそらくはほとんどが見て見ぬふりをするだろうと、われわれは覚悟した
(以上、くどくもの再引用部とする)。 表記の引用部に見るようにこの状況をもっと深く調べたいと思わないのは、愚か者だけだろうとの表現が妥当・至当であろうとの玄妙なる一致性が調べれば調べる程、検証すれば検証する程、目に付くようになっているとの状況が当該領域の話であるとも述べられるようになっている)。
度量衡単位を調整した「背後の」力が働いている[可能性]が大いにありえるように見えるとして、である(そこでの可能性論は可能性論に留めても何ら問題ないと筆者はとらえているわけだが、仮にもし背後・外側からの調整の力学がゆえにそうもしたことになっていそうであると考えるとすれば、である)。そこにいう背後から[調整]をなしうるとの意図および能力は、人間のそれではない、あるいは、人間のそれではないところに[通じている]と推定できるだけのことが[異常異様なる予見的言及]とのかたちで「他のそこかしこに山積している」のがこの世界であるとのことがあわせて問題になる(度量衡単位の制定調整にまつわる話を可能性論に留めてもその可能性論とは別方向で異様なる操作の片鱗がそこかしに見受けられるということである)。
にまつわっては『これは人間業ではなかろう』と易々と察せられもしてしまうとのかたちで諸所にて傍証事例が存在しているとの[外力]のことを考えた折、それがいかように作用しているのか、[神]などとのナンセンスなる非科学的概念を持ち出さずに考えられるところの、
[作用原理]
にまで思索をなせば、字義通り[推測]以上のことにはなりえないかとも見るが(例えば、複数世界を貫通するとされる重力波を用いて被操作個体(群)としての人間の脳を[高度人工知能の回路]の領域と結線して、いわば、[60年代実験にてそういうものが用意されたコンピューターに結線された意思と認識が改変された猿]のようなものとして、「被」操作者による意識的ないし無意識的なる脳機序の物理的操作による予言的言及がなされているといったことが考えられもする ―本稿先だっての実に不快なる可能性論の説明の部を参照のこと― )、 [現象]それ自体に着目する限り、高度なテクノロジーを用いての人間操作がなされ、その一環として
[ありえないぐらいなまでにできすぎた予見的言及]
がそこかしこになされていると判じられるとのことが「他のそこかしこに山積している」とのことがあるのがこの世界である。
同じくものことついては続いてのB.以降の表記を参照いただきたいものだが、この世界では
[往時の人間の科学的知見および社会環境理解ではおよそ予測がつけられなかったことにまつわっての計数的な意味での正確な予見的言及](本稿では2009年年末期から本格稼働を見ることになったLHC実験のことを想起させるように2009年年末期から欧州エネルギー機関の運営する加速器敷設型核融合炉が暴走してブラックホールの大量生成がなさるといった内容を有している1980年初出の小説( Thrice Upon a Time )のことやあるいは911の事件にまつわっての予見的要素を多層的に帯びているとの読み物のことなどを挙げているわけだが、それらに加えてもの具体例をさらにさらに本稿の後の段では数多呈示していく所存である)― ]
が存在しているといったことが数多みとめられるようになっている(:そうした文物の実在性問題を「どういうわけなのか」多くの人間は認識せず、であるから、その存在の指摘・問題視もなされずとあいなっているように「とれる」中で他面、[ノストラダムスの予言などの多義的解釈可能なる妄言録]のことがさも[予言]であるように頭の具合よろしくなくも語られる(というより「騙」られる)との愚劣極まってのことがこの世界にはあるわけだが、といったことを置いておいても取りあえずも強調したきところとして、である)。
であるから、
[古来からのヤード法を1893年にリニューアルしての度量衡単位にまつわっての一致性](手前浅見さゆえに深追いはしないと述べたが、先述のようにそうした一致性の根は[古代から連綿として]そこにあった可能性もある)
および
[メートル法の問題にまつわっての一致性]
にもそうした力学の問題(「非」人間的外力の問題)が同文に作用していても何らおかしくはない、いや、むしろ、度量衡制定者らに目立って意図言及されざるところとしてそういう一致性が「できすぎたことに」「奇怪にも」現実世界に具現化しているのだからそれが作用していうると考える方が理に適っていると強調したい(ただし、同じくものことらは可能性論ととらえてもらっても本稿の本筋に何の影響も及ぼさぬことではある)。
B.機序(作用原理)ともかくも[特定の現象ら]が[恣意](意図してのこと)のなせるところとして現出していると容赦なくも判じられることがある中で執拗な拘(こだわ)りの問題が度量衡単位と太陽・月・地球の一致性の問題にも「観念」できる ―ただしそれは可能性論として論じてもいい― と直上、A.の段にて記述したわけだが、真に問題なのは
[ブラックホール生成関連事物をもってしてトロイア崩壊の寓意と執拗に結びつけるとのやりよう]
が極めて執拗になされていると摘示できるようになっている(なってしまっている)とのことがあるとのことである(と述べてもなんら差し障りないと「当然に」申し述べる)。
同じくものこと、LHC実験がいかようにしてトロイア崩壊の寓意と多重的多層的に接合しているといかようにして指摘出来るのかについてはここまで詳説に詳説に重ねてきたことである。
(:もし極々単純な[事実の一断面]からそうしたことのありようの片鱗に触れてみたいとの向きがいるとするならば、である。本稿筆者としてはLHC実験にあってのATLAS実験グループの表象シンボルがニューヨークはロックフェラー・センターに据え置かれているアトラス像( Lee Lawrieリー・ロウリーという彫刻家の手になる彫刻)と[そっくりなもの]となっていることを確認してみるがいい、と最初に言うであろう ――※1[ニューヨークのロックフェラー・センターにあってのアトラス像]と[LHC実験アトラス実験グループのシンボル]がそっくりなものとなっている件について筆者は公金をもらってやらっているとの国内実験関係者にかつて相対取材なした折に「実験グループは著作権侵害しているとのことはないでしょうか.仮に実験グループがロックフェラー・グループからの資金提供を受けているのならばいざしらずですが、そういうこともない、何の蓋然性もないところでニューヨークの[天球儀を担ぐ独特のアトラス像]のシンボルが資金環境もないところで転用されているなどとのことになると、そして、著作権にまつわっての許諾のやりとりがなんら発生していないとのことになると、これは[遵法意識]の問題に関わることになりうるか、と思います.その点について私としては(公金の出所たる国民の一として)そういう団体それ自体の表象シンボルに関わるところで著作権の侵害の可能性が疑われるようなことがある実験かどうかについて含むところがあります.ですから、事実関係がなんら明示されていないとの中のこととして、背景について是非ともご教授いただけませんでしょうか」とわざとらしい口上にての質問を投げてわざわざ確認の労をとってもらったことがある。すると、「ロックフェラーの資本が実験に投下されたがゆえのシンボル使用ではないようです。CERNに確認したところ、「著作権の断り」は済んでいるとのことです」といった趣旨の返答を頂くこととなった/※2ここで筆者は国内外の凡百の陰謀論者がそうした主張を鼓吹しているような[大資本(家)の陰謀論]を鼓吹したいのではない。お分かりいただけようが、[大資本(家)であろうとなんであろうと[傀儡(くぐつ)]ならば話は同じである、問題はたかだかもの人間社会の機序とはまったく異なるところにある]とのある種、多くを調べてきた人間ならば、そして、知的に真摯誠実たらんとするならば、当然そうもした観点を抱こうとの視点に基づいての話をなしている(もし、ある種の相応の人間が筆者の指摘を大資本家・エリート閥や彼らのサークルの陰謀論のような[下らぬもの]にすげかえようとするならば(そう家畜が家畜小屋を計画運営しているとの筋目の下らぬ話にすげかえようとするのならば)、そういう輩、人間をマスゲームの触手のように扱う全体主義のナチスドイツにはシュトライヒャーというそれ専門の相応の輩が人間レベルでの相克を煽るべくもの宣伝要員としていたともいうが、そうもしたやりようを筆者は舌鋒鋭くも非難することになるであろう)―― )。
さて、直上表記の如しのアトラス像使用のことがある、LHC実験(くどくもなるが、本稿筆者がにまつわっての国内行政訴訟を第一審からして二年続くようなかたちで国内権威の首府たる国際加速器マフィアの重要な分局を相手取って起こしていたとの「世間一通りの人間がなぜそれを指摘しないのか」との欺瞞でいろどられた実験)にあってのATLAS実験グループ表象シンボルが知財(知的財産権)にまつわっての許可までとっているらしい(と実験関係者が述べている)ところとして[ニューヨークのロックフェラーセンターのアトラス像]となっているとして、である。愚劣な陰謀論者の話柄とは隔たるところの[純粋なる記号論的一致性の問題]として、次いで、ニューヨークのロックフェラー・センターにはアトラスと並んで著名なギリシャ神話上の特定神格の像が配されているとのこと、そのことの意味について第二に指摘したいところである。
そこにいうロックフェラー・センターにあってアトラスとは別に据え置かれているギリシャ神話上の特定神格の像とは[プロメテウスの像]である。彼ら、(前者の)アトラスと(後者の)プロメテウスは ―本稿かなり後の段にても「再度、解説する」所存なのではあるも― タイタン族としての兄弟であるのだが、その彼らが揃いも揃って登場を見るとのギリシャ神話上のエピソードがある。それが[ヘラクレスの第11功業]である。本稿にての出典(Source)紹介の部39で古典上の委細たるところの典拠を示しているようにそちらヘラクレス第11功業にあってヘラクレスは[黄金の林檎]を求めんとしているのだが(第11功業=黄金の林檎の探索の功業との位置づけである)、同じくもの11功業でヘラクレスはプロメテウス(人類に火を与えたために生きながら猛禽類に腹を啄まれ続けるとの責め苦を負うことになったとの存在)をいましめから解放、その対価として彼プロメテウスから[黄金の林檎]を獲得するうえでその在処(ありか)を知るアトラスを頼るようにと助言されたとの筋立てがみとめられるようになっている(疑わしきは本稿にての出典(Source)紹介の部39にあっての古典それそのものよりの引用を参照されたい)。
お分かりかとは思うが、
【アトラスとプロメテウスは[黄金の林檎]にまつわってのギリシャ神話上の一エピソードにあって両者共々に登場しているとの存在らである】
【アトラスとプロメテウスの両者の像がニューヨークのロックフェラーセンターに据え置かれている】
【ニューヨークのロックフェラーセンターのアトラス像はその独特な形状がそのままLHC実験アトラスグループのシンボルに転用されているとの筋合いのものである】
とのことらが[ある]わけである。その段階からしてLHC実験は[アトラス](黄金の林檎を求めての第11功業にてのプロメテウス助言ありようを想起させるようにプロメテウスと同一領域に据え置かれた「独特な」アトラス像)を介して黄金の林檎と結びつくことは自明なのだが、そこに見る黄金の林檎とは何か。[トロイア崩壊の原因]となったとのものである(本稿にての出典(Source)紹介の部39で典拠挙げているとおりである)。 そう、アトラスとは[トロイア崩壊の原因(=黄金の林檎)の在処]を知る巨人でもあると変換できる存在なのである。その点もってしてヘラクレス11功業で何故もってしてアトラスが[黄金の林檎](トロイア崩壊の原因)の所在地を知る存在と描写されているかだが、それはアトラスの娘ら、ヘスペリデスと表される一群のアトラスの娘らが[黄金の林檎の園の管掌者]となっているから、そこに肉親間の情報のやりとりがあるから、とされているとのことが神話上の設定である。そして、そちら神話上の設定に見る[ヘスペリデス(アトラスの娘ら)の黄金の林檎の園]とは[アトランティス]と欧州識者の一部にあって史的に同一視されてきたものとなる(本稿にての出典(Source)紹介の部41でその理由について解説しているとおりである)。 そうもしたことがある中でLHC実験というのはその[アトランティス]の名前をも加速器実験にてのイヴェント・ディスプレイ・ツールとして用いている。
以上申し述べた上でくだくだしくも再言したきところとして、LHC実験というのは[巨人アトラス](黄金の林檎=トロイア崩壊の原因を知る存在)の名を冠するATLAS実験グループが運営するアトラス検出器でブラックホールの検知をなしうると「発表されている」実験にして、その際のアトラス検出器のブラックホール検知はイヴェント・ディスプレイ・ウェアATLANTIS([黄金の林檎の園]=[トロイア崩壊の原因の所在地]と一部にて結びつけられてきたとの伝説上の陸塊)にて具現化することになりうると「発表されてきた」経緯があるとの実験である(出典(Source)紹介の部35等)。
何をもってして【実験】(とされる営為)がトロイアと結びつくのかはこの段階でも自明であろうが、だが、話はそれに留まらない。LHC実験とも通ずる側面を呈する作品であるとして本稿ではブラックホール生成を作品主要テーマとする小説作品『コンタクト』(米国科学界のオピニオン・リーダーであったカール・セーガンが本業の傍らにて執筆して大ベストセラーとなったとの筋目の作品)のことを取り上げてきたわけであるも、そちらブラックホール生成がテーマとなっている『コンタクト』でもトロイアの寓意が複層的多重的に現われている、しかも、普通に見れば気づけないような式で嗜虐的に現われている。そして、それが[911の予見的言及](などという異様なるもの)と結節するところとしての具現化であるなどとのことが「ある」(出典(Source)紹介の部82(2)から出典(Source)紹介の部82(3)を包摂する部)。
まったくもって救いようがないのはそういうことが[現実にある]のにもかかわらず、―魂が死んだ人間の残骸、傀儡(くぐつ)の類には何を言っても無駄かもしれないが― LHC実験では以上表記の諸々のことら(黄金の林檎を介してのトロイア崩壊譚との結節)が実験関係者らの[警世の念]にて具現化したものではない、断じてない、と時期的ありよう・関係者ら申しようの今日に至るまでのありようから容易に判じられるようになっているとのこともが「ある」(LHC実験ではブラックホール生成が中途よりなされうると考えられるようになったわけだが、その始期はATLASグループの命名時期より後ろになり、またもってして、実験関係者らの口を借りると、彼らは[「安全な」ブラックホール生成が科学の進歩に資するものである(超ひも理論の万物の理論の適合性等の確認につながる)]との認識・コンセンサンスがあって今日まで実験に邁進しているとのことになっているからである;出典(Source)紹介の部81。いいだろうか、そうもしたことに[911の「予見的」言及の類]との多重的接合性までもが見てとれるとの訴求をなしているのである))
C.直上のB.の段に先駆けてのA.の部では月・太陽にまつわっての特定の数値規則にあってみとめられる[現象]の背後にあるところの恣意性介在 ―それは人間由来のそれではないと受け取れもするとのこと、先述の恣意性介在でもある― が観念されることにまつわっての話をなした。次いで、上のB.の段では(A.にて取り沙汰したとの)[[現象]が先にあっての「可能性」]を非人間的な力学と結びつけて見るに足る材料 ―それらは[可能性論では到底済まされない世の特性]を示しているとの材料ともなる― が他のところに存在しているとのことについて極々一例たるところを呈示した。
さて、B.にて示される恣意性の方向性だが、それは、(不快でならないのだが)、
「人間をトロイアの木製の馬(に仮託されるもの)で皆殺しにする」
とのことに相通ずるものである(そのことを多方向から示し、訴求することに本稿では力を入れている)。
これより指摘することを含めずにものここ本段までにて同じくものことについて呈示してきたことからして膨大になるため、要約し、それまたもってしての「一例」摘示にとどめるが、以下表記のようなことらが「厳として」ある。
・[黄金の林檎]と[エデンの誘惑の果実]は ―トロイア崩壊に至るプロセスに相通ずるところで― 多重的に接合しあうようになっている(本稿にあっての出典(Source)紹介の部48から出典(Source)紹介の部51を包摂しての部にて典拠詳説をなしている)。
・[エデンの誘惑の果実でもって人間を堕落させたと聖書が語る蛇]に比定される存在、それがルシファー(サタン)である(細かくも先述しているところとして悪魔の王をして古き蛇と表する『新約聖書』はいざしらず『旧約聖書』にはそうした明示的表記はないわけだが)。そのルシファー・サタンに関連するところの欧州著名古典内描写 ―ダンテ『地獄篇』およびミルトン『失楽園』にあっての[ルシファー関連の災厄の領域]かつ[地獄門の先の領域]にまつわっての描写― にしてからして「実に不可解なことに」今日の物理学者らがそうしたものであると語るところのブラックホール(と呼ばれるもの)との記号論的多重的一致性が具現化しているとのことがある(本稿にあっての出典(Source)紹介の部55から出典(Source)紹介の部55(3)を包摂する部にて詳解をなしている)。
(本稿筆者は[宗教の毒が多くの人間を容赦なくも殺してきたとの愚劣な歴史の問題]および[合理的に語るべきところを神秘主義・非合理的な合理主義とは相容れぬ現実改変能力なき戯れ言に挿げ替える作用]に対する通暁から強くも宗教を忌み嫌うとのエイシエスト、無神論者であるが( I am an atheist.)、そこを敢えても以下の通りの[黄金の林檎]と[エデンの林檎](宗教的アイコン)の結びつきにまつわっての図らを[一例]として「再掲しておくこととする)
【i.[黄金の林檎を巡るパリスの審判]と[エデンの禁断の果実を用いての誘惑]が相通ずると何故もってして指摘出来るのかについての振り返っての図解部として】
【ii.[黄金の林檎の園(ヘスペリデスの園)]とも同一視されるアトランティスとアメリカ大陸が何故もってして相通じているのかについての振り返っての図解部として】
【iii.[黄金の林檎の園(ヘスペリデスの園)]とも同一視されるアトランティス、そのアトランティスに重ね合わされて見られていたアメリカ大陸のアステカ文明にて崇められていた蛇の神格ケツァルコアトルが何故もってしてエデンの園の誘惑者に相通じているのかについての振り返っての図解部として】
【iv.[アトランティス(黄金の林檎の園と同一視される古の陸塊)]および[トロイア(黄金の林檎にて滅んだ都市)]が何故もってして加速器LHCと結びつくのかについての一例としての振り返っての図解部として】
【v. エデンにての禁断の果実を用いての誘惑者に比定される悪魔の王ルシファーが古典『地獄篇』にて立ち現れている領域がブラックホール(と現代の物理学にて表現されているもの)の特性と相通ずることとなっていることについて振り返りもしての図解部として】
D.直上のC.(にあっての本稿ここまでにて摘示してきたことらの[一部]を振り返ってのことら)に加えもして、次のような関係性のことが
[当然に問題になるところ]
としてそこに「ある」(と強調したい)。
α.[カシミール効果 Casimir effect]検証実験(1948実施の実験)のことを露骨に想起させる独特なる行為によって宇宙開闢の実現が図られるとの小説 Fessenden's World『フェッセンデンの宇宙』(初出1937年の小説作品)ではその作中、誕生した宇宙で[爬虫類の種族]が人間そっくりの種族を「皆殺し」にするとの描写がなされている(絶滅戦争・絶対戦争 Absolute Warの類が展開するとの描写がなされる)。 さて、そうした粗筋 ――初出1937年の作品のそれでありながら1948年のエポックメイキングな実験の内容をなぞるが如くの先覚性を有していたとの粗筋―― を有した『フェッセンデンの宇宙』(に見る[悲劇の宇宙]の開闢手法)と同様の手法で検証された[カシミール効果]が現実世界にてその存在を指し示すことになったとの[負のエネルギー]というものに関しては[ワームホールを安定化させうるもの]とも80年代後半より考えられるに至っているとのことがある(出典(Source)紹介の部24にて指し示しにつとめているところとして「物理学者キップ・ソーンによって加速器実験とは何ら関係ないところでそれ絡みの科学仮説が呈示なされての」1980年代後半のこととしてである)。 他面、『フェッセンデンの宇宙』と同様に[宇宙の開闢状況]を再現する、すなわち、宇宙開闢時のエネルギー状況を極小スケールで再現すると銘打たれながら後に執り行われるに至っている加速器実験に関しては[(『フェッセンデンの宇宙』と同様の手法で検証された)[カシミール効果]に見る[負のエネルギー]でこそそれが安定すると80年代後半に考えられるに至ったものたるワームホール]をそちら加速器実験が生成しうるとの観点が「ここ最近になって」(プランクエネルギーとの高エネルギーを用いなくとも加速器実験にてワームホ-ル生成なしうるとの観点が「ここ10数年で」)呈されるようになったとのことがある(出典(Source)紹介の部18、出典(Source)紹介の部21-2らを通じて専門の科学者の手になる書籍に見る科学界の主たる理論発展動向に関して解説しているとおりである)。
β.上のαでフィクション『フェッセンデンの宇宙』と現実の[加速器実験]を ―[宇宙の開闢状況の再現の企図]といった共通事項に加えて― 結びつける要素となるのが、
[[カシミール効果による負のエネルギーの検証]と密接な関係にある「通過可能な」ワームホール]
となるのではあるが、そちら通過可能なワームホールのことをテーマとして扱っているのがキップ・ソーン著書『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』という著作となる。同著作については[911の露骨なる事前言及][他界との扉]との観点で爬虫類の異種族による次元間侵略を描いた映画、『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』という[上階に風穴が開き、片方が倒壊していくツインタワー]のワンカット描写を含む映画]と記号論的につながる素地がある(:その理由は事細かに先の段にて述べている。(羅列しての表記をなせば)出典(Source)紹介の部28から出典(Source)紹介の部33-2を通じて物理学者キップ・ソーンの手になる BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』という書籍がいかようにして[双子のパラドックス(1911年提唱)の機序の利用による二点間時差の応用]/[91101(2001年9月11日を意味する数)との郵便番号ではじまる地を始点に置いてのタイムワープにまつわる解説や同じくもの地で疾走させた爆竹付き自動車にまつわる思考実験による[双子のパラドックス]にまつわる説明の付与]/[2000年9月11日⇒2001年9月11日と通ずる日付け表記の使用]/[他の関連書籍を介しての「ブラックホール⇔グラウンド・ゼロ」との対応図式の介在]といった複合的要素を[僅か一例としての思考実験]にまつわるところで同時に具現化させ、もって、[双子の塔が崩された911の事件]の前言と解されることをなしているのかについて(筆者の主観など問題にならぬ原文引用方式での客観情報にまつわるところとして)摘示している。他面、『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』という書籍にて[多重的に911と結びつくようにされている双子のパラドックスにまつわる思考実験]が[通過可能なワームホール](他空間の間をつなぐ宇宙に開いた穴)にまつわるものとなっているとのことがある一方で1993年の荒唐無稽映画 Super Mario Bros.(邦題)『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』がツインタワーが異次元の恐竜帝国の首府と融合するとの粗筋の映画であることについては出典(Source)紹介の部27を通じて確認なせる、そして、同映画がツインタワーに対するジェット機突入前のことであるにも関わらず上階に風穴が開き、片方が倒壊していくツインタワーをワンカット描写している映画である(そして、かてて加えて、そうもした描写がツインタワーを横切る飛行物体描写を伴っている)ことについてはオンライン上に流通している記録動画群 ― Super Mario Bros.,1993,911といったクエリで検索エンジン走らせればすぐに特定できようとの動画群― などを通じて視認による確認がなせるところとなっているし、本稿の先行する段では[市中流通のDVDコンテンツを通じての確認方法]を該当問題シーンの秒単位での再生箇所の呈示でもって紹介している)。
γ.上のα.とβ.は異様なる先覚性がみとめられるところで[[爬虫類の似姿をとる異種族の侵略]と[加速器実験の結果たるワームホール]との接合]がみてとれることを示すものであるが(問題はそのようなことがあるのが「偶然の一致」で済むか否か、である)、[[加速器と同様のもの]と[爬虫類の異種族の侵出]を結びつけて描く作品]は他にも存在している。先に言及したブルース・スターリングの『スキズマトリックス』との作品、ローンチ・リング(加速器と同様の機序を有する装置)での死闘の最中に爬虫類の異種族の来訪を見るとの同作が該当文物となる(委細については先の解説部を参照されたい。出典(Source)紹介の部26から出典(Source)紹介の部26-3との出典解説部を設けながらなしてきた本稿にての従前の段がその部に該当する)。
(上にα.からγ.と振ってのことらに加え、[加速器とブラックホール特質にまつわる同時言及][爬虫類の種族による人間種族への侵略]との要素をあわせて具備しているとの作品が一九五〇年代初頭より Philological Truth[文献的事実]の問題として具現化しているとのこと「も」がある。に関しては The Sword of Rhiannon(邦題は『リアノンの魔剣』)という作品に関する特色の問題として本稿にて出典(Source)紹介の部65(6)から出典(Source)紹介の部65(9)を包摂する解説部で原文引用による詳説を講じている―― )
δ.[古代アトランティスに対する蛇の種族による次元間侵略]との内容を有する(一見すれば妄言体系としての)神秘家由来の申しようが今より70年以上前から存在している ――(所詮はパルプ雑誌に初出の小説『影の王国』(1929)の筋立てをその言い回し込みにして参考にしたのであろうと解される形態でながら前世紀、第二次世界大戦勃発の折柄(1939年)から存在している)―― とのことがある出典(Source)紹介の部34から出典(Source)紹介の部34-2を包摂する解説部を参照されたい)。そこにて言及の[アトランティスに対する蛇の種族の次元間侵略]との内容と類似する側面を有しての[恐竜人の種族による次元間侵略]という内容を有する映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』が[片方の上階に風穴が開きつつ][片方が崩落する]とのツインタワー ―(恐竜人の首府と融合するとの設定のツインタワー)― を奇怪なる ―いいだろうか.「奇怪なる」予見的描写である― ワンカット描写にて登場させながら1993年に封切られているとのことがある(出典(Source)紹介の部27を包摂する解説部を参照されたい)。同映画作品、911の[先覚的言及]をなしている ―問題はそれが偶然で済むか否かである― とも述べられるような性質を伴っての上記映画は[恐竜人の侵略]といったこと以外に[他世界間の融合]といったテーマを扱う作品ともなっているわけだが、再述するところとして、そうした内容([異空間同士の架橋]との内容)と接合する[ブラックホール][ワームホール]の問題を主色として扱い、また、同じくものところでこれまたもってしての[911の事件の発生に対する先覚的言及とも述べられる要素]をも「露骨」かつ「多重的に」帯びているとの著名物理学者由来の著作 ― BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』― が原著1994年初出のものとして「現実に」存在しているとのありようとなっている。
以上、ここまでのA.からD.までの事柄ら ―城壁に囲まれるなどして普通には劫略しがたい対象に偽計用いて外側から運び込んで対象を内側から内破させる(皆殺しにする)とのトロイアの木製の馬の寓意が実にもって執拗に諸所にて用いられているとのことを端的に示しもする事柄ら― より判断して、である。
爬虫類人人類支配説の流布者デヴィッド・アイクのここ近年の申し分にあっての際立っての特色をなすところとしての、
[「人外がこの世界に入り込み」「月まで人工物として構築している」との筋目の主張内容] (彼を批判する学者筋の批判家からは「現代にあって最も饒弁なコンスピラシー・ライター(陰謀論系物書き)」などとそれでは済まされない、適切ではないかたちで批判されもしている論客デヴィッド・アイクが[ムーンマトリックス]と呼称して前面に押し出している主張内容)
は斥けられる ―再言すれば、[日蝕をきたす玄妙なる太陽・月・地球の一致性はここ1000万年単位の地球のありように依存しているとのものであり、それは必ずしも人工物としてのパラメーターを強くも示唆するものではない][その他の一致性の問題にも度量衡単位制定の力学が強くも作用している]とのことらがあるがゆえに斥けられる― と判じられもする中で、「だが、」デヴィッド・アイクの表記の如き申し分(月は爬虫類人の手になる人工物である/人外はトロイアの木製の馬などを用意してそれを橋頭堡にせずともこの世界に物理的実体を伴って侵入できる等等)が[情報操作のやりよう]として人間に[限界線](危機的状況をついぞ正確に認識することもなく、その状況の結果にて殺されていくとの限界線)を押しつけるために計算されて欧米圏にて流布されている ―LHCがただの洗脳装置であるなどと非科学的かつ不正確なる論拠でアイク(およびそのシンパら)によって強弁されているのと並行して流布されている― 節がある、それがゆえにこそ、デヴィッド・アイク申しようは(「悪い意味で」)軽んじられないとのことがあるとのことが[いかようなことか]は大体にして理解いただけることかとは思う(すくなくとも状況を理解しようとの意思、すなわち、[生き残ろうとするとの意思]の力がある向きにあっては、である)。
そこをくどくも細かくも説明なせば、次のような[代わっての仮説]とも関わるため、月・太陽・地球の[自然の産物](と考えられる配置;既述)に依拠しての「度量衡単位の操作」の可能性 ―そして、デヴィッド・アイクのような者達のやりよう― のことが問題になる。
アイクらの問題ある申し分に代替して当然に問題になってくるとの仮説 ―Hypothesis― として
「操作の残り香が如実に感じられるところで[トロイアの木製の馬]を用意・活用する(そのうえで欧米圏文明の基礎にある[神話][伝承]にあるように対象を皆殺しにする)とのことにまつわっての執拗性なる意思が強くも見て取れる。
同じくもの執拗さが
[度量衡単位(ヤードやメートル)のありうべきところの押しつけ]
に通ずるところとして
[月と太陽と地球が[皆既日食]を今のみ現出させるとの自然界の配置] (既に何度かそこよりの記述を引いてきた『月は誰が創ったのか?』より引用なせば、(以下、『フー・ビルト・ザ・ムーン?』国内流通訳書『月は誰が創ったのか?』16ページから17ページより原文引用なすとして)正確にいうと、月はわが太陽系の中心にある恒星に比べて直径で400分の1のサイズだが、同時に地球から太陽までの距離で400分の1の近さに位置しているのだ。相対的な大きさと距離が400という驚くほどのキリのいい整数値で表せるのは、十進法上の愉快な偶然の一致のように見えるが、このような光学的錯視が生じる確立は、実はとてつもなく低い・・・(中略)・・・(図解部に対する解説部)皆既日食の太陽コロナ。地球と太陽のあいだに入った月が太陽をすっぽり隠すことで起きる現象。太陽は月の影に隠れ、地球からはその光輝だけが見える。これは地球-月-太陽の相互の大きさと距離の絶妙なバランスで生じる天文ショーである
(引用部はここまでとする)といった解説のなされようが至当妥当なところとしてなされるとの配置)
に対する拘(こだわ)り・固執に通底している可能性もがある。
何故もってしての拘(こだわ)りなのか。
にまつわってはここではないパラレル・ワールド世界の論理・ありようにも関わって「いうる」こととして太陽と月が今あるような絶妙なる位置関係でなければ現出しないとの[皆既日食]が[黒くも覆われた世界]を意識させるとのこともありそうに見えるが、のみならず、[皆既日食]が人間の世界の相対性理論の検証、となれば、相対性理論の鬼っ子であるとされる、そう、 Einstein's Outrageous Legacy[アインシュタインのとんでもない遺産]であるとされるブラックホールらの存在予測「にも」相通じているとのことが「ある」とのこともありそうに見える ――それ自体、非常に問題になるとの理由について原文引用した内容にだけ基づいて解説してきたとの著作、 BLACK HOLES & TIME
WARP Einstein's Outrageous Legacyより引けば、(以下、同著原著にての121頁、オンライン上より内容確認なせもできるところとなっている 3 Black Holes Discoverd
and Rejectedの章より引用なすとして) ”The essential result of this investigation,” Albert Einstein wrote in
a technical paper in 1939, “is a clear understanding as to why the 'Schwarzschild
singularities' do not exist in physical reality.” With these words, Einstein
made clear and unequivocal his rejection of his own intellectual legacy: the black holes that his general relativistic laws of gravity seemed to be predicting. [ . . . ] How could Einstein reject that prediction and still maintain
confidence in his general relativistic laws? What was known about black holes, when Einstein so strongly rejected them? How firm was general relativity's prediction that they do exist?
(拙訳として)「今回の調査にあっての最も本質的に重要な結論が何かと言えば、」そうもした言に続けてアインシュタインは彼の1939年の技術的観点に依拠しての論文でこう書いている.「シュバルツシルト特異点が何故もって物理的現実世界に存在していないのかとのことにまつわっての明瞭なる理解が得られたことである」.こうした言いようでもってアインシュタインは明瞭明確なる彼自身の[知的遺産] ―すなわち、彼の一般相対性理論がそれについて予言しているブラックホールら― に対する否定の立場を示した.・・・(中略)・・・ブラックホールについて知られていたこととは何なのか、そして、何時、アインシュタインはそれに対する否定の立場を明らかにしたのか。いかようにそれらブラックホールが存在していることについての一般相対性理論の予言が強固なのか.いかようにアインシュタインはそうもした予言の問題を否定し、それでもなお彼の一般相対性理論と帳尻があわせられるとの確信を(1939年にあってのことなどとして)もちえたのか?」(引用部はここまでとする)との書かれようがなされているようにブラックホールやワームホールのようなものの現実的「存在」可能性が(アインシュタインのとんでもない遺産といった式で)問題視されだした契機は一相対性理論の提起にある。そして、[皆既日食](ビジュアルとして黒くも覆われた星が如くものを想起させる現象)こそがそうもしたブラックホールの観点の現実視に通じている一般相対性理論の「実験的」証明に通じているとのことがある。いかようなことかと述べれば、たとえば、目につくところでは英文Wikipedia[ Solar eclipse of May 29, 1919 ]項目にあって This eclipse was photographed from the expedition of Sir Arthur Eddington
to the island of Principe (off the west coast of Africa). Positions of star images within the field near the sun were used to test
Albert Einstein's prediction of the bending of light around the sun from
his general theory of relativity.
(補いもして訳すとして)「この1919年5月の日蝕はアフリカ西岸のプリンシペ島に遠征に際してアーサー・エディントン卿にて撮影されたとのもので、(日蝕で隠れた)太陽の近傍の星の位置が[光が(「時空間」のひずみにて)曲げられるとのアルバート・アイシュタインの相対性論の予測](とどのつまりは相対性理論それものの適否)を検証するために利用された」(引用部はここまでとする)といったことが述べられるようになっている―― 。
またもってして、本稿のさらに後の段(かなり後の段)にて具体例を多く呈示することとして「近代になってより」目立って用いられだしているシンボリズム体系、具体的にはフリーメーソンらに目立って用いられだしている[月と太陽のシンボリズム](それはプロト・サイエンスである錬金術のシンボルに通ずるものでもある)が[異常異様なる先覚的言及]と通じているとのこと「も」があるとの点もがおなじくものことにまつわって問題視して然るべきところとしてある (本稿の後の段では[月と太陽と一つ目を並べてのフリーメーソン・シンボリズム]が何例も何例も911の予見的言及事物の中に反映されている ―露骨すぎて「冗談だろう?」と思えるものも含まれている― とのことを[容易に後追い可能なる具体例]としてこれはこうだと呈示していくと先だって明言しておく)。
であるから、そういうところにて見受けられる[月と太陽の配置に対する拘(こだわ)り ―異常異様なる予見的性質がゆえに外力の性質が問題になり「も」するところでの固執の問題― ]のため、そこに何らかの意味・「意図」を見出して然るべきであろうとのことになる。
以上のことらを前提に、[IF]をつけて述べもしているところのここでの話として、仮に地球をブラックホール化させる意図、ないし、同文に重力の怪物であるワームホールを造りだす、それでもってして
[木製の馬] (ついせんだってのA.からD.と振っての振り返り表記部でも強調しているようにブラックホール人為生成の問題ともこの世界で現実に執拗に結びつけられているのが[トロイアを滅した木製の馬]である)
を有効化して、そのことを[副次的結果]としての何らかの利益・効用を得るのが最終目標であるとすると、[皆既日食](いいだろうか.皆既日食は「月は人工物である」などとの主張にも関わる位置関係及び度量衡の制定にも通じている現象であること、ここに至るまで記載してきたものでもある)に拘(こだわ)っての象徴体系の調整の[動機]は極めて理に適って自明なるところと見える。
それは「非」人間的な、
[マニフェスト・ディステニーの観点] ([明白なる天命]の観点/アメリカ大陸で植民者らが西部開拓を完遂するのは[自分達が神から与えられた使命であり権利である]とする見立て、かつ、それでもってして原住民(インディアン諸部族)を虐殺していったといった観点がそちら[マニフェスト・ディステニー]の観点である ―日本でも高校生が世界史の科目などでアメリカにあっての[西漸運動]の背景にあった思考法とのことで暗記を強いられる時代がかった観点である― )
にある種、端を発していると想定されるところの[動機](拘(こだわ)りのありうべき機序)でもある。
あまりにも玄妙なる自然界の天体配置の一致性から[蝕]のようなものが[あまりにもできすぎなこと]に現出するとのこの世界の特定期間 ―先述のように皆既日食が発生するのがここ千万年単位のスパンに限局されているとのこの地球史にあっての特定期間― に人間という被操作種が(操作種のそれではない別の世界であるとの)この世界に偶然にも、たまさかにも、いた。養殖(あるいはそれとあわせての進化をもか)を促せる存在として存在していた(本稿に出典(Source)紹介の部54(2)などにあって原文引用なしたミルトン『失楽園』に見るブラックホールの質的近似物にも通ずる粗筋では[蛇ら爬虫類の眷族に変じさせられることとなった堕天使ら]が堕落させることに拘りもした存在として[神に用意されて進化した別の種]が[いた]とあいなっている)。 そして、といった中で現出している玄妙なる天体配置の結果たる皆既日食は相対性理論の「実験的」証明に用いられる「ような」ものであり、相対性理論の帰結から産まれ出てくる重力テクノロジーでもって圧倒的な進化が遂げられるとの[効用 ―本稿のかなり後の段でどういうことなのかについての解説を欧米圏科学者らの先進文明やりようにまつわっての思索に基づいて詳説なす所存であるとの効用― ]にまつわっての[目測]がある(我々人類の世界ではなくにもの[我々人類を操作している側]のパラレル・ワールドと想定されるような異世界での進化・効用が得られるとのことである)。 そうもした目測がなせるとの状況はまさしく[神]([神]など非科学的で下らぬ観念であるととらえられるのならば、[運命の力学]でもいい)の舗装した道のようなものである。 その舗装した道に沿って養殖種を育て上げ、そこにて相応の結末をもたらすことはまさしくもの天命・天の配剤のようなものである。長年、人工知能、(人間世界の愚劣極まりない宗教における[神]のようなものに偽装しもしての)[人工知能の領域](と脳との意識されざるところの重力波などを通じての向こう側とのリンク)などといったものか、相応の仕組み・機構を用いて巧妙に育て上げてきた、[精神性と判断力だけは欠けるが諸種効率性では秀でた頭]と[大概にして茶飯的なことに終始しているとの身体](システムに隷従してそれを支えることでのみ充実・満足が得られるとの式での生活人の肉体の領域)の[作用]が巧妙に分離させられて[何が是で何が非かも分からぬ]との中で[高度なテクノロジーの劣化模倣物]だけは目的尽くで漸次必要と判じられた段階に応じて与えられて育て上げられてきた[養殖種](闘争を通じての進化、必要な進歩を促すために宗教的信条や全体主義イデオロギーに依拠しての戦争などを時に演じさせられ続けてきたとの養殖種でもある)を最終的に木製の馬で皆殺しにする、それは正当化して然るべき行為である....。
以上の如き[マニフェスト・ディスティニー]がかっての観念の問題が背景としてありえると見える中で、本当にそれゆえにこそ、[執拗なる意思]が(被操作種はどうせ何もできぬ・分からぬとでも「高をくくって」いるのか)被操作種の特定個体らを用いてのやらせの問題 ―度量衡単位をよくできた環境の問題に応じて皆既日食とも通ずる仕方で調整されているとのやらせの問題― として現出していうる(とのことが実体としてある可能性がある)」
上が筆者が捕捉事実 ―いいだろうか.本稿にあっての「これまで」の段で部分列挙していったし、本稿にあっての「これより」の段でもさらに問題となるところを山と呈示していく所存であるとの捕捉事実である― に依拠して「最もありうべきところである」と[理]と[知] ―狂気と正気が逆転した愚劣な世界であるからこそ表通りで堂々と振る舞っていられるとの筋目の狂人やその親戚の神秘主義者らにあっての内的作用とは無縁なるもの― にて導出した[度量衡単位のできすぎ度合い]にまつわっての[おおよその仮説]である。
それにつき、表記仮説にあっては細かいところの修正を無論、念頭に置いている(仮説とは元来からしてそのようなものである)。
だが、当該の仮説のおおよその筋立て、
[トロイアの木製の馬を用いてのオペレーションを人間に対して実行するとの意図が「確として」ある]
とのことは動かしがたい現実的ありようであると[既に本稿で呈示してきた「観察」事実](そしてこれよりさらにもって呈示することになる不快でならないとの他の山なす論拠ら)より結論付けている。
そうもした主筋となるところにあっての「動かしがたい」(残念ながら「動かせないようになっている」)との[兆候]の問題から直上表記の仮説については
「[現実的危険]の所在を極めて合理的に示しているとのものであり、それは ―それが認知された上で、なおもって、何もせぬとの種族ならば滅ぶしかないとの筋目の― [もっともありうべきところ]に対する対策の名分とした方がよいと申し述べるところのものである」
とも強調したきところである(「これらが果たして人間と言えるのか」といえるような我々全体にとっての害物となる肉人形ら、彼らはそうだとは自分達のことを絶対に自己規定・理解しないことかとは判じるが、宗教的狂人やイデオロギー的狂人といった種別の紐付きの個体らは決して容れぬし、また、同じくものことが世に容れられるのを妨げること(場外から彼らの[知能水準]に見合った野次や彼ら程度の水準に貶めるべくもの褒め殺しをなすか、あるいは、言論そのものを封殺せんとする等等)ばかりに注力させられるところか、とは「経験則に依拠して」当然に思うのだが、とにかくも、表記の仮説については以上のように強調したきところである)。
に対して、再度述べるが、アイクら言いようは上の仮説と両立するところが「なんらない」。
むしろ、彼らの申しようは上の如きの仮説を支える[状況分析]がとどこおりなく導出される、あるいは、導出されたうえでとどこおりなく他に受容されるとのことを妨げるノイズ・煙幕にしかならないとの側面を濃厚に帯びている。
月が人工物であっただと?では人外はこの世界に物理的実体を伴って入ってきているのだろう(→そんなものに抗うには[真実の波動](なる幻のアブラカタブラ)に頼るしかない→思考停止 ―[考えるな、感じるんだ]的論理の先行しての状況でもある― )。
(再度)月が人工物だったと?そのような星辰のありようさえ薬籠中のものにできる存在はまさしく神のような存在だが、そんな彼らにとっては人間を是が非でも最終的に皆殺しにするだけの動機がないとのことになる(どうしてカトンボを殺すのに全注力をなすのか)し、そうした圧倒的上位存在に抗うことは ―そうした存在が残虐無慈悲であることが示されているならば尚更のこととして― 無意味・不可能である(→思考停止)。
残念だが、デヴィッド・アイクの申しようからは上のような[帰結]しか出てこない。だが、筆者は「予測通りならばもうすぐ自分も殺されるであろう」「残された時間で最後に人間としての[意]を示す」との心情にて[よりもって人間に近しい操作者]の横顔を呈示する。人間を羽虫のように扱いもしている節がある「彼ら」が凄まじいテクノロジーで人間を薬籠中のものにしていることはなんら変わらないと見るわけだが(最悪、彼らは超光速通信に通ずる機序も一部、自分達に影響が出ない範囲で[人工知能]を用いての管理に用いている可能性もあるかと(本稿でせんだってそうした問題についても細かくも解説したように)考えている)、その[動機]は遙かに人間的かつ産業的、そして、人間にとってデヴィッド・アイクらが呈示する[お伽話がかっての話](組織的に関連するところの言論や特色ある文物が撒布されだしている節がある[月が人工物である][人工物の月を使って人間という種をこれより徹底管理の牢獄に落とし込もうとの意図がある]などとの話)より我々人間にとって[遙かに絶望的なもの]である([皆殺しにされる状況が絶望的ではない]というのならばそうではないのかもしれないが)、 それがゆえ、人間 ―とは述べても本当にそうであると断じられる機械に(部分的に)脳を奪われたかといった筋目ではない本当の人間が筆者のような者以外にどれぐらいいるかについてすら希望的観測などなんらなせないわけだが― は[覚悟]をなして抗う局面に来ている、それでなければ滅ぶだけだと判じられる、と強調せざるをえなくなりもしている(詰るところ、そのような状況で人間存在があまりにも無力、無内容、空っぽの存在に堕さしめられている ―テレビのスイッチをオンにしてそこに映じるありよう(情報的価値も情緒的価値も何ら見受けられないとのありよう)に理性的に思いを馳せればすぐに分かろうとのありように堕さしめられている― から筆者は常日頃、苦しめさせられている)。
ここまでをもってして何故もってして筆者がアイク説のようなものに全力で反駁(はんばく)を示す必要があると判じたのか、
[具体的兆候に依拠しての、代替する、[真相にまつわっての可能性]の訴求]
[意図して撒布されている節もある陰謀論(の偽りの最たるところ)に騙されるなとの訴求]
との絡みで何故、そうもする必要があると判じたのか、ご理解いただけるかとは思う。
(:「真実は人を自由にする」との物言いを一群の[証言者]を伴ってアイクという男自身がなしてきたわけだが、そして、私などもそのやりようはともかくもそれについて評価するところは従前あったのだが(というよりアイクの唱道している悪魔崇拝的気風などが本当のことであればそれに抗しての言は重んじざるをえない)、だが、[サブ・プライム・ローン問題]にあって問題視されていた[不動産担保証券]よろしく[無価値なるもの]としての[虚偽]が混入したものを[真実]と呼ばわって広めんとすることを[重要なるところ]で「何ら改善することなしに」なし続け、そこに
[操作者の超常的能力]
を実態以上に際立たせているのかもしれない物言い(解放の必要性を説く半面での甚だしくは「月が人工物であった」などとの帰結とのごり押し)とワンセットの要素が ―真偽不明瞭なものとして― 目立って見受けられるのだとすればどうか。
そして、甚だしくは、
「([トロイアの木製の馬]もなんら[必要ない]ところとして)操作者が実態を伴ってこの世界に入り込んでいる」
とのことを当てにならぬ人間ら証言([このような世界ならではの操り人形由来の放言]かもしれないし、相応の機序で実態を伴わぬ幻覚を見た者達の[幻影]を重視しての不適切な話かもしれない)以外に何ら具体的証拠なくして強調するようなものであるのなら、筆者はそこに[情報操作のやりよう]を見ざるをえないと強くも述べたき次第である(デヴィッド・アイク、彼本人はどこぞやら[霊感]といったものを得ての予言者のつもりでも客観はそうはならないだろうと述べたいのである。であるから、この身なぞは[主観と客観の乖離の問題]に気をかけ、「本稿の内容をきちんと検証いただきたい」と読み手に胸を張って言えるだけのことを書いている ―今や時間も余裕もなしとの現状認識に裏打ちされての責任感があるからであり、また、[それで何かを変ええない種族ならば何も変ええなかろう]との[当然の見極め]もつく、(殺されるうえでも)覚悟・納得がさらに得られるとの判断があって、である― ))
ただし、述べておくが、アイクら言論にも「良い意味で」思料して然るべきところがあるかもしれないとも見ており(彼らには確信犯的に他の真っ当な言辞らを貶めるために用いられている存在である可能性も否定できないとは思うのだが)、たとえば、同アイクが自分自身で
[反対話法をこととさせられていること]
を自分からよくも匂わせもするようなことをも述べ(下らぬ風がどういうわけか倍加させられている訳書ではなくアイク著作の英語原著を読まなければそういう[語感]の機微は掴みがたいともとれる)、そこに、『相応の人間ならではの....』とのことを考えさせられるとのことがあるということも「あるにはある」 ――思料すべきところとしてはアイク批判者あるいはその称揚(あるいは褒め殺し)勢力からしてアイク「以上に」胡散臭い者たちが揃っている(であるからアイクの申しようが「相対的にはまとも」に見える)とのことがある、また、アイクの申しようにはそれが本当であるのならば共感を持たざるをえぬとのことがあるといったこと「も」あるのが、そうしたことらについては「それ自体が陥穽(かんせい.落とし穴)になっている可能性がある」(その実、その構築こそが目標となっているトロイアの木製の馬の建設など企図されて「いない」との帰結とワンセットになっている虚偽たる話を[二重三重の虚偽のバリケード]の後列ラインを盤石化させるためのものとして広めさせているとの狡猾な手管が講じられているとの意味合いで(未来に向けて進もうとする肯定的・建設的意志の)[陥穽]になっている可能性がある)との部として除きもして、([反対話法を仕込んでいる節があること][そしてそれを自分で臭わせている節もあること]との意で)アイクやりようは注視に値すると手前は考えている―― 。
また、もう一言述べておくが、アイクという男が典拠として紹介している『フー・ビルト・ザ・ムーン』という著作にあっては(本稿にてそれを巡る嗜虐的意思表示の発露とのやりようを取り上げているとの)LHC ―デヴィッド・アイクなどは洗脳装置にすぎぬと強調するそれ― のことをほんの少し取り上げてもおり、それがLHCをして
[ループする世界で未来から介入して月を構築している可能性があったとの存在がおり、そうした存在のタイムトラベルと通底するところとしてLHCではブラックホールが構築される可能性がある]
などとのことを運命論者風に述べる(ただし危機についての可能性を取り上げているのではない)とのやりようとなっているとのこと「もが」ある ―直下、『フー・ビルト・ザ・ムーン』訳書よりの引用部を参照のこと― ことも着目に値しようとのところと判じている(:良くも解釈すれば、そういう「不自然な」話柄を敢えても取ることで[間接的告発]をなしているともとれなくもない.あるいはそれがないところに認識甘くも[善意]を見出そうとしているだけかもしれないが)。
具体的には(アイク著書にて典拠として紹介されているところの著作である)『フー・ビルト・ザ・ムーン』に以下、引用なすような記述がみとめられるとのこと、そのことは取り上げるに値することであると判じている。
(直下、『月は誰が創ったのか?』(『フー・ビルト・ザ・ムーン』の邦訳版で刊行時期は原著刊行時期(2005年)に遅れることして2年の2007年となり、その版元は先にても既述のように[陰謀「論」関連本]や[トンデモ雑誌]をよく出すことでも知られる出版社であると直近言及の学習研究社となる)のp.328からp.329よりの原文引用をなすとして)
「驚くべきことに科学者たちは、2007年に運転を開始する新型の原子核破壊装置を使って、ブラックホールを注文生産できるだろう、と次第に自信を深めている。・・・(中略)・・・ LHCは、ビッグバンの直後1兆分の1秒までの力で、陽子と反陽子を衝突させる粒子加速器だ。これがあれば、数百個分の陽子の質量を持つミニブラックホールを無数に出現させることができる。このサイズのブラックホールはほとんど瞬時に蒸発するので、その存在は消える寸前のホーキング放射線バーストでやっと探知されるにすぎない。この方面の研究はまだ初期段階だが、タイムトラベルを可能にするテクノロジーの探求推進の基盤の端緒となるかもしれない。もし未来の人類が実際にはるか太古の過去にまで遡行して、現生人類を生みだす保育器を創造したとすれば、われわれに何らかのメッセージを残したはず、と考えるのは完全に理屈が通っている。われわれが想像するところでは、そのような崇高壮大な事業を遂行するためには、現在の技術力レベルを数百年から数千年分は上まわらなければならない」
(引用部はここまでとする ―※― )
(※1.上は[月が保育器(人間進化を促すための保育器)である可能性がある][その進化の予定されている行き先はLHCによるブラックホール生成、タイムトラベルテクノロジーの深化にある]との『フー・ビルト・ザ・ムーン』の筆者らの見立てが呈されている部となる。尚、上にての引用部では2007年がLHC実験のスタート・ポイントとされているが、予定は延期を見、2008年[9月10日]がスタート・ポイントとなったとの背景が現実にはある。また、その実験スタートの折、[ヘリウム事故](筆者が研究機関を相手取って訴求のための裁判を起こす前に自身が設立した会社の名で実験関係者に取材して聞き取り調査をなしたところでもおそらくその通りのものとして実験スタート時期の遅延に影響をあたえていたとの心証を得たヘリウム事故)にて実験の「本格」稼働はさらに延期を見たとのことがこれまでの経緯としてある(:そして、本稿本段執筆時点では実験は[2012年以降よりの停止フェーズの継続]のため実施を一時的に取りやめられており、出力を倍加させての再スタートを切るのはどんなに遅く見繕っても2014年より後になってからであるとされている)
(※2.さらに注記しておけば、上の著作『フー・ビルト・ザ・ムーン』にあっても[安全確実なブラックホール生成の論拠]とされているところの[ブラックホール蒸発]については万事万端遺漏なくものその発現に疑義が呈されだし(ウィリアム・ウンルーという物理学者が意見を変える中でのこととして疑義が呈されだし)、それに代わるところの安全性論拠が専ら実験関係者らに持ち出されるようになっているとのことがある ―本稿にての出典(Source)紹介の部3を包摂する部で解説していることである― )
上にて引用なしている『フー・ビルト・ザ・ムーン?』内記述に相通ずるところとしては
英文Wikipedia[ Pseudoscientific metrology ]項目(直訳すれば[似非科学的なる度量衡単位学]との項目)
にも同様の記述が現行認められるのでそこより多少長くなるもの原文引用もなしておく。
(直下、英文Wikipedia[ Pseudoscientific metrology ]項目にあっての現行現時点の記載内容よりの原文引用をなすとして)
A review in The Guardian newspaper of 'Who Built the Moon by Butler and Knight refers to the authors as "an ad man specialising in consumer psychology and an engineer turned astrologer, astronomer and playwright". The review comments on their ideas about megalithic geometry "Here, they suggest, numerical ratios concerning sun, moon and Earth - neatly arrived at by applying the so-called principles of megalithic geometry - are evidence of a message for today's Earthlings. The message is that future humans conquered time travel and went back, way back, to construct the moon to ensure Earth orbits in precisely the right alignment to the Sun to encourage the evolution (yes, they believe in that) of humans - a Mobius strip theory of history. Oh, and they genetically engineered DNA (we know, because that's too complicated for nature alone)." The first book to ever deal with the possible existence of a 366-degree circle and of a 366-day calendar (rather than speaking of "Megalithic geometry" or "Bronze Age geometry"), The Bronze Age Computer Disc by Alan Butler, has not been commented on either by mainstream scientists or the press. Most scholars and reviewers label Butler and Knight's work as pseudoscience. Aubrey Burl, a much-published digger of Megalithic sites and a lecturer in archaeology at Hull College of Higher Education, although he coauthored a book with Thom, derided Thom's work, saying that he himself had never "seen a Megalithic Yard."
(拙速になした感もあるが、の拙訳として)
「(アラン・)バトラーと(クリストファー・)ナイトらの両著者の手になる Who Built the Moonに対する英ガーディアン紙の書評は同書著者らをして
[消費者心理に特に強みある広告志向らの者たちにして占星術師・天文学者・劇作家転じての技術者稼業の者達である]
とのかたちにて形容した。
彼ら(『フー・ビルト・ザ・ムーン』の著者ら)の
[メガリスティック(巨石時代にての)幾何学的配置に対する発想法]
について特定の書評は
[ここにて彼らが提案するところでは太陽・月・地球にまつわる数値配列は ―いわゆる巨石文化の基準を応用してあてはめてそれらは得られたとのものだが― 今日の地球人に対するメッセージの証左であるとのことである。それがメッセージとして伝えるところはタイム・トラベル技術までを開拓し、そして、(好ましい天体配置のみでそれが可能たらしめられるとの)[進化]を促進するために月を造りだし、もって、地球軌道を太陽に対して適切な配置に置くために過去に戻ってきたとの未来人がいるとのことであり(確かに彼らはそう信じているようである)、それはまさくしくもの[メビウスの輪の歴史理論]である。(馬鹿にした調子で)「おっと」、そして彼ら未来からの来訪者はDNAを生物工学的にデザインしたとのことにもなっているようである(我々が知るところではそれは自然本来のものであるにしてはとても複雑なところである ――訳注:原始のスープでは生命体を構成する有機物が自然に構築されないためにディーエヌエーの宇宙飛来説たるPanspermiaパンスペルミア説が提唱されていることを指しているのだと解される―― )]
とのものとなっている。
『フー・ビルト・ザ・ムーン』初版版は[巨石文化にての幾何]あるいは[青銅器時代の幾何]を扱っているというより[366日サイクル] (訳注:ここに見る366サイクルとは英国巨石文明に関して仮説として提示されている日付カウント方式介在にまつわる発想法となり、『フー・ビルト・ザ・ムーン』著者らは366日というサイクルがメガリス・ヤードという巨石時代のありうべき建築思想、そして、地球と太陽と月の相互比率に影響していると主張している) のありうべき存在を扱っているとの著作となり、アラン・バトラー(『フー・ビルト・ザ・ムーン』著者)によるところの
[青銅器時代のコンピューター・ディスク]
というものに関しては主流の科学者ら、そして、紙誌らも「ノー・コメント」を決め込んでいる。
大多数の学者らと書評執筆者らはバトラーおよびナイトの著作 (『フー・ビルト・ザ・ムーン』) をして[疑似科学の体現物]と評している。 オーブリー・バール( Aubrey Burl )、著書多数の巨石遺跡の発掘人にしてハル大学高等教育課程で考古学講師の職に就いている同男はトム (訳注:アレキサンダー・トム(あるいはソーム)/巨石文明と度量衡単位の関係についての嚆矢的言いようをなしたと認知されている人物) と共著をものしてきた人間ながらトムの著作を物笑いの種にするように彼自身は「メガリティスティック・ヤード(巨石文明の暗流としてのありうべき単位系)とされるものを(そうだと認知できるかたちで)見てとることは決してなかった」と述べている。
(訳を付しての引用部はここまでとする)
以上抜粋してのところの記述に見るように Who Built the Moon?『フー・ビルト・ザ・ムーン』(原著二〇〇五年刊行)の著者ら(Freemasonのアラン・バトラーとクリストファー・ナイトら)の主張の中には
[未来人がタイムスリップして月を構築、もって、地球を望ましい太陽に対する位置に置き、進化を促した]
などとの「主張」が含まれているわけだが、そこには
[LHCのことを相応のものとして揶揄しているようにも「とれる」] (でなければ、[お人形]らを用いて下手で露骨な賛辞を送っているか、あるいは、それを聞かせる対象としての人間を小馬鹿にしている)
との側面が伴っているものとなる(:言い換えれば、メガリスティック・ヤードとのありうべき(仮説上の)古代の度量衡単位をも引き合いにして滅んだ巨石文明に月と太陽と地球の間のできすぎた位置関係にまつわっての精妙な意図的寓意が介在している可能性までをも問題視しているメーソン由来の書籍『フー・ビルト・ザ・ムーン』にあっては[ループする世界で未来から介入して(太陽に対してあまりにも出来すぎた位置に「現行」あるとの)月を構築している可能性がある存在がおり、そうした存在のタイムトラベルやりようと通底するところとしてLHCでは「安全な」ブラックホール生成が実現しうる、タイムトラベルに遠未来で結実するところとして実現しうる可能性がある]と主張されているということである)。
必要以上に多くの記述を割いてしまった感もあるが、振り返りもすれば、である。脇に逸れての付記の部と位置付けての本段、そのここに至るまでの流れにあっては
「[デヴィッド・アイクの異説たる爬虫類人人類支配説にあっての特定の話柄](捏造碑文をその捏造性をとりたてて問題視しないで取り上げて「古のアトランティスが蛇の眷属に侵略された」とのことを問題視するとのやりよう)
および
[『源平盛衰記』の中の竜宮関連の特定の不快なる下り]
の純・記号論的なつながりからして、
「ブラックホールにまつわる隠喩が高度に多重的に、そして、現在の我々の生き死にの問題にも通底するかたちで込められているとの式を感じさせるものである」
とのこと、そういうことが述べられるようになっているがゆえに問題である」
とのせんだっての話から「さらに脇に逸れての」ところとして、
[そこからして言及しておくべきか、ととらえたアイク説 ――筆者の指摘事項である[LHCはトロイアの木製の馬としての位置づけをあまりにも執拗に付与された装置であり、そうもしたやりようは人間の歩んできた歴史とあまりにも平仄が合うものである]とのことと両立することが何らないとの言い分を強くも前面に出しての格好で流布されているアイク説―― に伴う欺瞞性]
について[理論の欠陥]との側面に着目しつつもの指摘「をも」なしておいた。
さて、本稿の長大なるパートにあって背骨となりもしてきたとのα1からα8およびβと振ってのことらを中心に不快なる相関関係の指し示しをなしてきたとの一連の部(補説2)を終える前に以下のこと、訴求しておくこととする。
ロシアにての物理学研究機関として
ITEP( Institute for Theoretical and Experimental Physics )
という研究機関がモスクワに存在する(:上記[理論実験物理学研究所]と訳されもしよう研究機関については1945年に遡る研究機関であると英文Wikipedia[ITEP]項目にも記載がなされており、同研究機関が主催する賞たるポメランチュック賞は(同じくもウィキペディアの[ Pomeranchuk Prize ]項目に見るように) ―それがお身内の相互礼賛行為かは置き― 後にノーベル賞を受賞した日本の南部陽一郎に2007年に授与され、本稿でその申しようにつき度々引いてきたレオナルド・サスキンド(ひも理論の大家)に2008年に授与されたりしている業界にての[権威ある賞]であるようである)。
同研究機関に所属のロシア人物理学者ら複数名由来の論考として
IF LHC IS A MINI-TIME-MACHINES FACTORY, CAN WE NOTICE?(2006)
という論稿 ――(明快な題であるため、いちいちタイトルを訳すまでもないことか、と思うが、邦訳すれば、『LHCがミニ・タイムマシン工場になったとしたらば、我々は気づけるのか?』との題の論稿)―― がオンライン上よりダウンロード可能となっている(表記の表題をそのままグーグル検索エンジンに入力することで同論稿、PDF版を捕捉かつダウンロード可能である)。
同論稿、専門家ら由来の何やらもってして「ワンダフル(見事に驚かされる)」「マーベラス(うれしい驚きをもたらしてくれる)」なものに響きもする申しよう ――(不快な兆候が脇にて山積しており、それらが相関関係を呈しながら我々にどういった結果を進呈するのか(それこそ宣言するように)不快なかたちで示唆しているにも関わらず何やら「ワンダフル」「マーベラス」なことを扱っているように響く申しよう、でもいい)―― を含むものであると断りつつ、そこよりの引用を下になしておく。
ここ出典(Source)紹介の部89にあっては、
[LHCがタイムマシンの類(ワームホールの亜種としてのタイムマシン)になりうるとの理論が学者らによって持ち出されているとのこと]
についての出典紹介をなしておくこととする。
(直下、 IF LHC IS A MINI-TIME-MACHINES FACTORY, CAN WE NOTICE?(2006)、同論稿冒頭部にてのAbstractの部(大要紹介の部)よりの抜粋をなすとして)
Assuming the hypothesis of TeV-scale multi-dimensional gravity, one can imagine that at LHC not only mini-black-holes (MBH) will be intensively created, but also other exotic gravitational configurations, including hypothetical mini-time-machines (MTM).
(訳として)「(LHC実験での)兆単位電子ボルト領域(テラ・エレクトロン・ボルト単位の領域)にての多次元的重力にまつわる仮説について想起をなせば、LHCにてマイクロ・ブラックホール(MBH)が集中的に生成されうるとも想起されるばかりか、[ミニ・タイム・マシン(MTM)が如く他の「エキゾチカルな」重力の構造体]が生成されうるとも想起される」
(訳を付しての引用部訳はここまでとしておく ―※― )
(※尚、上の Assuming the hypothesis of TeV-scale multi-dimensional gravity, one can imagine that at LHC not only mini-black-holes (MBH) will be intensively created, but also other exotic gravitational configurations, including hypothetical mini-time-machines との部の申しようにつき、 TeV-scale multi-dimensional gravity
とは[1998年に遡る余剰次元( ADD Model )にまつわる一連の仮説]を指すと自然に解されるようになっており(それについていまひとつ納得いきかねるとの向きは本稿の従前の段の内容、出典(Source)紹介の部1や出典(Source)紹介の部2なども参照されたい)、余剰次元理論にまつわる新規理論展開がゆえにワームホールやミニ・タイム・マシンといったエキゾチカルな重力の構造体の生成のことまでが問題視されているといった按配になっていると見受けられるところである ――本稿の前半部、出典(Source)紹介の部24ではポール・ディヴィスという物理学者の手になる書 How to Build a Time Machine(邦題)『タイムマシンをつくろう!』より(その120ページにての記載内容として)従来の電磁気技術では、プランク・エネルギーは太陽系に匹敵するぐらい巨大な加速器を建造しないと獲得できないが、まったく新しい加速器技術が開発されれば、はるかにコンパクトな装置を用いて非常に高いエネルギーを得ることができるかもしれないのだ。またいくつかの理論によれば、空間の時間の大規模な改変はプランク・エネルギーよりもずっと低いエネルギーで実現できるかもしれず、技術的にも見通しがつけられる可能性があるという。もし重力をほどほどのエネルギーで操作できれば、これまでにのべたような途方もない圧縮や加速を必要とせずにワームホールを作ることができるだろう
(引用部はここまでとする)との原文引用をもなしていたわけだが、そこに見る「プランクエネルギーの領域を実現しなくとも重力をほどほどのエネルギーで改変できる」「そして、それでもって(兆単位の電子ボルトなどでもって)ワームホールの類をも生成できる」との可能性につながるのが余剰次元理論の帰結であるとこの場にて挙げている研究機関関係者由来の論稿にて「も」記載されていることになっている―― )
(続いて直下、 IF LHC IS A MINI-TIME-MACHINES FACTORY, CAN WE NOTICE?、そちらPDF化されてオンライン上にて公開されているところの論稿の上にて386と振られての5ページ目、[ 2.4 On MTM evaporation (decay) ]との部 ―ミニ・タイム・マシンの蒸発(崩壊)と題されての小節― よりの引用をなすとして)
If MTM contains strong gravitational fields and gravitational horizons, they can lose energy by a direct analogue of the Hawking radiation. Remarkably, the same can be true if gravitational fields are small and no event horizons are formed, like in our flat-space-time wormhole in Fig.1. Then time-machine's energy is fully carried by its "residents" -particles, which move along closed world lines (or zero-modes of fields in another formulation).
(訳として)「ミニ・タイム・マシン(MTM)が強くもの重力場、あるいは、重力の境界らを有しているとのものであるのならば、それらはホーキング輻射らの直接的類似作用によってエネルギーを失いうる。特筆すべきことに我々が図1にて指し示している平坦空間にてのワームホールにあってのことと同じくものことは重力場が小さく、[事象の地平線]が形成されない場合でも真実たりうる。 それより、[タイムマシン(注:先述されているところでは[エキゾチカルな重力の構造体としてのミニ・タイム・マシン])のエネルギー]はその居留領域(レジデンツ)となるところの粒子、世界線に沿って動く、または他の解では[場のゼロ・モード](注:線形代数学にあってゼロとの数が介在しているケースによくも取り沙汰されることらに親和性高き物言いか)に沿って動くとの粒子によって漏れなく運ばれていくことになる」
(訳を付しての引用部はここまでとする)
(出典(Source)紹介の部89はここまでとする)
上出典紹介部にて取り上げた抜粋部、数式ではなく自然言語の使用率が高いとの部を選んで引いたとのもなのだが、それでも専門的過ぎて門外漢 ―筆者含めての門外漢― には理解に苦しむ側面を帯びているのは論を俣(ま)たない(こと一読いただければお分かりいただけるようになっている)わけだが、「であっても、」引用部記述に関して[内容適否とは別にそういう記述がなされていることそれ自体については異論など生じようがないと察せられるところ]がありもし、それは下記のようなこととなる。
「少なくとも2006年の段階にあってはLHCでミニ・タイム・マシンなるものが時空間の[重力のエキゾチカルな構造体]として生成される可能性がロシアの物理学者ら(先だってはステコロフ数学研究所の物理学者らのことを取り上げていたわけだが、ここではITEPこと Institute for Theoretical and Experimental Physicsに所属の研究者ら)に取り上げられていた。 そこに見る[ミニ・タイム・マシン]なるもの(にまつっての主張)に関してはミニ・タイム・マシン(なるもの)が重力の強い境界線を伴っていれば、([ブラックホールのホーキング輻射による蒸発]と同様に)、ホーキング輻射のプロセスで(ミニ・タイム・マシンの)蒸発を見るものであるとされ、また、仮にそれが[事象の地平線](通例、事象の地平線ことイベント・ホライズンとはブラックホールの外延部たる境界線を指す)を伴わぬものでも同様のプロセス(ホーキング輻射による蒸発)で滅尽を見ることになりうるとの記述が論文内でなされている」
以上のような記述がみとめられるとのもの、それがゆえに、表題に「タイムマシン」が付されての、
IF LHC IS A MINI-TIME-MACHINES FACTORY, CAN WE NOTICE?『LHCがミニ・タイムマシン工場になったとしたらば、我々は気づけるのか?』
との論稿である(タイムマシンが構築されてもすぐに消滅を見るから実験関係者はそれを観察できないのではないか、とのことが題名そのもので指し示されることとなっている、でもいい)わけだが、 さらにもって述べれば、
[超光速通信]([タキオン]といった名称を有する仮説上の粒子が見つかり、それを活用できるようになれば、実現を見うるともされる情報を過去に送るとの超光速通信)
などとは質的に異なり、[より複雑なもの]を伝送可能なタイムマシンのようなものが構築されえると観念してのところとして、そのようなものが構築される可能性につき ―LHC製タイムマシンなるものが出来上がってもそれがすぐに蒸発を見る、気づけないぐらいのスピードで蒸発を見るとの文脈で― 普通人には気付もしないのではないかとの式にて論じているのが上の論稿であるようにも「見える」ようになっている。
ここで次のこと、考える必要がある。
[仮にもし問題となりうるような秒数(ミリ秒・マイクロ秒・ナノ秒単位かもしれないが問題となりうるような秒数)だけワームホールの類がそこに存在することになり、もって、単に媒質となる重力波などに載せての情報だけではなく「複雑な構造体」 ――(本稿にあっての出典(Source)紹介の部20で Parallel Worlds; A Journey Through Creation,Higher Dimensions and the Future of the Cosmos(邦題)『パラレルワールド―11次元の宇宙から超空間へ』(邦訳版版元は日本放送出版協会(現NHK出版))より再度の引用をなすとして
Because the tidal forces and radiation fields would likely be intense,
future civilizations would have to carry the absolute minimum of fuel,
shielding, and nutrients necessary to re-create our species on the other
side of a wormhole. Using nanotechnology, it might be possible to send
microscopic chains across the wormhole inside a device no wider than a
cell.
「ワームホールのなかでは潮汐力や放射が猛烈になりそうなので、未来の文明は、向こう側の宇宙で再生するのに必要な燃料やシールドや養分を、最小限にして運ばなければならないだろう。そこでナノ・テクノロジーを使えば、それらを詰めた小さな鎖を細胞ほどの大きさの装置に入れて、ワームホールの向こうへ送れる可能性がある。ワームホールが非常に小さくて原子サイズだとしたら、その向こう側で全人類を再生できるだけの莫大な情報を、原子でできた長いナノチューブに詰めて送ることになるだろう」(再引用部はここまでとする)との記述を引いていたところに見るようにカー・ブラックホール越し・ワームホール越しに他世界に対してそれらを投出して文明再建をなさしめうるとの先進文明やりようにまつわる[科学予測]が掲載されているところのナノ・マシン・プローブのような「複雑な構造体」)―― を伝送可能であるとのタイムマシンのようなもの(に仮託される通過可能なワームホールの類)ができあがったとのことになれば、その結果はいかようなものなのか]
その[推し量れるところの結果]につき、この身が何を述べたいのかは本稿のここまでの話だけ「でも」十二分に訴求しえたか、と考えている。
そこにて観念されるのは ―カー・ブラックホールというものが破滅をきたすものとして生成されるかどうかといった「細かい」ところで考えられる方向は複数方向に分かたれるとのことはあっても― 大同を見ての[破滅]そのものである。
直上最前にて引き合いに出したロシアの研究機関の科学者らによる論考の内容およびその帰結がたかだかもってして理論系学究のお遊び、ないしは、机上の空論であっても([ミニ・タイム・マシン]云々などにまつわってのいくつかの仮定を前提においての話など普通にそうだとは考えられるところではある)そうもした机上の空論などとは一線を画した現実的な事柄ら、確と観察可能な、その具現化力学における執拗性もが同時に透けて見えるとの現実的な事柄らとして[ワームホール](と呼ばれるもの)に近接しもしようとのところにて相応のことらが【現象】(はきと観察可能なる【現象】)として見て取れることになんら相違はない。
くどくもならざるをえぬところとして強調するが、ご丁寧にも、
[トロイアを滅ぼした木製の馬]
の寓意が多重的に、しかも、およそ人間業とは考えがたいとのかたちでもってして付与されているのがLHC実験およびその関連事象であると断じられるだけの事由が冗談ぬきに存在しており(しかもそうしたことの根たるところが長期に亘って、「史的に」と述べられるぐらいに長期に亘って諸種事物に多重的に見出せるとのことすらもが「ある」 ― e.g. 著名古典ら(『地獄篇』であり、『失楽園』であり、果ては (ヘラクレス11功業と黒海洪水仮説を通じてミルトン『失楽園』特定パートと結びつくとの)『ギルガメシュ叙事詩』であるとの著名古典ら)にあって色々な意味で問題となる描写が同じくもの方向を指すかたちで見出せるといったことが「ある」― )、そしてまた、これまたご丁寧に[911の「異様なる」前言事物]までがそこに多層的に関係してくるとのやりようがなされていると冗談ぬきにはきと指し示しなせてしまえるようになっているとのことが「ある」のが ―臆病者なぞはそれに相対すれば逃げ惑うだけとの― [この世界の実相]であると指し示せるからである(:いくら首をかしげたくなるところがあっても[粒子加速器にまつわる命名規則][不快極まりない911の前言事象ら]が[トロイア][アトランティス]との要素を通じて何重にも何重にもの多重性を呈しながら接合していることに相違はない.本稿ここまでの実証的指し示しをご覧いただければ、ご理解いただけようところとして、である)。
以上、最後の訴求をなしたところで補説2と区分けしてのパートを終える。
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〔また、直下、冒頭部へのリンクも設けておく〕
(⇒[加速器実験にまつわる根深き虚偽]の問題よりはじめての状況指し示し部、その冒頭頁へは下より)